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ほぼうさのブログ

ロジカルオシレーターほぼうさのブログです。

超人的な、いや、事実魔人としての超絶技巧を誇ったアートテイタムがそのキャリアも中盤にさしかかり、ピアノだけで弾きまくるのもトレンドじゃなくなったな…ということで出した3ピースのアルバム「1944」。
まず、我々日本人にとってはこのアルバムタイトルが衝撃的である。え、ちょっと待って。冷静に考えてみると1944年って、まだ太平洋戦争が終わってなくて、我が国日本は絶賛疎開などをして米軍の空襲を耐えてた時期じゃないか…?そんな歴史時代に、もうこれほどの技術と芸術性に到達していたのか。あり得ない。そう思い、非常にはっとさせられた一枚だった。

そもそもアートテイタムがピアノソロで絶頂だったのが1930年代らしい。だから、この時期から「落ち着き」モードに入るそうなのだが、実際にそのプレイを聴いてみると落ち着きとは無縁と思える技巧。神がかっている。
冗談抜きに、もしかして人間は、人間全般はこの時期から比べると、相対的にピアノが下手になったのではないだろうか?そして間違いなく、日本人は長らく「クラシック畑」にうつつをぬかしすぎたため、いまだにこの境地を覗くことすらできていない。

日本のピアノ教育はとても遅れていると思う。いや、一面では、ヤマハなどの企業努力によってクラシックピアノの練習が体系化され、一部の裕福な家庭に生まれ育った天才が海外で賞をとっている素晴らしい「先進国」なのだが、ジャズピアノはどうだろう?
ジャズピアノはいまだに教育が体系化されず、教本もてんでバラバラか、単語が難解で本としてとても読めそうにないものばかりだ。そんな国内の貧しい教育状況を反映してか、どうしてもジャズを習いたい若者は、みな高校を卒業してお金を貯め、ニューヨークやボストンに留学している。
ちなみに、そういった帰国系ピアニストがいるおかげで、東京でジャズピアノを個人レッスンで習うことはそこそこ容易い。しかし地方の過疎地や、宇都宮などの陰鬱な都市では依然として教育をうけるハードルが極めて高いと言わざるを得ない。ジャズが弾ける人材がそもそもいないのだ。いや、やはり東京はすごい。とにかく文化の中心地であり、人が集まってくるのもわかる。

ジャズピアノができないと、必然的に音楽の上で後進国になる。それは、クラシックとジャズでは楽曲のとらえ方、演奏の仕方、コンセプトが180度違うからである。真逆なのだ。
…という話をしようとしたが、考えてみると最初これはcdのレビューを書こうとしたのだった。いかんいかん。
なにかの機会に高校時代は「エンジェルズ・クライ」というオリジナルのメタルバンドをやっていたということを書いた気がするが、はじめてコピーバンドを組んでスタジオで音を出したのはもっともっと前のことであり、中学の卒業間近まで遡る。

バンドのリーダーをやっている今では想像もつかないことだが、当時はまったくバンドをやる気がなくて、誘われてやった。初めてやったのはグレイの「春を愛する人」という曲だった。8ビートを延々とたたいていると何をやってるかさっぱりわからなくなって、曲が終わっても叩き続ける始末だった。グレイが好きだったのはギタリストの友人で、いま思えばあれはベースが不在だった気がする。ボーカルは高い声が出なくて1オクターブ下でグレイを歌ったが、ギタリストの彼はとにかくグレイが弾ければ大満足だったらしくて、一大事にもかかわらずそういう些細なことは気にしてないよという様子だった。「BELOVED」という曲もやったが、ABメロは元キーで、サビになったら案の定オクターブ下げて歌っていた。あれはいったい何だったんだろう。

ちょうどこのころにグレイは青色のベストアルバム「REVIEW」を発売することになるのだが、上記のような理由から、自分にとってはその前に出たオリジナルアルバム「BELOVED」こそが最良のアルバムであり、青春の一枚である。

結局、その後はバンマスであったギタリストが音楽からバイクにハマるというお決まりの田舎ヤンキーコースに流れ、バンドは解散した。別にさみしくも何ともなかった。

しばらくはまじめに過ごしていたが、中学時代の親友3人組とやっぱりまたバンドをすることになった。3人は中学までひたすら釣りをしていたが、そのうち一人が高校で、クラスメイトたちがバンドを組んでイキってる姿を見たらたまらなくうらやましくなった、という感じだったらしい。3人はベース、ボーカル、ドラムになった。初めて入ったギタリストはグレイの「Soul Love」のイントロのあのアルペジオをBメロになってもサビになっても永遠に弾き続けたのでクビになった。次のギタリストは一台1万もするBOSSのオーバードライブを足で踏むなんてとんでもない!と思ったそうで、げんこつでスイッチを入れていたからサビの頭で無音になった。

