なんのこっちゃホイ! -12ページ目

なんのこっちゃホイ!

世の中の、これでいいのか、こんなことでいいのかを描くブログ。そんなにしょっちゅう怒っていられないので、ほどほどに色々な話題も混ぜていきましょう。

猛暑の日だった。

新神戸から三ノ宮へ地下鉄を乗り継ぎ、地上で出た途端に、まだ昼前の街は、湿った熱波を叩きつけてきた。神戸は素敵な街だ。こじんまりとしており、大阪のような大雑把な空気はない。六甲山へ向かって坂を登る。北野坂という坂だ。この通りには、ジャズ・クラブだけではなく、様々なレストラン、ビストロ等が並ぶ、観光客なら必ず登る坂だ。汗を垂らしながらようやく到着した「カフェ・ド・パリ」。フランス料理のお店のランチタイムに彼女のライブが開かれる。

 

彼女は大学のESSクラブの後輩だ。彼女は僕のことを現役時代から知っていたらしいが、残念ながら僕は覚えていない。そんな彼女が岐阜でプロのジャズ・シンガーをやっていると聴いた。実際、ESSクラブ設立50周年の会に彼女がゲストで呼ばれ、数曲歌った。重厚な低音が魅力なんだろなぁと思われるしっかりとしたボーカルにひかれた。

彼女からメッセンジャーで、新しいアルバムをリリースしたと知らされた。それを聴いた瞬間に、これはすごいと思った。そのアルバムが「Rockin' Jazz in a room」ロックの代表曲、Saturday in the parkやSmoke on the Water等を、スイングのジャズに焼き直すだけではなく、その曲のロックな部分も活かされていて、このアルバムは編曲の勝利だと思った。

その録音メンバーで初の関西ツアーをやる。その初日が神戸だ。一も二もなくチケットを手に入れて、馳せ参じた。大学時代の仲間も5人集まってくれた。

そのアルバムの編曲をしたのが、この人。平手裕紀氏。ひょうひょうとした雰囲気の青年で、トランペットを吹きながらピアノを演奏するという芸も持っている。「モーツアルト平手」とニックネームをつけた。

折しも神戸はJazz100周年の年で、様々なライブが街中で予定されているらしい。港町神戸にはJAZZがよく似合う。

北極海の深くに潜水しているロシアの原子力潜水艦「セバストポリ」。この潜水艦には、ロシアが新たに開発した秘密兵器、AIにより推測航法(レッドデコニング)が搭載されている。このAIを起動させると、完全なる静寂とソナー不感を実現できるらしい。不思議な形のペンダントを2つ組み合わせると、それは「鍵」になる。突然、原潜のソナーに反応が。今までいなかったはずの、アメリカの潜水艦をキャッチした。しかもその潜水艦は魚雷発射管のドアを開き、攻撃体制を取っている。あわてるロシアの原潜は、魚雷発射管を開いて反撃姿勢をとる。アメリカの原潜が魚雷を発射。すかさず回避行動を取るロシア原潜。同時に反撃の魚雷を発射した。しかし回避が間に合わず魚雷は一直線に向かってくる。これまでか!誰もが目をつぶった瞬間、原潜も魚雷もソナーから消える。ただのゴーストだったのか。発射した魚雷を自爆させようとするが、なぜか作動せず、自ら発射した魚雷が向かってくる。そしてあえなく爆発、海の底へと沈んでいく。無数の乗組員の死体は、北極の氷の下に漂う。その二人の首には、例のペンダントが。このまま発見されるまで氷の下に漂うはずだった。

衝撃的なシーンから始まる今回の不可能ミッションは、この秘密の鍵を回収し、アメリカ政府に引き渡すこと。鍵の一つは、元MI6諜報員のイルサが持っていることは分かっている。彼女とイーサンは、浅からぬ関係があるようで(前作で登場)、世界中の諜報機関や悪の組織から命を狙われている。イーサンは彼女がいるアラビアの砂漠へ向かう。彼女の救出に成功したイーサンは、彼女が持つ鍵の一つを手に入れる。そしてイーサンはチームを集め、危険なミッションに挑む。

