ほぼうさのブログ

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ロジカルオシレーターほぼうさのブログです。

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The whoというと、ローリングストーンズやビートルズに遅れてきた第三勢力のロックバンドという印象がある。とくに腕をブン回して弾くスタイルやピョンピョン飛び跳ねて弾くスタイルも、基本的には彼ら独自の方法であり、後世にパフォーマティブなバンドであると認識されている。今では日本のアマチュアバンドでも、こうやって腕を回して飛び跳ねるステージパフォーマンスはもはや常識ともいえるものだが、彼らが最初にカメラの前でやりはじめたというのは特筆すべきことである。

 

いま「パフォーマティブ」と書いたが、これは言葉通りに、例えばステージ上でドラムセットを破壊するとか、ギターをぶちこわすみたいなパフォーマンスを意味するだけではない。彼らの音楽や存在自体が、その曲や歌詞とはまったく異なった受け取られ方をしていることも意味する。

 

どういうことか?じつは日本でThe whoとは、まさにロックンローラーの鑑的な存在で、腕を極限まで振り回し、楽器も破壊してセックスドラッグに明け暮れるアウトロー集団のならず者バンドであり、だがそれがいい!と勝手に思われているふしがあるということである。

 

しかし実際に曲を聴いてみると、結構イメージが変わる。「My Generation」あたりを聴くとシンプルなロックじゃねーかと反論されそうだが

『オッズアンドソッズ』を聴くと、ピートタウンゼントが各曲において、イントロで非常に緻密なコードワークを形成していることがわかる。メロディやボーカルラインのところでは極力シンプルな、ロックするように配慮しているが、実は随所のコードにきらりと光る、繊細さが宿っている。これはふつうに現在の日本のワタシが作曲に使っても全然古臭くならないから、勉強のために買って聴くようにしたのだった。

 

もし、彼らに先行するアウトローなイメージがなく、純粋にこの曲たちを聴いていたらかなり印象が変わるかもしれない。そう、そういえば例のX JAPANもそうだった。髪をおったててドラムを破壊するヨシキ様がじつは哀愁あるホロ悲しい歌謡メロをツーバスに乗せていたようなアレと似ている構造だ。

 

ところで

ズームしてよく見ると、2曲目の邦題がすごいことに

 よく「CDが売れなくなった時代」というキーワードから、いまは個人の音楽の趣味が多様化したと言われている。しかし現実に目を向けると、必ずしも「趣味の多様化」が適切なキーワードではないように思われる。


そもそもだが、個人の趣味が多様化したわりにはAKB的なものからONE OK的なものまで、均質化された工業商品がかなり売れているように見える。これはマスメディアや広告代理店が主導するCM戦略が、依然として大きな効果を持っていることの現れだ。


そして実際、個人のレベルにおいては、身近にいて地道に音楽活動をするアーティストを応援することなどしない。パクリを多く含むチープなアニメソングやボカロ的なもの、そして有名なアーティストを模した同人的作品が消費されている。


便宜上、彼らはこれを「音楽の趣味の多様化」と呼ぶことにしているようだが、ここではもはや、人々は頭や心を使って音楽を聴いていない。日々の食事を平らげるように、パクリじみた音楽を消費し、気持ちよくなったらやめる。そこにあるのは文化的精神的な「文学的感性」などではない。これは言ってみれば、動物としての「欲求―満足」の回路を充足するための材料なのだ。そして、頭や心を動かすことのない「欲求―満足」の回路には「共感」など存在しないということになる。

にもかかわらず、全体に視野を広げてみると、メディアにはAKBの総選挙やモモクロ的な映像が流れ、「全米が泣いたのかな?」と思うほどのおおげさな共感の煽動が行われている。「君の名は。」のあのラッドウィンプスの曲を、夕日が沈む中で聞きたい…!などと騒ぎ立てる。これはニュースやハリウッド映画と同じで、事実そういった世界規模、宇宙大のおおきな物語に人々は共感し、感動しているようである。

つまり一方では、自分の身近でまじめに音楽活動をしている他者には共感することができず、欲求を満たすための音楽をただ消費する。しかし他方では、全米が泣くような宇宙規模の大袈裟な物語に共感し、感動する。

