一級上のK先輩の家は駄菓子屋で、後免の町のパン屋への仕入れに付き合ったことがあります。10円のアンパンを8円で仕入れてました。バイイングパワーの量は少ないけれどあんまりな薄利。子ども心にも気の毒になりました。
上は土電のラッピング電車、NHKの「あんぱん」。
後免町は「御免与町」、国鉄後免駅は「御免与駅」となっておりまして笑わせます。
30年前の後免駅舎は、いつでも撮れるだろうと悠長に構えておりますうちに改築されましてね、悔しいのなんの。
「後免駅」で検索しても改築後のやつばかり。
アーカイブとして保存されたものはないのか!?
情けないのう。
改札口が懐かしい。
哀惜は滅んだあとに来る。
これは皆様ご存知の、後の祭りってやつです。
人生、こればかりです。
先進主義の衰弱と申せましょう。
ところがね、生の豊かさは過去の思い出の豊かさとリンクしているんで、油断できません。
なにごともあの世、天国か地獄か存じませんが、魚心あれば水心、手土産に袖の下を準備しておくべきでしょう。
あたしは先日、駐車場で難儀していたミミズを助けてあげました。横断歩道でない所をあるいていたカタツムリをそばの草地に投げてあげました。乙姫様の招待はまだ受けていませんが、そのうち(仏恩が)届くとおもいます。
みなさまも徳を重ねれば果報はかならずあります。
信じる者は救われます。
保証はいたしかねますけど。
↑
土佐弁では「よーせんけんど」と言います。
あるいは「えーせん」とも。
これはれっきとした古語で、「え申さず」とか使っていた。「門よりもえ入らで」とか「えも忘られず」とか。
とても使い勝手のいい言葉です。ぜひ共通語として復活していただきたい。
ほいたらね。
夕暮れに 仰ぎみる 輝く青空
日が暮れて たどるは 我が家の細道
狭いながらも 楽しい我が家
愛の火影の さすところ
恋しい家こそ 私の青空
https://www.uta-net.com/movie/210956/
榎本健一
間もなく来るでありましょう梅雨空。
つうかすでにして。
つかの間の青空です、大事にしましょう。
あなたの恋しい<家>も。
荒んでいる家も多い。
世界が荒んでいると言う方もおられます。
頼みの綱はあなただけ。
世を救うのはあなただけ。
なんでもかんでもあなただけ。
万事よろしくお願いいたします。
なにしろあたしは忙しい。
■おでんなきあと
おでんなきあと何を食ってるだろうと心配している方も多いでしょう。(←そんなやついねーよ)
焼きそばです。
これがまずい。
五日分作るんですが、
べちょべちょのぐちょぐちょですがな。
晩飯難民と言っていい。
ダンディーお気楽亭の恥、と言っていい。
いよいよもって作り置きのレパートリーが貧しい。
神を呪う、とも言えるでありましょう。
神は死んだという客観主義より、
呪うほうが同じ土俵での闘いになります。
古典的な正々堂々です。
ヤネ ヨリタカイ コイノボリ、
オオキイ マゴイ ハ オトウサン、
チイサイ ヒゴイ ハ コドモタチ、
オモシロソウ ニ オヨイデル。
(「コヒノボリ」昭和6年)
お母さんはどこ? 離婚しちゃったの?
という話があるそうです。
いえいえそうではありません。
もともと端午の節句は女の祭りだったそうです。
田の神の降臨に臨むために男・子を断って、つまり神の妻として・処女として饗応する日だった。
物忌みのために男たちは座を外したのです。
《この夜、家々の男はことごとく外に出て、処女あるいは巫女の資格ある女が、協同作業(ゆい)の斎屋(いみや)――あるいは個々の家――に待ち申して、この客人(まれひと)をもてなす》
《これが陰陽道の五月の端午の節供に習合せられた》
《五月幟(のぼり)は田植に来訪する神を迎える招ぎ代(おぎしろ)なる青山(標の山の類)の変化でもあり、つまりは斎居(いもい)の宿のしるし》
(折口信夫「古代民謡の研究」 角川文庫『古代研究Ⅵ』)
女は精霊・聖霊の子を身ごもる性だったんですねえ。
神を迎える性、ありがたいものです。
それに比べてお前様はどれほどの聖だ?