そんな時、謎のAI「エンティティー」が、アメリカの政府機関や銀行にハッキングし、潜入に成功するが、何もせずに出ていくという問題が発生している。まるで、「自分は自由に出入りができるぞ」と脅しているようなものだ。CIAは「エンティティー」から情報を守るため、自らの保有するデジタル情報を、数百人の職員を集めて、アナログのタイプライターで紙に打っているシーンには、腹を抱えて笑ってしまった。

悪者から鍵を取り返して、政府に渡すとなると登場するのがこの人。

おなじみの、悪のブローカー、ホワイトウィドーと呼ばれるアラナだ。この女優さん、名前をヴァネッサ・カービーと言います。冷静で、冷たい笑顔を浮かべ、マバタキをしない独特の雰囲気をもった人物を演じているのですが、前作から僕はファンになりました。彼女も虎視眈々と、鍵を狙っています。

 

新旧登場人部を交えて、いつものド派手なアクションの連続に手に汗を握ります。既に広報でよく見るトムの崖からのバイクジャンプのシーンは迫力があります。ローマ、ベニスとイタリアの名所旧跡を、カーチェイスで破壊しまくります。列車での戦いは、007シリーズ「ロシアより愛をこめて」やインディー・ジョーンズのシリーズでもよく使われるアクションですが、なるほど、こういうやり方もあるのね、と思わせる迫力です。

とにかく長い映画です。163分もあります。トイレは上映前に必ずすませましょう。CG満載なので、タイトルロールも果てしなく続きます。また二部作であるせいか、ストーリーの幅が広く、それだけに関係する人物も多く出演し、なかなか整理が難しい。2度鑑賞して、ここまで理解できました。

 

いずれにせよ、アクション映画好きなら絶対に満足頂けると思います。Part 2の公開が待ちきれません。

 

友人: あんな、昨日寝とったらな、なんか屁こきそうになってんやんか。

僕: あー、俺も屁はよく出るで。

友人: それがな、尋常やなく臭いんや!夜でも暑いやろ?せやからクーラーと扇風機つけてんね。

僕: 扇風機で、その臭い屁を部屋中に拡散したんかいや?

友人  そういうこっちゃ。それが部屋にとどまらず、家中に拡散するんや

僕  それは難儀やないか、どんな屁こいてん

友  だから音でんように気いつけて、そーっとしたんや。

僕  すかし屁は、よけ臭いやろが!

友  ちゃうねん。音出したら、実も出そうやってん。それで実が出んようにそーっとしてん。 

僕  臭かったんか?

友  臭かったかて聞くだけがもう、手遅れなくらい臭い。

僕  そら、便所行って、力強く屁をきばって、実、だしぃーや。

友  でたよ。出た。かなーりきばって頑張ったんやけど、出たよ。ニョロニョロやな。



僕  良かったやんか、問題なしや

友  ちゃう、なんで歳取ったらあんな屁が臭いねんやろ?屁だけちゃうで!実も臭いねんって!

僕  逆や。実が腹の中で臭いから屁も臭いねん。分かる?

友  そうか、お前がそういうならそうやろ。やっぱり俺は歳のせいで、腹が腐っとんやな。絶対そうやって。

僕  腐ってんのは腹だけやないて。あっちこっちがくさっとんねん。腹だけやのおーて。口も腐っとるから臭いやろ?汗腺も腐って、汗まで臭い。その上に屁も臭くて、実も臭い。やっぱり、世間の見とるとこでは、何も排泄作業はやったらあかんねんって。息も吐いたらあかん。息が臭いから。頼むからもう、喋らんといて。臭いから。

友  かなしいなぁー、歳とるいうことは。けどなぁ、死ぬまで友達でいてな

僕  ええで。わかったら。せめて棺桶では臭さないように、死んだらまず歯を磨けよ。それから、屁もこけよ、その時には多分、もう実はでぇーへんは。やから、心配はいらん。どうせ燃やされるまでの数分やて。誰にも話しかけずに、屁もこかずに、もちろん実も出さず、おとなしーい、焼いてもらおな。

