公共性を考える 第1回

円安は何を意味するのか
――「有事の円買い」の後退から、国家・通貨・国民資産の関係を考える

私のブログをご覧いただき、有難うございます。

 

北杜市議会議員の飛矢﨑雅也です。

 

最近、気になる記事を読みました。

かつて世界で戦争や金融危機が起きると、「安全な通貨」として円が買われる傾向がありました。いわゆる「有事の円買い」です。

ところが近年は、国際情勢が緊迫しても円はあまり買われず、むしろドルが買われ、円安が進むことさえあります。

なぜ、円は買われなくなったのでしょうか。

よく聞く説明は、次のようなものです。

日本は成長率が低い。
人口が減少している。
エネルギーを海外に依存している。
日本とアメリカの金利差が大きい。

もちろん、いずれも円相場に影響する要因でしょう。

しかし、私は疑問を感じます。

アベノミクスが始まる前、民主党政権の時代には、1ドル80円前後という円高でした。

その時代と現在を比べて、日本の成長率、人口構造、エネルギー依存などが、円相場をここまで大きく変えるほど急激に変化したのでしょうか。

私は、そうは思いません。

むしろ大きく変わったのは、政府と日本銀行の金融政策、そして市場が日本の通貨政策を見る目ではないでしょうか。

アベノミクスによって変わったもの

2012年末に始まったアベノミクスでは、デフレからの脱却を掲げ、日本銀行が大量の国債を買い、金利を極めて低く抑える政策が進められました。

市場には、次のような認識が広がりました。

日本は長期間、低金利を続ける。
政府と日銀は、円高よりも円安を受け入れる。
円の価値を守ることより、物価や株価を上げることを優先する。

もちろん、現在の円安のすべてをアベノミクスだけで説明することはできません。

アメリカの金利、エネルギー価格、世界経済の動きなど、さまざまな要因が関係しています。

しかし、アベノミクスが、

円高を抑え、円安と低金利を長期間続ける政策への転換点だった

ことは、否定できないと思います。

なぜ、日銀が利上げしても円高にならないのか

一般には、日銀が金利を上げれば、円が買われ、円高になると言われます。

ところが先日、日銀が政策金利を引き上げても、円高はほとんど進みませんでした。

なぜでしょうか。

利上げがあらかじめ予想されていたことや、アメリカの金利が依然として高いことも理由でしょう。

しかし私は、より根本的な理由があるのではないかと考えています。

それは、市場が、

日本銀行は金融政策を本当の意味で正常化することができない

と見ているのではないか、ということです。

市場が見ているのは、今回一度だけ金利を上げたかどうかではありません。

円安や物価高を抑えるために必要ならば、さらに金利を上げられるのか。

政府や金融機関に痛みが生じても、その政策を続けられるのか。

政治的な圧力があっても、通貨価値を守る姿勢を貫けるのか。

そうした長期的な政策遂行能力を見ているのだと思います。

日本政府は、なぜ金利を上げにくいのか

その背景にあるのが、日本政府の巨額の借金です。

政府は国債を発行して、さまざまな政策に必要な資金を調達しています。

金利が上がれば、新しく発行する国債や、借り換える国債の利払い費も増えていきます。

政府の借金が小さければ、ある程度の金利上昇に耐えられるでしょう。

しかし、日本の政府債務は非常に大きい。

そのため、本格的に金利を上げれば、政府の財政負担が急速に重くなる可能性があります。

つまり日銀は、

円安と物価高を抑えるためには金利を上げたい。
しかし、金利を上げれば政府財政が苦しくなる。

という矛盾を抱えています。

市場も、その矛盾を見ています。

だから、日銀が少し金利を上げても、

どうせ大幅な利上げはできないだろう

と判断され、円が十分に買われないのではないでしょうか。

円安で政府の借金は減るのか

ここで、さらに重要な問題があります。

円安になっても、政府の借金の金額が直接減るわけではありません。

たとえば、政府の借金が1,000兆円あれば、1ドル100円から150円へ円安になっても、帳簿上の借金は1,000兆円のままです。

しかし、円安によって輸入品やエネルギーの価格が上がり、国内の物価全体が上がれば、話は変わります。

たとえば、100万円の国債があるとします。

物価が大きく上昇しても、政府が返す金額は100万円のままです。

しかし、その100万円で買える物の量は以前より少なくなります。

国債を持っている人から見れば、資産の実質的な価値が減ったことになります。

一方、政府から見れば、返済する借金の実質的な重さが軽くなったことになります。

つまり、

円安と物価上昇によって国民の円資産の価値が下がることと、政府の借金の実質的な負担が軽くなることは、表裏一体

なのです。

政府の借金は、国民の資産でもある

政府の借金は、誰かにとっての資産です。

日本国債は、銀行、保険会社、年金基金、日本銀行などが多く保有しています。