ルナシーのコピーなんかを主にやっていたが、さすがに自分もこのころになるとドラムが少しうまくなって、こんなレベルの低いこといつまでもやってられんよ…となっていた。こうして通っていた高校の軽音楽部の扉をたたき、ヘヴィメタルへの道を歩むのである…が、紙面の都合もあるので、このくらいにしておこう。

最近、誕生日でipodをもらったので、「シャッフルでランダム再生にして放置」ということを習慣としてやるようになった。そうすると、普通に使ってたら気づくことのなかった発見に出会えて面白いことが起こる。

 

最近はこんなおもしろいことがあった。
「あ、このイントロ…」
「えっと、あれだ。ガンズだ」
「ガンズアンドローゼスだ」
「賛否あるバンドだけど、なんだかんだいいよな…。人気の理由もわかるわ」
「あれ、スラッシュのギターってこんなにテクかったっけ?」
「…?」
「そういえば録音もすごくきれいだ」
「あ」
「これ、レーサーXじゃん…」

 

そう、つまり自分はこの年齢になるまで、レーサーXがガンズのモロパク…ゴホン いや、影響を強く受けているとは気づかなかったのだ。我々キッズはつい、キングオブモンスターズとかスキャリファイドとかテクニカルディフィカルティーズのようなポールギルバート万歳曲にばかり目を奪われがちだったし、なによりあの神であるポールがそんなあからさまなパク…ゴホン いや、先人の叡智を拝借するようなことはあり得ないと思っていたのだ。しかし実際には、歌メロ曲においてその影響力たるや、今聞くと鮮明にわかる。どれくらい鮮明かというと、目隠しをして聞いていたら本当に1:30くらいまでガンズかレーサーXかわからず、間違えてしまうくらいなのだ。

 

本来、自分がipodを操作して、能動的に「よし、レーサーXを聴こう!」というモードになることはありえない。Rに到達する前に["P"rince]という甘い誘惑があるし、["Q"ueen]もいい。きっとRの中に入ったら結局["R"ed Garland Trio]か["R"ichie Kotzen]を選択するだろう。じゃあなぜそんなものを入れているのかという疑問が生じるのだが…。

そこはさておき、日常の中で自分が「これだ!」と思ってチョイスするものはだいたい必然に支配されていて、新しい面白味や自分を変えてくれるような体験を与えてくれることなど実はほとんどない。だから時には偶然に身を任せるチョイスをすることが、人生の中で新しい発見と気づきを与えてくれるのかもしれない。そういうことをipodさんは教えてくれたのだ。

自分にとってプリンスといったらそれはもう、『ザ・ゴールドエクスペリエンス』である。それ以外にも、もちろん好きなアルバムはたくさんある。けれども、世間的にこのアルバムが「90年代の終わったプリンス、その微妙作の代表選手」と評価されていることは本当に納得できない。

 

そもそもゴールドエクスペリエンスにはK-1のテーマソングが入っている。そして、これは一番大事なことだが、ジョルノジョバーナのスタンドなのである。だからミュージシャン同士でプリンスの話題になったときも、このアルバムを引き合いに出せばみんな絶対にわかってくれる。ほらほら!パープルレインとかリトルレッドコルベットとかコントロバーシーとかウェンダブズクライとか!って言っても残念なことに今の若いミュージシャンは誰もわかってくれない。微妙な空気がそこはかとなく流れる。でもジョジョのスタンドになったやつって言えば「ああ、アレね」って通じるのだから、これはもっと評価し直したほうがいい。

 

一般に、自分よりも年寄り世代が中心となってプリンスを評価するとき、どうしても『パープルレイン』の大ヒットにはじまる「あの頃はよかったプリンス」が基準になってしまうため、生演奏主体のハードでポップなロックアルバムはすこぶる悪評になる。やはり1980年代におけるプリンスの衝撃は相当なものだっただろうと想像されるし、あぶない刑事などの古いドラマを見るとBGMが露骨にプリンスの影響を受けてたりする。まさに時代の先端をいく革新的なサウンドだったのだ。だから彼らは「シンセを使ったエレクトロなファンクポップ、または最先端のかほり」がそこにないと、プリンスのアルバムを評価しない傾向にある。

