式正織部流家元方を迎えての終活茶事の続きですが。

 流儀の違うお客というのは、作法も違い、挨拶のタイミングも違い、主客共に勝手が狂いがちになるものです。正客の座る位置も、織部流では、草庵では釜付きに座るようですし、亭主が入室する前に、客側から声掛けがあるなど、違いはあるようです。しかし、家元は良い意味で茶人ぽくなく、ざっくばらんなお人柄なので、こちらも、あまりかしこまらずに応対させて頂きました。軸のご説明から、松本先生の思い出話に花が咲き、続いて炭点前。

 香合には織部のはじき形を使用。我が家には、あまり、織部に関するものもなく、この香合も大したものではありません(幕末の再興織部時代のものか)が、とりあえず、一つは織部を出すべきかと。灰匙も高木治郎兵衛の織部形というものを使いましたが、家元は、流儀で使っているものとは型が違うと首を傾げておられました。続いて、吸物八寸で一献。千家流の千鳥の盃は、今回は省略。織部流では、草庵式の懐石はやらないらしく、書院での高足膳を使ってのお振舞いが正式のようで、作法も違うらしく、今更ながら、故実に詳しい松本先生にもっと伺っておけばよかったと思います。終活茶事では二度目になる中が紅餡の織部饅頭を差し上げ、中立。

 後座の床は、上の竹花入を使いました。花は、加茂本阿弥椿と貝母。後座からは、家元が強引に譲られて、宗徧流のSさんが正客を勤められました。

 花入の作は、松平定信の時代に、幕府の御数奇屋頭であり、石州流伊佐派の二代目、半提庵伊佐幸琢で、銘「四知」。「天知る、地知る、人知る、我知る」という古語、誰も知らないと思っても、悪いことは知られてしまうものだ、だから悪いことは出来ないという教えです。実はこの花入、花押はあり、ものは大丈夫なのですが、共箱ではありません。以前、ある茶会で使った折、松本先生がこの花入を褒めて下さり、その内、伊佐派の今の家元を紹介するから、箱書をして貰ったらと勧めて下さり、一度、家の茶会に一緒にお見えになる話も出たのですが、スケジュールが合わず、結局実現しませんでした。式正織部流家元のお話では、その伊佐派の家元も代替わりされているとのことです。

  茶入は、楽の手造りで、初代伊佐幸琢、半々庵の箱で「春の夜の朧月とは是ならむ霞みて見ゆる有明の空」とあり、内箱の方が後年の作で、三代伊佐幸琢、半寸庵が、極めを書いています。半々庵は、片桐石州の系列の怡渓和尚の弟子で、八代将軍吉宗時代の数奇屋頭、孫の半寸庵も数奇屋頭で、弟子に松平不昧がいたことで有名です。ちなみに伊佐派は、代々幕府の数奇屋頭でしたが、明治維新で六代目が茶の湯から離れて、以後は、弟子筋に継がれて、今に至っています。

 茶杓は、これも松平定信と同時代の伊勢津の9代藩主藤堂高嶷(たかさと)の作で、無銘で花押があるだけですが、箱を藩の茶道である近藤柳佐が書いています。「公作 筒共」と殿様の作で、共筒だと書き、拝書と丁寧に書いて、箱表は「御茶杓」とあります。寛政二年の作と書かれていて、まさに寛政の改革進行中の時代です。詳しくは聞いていないのですが、この花入、茶入、茶杓は、母の義兄の家にあったものらしく、母は、この他何点かの茶道具を譲られたらしいのです。ともあれ、我が家に少ない、武家っぽい道具を動員して、水指は偕楽園焼、薄器は不昧公お抱えの漆壺斎作、茶碗は高麗半使と宗家対州窯の御本などで、何とかおもてなしを終わりました。松本先生がお元気で来庵されていたら、何と評されたか、あの温顔を思い出します。

    萍亭主