9月1日(火)から、北杜市議会第3回定例会が始まっています。


会期は9月28日(月)までです。

今回の定例会は、令和7年度の市政を振り返る「決算議会」でもあります。

市民の皆さんからお預かりした税金が、どのように使われたのか。

行われた事業は、本当に市民の暮らしのためになったのか。

当初の目的は達成されたのか。

課題が残ったとすれば、それを次の市政にどう生かしていくのか。

予算を決めるだけでなく、その予算が実際にどう使われ、どのような成果と課題を残したのかを検証することも、議会の大切な仕事です。

私も決算特別委員会をはじめ、それぞれの審議に臨みます。

そして今回の定例会では、特に二つの日に、市民の皆さんに議会へ足を運んでいただきたいと思っています。

■ 9月15日(火)午前10時~

総務常任委員会

「非核三原則の堅持」を求める請願の審査

市民の皆さんから、

「日本政府・国会に非核三原則を堅持する意見書の提出を求める請願」

が北杜市議会に提出されました。

私は、この請願の紹介議員として総務常任委員会に出席し、請願の趣旨を説明します。

「核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませず」。

この非核三原則をこれからも堅持するよう、北杜市議会から日本政府・国会へ意見書を提出することを求める請願です。

核兵器をめぐる国際情勢が厳しさを増す中、唯一の戦争被爆国である日本がどのような立場をとるのか。

そして、その問題について地方議会から何を発信するのか。

立場や考え方の違いを越えて、議論すべき重要な問題だと思います。

市民から提出された請願を、議会がどのように受け止め、議員が何を語り、どのような判断をするのか。

ぜひ、その審査を見届けていただきたいと思います。

■ 9月25日(金)午後3時30分頃~

飛矢﨑雅也 一般質問

今回、私は二つの問題について一般質問を行います。

① 小学校登校時における児童の安全確保と教育行政の責任について

第2回定例会に引き続き、子どもたちの登校時の安全について質問します。

私が問いたいのは、個々の学校や先生方の対応ではありません。

現在の安全確保の仕組みは、教育行政の制度によって現場が支えられている状態なのか。

それとも、制度上十分ではない部分を、校長先生や教職員、学校支援員など現場の皆さんの努力によって補っている状態なのか。

児童の安全確保を、現場の善意や努力に委ね続けるのではなく、教育行政としてどのように制度的・継続的に支えていくのか。

その責任の所在を教育委員会に問います。

② 部活動の地域展開について

――子どものスポーツ・文化芸術活動をどう保障するのか

いま、学校部活動を地域クラブへ展開していく大きな制度改革が進められています。

しかし、これは単に「学校で行ってきた部活動を地域へ移す」という問題ではないと私は考えています。

スポーツや文化芸術に親しむ機会は、家庭がお金を払って購入する「サービス」なのでしょうか。

それとも、子どもの成長や人格形成に関わるものとして、行政も一定の責任を負って保障すべき、教育的・公共的な活動機会なのでしょうか。

北杜市は、地域展開によって子どもたちに何を保障しようとしているのか。

制度整備はどこまで進んでいるのか。

「公的な性質を有する活動」としながら、原則として家庭に費用負担を求めることをどう考えるのか。

家庭の経済状況、住んでいる地域、保護者が送迎できるかどうかによって、子どもの活動機会に格差が生じないのか。

そして、現在進められている中学校二校統合と部活動の地域展開という二つの政策は、本当に整合しているのか。

子どもたちのスポーツ・文化芸術活動を、これからの北杜市がどのように保障していくのか、根本から問いたいと思います。

※一般質問の開始時刻は、議事の進行によって前後する場合があります。

■ 市民が議会を見ることから

私は、議会を傍聴することは、特定の議員を応援するためだけのものではないと思っています。

賛成でも、反対でも構いません。

議員が何を問い、行政がどう答えるのか。

市民から提出された請願について、議員たちが何を語り、どのような判断をするのか。

そして、市民からお預かりした税金が、どのように使われてきたのか。

ぜひ、ご自身の目と耳で確かめてください。

民主政治とは、一度の選挙ですべてを誰かに任せることではありません。

市民が問いを投げかけ、行政がそれに応答し、議会が検証する。

そして、その議論を市民が見つめ、さらに問いを重ねていく。

その積み重ねによって、地方自治はつくられていくのだと思います。

市民が議会を見る。
議会が市民に見られる。

その関係があってこそ、議会はより緊張感を持ち、市民に開かれたものになっていくのではないでしょうか。

9月15日の総務常任委員会。

9月25日の一般質問。

もちろん、決算特別委員会をはじめ、それ以外の審議も大切です。

お時間の許すところだけでも結構です。

一人でも多くの市民の皆さんに議会へ足を運んでいただき、北杜市で何が議論され、何が決められているのかを、一緒に見ていただければ幸いです。

議会を、もっと市民の身近な場所へ。

皆さまの傍聴を、心よりお待ちしています。

北杜市議会議員
飛矢﨑 雅也

私のブログをご覧いただき、有難うございます。


明日9月1日は「防災の日」です。

それを前に、昨日は私の住む地区で防災訓練が行われました。

今回は、前半に「減災ネットやまなし」の向山健生理事長のお話を伺い、後半には実際に災害が発生したことを想定した訓練を行いました。


向山さんからは、「地区・地域の減災力を高める」をテーマに、近年各地で発生している自然災害や、日本を取り巻く地震のリスクなど、具体的な事例を交えながらお話しいただきました。

特に印象に残ったのは、「防災」と「減災」の違いです。

災害時の公的機関による「公助」だけでなく、平常時から住民一人ひとりが備える「自助」、そして地域で互いに助け合う「共助」を育て、災害による被害をできる限り小さくしていく。そのためには、住民自身が主体となった日頃からの取り組みが重要だというお話でした。


向山さんのお話を伺うのは、昨年、私が北杜市地域減災リーダー育成講習を受講したとき以来でしたが、今回も具体的で、大変分かりやすい内容でした。

そして、今回特に良かったと感じたのは、お話を聴いて終わりにするのではなく、その後、実際に自分たちで「やってみた」ことです。


受付、簡易トイレの設置と使用後の処理、炊き出しなど、実際に取り組んでみると、話を聞いているだけでは気づかなかったさまざまな課題が見えてきます。

「知っている」ことと、「実際にできる」ことは違う――。防災訓練では、この違いを埋めていくことがとても大切なのだと感じました。

最後は、皆で炊き出しをいただきながら質疑応答を行い、訓練を通じて気づいたことや課題を確認しました。


ありがたかったのは、向山さんが最後まで残り、訓練の様子を見ながら助言してくださったことです。その旺盛な行動力と、地域の減災に対する強い問題意識には、改めて頭が下がる思いでした。

片付けの後には反省会も行い、今回の取り組みを次年度以降にどうつなげていくか、地域の皆さんにどのように周知し、参加者を増やしていくかについて意見を交わしました。

今回の訓練を通じて、こうした一つひとつの取り組みの積み重ねが、地域の減災力を高め、災害に備える基礎になるのだと実感しました。

同時に、減災とは設備や知識だけの問題ではないとも感じました。

日頃から顔の見える関係をつくり、地域のつながりを結び直していくこと。そのコミュニティの力そのものが、いざというときに人を支える重要な「減災力」になるのではないでしょうか。

