★既述ブログ・各テーマ 一括 ・1「魂」 | 獏井獏山のブログ

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再三、記したように自分のブログはメモ(一種の日記帳)である。

ここで期するところがあり既述のブログから取捨選択の上、一部を取り上げて一括整理しておきたい。

 

第1章「魂

 魂と体に関する偶感(序)

昔読んだ本に「人が思考し得る事はどんなに突飛な空想であっても実現できる。」と書いてあった。私もこの説を信じる。

例えば、「ロケット」や「テレビ」も、私が子供の頃には漫画に描かれた空想話に過ぎなかったが、然程の年月を経ずしてそれらが現実のモノになった。その後、私は時々空中を自由に飛び回る夢を見た。そして将来、誰でも1人で手軽に空中を飛び回る時代が来るだろう、と思った。

 

ところで上記の「空想することは実現する」と云う説を逆にいうと、実現し得ない事は空想さえ出来ないということになる。

当時の私にはどうしても解けない謎(空想もし得ない事)が2つあった。

 

その1つ目は「宇宙の限界」である。

 先ず「宇宙に限界(終着点・最端の壁)がある」という考えであるが、若しそうだとしたら、そんな宇宙を存在させている入れ物が宇宙の外側にある筈だ。即ち、もっと大きな宇宙が存在することになる。こうして論を進めると宇宙の広がりは果てしなく続く。つまり宇宙には果てが無いということになる。

 では次に「宇宙には限界が無い」という考えであるが、果ての無い宇宙(空間)をイメージすることは私には今以て出来ない。

 

2つ目の謎は「自」の存在である。

 私には自分(肉体)が死ねば、自分の主体たる「自意識」も消滅するという状況を想定することが出来ない。果して自分が死ねば「自」はどうなるのだろう。長年の間その謎が解けなかった。

 そして考えに考えぬいた末にフッと湧いた考えは、肉体が消滅しても「魂は消滅しない」ということである。

現在生きている私は、 肉体という有形体と、其れと一体化した無形の魂によって構成されている、と考える。

自分が生まれた経緯を想像すると、ある日母の胎内にいた胎児が出生して母の体外に出た瞬間、天(正確には神が支配する宇宙の一角)に浮遊している魂群の中の1個が、神の指示によって新生児の体内に潜入して出来上がったのが今の自分である。魂は肉体が消滅(死)した時、体内を出て天に戻るのである。

私には以上の事を容易に想定(空想)することが出来る。故に、このことを確信している。

 

このような考えが私の脳裏を掠めたのは数十年前のことである。…そんな私がこれまでに頭に浮かべてはメモしてきた事をここに書き残すことを思いついた。

 その時々に湧き上がった「考え・思い付き」を順不同に列記する形式で書き綴ることとする。(メモは、全体を通じ必要が生じた都度、添削する。)

魂①「魂+肉体=人」

広い大宇宙の一角に魂が集まる「魂の世界」がある。

ここではその世界を「神聖天国」と名付ける。

「神聖天国」を統治するのは宇宙そのものの力、即ち「神」である。

地球上で1人の妊婦が今まさに分娩しようとする瞬間に、宇宙に浮遊する1つの魂が「神」の命を受けて新生児の体内に潜入する…これが人の誕生である。

 

魂② 「人間の本来の能力」

人として生まれた当初の赤ちゃんは例外なく泣きに泣く。なぜ泣くのか。それを解明する。

「神聖天国(即ち宇宙)」の支配者の命によって、今将に生まれようとする人(新生児)の肉体に入り込んだ魂は、「神聖天国」に存在する全ての魂が発する「宇宙の声」(音)を聞き分ける能力を持っている。

