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ぼくは占い師じゃない

易のブログ……だったのですが、最近は白橋 升としての創作活動「遊星出版」の話題や日常雑記を綴っています。遊星出版のサイト(Googlesite)で作品を紹介しています。活動や作品の紹介はこちら(遊星出版公式サイト)→https://sites.google.com/view/yuusei-press


さて、易システムの話。

今回は本卦と之卦の間における、
時間的なかかわりについて、お話させていただきます。

ごくおおざっぱにいうと、本卦と之卦の主な関係は、
以下の図のようなパターンが考えられるでしょう。

.ガイドマトリクス
【青いマスは、左から過去・現在・未来をあらわす】


A:
現在にフォーカス。
之卦は背景・経緯などをあらわす。

B:
過去にフォーカス。
之卦は現在の状況を裏付ける。

C:
現在にフォーカス。
之卦は未来の可能性をあらわす。

D:
未来にフォーカス。
之卦はその未来に到達するための、
現在におけるポイントをあらわす。

E:
すべて過去にフォーカス。
之卦は本卦のコメント。

F:
すべて現在にフォーカス。
之卦は本卦のコメント。

G:
すべて未来にフォーカス。
之卦は本卦のコメント。


ざっと七パターンありますが、
このどれにあてはまるのか、
システムでは固定的に決まっているわけではありません。
臨機応変に読み取っていかなければならないのです。

ずい分エーカゲンに思えるかもしれませんが、
本之卦の関係にとどまらず、
易システムにおいてはおおよそ、このような調子です。
これがこのシステムの自由なところなのです。
あまりにつかみどころがないので、
心配になるかもしれませんが、それにはおよびません。

本之卦、八卦、変爻の内容を吟味すれば、
必ずひらめくもの、あるいは思い当たる節、
ヒントなどが隠されていることがわかります(腑に落ちる感覚)。

それがある程度の確信をともなったものであれば、
易システムがよこすメッセージがもう半分は読めたも同然です。

「剥の艮に之く(「はく」の「ごん」にゆく)」

などといういいかたをするので、
もう当然に、本卦は現在状況をあらわし、
之卦はその行く末、すなわち未来をあらわしてしかるべきだろう(C)などと、
ぼくも最初のうちはつい決めつけていたのですが、
経験からいえば、むしろそのようなケースは少なく、
Fのパターン、
本卦は現在をあらわし、
之卦は本卦に対するコメント、背景、含みをあらわすことが多いようです。

ポイントは、
本卦以外の、之卦などにあまりウエイトを置かず、「参考」程度にみること。

システムは、キャッチフレーズのように、
比喩のように、またある時は少々皮肉めいた言葉のように、
その第一声(つまり本卦)で語りかけてくることが多いようです。

久々に「書棚」に一冊追加。


「叡知の海・宇宙
 ―物質・生命・意識の統合理論をもとめて」
 アーヴィン ラズロ (著)
 吉田 三知世 (訳)
 日本教文社 ; ISBN: 4531081447 ; (2005/03)


なぜこの本には、
スピリットという言葉が、
ひとこともでてこないのだろう。
いや、
ぼくの記憶に間違いがなければ、の話なんだが。
たぶん、「スピリット」とは、どこにも書いていない。
にもかかわらず、
これは「スピリット」の本なのである(と、ぼくは思う)。

ちょっとまて、「スピリット」ってナニ?

ずいぶん前に書いた拙作HPにも
スピリチュアリティって何 」と題したエッセイがあるが、
今読み返してみると、
いっぱしのことは書いてあるが、
釈然としない。

もっていきかたとしては常套手段なのだけれど、
ここで辞書を引用してみる。

スピリット【spirit】
(1)霊、霊魂、精霊、精神
(2)気性、気風、意気
(3)酒精、転じてアルコール度の強い酒のこと
(広辞苑5版より)

(3)はともかく(好きだけど)、広辞苑の表記の順番で行くと、
(1)がもっとも一般的な意味、ということになるだろうか。
スピリチュアルとかスピリットと聞くと、
なにかこう、オドロオドロしい感じがするのは、
「霊」とか「霊的」という訳語のその語感のせいだろう。
(2)までを考慮すると、
おおむね、目に見えない・つかみどころのないものといった、
おおよそのイメージがみてとれる。