参加された皆さん、そして準備・運営にご尽力いただいた役員ならびに関係者の皆さんに、心より感謝申し上げます。

ちなみに、炊き出しで食べた非常食、意外と美味しかったです。

はじめに

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。

三人は「三英傑」と呼ばれ、日本史上もっともよく知られた人物たちである。

信長が天下統一への道を開き、秀吉がそれを完成し、家康が江戸幕府を開いて長期的な政治秩序を作った――三人については、しばしばそのように説明される。

あるいは、「鳴かぬなら」という有名な時鳥の句によって、信長を短気、秀吉を機略、家康を忍耐の人物として比較することもある。

しかし、こうした比較だけでは、三人の違いの核心には届かない。

三人はいずれも天下をめぐって戦った。

三人とも巨大な権力を手にした。

にもかかわらず、私たちが三人から受ける印象は大きく異なる。

三人の中で、もっとも「英雄」という言葉が似合うのは、おそらく信長である。

次に秀吉。

家康は偉大な政治家であり、三人の中で最終的な政治的勝者となった人物でありながら、信長や秀吉ほどには「英雄」という言葉になじまない。

なぜなのだろうか。

これは三人の能力の優劣だけでは説明できない。

むしろ三人が、

自らの有限な生を、どのような仕方で未来へつなごうとしたのか。

そして、

三人が死んだ後、何が残ったのか。

という問題なのではないだろうか。

そのことを考える手掛かりとして、『信長公記』『太閤記』『三河物語』という三つの「物語」を置いてみたい。

三作品は成立事情も性格も異なる。

だから、同じ種類の伝記として単純に比較することはできない。

しかし、その違いそのものが、信長・秀吉・家康という三人の歴史的存在の違いを、不思議なほど鮮明に映し出しているように思われる。


一 信長――「誰であったか」を問わせ続ける人

信長の生涯には、強烈な一回性がある。

桶狭間で今川義元を破る。

足利義昭を奉じて上洛し、やがて対立して将軍を京都から追放する。

比叡山を焼き、石山本願寺と長く戦い、安土城を築く。

そして天下統一を目前にしながら、本能寺で突然死ぬ。

これらの行為を、後から合理的な政策体系として説明することはできる。

しかし信長の魅力は、そうした説明からいつも何かがはみ出すところにある。

信長について語るとき、私たちは「織田政権とは何だったのか」と問うだけではない。

それ以上に、

「信長とは、いったい何者だったのか」

と問う。

なぜ、あの場面であの決断をしたのか。

何を見ようとしていたのか。

もし本能寺で死ななかったなら、次に何をしたのか。

信長については、四百年以上たった現在でも、この問いが終わらない。

ここに、信長の英雄性があるように思う。

英雄とは、単に大きなことを成し遂げた人物ではない。

既存の世界の中で最も合理的な場所を見つけ、そこで成功した人物でもない。

むしろ、

自らにしかなし得ない行為を通じて、それまで見えていなかった人間の可能性を世界に現す人物

なのではないだろうか。

信長が何を「革新」したのかについては、歴史学上慎重な議論が必要である。

信長以前にも楽市楽座はあり、「信長が中世を一挙に破壊して近世を作った」という単純な革命児像を、そのまま史実として採用することはできない。

しかし、それと信長の英雄性とは別問題である。

英雄性とは、政策の新規性を数えることではない。

信長という一人の人間の行為を目の前にした後世の人々が、

「この人物なら、世界をこれまでとは違う形にしてしまうかもしれない」

と感じ続けたことにある。

そして信長は、その可能性を完成させないまま死んだ。

この「未完」は重要である。

秀吉については、天下統一後に何をしたかを私たちは知っている。

家康についても、天下を取った後にどのような政治秩序を作ったかを知っている。

しかし信長についてだけは、

「その先」

が存在しない。

だから信長には永遠に、

「もし信長が生きていたら」

という問いが残る。

信長の人生には未来が欠けている。

しかし、そのために逆説的に、

信長は死後も未来を持ち続ける。


二 『信長公記』――行為を「誰」の物語へ変える

しかし、信長がどれほど非凡に行為しても、その行為だけでは後世に残らない。

行為は一回的だからである。

戦いは終わる。

命令した声は消える。

見ていた人間も死ぬ。

ここで太田牛一の『信長公記』が重要になる。

もちろん、『信長公記』を単純な英雄伝として扱うことはできない。

それは信長研究の基本史料であり、その成立過程や記述の性格を慎重に検討しなければならない。

しかし、ここで問題にしたいのは別のことである。

太田牛一が信長の行為を書き残したことによって、信長の一回的な行為は、信長の肉体の死とともに消えなかった。

信長が何をしたか。

どこへ行ったか。

何を命じたか。

誰と戦ったか。

そうした行為を読み直すたびに、後世の人間は、

「信長とは誰だったのか」

を問い直すことができる。

ここに、ハンナ・アーレントが古代ギリシアの政治経験から取り出した「不死」という問題が関わってくる。


三 不死――人間世界の中に残る「誰」

アーレントが『人間の条件』で古代ギリシアを論じるとき、重要な意味を持つのが「不死」である。

人間は死ぬ。

その意味で、人間は徹底的に有限な存在である。

しかし人間は、ただ生まれ、生命を維持し、子を残して死ぬだけの存在ではない。

他者の前で語ることができる。

行為することができる。

そしてそのとき、

その人が「何であるか」ではなく、

「誰であるか」

が現れる。

武将である。

大名である。

天下人である。

将軍である。

これらは、その人が「何」であるかを示す。

しかし、それだけでは信長が信長であること、秀吉が秀吉であること、家康が家康であることは説明できない。

「誰」は、その人にしかなし得ない言葉と行為の中に現れる。

しかし、行為は一回的である。

だから、観客が必要になる。

それを見る者。

語る者。

記憶する者。

物語にする者。

そして、その物語を次の世代へ渡す者。

そうして、一人の死すべき人間の「誰」が、本人の生命より長く共同世界にとどまる。

これが、ここでいう「不死」である。

したがって、

不死は個人について言われる。

家について言われるのではない。

制度について言われるのでもない。

この区別は、信長・秀吉・家康を考える上で決定的である。


四 不死と永遠

さらに、もう一つ区別しなければならない。

不死と永遠は同じではない。

不死は、人間世界の時間の中にある。

信長が語られる。

秀吉が語られる。

家康が語られる。

アキレウスが語られる。

語る人間がいて、物語を受け取る人間がいるから、「誰」は死後も人間世界に現れる。

したがって、この不死そのものも、人間世界に依存している。

人間世界そのものを超越したものではない。

これに対して、プラトンの『饗宴』が最後に向かうのは、まったく別の方向である。

エロスの階梯を上っていく者は、一つの美しい身体への愛から、すべての美しい身体へ、美しい魂へ、制度や知の美へと進み、最後に、

「美そのもの」

へ到達する。

それは、ある時には美しく、別の時には醜いものではない。

生まれたり、滅びたりするものでもない。

個々の美しいものが変化しても、それによって変化するものではない。

ここで問題になっているのは、

永遠なるもの

である。

したがって、

アーレントの不死は、人間世界の時間の中に残ること。

プラトンの永遠は、生成消滅する時間そのものを越えること。

両者は異なる。

英雄は、永遠の存在ではない。

むしろ、死すべき人間だからこそ英雄になり得る。

英雄が獲得し得るのは、この人間世界における不死なのである。


五 家――「誰」が替わることによって続く

では、「家」はどこに位置するのだろうか。

家は不死ではない。

永遠でもない。

家は、

持続する。

しかし、その持続の仕方は、英雄の不死とはほとんど反対である。

英雄は、

「この人でなければならなかった」

という代替不可能性によって成立する。

アキレウスを別のギリシア兵に置き換えることはできない。

信長を別の織田一族に置き換えることもできない。

ところが、家は違う。

父が死ぬ。

子が継ぐ。

その子も死ぬ。

さらに次の者が継ぐ。

家は、

「誰」が替わることによって続く。

英雄は「誰」が消えないことによって残る。

家は「誰」が交代することによって残る。

ここに、

英雄の時間と家の時間

の根本的な違いがある。

そして家は、永遠でもない。

どれほど長く続いた家にも断絶の可能性はある。

徳川家も例外ではない。

皇室も、歴史的時間の中に存在する以上、論理的に永続が保証された存在ではない。

したがって、家について語るべきなのは「不死」でも「永遠」でもない。

継承と持続

なのである。


六 秀吉――「誰」の物語から家の継承へ

秀吉もまた、一人の「誰」として強烈に物語られる人物である。

ただし、その英雄性は信長とは違う。

信長の物語を動かす問いが、

「この人は次に何をするのか」

だとすれば、秀吉の物語を動かす問いは、

「この人はどこまで上っていくのか」

である。

低い位置から出発する。

信長に仕える。

頭角を現す。

軍団を率いる。

本能寺の変が起きる。

中国大返し。

山崎。

賤ヶ岳。

そして関白となり、天下人となる。

秀吉の人生そのものに、圧倒的な上昇の運動がある。

だから後世の人間は、

「豊臣政権とは何だったのか」

だけではなく、

「秀吉とは、いったいどのような人間だったのか」

と問う。

『太閤記』が成立し、秀吉の生涯が繰り返し物語られたことは象徴的である。

豊臣家よりも先に、

秀吉という一人の人間の生涯そのものが物語になった。

ところが天下を取った後、秀吉には別の問題が現れる。

一人の秀吉が天下を取ることから、

自分が死んだ後にも、豊臣家へ政治的達成を継承できるか

という問題への移行である。

秀頼を残す。

自分の一代の達成を、家の時間へ移そうとする。

しかし、それには成功しなかった。

秀吉の死後、豊臣家は滅びる。

しかし秀吉は消えなかった。

ここに重要なことがある。

豊臣家の持続と、秀吉個人の不死は別問題だった。

豊臣家は滅びた。

しかし秀吉という「誰」は、今日まで語られている。

家が途絶えても、人は不死になり得る。


七 家康――「家康でなくても続く世界」を作る

そして家康である。

家康にも、英雄的な行為はいくらでもある。

三方ヶ原。

伊賀越え。

小牧・長久手。

関ヶ原。

家康もまた一人の「誰」として、今日まで語られている。

したがって家康にも、個人としての不死は成立し得る。

しかし、家康の政治的偉大さの核心は、それとは別のところにある。

家康が最終的に作ろうとしたのは、

家康という一人の「誰」がいなくても続く政治

だった。

1605年、家康は存命中に将軍職を秀忠へ譲る。

自らは大御所として後見する。

これは重要である。

秀忠は家康ではない。

家康ほどの軍事的英雄である必要もない。

家康ほどのカリスマを持つ必要もない。

必要なのは、

徳川家の当主として、将軍職を継承できることである。

つまり家康が解こうとした問いは、

「どうすれば第二の家康を作れるか」

ではなかった。

むしろ、

「第二の家康が現れなくても続く政治を、どう作るか」

だった。

天才は世襲できない。

英雄も世襲できない。

だからこそ、長期的な政治秩序を作ろうとするなら、

英雄を必要としない制度

を作らなければならない。

ここに家康の政治的達成がある。


八 英雄と家――代替不可能性/継承可能性

こう考えると、英雄と家の違いは鮮明になる。

英雄は、

代替不可能である。

家は、

継承可能でなければならない。

英雄は、

「この人でなければならなかった」

ことによって成立する。

家は、

「この人が死んでも次の人が継ぐ」

ことによって続く。

英雄の価値は、一回性にある。

家の強さは、反復可能性にある。

英雄は固有名詞を必要とする。

家は当主を交換しながら家名を持続させる。

だから、

英雄の不死と家の持続は、同じものではない。

むしろ時間に対して反対の構造を持つ。

英雄は、

「誰」が消えないことで残る。

家は、

「誰」が替わっても続くことで残る。

ここまで区別すると、家康が信長ほど英雄的に見えない理由も、より正確に理解できる。

家康が信長より小さな人物だからではない。

むしろ家康の最大の政治的達成が、

一人の卓越した「誰」を必要としない仕組み

を作る方向へ向かっていたからである。


九 『三河物語』――一人の英雄ではなく、家々の時間

この違いを象徴的に示すのが、大久保忠教の『三河物語』である。

『信長公記』や『太閤記』と同じ意味で、「家康という一人の英雄の物語」と読むと、その特徴を見失う。

『三河物語』に流れるのは、「家」の時間である。

松平・徳川家がある。

それに仕えてきた大久保家をはじめとする家々がある。

祖先はどのように主家へ奉公したのか。

どのような苦難をともにしたのか。

その奉公を子孫はどう受け継ぐべきなのか。

そこには、

祖先――現在――子孫

という累代の時間がある。

これは「家の不死」ではない。

継承の物語である。

そして、この違いは決定的である。

『信長公記』を読むと、私たちは信長という「誰」を問い直す。

『太閤記』を読むと、秀吉という「誰」の人生を追う。

『三河物語』を読むと、家康という個人だけでなく、

「われわれの家はいかに主家とともに現在まで来たのか」

という累代の時間が前景化する。

ここに三者の大きな違いがある。


十 三英傑――三つの「不死」ではない

以上を踏まえるなら、

信長――名の不死。

秀吉――名から家への不死。

家康――家の不死。

という整理はできない。

なぜなら、途中で概念の対象が個人から家へ変わってしまうからである。

より正確には、

信長――一人の「誰」が突出して記憶される人物。

秀吉――一人の「誰」として記憶されながら、その政治的達成を家へ継承しようとした人物。

家康――一人の「誰」として記憶される一方、自分がいなくても家と制度が持続する政治を作った人物。

と整理すべきだろう。

三人を分けるのは、「三種類の不死」ではない。

個人の「誰」と、家・制度の持続との関係の違い

なのである。

ここまで直して初めて、

「三英傑の中で信長が最も英雄的で、次に秀吉、家康は相対的に英雄から遠く見える」

という感覚も、正確に説明できる。

信長については、政治体制以上に信長という一人の「誰」が前面に出る。

秀吉も、豊臣家以上に秀吉という一人の人生が巨大な物語になる。

家康は、自らの「誰」を消したわけではない。

しかし政治的達成としては、

「家康でなくても続く世界」

を作る方向へ進んだ。

英雄性の強弱は、家が長く続いたかどうかとは別問題なのである。


十一 三人とも「不死」になり得る

では、三人の誰が不死なのだろうか。

信長か。

秀吉か。

家康か。

この問いに、家の長さで答えることはできない。

織田家がどうなったか。

豊臣家がどうなったか。

徳川家が何代続いたか。

それらは、それぞれ重要な歴史的問題である。

しかし、一人の人間が不死になったかどうかとは別の問題である。

三人とも、死後も物語られている。

三人とも、現代の人間世界に「誰」として現れる。

だからアーレント的な意味では、

三人とも不死に参与している

と考えることができる。

ただし、その現れ方が違う。

信長には、

「この人はいったい何をしようとしていたのか」

という問いがつきまとう。

秀吉には、

「この人はいかにしてここまで上ったのか」

という問いがつきまとう。

家康には、

「この人はいかに生き残り、最後に秩序を作ったのか」

という問いがつきまとう。

三人とも、

大名。

関白。

将軍。

という「何」だけには還元できない。

信長。

秀吉。

家康。

という固有の「誰」として、今も語られている。

だから三人とも、個人として不死たり得る。

しかし、

徳川家が長く続いたことは、家康の不死の根拠ではない。

家康が不死であるとすれば、それは家康という「誰」が、今なお他者によって物語られ、人間世界の記憶の中に現れるからである。


十二 英雄とは、永遠なる者ではない

ここで、英雄という存在について一つ重要なことが分かる。

英雄は、永遠なる者ではない。

むしろ、

死すべき者である。

アキレウスが死なない神であったなら、彼の選択はあれほど人間を魅了しなかっただろう。

信長が決して死なない人間であったなら、本能寺の「未完」も存在しない。

英雄の行為が輝くのは、その人の時間が有限だからである。

いつか死ぬ。

時間は戻らない。

やり直すこともできない。

それでも、その瞬間に行為する。

だから、その人の「誰」が現れる。

そして、その一回的な行為を他者が記憶する。

英雄が有限性を越えるとすれば、

永遠の存在になることによってではない。

有限なまま、人間世界の記憶へ入ることによって

なのである。


結び――英雄の時間、家の時間

信長、秀吉、家康。

三人の中で、もっとも英雄的なのは信長である。

次に秀吉。

家康は相対的に、もっとも英雄から遠く見える。

しかし、それは家康が二人より小さな人物だったということではない。

三人は、時間に対して異なる関係を結んだからである。

信長は、一人の「誰」として突出した。

秀吉も、一人の上昇する「誰」として巨大な物語になった。

家康もまた一人の「誰」として記憶されたが、その最大の政治的仕事は、

自分という一人の人間がいなくても続く家と制度を作ること

だった。

ここに二つの時間がある。

一つは、

英雄の時間。

「この人でなければならなかった」という代替不可能な「誰」が、他者によって記憶され、物語られ続ける時間である。

もう一つは、

家の時間。

一人の人間が死んでも、別の人間がその位置を継ぎ、系譜や役割を未来へ運んでいく時間である。

前者には、アーレント的な「不死」が成立し得る。

後者は「不死」ではない。

継承であり、持続である。

そして、その持続にはつねに断絶の可能性がある。

さらに、そのどちらもプラトン的な「永遠」ではない。

永遠は、人間世界の中で長く続くことではない。

生成し、変化し、消滅する個別的なものを越えた「美そのもの」へ向かう、別の次元の問題である。

だから、

英雄の不死と家の継承は、二つの不死なのではない。

また、

家が長く続くことと永遠も、同じではない。

むしろ、

有限な人間が歴史的時間と関わる、二つの異なる仕方

として、英雄と家を考えるべきなのである。

英雄は、

「誰」が消えないことによって残る。

家は、

「誰」が替わっても続くことによって残る。

『信長公記』を開けば、今日も信長が動き始める。

『太閤記』を開けば、今日も秀吉が天下へ駆け上がる。

そして『三河物語』を開けば、一人の人間の生涯を越えて、祖先から子孫へと家々の時間が流れていく。

人は死ぬ。

家も、いつか途絶えるかもしれない。

制度も、いつか終わる。

それらは永遠ではない。

しかし、一人の人間が他者の前に「誰」として現れ、その姿が語るに値するものとして記憶されたならば、その人は肉体の死の後にも、人間の共同世界へ現れ続けることができる。

それが、不死である。

そして三英傑の中で、信長がもっとも「英雄」という言葉を呼び寄せるのは、

織田家が長く続いたからではない。

信長という代替不可能な「誰」が、四百年以上たった今なお、私たちに、

「この人は、いったい何者だったのか」

と問い続けさせているからなのである。

はじめに

平家を滅ぼし、武家政権の礎を築いた源頼朝。しかし、その頼朝から始まった鎌倉の源氏将軍は、頼家、実朝と、わずか三代で途絶えた。

これは考えてみれば不思議なことである。

壇ノ浦で平家を滅ぼしたのは源氏だった。政治的な勝者は明らかに源氏である。それにもかかわらず、敗れた平氏は「平家」という強烈な一門の記憶を後世に残したのに対して、勝者であるはずの源氏には、「源氏」という言葉はあっても、「源家」という言葉は「平家」ほどの実感を伴わない。

なぜなのだろうか。

私はこの問題を考えていくうちに、一つの言葉にたどり着いた。

「情」である。

源氏は、天下を取るために情を切り捨てた。その結果、政治的には勝利したが、「家」をつくることには失敗したのではないだろうか。

そして、この「情の切り捨て」は、単なる頼朝の性格の問題ではなかった。

血族を潜在的な競争者として排除することによって、頼朝は自分自身への権力集中には成功した。しかしそれは同時に、自分の死後に息子たちを守るべき「源家」を弱くすることでもあった。

頼朝が死んだとき、その矛盾が一気に表面化する。

後に「十三人の合議制」と呼ばれる政治状況の中で、北条、比企、梶原、三浦、和田など、それぞれの「家」が生存を争い始めた。

その中に、強力な「源家」はなかった。

そして、その源氏の中にあって、頼朝とは異なる人間関係の原理――「情」――を象徴する人物として後世に記憶されたのが、源九郎義経だったのではないか。


一 「源氏」はあっても「源家」がない

もちろん、「源家」という言葉そのものが歴史上存在しなかったわけではない。

また、「源氏」と「平家」という言葉の使用頻度だけから、実際の一族結合の強弱を直接証明することもできない。

しかし、私たちの歴史的記憶の中で、「平家」という言葉の強さと「源家」という言葉の弱さには、興味深い違いがある。

そもそも「平氏」と「平家」は同じではない。

壇ノ浦で平姓の人々すべてが滅亡したわけではない。「平家」とは主として平清盛を中心とした伊勢平氏の特定の家門、一門を指す。

だからこそ『平家物語』なのである。

清盛を中心として、重盛、宗盛、知盛、重衡、維盛、資盛、徳子らが、一つの「家」の物語を形成する。

彼らにはもちろん対立もあった。

平家を単純に「仲のよい家族」として美化することはできない。保元の乱では清盛と叔父忠正が敵味方に分かれている。

それでも清盛はその後、一族を政治、軍事、官職、婚姻によって一つの巨大な家門へと組織していった。

それに対して河内源氏の歴史を見ると、違った光景が見えてくる。


二 義家以来繰り返された、源氏の内部抗争

源氏一門の結束の弱さは、頼朝から始まったものではない。

河内源氏の名声を大きく高めた八幡太郎義家の死後、その権威を安定した「家」として継承することは容易ではなかった。

義家の子義親は朝廷から追討され、義忠は暗殺される。その事件をめぐって一族内部には深刻な混乱が生じた。

さらに保元元年(一一五六)の保元の乱では、源為義と長男義朝が敵味方に分かれた。

父為義は崇徳上皇方につき、子義朝は後白河天皇方についた。

そして敗れた為義は、最終的に義朝によって処刑される。

父と子であっても、政治的立場が異なれば敵になる。

この行動様式は、義朝の子どもたちの世代にも繰り返されることになる。

頼朝は木曾義仲と戦い、弟義経を追い、弟範頼を失脚させた。有力な甲斐源氏などに対しても警戒し、その勢力を抑えていった。

一つ一つの判断には政治的合理性があった。

有力な源氏の血族は、それだけ頼朝に代わり得る正統性を持つ。

強い親族は頼朝にとって強力な味方であると同時に、最も危険な競争者にもなり得た。

だから頼朝は彼らを抑え、あるいは排除した。

その結果、頼朝の権力は強くなった。

しかし、ここに大きな逆説があった。

頼朝個人が強くなればなるほど、頼朝の「家」は弱くなっていったのである。


三 頼朝は「鎌倉殿」をつくった。しかし「源家」をつくれなかった

ここで頼朝の政治的成功を過小評価してはならない。

頼朝は、血縁だけに依存しない新しい政治的結合を作った。

鎌倉殿と御家人との関係である。

御家人は頼朝個人の親族だから従ったのではない。

所領の安堵、新恩給与、軍事的奉仕などを媒介として、鎌倉殿との政治的関係を結んだ。

これは頼朝の巨大な政治的創造だった。

だからこそ、血族である義経よりも、北条、比企、三浦、和田、梶原といった御家人たちの方が、頼朝の政治秩序にとって重要になることがあり得た。

しかし、ここに問題がある。

「頼朝に従う御家人」をつくることと、「頼朝の子孫を守る一門」をつくることは同じではない。

頼朝が生きている間は、この違いは表面化しにくい。

頼朝自身が圧倒的な中心だからである。

北条も比企も三浦も和田も梶原も、「鎌倉殿・頼朝」を中心とする秩序の中に位置づけられる。

しかし頼朝が死んだらどうなるのか。

そこで初めて、

「鎌倉殿への忠誠」と「頼朝個人への忠誠」は同じだったのか

という問題が現れる。


四 梶原景時――頼朝の「合理性」を生きた男

この頼朝の政治秩序を考える上で、梶原景時という人物は象徴的である。

後世の物語では、景時はしばしば義経を讒言した悪役として描かれる。

確かに景時と義経の間には対立があり、景時が義経の行動について頼朝へ厳しい報告をしたことも知られている。

景時自身が義経に反感を抱いていた可能性も十分にある。

しかし、景時を単なる「嫉妬深い悪人」としてしまうと、大切なことを見失う。

景時は、頼朝がつくろうとしていた政治秩序をよく理解していた人物でもあった。

問題は、

誰が優秀な武将なのか

だけではない。

誰の命令によって、その軍事力が行使されているのか

なのである。

義経は戦場では天才的だった。

一ノ谷、屋島、壇ノ浦。

結果を出した。

しかし、頼朝の側から見れば、独自の判断で動き、朝廷とも直接関係を結ぶ義経は、統制しにくい存在でもあった。

景時はそこを問題視した。

つまり景時は、

「鎌倉殿を頂点とする秩序」

の側に立った。

義経は、

「兄なら自分を弟として分かってくれる」

という情の側に立った人物として後世に記憶された。

そして頼朝は、景時の報告を退けて「それでも弟だから」と義経を守る道を選ばなかった。

ここに三人の関係の核心がある。

景時が義経を嫌っていたとしても、それだけで義経の没落は説明できない。

最終的に義経を排除したのは頼朝だった。

頼朝の政治世界には、景時の合理的な報告を押し返すだけの「それでも弟だから」という原理がなかった。


五 そして、景時自身もその秩序に呑み込まれた

ところが、ここから歴史は皮肉な方向へ進む。

建久十年(一一九九)、頼朝が死ぬ。

すると、その年のうちに景時は多数の御家人から弾劾され、鎌倉を去る。

翌年、一族とともに滅ぼされた。

頼朝の秩序を守るため、御家人を監視し、報告し、統制する側に立った景時。

しかし、その景時を守っていた最大の存在もまた頼朝だった。

頼朝が消えた瞬間、景時自身が排除される側へ回ったのである。

これは象徴的である。

義経は、頼朝の秩序に従わなかったために排除された。

景時は、頼朝の秩序に忠実であったにもかかわらず、頼朝の死後に排除された。

正反対に見える二人が、最後には同じ政治世界の中で滅びた。

頼朝という個人を中心として成立していた秩序は、頼朝本人が消えた後、それを支えていた人々を守る力を持っていなかったのである。


六 「鎌倉殿の13人」が示したもの

頼朝の死後、十八歳の頼家が二代鎌倉殿となった。

そして頼家による訴訟の直接裁断が停止され、北条時政、北条義時、梶原景時、比企能員、和田義盛、三浦義澄、大江広元ら十三人の有力者を通して政務を処理する体制が成立する。