しかし、まだ言葉を使えない赤子の思いを把握する能力を失った親(大人)は容赦なく俗世の習慣を赤ちゃんに押し付ける。この「習慣の押し付け」は赤ちゃんが持って生まれた万能の知恵(脳の働き)を滅多矢鱈と破壊する要素を持っている。赤ちゃんはこれに反発して泣きじゃくるのである。が、毎日毎日の教化によって約95%の脳みそを破壊し尽くされ人間社会の習慣に慣らされた赤ちゃんはやがて温和しく(いわゆる賢く)なる。この段階に来ると既に宇宙のメッセージは聞き取れなくなっている。何故なら「宇宙のメッセージ」は内容が高度であるばかりではなく、その数は言葉に直せば1秒で数億語に及ぶからである。そのメッセージは生まれたての赤ちゃんの頭で働いていた1兆個の脳味噌でしか聞き取れない大きさなのだ。

 

(しかし敢えて言えば、大人も一時的に宇宙のメッセージを聞けるチャンスが与えられる。つまり宇宙の声が音として伝えられる。それは脳の働きが5%の人間にはその超高速の音は耳鳴りとしてしか聞こえない。蝉の声や鈴の音や旋盤に削られる鉄の音のように鳴り続ける凄い耳鳴りこそ、宇宙のメッセージなのだ。

・ある時ハッとそのことに気付いた私もその音を即座に聞き分ける能力は無くなっている。が、唯一、万能の脳を回復できる手段がある。安座して目を閉じて無心の境地になり得たごく一瞬、全脳が活動して宇宙の声を聞き取ることが出来るのだ。それは0.5秒程の間だが、その時間帯で人間のいう百億語にも及ぶ声を聞き取ることが出来るのである。)

 

魂③ 「永劫不滅の魂」       

「永劫不滅の魂」

肉体が死んで腐蝕または焼滅しても「魂は永劫に不滅である」と私は考えている。

・私の「魂の本籍」は宇宙に存在する「神聖天国」である。私の母が身籠って出産する瞬間(或いは胎児の時点で)「神聖天国」の支配者(神)の命によってこの肉体に送り込まれたと考える。詰まり、この肉体は死ぬまでの、概ね100年前後の間の「魂の仮の住処」なのである。そしてそれは永劫不滅の魂にとっては瞬時の出来事に過ぎない。

・やがて肉体が死を迎えて朽ちると魂は其処を抜け出して「神聖天国」に戻ることとなる。そして又、一定期間を経て再び人間やその他のものに送り込まれては「神聖天国」に戻される。

・魂はこうして次々と誰かの肉体に入っては魂のエリアである「神聖天国」に戻ることを繰り返す。その過程で魂は成長を遂げるのだ。

 

魂④ 「神聖天国は苦の無い世界」   

 ・「神聖天国」は苦と云うものが微塵も無い光の楽園である。「神聖天国」を浮遊する無数の魂は光り輝く世界でこの上もない悦楽に包まれて悠久の時を過ごす。人間知能では想像もし得ない長く終りの無い時間をここで過ごす。しかし1個の魂は成長するために、終わりの無い時の中のホンの一瞬、即ち概ね100年余を最長とする期間、「神聖天国」に君臨する神の命を受けて苦に満ちた生き物の世界に修行の為に送り込まれるのだ。地球上の人間もその対象の1つである。

故に、苦の世界の修行を終えて「神聖天国」に戻ることが魂の求める最大の願望である。しかし俗化した人智はそれを理解し得ない。それは人が修行を放棄して逃げ出さないために仕組んだ神の知恵である。

この世で背負わされた人生の苦を乗り越えて生き、科せられた任務を果たし終え「神聖天国」に帰れば其処に間違いなく光り輝く至福の世界が待っている。…そして又、一定期間を経て再び人間やその他のものに送り込まれては「神聖天国」に戻される、という転生が繰り返される。それを繰り返しながら魂は成長を遂げていくのである。