スピリット、とは……
そのちょっとこわ~い、霊とか霊魂とかも、
目に見えるものも見えないものも、すべてを含む、
宇宙が循環するその「動き」そのもの、
というのが、ぼくの現在の個人的な解釈である。
「動き」そのものだから、
当然、手にとって見る事はできない。
しかし、歴然とそこにある。

holga12
【スピリットの顕現(at 深川の定食屋)】
Harinezumi-Camera 110-ISO400 晴天・午後・室内

上記の本は、一切のベースとなる、
「Aフィールド」という、可能性のカタマリについての話だ。
AフィールドのAは、アカーシャの略だが、
このコスモスの一切の要因となる場である。
この場の動きが、ぼくの解釈で言うスピリットを生む。
いや、この場こそ「根源的スピリット」といってもいいかもしれない。
そして、Aフィールドは時間空間に関係なく、すべてをつなぐのである。
もちろん科学的に証明された話ではなくて、
著者が提示する、
従来のあらゆる現象・発見を統一的に説明する「概念」ではあるのだが、
第一線の科学者が、こういうことを公然と書く時代になったかと思うと感慨深い。

本をざっとひろげてみると、

『うわぁ、ガジガジ理系じゃん』

といったような、
硬質な印象を受けるかもしれないが、
メンドクサイところは読み飛ばせばいい
(そりゃちゃんと読んだ方がイイけど……
ムリはよくない。読書は苦行じゃない)。
数式は一切出てこないのでご安心を。

最後には意識という現象について書かれている。
意識はAフィールドのダイナミズムの先に、
必然的に現れる構造であり、
人間がイキナリ突然に獲得したものではない。
構成材料 ~ つまりすべてのもの ~ には、
最初から断片ともいえる「意識」がある。

アメリカの理論家、ケン・ウイルバー は、
この意識を、上にも下にも無限のホロン深度、
そして、スピリットのダイナミズムを
「4象限」という花びらとして位置づけた。

春はいい季節だ。
スピリットの現われが、
ドンカンなぼくにもよくわかるから。
ほんとうは、
芽吹いたサクラの花にも、
手の中のフチが少し欠けたマグカップにも、
等しくスピリットは現れているのだが。

そんなワケで、
ぼくらは、
コンナ世界にいる。


たいか

無理をしないようにしてください。

無理をしていることが
自分でわかって「いない」のなら、
背負える以上の荷物を背負っていないか、
もう一度よく点検してみてください。

わかって「いる」のなら、
その荷物を背負い込むことが、
ほんとうに自分も周囲をも
幸せにすることなのかどうか、
もう一度よく考えてみてください。

自然な悩み・試練は
自分と等身大「以下」のはずです。
それ以上の大きさがあるとしたら、
その荷物は、ひょっとしたら、
自己成長にはつながらない荷物
なのかもしれません。

ついこの間、学校をさぼって、
如月マヤさんが主催するワークショップに、
ふらっと参加した。

もともとこういう精神世界系
(あまりこのコトバは好きじゃないけど)の
ワークショップにはよく参加していたが、
会社を辞めてからは、カネもないし、
とんとご無沙汰だった。

参加のそもそものきっかけは、
いつもの学校帰りの本屋で、

「アカシックレコード・リーディング
 如月マヤ著 ハート出版」

という本を見かけたこと。
白地に放射状の幾何学模様をあしらった装丁が目を引く。
買おうかどうしようか迷ったが、ペラペラ見ていたら
猫乃電子出版 から電子本も出していることが書いてあって、
猫…といえば自分の作品 もお世話になってるところで
(田辺さんお元気ですか)、
かすかな縁を感じて、結局買った。

HP をみると、ワークショップをやっているということで、
これが12000円と比較的安い。

12000円が安いのか?