一般に「十三人の合議制」と呼ばれるものである。

ただし、現代の議会や内閣のように十三人が一つの合議機関として鎌倉を統治した、と単純に理解すべきではない。

重要なのは別のところにある。

頼朝が死んだとき、頼家の周囲には、

北条家がいる。

比企家がいる。

三浦家がいる。

和田家がいる。

梶原家がいる。

しかし、

強力な「源家」がいない。

もちろん源氏の血を引く者が存在しなかったという意味ではない。

そうではなく、若い頼家を一門として支え、他の有力御家人の「家」と対抗できるだけの、政治的に組織された源氏将軍家の親族集団が存在しなかったのである。

もし範頼が生きていたなら。

もし義経が独立した競争者ではなく、「鎌倉殿の叔父」として制度的な位置を与えられていたなら。

もちろん歴史に「もし」はない。

義経や範頼が生きていれば、逆に頼家の競争者になった可能性もある。

しかし、「家」の構造を考えるための反実仮想としては意味がある。

頼朝は、自分を脅かす可能性のある血族を排除した。

しかし、それは同時に、

自分の死後、息子を守る可能性のある血族を排除することでもあった。


七 「鎌倉殿と御家人」から「家と家」へ

頼朝が生きている間、鎌倉政治の中心には頼朝がいた。

しかし頼朝が死ぬと、政治の風景が変わる。

北条。

比企。

梶原。

三浦。

和田。

それぞれが、それぞれの家を背負っている。

ここで頼朝の政治秩序に潜んでいた問題が表面化する。

頼朝は御家人たちを、

「頼朝を中心とする秩序」

には統合した。

しかし、

「頼朝の死後も源氏将軍家を共同して守る秩序」

にまで統合できていたのだろうか。

実際、その後の鎌倉では有力者同士の激しい抗争が続く。

梶原景時が消える。

比企能員と比企氏が滅びる。

頼家が将軍職を追われ、やがて殺される。

畠山重忠が討たれる。

北条時政も失脚する。

和田義盛が滅びる。

そして最後には、実朝が頼家の子公暁によって殺され、公暁も殺される。

もちろん、それぞれの事件には固有の原因がある。

これをすべて「頼朝が情を切り捨てたから」と説明することはできない。

しかし一連の出来事を貫いて、

頼朝という中心を失った後、それぞれの家が自らの生存をかけて競争する

という構造を見ることはできる。

頼朝という太陽が消えると、それまでその周囲を回っていた諸家が互いに衝突し始めた。

そして、その衝突から頼朝の子どもたちを守る強力な「源家」は存在しなかった。


八 頼朝の合理性が、頼朝の子孫へ返ってくる

こう考えると、源氏将軍家三代の終焉は、単なる「因果応報」という言葉以上のものとして見えてくる。

頼朝が選んだ原理は、

「血族であっても、政治的に危険なら排除する」

というものだった。

これは権力者として合理的である。

しかし頼朝の死後、その原理そのものが消えたわけではない。

むしろ鎌倉の政治世界に残った。

政治的に危険な者は排除する。

自分の家を脅かす者は排除する。

昨日の仲間でも排除する。

血族でも排除する。

やがて、その論理は頼朝自身の子孫にも及ぶ。

頼家は失脚し、殺される。

実朝は頼家の子公暁に殺される。

公暁もまた殺される。

頼朝が他者に適用した政治的合理性が、頼朝の死後、その子や孫にも適用されたのである。

超自然的な意味での「罰」を歴史に持ち込む必要はない。

しかし、これを「因果応報」と呼びたくなる理由はここにある。

頼朝の子孫は、頼朝が作った政治世界の外から突然襲われたのではない。

頼朝自身が作り上げた政治世界の論理によって呑み込まれた。


九 「情」は非合理なのか

ここで改めて、「情」というものについて考えたい。

政治の世界では、情はしばしば非合理なものとされる。

弟だから許す。

従兄弟だから助ける。

親子だから最後まで見捨てない。

確かに、それだけで政治を行うことはできない。

「弟だから」という理由だけで軍令違反を許せば、組織は成り立たない。

頼朝の判断には政治的合理性があった。

だから私は、

「頼朝は冷酷だった。義経を許すべきだった」

と単純に道徳的非難をしたいわけではない。

むしろ問いたいのは、

合理性だけで長く続く人間関係をつくることができるのか

ということである。

家族とは本来、

「それでも弟だから」
「それでも親子だから」
「それでも家族だから」

という理由によって、短期的合理性にブレーキをかける関係でもある。

相手が少し危険だからといって直ちに切らない。

失敗したからといって捨てない。

利益を与えなくなったからといって関係を終わらせない。

この合理性では説明しきれない余白を、私は「情」と呼びたい。

そして長い時間を生きる「家」には、その余白が必要なのではないだろうか。


十 平家が持ち、源氏が持てなかったもの

平家は政治的には滅びた。

しかし『平家物語』の中で、彼らは最後まで強烈な「一門」として記憶されている。

都を追われても、ともに西へ向かう。

親が子を思う。

兄弟が兄弟を思う。

そして多くの者が壇ノ浦まで運命をともにする。

もちろん、これは文学によって形成された記憶でもある。

現実の平家内部には対立も離反もあった。

それでも、後世の日本人が記憶した平家には強烈な「われわれ」がある。

源平の違いをあえて一つの対句にするなら、

平家は、一族を守ろうとして天下を失った。
源氏は、天下を取ろうとして一族を失った。

政治的勝者は源氏だった。

しかし「家」という観点から見たとき、勝敗は単純ではなくなる。


十一 源九郎義経という異質な存在

そこで興味深いのが義経である。

義経は河内源氏の中にありながら、その伝統とは異なる人間関係の感覚を持った人物として後世に記憶された。

ここでは史実上の義経と、『平家物語』『義経記』などによって形成された後世の義経像を区別しなければならない。

義経本人が何を考えていたのかを、後世の物語からそのまま断定することはできない。

しかし逆に、

なぜ後世の人々が義経をそのような人物として描き続けたのか

という問いは残る。

物語の義経は、平家の傲慢さが人々から憎まれる一方、一門の結びつきを羨む人物として描かれることがある。

これは象徴的である。

義経が本当に欲しかったものは、政治的地位だったのだろうか。

私はむしろ、頼朝から、

「お前は私の弟だ」

と認めてもらうことだったのではないか、と考えたくなる。

幼くして父義朝を失い、母とも離れ、鞍馬寺に入り、後に奥州藤原氏のもとへ向かった義経にとって、頼朝は単なる源氏の棟梁ではなかった。

失われた家族へつながる兄だった。

だから義経は頼朝のもとへ向かった。

もしそうだとすれば、頼朝と義経は最初から違う言葉を話していたことになる。

頼朝は「秩序」の言葉を話した。
義経は「情」の言葉を話した。

頼朝が問うたのは、

「お前は私の命令に従うのか」。

義経が求めたのは、

「兄上は私を弟として信じてくれるのか」。

似ているようで、まったく違う。


十二 弁慶と佐藤兄弟――利益を越えた関係

この違いは、義経を取り巻く人々を見るとさらに鮮明になる。

弁慶。

佐藤継信、忠信。

静御前。

史実と物語を区別する必要はあるにせよ、後世の人々が作り上げた義経の世界では、彼の周囲にはいつも、

「この人だからついていく」

人間たちがいる。

これは頼朝と御家人との関係とは異質である。

頼朝と御家人との間には、所領の安堵などを媒介とした政治的相互性がある。

もちろんそこにも情はあった。

しかし政治秩序の中心には、鎌倉殿と御家人という制度的関係があった。

物語の弁慶は違う。

義経がすべてを失ってもついていく。

所領もない。

地位もない。

明日の命すら保証されない。

それでも離れない。

ここでは、

「何を与えてくれるか」ではなく、「誰と生きるか」

が関係を決めている。

これこそ情の世界である。


十三 安宅の関で、なぜ人々は泣くのか

その情の世界が最も美しく表現されたものの一つが、能『安宅』から歌舞伎『勧進帳』へ受け継がれた安宅の関の物語である。

頼朝から追われた義経一行は、山伏に身をやつして関を越えようとする。

関守富樫に疑われたとき、弁慶は主人である義経を金剛杖で打つ。

主人を打つ。

主従秩序から考えれば、あり得ない行為である。

しかし義経を救うためには、それしかない。

関を越えた後、弁慶は義経に詫びる。

義経は弁慶を責めない。

そして富樫もまた、彼らの正体を察しながら通す。

ここでは三人が、それぞれの制度的立場を越えている。

弁慶は忠義のために主人を打つ。
義経はその情を理解して許す。
富樫は法を守る立場にありながら、その情を見て通す。

そして観客も富樫と同じ場所へ立たされる。

頼朝の命令からすれば、義経を捕らえなければならない。

それは分かっている。

それでも思う。

「どうか、この人を通してやってくれ。」

そして泣く。

これこそ判官贔屓なのではないだろうか。


十四 判官贔屓とは「情の言葉」である

判官贔屓は普通、「弱者や敗者に同情すること」と説明される。

しかし、それだけではなぜ義経なのかを十分説明できない。

日本史には敗者はいくらでもいる。

義経が特別なのは、単なる敗者ではなく、

政治的合理性によって切り捨てられた「情」の側に立つ人物

として記憶されたからではないだろうか。

義経と弁慶。

義経と佐藤兄弟。

義経と静。

そして義経と頼朝。

義経の物語は常に「関係」の物語である。

だから判官贔屓とは、単なる敗者への同情ではない。

私はそれを、

「人間は利害や制度だけで結ばれる存在ではない」という、情の側からの異議申し立て

と考えたい。

頼朝の論理は政治的には理解できる。

組織には秩序が必要である。

命令系統が必要である。

景時が義経を問題視したことにも理由がある。

しかし、それだけで人間は生きられるのか。

「それでも弟だから」。

「それでも主人だから」。

「それでもこの人を見捨てられないから」。

そのような合理性では説明できない関係を、人間は必要としている。

判官贔屓とは、そのことを忘れまいとする人々の記憶なのではないだろうか。


十五 衣川で義経を死なせなかった人々

文治五年(一一八九)、義経は奥州衣川で最期を迎えた。

史料に基づく歴史としては、ここで義経の生涯は終わる。

ところが、人々は義経を死なせなかった。

義経は衣川を脱出した。

北へ向かった。

蝦夷地へ渡った。

海を越えた。

近代になると、ついには、

「源義経はチンギス・ハンになった」

という巨大な伝説まで生まれた。

もちろん歴史学的根拠はない。

重要なのは、その説が正しいかどうかではない。

なぜ、そのような伝説が必要とされたのか。

ということである。

そこには、

「義経があんなところで死ぬはずがない」

という願望があったのではないだろうか。

安宅の関で人々は、

「どうか義経を通してやってくれ」

と願った。

しかし歴史は衣川で義経を追い詰めた。

すると物語は、

「いや、義経は死んでいない」

と言い始めた。

史実が義経を殺しても、人々の情が義経を死なせなかったのである。


十六 義経=チンギス・ハン説という巨大な「名誉回復」

義経=チンギス・ハン説を物語として見ると、興味深いものがある。

兄頼朝によって日本を追われた弟が海を渡り、大陸へ行き、ついには世界史上最大級の帝国を築く。

頼朝は日本に幕府を作った。

しかし義経はユーラシア大陸に、それをはるかに上回る帝国を作った。

もちろん史実ではない。

しかし物語として見れば、これは壮大な名誉回復である。

頼朝はお前を認めなかった。

日本はお前を追放した。

しかし、お前はそんな小さな人物ではなかった。

世界を取るほどの人間だったのだ。

判官贔屓がユーラシア大陸規模にまで膨張したのである。

しかし、ここには逆説もある。

この伝説は義経を救おうとして、

「どれだけ大きな権力を手に入れたか」

という頼朝と同じ尺度によって義経を救っている。

しかし、本当にそうする必要があるのだろうか。

弁慶が最後までついてきた。

佐藤兄弟が命を懸けた。

静が思い続けた。

そして八百年以上たった人々が安宅の関で涙を流す。

それだけですでに、義経は別の意味で「勝っている」のではないだろうか。


十七 英雄とは何か

ここで「英雄とは何か」という問いが現れる。

歴史的業績だけなら、頼朝の方が義経よりはるかに大きい。

頼朝は鎌倉幕府の礎を築き、日本の政治構造を大きく変えた。

では頼朝と義経のどちらが英雄なのだろうか。

この問いは、

「偉大な人物」と「英雄」は同じなのか

という問題を含んでいる。

私は、必ずしも同じではないと考える。

偉大な人物は、その成果によって記憶される。

英雄は、その生き方によって記憶される。

頼朝を語るとき、鎌倉幕府を抜きにすることはできない。

義経を語るとき、安宅の関に義経と弁慶が立っているだけで物語が成立する。

英雄とは、単に大きなことを成し遂げた人ではない。

その人の生が、本人の死後も他者によって生き直される人

なのではないだろうか。


十八 英雄には「観客」が必要である

ここで、ハンナ・アーレントが古代ギリシャの公共世界を論じながら考えた「不死」という問題が重要になる。

人間は死すべき存在である。

しかし、その人が行ったこと、語ったことが他者によって記憶され、共同世界の中に残るなら、その有限な生は一個人の寿命を越える。

アキレウスは肉体が不死だから英雄なのではない。

その行為が語り継がれるから不死になる。

そして英雄的行為には、それを見届ける他者が必要である。

英雄は自称できない。

誰かがその人を見て、語り、記憶し、次の世代へ伝える。

そのとき初めて、一人の人間の生は共同世界に残る。

その意味で英雄とは、

本人と、それを記憶する共同体との共同作品

なのである。

義経ほど、このことをよく示す人物も少ない。

『平家物語』がある。

『義経記』がある。

能『安宅』がある。

歌舞伎『勧進帳』がある。

そして、それらを読み、語り、演じ、見て、涙を流してきた無数の人々がいる。

英雄・義経は、義経本人と、八百年以上にわたって彼を記憶してきた人々によってつくられたのである。


十九 頼朝は制度を残し、義経は不死を得た

ここまで来ると、頼朝と義経の違いをもう一度考えることができる。

頼朝は制度を残した。

義経は物語を残した。

頼朝は現実を変えた。

義経は人間の心の中に一つの可能性を残した。

頼朝は歴史上の勝者になった。

義経は英雄になった。

そして義経の不死には、一つの特徴がある。

義経は一人では記憶されていない。

義経と弁慶。

義経と佐藤兄弟。

義経と静。

義経と頼朝。

つまり義経は、

関係の中で記憶されている英雄

なのである。

これは実に象徴的である。

もし義経が求めていたものが人との情的なつながりだったとすれば、彼は死後、その「つながり」によって不死になったことになる。

衣川で肉体は死んだ。

しかし弁慶とともに安宅の関に立ち続ける。

歌舞伎の幕が上がるたびに現れる。

観客が涙を流すたびに、その人の心の中に現れる。

だから、

義経は衣川で死んでいない。

もちろん史実について言っているのではない。

人間の共同世界における「不死」について言っているのである。


結び――頼朝がつくった世界が、頼朝の家を呑み込んだ

源氏はなぜ三代で滅びたのか。

歴史学的には、北条氏の台頭、比企氏との対立、頼家・実朝をめぐる政治状況、後継者問題など、複数の具体的要因を検討しなければならない。

したがって、

「情を切り捨てたから三代で滅びた」

という一文だけを、歴史的因果関係として提示することはできない。

しかし、それらの政治過程を貫く人間関係の原理として考えるなら、この問いには重要な意味がある。

河内源氏は何世代にもわたり、血族の情より政治的生存を優先する行動を繰り返してきた。

頼朝は、その論理を徹底した。

義仲を倒した。

義経を追った。

範頼を失脚させた。

有力な同族を抑えた。

その結果、頼朝個人は強くなった。

鎌倉殿を頂点とする新しい政治秩序をつくることにも成功した。

しかし、その成功の裏側で、

「頼朝が死んだ後にも、頼朝の子どもたちを守る源家」

は育たなかった。

そして頼朝が死んだ。

残ったのは、

北条家。

比企家。

梶原家。

三浦家。

和田家。

それぞれ、自らの家を持つ有力者たちだった。

頼朝という中心がなくなると、彼らの間で生存競争が始まった。

梶原景時が消えた。

比企氏が消えた。

頼家が消えた。

畠山重忠が消えた。

和田氏が消えた。

そして実朝が殺され、公暁も殺された。

ここに恐ろしい逆説がある。

頼朝は、

「政治的に危険な者は、たとえ血族でも排除する」

という合理性によって天下を取った。

ところが頼朝の死後、その合理性は頼朝の子孫だけを例外扱いしてはくれなかった。

政治的に危険なら排除される。

血族であっても排除される。

その世界の中で、頼朝の子も孫も死んでいった。

だからこれは、超自然的な意味での因果応報ではない。

もっと厳しい意味での因果応報だったのではないだろうか。

頼朝がつくった世界が、最後には頼朝の家を呑み込んだのである。

それに対して、源氏の中にありながら別の原理――「情」――を象徴する人物として後世に記憶されたのが義経だった。

頼朝は義経に勝った。

義経は衣川で死んだ。

しかし八百年後、『勧進帳』の幕が上がる。

弁慶が義経を打つ。

義経がそれを許す。

富樫が彼らを通す。

そして観客が泣く。

人々は衣川で義経が死んだことさえ受け入れなかった。

北へ逃がした。

蝦夷地へ渡らせた。

海を越えさせた。

ついにはチンギス・ハンにまでしてしまった。

歴史学から見れば誤りである。

しかし、その「誤り」が生まれたこと自体には意味がある。

人々は、史実を曲げてまで義経を生かしたかったのである。

頼朝は情を切り捨てることで政治的勝者になった。

しかし、その家は三代で途絶えた。

義経は政治的合理性の世界では敗れた。

しかし、後世の人々が彼に見いだした「情」によって、語られ、演じられ、泣かれ続けた。

頼朝は鎌倉幕府という制度を残した。

義経は、

「人間は利害や制度だけで結ばれる存在ではない」

という人間的可能性を残した。

だから最後に、源氏三代の歴史を一つの対句にするなら、こう言えるのかもしれない。

頼朝は、血族を切ることで「鎌倉殿」をつくった。
しかし、血族を切ったために「源家」をつくれなかった。

そして義経は、

「源家」の中に居場所を得ることはできなかった。
しかし、人々の「情」の中に、八百年を越える居場所を得た。

史実は文治五年、衣川で源九郎義経を殺した。

しかし、人々は義経を死なせなかった。

安宅の関で今日なお誰かが、

「どうか、この人を通してやってくれ」

と願い、涙を流すたびに、

八百年以上前に死んだはずの源九郎義経は、

再び、この世界に生きている。

 

 