魂⑤ 「この世は苦の世界」  

「達成し得ない人生の目標」

人の一生は空しいものである。1つの目標を立て、達成する為に日々、努力し他者と競い合って生きている。しかし目標を達成するのは至難の業である。仮に1つの目標を達成しても、それが生涯の目標でないことに気付くと、より高い目標を掲げては努力と戦いを繰り広げる。…そんなことを繰り返して結局「我が人生の目標」を手中にすることなくこの世を去ることになる。病苦や災難などの苦を背負いつつ空しい努力を強いられるのが人生なのである。

「慰みとして与えられる…この世の幸」

人は汗して働き、夕方、ビールと歓談で疲れを癒す。この時、一日の達成感と満足感を味わう。しかし、その実態は単に今していることに夢中になって「苦を忘れている」に過ぎないのである。

人生には「苦」が付き纏っている。「生きる」とうことは「苦を体験すること」であり、それを乗り越える努力をすることに他ならない。人は魂の試練として「苦」と直面するためにこの世に生まれてきた、と云っていい。「苦」はこの世の大前提であり、人生は「苦を背負うこと」なのである。

労働とそれからの解放とによって味わう快楽は、一時的に「苦」を忘れることである。いわば痛みに対する麻酔薬のようなもので、病気を治癒したことにはならない。

一時的にせよ「苦」から解放されることは快感である。それが日々連続することによって人が「幸福感」を味わうのは無理のない事である。

しかし、仕事から離れてじっくり反省すると、仕事の中身自体に幸福の源泉がある訳ではないことが分かる。況して、生活費を得るために上から課せられた仕事をするに於いてをや、である。

一方、生活の糧を得るために就いた職業において、幸運にも要職を得、地位が高いが故に周囲の人達に奉られて終える人生もある。しかし、最後の時を迎えた彼は「魂の試練」から照らして虚像に過ぎなかった自らの人生を顧みて空しい思いを禁じ得ないに違いない。

人は天から必然的な苦を背負わされて生きているが、人の意志は常に、それを緩和するために、喜びを満たすために努力するのである。

「背負うべき苦」

この世は苦の世界である。誰でも何らかの苦を背負って生きている。そう云う設定のもとに人は生まれてくるのである。そんな人生を生き抜き、全うして天に召されると「神聖天国」(魂の故郷)に戻る。「神聖天国」は全く苦のない世界である。故に、天に召されることは悲しみではない。魂が得る「自由」と「幸」の世界である。だからと言って修行を放棄し、この世から逃れるため自ら命を絶つ(自殺する)事を神は許していない。もし自殺によって人生を終え「神聖天国」に戻っても直ぐに前世以上の苦行を背負った人間としてこの世に送られるだろう。

 

精一杯生きて天にかえる」 

この世は支配者(天)から修業のために遣わされた苦の世界だから、ここで「魂の至福」を得ることは誰も出来ない。

この世での修業として科せられた任務を果たし終え「神聖天国」に帰れば其処に間違いなく光り輝く至福の世界が待っている。その至福を確実に得るために、この世で背負わされた人生の苦を乗り越えて生きることが重要である。苦は苦として受け入れつつ、凌駕の努力を払うと、天はそのための糧となる日々の感動や楽しみを与え、かつ前へ進む希望と勇気をちゃんと与えてくれているのだ。

 

魂⑥「戦いを好む種」         

「宇宙進化の手段」(宇宙の意志)

・宇宙は自らを進化させる努力を払ってきた。宇宙の一部である「地球」の進化は、人の力を通じて行われてきたし、今後も続く。

・宇宙は、地球の進化の或る時期、猿から人への進化の過程で「争いを好む種」を生き残らせたのは、「相競う」ことの中に「進化する力」を見出したからであろう。

 「生き甲斐の根源…競争原理」

・何世紀も前に人間が猿から進化する過程において、

戦いを好む種」と、これと反対の利己心や競争心の微塵も無い「助け合う心を持つ種」が、1つの山の表側と裏側で生活していたが、自然環境等の差異や変化によって、が滅び、が生き延びたのが今の地球人だと伝えられている。

