茶席の掛軸で、字のものというと、禅語、次に和歌(古筆も含め)ときて、さて他は?というと、途端に数が少なくなります。

 以前、故戸田勝久先生(即日庵)にお目にかかって雑談の折、「茶の湯の席には、もっと俳句を使っていいと思う。俳諧には茶味と通ずるものがあるし、粋な感じも出せるんだが」と言われたことがありました。たしかに俳句は、季語がなければ成立しないもので、季節感に富み、また、和歌より分かりやすい、情緒を伝えやすいものです。字数が少ないだけ、和歌より読みやすい?そういう利点があっても、なかなか茶席に俳句は現れない。その理由は、まず、俳句は短冊に書かれることがほとんどですが、短冊は、その簡略な形式から、寄付きとか薄茶席に相応しいように言われます。つまり、俳句という内容も含めて、軽いものと認識されている。濃茶は小間で、薄茶は披きの間でという茶事も今は殆どありませんから、そうなると、茶事の役に立ちにくい。そして、もう一つは、単純に俳句の軸の数が、そもそも少ない、例えば東美の正札市に行っても俳句の軸というのは、一本出ているかどうかです。私が出た茶会で、俳句の軸を見たのは一度だけ、席主の夫君の俳句の先生の句だということでした。昔の茶会記で、俳句を使った例は、まずないようで、古今茶湯集に載る記録では明治以降で、松尾芭蕉の俳句(花の雲と藤の句)を用いた例が二つ、櫻井宗仙という、よくわからない俳人の蛍の句を使った茶会記録がありますが、とにかく少ない。近代数寄者の茶会記では、本席には使われていませんが、短冊ではないが、岩原謙庵が舌禍事件を起し、そのお詫びを主題の茶会を開いた際に、芭蕉の「物言えば唇寒し秋の風」の句入りの文を掛けたのは有名な話です。考えてみると、松尾芭蕉、与謝蕪村、小林一茶と、一般人でも知っている著名な俳人はいて、知名度も高いんですから、もっと使われたっていいような気もしますが。小林逸翁は、蕪村の蒐集家として有名でしたが、逸翁が茶会で蕪村を使ったのかどうか、逸翁の茶会記録に詳しくない私には分かりません。茶人では、川上不白が俳諧を好んで、句集もあり、俳人辞典の方にも名が載るほどなのですが、自分の俳句を、茶会で使ったという記録は、どうもありません。俳句は和歌よりは素人でも手を出しやすいので、各流の家元でも、俳句の軸がないわけでもありませんが、やはりなかなか登場しないようです。芭蕉には、茶の湯関連を詠んだ名句がありますし、別に茶の湯でなくとも、其角や嵐雪など古い句には、風雅な、これは茶にピッタリという句も多いんですが、残念ながら、その句を書いた軸が見あたらないというのが現実でしょう。

 俳句を更に俗にした狂句となると、まず見かけませんし、和歌を捻った狂歌も同じです。大綱和尚の和歌など、狂歌スレスレのものがありますが、あれは道歌と呼ぶべきなのでしょう。蜀山人が払子の絵に「払うべき塵はなけれど一本を柱に掛けておかんとほっす」と讃した、いかにも茶の湯向けの軸のかかった席に入った記憶があります。そういえば蜀山人の「やよ達磨ちとこちら向け世の中は月雪花に酒と三味線」と背面達磨に讃した歌を、玄々斎が写した軸があるという記録を読んだことがあります。裏千家九代の不見斎には、狂歌の軸があるはずですが、使用されたのを知りません。

 韻文では、江戸初期には衰えてしまった連歌は、古筆に属する宗祇や宗長のものはともあれ、それこそ数がなく、見たことがありません。

 漢詩は、その中の一句が禅語に転用されて一行ものになっている例はありますが、詩全部を書いたようなものは、殆どありません。長すぎたり、堅い感じがする、煎茶の世界風で抹茶に向かないなどというような説もあり、実際我が家にも漢詩の軸が一本あるのですが、とりあわせ、使い所が難しく、まだ一度も使っていますん。

 結局、茶の湯の席の韻文学では、和歌にとどめを指すのでしょうか。

   萍亭主