なんとなく、荒っぽく掛け軸について見てきましたが、もちろん、掻き落としたことは、色々あると思います。

 軸の筆者として、大徳寺僧だけ取り上げて、他はどうなんだと言われそうですが、あまり見かけない筆者にまで言及したらキリがありませんし、和歌の詠み手も同様です。茶人の書

に関してはどうかというと、茶人は流儀の創始者、各流家元クラスでないと、軸はなかなかないもので(あるとしても消息くらい)、家元列伝を書いても意味がありません。数寄大名とか、近代数寄者の軸については、また何かの折に触れることにします。

 家元の軸というのも便利なもんで、大抵の家元は、禅僧並みに、一行物も書くし、絵も習って画讃を書く人もある、あんまり上手くない(失礼)和歌や俳句を物する人もいて、いろいろなものがある。そして家元の軸がかかっていれば、その席主は何流か、尋ねなくともわかるという利点があります。不思議と家元の軸がだけは、出来が素晴らしかろうと、文句が良かろうと、時節にぴったりだろうと、他流のものは使われない。茶の湯の世界の妙な偏狭さではありますが、将来もこれは是正されそうにありません。我が家は、妻は裏千家なのですが、実は家元の軸を一本も持っていません。理由は、先代が裏千家でなかったので、残してくれた品がなかったこと、自分が買い入れるには、高価すぎてその気になれなかったこと、無理をしても欲しいと思う軸に出会わなかったこと、持っていなくとも茶の湯を楽しむのに不便を感じなかったことでしょうか。流儀主催の茶会に行けば、各席ほとんど家元の軸で、拝見、鑑賞することに不自由はありません。

 さて、ある道具商の嘆き節ですが、「昔のようには軸が売れない」というのです。理由は、日本人の生活の変化。昔は、どの家にも必ずと言っていいほど、床の間を備えた部屋が一つはあった。床の間に軸が飾られていない、素床(すどこ)の状態というのは落ち着かないもので、何かは掛軸を飾りたくなる。飾ると、季節に応じてかけ変えたくもなるし、特別な場合に掛ける軸が欲しいと思うようになる、つまり掛軸に趣味を持つようにもなる。ところが、今は和室が激減、和室があってもモダンで床の間はない、客室用の床の間がある和室なんて殆どない。掛軸の出番がない。「お茶をやっていると言っても、自分の家に床の間のある人は少ない。稽古場持ってる先生でも、留守番掛け(これも死語に近いでしょうが、掛けっぱなしの二級品のことです)ばっかりで、お茶会でもないと軸を探さない。いい軸を手に入れたから茶会を開こうなんて時代じゃないしね。だいたい、茶碗を集めるとか、香合を収集するとかいう人は居ても、掛軸が好きで集めるなんて人はまれだしね」。

 掛軸の将来はどうなるのか。茶の湯が今と大きく変わらなければ、建前上は、今の重要位置を保ち続けるでしょうが、進化はあるのか。何より、軸をきちんと鑑賞出来、その価値と美術性を正しく認識出来る茶人が多くなることが、軸の価値を本当に確実にするのでしょうか。先日、このブログで、消息の軸は現在不人気かも、と書きましたが、ちょうど今春の和美の会のカタログが来て、見てみると、利休の消息が二点、細川三斎の消息が一点出品されていました。私の知らないような茶の湯の世界で、消息の軸もしっかり使われているのでしょうか。わからないことだらけですが、一応、軸の話は切り上げることにし、終活茶事第六弾を始めることにします。

   萍亭主