と、思われる方もいるかもしれないが、
この手のワークショップの相場からすれば、
ベラボーとまではいわないが、かなり安いのである。

都内、月一回のペースで、定員8名。
参加者はメールで申し込んで抽選。
申し込もうとしたが、
原則平日の午前中……って、
学校があるからダメじゃん、
と思ってほったらかしにしていた。

で、しばらくしてから、この時期。
正規のカリキュラムは終わって、
特別講義だらけになって、
まあ、いいか、先生には悪いが休んじゃえ、と。
ハズれたらがっかりだな~と、思っていたが、
意外にあっさり当たって、
やはりなにごとにもタイミングがある。

マヤさんは小柄で細身のチャーミングな方で、
内容は、毎回ビミョーに違うらしいが、
アカシックレコードを読む、という目的はかわらない。

本に書いてない、
なにかとてつもないことを教えてもらえる……わけじゃない。
基本的には本の内容から大きく外れることはない。

じゃあ、本読んでも同じじゃん、

と、思われるかもしれないが、
やはり直接、教えてもらった方が、
はるかにコツはつかみやすい。
ぼくはあまりしなかったが、質問もできるしね。
みなさんそれぞれ、自分なりのコツをつかんでおられたようだった。

ぼくの場合、そこでつかんだコツは、
「質問をしてそれに対する答えが返ってくる」
その対話を行うフィールドに自分の意識状態を
どうフォーカスするか、ということに尽きた。

最近は、
易システムのことを考えているときとか、
本を読んでいるときとか、
考えを整理するためにダイアグラムを描いているときとか、
そんな、一種の集中状態にあるときに、
それとは気付かないようなかすかなカタチで、
なんども質問と答えをやりとりしている……
そんなパターンにも気付いた。

2005-11-16 のログ「モーニンググレース 」の中で、
アタマの中に浮かび上がってくる想念には、

・意識してめぐらせている「思い」
(これがまあフツー、「思考」と呼ばれている)
・あなた自身も気付いていない深い自己からあがってくる「思い」
・はからずもスクープしてしまう他人様の「思い」

の三つがあるかな~、
てなことを書いたが
(チャネリングなどにみられる「生身の人間以外他存在からの情報」もあるが)、

もひとつ

・アカシックレコードからの検索結果

というのも追加しなければならないだろう。

マヤさん自身は、
現在は個人セッションはやっていないそうだ(以前にはやっていたらしい)。
それよりも、
各人がそれぞれ自分で自分のレコードを読む……
その方法を伝えることに軸足をおいているのだとか。

こんなところにも共感が持てる。
「ぼくは占い師じゃない」
と、いうわけである。

さて……
易システムの話ですが……

続けます。

以前に、
さらっと説明したかもしれませんが、
時間の観方のお話を、
もうすこし詳しく。

具体的な数や時間、方位などを読む方法ですが、
これは実は、易システムにとっては
もっとも苦手な分野です。
いや、このいいかたはただしくありません。

ただしくは、

「ぼくが」易システムを使った場合に苦手な分野、

と、いうことになります。

システム自体は、
ほぼ万能ともいえる柔軟性をそなえています。
「あなたが」このシステムを使った場合は、
ひょっとしたら、数、時間、方位などは、
おどろくほど正確に読めるかもしれません。
(そのときは、そのコツを教えてください)

まずは時間の読み方。
時間は、
最下段の初爻から、
最上段の上爻の方向にむかって、
大成卦上を、
下から上に向かって流れていくと考えます。

じかんのながれ

ですから、
たとえば三爻変だったとすると、
現時点ではまだ注意が必要な不安定域にいることになり、
全体状況のなかでいちおうの落ち着きをとりもどすまで、
あと「二単位」の時間(五爻までの距離)が必要で、
全体状況が変わるまでは、
あと「三から四単位」の時間が必要である
(今観ている大成卦の上爻または、現大成卦を抜ける)
ということになります。

ところで、このままでは答えになっていません。

「単位」ってナニよ?

そう、一爻あたりの
時間単位がはっきりしていません。

この点については、
問いの内容から論理的に推測するしかありません。
一〇分単位かもしれないし、
一時間、一日、一ヶ月、一年単位……
かもしれません。

易システムが最も効果的に作用する時間の範囲は
そんなに長くありません(三ヶ月~半年程度…長くて一年位か)。
したがってその範囲で考えていくことになります。
長くて一爻あたり一ヶ月~二ヶ月といったところでしょう。

たとえば、
期日の決まった試験などの結果を問いの対象にした場合、
時間幅は易システムを利用したその時点から、
試験結果がわかるその日までの間になり、
それを超えることはありません。

今日一日の出来事やアドバイスについての問いをたてたなら、
大成卦全体を一日とみたてることができるでしょう。
内卦は午前中、外卦を午後とみたてることもできます
(かならずしもそうみたてなければならない、
というわけではありませんが)。