どうやら我々は、そういう時代に生きているらしい。

ぼくは中学時代エックスが好きだったが、世間ではSPEEDがよく流れていた。別にSPEEDは嫌いだったわけではなく、曲に関してはむしろ好きで、思い入れもある。


と、いまこの文章を書いているさなか、実は世間ではあの今井絵理子が橋本という神戸の議員と不倫の真っ最中であり、一線をこえてないとか、夫婦関係が破綻している事実なんてなかったとか、非常に盛り上がっているところだ。


SPEEDの曲は実質的には今井絵理子と島袋寛子の二人によって歌われており、他の二人はお飾りだったといっても過言ではない。つまり、楽曲のうち半分は今井絵理子からのメッセージである。ぼくは今日、この20年近くも前のメッセージが少しも色あせることなく、いまも輝き続けていることを、この日記によって明らかにしたいと思う。

1.BODY & SOUL
甘い恋の駆け引きは言葉だけじゃ足りなかったので痛いこととか怖がらずに不倫というだいぶディープなところまできました。でも一線はこえてませんので。


2. STEADY
世界中でたった一人のあなたに出会えたことが、偶然じゃなくて不倫じゃなくて、”運命”と呼べる日は、いったいいつになるんでしょうね…


3. 熱帯夜
もしもアタシが彼女だったらすごくいいよとことん話のネタになるし


4. Go Go Heaven
ワイドショーの格好の餌食になって今が旬の毎日です


5. My graduation
愛が芽生えた(報道されたのが)JULY


6. White Love
一部報道では、「有名人が手つなぎするなんてけしからん、公人としての自覚をもて」とさかんに責め立てていますが、みなさんどうぞ落ち着いて、よく考えてみてください。果てしないあの雲の彼方につれてっても、その手は離してはいけないのですよ?高々新幹線の車内ごときで、手を離していいわけないじゃないですか。 


ぼくが中学生の頃、「刺激! VISUAL SHOCK Vol. 2」というX JAPANのライブビデオがどうしても欲しくて、近所中のCD屋、ビデオ屋を探し回った。結局まわりでは一切見つからなかったため、最終的に名古屋は栄にある大都会のCDショップまで冒険をして購入した記憶がある。おそらく、今思えばかなりの時間と労力とお金をかけたはずだ。

ところが、いまの時代にエックスのライブビデオを見たいと思ったら、ネットにアクセスさえできれば簡単に見ることができる。下手をすれば、youtubeで一発だろう。その類の動画サイトになければ、仕方なくamazonのページに行って購入手続きをすませば翌日には自宅にとどけてくれる。これこそインターネットの発達が、人間の暮らしを便利に変えてくれた素晴らしい一例である。

ネットの発達による恩恵というと、つい我々はツイッターに代表されるような、各種SNSを想定してしまう。つまり、リアルタイムに人と人がつながり、情報を共有してコミュニケーションがとれること。この時空を超えた「同時性」にこそインターネットの恩恵があり、可能性があると考えてしまいがちだ。

しかし実はネットがもつ機能にはそういった「同時性」のほかに「アーカイブ」としてのすぐれた役割がある。ひと昔前だったら古本屋で値上がりしたレアな雑誌を発掘し、高い価格で購入しなくてはならなかった、あのミュージシャンや音楽プロデューサーのインタビュー記事…こういったものはだいたいネットに転がっているようになった。古本屋をめぐる手間や時間をかけず、自宅で閲覧することができるから、ぼくらの暮らしはいったいどれほど便利になったことだろう。


前述の「刺激! VISUAL SHOCK Vol. 2」だってそうだ。アーティストのドキュメンタリー番組にしても、ひと昔前はテレビ局がすべての映像資料を押さえてしまっていて、一般人は適切な再放送のタイミングまで待ち、決して失敗することの許されない録画を注意深くしなくてはならなかった。それが今や、テレビ局はアーカイブを開放しはじめ、お金を払えば時空をこえてみることができるようになった。場合によってはyoutubeに転がっているラッキーなことすらある。