 

しかし、パープルレインはこのおっさんになりかけた自分が2歳のときのアルバムだ。だから当然、黄金期の熱狂などつゆほども知らない。ゴールドエクスペリエンスは中1のときにリリースされている。このときに自分ははじめてプリンスを聞き、衝撃を受けた。
ちなみに、こういう理由から自分と同世代または下の世代から「リアルタイムでプリンスに衝撃を受けた、追いかけた」という人口は極端に少なくなる。いまの若いミュージシャンの世代とはそういう世代なのである。言い換えれば「プリンスの絶頂期を知らない世代」たちが冷静な目で眺めると、黄金期作品たちよりもむしろゴールドエクスペリエンスのほうが聴きやすく、レコーディング環境や技術の大幅な進歩によってサウンドが洗練されていることに気づくはずだし、楽曲のレベルの高さにも驚くはずだ。

 

ところで、プリンスには第2黄金期が到来したといわれており、それが2004年発売『ミュージコロジー』のこと。このアルバムは「90年代からずっと迷走を続けたプリンスが自身の原点であるブラックミュージックに回帰することでクオリティの高いアルバムになり人気も出て云々…」と一般に評価されているが、実はその前の『レインボウチルドレン』の時点で相当ファンクに回帰している。しかもレインボウチルドレンはすごくいいアルバムだったので、正直ミュージコロジーよりもピンときた。ゆえにこの評価はあまり当たってるとは思っていない。むしろ2006年発売の『3121』。どこか安っぽいシンセをふんだんに使ったエレクトリックなブラックミュージック、ポップス…これこそまさに第2黄金期を最も代表するアルバムと言っていいのではないだろうか?
そのあとに出た『プラネットアース』もとてもいいアルバムである。ギターが主体の生演奏ファンクで超ポップなアルバム。これを最後に、また第2黄金期は落ち着いていく。

 

そう、あれからもう10年も経ってしまったのだ。プリンス第2黄金期から10年。時間が過ぎるのは早いものだ。。。

ところで、「君の名は。」を見た人たちが、「セカイ系は終わった。主人公がイケメンリア充化してしまったからだ」などと言っていたのをチラチラ見ていたが、これは正しくないと思っていた。

なぜなら「リア充」とは本質的にはクラスや学校で主役級の存在になることであって、「まわりとそつなくやれる過不足ないコミュニケーション能力」といういびつな能力とは微妙にニュアンスが異なる。

また、イケメン化は実際にはセカイ系がはじまった頃から徐々に物語たちに浸潤していたから、それはさほど珍しいことではなかったように思う。


つまり、今回「君の名は。」にておおきくアップデートされたのは、まさにこのタキくんの人工知能的「非人間性」―人間としての味もにおいもしない、透明な存在が主役となった点であるとぼくは解釈している。


さて、前回冒頭に例として出した「逃げ恥」も基本的に、ドラマのスタイルが恋愛モノであるので、主役の二人がメイン、セカイの中心に描かれることになる。今回は、その男性キャラの描写に「セカイ系」の想像力の結晶…つまり人工知能設定が紛れ込んでしまったわけだ。

いやいや、ただの草食系イケメン男子と美女のラブコメだよ、と言われるかもしれないが、それは外見やレッテル貼りにすぎなくて、ではどうしてここに田嶋陽子氏が違和感を抱いた末、「人工知能」とかいうわけのわからないことを言い出したのだろうか?という疑問が残る。

あの描写はフィクションゆえ現実に存在する草食系たちとはその不気味さにおいてずいぶん乖離しており、説明として不十分である。やはり本質的には「透明で非人間的、人工知能なぼく」が違和感の正体である可能性が高いのだ。


モダンなストーリーに慣れ親しんだオジサンオバサン世代から見ると、この主人公の男性像は非常に奇妙に映ることだろう。ぼくも違和感がある。しかしこれはポストモダンな恋愛ストーリーの一般的なフォーマットになりつつあることを注意せねばならない。若い世代はこれこそすばらしい作品だと感激して、大きな社会現象の波になっているのが現状だ。


恋愛のストーリーに「人間くささ」を求める視聴者層は、過ぎ去ったモダンの夢をそこに見ている。それはアニメもドラマも、そして実は音楽も変わらない。我々は音楽に感情やストーリーや歴史、芸術性といった人間性を求めるが、若い世代は手軽に消費できる現実的な快楽こそ正しいと主張する。旧世代と新世代の対立。ポストモダンの台頭はつねにモダンの亡霊を生むのだろう。