むむ、カンタンな例ばっかり出してるナ、
と思われたでしょうか。

たしかに、いつもこれほど明確に
時間を割り切れるものではありません。

要は卦にあらわれたイミやカタチ、
変爻の位置などを現実世界の何と、
どんな時間幅と対応づけるかがポイントなのです。
この判断をより正確に行うには、
どうしても論理(理屈)と直観を
バランスよく使い分けることが必要になってきます。
(2005年12月14日ログ、
「黙って座ればピタリとあたる~問いについて2」を参照)
どちらが欠けてもどちらにかたよってもダメです。


こう

よく晴れた空のもとを風が吹き渡っていくように、
さまざまな情報や人が行きかいます。

その中にはよい知らせ(人)もあれば、
どうでもいいような知らせ、
どちらかというとあまりいい影響をあたえない知らせもあります。

とくに最後の類の知らせは、
それと気づかないうちに入り込んでいることがあります。
見つけたらすぐに切り離すか、
それができなければ、かかわりにならない……
そっと身を引く、という手もあります。

久しぶりにブログ再開して、
人生の目的……とかなんとか、
いきなりなんかちっと、
ヘヴィーな内容になってしまいましたが……

続けます。

図は前のを見てね……じゃ、
不親切だから、以下再掲します。

7つの願い

1.~7.の角丸四角については前回説明したとおりで……
じゃあ、真ん中のこの扇形はなにかというと、

これは、あなた自身。

三相の自己である。
三「層」といってもいいかも。

一般的に、「自分」といえば、
身体の皮膚で区切られた内側、
物理的肉体だけを自分といっているようだが、
この図では、その「自分」は一番下の赤い部分。
ほんとうのあなた自身の、
極々一部に過ぎないところに位置づけられている。

そういうモデルのひとつ、ものの見方、考え方の例。

「自分」の実体は、
物理的身体(BD)の上に
フロントエンドセルフ(FS)というレイヤがあり、
FSの上にはさらにそれよりも高次の、
バックエンドセルフ(BS)というレイヤがある、
というアンバイ。

FSは自分が普段把握している、
いわゆる「意識」・「人格」で、
点線で示したようにいくつかの部分、
下位人格に分かれている。
これらはそれぞれ、ペルソナ、
あなたのもつ社会的な役割に対応しているともいえる。
点線で描いてあるのには意味があって、
これらの下位人格どうしに連絡がなくなってしまうか、
結びつきが疎になると、統合失調のような病理に至る。

というわけで、
実線=分離を示す描きかたではマズいかなと。

FSの機能はBD(物理的身体)の保存・維持で、
BDと同様、一元的である。

BSは、それより上のレイヤになるが、
ここには、「多元的」というコトバがある。
FSは主にBDの維持に関心がある、
BDにはりついているという意味で
「一元的」と書いたのだが、
これに対して、
BSは「多元的」なレイヤなのである。

だいぶ以前にテレビで誰かが
「自分はどこまでいっても自分」
とか言っていた。
(どういう文脈で言われていたかは忘れた)
もし、
その自分が一元的な自分で、
本当にどこまでいっても、
その自分しかないとしたら、
他人と話が通じることもないし、
相手の気持ちも解らないし、
他人の立場に立ってモノを考えることは、
ほとんどできないということになる。
くりかえしになるが、
FSは専らBDを維持管理することにしか
関心がないからだ。

幸いなことに
実際にはそういうことはなく、
程度の差こそあれ、
他の人間との間には、
一定の共感・共有が成り立つ。
このハタラキを持つレイヤを、「BS」とした。
BSは時間、空間に制限されず、
事実上、無限である。

図では上へ行けば行くほど、
抽象度が高く、
五感で感知できる領域を離れていく。
自己の実態は微細になり、
手にとったり、見たりできる外面から、
内面へとその在り様を移していく。
逆に、下へ行けば行くほど、
具体性は増して、
実態は粗雑になり、
見て、触れて判るものとなっていく。
(上が良くて下が悪いということではない。
それぞれにそのような様相があるというだけのハナシ)

7つの願いも同様に、
ミッションにはじまり、
対応したレイヤにあわせて、
抽象→具体へと、
その姿カタチをあらわす構造になっている。

図には描いていないが、「役割」の下、
さらに大地に近いトコロに「日々のToDo」、
すなわちあなたの日常生活(言動)があるわけだ。

他の人間が、上記「共感」という作用を抜きにして、
あなたの外見を観察して分かるのは、
あなたの外見的活動、
このToDoレイヤのみということになる。

まあ、以上は、
「そういうつもりで描いた」
という程度のハナシであって、
あなたなりに、アレンジしてもいいし、
どうとらえるかは自由だ。
上図、もし気に入っていただけたら
印刷して使ってみてください。

あなたの「7つの願い」は、なんだろうか。

え?
オメエはどんなコトを書いているかって?