友  けどお前、屁ーこかんと燃やされたら、爆発せえへんか?新橋のカフェみたいに。焼き場壊しても、もう弁償できひんで

僕  それでええねん。弁償なんか、後の奴らに任せて、俺らは盛大、屁を溜めて燃えたろうや!爆発上等!弁償もう無理、さいなら〜やって。


話は尽きない、関西弁のおっさんたち。これで3時間は飲める。

 

尊敬する藤本先輩のおすすめがあったので、図書館で借りて読んでみました。

学校の音楽室には、必ずと言っていいほど「楽聖」の肖像画が飾られていた。バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツアルト、ベートーベン、シューベルト、ハイドン。全部ドイツ人の音楽家達だ。17−18世紀のヨーロッパには、ドイツ人の音楽家しかいなかったかのようだ。しかも全て作曲家である。この時代も、現代ですらも、音楽は作曲家のみによって聞き継がれるものではなく、そこに演奏家と聴衆観客の存在があったはずなのである。演奏家の名前は、ほぼ出てこない。これはなぜか?という問いから始まる本書は、ドイツ人パウル・ベッカーによる「西洋音楽史」の影響を中心に、この時代の音楽とはどのようなものであったのかを語る。

モーツァルトは、映画「アマデウス」で知られるように、その名はウォルフガング・アマデウス・モーツァルトだと学校でも習う。しかし、彼は歴史上一度も、自分の作品等に「アマデウス」と署名したことはない。なぜか。

17−18世紀のドイツは、文化的にイタリアに大きく遅れをとっていた。当時の音楽の主流はオペラであった。モーツァルトは幼少の頃からピアノとバイオリンの演奏に天才的な能力を発揮し、その父、レオポルドは息子を欧州一番の音楽家とするべく、各地を旅していた。生まれ故郷のザルツブルグを拠点に、アルプスを超えてイタリアへの旅が圧倒的に多かった。この頃の音楽は、一部の皇帝や貴族の所有物であった。音楽家達は皇帝や貴族に雇われて曲を書いた。大きなホールは少なく、彼らの私邸で開催される音楽会(コンサート)が大半で、庶民が耳にすることは少なかった。映画でもそのように描かれている。しかし、イタリアのベネチアにはすでに音楽学校が設立されたり、教会音楽が一般的になり、大衆が音楽にふれる機会が多かった。さらに楽器の種類や性能も今のようなものではなく、15世紀末にバイオリンにより発明された弦楽器と初期の管楽器しかなかった。音楽は人間の喉で作られるもので、バイオリンは鳴りが大きく、人間の声の邪魔になるという理由で好まれなかった。つまり楽器はあくまで「伴奏用」であったのである。ドイツ語のもつ堅苦しさ、音の多さ、1語の長さなどから、オペラとするには不都合で、その勤勉な国民性から楽しい台本も多くはなかった。イタリア語はその点、音が跳躍し、ピッチも高く、音楽には好都合な言語であったし、陽気な国民性は、多くの楽し台本を生み出した。オペラはイタリア語で書かれ演奏されるのが主流であった。イタリア人の音楽家からすれば、ドイツ人の音楽家は田舎臭く、一段下に見下していた。ウィーンが音楽の都として注目を浴びたのは、時の皇帝が音楽を寵愛し、大金で音楽家を大量に雇っていたからだ。映画ではモーツァルトの宿敵として描かれるサリエリも、イタリア人であったが、ウィーンの皇帝劇場の最上位にいた。

ドイツ人の音楽家が、母国ドイツにいてすらイタリア人音楽家に仕える現状は、彼らにとって苦渋であっただろう。イタリアに発した「商業的音楽会」は大衆の中に浸透していく。ドイツでも同様に商業的なホールが作られ、多くの聴衆が集まったが、それらの聴衆はイタリアの陽気なオペラを良しとせず、現代風に言うと「ちゃらけた」オペラより、重厚な響きを楽しむソナタ形式の管弦楽を求めるようになる。こうしてドイツ人音楽家は、交響曲の作曲に取り組むことになる。これら交響曲は、欧州でも人気を呼ぶ。更に時代は進み、ピアノが主流で協奏曲が多く作られる中、バイオリンの音色を見直して、バイオリン協奏曲等を作り始める。ビバルディーの「四季」は現在では知らぬ人はいないと思うが、これも近年、イ・ムジチというバンドが取り上げたことで評判になったにすぎず、当時はやはり誰一人振り向く者はいなかったたえ、ビバルディーは貧困の内に死した。

