近日中に書庫をゴミ(!)として処分するというので行ってきた。
「モヒカン族の最後」というのがあった。
杉浦茂の漫画かと思って持って帰ったけれど、違った。
まあいいや。
兄とその息子が買い集めた数千冊の本が埋め立てか焼却かされてしまうと思うと慙愧に耐えぬ。
兄がよく行っていた井上古書店にその娘が連絡したところ、店主は兄を憶えていたが、もう要らないとの事。
本は遺産としてはことほどに始末に悪いものはないのである。
国会図書館に送りつけようかと姪っ子は言っていた。
受け付けてくれるでしょうか。

今回も20冊ほど形見分けしてもらった。

おらんとこも置き場所ないんだけどね。

その他は?
富が焼却処分されるのか?
もったいない話であります。
せっかく固定された二酸化炭素を再び大気に解放するのか。

NETで「ご自由にお持ち帰りください」とでもすればよかった。

仕事帰り、後免行きの電車がいっかな来ない。
市内行きは満杯。
高知にこんなに人がいたのか?
30分遅れでやっと来たがこれも満員。
無理やり乗り込んだ。
そうじゃった。下々はよさこい祭りじゃった。
せいぜいウサを晴らしてもらいたいもんじゃ。
写真は電停で見た地方車。

テレビで観ても、いやー、いいもんですじゃ。
踊りはいいよ。
律動は人間の体にしみついておる。
滅びつつある盆踊りを哀惜しなさい。
衣装、振り付け、いくつかいいものを見つけた。

みなさまも地元の祭りを楽しんでください。
ダンス・ダンス・ダンス
ハトもメスの前でくるくる踊ってますな。

暑いっすねえ。
殺人的と申しております。
昔から秋や春をいち早く見つけるのを競っておりました。
写真は物部川の河口。
ずっと先には室戸岬。
ゴミが付いてる?
なんとおっしゃいます。
レンズのゴミではない。
 たしかにゴミと見えますね。
赤くはありませんが赤とんぼなんでございます。
気が早い?
トンボだって早く秋を見つけたいのだ。
こう暑けりゃやりきれないのである。
人間だけが「異常気象」でやり過ごそうとしている。
ほんに今月7日は立秋か。

■山猫通信さんがまたインドへ
https://yamanekotuusin.com/
高知の木工家山猫さんがまたインドでバイクツーリングしておる。よほどやり残したことがあるんじゃろう。
「インドに行け!」とアジテーションするやつは多い。
てなことは以前書いたから略。
なにしろ近辺の探索だけでへとへとになるおいら。
まあ探索だけは怠りなくせよ、ということで。
秋を見つけるのも戦争や軋轢齟齬を見つけるのも探索の苦労による。すべからく、サボってんじゃねえよ。

 ↑えろうすいません。

 

仕事帰り、電車の時間があったので逆方向に歩いた。
男に呼び止められた。
「伊野(高知市西方10キロ)に免許書き換えに行っていたんだが財布を忘れて来た。これから後免(高知市東方12キロ)まで歩かにゃいかん。電車代500円貸してくれませんか。」とのこと。
そりゃたいへんだよ。おれも歩いて帰ったことあるけど軽く3時間かかる。500円ぐらいならカンパしてもいい。

あいにく1000円札しかない。「おあいにくさま、ありません。」
「どうやって返してくれるんですか?」
「ええ、頂戴することになります。」
「歩きなさい。」
徳を積むこと人後に落ちるおれではないが、すげなく断ってしまいました。

家人にそのことを話したら、
「財布を忘れたって?じゃあどうやって伊野まで行ったの?」と言う。なるほど、もっともである。
「こいつ、ぼんやりしてそうだから、いいカモだ、と思われたのよ。」
ふーん、そうなのか。
オレオレ詐欺に容易にひっかかる有望のカモ、
これも人助け、ではないか。
有徳の士、である。
それが、人助けしそこなった。
慙愧にたえない。

■スイカをチン
冷蔵庫のカボチャの煮物をレンジでチンした。
これがなんとスイカのカットであった。
いやに赤いカボチャだなと思わなかったでもないが、
そこは酒。かまいはしない。
ボケ老人はゆく。〽嗚呼堂々の認知症。
 ホット・スイカもいけますよ。へへへ。


姪から電話あり。
兄(長兄の息子)が親の書庫にと買った家を処分するんで、欲しい本があれば持って行ってほしいとのこと。
息子とは時々仕事場に本を差し入れてくれ昨年亡くなったあの男です。
上の写真はその書庫の一角。
 母屋にももちろん書庫はある。
1時間でへとへとになって、やめた。
なにしろ本棚は二重になっているし、表面を見るだけだ。

↑持ち帰ったほんの一部。

『現代の眼』は昭和47年(1972年)のもの。
羽仁五郎や平岡正明が書いている。
連合赤軍あさま山荘の壊滅の話も。
みなさま真面目かえって考えておった。頭かかえて。

ナウじゃない? どうせそうでしょう。

定価200円。

長兄の子らは、「親父は読むより早く古本屋で買って来るんで困る」とこぼしている。
尊父は遺産のつもりでいたんだよ。
それがいまや邪魔ものあつかい。
親の心、子知らず。
つらいのう、切ないのう。