ネットの「同時性」はたしかにすごく便利なのだけど、クロネコヤマトアマゾン問題なんかを見ると、これ以上リアルタイムで人々が繋がっていくことには限界を感じなくもない。むしろ、SNSでは繋がった他者を傷つけることに喜びを感じる「バカな暇人」の存在が、ぼくたちの自由で便利な生き方を強力に阻害しはじめている。


だから、ぼくはこれからの社会が「同時性」を軸に、これから発展していくことに全然期待していないし、おそらくそんなに変わらないだろうとすら思っている。それよりも、「刺激! VISUAL SHOCK Vol. 2」が教えてくれたように、ネットのもうひとつの機能「アーカイブ」に、可能性ときわめて大きな利便性を感じている。

さぞかし勝手な意見に聞こえるかもしれないが、2000年代後半のジャズピアノというのは、本当にブラッドメルドーだったと思う。ジャズピアノを志す人なら誰しも彼に憧れ、また、ピアノレッスンのカリキュラムも最終的には彼になることを目指すような状態になっていた。


つまり、ビッグ3であったチックコリア、ハービーハンコック、キースジャレットがかなり高齢化したため、その穴を埋めるように、メルドーは新しい才能を持つピアニストとして王座に君臨したのである。

ブラッドメルドーの魅力はよく「ダークな響き」と表現されるが、これは物事を表層的にしかとらえていない。ぼくはこれを「インテリジェンスの顕れ」だと思っている。


ビルエバンス以降、ジャズピアノにおいて、インテリジェンスは極めて重要なポジションを担うことになった。エバンスの場合それは緻密なコードやクラシックピアノの影響、モーダルなフレーズであったが、その傾向はフォロワーたちによって爆発的に流行する。ストレートなテクニックのジャズピアノは廃れ、かわりに和音にこだわる知的な、ひとつひとつの音にいちいち理屈をつけてまわるような奇妙なピアノスタイルが主流になるのだった。


そして、90年代くらいまではビッグ3もビンビンだったわけだが、2000年代中盤になると、前述のとおり、時代はビッグ3にとってかわるようなあたらしい「インテリジェンスのかたち」を渇望していた。その流れの中、登場したメルドーは、コード理論の行きつく先のなれの果て、終着点を実際にやってみせた。あのダークと言われた響きはじっさいには「インテリジェンスが生んだ必然」であり、時代の要請だったと言えるだろう。

ところが、2010年代も中盤にさしかかると、時代の風が変わるらしい。
実は先日、2010年代に彗星のように現れた気鋭のジャズピアニスト、ロバートグラスパーというやつのCDを買ったのだが、これがえらく失望せざるを得なかった。


どういうことか。いま、まさにこの時代に起きているジャズピアノの流れは、「メルドー的インテリジェンスへのアンチテーゼ」である。つまり、コード理論の完成形、到達点としての複雑きわまる和音=ダークなサウンドに、聴衆は飽きたのだ。


彼らメルドー一派の和音はたしかにすごい。アナライズしようとすると非常に骨の折れる作業で大変だし、こいつはまさに人類の英知の結晶だ。
でも、でもね。別に学術参考書を読みたいわけじゃないし、そんなにアカデミックな話に興味はなくて、インテリジェンスを感じさせながら、もっと一般聴衆としてジャズを、音楽を楽しみたいんだよ。音楽のがくって学じゃなくて楽でしょ?


こうしたおおいなる揺り戻しの果てに、ロバートグラスパーは現れる。彼のピアノには「インテリジェンスの風をほのかにまとった、ライトなエンターテイナー」のにおいが強烈にする。これもまた時代の要請なのである。

しかしそのサウンドの退屈さといったら、筆舌に尽くしがたい。メルドーはまだ、複雑な横文字を使いながら哲学談義をする天才学者を、遠目に眺めるような楽しさがあったが、グラスパーはアレだ。意識高い系のディスカッションを聞いてるような気分なのだ。これはキツい。


なんというか、きわめて個人的な意見なので、気分を害された方には謝罪の。

そしてもう一つ。よほどのことがない限り、人間は「まじめ」にならないほうがいい。まじめさが人間を滅ぼす事例など、ぼくの半生を引き合いに出さなくても山ほど出てくる。


まじめに東京電力に入社してまじめに働いていたら原発事故が起きてしまった、まじめに東芝に勤めていたのに粉飾決済がきっかけで云々、まじめにシャープで頑張っていたのに…枚挙にいとまがない。