・神は何故このような結果を選んだのか。考えるに、苦の世界に生きる人間競争心を持たせることで、魂の成長を促すことを目したのではないか。

 若しを残せば、それは「神聖天国」と極似する楽園となるので、魂の成長にとって意味をなさないと判断したに違いない。

・戦うこと、競い合うことに依って、必死に生きようとする人間社会を作ったのである。

・現に地球上で生きるモノ全てが競争原理で動いている、と云っていい。

 国家・地域や人種間における「戦争」を持ち出すまでも無く、身近な生活圏の中においても、全ての人間は他者との競争を基本姿勢として日々生きている。多種多様な競技は元より、自己の姿(顔形や服装、等など)・持ち物の大きさや形・知識・資格 等々、全ての分野において見栄を張り他者に勝つために競い合って生きている。病苦や災害を凌ぎつつこれらを最大の生き甲斐として心身を傾注し続ける努力が死した後も含め永劫不滅の魂の成長につながる、と神が認めた結果と考える他あるまい。

 

・人間は本能的に「人生の基本は欲望を満たすために戦う事」と考えるを持っている。この事が人生における苦の発生源ともなっている。

・自己が今日まで生きてきた軌跡を振り返ってみればそれが分かる。子供の時は勉強やスポーツや習い事で他者に勝つことを目標にするよう躾けられ、やがて大人になると「財・権力・勝負事・見栄…等々」あらゆる面で他者と競い合うことで欲望を満たすことに明け暮れ、そのために幾多の苦難を凌いで生きてきたことが確認できるだろう。(学校、職場、地域社会、○○全国大会、○○世界大会、戦争 etc.)

・他者に勝つためには競争心を昂揚させ、常に工夫し実行する努力が必要になってくる。その中で、病苦や災害をも凌ぎつつ正々堂々と戦うことが必要なのである。正々堂々と…人を殺さず、悪事を働かず、騙し欺かず、ズルをかまさず、…。

・「神聖天国」の支配者である神は、そのような努力こそが魂の成長をもたらすものと定めたに違いない。

 

しかし争いの果てに、人類は地球の進化の担い手である人類自身を全滅させかねない「核」を生み出した。そこまでの競争激化を神が許したのは何故か。

・また最近、連日のように、目的の有無を問わず無差別に人を殺傷するニュースが後を断たない。これは「争いを好む種」が意味もなく力を誇示する典型の図であって、進化のための必要な課程とは解し難い。これがたとえ「争いを好む種」が持てる悪い面を放逐するための膿出しの最期の機会として、天(神)がこの時代に悪玉を集中的にこの世に生まれせしめたとしても、その真意は理解し難い。

 

魂⑦ 「ソールメイト」

「上位の魂・私にとっての神」

・人の魂は永劫不滅であり、この世は修行の場である。故に、生を終えて天国に行くのが幸への道と認識していた。(その認識に間違いはないが…)

・しかし天国に行く前に、神聖天国から降りてきた上位の魂が、この世で修行する人間に寄り添って幸の形成の手助けをしてくれているように思う。

・私の場合、妻を見ていると毎日、多くの人が苦労と思うことを苦もなく果たしている。彼女は当然、魂の世界に帰れば上位の存在だろうが、今はこの世の苦を背負って私に尽くしてくれているのだ。

・最近になってそれに気付く。私と過ごした人生の一時期において過酷な目にあったのに私の元を去らなかった。

・それだけではない。本来なら厳しい躾をしたり、厳しく叱咤し教育すべき身内の人間達にさえ献身的な優しさで接している。俗人の私には子弟を甘やかす姿が気に入らないが平気でやり続ける。とにかく馬鹿な位に人に尽くす。

・これは天が私の魂を試すために送り込んだ上位の魂、或いは神の姿に他ならないと、ある瞬間にフッと気付いたのである。

 