などと野暮なことは申しません。
写真はご近所。鯉はいなかった。
高知でいうフラフだけでした。
子供はもう成人したのかもしれません。
スズメも黒蛇も道半ばで非業の死を遂げる。
祀ることも飾り立てることもない。
「それじゃつまらんじゃないか」、ともしない。
人間だけが面白がったり悲しんだりする。
その特権、おおいに堪能しようじゃありませんか。
メメント・モリ。
4月28日
バイクでツーリングしている奴を多数見かけた。
札幌ナンバーのキャンピングカーも見た。
おおそうか、ゴールデンウィークか。
うらやましいぞ。
この場から別の場へ。
それはこの場にへばりついていても不可能ではない。
なんだ、みんなやっておるじゃないか。
またしても甥っこが死んだ。
昨年4月は兄の子、今度は姉の子だ。
どんどん死んでいく。
おれより早く死ぬのは礼を失するではないか。
もっとも今回はおれと同い年だけどね。
おれは恥かきっ子だから。
親戚の中でもっとも気の合うやつだった。
「他家に嫁いだ姉の子」という遠さがなかった。
遠くにいても気の合うというのはいいもんだ。
で昨日は通夜、本日が告別式。
浄土宗本願寺派の坊さんは、
朝の草の葉の露みたいなものだ、
朝会った者と夕べには離別する、と言っていた。
あゝ無常。
いまこの時をフルに使い倒さないといかん。
と言いながら、酒飲んで浪費しております。
精進落としです。ご寛恕を。
毎晩精進落としなのか?
穢れ多いこの世、毎晩潔斎せねばならないのである。
いいよなあ、穢れ少なきあなたがたは。
写真の手は故人の奥さん。
■川口慧海「チベット旅行記」(1967年)を1978年白水社刊
いやあやっぱり探検記、旅行記はおもしろいわ。
百聞は一見に如かず?
そうはいっても、本は安くつく。
なにしろダーウィンの『種の起源』より『ビーグル号航海記』の方を面白がるやつですからね。学問よりエンターテイメントです。ふにゃふにゃの腰抜けでして、どーもすいません。どうにもこうにも。

■三木成夫「胎児の世界」(中公新書 1983年)
「チベット旅行記」を買った古書店の隣にあったブックオフで同日買ったもの。上の図、受胎36日の胎児の顔貌には覚えがある。胎児の顔貌がサメ、爬虫類、トリから哺乳類に数週間を待たず変貌していく。ヘッケルの「個体発生は系統発生を反復する」をなぞっている。
「植物のからだは、動物の腸管を引き抜いて裏返しにしたものだ。」
これも覚えがある。
熱気にも。当てられた覚えがある。
カルト的な熱気、ともいえる。
記憶力がまるでダメ夫なもんでね、再読も初見と同然。
新本買わんでも旧本を何遍でも読めばいいんだから、経済です。
↑なにが経済だよバカヤロー
たぶん探せばこの本は出てくると思う。
発生史学はおもしろいよ。
「眼の発生」は読んだから、次は「肺の発生」を探している。
解剖学もおもしろい。養老孟司の「解剖学教室へようこそ」(ちくま文庫)もおもしろかった。解剖学もいいよね。
「宇宙の発生」「重力の発生」も面白そうだ。
そこはご用とお急ぎでないあなた方にまかせよう。
■大阪万博開幕
博覧会は小学生のころ、南国博覧会に行った。
成人向けのブースに迷い込んで、クジラのペニスなんか見たな。
行きたいな。
建物だけでもおもしろい。
お祭りみたいもんじゃのー。
2020年コロナ禍の無観客オリンピックでも結構みんな楽しんでおったじゃないか。結局、どうせ開催するんなら楽しむに惜しみやしない、と思う。浅ましいと言うなかれ。楽しむことに吝嗇でないのは健康の証拠。

無頼派をやってきたおれなんだが、
けっして人さまの邪魔だてしようとしてのことじゃないぞ。
大きな声では言えないが、むしろ人さまの邪魔をしないようひっそりと生きて行こうとしていたんである。
なお言えば、楽しみのひとつも提供できればとさえ思っていたんである。
自分ひとりを持て余しておる身で、衆生済度ともよう言わんが、わたくしも仏の道を求道しておるのである。
蟻んこ一匹でもその道を歩ませたいのである。
ただの吞んだくれと思ったら大間違いなのである。
なにしろおいらの師は宮沢賢治である。
まあそんなわけで、いまだにおでんを食い続けておる。
帰って食い物があるのは無上の幸せである。
あれから何十日たったっけ。
南無おでん三昧。
贅沢は敵だ。
1月28日からだから2か月以上くる日もくる日もこればかり食い続けておった。
それも本日で終了。
こう暖かくなったらいけません。
数日前ツバメを見ました。
さて、明日からなにを食えばいいんでしょう。
なにか料理を作っていて、まったくはかどらない、同じことを繰り返してばかりいる。
苛立たしいが、どうしようもない。
という夢をみた。
ははあ、これが老いというものだろう。
警告夢でもあろうし、または「抗うことなんかできはしない。受け容れよ」であるかもしれない。
外出するのにタバコをポケットに入れた。
外でそれが空箱であるのを知った。
ガソリンを入れて燃費を計算しようとしたら、スマホを忘れて来ていた。割り算を筆算しようとしたが、筆算のやり方を忘れている。
不全感がびまんしている今日この頃であります。
あーやんなっちゃった。
花見には行きましたか?