はじめに

人間は死ぬ。

どれほど強い者も、どれほど巨大な権力を握った者も、この事実から逃れることはできない。

しかし、人間はただ死ぬだけの存在なのだろうか。

自分が死んだ後にも、何かを残すことはできないのか。

子を残す。

家を残す。

制度を残す。

作品を残す。

名を残す。

そして、自分が「誰であったか」を、人間の記憶の中に残す。

一見すると、これらはすべて「死後にも残る」という点で似ている。

しかし、同じではない。

家が続くことと、その家を作った人間が記憶され続けることは違う。

制度が続くことと、その制度を作った個人が不死になることも違う。

さらに、人間世界の記憶の中に残る「不死」と、人間世界の生成消滅そのものを越える「永遠」も違う。

ここを区別しなければならない。

これまで三つの論考で、源頼朝と源義経、徳川家康と真田信繁、そして織田信長・豊臣秀吉・徳川家康について考えてきた。

第一の論考で考えたのは、「家」と「情」だった。

頼朝は勝った。

義経は敗れた。

頼朝は鎌倉に新しい武家政治の秩序を作った。

義経は兄に追われ、衣川で死んだ。

しかし頼朝の直系による源氏将軍家は三代で絶えた一方、義経は八百年以上たった今日まで人々の記憶の中に生きている。

第二の論考で考えたのは、「自己保存」と「自己超越」だった。

家康は生き残った。

信繁は死んだ。

しかし家康は、自らの権力を徳川家へ、さらに制度へ継承できる仕組みを作った。

一方の信繁は、九度山で生き続ける道を離れ、大坂へ入り、自らの有限な生を一つの決定的な行為へ投じた。

第三の論考では、信長・秀吉・家康を比較した。

そこで見えてきたのは、「英雄の時間」と「家の時間」の違いだった。

英雄は、

「この人でなければならなかった」

という代替不可能な「誰」として記憶される。

家は、

「この人が死んでも、次の人が継ぐ」

ことによって続く。

英雄は「誰」が消えないことで残る。

家は「誰」が替わっても続くことで残る。

そして、ここからさらに三つの異なる時間のあり方が見えてくる。

持続。

不死。

永遠。

家や制度は、歴史的時間の中で持続する。

しかし、それらはいつか途絶え、崩壊し得る。

アーレント的な不死とは、一人の死すべき人間の「誰」が、行為と物語によって本人の死後も共同世界の記憶の中に現れ続けることである。

それに対して、プラトンの『饗宴』が最後に向かう「美そのもの」は、人間世界の中で長く残ることではない。

生成し、変化し、消滅する個別的なものを越えた、永遠なるものへの上昇である。

この三つを混同してはならない。

そして、この区別を置いたとき、これまで考えてきたさまざまな人物が、一つの問いのもとに並び始める。

有限な人間は、時間とどのような関係を結ぶことができるのか。

そこから、もう一つの問いが現れる。

英雄とは何なのか。


一 勝者と英雄は同じではない

私たちは「英雄」という言葉を、しばしば「偉大な人物」と同じ意味で使う。

しかし、本当にそうだろうか。

権力を獲得した人物。

巨大な国家を作った人物。

戦争に勝った人物。

長期政権を築いた人物。

そうした人物は確かに偉大である。

しかし、それだけで英雄なのだろうか。

源頼朝の歴史的業績は、義経よりはるかに大きい。

徳川家康の歴史的業績も、真田信繁よりはるかに大きい。

にもかかわらず、「英雄」という言葉を置いたとき、義経や信繁の姿が強く浮かび上がってくる。

同じことは、信長・秀吉・家康を並べても起こる。

最終的な政治的勝者は家康である。

しかし「英雄性」という尺度では、信長が最も強く、次に秀吉が続き、家康は相対的に遠く見える。

ここには、異なる種類の偉大さがあるのではないか。

一つは、

世界を組織し、支配し、持続させる能力。

もう一つは、

自らにしかなし得ない行為によって、自分が「誰であるか」を世界に現す能力。

前者の極に権力者がいる。

後者の極に英雄がいる。

もちろん、実際の人間を二種類に分類することはできない。

信長は巨大な権力者であると同時に英雄でもある。

家康にも英雄的な行為はある。

義経にも政治的合理性があり、信繁にも生存への欲望がある。

問題なのは人物分類ではない。

歴史の中には、

自分と自分に属するものを持続させようとする方向と、有限な自分を越えて、代替不可能な何かを世界に現そうとする方向

があるということである。


二 権力者/英雄――カネッティの「生き残る者」

権力者と英雄の違いを考えるとき、エリアス・カネッティの『群衆と権力』は鋭い手掛かりを与える。

カネッティは、権力と「生き残ること」との間に深い関係を見た。

敵が死ぬ。

競争相手が死ぬ。

仲間さえ死んでいく。

それでも、自分は残っている。

「他者が死んだ後にも、自分は生きている」

という経験の中に、権力の原型を見るのである。

死者にはもう行為できない。

命令できない。

支配できない。

しかし生き残った者にはそれができる。

この意味で、権力は自己保存と深く結びついている。

徳川家康ほど、この「生き残る権力者」という像にふさわしい人物は少ない。

三方ヶ原で武田信玄に敗れても生き残った。

信長の巨大な権力のもとでも生き残った。

秀吉が天下を統一すると、その秩序の中でも生きた。

信玄が死んだ。

信長が死んだ。

秀吉が死んだ。

そして家康が残った。

しかし家康の特異性は、自分一人が生き残ったことだけではない。

家康は、自分の権力を自分の死後にも継承できる仕組みに変えた。

徳川家を残した。

秀忠へ将軍職を譲った。

さらに、個々の当主が交代しても政治秩序が動く仕組みを形成した。

ここで重要なのは、これを「家康の不死」と呼ばないことである。

家康が成し遂げたのは、

自己保存の制度化ではあっても、アーレント的な意味での不死そのものではない。

家は持続する。

制度も持続する。

しかし「持続」と「不死」は同じではない。


三 頼朝――合理性が自らの家を呑み込む

頼朝にも、自己保存を徹底する権力者の論理があった。

義仲を倒す。

義経を追う。

範頼を失脚させる。

独自の軍事力を持つ者。

独自に朝廷と結びつく者。

将来自分の地位を脅かし得る者。

それらを放置しない。

権力者としては合理的である。

その結果、

「頼朝を中心とする鎌倉」

は強くなった。

しかし、

「頼朝が死んだ後に頼家や実朝を支える源家」

は弱くなった。

頼朝が死ぬ。

北条家がある。

比企家がある。

梶原家がある。

三浦家がある。

和田家がある。

それぞれ、自前の「家」を持っている。

しかし、それらを圧倒して若い頼家を守る「源家」は存在しない。

そして梶原が消える。

比企が消える。

頼家が消える。

畠山が消える。

和田が消える。

最後には実朝も消える。

もちろん、それぞれの事件には固有の原因がある。

しかし一つの大きな構造として、

「政治的に危険な者は排除する」

という頼朝の合理性が、頼朝の死後も鎌倉の政治世界に残ったと見ることはできる。

そして、その論理は創設者の子孫だけを例外扱いしてくれなかった。

頼朝が作った世界が、最後には頼朝自身の家を呑み込んだのである。

ここに権力と制度の逆説がある。

制度は、創設者から離れることによって強くなる。

しかし創設者から離れた制度は、創設者の家を守ってくれるとは限らない。

制度の持続は、創設者個人の持続ではない。

まして、不死でもない。


四 家康――「第二の家康」を必要としない政治

この点で家康は、頼朝が解けなかった問題の一部を解いた。

家康が死んでも秀忠がいる。

秀忠の後には家光がいる。

しかも重要なのは、秀忠が家康である必要がなかったことである。

毎代、家康ほど卓越した人物が現れなければ維持できない政権なら、その政権は脆弱である。

天才は世襲できない。

英雄も世襲できない。

したがって、家康の課題は、

「どうすれば第二の家康を作れるか」

ではなかった。

むしろ、

「第二の家康がいなくても続く政治を、どう作るか」

だった。

ここに英雄と制度との根本的な違いがある。

英雄は、

「この人でなければならなかった」

ことによって成立する。

制度は、

「この人でなくても動く」

ことによって完成する。

英雄は代替不可能である。

制度は、一定程度、人間を交代可能にしなければならない。

だから家康が信長ほど英雄的に見えないことは、家康の政治的偉大さを少しも損なわない。

むしろ、

英雄を必要としない秩序を作ったこと

に家康の政治的達成があった。


五 自己保存/自己超越

権力者の原理を「自己保存」と呼ぶなら、英雄の原理は「自己超越」と呼ぶことができる。

自己保存が問うのは、

「私はどうすれば残れるか」

である。

自己超越が問うのは、

「私は、この有限な生によって、自分を越えて何を世界に現すことができるか」

である。

両者の違いは、時間の長短ではない。

百年生きれば自己超越になるわけではない。

家が五百年続けば、それによって最初の当主が不死になるわけでもない。

ここには質的な違いがある。

信繁にとって、その象徴的な瞬間が九度山から大坂へ移ったときだった。

九度山にいれば、生きることはできた。

しかし、自分が「誰であるか」を世界に現す場所はなかった。

大坂へ入ることは、死を選ぶことではない。

信繁は勝とうとしている。

しかし、

生命を保存することだけを最高の価値とはしなかった。

ここに自己保存を越える跳躍がある。

そして信長にも、別の仕方でこの「過剰」がある。

信長は自己保存を否定した人物ではない。

しかし、与えられた世界の中で安全な位置を確保するだけでは説明できない行為がある。

世界へ自分を適応させるよりも、自分の行為によって世界の可能性そのものを押し広げようとする。

ここに、権力者でありながら英雄でもある信長の特殊性がある。


六 持続/不死/永遠

ここで、三つの時間性をはっきり区別したい。

第一は、

持続。

家や制度が、個々の人間の生命を越えて歴史的時間の中で続くことである。

徳川家は家康の死後も続いた。

江戸幕府も家康の死後に続いた。

しかし、どちらも歴史的な存在である。

始まりがある。

変化する。

そして終わり得る。

第二は、

不死。

一人の有限な人間が、行為によって固有の「誰」を他者の前に現し、その「誰」が記憶され、物語られることで、本人の死後も共同世界に現れ続けることである。

ここで問題になるのは、家でも制度でもない。

個人である。

第三は、

永遠。

これはさらに別である。

永遠とは、人間世界の中で非常に長く続くことではない。

生成し、変化し、消滅するものの時間そのものを越える。

この三つは、連続的な三段階ではない。

家が長く続けば不死になり、不死がさらに長く続けば永遠になるわけではない。

持続、不死、永遠は、それぞれ異なる存在の仕方なのである。


七 プラトン――不死への欲望から「美そのもの」へ

この区別を考えるとき、プラトンの『饗宴』は重要である。

ディオティマの議論には、死すべき存在が生殖によって自らを未来へ延長しようとするという議論がある。

身体によって子を生む。

魂によって詩や法律や徳を生む。

そこには、死すべき人間が、自分を越えて何かを生み出そうとする欲望がある。

しかし、『饗宴』の哲学的運動はそこで止まらない。

エロスの階梯は、一つの美しい身体から、あらゆる美しい身体へ、美しい魂へ、制度や知の美へと上昇し、最後には、

「美そのもの」

へ向かう。

それは、ある時には美しく、別の時には醜いものではない。

生まれたり、滅びたりするものではない。

何かがそれを記憶しているから存在するのでもない。

個々の美しいものが消えても、それによって消えるものではない。

ここで問題になっているのは、

永遠なるもの

である。

したがって、プラトンの最終的な方向を、アーレント的な「共同世界における不死」へそのまま接続してはならない。

むしろ対照的である。

プラトンのエロスは、個別的で生成消滅するものから、永遠なる「美そのもの」へ上昇する。

アーレントの英雄は、この人間世界から離れない。

有限なまま、行為し、語られ、記憶されることによって、この共同世界の時間の中に残る。

プラトンは永遠へ向かう。

アーレントは不死を人間世界の中に取り戻す。

ここに、両者の決定的な違いがある。


八 制度/物語

頼朝は政治秩序を残した。

家康も政治制度を残した。

これは「持続」の問題である。

義経は『義経記』となった。

能『安宅』となった。

歌舞伎『勧進帳』となった。

信繁は「真田日本一の兵」となり、後世には「真田幸村」として物語世界を生き始めた。

信長には『信長公記』がある。

秀吉には『太閤記』がある。

こちらでは、一人の「誰」が物語によって呼び戻される。

制度と物語は、人間が死後に残る同じ方法ではない。

制度は、

創設者本人がいなくても作動することによって強くなる。

物語は、

主人公という「誰」がいなくては成立しない。

頼朝がいなくても鎌倉幕府は続いた。

家康がいなくても江戸幕府は続いた。

それは制度としての成功である。

しかし『勧進帳』から義経を取り除くことはできない。

『信長公記』から信長を取り除くこともできない。

物語が問うのは、

「何が作られたか」

だけではない。

「この人は、誰だったのか」

だからである。

そして、ここでアーレント的な不死が可能になる。

制度の持続そのものが人を不死にするのではない。

しかし制度や作品や記録によって構成された人間の世界は、一回的な行為を記憶し、物語として次の世代へ渡す場所になり得る。

世界の持続は、不死そのものではない。

しかし、

不死が成立するための舞台

にはなり得るのである。


九 三英傑――「人」と「家」

ここで第三論考の成果を置きたい。

信長には『信長公記』がある。

秀吉には『太閤記』がある。

そして徳川の世界には『三河物語』がある。

もちろん、三作品は同じ種類の作品ではない。

むしろ、その違いが重要である。

『信長公記』では、信長という一人の「誰」が強く前面に出る。

『太閤記』でも、秀吉という一人の人間の上昇する生涯が物語を駆動する。

しかし『三河物語』には別の時間が流れる。

松平・徳川家がある。

大久保家をはじめ、それに仕えてきた家々がある。

祖先の奉公。

現在の家。

子孫への継承。

そこには、

一代ではなく累代の時間

がある。

ここから三英傑を、

「信長は不死、秀吉は名から家への不死、家康は家の不死」

と整理してはいけない。

その整理では、不死という概念の対象が個人から家へすり替わってしまう。

正確には、

信長――一人の「誰」が突出して記憶される人物。

秀吉――一人の「誰」として記憶されながら、自らの政治的達成を豊臣家へ継承しようとした人物。

家康――一人の「誰」として記憶される一方、自分がいなくても家と制度が持続する政治を形成した人物。

である。

そして三人とも、個人として「誰」が記憶され続けるならば、不死に参与し得る。

徳川家が長く続いたから家康が不死なのではない。

家康という「誰」が、死後も語られ続けるからこそ、家康個人について不死を論じることができるのである。


十 合理性/情――頼朝と義経

第一論考で考えた頼朝と義経の違いは、ここにもう一つの軸を加える。

それが、

合理性と情

である。

頼朝が義経を排除したことには政治的合理性があった。

有力な血族は、有力な競争者にもなり得る。

独自に朝廷と結びつく弟を放置することは、権力者として危険だった。

梶原景時が義経を問題視したことにも、単なる私怨では説明できない政治的理由があった。

頼朝は合理的だった。

しかし問題は、

合理的であったことが、長期的にも合理的だったのか

ということである。

頼朝個人を守る合理性は、有力な血族を将来の危険として切り落とした。

その結果、頼朝死後には若い将軍を強く支える「源家」が弱かった。

ここに合理性の逆説がある。

個人を守る合理性が、家を弱くすることがある。

一方、後世の義経像は「情」の中に置かれた。

もちろん史実上の義経本人が、どこまで「情」を中心に生きていたかは慎重に考えなければならない。

しかし、後世の人々が作った義経には明らかに「関係」がある。

義経と弁慶。

義経と佐藤兄弟。

義経と静御前。

義経と頼朝。

義経は、

「誰と、どのように結ばれた人間だったのか」

という関係の中に残った。

だから頼朝と義経の違いを短く言えば、

頼朝は「秩序」を作った。

義経は「関係」の中に残った。

と表現することができる。


十一 義経は「関係」の英雄、信繁は「行為」の英雄

義経と信繁は、ともに政治的には敗者でありながら英雄となった。

しかし、その英雄性は同じではない。

信繁の英雄性の中心には「行為」がある。

九度山から大坂へ入る。

冬の陣を戦う。

夏の陣で家康本陣へ向かう。

その行為によって、

「真田信繁とは誰だったのか」

が世界の前に現れた。

だから信繁を象徴する言葉は、

「真田日本一の兵」

なのである。

義経にも一ノ谷、屋島、壇ノ浦という卓越した軍事的行為がある。

しかし義経を八百年以上生かしてきたものは、それだけではない。

弁慶との関係。

佐藤兄弟との関係。

静御前との関係。

そして、兄頼朝との断ち切られた関係。

だから、

信繁は「行為」によって「誰」を記憶された英雄であり、義経は「関係」によって「誰」を記憶された英雄

と考えることができる。

一方は行為の中で現れる。

一方は関係の中で現れる。

しかし共通していることがある。

どちらも、

その人でなければならなかった。

ここに英雄の代替不可能性がある。


十二 信長――「可能性」の英雄

そして信長を置くと、第三の型が見えてくる。

信長は義経や信繁のような政治的敗者ではない。

巨大な権力者だった。

にもかかわらず、三英傑の中ではもっとも英雄的に見える。

なぜか。

それは信長が、

「世界は、今ある形のままでなければならないわけではない」

という可能性を後世に感じさせたからではないか。

信長が本当にどこまで「革命的」だったかは、歴史学的には慎重に考えなければならない。

しかし英雄という問題は、政策の新規性の一覧表だけでは捉えられない。

後世の人々は信長に、

「この人なら次に何をするのか分からない」

という可能性を見た。

しかも信長は、本能寺で死ぬ。

未完である。

だから、

「もし信長が生きていたら」

という問いが終わらない。

信長の人生には未来が欠けている。

しかし、そのため逆説的に、

信長は死後も未来を持ち続ける。

義経は関係によって。

信繁は行為によって。

信長は未完の可能性によって。

それぞれ固有の「誰」を後世に現し続けるのである。


十三 秀吉――上昇する「誰」

秀吉にはまた別の英雄性がある。

信長に対する問いが、

「次に何をするのか」

だとすれば、

秀吉に対する問いは、

「どこまで上るのか」

である。

低い位置から出発した一人の人間が、天下人になる。

秀吉の一生そのものが物語になった。

後世の人々は、その上昇の中に秀吉という固有の「誰」を見た。

そして秀吉は、天下を取った後、自分の政治的達成を豊臣家へ継承しようとした。

しかし豊臣家は滅びた。

ここで、家の持続と個人の不死が明瞭に分かれる。

豊臣家は滅びた。

しかし、

秀吉は消えなかった。

家が途絶えても、その家を作った一人の「誰」は、人間世界の記憶に残り得る。

これほど、「持続」と「不死」が別問題であることを分かりやすく示す例も少ない。


十四 アキレウス――英雄の原型

ここでアキレウスへ戻りたい。

『イリアス』のアキレウスには二つの運命が示される。

故郷へ帰れば長く生きることができる。

しかし名は残らない。

トロイアに残れば若く死ぬ。

しかし不滅の名誉を得る。

アキレウスは後者を選ぶ。

しかし、ここから、

「英雄とは死を恐れない人である」

とだけ結論すれば浅い。

アキレウスは死そのものを求めているわけではない。

信繁も、死ぬために大坂へ行ったわけではない。

信長も、本能寺で死ぬために天下を目指していたわけではない。

英雄性とは、

生命の保存だけを、人間の最高価値としないこと

なのである。

いつか死ぬ。

時間は有限である。

やり直すことはできない。

それでも、その一回限りの時間の中で行為する。

だから「誰」が現れる。

英雄が英雄であるためには、死すべき者でなければならない。

永遠なる存在には、有限な時間を賭けるという意味での英雄的行為は必要ない。

英雄は永遠なのではない。

有限だからこそ、英雄なのである。


十五 英雄には観客が必要である

しかし、アキレウスがどれほど勇敢に行為しても、誰もそれを語らなければ不死にはならない。

ここに英雄の決定的な条件がある。

英雄には観客が必要である。

行為する者がいる。

それを見る者がいる。

語る者がいる。

記憶する者がいる。

そして、その物語を次の世代が受け取る。

アキレウスにはホメロスがいた。

義経には『平家物語』『義経記』があり、能『安宅』、歌舞伎『勧進帳』があった。

信繁には「真田日本一の兵」という評価があり、後世には「真田幸村」という巨大な物語が生まれた。

信長には太田牛一の『信長公記』がある。

秀吉には『太閤記』がある。

英雄は一人では英雄になれない。

より正確に言えば、

英雄とは、一人の人間の「誰」と、その人を記憶する共同世界との間に成立する存在

なのである。

だから伝説が生まれる。

義経がチンギス・ハンになったという話は史実ではない。

「真田幸村」も、史実上の真田信繁そのものではない。

信長の「革命児」像にも、後世の解釈が重なっている。

しかし、だから伝説が無意味なのではない。

史実は、

「その人が何をしたのか」

を教える。

伝説は、

「後世の人々がその人に何を見たのか」

を教える。

義経北行伝説が興味深いのは、義経が本当に北へ逃げたからではない。

人々が、

義経を衣川で死なせることに耐えられなかった

からである。

史実は衣川で義経を殺した。

しかし人間の記憶は、

「まだ死んでいない」

と言った。

ここに、

記憶の歴史

がある。


十六 不死は共同世界に依存する

ここには、永遠と不死のもう一つの決定的な違いがある。

「美そのもの」は、人間が忘れれば消えるというものではない。

しかし英雄の不死は違う。

語る人がいなくなれば、消える。

記憶する共同体がなくなれば、失われる。

物語が伝えられなくなれば、「誰」は人間世界へ現れなくなる。

つまり、アーレント的な不死は絶対的ではない。

むしろ、

脆い。

人間の記憶に依存する。

共同世界に依存する。

次の世代が物語を受け取ることに依存する。

その意味で、不死は永遠より弱い。

しかし同時に、その脆さこそが人間的である。

死すべき者が、別の死すべき者によって記憶される。

その人も死ぬ。

さらに次の人間が受け取る。

そうやって物語が手渡される。

英雄の不死とは、

人間が人間へ死者を手渡し続けることによって成立する不死

なのである。


十七 英雄とは「人間の可能性」を保存する者である

では、なぜ共同体は英雄を語り継ぐのだろうか。

ここに英雄という存在の最も深い意味があると思う。

英雄とは、

「人間は、このように生きることもできる」という可能性を共同世界に保存する者

なのではないだろうか。

義経が保存しているものは、

人間は利害や制度だけで結ばれる存在ではない

という可能性である。

弁慶は、義経が何も与えられなくなっても離れない。

佐藤兄弟は命を懸ける。

静は義経を思い続ける。

だから人々は安宅の関で泣く。

信繁が保存しているものは、

人間は自己保存だけのために生きる存在ではない

という可能性である。

圧倒的に不利な状況でも、自分の生を自分で引き受け、行為することができる。

信長が保存しているものは、

世界は与えられた形のままである必要はない

という可能性である。

秀吉が保存しているものは、

人間は自分に与えられた位置を越えることができる

という可能性である。

アキレウスが保存しているものは、

生命そのものよりも大切なものがあり得る

という可能性である。

英雄とは、完全な人間ではない。

道徳的聖人でもない。

義経にも欠点があった。

信繁にもあった。

信長にも秀吉にも、残酷さや破壊性がある。

アキレウスは怒りによって悲劇を引き起こす。

それでも英雄になり得る。

なぜなら英雄とは、

「正しい人」のことではなく、一つの人間的可能性を極端なまでに可視化した人

だからである。


十八 しかし、英雄だけでは世界は成り立たない

ここまで書くと、英雄を称賛し、権力者を否定しているように見えるかもしれない。

しかし、それでは問題を単純化しすぎる。

頼朝がいなければ、鎌倉という新しい武家政治の秩序は同じ形では成立しなかった。

家康がいなければ、戦国の後に同じような長期的政治秩序が形成されたとは限らない。

人間は英雄だけでは社会を作れない。

社会には制度が必要である。

秩序が必要である。

合理性が必要である。

予測可能性が必要である。

毎日、英雄的決断を要求される社会など、むしろ不幸な社会である。

だから、

権力者=悪

英雄=善

という話ではない。

両者は、世界に異なるものを与える。

権力者は、

世界を持続させる。

英雄は、

その世界の中で見失われた人間的可能性を可視化する。

制度は人間を守る。

しかし制度には、自らの持続それ自体を目的化する危険もある。

頼朝が作った合理的な秩序が、最後には頼朝の家まで呑み込んだことは、その危険を象徴している。

制度を守るために人間が存在するのか。

人間が生きるために制度が存在するのか。

その問いを失ったとき、合理性は自ら作ったものを食い始める。

そこに英雄の役割があるのかもしれない。

英雄は制度を壊すために存在するのではない。

制度だけでは表現しきれない人間の可能性を、私たちに思い出させる。

そして同時に、家康の仕事も必要なのである。

家康は、

英雄がいなくても続く世界

を作ろうとした。

英雄の代替不可能性とは反対に、人間の交代可能性を引き受ける制度を作った。

英雄と制度のどちらが上なのではない。

人間は、持続する世界と、その世界の意味を問い直す人間の両方を必要とする。


十九 八つの対比、そして三つの時間

ここまでの議論を整理すると、次のようになる。

権力・家・制度の方向 英雄の方向
自己保存 自己超越
生存 行為
制度 物語
個人の「誰」
合理性 情・関係
持続 不死
継承可能性 代替不可能性
「何を残すか」 「誰であったか」