一般の国民が国債を直接持っている割合は、それほど大きくありません。

しかし、銀行が国債を購入する資金のもとは、私たちの預金です。

保険会社が国債を購入する資金のもとは、私たちが支払った保険料です。

年金基金が国債を保有する資金のもとは、私たちの年金積立金です。

つまり、金融機関を介して考えれば、日本国債の多くは国民の金融資産によって支えられています。

政府から見れば国債は「借金」です。

しかし国民から見れば、それは預金、保険、年金などの「資産」です。

だから、政府の借金の実質的な価値を減らせば、国民の資産の実質的な価値も同時に減ります。

分かりやすく、少し皮肉を込めて言えば、

国民の預金を含む円資産の価値を下げ、その分を政府債務の事実上の返済に充てる

ことに近い効果が生まれます。

政府が私たちの銀行口座から、直接お金を取り上げるわけではありません。

預金残高の数字も減りません。

しかし、そのお金で買える物は減っていきます。

残高は同じでも、価値が減っているのです。

見えない形で行われる負担

増税であれば、国会で法律が審議されます。

誰から、どれだけ税金を取るのかが、少なくとも表面上は明らかになります。

しかし、円安と物価上昇によって国民の資産価値が下がる場合、その負担は見えにくい。

税金を払ったという通知は届きません。

銀行の預金残高も減りません。

それでも、食料品、電気代、ガソリン代、日用品などの価格が上がり、生活は苦しくなります。

特に影響を受けるのは、現金や預金を多く持つ高齢者、年金生活者、賃金が上がらない労働者、価格転嫁のできない中小企業などです。

反対に、海外資産を持つ人や、円安によって利益を得る輸出企業には有利に働く場合があります。

つまり円安は、国民全体を等しく貧しくするのではありません。

社会の中で、資産や所得を移し替えます。

しかも、その再分配は、税制のように国民の前で明確に議論されないまま進みます。

ここに、私は大きな民主主義上の問題があると思います。

政府や日銀は、意図的に円安を進めているのか

もちろん、

政府や日銀が国民の財産を奪うために、秘密裏に円安を進めている

と断定することはできません。

そのような単純な陰謀論として論じるべきではないでしょう。

しかし、政府や日銀の意図とは別に、巨額の政府債務が政策を縛っている可能性はあります。

政府にとって、本格的な利上げは利払い費を増やします。

一方で、低金利のまま物価が上がれば、過去の借金の実質的な価値は軽くなります。

そのため、政府と日銀には、円の価値を大きく回復させる政策よりも、低金利と一定の物価上昇を続ける政策の方が選びやすい、という構造的な事情が生まれます。

問題は、政府が円安を意図しているかどうかだけではありません。

巨額の借金を抱えた国家が、国民の通貨価値を守るために必要な政策を、本当に実行できるのか

ということです。

通貨とは、国家の信認である

私は以前から、

通貨とは国家の信認である

と考えてきました。

ここでいう信認とは、国家を感情的に信じることではありません。

政府は財政を立て直す意思があるのか。

日銀は政府の都合に左右されず、物価と通貨価値を守れるのか。

国民生活に痛みが広がったとき、必要な政策を実行できるのか。

政府の借金を軽くするために、国民の資産価値を犠牲にしないのか。

そうした国家の能力と意思への信頼です。

市場が、

日本は借金が大きすぎて、本格的な利上げはできない
結局、円安と物価高を受け入れるしかない

と考えれば、円は買われません。

日銀が一度や二度、小幅な利上げをしても、それだけでは信頼は戻らないでしょう。

必要なのは、単発の政策ではありません。

政府と日銀が、財政、金融、賃金、産業、社会保障を含めて、長期にわたり円の価値と国民生活を守る政策を続けられるという確信です。

私たちは何を問うべきなのか

円安の問題は、単なる為替相場の問題ではありません。

政府の借金を、最終的に誰が負担するのか。

その負担は、国会で明確に決められるのか。

それとも、円安と物価高によって、国民の預金や年金の価値を少しずつ減らす形で負担させるのか。

これは、経済政策の問題であると同時に、民主主義の問題です。

私は、最後に次のことを問いたいと思います。

国家は、自らの借金を軽くするために、国民が信頼して持ち続けてきた通貨の価値を犠牲にしてよいのでしょうか。

通貨は、単なる紙切れでも、数字でもありません。

私たちが働いて得た所得を貯め、将来の生活に備えるためのものです。

通貨とは、国家と国民との間で交わされた、長期的な信頼の約束なのだと思います。

 

次回予告

公共性を考える 第2回

 

円安と物価高から、市民の暮らしをどう守るのか

 

では、この問題は北杜市民の暮らしと地方政治にどのような影響を与えるのでしょうか。次回は地方議員の立場から考えます。

私のブログをご覧いただきまして、有難うございます。

 

北杜市議会議員の飛矢﨑雅也です。

 