「傍にいた神の使い」

・目を閉じて思い返すと、私には出生から今日までの間、(宇宙から遣わされた魂)が常に傍についていて呉れたのを感じる。母、姉、学友、先生、上司、妻、…ここという時点で庇ったり世話をしたり突き放したり、それらの行為には心底に私を思い遣る精神を感じる。これに反し、これらの思いやりと極似の言動を私に与えながら内心鬼畜の人間が数え切れないほど居るのも感じ取れる。それとこれとの区別が付かずに長年生きてきた。しかし今は明確に区別することが出来る。

・鬼畜の事は考えなくていい。怒りやその他の感情を向ける必要はない。無関心無視すればいい。しかし現生活の中で接触しなければならない場面にしょっちゅう出くわすだろう。その時は相手を「物体」、差し詰め「石」程度の存在と考えればいい。接触の無い時は脳裏から完全に消し去ればいい。私にとって価値も何もない「無体」である。…しかし待てよ。鬼畜人間としか思えない存在さえも神が私の魂の成長の素材として遣わしたものなのだろうか。

・これらの「存在」の、私にとっての「存在の意味」を理解しなければいけない。その上で「意義」を見極めて自己の魂の糧にしなければならない。

 

魂⑧ 「神聖天国(神・魂)からのメッセージ」
「天啓・閃き」

・「ソールメイト」は人間の姿として神から遣わされた者だけではない。

苦の無い「神聖天国」に浮遊する魂(就中、既に天に召された父母兄弟姉妹の魂)が傍らに来て身辺を守ってくれようとしている。

しかし魂には人間的なパワーや声が無いので、特有のメッセージとして発せられる。所謂「天啓」である。

・「天啓」は「波動とイメージ」と云う形で示される。波動やイメージを受信できるか(或いは感じ取れるか)否かは人間の側に掛っている。そこで考えられる受信手段は幾つかある。1つは座禅によって人間的な脳の機能を停止させになることに依って身体の中心「膏肓」に閉じ籠っている己の魂を通じて受信する手段、そして今1つは「人間に姿を変えて夢枕に現れた魂から受けるお告げ」である。

・座禅を組んで瞑想の末に無の境地に達し自我を無くした瞬間、その空白にフッと湧き上がる悟り(閃き)がそれであり、また不思議な夢の中で突然現れた肉親(例えば父や母)が諭す言葉がそれである。

(私自身について敢えて付け加えるとすれば、「凄い耳鳴り」も神聖天国からのメッセージと考えている。しかし俗化した脳は瞬時に数億語に及ぶ膨大なメッセージを聞き取れる域に程遠い状況にある。ただ、膏肓に籠る己の魂がメッセージを受け止めて、その中の幾つかを「思い付き」と云う形で脳に伝えて呉れているかも知れないが…)

 

・なお、無の境地に達する方法としては、座禅に限らず「スポーツ」や「勝負事」に夢中になり本能だけで行動している時に「無意識状態になる一瞬」も加えるべきかも知れない。

・また、作業中・歩行中など、何かに集中したり逆に気が緩んでいる時、思い掛けず振りかかる危険を勘働きで避けると云った場面は多くの人が経験していると思うが、これらも大半は身近な魂から発せられる波動のお蔭ではないだろうか。

 

魂⑨「生と死」

・人はよく生と死という言い方をする。その言い方はあり得ると思う。

 しかし、そのためには、生と死は同価値で対峙するものでなければならない。「生」と同様、「死」にもまた、その内容が具備された説明がなされる必要がある。

・生については、「生き甲斐、生き方、生き様」を、経済的状況、心理、苦と楽、他者との関わり合い等、日々の出来事について色んな視点で説明される。しかし、死については単に「生の終わり」という形でのみ取り上げられることが多い。