そうかと思えば、定職につかずふまじめに友達のウェブサイトを手伝っていたら人気がでて、気が付けばいつの間にか取締役に…というケースもある。それだけじゃなくて、社会的財産のこともある。ぼくのようにまじめな人間よりも、ふまじめな人間のほうがたくさんの人と飲みに行ったりしていて友達が多く、いろんな人と繋がっていることが圧倒的に多い。


そして、そういう「ふまじめさ」が人間の偶然的なパワーを強く引き寄せられる。ここまで言うと「そんなバカな」と言いたくなるだろうが、これは歴史が証明している。

 

古来より、「まじめ」なエピソードが偶然の出会いや発見を引きよせたという逸話は存在しない。しかしエジソン偉人伝みたいなものを少しでも読むと、「ふまじめ」な瞬間のたまたまな出会い、思いつきがのちのAであるみたいな逸話がやけにたくさん出てくる…というのを誰もが感じているはずだ。


だからぼくはすべての歴史的発見、出会い、良縁は人間のなかにあるグウタラで面倒くさがりでどうしようもない「ふまじめさ」が引き合わせてくれると確信しているし、それが偶然の本質だと思っている。

しかしぼくにはあと半分の一生、つまりもう半生残っている。だからもう少し夢のある話をしたほうがいいような気がする。題して、ぼくの半生を反省してみることとしよう。


ぼくの若き頃の失敗はすべて「目標設定の拙さ」にあったのだ。目標設定が間違っていたとはつまり、生き方が最初から根本的に間違っていたと言ってもいいだろう。


「プロのドラマーになる」という目標は間違っていた。たしかに子供の夢の話ようで稚拙な目標だからな、と言えるかもしれないが、実はそれはその目標が浮ついた欲にまみれたものだったとか、そういう感覚的な問題の話ではない。単純に「時流を読む力が足りてなかった」という一点に尽きる。


すべての目標は、時流を読み、自分の才能、才覚を冷静に見つめなおしたうえで、慎重に決定すべきである。


ぼくは若い頃、テレビで見たような、いわゆるバンド音楽産業がこれから無限に拡大していく、右肩上がりの未来ある産業だと勘違いしたまま目標を立ててしまい、それから先は今までかけた努力がもったいないからと後に退けなくなってしまっていたのだ。もしあそこで時流を読んでいれば、音楽産業がハリボテの斜陽産業であって目標にすべきでないと慎重に決定できたはずである。


しかしながら、あの日あのとき、わが親は、学校の先生は、「時流を読め」と教えてくれただろうか?最も大切なこの一点を抜きにして、目標設定と努力の尊さだけを語ることは非常に愚かだし、誰のことをも幸せにしない。これは幼少時の習い事はピアノがいいとか英語を小学校から導入するほうがいいとか以前に、すぐにでも教え込むべき根本の部分である。

ぼくのこの文章は、ほとんどがリアルでぼくの姿、つまり人となりを知っている人しか読まないので、それを前提として書くが、ぼくはひどく「まじめな」人間である。


それは「明日の仕事に差し支えるから平日の夜は10:30くらいに寝ている」とか、「お酒を飲むとひどくおなかを下すことがあるから飲み会でもお酒を飲まない」といったことに代表されるような、倫理的道徳的かつ、社会一般的な常識観にきちっと乗っている人間であることを意味する。おそらく、ライブ後の飲み会や打ち上げなどで不幸にもぼくの隣に座ったことのある人は、ぼくがおどろくほどまじめでまっとうでつまらないことしか言わないことにびっくりしたのではないかと思う。


そして、そのまじめな性格はほぼ昔から変わっていない。

ぼくは昔、バレーボール部に所属して試合の時はベンチを温め続ける典型的な補欠部員だった。そして、年に数回ある中間テストや期末テストに向けて日々テスト勉強を積み重ねる生活。この暮らしに原点がある。すなわち、ストイックに単純な作業を繰り返し、模範的な「まじめくん」になる力だ。学校で教えてくれたこと、先生の言う通りに従順に行動する能力が非常に長けていたと言ってもいい。
その能力を起点として、ぼくは同じようにドラムの練習に超まじめに取り組んだ。一日数時間の基礎練習にも精を出し、興味のまったく湧かないバンドでもドラムが上手いと聞けばいろいろなCDを積極的に買ったり借りたりしていた。それだけならまだ良かったが、バンドをドラムを生活の第一に考え、ドラムに集中するためにプロミュージシャン、プロドラマーをめざしてバイト暮らしを始めた。


