はじめに――英雄のあとに何が来るのか

これまで、いくつかの論考を通して、英雄、権力、家、〈公〉、公共について考えてきた。

源頼朝と源義経。

徳川家康と真田信繁。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。

戦国大名とヤクザ。

社会契約と革命。

アーレントとアナーキズム。

一見すると、かなり離れた問題を扱ってきたように見える。

しかし、振り返ってみると、そこには一本の問いが流れていた。

人間は、誰かに従わなければ、共に生きることができないのか。

英雄について考えたとき、そこには、

「この人でなければならない」

という代替不可能性があった。

権力者について考えたとき、そこには、

「私が決める」

という統治の論理があった。

家について考えたとき、そこには、

「この人が死んでも、次の人が継ぐ」

という継承の論理があった。

国家について考えたとき、そこには、

「公権力が決める」

という命令と服従の構造があった。

近代民主主義は、その権力を人民の意思によって正当化した。

しかし、アナーキズムはさらに問い返した。

人民の名によって行われる支配も、なお支配ではないのか。

そしてアーレントは、政治には別の原理があることを思い出させた。

異なる人々が現れる。

語る。

聞く。

説得する。

共に行為する。

そこに、誰か一人が所有するのではない力が生まれる。

つまり、

政治は「従え」だけから生まれるのではない。

「語ろう」からも生まれる。

そして、

「共にやろう」からも生まれる。

では、ここから現代の政治をどう考えればよいのだろう。

民主主義に、英雄は必要なのか。

民主主義における「偉大な政治家」とは、いったい誰なのか。

この問いを最後まで追っていくと、政治家を評価するための論考として始まったはずの議論が、やがて政治家から離れていく。

最後に問われるのは、政治家ではない。

私たち市民なのである。


一 英雄の時代――「この人でなければならない」

英雄には、一回性がある。

義経。

信繁。

信長。

アキレウス。

英雄が英雄であるのは、その行為を別の誰かで置き換えることができないからである。

英雄とは、

「この人でなければならなかった」

という記憶の中に成立する。

だから英雄は、家や制度とは反対の方向を向く。

家は、この人が死んでも次の人が継がなければならない。

制度も、この人がいなくても作動しなければならない。

しかし英雄は、

「別の誰かでもよかった」

となった瞬間に、英雄ではなくなる。

アーレントの言葉を借りれば、英雄の行為に現れるのは、その人物が「何であるか」ではなく、

「誰であるか」

である。

武将であること。

大名であること。

将軍であること。

そうした属性だけでは、英雄は生まれない。

ある人が他者の前に現れ、語り、決断し、行為する。

そこに、その人に固有の「誰」が現れる。

しかし、行為は一瞬で過ぎ去る。

だから英雄には語り手が必要になる。

アキレウスにはホメロスがいた。

義経には『義経記』があり、『安宅』があり、『勧進帳』があった。

信繁には「真田日本一の兵」という言葉と、後世の「幸村」伝説があった。

信長には『信長公記』があった。

秀吉には『太閤記』があった。

英雄は自分一人では英雄になれない。

英雄とは、

行為した者と、その行為を記憶する共同体との共同作品

なのである。


二 権力者――「生き残ること」の政治

しかし、政治は英雄だけでは成り立たない。

社会には秩序が必要である。

制度が必要である。

決定が必要である。

ここで、エリアス・カネッティが権力の底に見た「生き残ること」が重要になる。

他者が倒れる。

敵が死ぬ。

競争者が消える。

それでも自分は残る。

カネッティは、この生存者の感覚と権力との間に深い結びつきを見た。

この意味で、家康はきわめて典型的な権力者である。

信玄が死ぬ。

信長が死ぬ。

秀吉が死ぬ。

そして家康が残る。

だが、家康の偉大さは、自分一人が残ったことだけではない。

彼は自己保存を、自分の生命の外へ延長した。

自分が死んでも、徳川家が残る。

当主が替わっても、幕府が残る。

つまり、

個人の自己保存を、家の自己保存へ、さらに制度の自己保存へ転化した。

これに対して頼朝は、制度を残したが、自らの家を安定的に残せなかった。