ベッカーが書いた「西洋音楽史」は、ドイツを近代化させ、欧州列強に追いつけ追い越せの富国強兵の時代のドイツで書かれた。したがって、内容は「ドイツ人バンサイ」になっており、イタリアの音楽家、その他の国の音楽家や音楽は、ほぼ無視された。明治政府も、近代化を目指しており、その目標として手頃だったのが、ドイツであった。その近代化をモデルにして、日本はドイツの教育を導入し、学制を敷き、当然「西洋音楽史」を学ばせた。故に、日本の音楽教室はドイツの「楽聖」で占められているのである。

著者は「ドイツ音楽などダメだ」と主張するものではない。「ドイツ音楽だけが音楽だ」という思い込みを正したいのだろう。

このようにして、日本の音楽史には、封じられ忘れ去られたクラシックの名曲達が、数多あるのでありました。おしまい。

僕も音楽が好きでバンドを組んだりしていたが、どうもクラシックファンと言われる人たちとは、お付き合いがない。なんか上から目線な人たちが多い。クラシックは崇高なもので、ポップスやロック等と同じに語られるものではないと言わんばかりである。しかし本書を読んで、クラシックと呼ばれる音楽にも、流行りもすたりもあり、多くの人達に受けた曲のみが、現在に継がれている。美空ひばりだって、和田アキ子だって、一斉を風靡した歌手だ。吉田拓郎も小田和正も井上陽水も、誰一人欠けては、今のJ-POPは違った形になっていたのではないか。「歌は世に連れ、世は歌に連れ」とは、至極名言だ。

本書に登場する作曲家や曲名を見るたびに、Amzon Musicで聴いてみる。確かにいい曲ばかりだ。それら名曲の裏側の物語。一読の価値あります。

羽鳥:いやぁ、それにしても大谷翔平選手の二刀流はすごいですね!玉川さん、どうですか?

玉川:そりゃすごいですよね。

   宮本武蔵も二刀流で佐々木小次郎に勝ったわけですよね。

   短い刀と長い刀で。

   それを大谷選手は、刀一本でやったってことですよね。

   これは、すごいことですよ!

 

 

スタジオはし〜〜〜ん。

 

 

なんのこっちゃ?玉川さん。

 

 

第二次世界大戦の末期、ベルリンは瓦礫の山とかし、ヒットラーは行方不明になったが、ヒットラーのオカルト愛は続いていて、ナチスは各国の歴史的な遺物を「勝者のもの」として略奪を続けていた。

おなじみの冒頭部分、若き日のインディーは「ロンギヌスの槍」という、イエスを十字架にかけて、刺殺したとされる槍を探していた。ナチスに捕らえられたインディーだったが、得意の知恵で脱出し、槍をベルリンへ運ぶ列車を目指し、追いつ追われつの手に汗を握るシーンが続く。ようやく「ロンギヌスの槍」を奪おうとしたが、それは偽物であることが分かった。しかし偶然にも、その列車で「アンティキティラのダイヤル」を発見。半分しかなかったそれは、アルキメデスが製作した強大な威力を持つとされるもので、インディーが長年の探し求めていたものであった。

それから時が経ち、インディーは定年を迎えていた。

友人の娘ヘレナが現れて、「アンティキティラのダイヤル」を探し出そうとインディーを誘う。あの時手にした運命のダイヤル。しかしそれは半分しかなかった。残りの半分を探し出し、ナチスの残党がそれを使うことを阻止せねばならない。彼は再び冒険と危険の中に身を投じる。「アンティキティラのダイヤル」とは何なのか。どんな力(仕組み?)が備わっているものなのか。そして、未だに謎である、「アルキメデスの墓」はどこにあるのか。わずかなクルー(ヒント)を繋ぎ合わせて、謎解きを進める。ポップコーン度30以下の大活劇を見逃すな。

 