7月21日、北杜市議会「統合中学校にかかる特別委員会」が開催されました。

 

私は今回、「統合に賛成か反対か」を議論したのではありません。

 

市民として当然知りたい、

 

「なぜ2校案が選ばれたのか。」

 

その判断過程を確認するために質問しました。

 

その結果、私なりに次の5点が明らかになったと受け止めています。


① 最終的に2校案を決定したのは市長であること

 

今回の委員会で、教育委員会から、

 

「市長の政治的判断で2校案を決定した。」

 

という説明がありました。

 

これにより、最終的な政策決定者が市長であることが改めて確認されました。


② 教育委員会は正式な政策決定を行っていたこと

 

教育委員会は、令和7年10月24日の非公開教育委員会で正式な政策決定を行ったと説明しました。

 

また、「非公開」とした理由については、

 

「教育委員会が決定したものが、市として決定したものと誤解されることを防ぐため」

 

と説明しました。

 

これは今回確認できた重要な事実です。


③ しかし、2校案を選択した判断の過程については、なお確認できませんでした

 

私が今回、一番確認したかったのは、

 

「垂直統合案や垂直・水平組み合わせ案と比べて、なぜ2校案を選んだのか。」

 

ということです。

 

そのため、

  • 教育効果はどう違うのか。
  • 子どもたちの通学時間はどう変わるのか。
  • 不登校への影響はどう考えたのか。
  • 養護教諭の配置はどう変わるのか。
  • 部活動はどうなるのか。

こうした点について質問しました。

 

教育委員会からは、それぞれについて考え方やこれまでの経過について説明がありました。

 

しかし、

 

「こうした点を比較した結果、なぜ2校案が最も良いと判断したのか。」

 

という比較・判断の過程については、私はなお確認することができませんでした。


④ 特に通学負担については、今後検討するとの説明でした

 

教育委員会は、通学負担については、

 

「今後、基本設計の中で議論する」

 

と説明しました。

 

学校の位置は、生徒一人ひとりの通学時間や安全性に大きく影響します。

 

私は、学校の配置を決める際に、通学負担をどのように比較・評価したのかを確認したかったのですが、その比較の過程は確認できませんでした。

 

この点については、今後も確認していきたいと思います。


⑤ 私が一番大切だと思っていること

 

私は、統合に賛成か反対かを先に決めて質問しているわけではありません。

 

市民として知りたいのは、

 

「どのような比較と判断を経て、この結論に至ったのか。」

 

ということです。

 

学校は、これから何十年にもわたって子どもたちが学ぶ公共施設です。

 

だからこそ、

  • どの案を比較したのか
  • 何を基準に判断したのか
  • なぜ現在の2校案になったのか

その過程を市民にも分かる形で説明することが大切だと考えています。

 

政策は、結論だけで市民の理解や信頼を得られるものではありません。

 

結論に至るまでの過程が公開され、検証できることによって、初めて納得と信頼が生まれるのではないでしょうか。


 

私はこれからも、統合に賛成か反対かという立場ではなく、市民が政策決定の過程を理解し、自ら判断できるよう、議会で確認したことを分かりやすくお伝えしてまいります。

 

市民の皆さまにも、ぜひ「統合に賛成か反対か」だけではなく、「どのような比較と判断を経て、その結論に至ったのか」という視点から、この問題を一緒に考えていただければ幸いです。

令和8年第2回北杜市議会定例会において、議案第44号「令和8年度北杜市一般会計補正予算」に賛成しました。


今回の補正予算には、防災行政無線設備の更新、道路の復旧・改良、熱中症対策としての涼み処開放事業、文化財の保存修理など、市民生活や安全に関わる必要な事業が含まれていました。私は、これらの事業の必要性を踏まえ、補正予算全体には賛成しました。

しかし一方で、

小淵沢エリア振興ビジョン推進事業
観光客向け公共ライドシェア実証事業

については、本会議で質疑を行い、賛成討論でも懸念を表明しました。

私は観光振興そのものに反対しているわけではありません。

しかし、自治体の予算は、まずそこに暮らす住民の生活を支え、公共を実現するために使われるべきものです。

観光振興を進めるとしても、

「住民の暮らしにどのような利益があるのか」 「住民生活との優先順位はどう考えたのか」

が市民に説明されなければならないと考えています。

本会議では一定の説明がありましたが、私はなお説明は十分とは言えないと判断しました。

だからこそ、

必要な事業が含まれる補正予算全体には賛成しつつ、公共性・優先順位・説明責任については、今後も議会で問い続けていきます。

市民の皆様の声を議会に届けることが、市議会議員としての私の役割だと考えています。

七夕の日、地方自治の未来を語り合いました

前週の7月7日、七夕の日、長野県松本市で開催された「地域政策塾21」に参加しました。

この学習会は、地方自治の未来と地方議会の役割について、全国の地方議員が率直に学び合い、語り合う自主的な政策研究会です。

主宰されているのは、元長野県飯綱町議会議長の寺島渉さんです。



寺島さんは『月刊 地方議会人』(2026年5月号)の中で、次のように述べています。

「人口減少、高齢化、地域経済の衰退という『静かな有事』に直面し、日本の多くの自治体は存続の危機にあります。これからの自治体運営は、国の指示や補助金に依存する体質から脱却し、地方自治の原点に立ち返ること、そして地域住民の自治意識の覚醒が求められています。そのためにも、『住民自治の根幹』であり、地域民主主義の要である地方議会の役割発揮が決定的に重要です。」

