反省文1 | ほぼうさのブログ

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ぼくのこの文章は、ほとんどがリアルでぼくの姿、つまり人となりを知っている人しか読まないので、それを前提として書くが、ぼくはひどく「まじめな」人間である。


それは「明日の仕事に差し支えるから平日の夜は10:30くらいに寝ている」とか、「お酒を飲むとひどくおなかを下すことがあるから飲み会でもお酒を飲まない」といったことに代表されるような、倫理的道徳的かつ、社会一般的な常識観にきちっと乗っている人間であることを意味する。おそらく、ライブ後の飲み会や打ち上げなどで不幸にもぼくの隣に座ったことのある人は、ぼくがおどろくほどまじめでまっとうでつまらないことしか言わないことにびっくりしたのではないかと思う。


そして、そのまじめな性格はほぼ昔から変わっていない。

ぼくは昔、バレーボール部に所属して試合の時はベンチを温め続ける典型的な補欠部員だった。そして、年に数回ある中間テストや期末テストに向けて日々テスト勉強を積み重ねる生活。この暮らしに原点がある。すなわち、ストイックに単純な作業を繰り返し、模範的な「まじめくん」になる力だ。学校で教えてくれたこと、先生の言う通りに従順に行動する能力が非常に長けていたと言ってもいい。
その能力を起点として、ぼくは同じようにドラムの練習に超まじめに取り組んだ。一日数時間の基礎練習にも精を出し、興味のまったく湧かないバンドでもドラムが上手いと聞けばいろいろなCDを積極的に買ったり借りたりしていた。それだけならまだ良かったが、バンドをドラムを生活の第一に考え、ドラムに集中するためにプロミュージシャン、プロドラマーをめざしてバイト暮らしを始めた。


これを聞くと実に「ふまじめ」な生活に堕落したと思う人がほとんどだろうが、ぼくはとことんまじめだったのだ。ぼくはドラマーになるのが目標だった。(当時で言えばエックス、グレイ、ラルクの時代。売れたバンドマンというのはそこそこ収入のある花形職業だった。)したがって、そもそも学校で道徳の時間に教えてくれた先生たちの教えに忠実に従えば、「きちんと目標に向かって日々努力する」ことが究極的にはこうなるということだと理解してほしい。


しかし、このストイシズムが最終的には悲劇的な結末へたどり着く。ぼくは「どんな曲でもドラムが合わせられる、よく言えば優等生的な、しかし音楽家としては致命的にツマラない、他の上手なドラマーとすぐにでも交換可能な人間」だったのだ。


「まじめ」で「従順ストイック」で「交換可能」な人間は、どちらかというと社会において立派にはならないし、成功もしない。


ぼくの半生はこの事実を身をもって証明するものだったと断言してよい。