ポップコーン度とは、僕が勝手に言ってる指標で、イオンシネマのポップコーンMをどれくらいのスピードで食べ終えるかです。退屈な映画は、ポップコーンを食べるスピードが早く、おしまいまでもちません。面白い映画は映画に夢中で、しばしばポップコーンを食べる手が止まります。ポップコーン度30とは、映画終了時30%しかポップコーンを食べていませんという意味です。数値が小さいほど、映画が面白かったということになります。

 

 

さてハリソン・フォード。年齢は80歳。よく新作を決断したと思います。もう走ったり、暴れたりは昔のようにはできないですが、あの帽子とムチを持った姿は、全く時の流れを感じません。監督も代わりました。スピルバーグのようなカメラワークや演出とはちょっと違いますが、まぁ、それほど気になりません。冒頭の若き日のハリソン・フォードのCGは、流石にスピルバーグのプロデュースだと、こだわりを感じます。

 

イオンシネマ座間で鑑賞したのですが、一番大きなスクリーンのVIVE AUDIO劇場で、なぜか「吹替版」でした。

字幕版は、小さな劇場でやってます。これはイオンのチャレンジでしょうか。家内は吹替でも良かったようですが、吹替版はどうしても、高齢者と子供が多くなります。映画の最中に、しょっちゅう席を立っては、トイレや飲み物を買いに走ります。落ち着きません。僕はやっぱりハリソン・フォードの声が聞きたいので、別日に字幕版を観てきました。字幕の翻訳が、なかなか気が利いていて、素晴らしいなぁと関心したら、やっぱり戸田奈津子さんでした。この方の翻訳は、本当に洒落もウイットも効いていて、それでいて、原語を壊していません(意訳に頼ってない)。原語の面白さ、ジョークを本当に上手に翻訳されます。尊敬しています。

 

ぜひお早い内に、お近くの劇場で観てくださいね!おすすめですが、長いよぉ〜〜〜〜〜

この問題では、演習時の安全管理体制の問題、実弾装弾までの手続きの問題など、ニュースショーやワイドショーで散々騒がれたが、どれも核心ではない気がするのです。

この問題を考える時、最低限理解しなければいけないのは、自衛隊は政治家がなんと言おうと、武器を持ち、装備を持ち、有事の際には敵を殺す、そういう宿命を持ったものだということ。どんな美辞麗句で語ろうが、「戦闘、戦争」が前提にある集団だということ。

だから最大の問題は、「自衛官が自衛官を射った」ということ。これは戦闘・戦争集団は、「味方は自分を攻撃しない」という暗黙の了解の上に成立しているからだ。この了解を堂々と破壊し、味方を射殺した。この事実は、「ひょっとして他にもおかしな奴がいるかもしれない」という疑念を集団に抱かせる。味方の誰かが自分を射つかもしれないという不安と恐怖は想像できますか?
フィリピンの射撃場で拳銃を射ったことがある。お客は横並びに並んで、前の標的を射つ。一人、頭のおかしいのがいて、前ではなく横へ射ったら、それで横の人は死ぬわけね。僕は銃を射った衝撃より、その方が怖かったのを覚えている。

 

次に、彼が味方を射った時、なぜ周囲の味方は彼を射たなかったのか。なぜ3人が倒れるまで、誰も彼を倒さなかったのか。つまり、味方であっても味方を守ってくれる味方がいないということだ。今回は3人だったが、連射や掃射してたらもっと多くの隊員が射たれたかもしれない。なぜ射殺しなかったのか。できなかったのだとしたら、これは大きな問題だ。戦闘集団が戦闘できないということの証である。
むかし「ウォーゲーム」というアメリカの映画を観た。もしソ連が、アメリカに向けて大量の核ミサイルを発射した時、アメリカはそれより多くのミサイルを発射して反撃する。これが抑止力。ところが、演習でやってみたら、命令に反して発射ボタンを押せない兵隊がかなりいた。そこで、発射に人間の判断を入れずに、機械的に全弾発射できるシステムを構築するみたいな内容だった。これと同じ。味方を射ったらそれは敵だ。なぜ敵を射たない?まさか、その場に護衛として武器を持った隊員が、いなかったのではないだろうな?今でも実弾演習は続いているはずだが、まさか今でも武器を持った護衛がいないなんてことは、ないだろうな?

