「永劫不滅の魂」
肉体が死んで腐蝕または焼滅しても「魂は永劫に不滅である」と私は考えている。
・私の「魂の本籍」は宇宙に存在する「神聖天国」である。私の母が身籠って出産する瞬間(或いは胎児の時点で)「神聖天国」の支配者(神)の命によってこの肉体に送り込まれたと考える。詰まり、この肉体は死ぬまでの、概ね100年前後の間の「魂の仮の住処」なのである。そしてそれは永劫不滅の魂にとっては瞬時の出来事に過ぎない。
・やがて肉体が死を迎えて朽ちると此処を抜け出して「神聖天国」に戻ることとなる。そして又、一定期間を経て再び人間やその他のものに送り込まれては「神聖天国」に戻される。
・魂はこうして次々と誰かの肉体に入っては魂のエリアである「神聖天国」に戻ることを繰り返す。その過程で魂は成長を遂げるのだ。
「人生は修行の場・苦の世界」
人生は魂の修行の場である。修行の場である人生には苦行が付きものである。思い掛けない災難には遭うし、欲が出てそれが得られない苦を味わう。何人も避けられない苦の世界である。(この文は「魂⑤」で記述するので、ここでは削除する)
「魂…転生による成長の証」
・魂は永劫不滅であり、1つの人生を終えても存在し続け成長する事の証は歴史上、或いは現存の人物の生き様からも窺い知ることが出来る。
・思い付くままに、2例を挙げる。
①モーツァルト。彼は幼少時に交響曲を作曲している。表面的には、素養があり、幼年時代より音楽家である父から音楽教育を受けていた事が天才を芽生えさせたと思わせている。それは単に「神聖天国の支配者」が世間の人が奇異の目で見ないように音楽家の子供に魂を送り込んだという演出の結果にすぎない。モーツァルトの魂は前世でも音楽家として大いに活躍した。その人生を終えた次の人生をモーツァルトとしてスタートした。故に物心ついた頃から腕を発揮したのである。
②将棋の羽生善治。彼もまたほぼ同様に、前世において既に高段の将棋指しだった(但し大成はしていなかったかもしれない)。現世においてその才能が少年時代に芽生えた。ここにも魂の支配者の演出があって、他から見て尤もらしい年齢になって頭角を現わすように仕組まれていることも謂うを俟たない。
・このような例は探せば無数にあって枚挙に暇がない。
・要するに、前世に人としての生死を経て現生に生まれ変わった人の魂は、前世で得た知識や技能を会得しているので、生まれ変わった現生においてそれが発揮されるのだ。そのことは魂が永劫不滅であることの証でもある。
「魂が永劫不滅である証(補足)」
・人には来生があるという、もう1つの私なりの証がここにある。
・人は知識を身に付けるために色々の事を努力して学び、経験する。死の直前まで何かに打ち込み達成の努力を惜しまない。
それは最終的には何らかの発露を希望しているからだ。
・しかし多くの人はその知識の殆どを内包したまま死んでいく。発露したい知識の「全てを余すことなく既述し、また誰かに伝えること」は不可能である。では死した肉体を抜け出した魂が内包している知識は何の役にも立たず霧散するのか。そんな筈はない。人は本能的にそんな無駄をする筈がないのだ。その知識は次世で生かすしかないと考えざるを得ないではないか。