花見は日本人の務めであります。
♪昭和余年は春も宵
桜吹雪けば情も舞う。
あがた森魚「赤色エレジー」1971年
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散ってしまう前に行きなさい。
散るを哀惜する。うーん日本人じゃのう。
写真は最強寒波の翌日2月9日の香長平野から北山を望む。
うっすらと白いのが見えるか見えないか。
高知は山から転がり落ちたらすぐ海に落っこちる。
とお思いでしょうが、なに平野はある。
狭いんですけど。
コダックの写ルンです、<スナップキッズ>を発掘す。
20年は前でしょう。
フィルム入ってます。
シャッター下ります。
さぞかし名シーンが収録されているでしょう。
あたしはこんなもの使いませんで、家人だがね。
思い出はね、こんなにも大切なものです。
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし。
と方丈記にあります。
うたかた如きを惜しんでどうする。
でもそれを哀惜するのが、人間の業なんです。
振り向かずに前へ進む。
こればかりではありません。
うさぎ追いしかの山、小鮒釣りしかの川は富です。
飯の足しにはならないし、交換価値はないでしょうが、
極私的な富=財宝となります。
ひとはそれをふところに温め、ひっそりと生きてゆくのである。
勿体なくも畏くも。
かくして人間の豊かさは、ひと知れず滅んでゆく。
ああもったいない。
罪深いと言いなおしてもいい。
他人の私的財宝なんぞ屁でもない。
いかにも左様でございます。
そいつを共有できれば濡れ手に泡、なんですが。
なんとかそんな果報が手に入らないものでしょうか。
超一級の知恵者であるプーチンやトランプ先生があのザマなんだから、知恵というものもどこまで信頼できるものか心配になります。知恵のブランド力もどうだかねえ、と平民庶民も思うに違いない。平服するべき権威が失墜してしまった。
高知新聞の読者投稿欄に、「あんな人を大統領に選んでしまうアメリか国民は大丈夫なんでしょうか」と世話を焼いている人もいました。テレビの某コメンテーターは「品のない方」と評しておりました。一国の大統領に「品がない」とはねえ、失敬じゃありませんか。
まあそんなこともあるか。
(ありすぎると困りますよ。)
品のある知?うわー、
なぞとあわてふためいている方も多いかと。
おかげでおれも、あいつの言うことなんか信用できるか、と陰口をたたかれています。
こうなりゃ、いっそのこと、知からどれほど遠くにいるかで知のレベルを評定するほかないじゃありませんか。
利口ぶるんじゃない! これです。
理屈に合わん? 理屈に合っていることが世を支配していたらこんな世になっていないんじゃないか。
いやー非ユークリッドです。
■川口慧海『チベット旅行記』(白水社 1978年)
ぶっくいん高知古書部で買いました。
この店は亡き甥っ子が教えてくれた所で、以前「ヘンリー・ミラー全集9 冷房装置の悪夢」を買ったな。
慧海は1897年(明治30年)32歳、チベット入りをして6年過ごした。西蔵旅行記は西欧でも評価されているらしい。
カバーには平山郁夫のポタラ宮が描かれている。
さて、読むんでしょうか。









