結果を求めることの無意味さについて | ほぼうさのブログ

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スポーツ選手、たとえばプロ野球選手は「結果を出すこと」を求められる。それは、「試合に勝つこと=勝利という結果」と、「最大級のパフォーマンスをあげること」が密接に関連しているため正しく成立する。


音楽においても「結果を出す」ことをシビアに求める人たちが多く存在する。しかし、音楽はそもそも結果を出さなければいけないものなのか?ぼくはそれこそ怪しいと思っている。


彼らの言い分では、結果=売れること、つまりビジネスとして成功することである。ところが、音楽においてはプロ野球のように、超人的な技能で演奏する力をもって最大のパフォーマンスを発揮することが、ビジネスとしての成功とほとんど関係しない。
これは「ピアノが上手いから売れる」「いい曲だから売れる」「歌がうまいから売れる」といった具体例を挙げるとたやすく理解できる。すべてうまくいくわけがない。世の中そんな甘くはない…と語られる話だ。

 

ビジネスとして成功する音楽のほとんどは、たいしてパフォーマンスの高くない<作品、成果物、技能>に対して「フィクショナル」な欲望をかきたてるよう仕向け、その虚構に対してウェブやメディアといった短期的な集客力をもつツールを効果的に動員することで成り立っている。
これはAKBなどのアイドルの楽曲がバカ売れしている現状を見れば明らかだろう。歌も曲もダンスもすべてにおいてクオリティが低いあの音楽たちは、ほかのイマジナルな装置によって価値づけされた「フィクション」だから売れるのだ。

数年前からじつに疑問に思っていたのだが、芸術性の高い楽曲や、レベルの高い音楽的演奏に、そういったフィクショナルな欲望をかきたてる「装置」は果たして本当に必要なのだろうか?


ぼくは不要だと思っている。

 

なかには「売れていること­­=社会的に必要とされていること、すなわち人の役に立っていることだから素晴らしいこと」だと反論する人がいるが、それは資本主義経済的なものの考え方に依拠しすぎである。


そもそも、人の役に立たなくてまったく売れなくても、音楽的に価値のある作品や技術、演奏というのはそれは山ほどあるわけで、そういったいわば「芸術的価値」を正当に評価する手続きは絶対に必要である。


しかしながら、実際いままでは人の役とか売れたら正義だとかとにかく聞こえの良い詭弁を並べ、一方で芸術的価値を評価する方法を完全に怠り、それを「売れる売れない」といった市場の原理に任せ過ぎてきた。これは音楽を提供する側、そして音楽を評価する側がともに歩んだ共犯関係…つまり社会の失敗である。

 

これから一人でも多くのひとがこのことに気づき、願わくばぼくのまわりの才能ある若い人たちが正当に評価されますように…と祈るばかりだ。