私は、この問題意識に深く共感しています。

人口減少や高齢化が進む今だからこそ、地域の将来を国任せにするのではなく、住民と議会が主体となって地域の未来を考える「地方自治の力」が、これまで以上に問われていると感じています。

今回のテーマは、

「議会力・議員力の発揮へ ― 議会改革の実践を ―」

でした。

寺島さんの基調講演に続き、参加した地方議員一人ひとりが、それぞれの議会で直面している課題を持ち寄り、率直な問題提起と自由討論を行いました。

私も、現在の北杜市議会の議論について報告し、多くのご意見をいただきました。

議会ごとに事情や背景は異なります。

しかし、どの議員も、

「地方議会が地域民主主義の要として、本来の役割をどう果たすか」

という共通の課題に真剣に向き合っていました。

その道のりは決して平坦ではありません。

改革には葛藤もあり、孤独を感じることも少なくありません。

それでも、住民と議会を結び、地域の民主主義を育てようと努力される皆さんの姿に、大きな励ましをいただきました。



特に印象に残ったのは、寺島さんが地域政策塾21を続けておられる理由の一つとして、

「議会改革に取り組む議員を孤立させないこと」

を挙げられたことです。

その言葉の意味を、今回あらためて実感しました。

議会改革は、一人では続けられません。

だからこそ、互いに学び合い、率直に語り合い、支え合う場が必要なのだと思います。

今回いただいたご縁を大切にしながら、私も北杜市議会で、市民と議会をつなぐ議会改革に地道に取り組んでいきたいと思います。

地方自治は、制度だけで成り立つものではありません。

住民、行政、そして議会が互いに学び合い、対話を重ねながら育てていくものです。

今回の学びを、その一歩につなげていきたいと思います。

リニア中央新幹線は、成熟社会の日本に必要なのか

私は、リニア中央新幹線に反対しています。

しかし、その理由は「鉄道だから反対」「開発だから反対」というものではありません。

私が問いたいのは、もっと根本的なことです。

人口減少・成熟社会に入った日本において、私たちはどのような公共事業を選択し、どのような社会を子どもたちへ残そうとしているのでしょうか。

リニア中央新幹線は、一つの交通政策であると同時に、日本がこれからも「速さ」「成長」「大量消費」を追い求める社会を選ぶのか、それとも地域の暮らしや自然、文化、将来世代への責任を重視する社会へ転換するのかを象徴する政策でもあります。

本稿では、人口減少社会、環境、安全性、エネルギー政策、地域経済などの視点から、リニア中央新幹線の必要性を改めて考えてみたいと思います。

賛否を超えて、「成熟社会における公共事業とは何か」をともに考えていただければ幸いです。

リニア中央新幹線は、成熟社会の日本に必要なのか
――公共事業のあり方を根本から問い直す――

リニア中央新幹線は、「夢の超特急」として長年語られてきました。しかし私は、人口減少・成熟社会に入った今日の日本において、この巨大公共事業の必要性に強い疑問を抱いています。

この問題は、単に新しい鉄道を建設するかどうかではありません。

私たちは、これからどのような社会を目指すのか。

その社会像を問う問題であると考えています。

成長社会の発想を引きずる巨大プロジェクト

リニア中央新幹線が構想された時代、日本は人口増加と経済成長を前提としていました。

しかし現在の日本は違います。

人口は減少し、高齢化が進み、社会は成熟段階に入りました。リニアが大阪まで全線開業するとされる2045年前後には、生産年齢人口(15~64歳)は現在より大幅に減少すると推計されています。

このような社会において、本当に新たな巨大幹線鉄道を建設する必要があるのでしょうか。

現在の東海道新幹線も、時間帯や列車によっては空席が見られます。今後さらに人口が減少する中で、長期的な需要や採算性をどのように考えるのかについては、改めて丁寧な検証が必要です。