頼朝は、有力な血族を潜在的競争者として切り離すことによって、自分を中心とする鎌倉を強くした。

しかし、その成功が同時に、

頼朝死後の「源家」の弱さ

を生んだ可能性がある。

頼朝を守った合理性が、頼朝の子孫を守る合理性にはならなかった。

ここには、権力の逆説がある。

制度は、創設者から自立することで強くなる。

そして自立した制度は、創設者自身の意図を守る義務を持たない。

頼朝が作った政治世界が、最後には頼朝の家をも呑み込んだ。

この逆説を、家康はある意味で乗り越えた。


三 家康――英雄を必要としない政治

家康が解いた問いは、

「どうすれば第二の家康を作れるか」

ではなかった。

むしろ、

「第二の家康が現れなくても続く政治を、どう作るか」

だった。

天才は世襲できない。

英雄も量産できない。

だから、優れた政治秩序が毎代英雄を必要とするなら、その制度は脆弱である。

秀忠は家康でなくてよい。

家光も家康でなくてよい。

役割を継承できればよい。

ここで、英雄と制度の違いがはっきりする。

英雄は、

「この人でなければならない」。

制度は、

「この人でなくても動かなければならない」。

この意味で、家康が信長ほど英雄的でないことは、家康の政治的偉大さを少しも損なわない。

むしろ逆である。

英雄を必要としない世界を作ったことが、家康の政治的成功だった。

しかし、民主主義はここからさらに先へ進む。


四 家から制度へ、制度から人民へ

徳川政治には、なお「家」がある。

将軍は徳川家から出る。

政治秩序と血統は切り離されていない。

近代民主主義は、この条件を解体する。

政治的権力を担うために、特定の家に生まれる必要はない。

王朝も必要ない。

世襲も必要ない。

選挙によって権力は交代する。

ここでは政治的地位が、人から切り離される。

しかし、近代民主主義は単に支配者の選抜方法を変えただけではない。

社会契約論と近代革命が行ったより根本的な転換は、

誰が公権力を正当化するのか

という問いへの答えを変えたことである。

神ではない。

王朝でもない。

人民である。

王の名において命令する政治から、

人民の名において命令する政治へ。

これは巨大な変革だった。

しかし、そこで問題は終わらない。

なぜなら、

「人民の名において」も、国家は強制する

からである。

法律がある。

税がある。

警察がある。

刑罰がある。

命令―服従の構造は、正統性の根拠を変えながら残っている。

そこで、アナーキズムの問いが現れる。


五 革命は王座に座る者を変えた――アナーキズムは王座を疑った

バクーニンやクロポトキンが問うたのは、単に専制国家が悪いということではない。

革命によって人民が主権者になれば、それですべてが解決するのか。

労働者の名で支配するなら、支配は支配でなくなるのか。

人民のための国家なら、人間を強制してよいのか。

思想的な比喩を使えば、

革命は、王座に座る者を変えた。

しかしアナーキズムは、

王座そのものを疑った。

これは政治思想にとって、きわめて根源的な問いである。

問題を、

「誰が正当に支配するのか」

から、

「なぜ、そもそも人間は人間を支配しなければならないのか」

へ戻すからである。

ここで、民主主義は自らの最深部から問い直される。

民主的に選ばれた権力なら正しい。

多数派の意思なら正しい。

人民の名において行われるなら正しい。

本当にそうなのか。

少数者にとってはどうなのか。

参加していない者にとってはどうなのか。

未来世代にとってはどうなのか。

そしてそもそも、私たちはいつ、国家への服従に同意したのか。

アナーキズムは、民主主義を否定するためだけの思想ではない。

民主主義が、

「人民によって正当化された公権力」

だけに縮んでしまうことを防ぐ、ラディカルな批判原理にもなり得る。


六 「人民」と市民は同じではない

ここで、重要な区別が必要になる。

「人民主権」と「公共」は同じではない。

「人民が主権者である」

という原理は、公権力の正統性を説明する。

しかし、

現実の複数の人間が、実際に語り、応答し、判断していること

とは別である。

国家は、

「人民の名において」

決定できる。

しかし、その人民が実際に何を考えているのかは、必ずしも一つではない。

そもそも「人民」は複数である。

意見が違う。

利益が違う。

経験が違う。

恐れているものも違う。