ぼくは……

恥ずかしくてとてもここでは書けません。

あ、ぼくの「ほぼ日」手帳を覗いても
書いてありませんよ。
別冊にしてありますんで。

……ま、そういう意味でも
「7つの願い」は、
紙を見なくても、
思い出せたほうがいい。


----------
*
タイトルの「三相の自己」は、
「フラワーオブライフ2巻
 ドランヴァロ・メルキゼデク著
 ナチュラルスピリット」 より。
 
上記の本にも「三相の自己」の概念が出てくるが、
ここでご紹介した考え方とは、
似ているところもあれば違うところもある。
まあ、深いところでは多分同じことなんだろう、
と、アバウトに、勝手に夢想してマス。


久しぶりにブログ再開。

この間、手帳を変えた話をしたが
(2005年1月4日【手帳の変遷】)、
フランクリンシステムにみられるような、
何か、普段の生活の指針になるようなものを
手帳に含めることができれば、
その手帳は単なる備忘録以上のものになる。

「三つ混ぜればオリジナル」

というわけではないが、
フランクリンシステムの
「ミッション」「価値観」「役割」と、
「エンリケ・バリオスの魔法の学校」に出てくる…
一種のワーク、「7つの願い」と、
個人的な洞察(ていうほどのモンじゃない)を
まとめてみたら、なんとなく図のようになった。

7つの願い

真ん中の扇型の右側に並んでいる1.~7.の角丸四角が、
フランクリンの「ミッション」→「役割」に、
相当する(ていうか、そう書いてある)。
前にも書いたが、
人生の目的ともいえる
「ミッション」からブレークダウンして、
「価値観」→「役割」を定義していき、
最終的に、それらを日々のtodoまでに
落とし込むためのスケールである。
で、
「エンリケ・バリオスの魔法の学校」の
「7つの願い」にあわせて、
「ミッション→役割」の数を7つにしてある。

なぜに7つ?

人間が感覚記憶的に一度に覚えられるのは、
7つの事柄だといわれているからだ。
感覚記憶は生理学のコトバだが、
このラッキーナンバーセブンの概念は、
心理学の話だったように記憶している。

まあ、要は、
いちいち紙をみなくても思い出せることが大切。
もし、すぐに思い出せる事柄でなければ、
それが本当に、
「真の」あなたの願いなのかどうか、疑ってみる。

時間をかけてよく吟味する必要があるということ。

とくに「ミッション」などは、1日2日で、

これだ!

と定めることなど到底できない。

できないよねえ?

なんたって「人生の目的」なんだもん。
ひょっとしたらずっとブランクのままかも。
でもいいんです、それでも。
いつか書ければいいの。
すぐできる人もいるかもしれませんが……
そういう人はラッキーだと思うなあ。

要は腰をすえて、
そういうことを考える機会を
自分に与えることが大事なんですね。

また、7つの願いは、
一度決めたら、じぇったい変えられない、
男に二言はないんだ、変えてはイカン!
というものでもない。

あんまりコロコロ変えるのもどうかと思うが、
1.2.3などは、
自分の魂の成長に合わせて変化するのが当然だし、
社会的ペルソナである6.7.などは、
もっと短いサイクルで変化するだろう。
定期的にバージョンアップしてしかるべき。