「速さ」は、本当に豊かさなのか

リニア推進の理由として、「東京・名古屋・大阪がさらに近くなる」と説明されます。

しかし、成熟社会において本当に必要なのは、移動時間をさらに数十分短縮することなのでしょうか。

オンライン会議やデジタル技術の普及によって、人々の働き方や暮らし方は大きく変化しました。

一方で、地域では医療、教育、公共交通、防災、子育てなど、生活に直結する課題が山積しています。

限られた資源をどこへ優先的に投資すべきかという観点から見れば、私はリニアよりも地域の暮らしを支える公共投資こそ優先されるべきだと考えます。

環境への影響を軽視できない

リニア中央新幹線では、南アルプスを貫く長大トンネルの建設が計画されています。

地下水への影響、残土処理、生態系への負荷などについて、多くの専門家や住民から懸念が示されてきました。

さらに、膨大な建設残土の搬出や工事車両の通行による生活環境への影響、安全対策なども重要な課題です。

これらは一地域だけの問題ではなく、日本の貴重な自然環境を将来世代へどう引き継ぐかという問題でもあります。

災害大国日本での安全性

リニアの路線の大部分は地下トンネルです。

南アルプスを含む地域は、日本でも地質条件が複雑な地域の一つです。

もちろん、設計や耐震対策は十分に検討されていると説明されています。

しかし、それでもなお、

「長大トンネル内で大規模災害が発生した場合の避難や救助は十分なのか」

という問いは、今後も継続して検証されるべき課題です。

高速化すればするほど、安全性への説明責任もまた高まります。

エネルギー政策との関係

リニアは現在の新幹線より大きな電力を必要とします。

技術的には、その電力を必ずしも原子力発電だけで賄うわけではありません。

しかし一方で、日本ではデータセンター、AI、半導体工場などによって今後電力需要の増加が見込まれています。

その中でリニアという巨大な電力需要を新たに加えることは、結果として大規模・安定電源を重視するエネルギー政策を後押しする可能性があります。

つまり、リニア問題は交通政策だけではなく、日本が将来どのようなエネルギー社会を目指すのかという問題とも切り離せません。

経済効果は本当に保証されているのか

リニア推進論では経済効果が強調されます。

しかし、日本各地を見れば、高速交通網が整備されたからといって、必ずしも地域経済が活性化したとは言えない事例もあります。

むしろ、都市への人口流出や地域経済の空洞化を招いたという指摘もあります。

したがって、「リニアが地域を豊かにする」という主張についても、人口減少社会という現実を踏まえた再検証が必要です。

私たちが本当に選ぶべき未来

私は、リニア中央新幹線の是非を考える際、最も重要なのは「速さ」ではなく、「社会のあり方」だと考えています。

高度経済成長期の日本は、「より速く、より大きく、より多く」を追い求めました。

しかし、成熟社会において求められる価値は違います。

持続可能であること。

地域で安心して暮らせること。

豊かな自然を守ること。

将来世代へ過度な負担を残さないこと。

そして、一人ひとりが地域に誇りを持って生きられることです。

私が目指したいのは、巨大開発による地域づくりではありません。

人づくりを基礎とした地域づくりです。

かつて国策であった満州移民に反対し、村人を守った長野県大下条村の佐々木忠綱村長のように、また、遠山郷や飯田で常民大学を開講し、地域に根ざした学びを育んだ私の恩師・後藤総一郎先生のように、地域の文化と自治を育てる営みこそが、これからの日本に必要ではないでしょうか。

私は、目先の経済効果ではなく、地域が長い年月をかけて培ってきた自然、文化、人のつながりを次の世代へ引き継ぐことこそ、本当の豊かさだと考えています。

だからこそ、私はリニア中央新幹線という巨大プロジェクトの必要性を根本から問い直したいのです。

それは単なる交通政策への異議ではありません。

成熟社会の日本にふさわしい公共事業とは何か。

そのことを、私たち一人ひとりが考える時期に来ているのではないでしょうか。
「勝利の先にあるもの――古代オリンピアの精神から、現代スポーツの意味を問い直す。」

現在、ウィンブルドン選手権が開催されています。39歳となったジョコビッチが今なお世界の第一線で戦い続ける姿を見て、私は思わず、自分がテニスに打ち込んでいた頃のことを思い出しました。

折しも、中学生の息子もテニス部で競技を始め、明日は県大会に臨みます。また、世界ではサッカーワールドカップが開催され、多くの人々が熱戦に心を躍らせています。

こうした出来事が重なった今、私は改めて、「スポーツとは何か」「人間にとってスポーツをすることの本当の価値とは何か」について考えてみました。

テニスの歴史における偉大なライバルたちの歩みや、古代オリンピアの精神にも触れながら、私なりの考えをまとめました。ご一読いただければ幸いです。



スポーツの価値は、単に勝つことにあるのではない。記録を更新すること、相手を打ち負かすこと、称賛を得ることも、たしかにスポーツの一部である。しかし、それだけではスポーツの本質を捉えたことにはならない。

私がスポーツに深く心を動かされるのは、競技者が勝利を目指す過程で、自己を極限まで高めていく姿を見るからである。

ロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダル、ノバク・ジョコビッチが偉大なのは、単に彼らが強かったからではない。彼らはそれぞれ異なる仕方で、自分自身を極みまで高めた。フェデラーは美と調和を、ナダルは闘争心と誠実さを、ジョコビッチは自己統御と適応力を極めた。

