多様と呼んでいいものか | ほぼうさのブログ

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 よく「CDが売れなくなった時代」というキーワードから、いまは個人の音楽の趣味が多様化したと言われている。しかし現実に目を向けると、必ずしも「趣味の多様化」が適切なキーワードではないように思われる。


そもそもだが、個人の趣味が多様化したわりにはAKB的なものからONE OK的なものまで、均質化された工業商品がかなり売れているように見える。これはマスメディアや広告代理店が主導するCM戦略が、依然として大きな効果を持っていることの現れだ。


そして実際、個人のレベルにおいては、身近にいて地道に音楽活動をするアーティストを応援することなどしない。パクリを多く含むチープなアニメソングやボカロ的なもの、そして有名なアーティストを模した同人的作品が消費されている。


便宜上、彼らはこれを「音楽の趣味の多様化」と呼ぶことにしているようだが、ここではもはや、人々は頭や心を使って音楽を聴いていない。日々の食事を平らげるように、パクリじみた音楽を消費し、気持ちよくなったらやめる。そこにあるのは文化的精神的な「文学的感性」などではない。これは言ってみれば、動物としての「欲求―満足」の回路を充足するための材料なのだ。そして、頭や心を動かすことのない「欲求―満足」の回路には「共感」など存在しないということになる。

にもかかわらず、全体に視野を広げてみると、メディアにはAKBの総選挙やモモクロ的な映像が流れ、「全米が泣いたのかな?」と思うほどのおおげさな共感の煽動が行われている。「君の名は。」のあのラッドウィンプスの曲を、夕日が沈む中で聞きたい…!などと騒ぎ立てる。これはニュースやハリウッド映画と同じで、事実そういった世界規模、宇宙大のおおきな物語に人々は共感し、感動しているようである。

つまり一方では、自分の身近でまじめに音楽活動をしている他者には共感することができず、欲求を満たすための音楽をただ消費する。しかし他方では、全米が泣くような宇宙規模の大袈裟な物語に共感し、感動する。

どうやら我々は、そういう時代に生きているらしい。