 つまり「死」は「生きていることと、それが終わることの堺目の一点」でとらえられるに過ぎないものとなっている。換言すれば、生の終わりのみを表現する語であり、いうなれば、それも生の説明の一部なのである。それでは同価値で対峙した存在とはなっていない。

 しかし、「生と死」という言い方は厳としてあり得、生の重みに匹敵する死の中身が存在するのである。

 

「臨終と昇天」
・そこで「生と死」を「臨終と昇天」と言い換えてみる。
・「臨終」は人生の終りを意味し、「昇天」は活動機能を失った肉体を抜け出した魂が「神聖天国」に還ることである。神聖天国における魂の存在は苦の無い宇宙の広がりの中で永劫不滅である。
・そんな永劫不滅の「魂」と、魂にとって約100年前後という、将に瞬時に過ぎない「人生」とは、比較のしようも無い程の大差がある。しかし現に「人生」を生きつつある生身の人間にとって「人生」は計り知れない重さを感じるという事実は否めない。これに対し、俗化した人間(肉体)から見た「魂」の存在は、自己そのものであっても想像の域を出ない事もまた事実である。しかし瞑目して無の境地に達すると身体の奥底で、途轍もなく大きな魂の存在を感じる事が出来る。ここで初めて現時点における「生」と「死」の重さの均衡が保たれ、同価値で対峙することになるのである。

 

魂⑩「ミクロとマクロ」

・ミクロはマクロに繋がる。

・ミクロ、即ち「身体の中心点」は、マクロ、即ち「果てしない宇宙の果ての果て」に繋がる。

・瞑想し、念じて、可能な限りの想定を広げて、「宇宙の果ての、またその果てには何があるだろうか」と可能な限り無限に探り続けると、自分でも今まで気付かなかった「身体の中心に潜んでいる自己(魂)」に出合う。  

それを見詰めて見詰めて極小点まで見詰めると、薄暗かった『自分の心の中心』が明るく照らし出される。そしてそれが『紛れもない全ての自己』に他ならない事に気付く。

・逆の云い方をすると、自分というものの正体を見付けようと瞑想に耽るうち、身体の中心に存在する真の自己に行き当り、その中心の中心の、点より小さい中心に潜り込むと,そこに限りなく無に近い世界、即ち「無限の宇宙の広がり」が現われる。

・もし瞑想によって、何度となくこの境地が得られるならば、常時発せられている筈の「宇宙のメッセージ」を読み解くことが出来るかも知れない。

 

 

「無」ということについて

・全くの「無」の世界というものはない。あるのは、限りなく「無」に近い状態である。

・その状態とは、宇宙の果ての果ての、想像出来る限りの最果て、或いは心の中のミクロを突き詰めた最も小単位の点、のどちらかを想像することである。

・この2つの点は、最も離れながら、その果てで繋がって融合する。

・無の境地を求めるとは、その一点に心を集中することである。

 

 

  魂⑪ 「1本の木」           

・私が瞑想する部屋の窓の外に枝振りの良い1本の大木がある。青々とした葉をいっぱい付けて風に揺れている。その度に葉と葉が擦れ合う。恰も相争っているかのようにも見える。お互い相手の葉を叩き、小突きながら小さい傷を付け合っている。やがて一方の葉は裂け、その一部は千切れ、残った部分も色褪せて茶色に変色していく。これらの葉はいずれも同じ木の根、幹、枝から分かれたものである。全て一筋の葉脈で繋がり、ともに1つの根から養分を受けているものである。にも拘らず末端の葉は敵対心を持って相争っているように見える。実際には、葉と葉は争いっている訳ではないし傷付け合ってもいないのだが、そこに人の世界を重ねるとそう見えてしまう。人の世界もこの木と同じ仕組みであり、人も木も、元は1つの根から発したものである点において同じなのである。人の先祖である生物は元々、単細胞のミトコンドリアから発したものである。この最初の生命体の「意志」は自己の機能を高度化し、生命維持をより確かなものにするために、細胞を分化し、それぞれの形を変化させ多様化して、今日のような多種に及ぶ生命体を創り出してきたのである。