 

ここに書いた内容は、多くの人には、異状な内容に思えるかもしれない。しかし、日本のメディアでは映さないが、ウクライナでは多くの兵士が実際に射たれて死亡し、爆弾やミサイルの破片で切り裂かれて死んでいる。戦闘とはそうしたものだ。もちろん、そういう戦闘=戦争を起こさないことこそが、外交を担う政府の重要な職務だし、首相たる人物の責任だと信じている。「国民の生命と財産を守る」と次々出てくる首相は言うが、関西淡路大震災、東北大震災の時に、戦闘機はなんの役に立った?今度アメリカから買う「トマホーク」は、なんの役に立つ?戦車で原発を津波から守れたか?メルトダウンする前に、装甲車で瓦礫を撤去できたか?そう。これらの装備は国民を災害から守るためのものではないのです。相手を殺して戦闘に勝利するためのものなのです。それを操るのは、自衛官なのです。

 

 

はっきり言って、僕は宮崎あおいをみに行ったのだ。彼女は相変わらず、可憐で美しく、画面の中にいた。岡田准一との結婚生活も順調なんだろう。彼は今や、映画、ドラマで引っ張りだこの大活躍だ。子供もそろそろ手を離れ、いよいよ宮崎あおいの復活か!

江戸時代。越後・丹生山藩に、一人の塩干し鮭作りの名人がいた。その息子小四郎(神木隆之介)は、自慢の父の塩干し鮭を、神社の祭に境内で売り、優しく美しい母(宮崎あおい)と3人で、裕福ではないが、幸せな日々を過ごしていた。母が流行り病で死に、成人を迎える小四郎のもとに、お城から使いがやってくる。領主(佐藤浩一)に面談させられた小四郎は、実は小四郎は徳川家康の血をひく丹生山藩主の跡継ぎだと告げられる。藩主の長男は馬から落ちて死に、次男(松山ケンイチ)はうつけの鼻垂れ、3男(桜田通)は病弱で、妾の子ではありながら血を次ぐ者は小四郎しか居ない。今日から藩主となれと。
周囲の家臣達は、何か一物を隠し持った雰囲気を漂わせる。聞けば、藩には25万両(100億円)の借金があり、それを半年以内に返さねば、お取り潰しどころか、切腹させらるだろう。そこで考え出されたのが、「大名倒産」。倒産を幕府に宣言し、借金を幕府に背をわせてしまおうという策。しかし、それが成功したところで、藩は取り潰し、藩主は引責切腹を免れまい。そこで幼少時からの友人、さよ(杉咲花)と、藩内財政改革に乗り出し、なんとか自力で返済しようと動き始める。借金の元は大坂の金貸し、タツ(キムラ緑子)。帳簿を調べると、タツのあからさまな中抜きが見えてくる。証拠を揃えて、タツから金を取り戻せ!しかしどうやら、江戸幕府の中に、裏で糸を引くものが・・・・

お気楽なお笑い時代劇で肩はらず見ていられる。ポップコーン進捗度100の映画。冒頭に「この映画のラストシーンは、タイトルロールの後にある」と出る。親切である。なぜ日本人はタイトルロールになると一斉に席を立つのだろう。真っ暗で危ないのに。
それはともかく、こんな(失礼か?)映画に、すごい俳優が次から次に登場して、ひと笑いかっさらっていく。よくある時代設定、良くある勧善懲悪、良くある落ち。何がこれら豪華なキャストを惹きつけたのだろう。分からない。

噂のエンドロール後の本当のラスト。これは続編必至か?

「このミステリーがすごい!」第一位の傑作ボーン・コレクターの模倣犯か。毒の刺青で被害者を殺す殺人者がNYの地下で犯行を繰り返す。 現場では、科学捜査の天才リンカーン・ライムが解決したボーン・コレクター事件に関する書籍の切れ端が発見された。殺人者はあの連続殺人犯の手口とライムの捜査術に学び、犯行に及んでいるのか? ...

