尊敬する藤本先輩のおすすめがあったので、図書館で借りて読んでみました。
学校の音楽室には、必ずと言っていいほど「楽聖」の肖像画が飾られていた。バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツアルト、ベートーベン、シューベルト、ハイドン。全部ドイツ人の音楽家達だ。17−18世紀のヨーロッパには、ドイツ人の音楽家しかいなかったかのようだ。しかも全て作曲家である。この時代も、現代ですらも、音楽は作曲家のみによって聞き継がれるものではなく、そこに演奏家と聴衆観客の存在があったはずなのである。演奏家の名前は、ほぼ出てこない。これはなぜか?という問いから始まる本書は、ドイツ人パウル・ベッカーによる「西洋音楽史」の影響を中心に、この時代の音楽とはどのようなものであったのかを語る。
モーツァルトは、映画「アマデウス」で知られるように、その名はウォルフガング・アマデウス・モーツァルトだと学校でも習う。しかし、彼は歴史上一度も、自分の作品等に「アマデウス」と署名したことはない。なぜか。
17−18世紀のドイツは、文化的にイタリアに大きく遅れをとっていた。当時の音楽の主流はオペラであった。モーツァルトは幼少の頃からピアノとバイオリンの演奏に天才的な能力を発揮し、その父、レオポルドは息子を欧州一番の音楽家とするべく、各地を旅していた。生まれ故郷のザルツブルグを拠点に、アルプスを超えてイタリアへの旅が圧倒的に多かった。この頃の音楽は、一部の皇帝や貴族の所有物であった。音楽家達は皇帝や貴族に雇われて曲を書いた。大きなホールは少なく、彼らの私邸で開催される音楽会(コンサート)が大半で、庶民が耳にすることは少なかった。映画でもそのように描かれている。しかし、イタリアのベネチアにはすでに音楽学校が設立されたり、教会音楽が一般的になり、大衆が音楽にふれる機会が多かった。さらに楽器の種類や性能も今のようなものではなく、15世紀末にバイオリンにより発明された弦楽器と初期の管楽器しかなかった。音楽は人間の喉で作られるもので、バイオリンは鳴りが大きく、人間の声の邪魔になるという理由で好まれなかった。つまり楽器はあくまで「伴奏用」であったのである。ドイツ語のもつ堅苦しさ、音の多さ、1語の長さなどから、オペラとするには不都合で、その勤勉な国民性から楽しい台本も多くはなかった。イタリア語はその点、音が跳躍し、ピッチも高く、音楽には好都合な言語であったし、陽気な国民性は、多くの楽し台本を生み出した。オペラはイタリア語で書かれ演奏されるのが主流であった。イタリア人の音楽家からすれば、ドイツ人の音楽家は田舎臭く、一段下に見下していた。ウィーンが音楽の都として注目を浴びたのは、時の皇帝が音楽を寵愛し、大金で音楽家を大量に雇っていたからだ。映画ではモーツァルトの宿敵として描かれるサリエリも、イタリア人であったが、ウィーンの皇帝劇場の最上位にいた。
ドイツ人の音楽家が、母国ドイツにいてすらイタリア人音楽家に仕える現状は、彼らにとって苦渋であっただろう。イタリアに発した「商業的音楽会」は大衆の中に浸透していく。ドイツでも同様に商業的なホールが作られ、多くの聴衆が集まったが、それらの聴衆はイタリアの陽気なオペラを良しとせず、現代風に言うと「ちゃらけた」オペラより、重厚な響きを楽しむソナタ形式の管弦楽を求めるようになる。こうしてドイツ人音楽家は、交響曲の作曲に取り組むことになる。これら交響曲は、欧州でも人気を呼ぶ。更に時代は進み、ピアノが主流で協奏曲が多く作られる中、バイオリンの音色を見直して、バイオリン協奏曲等を作り始める。ビバルディーの「四季」は現在では知らぬ人はいないと思うが、これも近年、イ・ムジチというバンドが取り上げたことで評判になったにすぎず、当時はやはり誰一人振り向く者はいなかったたえ、ビバルディーは貧困の内に死した。
ベッカーが書いた「西洋音楽史」は、ドイツを近代化させ、欧州列強に追いつけ追い越せの富国強兵の時代のドイツで書かれた。したがって、内容は「ドイツ人バンサイ」になっており、イタリアの音楽家、その他の国の音楽家や音楽は、ほぼ無視された。明治政府も、近代化を目指しており、その目標として手頃だったのが、ドイツであった。その近代化をモデルにして、日本はドイツの教育を導入し、学制を敷き、当然「西洋音楽史」を学ばせた。故に、日本の音楽教室はドイツの「楽聖」で占められているのである。
著者は「ドイツ音楽などダメだ」と主張するものではない。「ドイツ音楽だけが音楽だ」という思い込みを正したいのだろう。
このようにして、日本の音楽史には、封じられ忘れ去られたクラシックの名曲達が、数多あるのでありました。おしまい。
僕も音楽が好きでバンドを組んだりしていたが、どうもクラシックファンと言われる人たちとは、お付き合いがない。なんか上から目線な人たちが多い。クラシックは崇高なもので、ポップスやロック等と同じに語られるものではないと言わんばかりである。しかし本書を読んで、クラシックと呼ばれる音楽にも、流行りもすたりもあり、多くの人達に受けた曲のみが、現在に継がれている。美空ひばりだって、和田アキ子だって、一斉を風靡した歌手だ。吉田拓郎も小田和正も井上陽水も、誰一人欠けては、今のJ-POPは違った形になっていたのではないか。「歌は世に連れ、世は歌に連れ」とは、至極名言だ。
本書に登場する作曲家や曲名を見るたびに、Amzon Musicで聴いてみる。確かにいい曲ばかりだ。それら名曲の裏側の物語。一読の価値あります。