ただし、これは人物を二種類に分類するための表ではない。

家康にも英雄的行為がある。

信繁にも自己保存への意志がある。

頼朝にも情はある。

義経にも政治的合理性はある。

信長は巨大な権力者でありながら英雄でもある。

秀吉は一人の「誰」として不死に参与しながら、同時に家の持続を求めた。

重要なのは、この表が人間の生が向かう異なる方向を示していることなのである。

そして、この二つの方向の外側に、もう一つがある。

永遠。

持続は、歴史的時間の中で続く。

不死は、個人の生命を越えて共同世界の時間の中に残る。

永遠は、生成消滅する時間そのものを越える。

したがって、

持続 ≠ 不死 ≠ 永遠

である。

この区別を最後まで守らなければならない。


二十 歴史の勝者と、人間の記憶に残る者

こうして最初の問いへ戻る。

歴史の勝者と英雄は同じなのか。

答えは、

必ずしも同じではない。

歴史の勝者は、その時代の権力関係を制した者である。

英雄は、その時代を越えて、

後世の人間に何かを生じさせ続ける者

である。

だから、政治的勝敗と記憶の勝敗は一致しない。

頼朝は義経に勝った。

家康は信繁に勝った。

秀吉は天下を統一した。

信長はその完成を目前にして死んだ。

しかし、それで終わりではなかった。

死後に、もう一つの歴史が始まった。

記憶の歴史である。

義経は衣川で死んだ後、安宅の関を歩き続けた。

信繁は天王寺で死んだ後、「日本一の兵」になった。

信長は本能寺で死んだ後、

「もし信長が生きていたら」

という未来を持ち続けた。

秀吉は豊臣家が滅びた後も、「太閤」として天下へ駆け上がり続けた。

アキレウスは何千年もの間、『イリアス』の中で戦場へ戻り続けている。

肉体の死は、英雄にとって必ずしも最後ではない。

時としてそれは、

英雄の第二の生の始まり

なのである。


結び――死すべき者に許された不死

人間には、さまざまな時間との関わり方がある。

家を継承することができる。

制度を作ることができる。

作品を残すことができる。

そして、行為によって自分が「誰であるか」を他者の前に現すことができる。

しかし、それらを同じものとしてはいけない。

家や制度は持続する。

しかし、持続には終わりがある。

アーレント的な不死は、一人の「誰」が共同世界の記憶の中に残ることである。

しかし、その不死もまた、人間の記憶に依存しており、永遠ではない。

プラトンの「美そのもの」は、そのさらに外側にある。

人間世界の記憶の長さとは無関係な、永遠なるものへの上昇である。

だから英雄は、永遠なる者ではない。

むしろ、

徹底的に死すべき者である。

いつか死ぬ。

時間は戻らない。

行為は一回しかできない。

だからこそ、その一回的な行為に意味がある。

そして、その行為を誰かが見る。

語る。

記憶する。

次の世代へ渡す。

そうして、死んだ人間の「誰」が、もう一度共同世界に現れる。

ここに不死がある。

英雄とは、

有限な生の中で、代替不可能な「誰」として一つの人間的可能性を鮮烈に現し、その行為や関係が他者によって記憶され、物語られることで、死後も共同世界に現れ続ける人

なのではないだろうか。

英雄は、一人では英雄になれない。

英雄には観客が必要である。

語る人が必要である。

記憶する人が必要である。

そして後世の人間が、その物語を、

「これは自分とは無関係な昔話ではない」

と受け取る必要がある。

安宅の関で義経を見る。

「どうか、この人を通してやってくれ」

と思う。

大坂の陣で信繁を見る。

「人間はここまで自分の生を引き受けることができるのか」

と思う。

信長を見る。

「世界は、与えられた形のままでなければならないのか」

と問う。

秀吉を見る。

「人間は、自分に与えられた位置をどこまで越えることができるのか」

と考える。

アキレウスを見る。

「人間にとって、生きること以上に大切なものはあり得るのか」

と問う。

その瞬間、死者は再び現在へ現れる。

それは永遠ではない。

人間が語ることをやめれば、消えるかもしれない。

だからこそ、この不死は人間的である。

死すべき者が、死すべき者を記憶する。

その記憶を、さらに次の死すべき者へ手渡す。

英雄の不死とは、

人間が人間へ死者を手渡し続けることによって成立する不死

なのである。

頼朝は義経に勝った。

家康は信繁に勝った。

秀吉は天下を統一した。

信長は本能寺で死んだ。

トロイア戦争も、はるか昔に終わった。

それでも、

安宅の関では、今日も弁慶が義経を打つ。

大坂では、今日も信繁が家康の本陣へ向かう。

『信長公記』を開けば、今日も信長が次の一手を打とうとしている。

『太閤記』を開けば、今日も秀吉が天下へ向かって駆け上がっている。

そして『イリアス』を開けば、今日もアキレウスが戦場へ戻っていく。

彼らを動かしているのは、もはや彼ら自身の生命ではない。

彼らを死者のままにしておかなかった、人間の記憶である。

歴史には勝者がいる。

勝者が作った制度もある。

長く続く家もある。

そして哲学には、永遠なるものへの問いもある。

しかし、人間の世界には、それらとは別に、

死後もなお「誰」として現れ続ける者がいる。

私たちは、そのような者を、

英雄

と呼んできたのではないだろうか。

はじめに

大坂夏の陣で、徳川家康と真田信繁は正反対の運命をたどった。


家康は生き残った。


信繁は死んだ。


豊臣家は滅亡し、徳川の天下が確立した。その後、徳川による政治秩序は二世紀半以上にわたって続く。


これだけを見れば、家康は圧倒的な勝者であり、信繁は壮烈な敗者である。


ところが、四百年以上たった現在まで、「真田日本一の兵」という言葉は生きている。


信繁は領国を残さなかった。政権も制度も残さなかった。そして、自分自身も戦場で死んだ。


それなのに、私たちは今も「真田信繁とは何者だったのか」と問い続けている。


なぜだろう。


そこには、単なる勝者と敗者という区別では捉えきれない、二つの「残り方」があるのではないか。


一つは、自分自身、あるいは自分に連なる家や秩序を、できるだけ長く存続させること


もう一つは、自分自身は死んでも、自分が「誰であったのか」を、他者の記憶と物語のなかに残すことである。


この二つは似ているようでいて、同じではない。


前者を自己保存と呼ぶなら、後者には、自己保存とは異なる自己超越の契機が含まれている。


徳川家康と真田信繁という二人の生涯を、エリアス・カネッティとハンナ・アーレントの思想を手がかりとして考えてみたい。


ただし、家康をそのまま「カネッティ的人間」、信繁をそのまま「アーレント的人間」と分類しようというのではない。


二人の思想家は、二人の武将を分類する物差しではない。


むしろ二人の武将を通して、権力者とは何か、英雄とは何か。そして人間にとって「残る」とはどういうことなのかを考えるための視角なのである。




一 家を残した徳川


徳川家康という人物を考えるとき、「生き残る」という言葉は非常に重要である。


三方ヶ原では武田信玄に大敗した。


織田信長の巨大な力のもとでは、その力と共存した。


豊臣秀吉が天下を統一すると、これに臣従した。


しかし、信玄は死んだ。


信長も死んだ。


秀吉も死んだ。


そして家康が残った。


家康の非凡さは、負けなかったことではない。


負けても滅びなかったことにある。


不利なら退く。


時機が来なければ待つ。


より強い相手が存在すれば、その秩序のなかで生きることも受け入れる。


そして条件が変われば、その機会を逃さない。


家康は「生き残ること」を、政治的能力へと高めた人物だった。


しかも、それを自分一代の能力で終わらせなかった。


自分が死んでも徳川が残るようにした。


将軍職を秀忠へ譲り、一門を配置し、大名秩序を組み上げる。


「私が生き残る」から、


「徳川が生き残る」


へ。


さらに、


「徳川が作った政治秩序が生き残る」


へ。


家康は、いわば生存を制度化したのである。




二 カネッティ――「生き残る者」としての権力者


この家康の生涯を考えるとき、エリアス・カネッティの『群衆と権力』は、一つの鋭い視角を与えてくれる。


カネッティは権力と「生き残ること」との深い結びつきを描いた。


他者が倒れる。


敵が死ぬ。


それでも自分は立っている。


死者を前にして自分だけが生き残っているという経験のなかに、カネッティは権力の根源的な衝動を見いだす。


もちろん、家康の政治思想や心理をカネッティによって説明できるという意味ではない。


しかし、家康の長い政治人生を「生き残る者」という視角から眺めると、その特異な強さが鮮明になる。


家康は、武田信玄より長く生きた。


織田信長より長く生きた。


豊臣秀吉より長く生きた。


そして最後に残った。


しかも、家康の「生き残る」は個体の生命で終わらなかった。


自分が死んだ後にも徳川が残る仕組みを作った。


個人としての生存を、家の存続へ。


家の存続を、政治秩序の持続へ。


自己保存を個体から制度へまで拡張したところに、家康という権力者の巨大さがある。




三 徳川は「家」を残した


この観点から見ると、徳川の歴史には驚くほど一貫したものがある。


家康が作った幕府は長く続いた。


そして幕府が終わるときにも、徳川家そのものは滅亡しなかった。


もちろん、大政奉還から江戸城無血開城までの政治過程を、家康以来の単一の「徳川の遺伝子」で説明することはできない。


時代も人物も条件も違う。


しかし結果として見るならば、そこには興味深い共通性がある。


政権を失っても、家は残す。


幕府という政治形態そのものと心中するのではなく、それを手放すことで徳川家そのものは存続する。


これは、徳川という政治的存在が示した、自己保存の一つの極致であったとも言える。


だが、ここで一つの疑問が生まれる。


長く残ることは、「不死」なのだろうか。


徳川家が三百年続いても、五百年続いても、千年続いても、それは原理的にはいつか途絶える可能性を持っている。


どれほど長く延びても、


「有限なものが長く存続する」


という構造そのものは変わらない。


ここから、ハンナ・アーレントの「不死」という問題が見えてくる。




四 アーレント――生命が続くことと「不死」は違う


アーレントが『人間の条件』で論じる「不死(immortality)」は、生命を限りなく長く延ばすことではない。


人間は死すべき存在である。


一人の人間の生命には、始まりと終わりがある。


しかし人間は、自分一人の生命よりも長く存続し得る世界に生きている。


そして、複数の他者の存在する世界において言葉を語り、行為することによって、


「自分が誰であるか」


を他者の前に現すことがある。


その言葉と行為が他者によって記憶され、物語られ、本人の生命を越えて共通世界に保持される。


ここに、死すべき人間が「不死」へ接近する可能性がある。


重要なのは、不死が単なる「長命」ではないことである。


さらに、単なる「有名になること」でもない。


名前だけが残ればよいのでもない。


アーレントにとって重要なのは、人が他者とのあいだで言葉と行為によって「誰」であるかを現し、その行為が物語として残ることである。


したがって、家を長く存続させることと、この意味での不死とは同じではない。


自己保存をどれほど時間的に延長しても、それだけで自己超越になるわけではない。


そこには、質的な違いがある。




五 九度山――「生きている」ことと「生きる」こと


この観点から真田信繁の人生を見ると、九度山という場所が特別な意味を帯びてくる。


関ヶ原後、信繁は父・昌幸とともに九度山へ配流された。


そこで生命は続いていた。


家族がいる。


日々の生活がある。


兄・信之らからの援助もあった。


しかし、武将としての信繁が自らの能力を政治や戦争の場で発揮する可能性は、著しく制限されていた。


領国を持たない。


軍勢を持たない。


自ら戦場を選ぶこともできない。


この状態を、アーレントのいう「私的領域」とそのまま同一視することはできない。


九度山は古代ギリシアの家政ではないし、近世日本の配流生活をアーレントのカテゴリーに直接押し込めるべきでもない。


しかし、人間論として見るならば、一つの問題は残る。


信繁は生きている


しかし、自らの能力を用い、自ら判断し、その結果を引き受けることによって、自分の生を十分に生きることができていたのか。


父・昌幸は、赦免されることなく九度山で死んだ。


戦国屈指の知将として武田・上杉・北条・徳川・豊臣という巨大勢力の間を生き抜き、徳川の大軍を上田で苦しめた人物が、最後には領国を失ったまま生涯を終えた。


信繁は、その姿を見ている。


九度山に残れば、信繁もさらに長く生きられたかもしれない。


しかし、長く生きることと、自分自身の生を自分で引き受けて生きることとは、同じではない。




六 大坂入城――死ぬためではなく、生き直すために


1614年、信繁は大坂へ入る。


これを単純に「死に場所を求めた」と理解するべきではない。


もし死ぬこと自体が目的だったなら、真田丸を築く必要はない。


信繁は勝とうとしている。


地形を読む。


大坂城南側の弱点を補う。


敵の攻撃方向を予測する。


圧倒的な兵力差を、戦場の条件を設計することによって局地的に無効化しようとする。


そこには、父・昌幸、さらにその背後にあった武田の軍事文化にも通じる、合理的な用兵を見ることができる。


つまり信繁は、大坂へ「死ぬため」に行ったのではない。


むしろ、


もう一度、自分自身として生きるために行った


と読むことができる。


どこへ行くのか。


誰と戦うのか。


何のために自分の能力を使うのか。


その結果をどう引き受けるのか。


それを、もう一度自分で決める。


九度山から大坂への移動は、単なる地理的な移動ではなかった。


それは、



「生かされている人間」であり続けることをやめ、自分の生を自分でもう一度選び直すこと



だったのではないか。


ただし、ここで大坂をアーレントのいう「公的領域」と呼ぶことはしない。


大坂方は戦時下の軍事的・身分制的組織であり、アーレントが古代ポリスを手がかりに考えた公的領域と同一ではないからである。


また、戦闘や暴力そのものを、アーレントのいう「行為(action)」と同一視することもできない。


それでもなお、大坂での信繁には、アーレントが行為について考えた問題と響き合うものがある。


それは、自ら判断し、その判断を他者の前で行為として示し、その結果として「誰であるか」が露わになるということである。


ここに、九度山時代との大きな違いがある。




七 真田兄弟――家を残す者と、名を残す者


そして信繁には、もう一つ重要な条件があった。


兄・信之がいたことである。


関ヶ原において信之は東軍に属し、昌幸と信繁は西軍側に立った。


その結果、西軍が敗れても真田家そのものは滅亡しなかった。


信之が家を残した。


さらに信之は、九度山の父と弟を援助した。


もちろん、


「兄が家を残すから、弟は名を残す」


という役割分担を兄弟が計画していたわけではない。


そのように考える史料的根拠はない。


しかし結果として、信之によって真田家の存続が確保されていたことは、信繁の置かれた条件を考えるうえで重要である。


信繁が死ねば真田家そのものが滅亡する、という状況ではなかった。


したがって、大坂における信繁の選択を、


「家を残すための自己犠牲」


とだけ理解する必要もない。


結果として、真田兄弟は二つの異なるものを残した。



信之は家を残した。

信繁は名を残した。



家も残った。


名も残った。


この二つを同時に実現したところに、後世から見た真田家の特異な姿がある。




八 大坂夏の陣――自己保存を越える


冬の陣では、信繁にはまだ合理的に勝利を目指す余地があった。


しかし講和後、大坂城の防御条件は大きく変わった。


夏の陣では、大坂方が圧倒的な徳川軍を通常の戦争によって撃破する可能性は極めて低くなっていた。


そこで信繁は、家康本陣へ迫る。


徳川軍全体を撃破するのではなく、その中枢へ攻撃を集中する。


そこには、戦局を一挙に転換しようとする軍事的合理性がある。


しかし同時に、それは信繁自身の生存可能性を著しく低下させる選択でもあった。


自己保存よりも、


戦局を変え得る可能性に自分自身を賭ける。


ここに、家康とは異なる生の方向が現れる。


家康が危機を生き延びることによって可能性を未来へ残したとすれば、信繁は自らの生命を危険にさらすことによって、現在の状況そのものを変えようとした。


この違いを、単純な「臆病」と「勇敢」の対比にしてはならない。


それは、二人の異なる強さだった。




九 「日本一の兵」――行為は物語となる


信繁は大坂夏の陣で死んだ。


生命としての信繁は、そこで終わった。


しかし、「真田信繁」はそこから別の仕方で後世に残る。


「真田日本一の兵」という評価が伝えられる。


やがて史実上の真田信繁は「真田幸村」として物語られ、さらに真田十勇士という伝説まで生まれていく。


ここで注意しなければならない。


名が残ったから、それだけでアーレント的な「不死」を獲得した、と言うことはできない。


単なる知名度や文化的伝承と、アーレントの不死とは同じではないからである。


しかし、信繁という人物が四百年以上にわたって語り継がれてきた事実には、アーレントが「不死」という概念によって考えようとした問題と響き合う構造がある。


人間が行為する。


その行為によって、その人が「誰であったか」が他者の前に現れる。


行為した本人は死ぬ。


しかし、その行為を見た者、聞いた者が、それを語る。


さらに別の者が語り継ぐ。


やがて行為は物語となり、本人の生命を越えていく。


信繁の場合、「日本一の兵」という名は、その長い物語作用の象徴と見ることができる。


本人が生き続けているのではない。


血統が続いているということでもない。


政権や制度が残ったわけでもない。


残ったのは、


「彼が誰であったのか」についての物語


なのである。




十 四百年後の信濃で太鼓が鳴る


信繁の故郷・信濃では、四百年以上たった現在も六文銭が掲げられ、「真田」の名を冠した太鼓が鳴っている。


もちろん、これをそのまま「アーレント的不死の証明」と呼ぶことはできない。


そこには江戸時代以来の物語化、講談、文学、大衆文化、観光、地域アイデンティティなど、さまざまな歴史的作用が重なっている。


しかし、それでもこの光景は興味深い。


1615年に一人の人間の生命は終わった。


ところが、その人間の行為についての物語は、四百年以上後の人間たちによってなお語り直されている。


六文銭を掲げる人々は、信繁本人を知っているわけではない。


それでも、信繁の行為から生まれた物語を、自分たちの時代にもう一度現している。


ここに、



死すべき人間の行為が、その人の生命を越えて共同世界に残り得る



という問題を見ることはできる。


「真田勝鬨太鼓」は不死そのものではない。


むしろ、四百年前の行為がいまだ物語られていることを示す徴なのである。




十一 家康は「英雄」ではなく「権力者」だったのか


ここで家康を低く評価したいわけではない。


むしろ逆である。


家康の自己保存能力は、凡庸な保身とはまったく違う。


敗北から学ぶ。


必要なら退く。


敵の優れたものを取り込む。


待つ。


妥協する。


そして生き残る。


さらに、その能力を家と制度へ変換する。


これは政治家として途方もない能力である。


だからこそ、家康を表現する最も適切な言葉の一つは、


「英雄」よりも「権力者」


なのではないか。


カネッティの「生き残る者」という視角から見れば、家康の政治的特質は鮮明になる。


最後まで残る。


そして、自分が死んだ後にも自分の作った秩序が残るようにする。


家康は、自己保存を個人の能力から政治制度へまで高めた。


その意味で、戦国日本における「権力者」の一つの完成形だった。




十二 では、英雄とは何か


では、英雄とは何だろう。


単に勝った人間を英雄と呼ぶのであれば、家康こそ最大の英雄の一人である。


しかし、人間は必ずしも最後の勝者だけを英雄として記憶してこなかった。


源義経。


上杉謙信。


真田信繁。


あるいは時代を下れば、西郷隆盛。


彼らはいずれも、最終的な政治的勝者という尺度だけでは説明しきれない。


それでも、人間の記憶に強烈に残った。


なぜか。


英雄には、自己保存の合理性だけでは説明できない何かがあるからではないか。


合理的に考えれば、そこまでしなくてもよい。


危険である。


退いた方がよい。


それでも、一歩前へ出る。


自分の判断によって行為し、その結果を引き受ける。


そして、その行為によって、


「この人は誰だったのか」


が他者の前に現れる。


その行為が物語られ始めたとき、それは本人の生命から離れていく。


英雄とは、単に死を恐れない人間ではない。


死ぬこと自体には何の英雄性もない。


むしろ、



自己保存だけでは説明できない行為によって「誰であるか」を示し、その行為が本人の生命を越えて他者に語られる人間



を、私たちは英雄と呼んできたのかもしれない。




十三 家康と信繁は、同じ競争をしていなかった


そう考えると、家康と信繁を単純に「どちらが優れていたか」と比較すること自体が間違っているのかもしれない。


家康は、権力者として成功した。


信繁は、英雄として記憶された。