逃げ恥を見た田嶋陽子氏「なんでこんな人工知能みたいな男の人にほれるのか」

 

単なる左翼フェミニスト、いきすぎた男性差別主義のノイジーマイノリティだと思っていたのだが、実に見事で的確なコメントに感心してしまった。

 

ポストモダンにおいて恋愛ものを語るとき、「セカイ系」という単語を避けて通ることはできない。セカイ系とは、物語すべてが「きみ」と「ぼく」が出会うため、恋愛が成就するために設計されているものを指す。ある日突然世界の終りがやってきたり、親しい人が不治の病になったり、死にかけたり、大けがをしたり、異世界へとばされたり…こういうイベントがすべて主人公の恋愛模様を盛り上げ、組み立てる装置として機能している作品をセカイ系と呼ぶ。詳細には違うが、おおまかにはこの理解で構わない。


古典的には、このようなストーリーの主人公になる男性キャラは碇シンジくんのような、ウジウジした弱いオタクであった。そこには内向的で自閉的ではあったものの、人間の持つ弱さが独特の「人間味」を与え、主人公が「生きているキャラクター」であることを実感させてきた。


ところが、しばらくすると主人公がイケメン化しはじめる。すべてのことを冷めた目で見つめ、友人や先生、ヒロインにあれこれ言われて巻き込まれつつも仕方なく物事をこなすキャラクターがセカイ系を席巻しはじめる。俗にいう「やれやれ系主人公」で、ハルヒのキョンなどがこれにあたる。「やれやれ」はどうやら世の男性の夢、理想の姿であるらしい。世の中の男は皆、ともすれば、隙あらばやれやれしたいのだ。男の夢、欲望や願望を投影した「やれやれ系」にはそういった意味で人間味が感じられた。


そしてついに、今年公開された「君の名は。」である。ここへきてセカイ系主人公は新たな局面へと進んだ。イケメンがやれやれしなくなったのだ。ここには二つの理由がある。


ひとつめは、「やれやれ」するためにはある程度非凡で優れたスキルを持たなければいけないという点。完璧に仕事をこなす男が「ふっ、やれやれ」と言うからカッコいいのだが、それと「ぼくはどこにでもいる平凡なごくふつうの男子高校生!」というおきまりの設定との折り合いをつけるのは少々ストーリーにヒネりが必要なのである。


ふたつめは、「やれやれ」が女子ウケしないことである。当たり前だ。男性のナルシスティックな願望の投影がウケるはずがないのだから。


以上の理由から、男子女子両サイドからのわがままな要望を聞きいれた男性キャラが誕生した。「ぼくはクールでありながら社交的、すべてをある程度にソツなくこなす、ごく普通の男子高校生」、つまり「人工知能みたいな男」の誕生である。「君の名は。」のタキくんは、もうすでにイケメンでもリア充ですらもない。顧客のわがままを受け入れる人工知能なのだ。

人間は他の動物と生物学的に比較すると、脳が大きいことが特徴である。チンパンジーなどが体重の1%の重さの脳に対し、人間は2%ほどだという。

 

こうやって書くと高々2%だと?1も2も大差ないだろ、と思われるかもしれないが、この2%が全エネルギー代謝の約20%を消費するらしいので、脳というのはとんでもない器官なのだ。だから、我々は食べ物によって得た栄養の大部分を脳のために確保しなくてはならず、そのせいで他の動物とは生活のスタイルを大きく変えなくてはならなくなっている。

 

数年前、子猫が釣堀でとれた小魚を丸のみする映像を見たことがある。猫の消化器系というのは本当に優れていて、生まれて1歳にも満たない子猫が、何も手を加えていない、自分の手と同じサイズの魚をたいして咀嚼せずとも消化して栄養に変えることができるのである。おそろしい。我々人間が同じことをしたら胃が負荷に耐え切れず5分かそこらでローゲーである。

 

実は、我々人間は一般的な哺乳動物よりも腸の長さが短い。それはなぜかというと、腸もかなりエネルギーのマージンを奪う器官なので、ここで欲張ると脳に栄養がいかなくなってしまうからだ。
人間に比べると猫はよく寝る生き物だと言われる。猫はこの寝てる時間の大半を、実際は丸のみした食べ物の消化に充てている。こうして考えてみると、動物たちの消化器系―脳のエネルギー関係には絶妙なバランスが備わっており、それによってその動物の暮らし方、生態が規定されるようである。