最終的に自分なりのゴールに行き着けばいい……
てな感じでゆっくりかまえましょう。

長くなりそうなので今日はこの辺で。

後半へ続く
(ちびまるこちゃんのアニメのマネ)。

ブログ、ご無沙汰しています。

いままで試験前だと思って安心していたら、
バレンタインにあわせて、
試験が始まってしまった。
なんだか、試験勉強と関係のないことばかり
したくなる。


○掃除・洗濯・部屋の整理
この辺は経験のある方もいると思う。
ミョーに念入りにやってしまったりする。
試験前(中)だというのに。


○料理をつくる
ミョーに手のこんだものをつくったりする。
普段はそんなことしないのに。
ニラシラス炒りタマゴ プロバンス風
(なんやソレ)、
とか。


○とりダメしてあったビデオをつい…
息抜き、息抜きとか言って。
ハナっから息抜いて生きてるクセに。


○あ、「美女か野獣(再)」やってる。
松嶋菜々子かわいいな。
同上。


○学校に帰りに文房具屋による

『お、すげえ、
マークシート専用鉛筆と消しゴムのセットだ。
シャーペンバージョンもあるぞ。
国試はこれでいこう。
メーカもあの手この手だな~、
お、なんだこれは、
ノック式消しゴムだ。MONOじゃん。
これ細かいトコ消しやすそうだな~』

ミョーに長いこと油売ってたりする。
どうせなにも買わんのに。


○USB-PS2変換ケーブルを買ってきて、
昔使っていたトラックボールを
いま使ってるノートパソコンにつないでみる。

「おー、うごくじゃん」

あたりまえだ。
なにを好き好んでこの時期に
ソレをやる必要があるのか。
このへんになってくると自分でも意味不明。


○学校帰りの本屋で……

『おもしろそうだな~
試験終わったらやろっと』

じゃ今買うな!

「ナンプレ」の本を買ってしまう。
我慢できるワケがなく、
いともたやすくハマる。
なんで試験前に、
そういうことするかね。

しゅ、集中力がつくっていうから……

詭弁だな。


○意味なくブログを書く
つまり……
こういうことですな。
読まされる方は
たまったもんではないと思うので、
この辺で。


あ~よかった、
オリンピックに興味なくて。
来週あたりから
ポツポツ再開します。
トホハヘ。

4日ほど前から咳がではじめた。
夜寝ると身体が熱くなり、
汗がやたらと出る。
咳をすると胸が痛い。

一応、
ヒーラーというか
セラピスト目指して
勉強しているのだが、
まずは癒す方が健康でなければ、
人に触れる資格なんてなかろう、
というのが持論(個人的なハナシだから
他人には言っていない……
強制する気もない)……
なんだけど、
ついに風邪をひいてしまったみたい。
学校を休むほどではないが、
本調子というわけでもない。
去年もずっと風邪ひかなかったのに……
もうすぐ試験だっつうのに……

昔は、
風邪みたいなものは
単なるジャマ者だと思っていたので、
医者へ行くのはもちろん、
もらった薬をユンケルで流し込む、とか、
あつ~い風呂に飛び込む、だとか、
とにかく、

「ワルモノは徹底的に叩きのめすのだ!
そうだ!きゃしゃーんがやらねばだれがやるのだ!」

みたいなノリで、対応していた。
(注:よく、「根性でなおす!」
という人がいますが
それもこの部類に含みます)

今は、
すこし別の考えで、
風邪は(またはそんなような病気は)、
身体に蓄積した、何らかの負荷が解放されるプロセス……
だと思っている。
したがって、むやみにそのプロセスを
強制排除(強制停止)するものどうかと思う。

「仕事してないオマエになんの負荷があるんだ?」

とか言われそうだが、
ここでいっている「負荷」は、
もう少し広い意味の「負荷」だ。
生きていく以上、
必ず蓄積していく歪みである。

例外はない。

そう、
おせんべいをかじりながら、
一生テレビの前でねそべって過せる
夢のような人生が、仮にあったとしても
(ないけどサ、そんなの)、
それでも蓄積するストレスだ。
機械にしたって「完全に」
メンテナンスフリーで働き続けることはできない。

実はこの考え、
瞑想の先生から
買った本の受け売りなんだけど(後日紹介します)、
まあ、もっともだなあ、と思う。
他のとこでも似たようなハナシ聞いたことあるし。

仕事していないので、
ユンケルみたいな高いクスリを買うカネもないが、
ヤリが降っても、這ってでも
出席しなければならないミーティングもないのだ。
(よく言われたな~、
「這ってでもこい!」。
そういう人に限って、
風邪を「根性で治して」いたものだ。
でも治るワケないから、
結果、まわりがメイワクするだけなのだ)

プロセスは自然に全うさせるのが一番だと思う。
そんなわけで、今日はもう寝ちゃうんだもんね。