これを聞くと実に「ふまじめ」な生活に堕落したと思う人がほとんどだろうが、ぼくはとことんまじめだったのだ。ぼくはドラマーになるのが目標だった。(当時で言えばエックス、グレイ、ラルクの時代。売れたバンドマンというのはそこそこ収入のある花形職業だった。)したがって、そもそも学校で道徳の時間に教えてくれた先生たちの教えに忠実に従えば、「きちんと目標に向かって日々努力する」ことが究極的にはこうなるということだと理解してほしい。


しかし、このストイシズムが最終的には悲劇的な結末へたどり着く。ぼくは「どんな曲でもドラムが合わせられる、よく言えば優等生的な、しかし音楽家としては致命的にツマラない、他の上手なドラマーとすぐにでも交換可能な人間」だったのだ。


「まじめ」で「従順ストイック」で「交換可能」な人間は、どちらかというと社会において立派にはならないし、成功もしない。


ぼくの半生はこの事実を身をもって証明するものだったと断言してよい。

スポーツ選手、たとえばプロ野球選手は「結果を出すこと」を求められる。それは、「試合に勝つこと=勝利という結果」と、「最大級のパフォーマンスをあげること」が密接に関連しているため正しく成立する。


音楽においても「結果を出す」ことをシビアに求める人たちが多く存在する。しかし、音楽はそもそも結果を出さなければいけないものなのか?ぼくはそれこそ怪しいと思っている。


彼らの言い分では、結果=売れること、つまりビジネスとして成功することである。ところが、音楽においてはプロ野球のように、超人的な技能で演奏する力をもって最大のパフォーマンスを発揮することが、ビジネスとしての成功とほとんど関係しない。
これは「ピアノが上手いから売れる」「いい曲だから売れる」「歌がうまいから売れる」といった具体例を挙げるとたやすく理解できる。すべてうまくいくわけがない。世の中そんな甘くはない…と語られる話だ。

 

ビジネスとして成功する音楽のほとんどは、たいしてパフォーマンスの高くない<作品、成果物、技能>に対して「フィクショナル」な欲望をかきたてるよう仕向け、その虚構に対してウェブやメディアといった短期的な集客力をもつツールを効果的に動員することで成り立っている。
これはAKBなどのアイドルの楽曲がバカ売れしている現状を見れば明らかだろう。歌も曲もダンスもすべてにおいてクオリティが低いあの音楽たちは、ほかのイマジナルな装置によって価値づけされた「フィクション」だから売れるのだ。

数年前からじつに疑問に思っていたのだが、芸術性の高い楽曲や、レベルの高い音楽的演奏に、そういったフィクショナルな欲望をかきたてる「装置」は果たして本当に必要なのだろうか?


ぼくは不要だと思っている。

 

なかには「売れていること­­=社会的に必要とされていること、すなわち人の役に立っていることだから素晴らしいこと」だと反論する人がいるが、それは資本主義経済的なものの考え方に依拠しすぎである。


そもそも、人の役に立たなくてまったく売れなくても、音楽的に価値のある作品や技術、演奏というのはそれは山ほどあるわけで、そういったいわば「芸術的価値」を正当に評価する手続きは絶対に必要である。


しかしながら、実際いままでは人の役とか売れたら正義だとかとにかく聞こえの良い詭弁を並べ、一方で芸術的価値を評価する方法を完全に怠り、それを「売れる売れない」といった市場の原理に任せ過ぎてきた。これは音楽を提供する側、そして音楽を評価する側がともに歩んだ共犯関係…つまり社会の失敗である。

 

これから一人でも多くのひとがこのことに気づき、願わくばぼくのまわりの才能ある若い人たちが正当に評価されますように…と祈るばかりだ。