家康は、


「どうすれば残れるか」


という問いに答えた。


信繁は、


「自分の生を何に使うのか」


という問いに答えた。


前者は自己保存の政治である。


後者には自己超越の契機がある。


両者は同じ尺度の上に並んでいない。


だから家康は、「英雄になることに失敗した権力者」ではない。


信繁も、「権力者になることに失敗した英雄」ではない。


それぞれが、異なる人間的可能性を極端な形で体現したのである。




結び――家康は残った。信繁は越えた。


大坂夏の陣では、二つの人間類型が向き合った。


一方に、


生き残ることを政治的能力へ変え、それを家と制度にまで拡張した権力者・徳川家康。


もう一方に、


自分の生を自分でもう一度選び直し、その結果を引き受ける行為へ踏み出した真田信繁。


戦場では家康が勝った。


信繁は死んだ。


しかし四百年以上という時間を経てみると、その勝敗だけでは捉えられないものが見えてくる。


徳川の政治支配は終わった。


徳川家は存続した。


その意味で、家康が作った自己保存の仕組みは驚異的な成功を収めた。


一方、信繁の生命は1615年に終わった。


それでも、「真田日本一の兵」という物語は生きている。


ここから一つの逆説が浮かび上がる。



生き残ることと、生きたことを残すことは、同じではない。



自己保存をどれほど長く続けても、それだけで自己超越になるわけではない。


家康は、その手前で止まった凡人なのではない。


むしろ、自己保存を極限まで政治化し、制度化した偉大な権力者だった。


そして信繁についても、アーレント的な「不死を獲得した英雄」と簡単に呼ぶべきではない。


大坂をアーレント的公的領域と呼ぶこともできない。


戦闘そのものをアーレント的行為と呼ぶこともできない。


それでも、信繁の生と死には、アーレントが「不死」という言葉によって考えた問題と深く響き合うものがある。


死すべき一人の人間が、自ら判断し、他者の前で行為し、その結果として「誰であったか」を露わにする。


本人は死ぬ。


しかし、その行為を他者が記憶し、物語る。


物語は次の世代へ渡される。


そうして、人間の生命より長く続く世界のなかに、その人が「誰であったか」の痕跡が残る。


九度山にとどまっていたなら、信繁はもう少し長く生きたかもしれない。


しかし彼は大坂へ向かった。


「生かされている人間」であり続けるのではなく、自分の能力をもう一度使い、自分の判断で行為し、その結果を自分で引き受ける生を選んだ。


その選択の果てに、信繁は死んだ。


しかし、その行為は本人の生命とともには消えなかった。


だから、二人の違いを最も短く表現するなら、やはりこの言葉になる。



家康は残った。

信繁は越えた。



家康は、自分の生命を越えて徳川というものが残る仕組みを作った。


信繁は、自分自身が残る仕組みを作ったわけではない。


しかし、自分が「誰であったのか」を他者に語らせる行為を残した。


そして時として、



最後まで残った者よりも、自らを越えた者の方が、人間の世界には長く残る。



四百年以上を経た信濃で、いまなお六文銭が掲げられ、「真田」の名とともに太鼓が鳴っている。


それは「不死」の証明ではない。


しかし、死すべき一人の人間の行為が、本人の生命を越えて物語られ続けるとはどういうことなのか――。


その問いを、四百年後の私たちに投げ返している。


家康は残った。


信繁は越えた。


そして、この二つの「残り方」の違いを考えるところから、権力者と英雄の違いもまた見えてくるのである。



スポーツの技術は、確実に進歩しています。

 
野球の投手は速い球を投げるようになり、テニスのショットは高速化し、スキーの技術も用具も大きく進化しました。科学的なトレーニングやデータ分析によって、「どうすればより高い確率で勝てるのか」も、かつてないほど明らかになっています。
 
それなのに、私は時々、妙な物足りなさを覚えます。
 
野球からは、美しい弧を描くカーブが少なくなった。テニスからは、ネットへ果敢に出ていくサーブ&ボレーが姿を消しつつある。
 
技術は高度になっている。それなのに、スポーツは本当に豊かになっているのでしょうか。
 
野球のカーブ、テニスのサーブ&ボレー、そしてスキーのターンについて考えているうちに、一つの問いに行き着きました。
 
勝利のために進歩したスポーツは、スポーツそのものとしても進歩したと言えるのか。
 
この問いから、スポーツにおける身体、創造、美、そして勝利とは何なのかを考えてみたいと思います。
 
はじめに――カーブは、なぜ消えていったのか
 
最近、野球を見ていて、ふと気づいたことがある。
 
「いいカーブを投げるな」
 
そう思わせる投手を、あまり見かけなくなった。
 
かつて江夏豊や江川卓といった一流投手にとって、カーブはストレートと並ぶ基本的な球種だった。
 
江川の速いストレートと、大きく割れるカーブ。
 
星野伸之に至っては、ストレートは140キロにも届かなかった。それでも一流打者を詰まらせた。清原和博が、伊良部秀輝のような当時最速級の投手とも対戦しながら、星野のストレートを最も速く感じたという趣旨のことを語ったのは象徴的である。
 
なぜ、物理的にはそれほど速くない球が速く感じられるのか。
 
そこには、カーブがあった。
 
遅いカーブによって打者の時間感覚を変え、その後に来るストレートを速く感じさせる。
 
投手は単にボールを速く投げていたのではない。
 
打者の「時間」を操っていたのである。
 
ところが現代野球では、スライダー、カットボール、スプリットなど、高速で鋭く変化する球種が重視されるようになった。
 
それは合理的である。
 
データによって空振り率、被打率、回転数、変化量などが精密に測定され、「どの球が最も打たれにくいか」が分かるようになった。
 
投手は以前より速い球を投げる。
 
変化球も以前より鋭い。
 
トレーニングも科学的になった。
 
つまり、投手は明らかに「進歩」している。
 
それなのに、私は時々思う。
 
スポーツそのものも、本当に進歩したのだろうか。
 
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1 「勝つ技術」としてのスポーツの進歩
 
現代スポーツの技術的進歩には目を見張るものがある。
 
野球では150キロ台のストレートが珍しくなくなった。投球はデータによって解析され、回転軸やリリースポイントまで最適化される。
 
テニスでも同じである。
 
ラケットやストリングの進歩、トレーニング科学、映像解析によって、選手のショットは高速化し、ベースラインからでも驚くほど攻撃的なテニスが可能になった。
 
スキーでも、用具と技術の発達によって、以前なら困難だった速度やターンが可能になっている。
 
こうした変化を「進歩」と呼ぶことに異論はない。
 
しかし、ここで一つ区別しておかなければならない。
 
それは、
 
「勝つための技術が進歩すること」と「スポーツそのものが豊かになること」は、同じではない
 
ということである。
 
勝利を目的とすれば、合理化は当然起こる。
 
最も成功確率の高い技術が選択され、成功確率の低い技術は捨てられる。
 
そして、科学的知識が蓄積されればされるほど、「勝つための最適解」は明確になる。
 
すると、合理的な選手ほど同じ方向へ向かう。
 
ここに現代スポーツの一つの逆説がある。
 
一人ひとりの選手は高度になっているのに、競技全体の様式は似てくるのである。
 
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2 カーブが失われるということ
 
カーブが時代遅れになったわけではない。
 
優れたカーブは現在でも打者を抑えることができる。
 
問題は、一級品のカーブを作るには時間がかかることである。
 
ストレートと同じ腕の振り。
 
安定したリリースポイント。
 
十分な回転。
 
適切な回転軸。
 
狙った場所へ落とす制球力。
 
そして何より、ストレートとの関係の中でカーブを使う投球術。
 
そこまで磨いて初めて、カーブは本当の武器になる。
 
しかし、そこまで時間をかけるより、高速スライダーやスプリットを身につけた方が、現代野球では短期間に結果へ結びつく可能性が高い。
 
だから合理的な選択として、カーブが後退していく。
 
しかし、そこで失われるものは単なる「一球種」なのだろうか。
 
私はそうではないと思う。
 
カーブには独特の美がある。
 
ストレートが直線なら、カーブは曲線である。
 
ストレートが速度なら、カーブは時間である。
 
ストレートが力なら、カーブには柔らかさがある。
 
投手の手を離れたボールが弧を描き、頂点を迎え、打者の手前で落ちていく。
 
観客は、その運動の過程を見ることができる。
 
カーブとは、単に打者を打ち取るための道具ではない。
 
人間の身体がボールに与える、一つの運動の形なのである。
 
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3 サーブ&ボレーの退潮
 
同じことを、私はテニスにも感じる。
 
かつてテニスには、明確に異なるプレースタイルが存在した。
 
ステファン・エドベリのように、サーブを打つと同時にネットへ向かう選手がいた。
 
ピート・サンプラスも、芝では積極的にネットを取った。
 
一方にはアンドレ・アガシのような、強烈なリターンとベースラインプレーを武器とする選手がいた。
 
そこには単なる選手同士の対戦以上のものがあった。
 
前へ出る者と、後ろから迎え撃つ者。
 
異なる身体的思想の衝突である。
 
サーブ&ボレーには、サーブだけでなく、アプローチ、スプリットステップ、ローボレー、ハーフボレー、スマッシュ、ポジショニングといった、多数の身体技法が必要になる。
 
しかし現代テニスでは、ラケットとストリングの進歩、リターン能力の向上、強烈なトップスピンなどによって、ネットへ出ることの危険性が増した。
 
その結果、ベースラインから攻撃する方が合理的になった。
 
だから選手はベースラインプレーを磨く。
 
これもまた正しい選択である。
 
しかし全員が合理的に行動した結果、
 
サーブ&ボレーという一つの身体文化そのものが衰退する。
 
ここでも、「勝つ技術の進歩」と引き換えに、スポーツの中に存在していた身体的多様性が失われている。
 
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4 スキーには「勝敗」がなくてもスポーツが成立する
 
ここでスキーを考えると、この問題はさらに興味深くなる。
 
もちろん競技スキーには勝敗がある。
 
しかし多くの人が楽しむスキーには、対戦相手がいない。
 
誰かを倒す必要もない。
 
タイムを測る必要すらない。
 
それでも私たちはスキーを「スポーツ」と呼ぶ。
 
なぜだろうか。
 
斜面がある。
 
雪質がある。
 
重力がある。
 
速度がある。
 
自分の身体がある。
 
その条件の中で、身体を使って一つのターンを生み出す。
 
次のターンが生まれる。
 
同じ斜面でも、まったく同じターンは二度とない。
 
身体と雪と重力との関係の中から、運動がその都度生成されていく。
 
ここには勝者も敗者もいない。
 
それでもスポーツとしての喜びは存在する。
 
むしろここに、スポーツという営みの原型が見えるのではないか。
 
身体によって、世界との関係の中に新しい運動を生成すること。
 
スポーツの根底にあるものは、勝敗以前に、この身体的創造なのではないだろうか。
 
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5 スポーツは芸術なのではないか
 
そう考えると、一つの問いが浮かんでくる。
 
スポーツの本体は、意外にも芸術に近いのではないか。
 
もちろんスポーツと芸術は同じではない。
 
スポーツにはルールがあり、対戦相手がおり、結果がある。
 
テニスでは、どれほど美しいショットでもアウトなら失点になる。
 
野球では、どれほど美しいカーブでも本塁打にされれば失敗である。
 
しかし、その制約こそがスポーツ独特の創造を生む。
 
芸術家が素材の制約の中から作品を生み出すように、スポーツ選手も、ルール、身体、相手、用具、空間、重力という制約の中から運動を生み出す。
 
その意味でスポーツとは、
 
「勝敗という厳しい制約の中で行われる身体的創造」
 
と考えることができる。
 
だから私たちは、勝敗とは別に「美しい」と感じる。
 
美しいカーブ。
 
美しいボレー。
 
美しいターン。
 
それらは勝利によって初めて美しくなるのではない。
 
運動そのものが美しいのである。
 
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6 勝利はスポーツの本質なのか
 
もちろん、勝利をスポーツから取り除くことはできない。
 
対戦型スポーツでは、選手は勝とうとする。
 
相手も勝とうとする。
 
その真剣さがあるからこそ、身体は限界まで追い込まれ、新しい技術が生まれる。
 
したがって問題は「勝とうとすること」ではない。
 
問題は、
 
勝利を唯一の価値とすること
 
である。
 
勝利はスポーツにおける目的の一つである。
 
しかし、それがスポーツの価値そのものになった瞬間、身体的創造は「勝つための手段」に格下げされる。
 
すると合理化が始まる。
 
勝率の高い技術を選ぶ。
 
効率の悪い技術を捨てる。
 
選手育成を最適化する。
 
データによって弱点を取り除く。
 
そして全員が最適解へ近づいていく。
 
その結果として、
 
勝利する技術は高度になる一方、身体による解答の多様性は失われる。
 
これはスポーツにとって本当に「進歩」なのだろうか。
 
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7 現代オリンピックと「測定される身体」
 
この問題を突き詰めていけば、現代オリンピックにも行き着く。
 
現代スポーツでは、身体の能力が数字によって測定される。
 
タイム。
 
距離。
 
速度。
 
得点。
 
勝率。
 
ランキング。
 
メダル数。
 
そしてそこへ、賞金、契約金、放映権料、スポンサー価値、市場価値が加わる。
 
数字は必要である。
 
スポーツは結果を比較する営みでもあるからだ。
 
しかし、測定可能なものだけを価値と考え始めると、問題が生じる。
 
選手の身体が、
 
「どのような運動を創造できる身体か」
 
ではなく、
 
「どれだけ測定可能な成果を生産できる身体か」
 
として評価されるようになるからである。
 
そこへ国家の威信や巨大なスポーツビジネスが重なる。
 
選手は身体的表現者である以前に、メダルを生産する主体、勝利を生産する主体、興行価値を生産する主体として扱われかねない。
 
ここに、現代スポーツの危険がある。
 
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8 高度化しているのに、なぜ私たちは魅了されないのか
 
もちろん、現代スポーツから人々が一様に離れている、と簡単に断定することはできない。
 
世界には巨大なスポーツ市場が存在し、多くの競技が膨大な観客を集めている。
 
しかし、それでも問いは残る。
 
競技技術がこれほど高度化しているのに、その高度化と同じ割合でスポーツの魅力も増しているだろうか。
 
160キロのストレートを投げる投手が増えれば増えるほど、野球は面白くなるのか。
 
200キロを超えるサーブを打つ選手が増えれば増えるほど、テニスは豊かになるのか。
 
必ずしもそうではない。
 
むしろ私たちを惹きつけるのは、
 
速い投手と遅い投手。
 
直線と曲線。
 
力と柔らかさ。
 
ベースラインとネット。
 
異なる身体的解答が同じ競技空間の中でぶつかる瞬間なのではないか。
 
江川卓と星野伸之は、まったく違う方法で打者を抑えた。
 
サンプラスとアガシも、まったく違う方法でポイントを取った。
 
そこには、
 
「人間の身体には、こんなにも違う答えがあり得るのか」
 
という驚きがあった。
 
その驚きこそ、スポーツを見る喜びの重要な部分なのではないだろうか。
 
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9 「生成」としてのスポーツ
 
スポーツの魅力を考えていて、私は「生成」という言葉に行き着く。
 
あらかじめ決められた正解を身体が再現するだけではない。
 
相手がいる。
 
ボールが来る。
 
風が吹く。
 
雪質が変わる。
 
疲労する。
 
身体の状態も毎日違う。
 
その瞬間ごとの状況に応答しながら、身体が新しい運動を生み出していく。
 
テニスなら、相手のショットに応じて、まだ存在していなかった一本のショットが生まれる。
 
スキーなら、斜面と雪と重力に応じて、まだ存在していなかった一つのターンが生まれる。
 
野球なら、投手と打者の駆け引きの中から、一球が生まれる。
 
スポーツとは、完成した型の反復ではない。
 
身体と世界との出会いによって、その瞬間に運動が生成される営みである。
 
そして優れた競技者とは、その生成可能性が豊かな人なのではないか。
 
速くもできる。
 
遅くもできる。
 
強くもできる。
 
柔らかくもできる。
 
前へも行ける。
 
後ろでも戦える。
 
状況に応じて、自ら新しい解答を作り出せる。
 
そこにスポーツにおける自由がある。
 
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10 最適化は、この「自由」を狭めていないか
 
ここまで考えると、現代スポーツに対する私の違和感が少し明確になる。
 
科学が悪いのではない。
 
データ分析が悪いのでもない。
 
技術の高度化も否定すべきではない。
 
問題は、それらがすべて、
 
「どうすれば最も効率よく勝てるか」
 
という一つの問いに従属するときである。
 
最適解が明らかになる。
 
皆がそれを学ぶ。
 
皆が同じ技術を磨く。
 
異質な技術が淘汰される。
 
すると、選手は以前より強くなる。
 
しかし、スポーツの中で身体が取り得る選択肢は減っていく。
 
これは奇妙な進歩である。
 
能力は増大しているのに、可能性は縮小している。
 
スポーツが勝利のために合理化されればされるほど、スポーツをスポーツたらしめていた身体的創造の余地が失われる。
 
だとすれば、現代スポーツは、勝利を追求することによって、かえって自らをやせ細らせているのではないか。
 
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おわりに――勝利のために進歩したスポーツは、スポーツそのものとしても進歩したと言えるのか
 
カーブについて考えるところから、この問いは始まった。
 
なぜ、あの美しいカーブを投げる投手が少なくなったのだろう。
 
そこからサーブ&ボレーへ、そしてスキーへと考えが広がっていった。
 
すると、三つの異なるスポーツの奥に、同じ問題が見えてきた。
 
人間は身体によって世界に働きかけ、その中から新しい運動を生み出す。
 
それこそスポーツの根源的な喜びなのではないか。
 
そうであるならば、スポーツの進歩を、球速、タイム、勝率、ランキング、メダル数だけで測ることはできない。
 
問わなければならないのは、
 
どれほど多様な身体的表現が可能になったのか。
 
どれほど新しい運動が生み出されたのか。
 
人間の身体について、どれほど新しい可能性を見せてくれたのか。
 
ということではないだろうか。
 
勝利は必要である。
 
しかし勝利は、スポーツのすべてではない。
 
むしろ勝利という厳しい条件があるからこそ、人間はそれを乗り越えるために、さまざまな身体的解答を発明してきた。
 
カーブもそうだった。
 
サーブ&ボレーもそうだった。
 
そして一本一本異なるスキーのターンもそうである。
 
だから、私たちが守るべきなのは「昔の技術」そのものではない。
 
異なる身体的解答が生まれる余地である。
 
スポーツとは、最も効率よく勝利するためだけの営みではない。
 
勝利という目的を与えられながら、それでも人間の身体がどれほど自由に、豊かに、新しい運動を創造できるのかを示す文化的営みである。
 
もしそうであるならば、現代スポーツに向けるべき問いは、「もっと速く、もっと強くなれるか」だけではない。
 
もう一つ、問い続けなければならない。
 
«勝利のために進歩したスポーツは、スポーツそのものとしても進歩したと言えるのか。»
 
そして、その問いに即座に「もちろん」と答えられなくなったところから、スポーツについての本当の思索が始まるのではないだろうか。
靖国神社の問題は、総理大臣が「参拝するか、しないか」、あるいは中国や韓国がどう反応するかという問題として語られがちです。
 
しかし、その前に問うべきことがあるのではないでしょうか。
 
日本国憲法の下で、国家を代表する者が靖国神社を参拝するとは、そもそも何を意味するのか。
 
政教分離、戦後国際秩序、そして「公」と「公共」という視点から考えていくと、さらに根本的な問いが浮かび上がります。
 
国家は、戦争の死者をどのように記憶するのか。
 
8月15日を前に、靖国神社を手がかりとして、戦後日本が国家と死者との関係をどのように築いてきたのかを考えます。
 
はじめに――「有言実行か、無言実行か」の前に
 
ある政治家が、総理大臣による靖国神社参拝について、興味深い問題提起をしていた。
 
「総理になっても参拝する」と明言していた政治家が、実際に総理になった後、外交関係などを考慮して参拝を見送れば、中国に「圧力が効いた」と喧伝されることになる。したがって、総理を目指す政治家は事前に参拝を明言せず、参拝すると判断した場合には「無言実行」すればよい、というのである。
 