もう一度や二度取りに行くことになりそうだ。
家人から「もう置くとこないよ!」と言われておる。


休日、エアコンの利いた部屋で酒を飲んでいた。
夕方、気分が悪くなる。
早々に床に入った。
帰って来た家人は異常を感じたらしく、アイスノンを出してくれた。
あくる日、聞いてみると「息がゼーゼーと尋常でなかった」とのこと。「熱中症だ」と。
まさか、エアコンはぶん回しているし酒は水割りだよ。
これで熱中症かよ。
「年寄りはそんなもんだよ。あたしが帰るのが遅かったら死んでたね。」
ふーん、
納得いかないが、そんなものか。
御同輩、そんなもんだとさ。
命を舐めてたら、軽くスッてしまうということだ。
命なんぞを重く思っていたらフットワークが悪くなる?
そりゃあ少し思い違いだぞ。
命の軽重はニュートンも計量できなかった。
しかしそれは固有性の範疇にしかと所有されておる。
それを舐めたらあかんわ。
それを計量するのはあなた。
しっかりお願いします。
ほいたらね。


道路地図に高知市北部山間、クララという部落があった。
洒落た名前じゃありませんか。
漢字の表記では「岩座」。
岩の居ます所の意でしょう。
縄文人にとって岩陰は貴重な住処だった。

岩の座(いま)すとは神の座と同義だった。

後世、天岩戸ともなり、黄泉の国への入り口ともなり、墓場にもなり、観音様のゐます処ともなった聖なる場所である。
後世人が岩座の字を宛てたのも無理ではない。
で行ってみた。
それらしい集落で一服していた。
それらしい大岩は見当たらない。
上の写真は近くの「守ろうホタル」の看板。
通りすがりの人に「この辺にクララという部落がないでしょうか」と聞いたら、この辺が字(あざ)でクララだとのこと。
「部落の公民館はないか」と証拠写真を撮るために聞いた。
近くの久礼野にはあるとのこと。
地名の由来は聞きそびれた。
下の写真は久礼野の久重小学校。
木造だとのこと。

生徒数48人。けっこういるんだ。

クララというマメ科の植物はある。
「くらら咲くころ」という童謡があった。
 すこし風ある埃道(ほこりみち)
 くららの花が咲いていた。
 
 曇っているけど雨のない、
 日和つづきの昨日今日。

 さびしい村にひびいてる、
 あれは水あげ発動機。
 
 脂(やに)のにじんだ杉並木、
 葦(あし)間に水禽(みずとり)、きいと啼く。

 旅商人(あきんど)は荷をしょって、
 くららの花を見ていった。
    (多胡羊歯詞 「赤い鳥」昭和2年10)

帰りは別の道を通った。
逆方向は以前走ったが、心細くなる細道。
対向車に一台遭ったが偶然すれ違いができる所で命拾いした。

ところが撮ってみれば、黄色の実が埋もれてしまって見えません。

ほんとは鈴なりになっています。

手土産にと思ったんですが、惜しいことです。

本日四国地方梅雨明けです。
例年より20日早いそうです。
早けりゃいいってもんじゃない。
水不足とのこと。
瑞穂の国がコメ不足かよ。

異常気象だ、そのうち平常に戻るでしょう、
とみなさま平気の平常心。
うーん、どうなんんでしょう。


『言語の脳科学』(酒井邦嘉 中公新書 2002年)。
本屋にはロクな本がないと思いながら、立ち寄った本屋でこれを見つけた。古本屋じゃないよ。
以前読んだ『右脳と左脳』(角田忠信 小学館ライブラリー文庫1992年)はとても面白かった。ご存知、虫の音を日本人は左脳=言語野で聞くが中国人を含め西洋人は右脳でノイズとしてしか聞かないという説で有名です。その後この説はどうなっているか、気になっていたのです。
専門外の素人には、いやあむつかしい。
自然言語?重要な概念、説明はあったはずだがすでに忘れておる。これじゃだめです。
この手の本は、「文体が悪い」でおれは済ませていた。
いやいや、おもしろくないという意味じゃないですよ。
手に負えないけどおもしろい、というわけで。

「手話も言語である」てのもおもしろかった。
脳科学者と電気工学者は遠からず文字通りの”人工頭脳”を作るでしょう。

そうなればあたしらは労働しなくても生きていける。

バベルの塔にならぬことをあたしも祈っております。

■父の日、だとさ
この日にはいつもこの詩を思い出す。

 ぼうやはもらう大きなこいのぼりを
 ママはもらう赤いカーネーションを
 パパはもらううすっぺらな月給袋を

 ぼうやは泣くママの背中で
 ママは泣くパパにもたれて
 パパはいつも泣くに泣けない

 ぼうやは信じるママのやさしさ
 ママは信じるパパのたくましさ
 パパは信じる――何を?

 けれどパパは死んでも云わない
 「父の日」をつくれなどとは
    谷川俊太郎「モン・パパ」


ボケの実。
この実の下にもう一個隠れていた。
たった二つ実がなった。
ツバキの実はカタシとおいらたちは言っていたが、
ボケの実はどうだったか。
焼酎漬けも可とか。
鉢植えの一個二個じゃねえ。

6月8日当地は梅雨入り。

この季節はアジサイですじゃ。
好きな青です。
アジサイは七変化で色が変わるとかだんだん色が濃くなるとか土の酸性アルカリ性かで色が変わるとか言われております。
結局、どうなんじゃ?

同日、甥の死十九日。
道を間違えて、10分遅刻。
あいかわらずダメおじさんだ。
法名:釈淨憲。旧字で書かれておりましたが、釈は折口信夫こと釈超空の釈でした。

■光彦さん
「みっちゃん、と呼ばれてたでしょう」
「ええ」
「とすると、みっちゃん道々うんこして、紙がないので手で拭いた、って言われたでしょう?」
「いえ、聞いたことありません」
なんだよ。あれたちの口承の文学がなくなったのかよ。
惜しいものとも思わないから、伝承はこうして絶える。
記録もされずに。
絶えるはいい。
ただ<過去>としてアーカイブに保存はできないものか。
現代で塗りつぶせばいいってもんじゃないぜ。