名もない茶道具
考えてみれば、茶道具は不思議な物です。 和美の会などで、数百万円で取引される道具と、青竹を切っただけの蓋置が同居しても、誰も違和感を感じないという習慣が確立していますし、桃山時代の古い道具と現代の新しい道具が同時に茶室で使われても、調和さえしていれば誰も文句は言わない、「新古とり混ぜ使うのが上手」というような言葉もあります。こういう自由さがある反面、妙に窮屈というか、よくわからない習慣(ルール)もあります。例えば、作家がわからない場合。高麗茶碗は名もなき陶工が作っていたというのは茶人の常識ですから、「どなたのお作ですか?」なんて尋ねる人はいない。これは古唐津でも古備前でも古伊賀でも同じで、古い品は、ものさえ良ければ、陶工が誰かなんて全く気にもしませんし、あとは出来栄えと伝来で値段の高下が分かれるだけです。ところが、同じく古くても、楽茶碗の場合は、「古いもので作者は分かりません」じゃ通用しない。間違っていようが、偽だろうが「一入です」とか「了入でございます」とか、本家でなくとも「豊楽です」とか「姥餅です」とか窯元がはっきりしているか、「某宗匠のお手造りです」とか、作者がはっきりしていないと、「古いもので、どこで誰が作ったものかわかりません」じゃ、茶会には通用しない。また、棗など漆器は「お塗りは?」という問いに、作のわからない古いものは「時代のもので御座いまして」で済んでしまうんですが、釜になると、作者がはっきりしている(共箱がある)か、然るべき釜師の極めがついていないと、ただ時代の古い釜じゃ売れないというのは道具屋さんの常識です。茶入も、唐物はじめ古い物は、作者が分からないことは当然ですが、さりとて「お窯元は?」の答えが「どこかわかりません」は困る。陶磁器は出生がよくわからないのは嫌うので、少なくとも「箱には萩と書いてございますが唐津かも知れません」とか「高取か上野かわかりませんが九州のものだと思います」くらいに、証明しなければならない。しかし籠花入なんかは、どこで、いつ誰が作ったか関係なく、花に合った良い花入と褒められます。同じ竹製品でも、茶杓が「丸斎作とありますが、どういう人かはわかりません」というのは、変な顔をされるでしょう。まあ茶杓の場合は「作者がよくわかりませんが、銘が趣向に合いますので使いました」と言い逃れ(?)も出来ますが、掛軸は「季節の文言なので掛けましたが筆者は誰だかわかりません」は駄目でしょう。見立ての道具を嫌わない寛容さがある一方、筋が通っていない道具は嫌われる面もある。全体的に、古い物は、ある程度出生が説明出来れば、時代があるとして受け入れられますが、新しい道具は、作家がわからなかったり、無名だったりすると、物が良くても、なかなかお稽古道具の域から抜け出せない。古いボロボロの鶴瓶水指でも「利休所持」と言われりゃ平伏するしかない、伝来が第一の茶道具の世界では、名もなき道具が市民権を得るには、ある程度の時間を経る、時代がつくということが、必須のことなのかも知れません。 萍亭主