政治戦略論としては理解できる。
 
外交上の選択肢を自ら狭めるような約束を事前に行わないという判断には、一定の合理性があるだろう。
 
しかし、この議論には、もっと根本的な問いが欠けている。
 
日本国憲法の下で、国家を代表する者が靖国神社を参拝するとは、そもそも何を意味するのか。
 
靖国問題を考えるためには、「参拝すると言ったか」「中国が反発するか」という問題より前に、この問いから始めなければならない。
 
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1 靖国問題は外交問題だけではない
 
靖国神社参拝は、しばしば中国や韓国との外交問題として語られる。
 
しかし、仮に中国政府も韓国政府も何も言わなかったとしても、靖国問題は消滅しない。
 
なぜなら靖国問題は、第一義的には、敗戦後の日本がどのような国家として再出発したのかという、日本社会自身の問題だからである。
 
日本国憲法第20条は信教の自由を保障すると同時に、国およびその機関による宗教的活動を禁止している。
 
この政教分離原則を、日本の近代史から切り離して考えることはできない。
 
戦前、日本では国家と神道が深く結びつき、靖国神社もまた、戦没者を「英霊」として祀り、国家の戦争と死を意味づける重要な役割を担った。
 
だからこそ、敗戦後の日本では国家と宗教との関係が根本から問い直されたのである。
 
現在の靖国神社は一宗教法人である。
 
したがって、一人ひとりの国民が靖国神社を信仰し、参拝する自由は当然保障されなければならない。総理大臣という職にある人物にも、私人として信教の自由がある。
 
しかし問題は、
 
内閣総理大臣という国家を代表する地位にある人物の靖国参拝を、私人の宗教行為だけとして理解できるのか
 
ということである。
 
首相の靖国参拝は、国内外に「日本の首相が靖国神社を参拝した」という国家的・政治的・象徴的行為として受け取られる。
 
ここに政教分離の問題が生じる。
 
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2 「違憲か合憲か」だけでは捉えきれない
 
もっとも、首相が靖国神社を参拝すれば直ちに憲法違反になる、と単純化するべきではない。
 
最高裁判所は政教分離について、国家と宗教との接触を一切禁止するという立場を採ってきたわけではない。
 
津地鎮祭訴訟では、国家と宗教との関わりについて、その目的と効果などから判断する考え方が示された。
 
一方、愛媛玉串料訴訟では、県が靖国神社などに玉串料等を公金から支出したことについて、最高裁は憲法違反と判断した。
 
したがって、首相の靖国参拝についても、肩書、費用、参拝方法、公用車の使用、記帳の仕方など、具体的事情を考慮した憲法判断が必要になる。
 
しかし、ここで問題を「裁判所が違憲判決を出すかどうか」だけに縮小してはならない。
 
司法が問うのは、国家行為が憲法上許容される限界を超えたかという問題である。
 
それとは別に、
 
戦前の国家神道の経験を踏まえて成立した戦後憲法の下で、国家を代表する者が靖国神社とどのような距離を取るべきなのか
 
という憲法政治上の問いがある。
 
ある行為について裁判所が「違憲とはいえない」と判断することと、その行為が戦後日本の立憲主義に照らして望ましいこととは同じではない。
 
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3 東京裁判を批判することと、判決を否定することは違う
 
冒頭の政治家は、東京裁判には「耐えがたい手続的不正義」があり、結果の正当性にも大きな疑問があるとした上で、
 
「『A級戦犯』とされた方々の鎮魂のあり方にまで他国から指摘を受ける筋合いはありません」
 
と述べている。
 
東京裁判について、勝者の裁き、事後法、裁判手続などをめぐる法理的・歴史的批判が存在することは事実である。
 
そして、その裁判を学問的・歴史的に批判する自由は当然保障されなければならない。
 
しかし、
 
東京裁判を批判的に研究すること
 
と、
 
戦後日本国家がその判決を受諾したという国際法上・外交上の事実
 
とは別問題である。
 
日本はポツダム宣言を受諾して降伏した。その後、サンフランシスコ平和条約第11条によって極東国際軍事裁判所等の判決を受諾し、同条約の発効によって占領を終え、主権を回復した。
 
したがって、戦後日本は東京裁判を「自国には一切関係のない外国による裁判」として切り離して国際社会へ復帰したわけではない。
 
その判決を受諾することを含む戦後国際秩序の中で、主権国家として再出発したのである。
 
このことは、東京裁判の判決内容を未来永劫、歴史的にも道義的にも批判してはならないという意味ではない。
 
国家間の法的秩序と、歴史研究における真理の探究は区別されなければならない。
 
しかしその日本国家を代表する首相の行為について、他国が戦後処理との整合性を問い、批判することそのものを、
 
「指摘を受ける筋合いはない」
 
と退けることもできない。
 
批判の内容が妥当かどうかを批判することはできる。
 
しかし、批判する資格そのものを否定することは別問題なのである。
 
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4 主権とは「誰からも何も言われないこと」ではない
 
ここには、主権についての理解の問題もある。
 
「日本国内のことは日本が決める。外国から口を出される筋合いはない」
 
という主張は、一見すると主権国家として当然の主張に思える。
 
しかし、戦後日本の主権は、他国との一切の関係から自由な絶対的主権として回復されたわけではない。
 
日本は平和条約を締結し、国際法上の義務を引き受け、やがて国際連合にも加盟し、他国との相互承認の中で主権国家として国際社会へ復帰した。
 
主権とは、
 
「誰からも何も言われないこと」ではない。
 
自ら締結した条約や国際的約束に拘束されながら、それでもなお自律的に政治的判断を行う能力である。
 
他国から批判されることと、主権を侵害されることは同じではない。
 
国際社会とは、主権国家が互いの行為について意見を述べ、時には批判し、それに反論しながら共存する空間でもある。
 
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5 「鎮魂」という言葉が隠してしまうもの
 
さらに考えなければならないのは、「鎮魂」という言葉である。
 
「戦没者を鎮魂することの何が悪いのか」
 
と問われれば、多くの人は反対しにくい。
 
しかし、靖国問題で問われているのは、戦争の死者を悼むこと自体ではない。
 
問われているのは、
 
誰が、誰を、どのような言葉で、どのような歴史の中に位置づけて追悼するのか
 
ということである。
 
死者を悼むことと、死者の死に意味を与えることは同じではない。
 
戦争の死者には、軍人だけでなく、空襲や原爆、沖縄戦で亡くなった民間人、植民地支配下で動員された人々、日本による加害の犠牲となった他国の人々、戦争に反対して弾圧された人々など、異なる経験を持つ無数の人々がいる。
 
さらに軍人自身についても、その一人ひとりが自らの死を「祖国のための尊い犠牲」と理解していたと一括して語ることはできない。
 
死者は反論できない。
 
国家が、
 
「あなたは祖国のために喜んで命を捧げた」
 
と語っても、
 
死者は、
 
「私は生きたかった」
 
と答えることができない。
 
だからこそ、生者が死者に意味を与える行為には慎重さが求められる。
 
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6 国家には死者を記憶する責任がある。しかし、その意味を独占する権利はない
 
ここで「公」と「公共」の区別が重要になる。
 
国家=「公」には、戦争の死者について果たすべき責任がある。
 
誰が、どこで、どのように亡くなったのかを記録する。
 
政府や軍が何を決定したのかを明らかにする。
 
公文書を保存し、歴史研究を可能にする。
 
戦争によって命を失った人々を忘却から守り、追悼する。
 
これらは国家の重要な責務である。
 
しかし、そこから、
 
「その死が何を意味したのか」
 
を国家が独占的に決定する権限までは導かれない。
 
国家には死者を記憶する責任はある。しかし、死者の意味を独占する権利はない。
 
死者の意味を問い続ける場所こそ、「公共」である。
 
遺族、歴史家、宗教者、文学者、戦争体験者、外国の被害者、そして戦争を知らない後の世代まで、それぞれ異なる立場から過去について語る。
 
その語りは一致する必要がない。
 
むしろ、複数の記憶が共存し、互いに問い直されることこそ、民主社会の公共性なのである。
 
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7 政教分離と「記憶の複数性」
 
この視点に立つと、政教分離の意味もより深く理解できる。
 
政教分離とは、宗教を社会から排除するための原則ではない。
 
むしろ国家が特定の宗教を特権化しないことによって、異なる信仰や無信仰が共存できる条件を保障する原則である。
 
靖国神社が、一宗教法人として戦没者を「英霊」として祀ることも、その宗教的自由の一部である。
 
しかし、
 
「英霊として祀る」
 
という特定の宗教的・歴史的意味づけと、国家による戦没者追悼とは同じではない。
 
国家がその特定の意味づけに特別な承認を与えるなら、他の記憶との間に非対称性が生じる。
 
「父は英霊なのではなく、戦争によって命を奪われた一人の人間だった」
 
と考える遺族もいるかもしれない。
 
異なる宗教によって死者を悼む人もいる。
 
宗教的儀礼そのものを望まない人もいる。
 
国家が一つの宗教的意味づけを特権化しないからこそ、それらの異なる記憶が公共空間に共存できる。
 
したがって、政教分離と記憶の複数性は、実は同じ原理の二つの側面なのである。
 
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8 「公」と「公共」を混同しない
 
戦前の日本では、「公」が「公共」を覆い尽くす傾向があった。
 
国家が「公」を代表し、国家が定めた価値が社会全体の価値とされる。
 
国家のために死ぬことが「公」のために死ぬこととされ、その死をどのように理解するかについても国家が大きな力を持った。
 
しかし民主主義における公共は、国家そのものではない。
 
公共とは、国家を含めて社会のあり方を市民が問い、批判し、議論する空間である。
 
したがって国家は、公共を所有する主体ではない。
 
むしろ、
 
異なる人々が異なる記憶を持ったまま共存し、議論できる公共空間を保障する主体
 
でなければならない。
 
この意味で、戦後民主主義とは、単に選挙によって政治家を選ぶ制度ではない。
 
国家が再び唯一の「正しい物語」を国民に与えることを自制する仕組みでもある。
 
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9 「無言実行」は靖国問題への回答にならない
 
ここまで考えると、冒頭の「無言実行」という提案の限界が明らかになる。
 
たしかに、政治家が将来の外交上の選択肢を残すため、靖国参拝について事前に明言しないことには政治戦略上の合理性があるかもしれない。
 
しかし、それは靖国問題そのものへの回答ではない。
 
参拝を事前に公言したかどうかは、二次的な問題である。
 
中国が反発するかどうかも、本質ではない。
 
問われなければならないのは、
 
日本国憲法の下で、国家を代表する者が、国家神道との深い歴史的関係を持つ靖国神社を参拝することが、どのような国家的意味を持つのか
 
ということである。
 
誰にも知らせず参拝したとしても、この問いは消えない。
 
「無言実行」は外交戦術にはなり得ても、憲法問題への回答にはならないのである。
 
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おわりに――戦後日本とは何であるのか
 
靖国問題を「中国からの圧力に屈するか否か」という問題として設定すれば、議論は、
 
「外国に屈する日本」
 
か、
 
「外国に屈せず靖国に参拝する日本」
 
か、という二者択一に陥る。
 
しかし、本来問われていることはそこではない。
 
靖国神社問題とは、
 
戦前、国家と宗教が結びつき、国家が戦争と死に一つの意味を与えた歴史を経験した日本が、敗戦後、どのような国家として生きることを選んだのか
 
という問題なのである。
 
その戦後日本を形づくったものが、平和条約による国際社会への復帰であり、日本国憲法による立憲主義であり、信教の自由と政教分離であり、そして国家とは異なる「公共」の形成だった。
 
だから靖国問題について最初に問うべきなのは、
 
「中国がどう言うか」
 
ではない。
 
「参拝すると約束したか」
 
でもない。
 
日本国憲法の下で、国家を代表する者が靖国神社を参拝するとは、そもそも何を意味するのか。
 
という問いである。
 
そして、その問いのさらに奥には、
 
国家は戦争の死者をどのように記憶する権限を持つのか
 
という問いがある。
 
私は、その答えを次のように考えたい。
 
国家には、死者を忘却から守る責任がある。
しかし、死者の意味を独占する権利はない。
 
国家がなすべきことは、一つの「正しい記憶」を国民に与えることではない。
 
異なる記憶、異なる追悼、異なる歴史認識が共存し、ときに衝突しながらも、次の世代が過去について自由に問い続けることのできる公共空間を守ることである。
 
「あなたの死の意味を、国家がすべて知っているわけではない。」
 
その謙抑を持つこと。
 
それこそが、戦争の死者への敬意であると同時に、戦前の経験を経た戦後日本の民主主義が国家権力に求める節度ではないだろうか。

私のブログをご覧いただき、有難うございます。

 

北杜市議会議員の飛矢﨑雅也です。
 
8月11日の「山の日」、泉小学校校庭を会場に、第14回北杜市大泉ふるさと夏祭りが開催されました。
 
 
台風15号の接近も心配されましたが、幸い大きな支障もなく、無事に祭りを終えることができました。
 
当日は、駐車場では収まりきらないほど、地域内外から多くの皆さんが訪れ、会場は大変な賑わいとなりました。
 
 
昨年は雨のなかでも2,000人を超える方々が来場したと聞いています。今年は、会場の様子を見る限り、それを大きく上回る賑わいだったように感じます。
 
地域の人たちがつくる祭り
 
 
大泉ふるさと夏祭りが大切にしていることがあります。
 
それは、できるだけ地域の力でつくる「手作りの祭り」であることです。
 
会場内には大泉地域で活動する事業者が出店し、ステージでは、いずみ保育園の園児や泉中学校の生徒をはじめ、地域で活動するさまざまな団体が日頃の活動の成果を披露しました。
 
パトカーや消防車の展示、泉小学校の児童による缶バッジ作成体験、子どもたちに大人気の魚のつかみ取りなども行われました。
 
ステージに立つ人も、出店する人も、運営する人も、そして楽しむ人も地域の人たちです。
 
 
会場を歩いていると、あちらこちらに「自分たちの祭りを、自分たちでつくる」という空気を感じました。
 
子どもたちが元気いっぱいに踊り、泉中学校吹奏楽部の皆さんが日頃の練習の成果を披露する。
 
地域の太鼓や音楽、文化活動に携わる皆さんも、それぞれの持ち味で祭りを盛り上げる。
 
そこには単なる「催し物を見る」ということとは少し違う光景がありました。
 
無料か、有料か――大泉そばをめぐって
 
 
そして今回、私が特に注目していた取り組みの一つが、地元・大泉のそば粉を使った「大泉そば」です。
 
例年、大泉ふるさと夏祭りでは800食のそばを無料で振る舞ってきました。
 
「大泉のそばを食べてもらう」。
 
それは地元の特産品を知っていただく機会であると同時に、長年にわたって、この祭りを象徴する「もてなし」の一つになってきたのだと思います。
 
ところが今年、物価高騰などを背景に、これからも持続可能な形でそばの提供を続けるため、実行委員会で有料化が提案されました。
 
もちろん、その考えにも理由があります。
 
原材料や資材などの価格が上がるなか、これまでと同じことを無理に続ければ、いつか提供そのものを続けられなくなるかもしれません。
 
一方で、
 
「大泉夏祭りの目玉である無料のそばは残したい」
 
という意見もありました。
 
どちらにも理由がある。
 
だからこそ、私は考えました。
 
「無料を続けるか、有料にするか。その二つしか方法はないのだろうか」と。
 
「第三の道」としての協力金
 
そこで私は、実行委員会で一つの提案をしました。
 
そばの無料配布そのものは残す。
 
そのうえで、この取り組みをこれからも続けていくために、趣旨に賛同してくださる方から「協力金」をいただいてはどうか。
 
無料か有料かという二者択一ではない、「第三の方法」です。
 
最終的にはこの考え方が採用され、今年も大泉そば800食を無料で提供しながら、リユース食器を使ってごみを減らし、趣旨に賛同してくださる皆さんから協力金を募るという、新しい試みが始まりました。
 
初めての取り組みです。
 
「本当に皆さんに理解していただけるだろうか」
 
私自身、少なからず心配しながら当日の様子を見ていました。
 
しかし実際には、多くの皆さんに趣旨をご理解いただき、たくさんのご協力をいただくことができました。
 
私は、これを単に「そばを食べた人がお金を払った」ということだとは考えていません。
 
「この大泉そばの振る舞いを、これからも続けてほしい」
 
「地域の祭りを、みんなで支えていこう」
 
そうした気持ちを、多くの皆さんが共有してくださった結果ではないでしょうか。
 
「お客さん」から「参加者」へ
 
私が協力金という方法を提案した背景には、もう一つの思いがありました。
 
祭りに来た人を、単なる「お客さん」にしたくないということです。
 
祭りをつくる人がいて、それを消費する人がいる。
 
それだけではなく、そこに集った一人ひとりが、少しずつ祭りを支える。
 
ある人は運営スタッフとして働く。
 
ある人はステージに立つ。
 
ある人は店を出す。
 
ある人は協賛する。
 
そして、ある人は協力金という形で支える。
 
関わり方はそれぞれ違っていてよい。
 
けれども、
 
「これは誰かがやってくれる祭りではなく、私たちの祭りなのだ」
 
という感覚を共有することができれば、その祭りは強くなるのではないでしょうか。
 
無料か有料かという二者択一ではなく、大切なものを残しながら、それをみんなで支える仕組みをつくる。
 
今回の協力金方式は小さな試みですが、そこには、これからの地域社会を考えるうえでも大切な意味があるように思います。
 
大泉の空にかかった虹
 
 
そんな祭りの夕暮れ時、空に見事な虹が現れました。
 
すぐに消えてしまうのかと思っていましたが、虹は長い時間にわたって大泉の空にかかり続けました。
 
会場では、多くの人が足を止め、空を見上げていました。
 
子どもも、大人も、祭りを運営する人も、訪れた人も。
 
同じ場所で、同じ虹を見上げる。
 
まるで、この日に大泉へ集まった皆さんを、空まで一緒になって祝ってくれているような光景でした。
 
最後は、みんなで踊る
 
 
日が暮れると、祭りはいよいよ終盤を迎えました。
 
ステージの最後は「みんなで踊ろう」。
 
地元の民謡の皆さんのリードに合わせて、子どもも大人も、地域の人も来訪者も輪に入り、5曲の盆踊りを一緒に踊りました。
 
上手いとか、下手とかではありません。
 
踊りたい人が輪に入り、それぞれに身体を動かす。
 
見る人と見られる人の境界も、少しずつなくなっていきます。
 
そこにあったのは、「観客」と「出演者」に分かれたイベントではなく、同じ時間と場所を共有する人たちの祭りでした。
 
私は、その光景に、大泉ふるさと夏祭りという祭りの本当の姿が表れているように感じました。
 
 
祭りは「地域の地力」を映す
 
近年、人口減少や高齢化、担い手不足が進み、地域の祭りを維持すること自体が難しくなっていると聞きます。
 
準備には時間がかかります。
 
人手も必要です。
 
効率だけを考えれば、外部の業者に任せたり、規模を縮小したりする方が合理的な場合もあるでしょう。
 
もちろん、必要に応じて外部の力を借りること自体が悪いわけではありません。
 
しかし、自分たちでできることを持ち寄って、一つの祭りをつくる。
 
そこには、効率だけでは測ることのできない価値があります。
 
祭りには、その地域に、
 
人と人とのつながりがどれだけ残っているのか。
 
子どもたちが参加する場所があるのか。
 
文化を伝える人がいるのか。
 
地域のために汗をかく人がいるのか。
 
そして、誰かに任せきりにせず、「自分たちの地域を自分たちでつくろう」とする力がどれだけあるのか。
 
そうしたものが、一日の風景のなかに現れます。
 
そう考えると、祭りとはある意味で、
 
「地域の地力」を映す鏡
 
なのかもしれません。
 
昨日の大泉ふるさと夏祭りの賑わいを見ながら、私は改めて、大泉という地域が持っている力を感じました。
 
そして、そばの協力金という新しい取り組みもまた、その力の一つだったのではないかと思います。
 
誰か一人が祭りをつくるのではありません。
 
行政だけでもない。
 
実行委員会だけでもない。
 
出演者だけでもない。
 
そこに集まる一人ひとりが、それぞれの形で少しずつ力を持ち寄る。
 
その積み重ねによって「ふるさと」はつくられていくのだと思います。
 
これからも大泉ふるさと夏祭りが、文字どおり地域に根ざした手作りの「ふるさと夏祭り」として受け継がれ、さらに発展していくことを願っています。
 
実行委員会の皆さま、市役所職員の皆さま、ご協賛いただいた皆さま、出演・出店された皆さま、そして会場に足を運び、一緒に祭りをつくってくださった皆さま。
 
この夏祭りをつくり上げてくださったすべての方々に、心より感謝申し上げます。
 
ありがとうございました。

 