そして重要なのは、彼らが同時代に存在したことである。フェデラーはナダルによって、ナダルはジョコビッチによって、ジョコビッチはフェデラーとナダルによって、さらに高い次元へ押し上げられた。彼らは互いに勝とうとした。しかし同時に、互いを必要としていた。ライバルとは、単に倒すべき敵ではない。自己を成長させてくれる協働者でもある。

ここに、スポーツの深い人間的意味がある。

人間は孤立して完成する存在ではない。他者との関係の中で自己を知り、他者との緊張の中で自己を磨き、他者との競い合いの中で自分の可能性を引き出していく。スポーツは、この人間の本質を身体を通して明らかにする営みである。

その意味で、スポーツとは、身体を通して自己を知り、自己を磨き、他者との競い合いの中で人間としてより善く生きる力を育む営みである。


この考え方は、古代ギリシャのオリンピアの精神と深く響き合っている。古代ギリシャにおいて、競技は単なる娯楽ではなかった。そこには、アレテー、すなわち卓越性を追求する精神があった。競争は、相手を辱めるためではなく、自らの卓越性を引き出すためにあった。身体を鍛えることは、精神を鍛えることと切り離されていなかった。

古代の競技者にとって、勝利は重要であった。しかし勝利は、自己を高める営みの結果であって、目的のすべてではなかった。そこには、身体、精神、徳を一体のものとして捉える人間観があった。

現代オリンピックは、この精神をどこまで受け継いでいるだろうか。

もちろん、現代のオリンピックにも、国境を越えた友情や、互いの健闘を称え合う美しい場面は存在する。競技の現場には、今なおオリンピアの精神が息づいている。しかし一方で、現代オリンピックは、商業化、メダル至上主義、過剰なナショナリズム、開催都市への負担、政治利用といった問題を抱えている。

本来、スポーツの競争は、他者を排除するためのものではなかった。競争とは、互いをより高い水準へ導く営みであった。しかし、メダルの数や国別順位ばかりが強調されると、相手は自己を高めてくれる存在ではなく、打ち負かすべき敵になってしまう。

ここに、現代スポーツの危うさがある。

サッカーにおいても、テニスにおいても、真に偉大な競技者は、相手への敬意を失わない。なぜなら、相手がいるからこそ、自分は自分になれるからである。強い相手、誇り高い相手、全力で向かってくる相手がいて初めて、自分の力は引き出される。

だから、スポーツにおける敬意とは、単なる礼儀ではない。それは競技そのものを成立させる根本条件である。

スポーツの感動は、勝者が敗者を支配する姿にあるのではない。勝とうとする者同士が、互いの存在によって、より高い人間へと押し上げられていく姿にある。

フェデラー、ナダル、ジョコビッチの時代が私たちを感動させるのは、彼らが最強を争ったからだけではない。彼らが互いを必要とし、互いを高め合いながら、それぞれが自己の完成へと向かったからである。

この視点から見れば、スポーツとは単なる競技ではない。人間形成の営みであり、他者とともに自己を高めるための実践である。

現代オリンピックがもし本来の精神を取り戻すとすれば、必要なのは、勝利やメダルを否定することではない。そうではなく、勝利やメダルを、より大きな人間形成の文脈の中に置き直すことである。

競争は、他者を否定するためにあるのではない。競争は、自己を知り、自己を磨き、他者とともにより高い次元へ向かうためにある。

これこそが、古代オリンピアの精神であり、現代スポーツがもう一度思い出すべき根本ではないだろうか。
この問いは、スポーツの世界にとどまらない。人間とは何かを問い続ける私たち自身への問いなのである。

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日本代表はブラジル代表に1対2で敗れ、ベスト16進出はなりませんでした。

 

大変残念な結果でしたが、最後まで粘り強く戦った日本代表の選手・スタッフの皆さんには、心から敬意と感謝を申し上げます。

 

試合後、ブラジル代表のクニャ選手が語ったとされる「誰かより上になるということも、下になるということもない」という趣旨の言葉が、私には深く印象に残りました。

 

報道によれば、クニャ選手は日本代表への敬意を示しつつも、ブラジル代表の歴史やユニホームの重みを軽く扱われたと受け止めたことへの思いを語っています。

 

私は、この出来事を通して改めて「個の力」とは何かを考えさせられました。

 

日本代表は、多くの選手が欧州のトップリーグでプレーするなど、技術や戦術、経験という意味では間違いなく歴代最高レベルに達しています。それにもかかわらず、ワールドカップでは5大会続けて決勝トーナメント初戦の壁を越えられていません。

 

だからこそ、私は「個の力」をもう一度問い直す必要があるのではないかと思います。

 

「個の力」とは、技術やフィジカル、経験だけを指すものなのでしょうか。

 

