ママレードボーイは、複数のイケメン男子キャラが言い寄ってくるような、今で言えば「逆ハーレム乙女ゲー」のようなものとは違っている。むしろ、構造としては「らんま1/2」などに代表される高橋留美子作品ととてもよく似ている。
ハーレムものというのは起源をギャルゲーに持っている。ギャルゲーつまり美少女ゲーム内ではどの女性キャラともゴールインできる可能性が平等に示唆されており、女性は複数存在する分岐の一部として描かれる。ようするに、ある分岐で一緒になった女性とエンディングを迎えたあと、時間をリセットしてまた別の分岐で違う女性と交際する…このようにしてゲームをクリアしていくのがギャルゲーのスタイルである。
これはゲームだから成立するのであり、このスタイルを原作にしてひとつのストーリーを構成しようとすると、もちろん作品は崩壊する。なぜなら「特定の誰か」を交際相手として選ぶことができないからだ。しかし、現実にはギャルゲーで育った視聴者を喜ばせるアニメというのが90年代中盤から増えはじめた。それをハーレムアニメと呼ぶ。
ハーレムアニメのメインターゲットはギャルゲープレイヤーたちである。ゆえに、ハーレムアニメとは、「特定の誰か」と仲良くなることはあり得ず、「もしかしたらこいつと付き合う可能性があるかもしれない」という淡い期待をつねに匂わせる複数の女性とのやりとりによって描かれる。もし最終的に特定の誰かを選択したとしても、それは「フラグ」「分岐ルート」「エンディング」など、ひとつの結末のかたちとして視聴者は認識するのである。
ママレードボーイにはさまざまなイケメン男子キャラが登場し、主人公「ミキ」に言い寄ってきたり、積極的なアプローチをかけたりしてくる。一見するとこれは逆ハーレムなのだが、よくストーリーを見てみるとハーレム構成でないことはすぐにわかる。主人公「ミキ」がすべてにおいて完璧な王子様「ユウ」と結ばれることは既に確定しているのである。これは分岐のひとつではない。第一話でいきなりキッスをするところから…いや、もしかするとオープニングで「だっけっど気にーなるー」と言ってるときからそれは決定しているのだ。そしてたとえば「ギンタ」など他の男子とのチュッチュイベントはすべて、その「ユウ」との関係をより一層強固にしていくための装置として機能するようにできている。
これをハーレムアニメと比較すると、おもしろい。
基本的にハーレムアニメは最終話になるまで、誰と最も親密になるかは全く予想ができない。ヒロイン候補は週替わりに登場し、主人公と親密になる通過儀礼「ラッキースケベ」イベントによって、一時的にヒロインとしての資格を得る。ところがラッキースケベは基本的に上書き保存、書き換えが可能なイベントであるので、ヒロイン候補は主人公にとって「かけがえのない嫁候補」になることができない。したがって、つねに複数のヒロイン候補が主人公のまわりを取り囲みながら、エッチなイベントを何週もかけて消費していくのである。
しかしママレードボーイにおいては第一話のキッスこそが「上書き不可な決定的イベント」であり、つねに「ユウ」こそ唯一の交際相手として明確に描かれる。この点を比較すると実は、ハーレムアニメは「ふたりがさまざまな人間関係と紆余曲折を経て、たまたまひとつの可能性…エンディングで一緒になりました」という、現実の社会における男女関係を最も的確に描き表していると言えなくもない。逆に言えば、ママレードボーイはハーレムアニメのように「紆余曲折を経て結ばれた」ということは一切なくて、「はじめに既成事実ありきで、恋がスタートしました」というとんでもないストーリーなのだ。
それでも、この構成はきわめて古典的であると言い切れる。それが冒頭にも書いたとおり、「らんま1/2」だって「うる星やつら」だって、そうなのだ。第一話の時点で最終的に結ばれる相手が既成事実つきで確定しており、その縛られたルール、制約のなかでふたりの仲をかきまわす事件がたびたび発生する。同じなのだ。
しかも、ママレードボーイのミキは、諸星あたるに匹敵するほど「何もないただのバカ」だ。容姿もとくに美人とも描かれないし、性格も「明るくてバカ。ただしまじめで正義感が強く一途、時々浮気心」という、セーラームーンの月野うさぎとまったく同じキャラ設定である。ただし、当時としてはお手本通りの主人公キャラ設定なのだとしても、月野うさぎはセーラー服美少女戦士としての運命的な神通力で世界を救えるのに対し、ミキは残念ながら何も取り柄がないということは付け加えておかねばならないだろう。