人生の目的……とかなんとか、
いきなりなんかちっと、
ヘヴィーな内容になってしまいましたが……
続けます。
図は前のを見てね……じゃ、
不親切だから、以下再掲します。
1.~7.の角丸四角については前回説明したとおりで……
じゃあ、真ん中のこの扇形はなにかというと、
これは、あなた自身。
三相の自己である。
三「層」といってもいいかも。
一般的に、「自分」といえば、
身体の皮膚で区切られた内側、
物理的肉体だけを自分といっているようだが、
この図では、その「自分」は一番下の赤い部分。
ほんとうのあなた自身の、
極々一部に過ぎないところに位置づけられている。
そういうモデルのひとつ、ものの見方、考え方の例。
「自分」の実体は、
物理的身体(BD)の上に
フロントエンドセルフ(FS)というレイヤがあり、
FSの上にはさらにそれよりも高次の、
バックエンドセルフ(BS)というレイヤがある、
というアンバイ。
FSは自分が普段把握している、
いわゆる「意識」・「人格」で、
点線で示したようにいくつかの部分、
下位人格に分かれている。
これらはそれぞれ、ペルソナ、
あなたのもつ社会的な役割に対応しているともいえる。
点線で描いてあるのには意味があって、
これらの下位人格どうしに連絡がなくなってしまうか、
結びつきが疎になると、統合失調のような病理に至る。
というわけで、
実線=分離を示す描きかたではマズいかなと。
FSの機能はBD(物理的身体)の保存・維持で、
BDと同様、一元的である。
BSは、それより上のレイヤになるが、
ここには、「多元的」というコトバがある。
FSは主にBDの維持に関心がある、
BDにはりついているという意味で
「一元的」と書いたのだが、
これに対して、
BSは「多元的」なレイヤなのである。
だいぶ以前にテレビで誰かが
「自分はどこまでいっても自分」
とか言っていた。
(どういう文脈で言われていたかは忘れた)
もし、
その自分が一元的な自分で、
本当にどこまでいっても、
その自分しかないとしたら、
他人と話が通じることもないし、
相手の気持ちも解らないし、
他人の立場に立ってモノを考えることは、
ほとんどできないということになる。
くりかえしになるが、
FSは専らBDを維持管理することにしか
関心がないからだ。
幸いなことに
実際にはそういうことはなく、
程度の差こそあれ、
他の人間との間には、
一定の共感・共有が成り立つ。
このハタラキを持つレイヤを、「BS」とした。
BSは時間、空間に制限されず、
事実上、無限である。
図では上へ行けば行くほど、
抽象度が高く、
五感で感知できる領域を離れていく。
自己の実態は微細になり、
手にとったり、見たりできる外面から、
内面へとその在り様を移していく。
逆に、下へ行けば行くほど、
具体性は増して、
実態は粗雑になり、
見て、触れて判るものとなっていく。
(上が良くて下が悪いということではない。
それぞれにそのような様相があるというだけのハナシ)
7つの願いも同様に、
ミッションにはじまり、
対応したレイヤにあわせて、
抽象→具体へと、
その姿カタチをあらわす構造になっている。
図には描いていないが、「役割」の下、
さらに大地に近いトコロに「日々のToDo」、
すなわちあなたの日常生活(言動)があるわけだ。
他の人間が、上記「共感」という作用を抜きにして、
あなたの外見を観察して分かるのは、
あなたの外見的活動、
このToDoレイヤのみということになる。
まあ、以上は、
「そういうつもりで描いた」
という程度のハナシであって、
あなたなりに、アレンジしてもいいし、
どうとらえるかは自由だ。
上図、もし気に入っていただけたら
印刷して使ってみてください。
あなたの「7つの願い」は、なんだろうか。
え?
オメエはどんなコトを書いているかって?
ぼくは……
恥ずかしくてとてもここでは書けません。
あ、ぼくの「ほぼ日」手帳を覗いても
書いてありませんよ。
別冊にしてありますんで。
……ま、そういう意味でも
「7つの願い」は、
紙を見なくても、
思い出せたほうがいい。
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タイトルの「三相の自己」は、
「フラワーオブライフ2巻
ドランヴァロ・メルキゼデク著
ナチュラルスピリット」 より。
上記の本にも「三相の自己」の概念が出てくるが、
ここでご紹介した考え方とは、
似ているところもあれば違うところもある。
まあ、深いところでは多分同じことなんだろう、
と、アバウトに、勝手に夢想してマス。