私は、それだけではないと思います。

 

相手への敬意、代表の歴史とユニホームを背負う自覚、自らの言葉や振る舞いに責任を持つ姿勢、極限のプレッシャーの中でも冷静さを失わない人格的な成熟、そして自らが背負う歴史や伝統を理解し、その重みにふさわしく振る舞おうとする自覚まで含めて、本当の意味での「個の力」ではないでしょうか。

 

スポーツをする目的は、単に誰かに勝つことではなく、自らを成長させることにあります。相手がいるからこそ、自分の力が試され、鍛えられ、成長することができます。だからこそ、相手への敬意は競技以前の大前提です。

 

もちろん、勝者には敗者への節度が求められます。しかし同時に、敗者もまた、その経験から学び、自らを高めていくことができます。

 

今回の敗戦が、日本代表にとって「個の力」とは何かを改めて見つめ直す契機となり、次のワールドカップで新たな歴史を切り拓く力につながることを願っています。

私のブログをご覧いただき、有難うございます。


一昨日、北杜市立甲陵中・高等学校の学園祭「紫蝶祭」を観覧しました。


第37回を迎えた今年の紫蝶祭は、「神話」をテーマに、生徒の皆さんがそれぞれの個性と熱意を込めて取り組んだ成果が校内の至るところで発表されていました。パンフレットや校内装飾、各団体の企画まで世界観が丁寧に統一されており、生徒の皆さんが時間をかけて準備してきたことが伝わってきました。

校内を巡りながら、自然と自分が高校生だった頃を思い出しました。

「自分たちの学園祭はどんな雰囲気だっただろうか。あの頃と比べて何が変わり、何が変わっていないのだろう。」

そんなことを考えながら、一つひとつの展示や発表を見て回りました。

特に印象に残ったのは、屋外に商業店舗が出店し、コラボ商品も販売されていたことです。私が高校生だった頃には、学園祭は生徒たちの手づくりが基本であり、校内に商業的な企画が入ることはほとんどありませんでした。

そのため、新しい時代の学園祭の姿として興味深く感じる一方で、「学園祭は生徒自身が創り上げるもの」という私自身の感覚からすると、少し複雑な思いも抱きました。

一方で、変わらないものもありました。

科学部や茶道部、美術作品の展示、有志団体による音楽やダンス、お化け屋敷など、生徒の皆さんが仲間と知恵を出し合い、自分たちの力で創り上げた企画には、今も昔も変わらない学園祭の魅力がありました。

学園祭は、地域との連携を深める場であると同時に、生徒の自治や創造性を育む教育の場でもあります。その二つをどのように両立させていくのか。今回の紫蝶祭を見学しながら、そのことについて改めて考えさせられました。

青春は決して毎日が輝いているだけの時間ではありません。悩みや迷い、葛藤も多い時期です。しかし、振り返れば人生の中でもかけがえのない時間だったと感じます。

生徒の皆さんには、この貴重な学生生活を悔いなく過ごし、多くの仲間との思い出を大切にしてほしいと思いました。

生徒の皆さん、そして先生方や保護者、地域の皆さんなど、学園祭を支えられたすべての関係者の皆さん、本当にお疲れさまでした。素晴らしい紫蝶祭をありがとうございました。

 

 

私のブログをご覧いただきまして、有難うございます。

 

北杜市議会議員の飛矢﨑雅也です。

 

令和8年第2回北杜市議会定例会において、私は明野町浅尾地区の盛土問題について一般質問を行いました。

 

しかし、今回私が議場で最も問いたかったことは、

 

「この盛土が危険か、安全か」

 

という一点ではありません。

 

私が問い続けたのは、

 

「危険の可能性が示されたとき、行政は何を基準に判断するのか。」

 

という、北杜市の行政判断の原則です。


行政判断とは何か

この問題については、第1回定例会でも質問しました。

 

その後、浅尾区自治会は臨時総会を開催し、市と県に正式な要望書を提出しています。

 

要望書では、

 

・地域の歴史的経緯
・過去の不適正処理の問題
・土石流危険渓流上流という立地条件
・流域全体への影響
・住民の明確な反対意思

 

を行政判断に反映するよう求めています。

 

これに対し、市および県は、

 

「法令に基づき判断する」

「現行法で対応する」

「判断基準がないため難しい」

 

という回答を示しました。

 

そこで私は、第2回定例会では視点を一段引き上げ、

 

「行政は何を基準に判断するのか」

 

をテーマとして質問しました。


議場で明らかになったこと

今回の一般質問では、市長ではなく建設部長が答弁に立ちました。

 

その答弁では、

 

行政判断は、

 

「法令」「専門的知見」「客観的事実」

 

を総合的に勘案して行うこと、

 

また、

 

住民の安全を最優先として判断すること、

 

最悪の事態として土石流や斜面崩壊を想定していること

 