 

ところで、脳が大きく消化器にエネルギーを割けない人間たちの編み出した生活スタイルが「料理」と呼ばれるものである。これによって消化の効率を飛躍的に高め、腸がたいして頑張らなくても脳に充分な栄養がいきわたるようになっている。まさに人類の叡智というものがここにある。

なんというか、インターネットが発達した社会における音楽のありかたって、もっと革新的で自由で、より高度なものになると思っていた。昔は本当に、ネットが音楽を変えてくれると思っていた。

 

それでも日本は圧倒的にメジャーレーベル、テレビの影響力がとにかく強くて、ネットが音楽のスタイルを変えるということはほとんど起こっていない。相変わらず事務所の力の強いジャニーズAKBアイドル楽曲が売れ、三代目JSBなるグループがレコード大賞を買収している始末である。一方、聴き手のインターフェースは確実に変化している。itunesはテレビや事務所が流行らせた音楽を安価にばらまくことに成功し、リスナーの聴き方が変わった。youtubeはメジャーのアーティストの音をタダできける「アーカイブ」として機能している。しかし、音楽を作る側は相変わらずジリ貧の中にあり、ネットがメジャーレーベルやテレビに代わる新しいコミュニケーションツールとして活躍する日がくる…という理想はもはや幻想、妄想であるというほかない。

 

一部では、ボカロが新しいムーヴメントとして登場した、という反論も聴こえてきそうだが、これは客観的に見ると「カウンターカルチャー」でしかない。つまり、テレビが垂れ流す音楽に飽き飽きした人々がボーカロイドに歌わせ、既存メディアのつまらなさに茶々を入れているに過ぎないのだ。どうしてそう言えるのかというと、彼らは魂のない歌い手「ボーカロイド」が歌う楽曲には異常な興味を示すものの、実体をもつ肉声が歌う楽曲には驚くほど無関心だからだ。たとえ楽曲のクオリティやメッセージ性、新規性が優れていたとしても、人が普通に声を入れている動画には全く反応しないのである。また、楽曲やアレンジがものすごいスピードでテンプレート化しつつあり、ボカロという単語が「人間以外のものが歌うデジタル音楽」という意味から、ひとつの音楽ジャンル、スタイルを表すようになってしまった。それは、すでに新しさを失ってしまったと言い換えられる。

 

結局のところ、既存メディアが強大である日本では、テレビがゴリ押しする音楽たちが通り過ぎていくのを日々眺めていくしかないわけだが、それは我々が歩みを止めてよいということではない。我々は、いかにインターネットが貧弱で自分たちの音楽を届けるすべがなく、既存のメジャーやテレビが最強であっても、それとは無関係に楽曲を作り発信しつづける努力を続けていかなければならない。
あくまでも、これは昔「ネットが音楽を変えてくれるに違いない」と思った自分が浅はかだった、夢見がちだった、というなさけない話である。

人間というのは、ああ寒いと思うだけでは冬に順応しないらしい。陽の長さがずいぶんと長くなってきたなあなどということを視覚によって認識することによって、体内時計が季節を感じるらしい。つまり、光の照射を受ける時間の差が、体内の季節を作り出すようにできているというのだ。だから、完全に盲目の人は体内時計によって季節に順応することができない。本当かそれ?と思うのだが、ネズミを使った実験を行うと完全にそうなるらしいので、どうやら我々哺乳類は目が見えないと、体でどれだけ冬を感じても脳が「うむ、こりゃ冬かもしれないが、単に風呂上りに服を着忘れ続けただけだ」と、冬を認識してくれないということになる。


深夜勤務が続いたり海外出張が多くて体内時計が乱れると大変…うつになっちゃう…という事実もあるのだが、実は体内時計が効きすぎるのも問題という話もある。なぜなら人間には「うつになりやすい季節」というのがあって、例えば5月病とか呼ばれているものも突き詰めればそうだし、春がやばいと古典的に言われている。また、冬になると自殺率があがる「冬季うつ病」なんていうのも指摘されている。きちんと刻まれた体内時計が、季節が人間を蝕むのだ。


じゃあどうすりゃええんや…ということだが、話を統合するに、通常は体内時計をキープしつつ、冬から春にかけては体内時計、つまり「季節を感じるシグナル」を弱めてやればよいだろう。それを具体的にどうするかということは、ん?おっと、誰かきたようd。。
(日記はここで終わっている)