しかし人類は、自己が宇宙の意志を維持・伸長するための機能の一部であること、即ち「他者は自己であり、自己は1つの宇宙に通じること」を忘れてしまって、日々、相争っている

         

 

 魂⑫ 「生命体の起源」                 

・人類はーいや、他の生物を含め「他は自であり、自は全生物の一部である」ということは40億年の生命の歴史が証明している。

 40億年前、1個の単細胞(ミトコンドリア)であった生命体は、永劫に亘って生命を引き継ぎ維持し続けるため、体を分割し、機能を分割し、結果として姿形の異なる多様な形と機能を備えた無数の生命体を創造し、それらの総合体を以て「あらゆる機能を備えた宇宙」を形成してきた。

つまり宇宙は元々1つの生命母体であり、宇宙に息づく全ての生命体は生命母体たる「宇宙」の細胞に過ぎないのである。

・従って、宇宙という生命母体の1つの細胞に過ぎない1個の人間は、親兄弟のみならず全ての他者と一筋の血管、一筋の神経系統で繋がっている。全ての細胞は宇宙という生命母体を支え合う同胞なのである。

・しかし人々は日々、他者と対峙しながら生きている。

 勝負事の好きな者は他者を負かすことに無上の喜びを味わっている。

 不幸な他者を見ても身を賭してまで助けようとはしない。時にはむしろ他を妬み恨み呪い、場合によっては他者の不幸を見てほくそ笑むことさえある。しかし、それは「我と我が身を蝕むこと」に他ならない。

・人が他者を許すか許さないかは、「自身、神(の一部)たること」を自覚するかしないかに係っている。

 全ての生命体が同胞であるという明白な事実を、思考で認識するだけでなく、心底から理解できるか出来ないかに係っている。

・キリストが処刑される最中に「神よ、彼らを許し給え」と云った、と伝えられている。これこそ「他は自」を悟り且つ身をもって示した姿である。

・人類が猿から進化する過程で、『争いを好む種』と『協調を好む種』があったが、後者が絶え、前者が繁栄して今日の人類に進化した。

 このことは、もしその時代に、何らかの環境の変化によって『協調を好む種』の方が生き残っていたとしたら、人類は上記のキリストのような人ばかりで、まさに「自は他、他は自である」ことが当たり前の社会が出現していたに違いない。

 それにも拘らず「宇宙の支配者」は地球上に『争いを好む種』を残し繁栄させた。それなりの理由があったに違いない。人類が成長・進化する為に何故「争い」の本能を持たせる必要性があったのか。そこに人生の意味や生き甲斐の回答が潜んでいるような気がする。

 

魂⑭ 「肉体と魂の関係」  
全ての生き物には身体の中心にが潜んでいる。(宇宙に浮遊

する無数の魂を支配する「神」の命によって遣わされた魂のこと

だ。)

魂そのものは万能且つ永劫不滅の存在で、肉体の死滅と同時にそこを抜け出して本来の住処「神聖天国」へ還れば宇宙の全てを一瞬にして知る万能の力を備えていることは前に記述した通りである。

 

その魂が潜入する対象となる肉体種は無数にあるが、人間なら高い能力を発揮し、猛獣なら獰猛に他者を襲うだけだ。

 

この差が生じるのは、魂は肉体に潜入した瞬間から身体の中心にある「膏肓」に籠って外面に顔を出さず、表面の活動は、肉体が備えた「五感」に委ねられているためである。そしてこれが外面上の「正体」なのである。

 

ということは、「人間」対「猛獣」であっても、お互いの「魂同士」が対面できればツーカーで通じ合える筈だ。

それを実現する第一歩は、今の「自分」という肉体に備わった脳が、何らかの所作によって人智的思考を排除して空白の状態を作り出し、己の「膏肓」に潜んでいる「魂」を脳内に引きずり込んで邂逅することである。