が示されました。

 

一方で、

 

浅尾区自治会が求めている

 

・地域の歴史

 

・過去の不適正処理

 

・土石流危険渓流上流という立地条件

 

・流域全体への影響

 

・住民の明確な反対意思

 

については、

「現行法令上、行政判断の要素として位置付けることは難しい」

 

との考えも明確に示されました。


今回、議場で明確になった対立軸

私は今回の一般質問で、

 

行政とは、

 

法令を適用するだけではなく、

 

地域の歴史、

 

地域特性、

 

住民が抱く不安、

 

将来起こり得る危険まで含めて、

 

総合的に判断すべきである

 

という立場から質問しました。

 

これに対し、市は、

 

法令、

 

専門的知見、

 

客観的事実

 

を行政判断の基本とする立場を明確にしました。

 

つまり今回の一般質問では、

 

「地域の実情を含めた実質的な行政判断」

 

「法令・専門的知見・客観的事実を基礎とする行政判断」

 

という、二つの行政観の違いが議場で明確になりました。

 

私は、この違いが議事録として残ったこと自体に、大きな意味があると考えています。


私が考える行政の役割

行政は、法令を守ることが当然求められます。

 

しかし、

 

行政の役割は、

 

法令を機械的に適用することだけではないと私は考えています。

 

住民から

 

「危険ではないか」

 

という声が上がったとき、

 

地域の歴史や立地条件、

 

過去の経緯、

 

そして最悪の事態まで想定し、

 

住民の生命と財産を守るために判断することこそ、

 

自治体本来の使命ではないでしょうか。

 

私は、そのことを議場で問い続けました。


次の課題

今回の一般質問によって、

 

北杜市は、

 

行政判断は

 

「法令」

 

「専門的知見」

 

「客観的事実」

 

を基礎として行うという考えを議事録に残しました。

 

では、

 

その「専門的知見」とは具体的に何なのか。

 

その「客観的事実」とは何なのか。

 

地域の歴史や住民意思は、本当に行政判断の対象外なのか。

 

次回以降の議会では、この点をさらに具体的に検証していきたいと考えています。


おわりに

浅尾地区の問題は、一地区だけの問題ではありません。

 

今後、市内のどの地域で同様の事案が生じた場合にも、

 

行政は何を基準に判断するのか。

 

住民の声をどのように位置付けるのか。

 

地域の実情をどこまで行政判断に反映するのか。

 

これは北杜市全体に関わる行政運営の原則です。

 

私はこれからも、

 

市民の生命と財産を守るという地方自治の原点に立ち、

 

行政判断の在り方について議会で問い続けてまいります。

 

引き続き、市民の皆様のご意見をお寄せいただければ幸いです。

 
 

 

私のブログをご覧いただき、有難うございます。

 

北杜市議会議員の飛矢﨑雅也です。

 

第2回北杜市議会定例会において、「小学校登校時における児童の安全確保と学校運営のあり方」について一般質問を行いました。

 

この質問は、市内小学校に通う児童の保護者から寄せられた一件の相談から始まりました。

 

調査を進める中で、市内各校では同様の運用が行われていること、統一的な基準は存在していないこと、歴史的に現場教職員の自主的な対応によって支えられてきた面があることなどが確認されました。

 

私は今回、学校現場や教職員を責めるために質問したのではありません。

 

むしろ、児童の安全確保という本来制度として担保されるべき課題を、現場の善意や努力だけに委ね続けてよいのかという問題意識から質問しました。

 

議場では、特に三つの点を教育委員会に伺いました。

 

第一に、

児童の安全確保は、教職員個人の善意や使命感によって支えられるべきものなのか、それとも教育行政として制度的に担保されるべきものなのか。

 

第二に、

地域事情は異なっても、教育委員会として共有すべき基本原則は必要ではないか。

 

第三に、

この問題を教育行政上の制度課題として検討していく考えはあるのか。

 

教育委員会からは、児童の安全確保の重要性や現在の運用について説明がありました。

 

しかし、「制度としてどのように支えるのか」という私の問いについては、直接の答弁はありませんでした。

 

私は、今回の一般質問で最も重要だったのは、「行政を批判すること」ではなく、「どの問いには答えがあり、どの問いには答えがなかったのか」を明らかにできたことだと考えています。

 

市民から寄せられた一つの相談は、学校だけの問題ではなく、児童の安全、教職員の働き方、スクールバス運行、教育行政の制度設計という公共の課題へとつながりました。

 

地方議会は、市民の声を行政へ届ける場であると同時に、市民が投げかけた問いに行政が応答する場でもあります。

 

私は今後も、「現場の善意」に依存するのではなく、「制度としてどう支えるのか」という観点から、この議論を積み重ねてまいります。

 

一人の保護者から始まった問いを、地域全体で考える公共の課題へ。

 

それが地方議会の役割であり、私が目指す政治の姿です。