ママレードボーイは、複数のイケメン男子キャラが言い寄ってくるような、今で言えば「逆ハーレム乙女ゲー」のようなものとは違っている。むしろ、構造としては「らんま1/2」などに代表される高橋留美子作品ととてもよく似ている。


ハーレムものというのは起源をギャルゲーに持っている。ギャルゲーつまり美少女ゲーム内ではどの女性キャラともゴールインできる可能性が平等に示唆されており、女性は複数存在する分岐の一部として描かれる。ようするに、ある分岐で一緒になった女性とエンディングを迎えたあと、時間をリセットしてまた別の分岐で違う女性と交際する…このようにしてゲームをクリアしていくのがギャルゲーのスタイルである。


これはゲームだから成立するのであり、このスタイルを原作にしてひとつのストーリーを構成しようとすると、もちろん作品は崩壊する。なぜなら「特定の誰か」を交際相手として選ぶことができないからだ。しかし、現実にはギャルゲーで育った視聴者を喜ばせるアニメというのが90年代中盤から増えはじめた。それをハーレムアニメと呼ぶ。


ハーレムアニメのメインターゲットはギャルゲープレイヤーたちである。ゆえに、ハーレムアニメとは、「特定の誰か」と仲良くなることはあり得ず、「もしかしたらこいつと付き合う可能性があるかもしれない」という淡い期待をつねに匂わせる複数の女性とのやりとりによって描かれる。もし最終的に特定の誰かを選択したとしても、それは「フラグ」「分岐ルート」「エンディング」など、ひとつの結末のかたちとして視聴者は認識するのである。


ママレードボーイにはさまざまなイケメン男子キャラが登場し、主人公「ミキ」に言い寄ってきたり、積極的なアプローチをかけたりしてくる。一見するとこれは逆ハーレムなのだが、よくストーリーを見てみるとハーレム構成でないことはすぐにわかる。主人公「ミキ」がすべてにおいて完璧な王子様「ユウ」と結ばれることは既に確定しているのである。これは分岐のひとつではない。第一話でいきなりキッスをするところから…いや、もしかするとオープニングで「だっけっど気にーなるー」と言ってるときからそれは決定しているのだ。そしてたとえば「ギンタ」など他の男子とのチュッチュイベントはすべて、その「ユウ」との関係をより一層強固にしていくための装置として機能するようにできている。


これをハーレムアニメと比較すると、おもしろい。


基本的にハーレムアニメは最終話になるまで、誰と最も親密になるかは全く予想ができない。ヒロイン候補は週替わりに登場し、主人公と親密になる通過儀礼「ラッキースケベ」イベントによって、一時的にヒロインとしての資格を得る。ところがラッキースケベは基本的に上書き保存、書き換えが可能なイベントであるので、ヒロイン候補は主人公にとって「かけがえのない嫁候補」になることができない。したがって、つねに複数のヒロイン候補が主人公のまわりを取り囲みながら、エッチなイベントを何週もかけて消費していくのである。


しかしママレードボーイにおいては第一話のキッスこそが「上書き不可な決定的イベント」であり、つねに「ユウ」こそ唯一の交際相手として明確に描かれる。この点を比較すると実は、ハーレムアニメは「ふたりがさまざまな人間関係と紆余曲折を経て、たまたまひとつの可能性…エンディングで一緒になりました」という、現実の社会における男女関係を最も的確に描き表していると言えなくもない。逆に言えば、ママレードボーイはハーレムアニメのように「紆余曲折を経て結ばれた」ということは一切なくて、「はじめに既成事実ありきで、恋がスタートしました」というとんでもないストーリーなのだ。


それでも、この構成はきわめて古典的であると言い切れる。それが冒頭にも書いたとおり、「らんま1/2」だって「うる星やつら」だって、そうなのだ。第一話の時点で最終的に結ばれる相手が既成事実つきで確定しており、その縛られたルール、制約のなかでふたりの仲をかきまわす事件がたびたび発生する。同じなのだ。


しかも、ママレードボーイのミキは、諸星あたるに匹敵するほど「何もないただのバカ」だ。容姿もとくに美人とも描かれないし、性格も「明るくてバカ。ただしまじめで正義感が強く一途、時々浮気心」という、セーラームーンの月野うさぎとまったく同じキャラ設定である。ただし、当時としてはお手本通りの主人公キャラ設定なのだとしても、月野うさぎはセーラー服美少女戦士としての運命的な神通力で世界を救えるのに対し、ミキは残念ながら何も取り柄がないということは付け加えておかねばならないだろう。