その1つの手段として「禅」があると私は考えている。座禅によって「空」の境地に達し「俗」を排して「魂そのもの」の自分に変身する。

 

表面に姿を現わして活動を始めた「魂」は万能力を以て「猛獣の魂」を引き摺り出して通じ合うことは容易いと考えられる。…こうして見た目(外見)は相争う関係にある人間と猛獣が睦まじく相交わることとなる。

 

夢のようなアホみたいな話だが、魂とはそんな存在に違いないと私は考えている。

 

魂⑮「魂は転生を重ねて成長する」  

 つい先日まで「こんな生き方がどうして魂の成長に繋がるのか。」という疑問を持っていた。人生、一世ではこれという目的も無く、仮に目的があったとしても道半ばにして死を迎えることになる。そんなことが何になるんだ、と思っていたが、→(新たな発想)…人生には「前世」があり「来世」があって「魂」の成長過程が次々と継続して積み重なるものなのだ…と理解すれば、他愛ない生き方も又「魂」の成長過程の一部を担っているのかな、という気がしてきた。

 

魂⑯「魂の成長を阻止する邪心・悪心」

(新たな発想・続き)逆に一生を通じて邪心・利己・他者に対する悪事を重ねる輩は懲罰として神聖天国の「神」によって「成長の退化」を科せられる、と考えられる。最も重い罪は偽善を装った詐欺的行為である。詐欺行為によって他者の財産や地位を奪う者は勿論だが、特に、強い影響力を持つ企業トップや政治家が「ウソ・まやかし・虐待・国民や社員を対象とした権利の抑圧」など、広域且つ長期に亘る悪徳を重ねることに対しては最も厳しい裁定が下されるに違いない。(このような輩の来世は、小盗人として捕えられ惨めな修行の場となるだろう)

 …ただ、それも又、魂全体の成長のための「罠・見せしめ」として「神」がこの世に送り込んだ演出かも知れない…

 

魂⑰ 「随所に主となる」       
「纏わるものの排除」

・全ての「纏わるもの」を排除して、魂を裸にせよ。それが『無』だ。

・そして勇猛果敢に現世でなすべきこと「瞑想を行ってマントラを行った後の落ち着いた精神を得た後において」自らの心に従った自由な行動を「臆せず果敢に」実行せよ。怯まず奮起しながら前進せよ。(行く手に魔多し)

・人に接するに寛容を持ってせよ。全てを是とし受け入れよ。陽気を保ちながら受難に対応し楽天的に受け止めよ。そして常に感謝を感じよ。

 それが出来た時、自己の行動に自信を持て。他を気にするな。

・その場その場で主人公になれば、己の在り場所は皆、真実の場となる。

・心の欲する所に従って則を超えず。即ち、やりたいと思うことをやり、やりたくない事はやらない。(義理に迫られて物事をする必要はない。上記のように、良心に基づく行動をしておれば何ら憚ることは無い。)

・時に悟り、時に迷う。これ即ち悟りであり、其処が出発点であり、終着点でもある。

・ほんの一瞬でも悟り得れば、それが悟りを開いたことであり、至福への第一段階の到達が永遠の至福でもある。

聖人でも「一瞬の悟り」のほかは殆どの時間、迷いの中にある

 

(※ まだ続きはあるが、見付からないので、見つかり次第、追加する。)

      次は 第2章「人生」

 

以下、取り上げる予定の主なテーマ(順不同】

「この世は幻」  「阿呆の戯言」

「我が半生の記(生い立ち~社会人・酒・追憶…等)」

「作品(創作・手記・詩・俳句・替え歌…等)」

「趣味(将棋・囲碁・民謡・演歌・賭け事…等)」

「漫筆・日常雑感」  「忘れえぬ人々」  ほか