わたしのブログをご覧いただきまして、有難うございます。

 

北杜市議会議員の飛矢﨑雅也です。

 

2026年7月31日、長野県原村で開催された原村教育研究会主催の研究会に参加しました。

 

北杜市と同じ八ヶ岳山麓に位置する原村は、豊かな自然に恵まれ、移住先としても人気のある地域です。

 

今回、私が特に楽しみにしていたのが、原村保育園の保育を実際に見ることでした。

 

 

 

 

原村保育園の宮坂昌一園長は、以前、北杜市にもお話に来られたことがあります。その際に先生のお話を伺い、私は深い感銘を受けました。

 

宮坂先生が実践されている保育とは、実際にはどのようなものなのだろう。ぜひ一度、自分の目で確かめたいと思っていたところに、今回の研究会への参加の機会がありました。

園庭に広がっていた「遊び」

 
 

受付を済ませ、参観についての説明を受けた後、園庭へ出ました。

 

 

そこで何より印象的だったのは、「遊び」という言葉が保育の中心に置かれていることでした。

 

宮坂園長によれば、原村の保育では、子どもの中にある創造性を育てることを重視しており、その力は「遊ぶ」ことを通して培われていくと考えているとのことでした。

 

実際の園庭には、色水遊び、あわ遊び、泥水遊び、砂遊び、築山を利用したウォータースライダー、泥プール、泥当て、タイヤプールなど、さまざまな遊びの場が広がっていました。

 

しかし、そこにあるのは、遊び方が最初から決められた完成品ばかりではありません。

 

水、泥、砂、絵の具、タイヤ、板、築山など、子ども自身が働きかけることで、いくらでも遊び方の変わる素材や空間が用意されています。

 

 

 

 

ある子は裸足で泥の中を歩き、ある子は土を掘り、ある子は何度も築山を滑っていました。色水を別の容器へ移し替えたり、違う色を混ぜたりしている子もいます。

 

そこでは、「こうしたら、どうなるんだろう」という好奇心が、次の行動を生み出しているように見えました。

 

私はその光景を眺めながら、子どもたちは「遊んでいる」と同時に、自分たち自身で世界を発見しているのだと思いました。

遊びの中には、すでに「学び」がある

 

 
 
 

水を流せば低いところへ向かい、土に水を加えれば硬さや重さ、手触りが変わります。斜面に水を流して滑れば、自分の身体の重さや速さ、斜面との関係を身体そのもので知ることになります。色を混ぜれば、それまでなかった色が生まれます。

 

 

また、友達と一緒に遊べば、自分の思い通りにならないことにも出会います。相手の気持ちを感じ、自分の動きを変え、時には譲り、時には一緒に新しい遊び方を考えることになります。

 

 

 

 

そこには、自然についての発見もあり、身体感覚もあり、想像力もあり、他者との関係もあります。

 

しかし、子どもたちは「いまから自然科学を学びます」「次はコミュニケーション能力を身につけます」などとは考えていません。

 

遊びの中では、それらはまだ分かれていないのです。

 

世界そのものが、ひと続きになっています。

 

そして子どもは、その世界に自分の身体ごと入り込んでいます。

 

水の冷たさ、泥のぬめり、土の重さ、夏の日差し、濡れた斜面を滑る感覚、絵の具が指の間に入り込む感触。子どもたちは、そうしたものをまず身体で知ります。

 

私たちは「学ぶ」というと、どうしても頭で理解することを想像しがちです。文字を覚え、計算をし、知識を身につける。それらはもちろん大切です。

 

しかし、人間は頭だけで世界を知るわけではありません。

 

見ること、触れること、聞くこと、動くこと、驚くこと、失敗すること、面白がること。そうした身体的な経験が積み重なった上に、やがて言葉や概念が重なっていくのではないでしょうか。

 

そう考えると、「遊び」は「学び」の反対側にあるものではありません。

 

幼い子どもにとってはむしろ、遊ぶことそのものが、世界を知ることなのかもしれないと思いました。

 
 

 

赤と白が出会って、桃色になる

とりわけ心に残ったのが、色を使って遊ぶ子どもたちの姿でした。

 

 

 

 

ある子が掌に赤い色をつけ、その上から白を重ねていました。

 

すると、桃色になりました。

 

私は思わず、

 

「絵の具を混ぜると、いろいろな色に変わるんだね」

 

と口にしました。

 

そして、その瞬間、少しハッとしました。

 

一つの色だけでは生まれなかった色が、違う色と出会うことで生まれている。

 

単色から、多色へ。モノトーンから、カラーへ。モノカルチャーから、ポリカルチャーへ。

 

もちろん、これは子どもが考えていたことではありません。目の前の遊びを見ていた私の側に生まれた連想です。

 

けれども、それもまた興味深いことでした。

 

子どもが世界を発見している傍らで、大人もまた、子どもの姿を通して世界を発見し直している。

 

教育とは、大人から子どもへ一方向に何かを伝えるだけの営みではないのかもしれない。

 

そんなことを、この小さな色の変化から考えさせられました。

私が思わずレンズを向けた光景

 
 

そして、もう一つ、強く心に残った光景がありました。

 

園庭で音楽が流れ、子どもたちがダンスを始めたときのことです。

 

私の目を奪ったのは、子どもたちだけではありませんでした。

 

保育士の皆さんも、本当に楽しそうに踊っていたのです。

 

「仕事だから園児に付き合っている」というようには、私には見えませんでした。子どもを楽しませるために、大人がサービスとして踊っているという感じでもありません。

 

保育士自身が音楽を感じ、身体を動かし、子どもたちと一緒になって、その時間を心から楽しんでいるように見えました。表情も身体の動きも、とても生き生きとしていました。

 

私はその姿に目を奪われ、思わずカメラを向けました。何枚も写真を撮りましたが、それでもこの場に流れているものは静止画だけでは残せないような気がして、動画まで撮影しました。

 

その後、保育士の方から、さらに印象的なお話を伺いました。

 

「ダンスの時間であっても、私たちは園児にダンスすることを強制しません。あの時間に踊っていた園児は、自らが踊りたいから踊っていたのです。」

 

この言葉を聞いて、私が目を奪われた光景の意味が、さらに鮮明になったように思いました。

 

そこでは、「ダンスの時間だから、みんなで同じように踊りましょう」と子どもに求めているのではありません。

 

大人は、音楽や身体表現を楽しめる場をつくる。しかし、その場に加わるかどうかは子ども自身に委ねる。

 

踊りたい子は踊る。踊りたくない子には、踊らないという選択もある。

 

そして興味深いのは、子どもに参加を強制しない一方で、大人がその世界から退いているわけでもないことです。

 

むしろ保育士自身が、心から楽しそうに踊っていました。

 

ここには、原村保育園の保育を考えるうえで大切なことが表れているように思います。

 

子どもの主体性を尊重することと、大人がその世界から退くことは、同じではない。

 

大人は場をつくる。子どもには、参加する自由と参加しない自由がある。そして大人自身も、その場に一人の人間として生き生きと関わり、子どもと楽しさを共有する。

 

「先生が子どもを楽しませている」のではなく、大人と子どもが、ともに楽しい。

 

 

 

 

 

振り返ってみると、私が思わず何枚も写真を撮り、さらに動画まで残したかったのは、その「ともに楽しい」という空気だったのかもしれません。

 

そして後になって、もう一つ興味深いことに気づきました。

 

あのとき園庭に流れ、子どもたちと保育士の皆さんが一緒になって踊っていた曲は、「Zoo 〜君がいるから〜」でした。

 

その歌詞には、

「自分らしく自由にみんな輝く」

という一節があります。

 

私は後からこの言葉を知って、あの日の光景をもう一度思い返しました。

 

踊ることを強制されていたわけではない。踊りたい子が、自分から踊っていた。そして、その隣では保育士の皆さんも、生き生きと身体を動かし、その時間を楽しんでいた。

 

「自分らしく」「自由に」という言葉が、教育理念として掲げられていたのではありません。それはもっと具体的に、子どもが「踊りたい」と感じたときに踊ることができ、「踊りたくない」と感じたなら踊らなくてもよいという、小さな選択の中に現れていたように思います。

 

そして「みんな輝く」とは、みんなが同じことをするという意味ではないのでしょう。

 

違う一人ひとりが、それぞれの仕方でその場にいる。だからこそ、その場全体が豊かになる。

 

色水遊びを見ながら私が感じた「単色から多色へ」ということとも、どこかで響き合っているように思いました。

 

もちろん、これは曲を選んだ方がそこまで意図していた、という意味ではありません。あの日の光景と歌詞が、後になって私の中で重なったということです。

 

けれども、あの園庭で流れていた音楽まで含めて振り返ると、私がなぜあのダンスの光景にあれほど惹かれたのかが、少し分かるような気がしました。

「教える」より前に、「育つ」がある

教育という言葉から、私たちはしばしば「大人が子どもに何を教えるのか」という発想をします。

 

しかし、原村保育園で見た子どもたちは、大人から教えられる以前から、自ら世界に働きかけていました。

 

触ってみる、混ぜてみる、掘ってみる、登ってみる、滑ってみる、踊ってみる。友達の真似をしてみたり、うまくいかなければやり方を変えてみたりする。

 

つまり、「教える」という営みより前に、子ども自身が「育つ」という営みがあります。

 

宮坂園長から示された、

 

「子どもは、やる気と可能性に満ちた自己更新する存在である」

 

という言葉も、実際の子どもの姿を見た後では、より具体的な意味をもって感じられました。

 

だからといって、大人は何もしなくてよいわけではありません。

 

むしろ、子どもが自ら育つためには、大人の仕事が必要です。

 

遊べる環境を整えること。時間を保障すること。さまざまな素材を用意すること。危険を見極めながら、ときには任せること。そして、すぐに正解を教えてしまわず、その子が何をしようとしているのかをよく見ること。

 

宮坂園長が、

 

「危険性はあるけれど、任せている」

 

「子どもの気持ちを理解できなくても、分かろうとする先生がいる」

 

と話されていたことが印象に残りました。

 

教育とは、子どもを大人が考えた答えへ急いで連れていくことではなく、その子の中から始まったものが育っていく条件を整え、ときには待つことでもあるのでしょう。

 

そしてダンスの場面からは、もう一つのことを教えられました。

 

大人は環境を整えた後、ただ遠くから見守るだけではない。

 

自分自身も、その世界を面白がってよいのです。

子どもとともに、大人も学ぶ

 

 
 

園内には、保育の実践をまとめた展示もありました。

 

 

そこには、保育士同士が経験や思いを語り合い、「子どもたちにこんな体験を届けたい」という願いを共有することで、保育をより豊かなものにしていこうとする姿が紹介されていました。

 

子どもの主体性を尊重するというのは、放っておくという意味ではありません。

 

何に興味を持っているのか、どこまで任せるのか、どこで支えるのか、どのような環境なら、そこから次の遊びが生まれるのか。そうしたことを、大人自身も問い続けています。

 

午後のグループ討議でも、

 

「強制のない遊びが印象的だった」

 

「やりたいことをやらせることが重要だと学んだ」

 

「『ダメ』を言わない保育を目指したい」

 

「教えられることより、自分で学んでいく経験を積むことが大切だと学んだ」

 

といった発言がありました。

 

私は討議を聞きながら、原村保育園の保育とは、子どもを一定の型にはめるよりも、むしろ大人の側の先入観を一度取り外して、目の前の子どもを見る保育なのかもしれないと感じました。

 

そして、園庭で踊っていた保育士の姿を思い返すと、大人はただ「子どもの学びを支える人」なのでもないように思えてきます。

 

大人自身も学び、感じ、世界を面白がっている。

 

子どもと大人が、ともに世界に出会っている。

 

このことも、原村保育園で私が受け取った大切なメッセージでした。

「原村の子どもは、原村みんなで育てる」

さらに興味深かったのは、この研究会に原村保育園の先生方だけでなく、原小学校や原中学校の教員も参加していたことです。

 

午後の冒頭、原村教育長から、

 

「原村の子どもは、原村みんなで育てる」

 

という教育方針が紹介されました。

 

保育園は保育園、小学校は小学校、中学校は中学校と、行政制度としては分かれています。

 

しかし、一人の子どもの成長は、制度によって分割されるものではありません。

 

昨日まで保育園児だった子が、小学校へ上がった瞬間、別の人間になるわけではありません。同じ子どもが、同じ地域で育ち続けています。

 

だからこそ、保育園でどのような経験をしているのかを小学校や中学校の先生も知り、同じ子どもの成長について一緒に考えることには、大きな意味があります。

 

そこには、施設や制度を超えて、一人の人間の育ちを長い時間軸で地域が支えるという考え方があります。

 

この日の研究会そのものが、「原村の子どもは原村みんなで育てる」という言葉を実践しているように、私には感じられました。

「好きこそものの上手なれ」

 

 

 

グループ討議の後には、北杜市白州町にある薮内正幸美術館の薮内竜太館長による、

 

 

「好きこそものの上手なれ」

 

と題した講演がありました。

 

動物画家・薮内正幸氏のご子息である竜太館長によれば、正幸氏は幼いころから、とにかく動物が好きだったそうです。

 

絵を専門的に習ったわけではありません。

 

それでも後には、写真などを見なくても動物を描けるほどの職人的な技術を身につけていきました。

 

しかし、竜太館長のお話で印象的だったのは、正幸氏を単純な「絵の天才」として語っていなかったことです。

 

動物が好きだったから、よく見た。知ろうとした。何度も描いた。好きだからこそ、手間を惜しまなかった。

 

その長い積み重ねが、やがて技術になったというお話でした。

 

そして、その周囲には高島先生や今泉先生、福音館書店の松居直編集長など、彼の「好き」を理解し、その時々に必要なものを支えてくれる大人たちがいたそうです。

 

ここで私は、午前中の園庭を思い出しました。

 

泥に夢中になる子、色水を何度も混ぜる子、築山を繰り返し滑る子、音楽に合わせて自ら踊ることを選んだ子。そして、その子どもたちと一緒になって踊り、本当に楽しそうにしていた保育士たち。

 

一見すると、薮内正幸氏の人生とは遠く離れた光景です。

 

しかし、その根元には、何か共通するものが流れているのではないでしょうか。

 

「好きだから、もっとやりたい」。

 

そして、その「好き」を理解し、ときには一緒に面白がってくれる大人がいる。

 

そのことが、人が育つうえでどれほど大きな力になるのかを考えさせられました。

「好き」と「遊び」には、時間がいる

竜太館長は、結果や効率、いわゆる「コスパ」が重視される時代だからこそ、時間をかけることの大切さを強調されました。

 

私はその言葉にも深く共感しました。

 

大人から見れば、子どもが同じことを何度も繰り返しているだけに見えることがあります。

 

けれども、本人にとっては同じではありません。

 

さっきより水を多くしてみる。別の色を加えてみる。違う場所を掘ってみる。もう一度滑ってみる。もう一度踊ってみる。

 

その一回一回に、小さな違いがあります。

 

人間の成長は、すべてを効率よく最短距離で進めればよいものではないのでしょう。

 

本当に価値のあるものの中には、時間をかけなければ育たないものがあります。

 

そして、その時間を大人が待てるかどうか。

 

ここもまた、教育を考えるうえで大切な問題なのだと思います。

教育とは何だろう

朝から夕方までの長い研究会でした。

 

しかし、帰るときには、大きな充実感が残っていました。

 

なぜだろうと思います。

 

振り返ってみると、私はこの一日を通じて、さまざまな形で同じものを見ていたのかもしれません。

 

泥に触れ、色を混ぜ、水を流し、滑り、自ら踊ることを選ぶ子どもたち。その子どもたちと一緒に、本当に楽しそうに踊る大人。

好きな動物を見つめ、描き続けた薮内正幸氏。そして、その「好き」を理解し、支えた大人たち。

 

それらが、私の中で一本につながりました。

 

教育とは何でしょうか。

 

知識を教えることでしょうか。正しい答えへ導くことでしょうか。将来必要となる能力を身につけさせることでしょうか。

 

もちろん、それらも大切です。

 

しかし、そのもっと根底には、子どもには自ら育つ力があると信頼することがあるのではないでしょうか。

 

そして、その力が伸びていくための環境と時間を保障し、失敗できる余白をつくり、その子が何かに夢中になる時間を守ること。

 

さらには、何かを「する自由」だけでなく、ときには「しない自由」も認めること。

 

ダンスの時間だから、全員が踊らなければならないのではない。

 

踊りたいから、踊る。

 

その小さな自由の中に、自分の感覚を確かめ、自分で選び、自分の世界をつくっていく人間の主体性の芽があるように思います。

 

そして今回、私はもう一つ大切なことを教えられました。

 

それは、大人自身が世界を面白がって生きることです。

 

大人自身が自然に驚き、音楽を楽しみ、ときには踊り、好きなものについて語り、子どもと一緒に笑う。

 

自分自身が世界に心を動かされている大人の姿は、それ自体が子どもに何かを伝えているのではないでしょうか。

 

子どもに自由を与えることは、大人が世界から身を引くことではありません。

 

むしろ、子どもの自由を尊重しながら、大人自身も一人の人間として生き生きと世界に関わっている。

 

「先生が子どもを楽しませる」のではなく、大人と子どもが、ともに世界を楽しむ。

 

原村保育園で目を奪われたダンスの光景を思い返すと、私はそこに、教育という営みの一つの原型を見たような気がします。

 

子どもが育つ。その子どもと出会うことで、大人もまた学び、変わっていく。そして、その両方を地域が支える。

 

教育とは、一方が他方を一方的に形づくることではなく、人と人とが同じ世界に出会いながら、ともに育っていく営みでもあるのではないでしょうか。

 

大人にできることは、その過程を急いで「正解」へ連れていくことではなく、時には、子ども自身が育っていく時間を信じて待つことなのかもしれません。

 

そして、ときにはその隣で、自分自身も心から楽しむこと。

 

「好き」と「遊び」と「身体」と「時間」。そして、「ともに楽しむこと」。

 

原村保育園の園庭で見た子どもたちと保育士の姿、そして薮内正幸氏の人生を思い返しながら、私は今、教育とは、人が一方的に人を形づくることではなく、それぞれが自らの身体と意思をもって世界に出会い、その世界をときに誰かと分かち合いながら、ともに育っていく営みなのではないかと考えています。

 

宮坂園長をはじめ、この研究会を企画・実施してくださったすべての関係者の皆さまに、心より感謝申し上げます。