 

ジェフリー・ディーバーは久しぶりだ。

冒頭、リンカーンの宿敵ウォッチメーカーが、獄死したとの情報が報じられる。リンカーンが逮捕し投獄した男だ。リンカーンは、その葬儀の席に、若手警官を派遣する。
さて、今回の犯人は、そんなウォッチメーカーの著書にならい、リンカーン・ライムの思考、分析方法、行動を細かく研究し、予測し、現場にどんな微細な証拠も残さず、最新の注意を払って犯行を行う、ボディーペインター(刺青師)。

このシリーズは、全て「倒叙形式」になっているので、最初から犯人の目線で犯行が行われるところから始まる。犯行声明代わりに微細な証拠をわざと残してみたり、犯行声明をライムに送り付けたりして、犯人との頭脳合戦が始まるという内容。
倒叙形式は、読者も犯人を知ってはいるものの、その犯人の犯行への動機であったり、次の殺人の手口は何か等、犯人の目線を追う形で進行するのがドキドキする。またライムに限らず、コロンボ警部であったり、古畑任三郎のような探偵が、観察と理論を積み上げて、犯人を追い詰めていくスリルが、ページを進める指が止まらなくなる。

しかしディーバー作品はそれだけではない。ちりばめられた小さなヒントを見逃してはならない。今作も犯人を特定して事件は解決と思いきや、回収されていない伏線が再度提示され、え?え?という間に、最後の最後の1ページまで、真実は分からない。

ディーバーのリンカーンシリーズはマンネリだという素人評価をよく目にするが、それでもやっぱり、最後まで読み切り、大きくため息をついて、う〜〜〜んとうなるのは、避けようがない。
次作は「真夜中の密室」。すでに図書館に予約済みだが、読めるのは、まだまだ先のことになりそうだ。

 

 

アメリカ・ロサンゼルスに事務所を構える探偵フィリップ・マーロウ(リーアム・ニーソン)を訪ねてきたのは、見るからに裕福そうなブロンドの美女クレア(ダイアン・クルーガー)。「突然姿を消したかつての愛人を探してほしい」依頼を引き受けたマーロウだったが、映画業界で働いていたというその男はひき逃げ事故で殺されていた…!? 捜査を進めるにつれ謎が深まる“ハリウッドの闇”――探偵マーロウが辿り着く真実や如何に。

 

オーソドックスでオールドファッションな探偵映画。画面の感じが色褪せてて、なんか落ち着く。

ご存知レーモンド・チャンドラーが創出した探偵だが、彼が書いた「ロング・グッドバイ」の続編的にチャンドラーの死後に書かれた「黒い瞳のブロンド」という作品が原作で、チャンドラーの家族からも続編として認められているらしい。「君の瞳に乾杯」だの「タフでなければ生きていけない。だが、優しくなければ生きている資格がない」とか、キザなセリフはでてこない。マーロウはキザなやつだと思っていたので、リーアム・ニーソンは結構地味で、それはそれでOKである。

派手なカーチェイスもアクションも、VFXもない。イメージとして、美人の依頼を受けて美人の彼氏を探して街を探索したら、そいつはある高級なクラブの前の道でひき逃げされていた、頭を轢かれて。顔は見分けがつかないが、妹が遺体を確認し、死亡で処理されていた。しかし、美人に依頼の理由を詰め寄ると、彼女は彼を死後に見たと依頼人が明かす。街で、車に小道具(ガラクタ)を積んで走っているのをみたというのだ。妹に話を聞いたら、遺体は間違いなく本人だったという。しかしその妹も殺される。誰か彼の居所をさぐられたくない奴がいるようだ。クラブの支配人の話を聞きに行くと、こいつは薬中でドラッグの売人もやっていそう。探してる彼氏を支配人も探してるので、見つけたら依頼人の美人より前に自分に知らせろ。大金をやるという。映画のプロデューサーもまた、その男を探していた。そいつも、美人より先に知らせてくれたら礼を弾むという。いったいこの彼氏は、何者だ?調べていくと、どうやら彼を探しているやつらは、実はそれぞれ欲しい物が違うことがわかってきた。支配人は彼が持っているというなにかを。プロディーサーは彼のブリーフケースを。一体こいつは何者で、今、どこで何やってるんだ?

そして物語は、謎解きに向けて進んでいく。