ここでアーレントの「複数性」が決定的な意味を持つ。

人間は、一人では政治をしない。

しかし、全員が同じでも政治は必要ない。

異なる人間が、異なるまま、共通世界について語る。

そこに政治が生まれる。

この政治の原理は、

「従え」

ではない。

「私はこう考える。あなたはどう考えるか。」

である。


七 面目の世界から、現れの世界へ

このことは、これまで考えてきた「面目」の問題ともつながる。

暴力が競合する社会では、存在を認めさせるために、相手を屈服させる必要があることがある。

侮られれば、報復しなければならない。

報復しなければ、さらに侵害される。

そこでは、

自分が存在することと、相手を屈服させること

が結びついてしまう。

だから浅井長政は、家を物理的に残すという意味では不合理に見える戦争へ進んだ。

「浅井家」であり続けるためには、従属しないことを示さなければならなかった。

しかし公共には、別の承認の仕方がある。

私は語る。

他者も語る。

私は他者を消さなくても、自分が誰であるかを現すことができる。

むしろ、他者がいるからこそ、私は現れる。

ここには、

面目の世界から、現れの世界へ

という転換がある。

暴力的な世界では、

「俺を軽く扱うな」。

公権力は、

「従え」。

公共では、

「私はこう考える。あなたはどう考えるか」。

承認の欲望が消えるのではない。

承認の形式そのものが変わる。


八 クロポトキン――秩序は上からしか生まれないのか

しかし、ここで当然の反論が生まれる。

人々が話し合うだけで、社会は維持できるのか。

国家がなければ混乱するのではないか。

人間は結局、上から統治されなければ秩序を作れないのではないか。

これはホッブズ以来の問いでもある。

それに対してクロポトキンが提示したのが、

相互扶助

である。

人間は命令されなければ協力できない存在ではない。

助け合う。

約束する。

共同で規則を作る。

自治する。

災害が起これば互いに支える。

地域を維持する。

協同組合を作る。

国家的強制とは別のところからも、秩序は生まれる。

したがって、

秩序か、無秩序か

という二択は誤っている。

秩序には、少なくとも二つの系列がある。

一つは、

命令 → 服従 → 制裁 → 秩序

である。

もう一つは、

協議 → 協同 → 相互扶助 → 自治 → 秩序

である。

ここにアナーキズムの最も重要な財産の一つがある。

国家的秩序の反対は、必ずしも混沌ではない。

自治的秩序という可能性がある。


九 アーレントとアナーキズム――同じではない、しかし響き合う

もちろん、アーレントをアナーキストと呼ぶことはできない。

バクーニンやクロポトキンと同じ思想でもない。

しかし、両者には一つの重要な響き合いがある。

アーレントでは、

複数性 → 言論 → 共同行為 → 権力

となる。

クロポトキンでは、

相互扶助 → 自発的協同 → 自治 → 秩序

となる。

いずれも、

国家 → 命令 → 服従 → 秩序

だけが人間社会の唯一の可能性ではないことを示している。

ここで、政治のイメージが変わる。

政治家が市民に何かをしてあげる。

国家が社会を管理する。

行政が問題を解決する。

それだけが政治ではない。

人々自身が集まり、話し、助け合い、約束し、何かを始める。

そこにも政治がある。

つまり、

政治は国家から市民へ「降りてくる」ものではない。

人間と人間の「あいだ」から立ち上がるものでもある。


十 民主主義は「良い殿様」を選ぶ制度なのか

ここまで来ると、現代の政治家をどう評価するかという問いも変わってくる。

私たちは選挙になると問う。

誰が優秀か。

誰が誠実か。

誰が市民のために働くか。

もちろん大切な問いである。

政治家の資質は政治に大きな影響を与える。

しかし民主主義を、

「良い政治家を選ぶ制度」

とだけ考えると、重要なものを見失う。

善良な君主もいる。

民衆の幸福を願う独裁者さえ、理論上はありうる。

しかし、それだけでは民主主義ではない。

「市民のために」政治家が決める。

市民は四年に一度、その人物を選ぶ。

そして後は任せる。

それでは、

良い殿様を選ぶ政治

と、まだ完全には切れていない。

民主主義の核心は、統治者の質だけにあるのではない。

政治の主体そのものを、市民へ開くこと

にある。


十一 利他だけでは民主主義にならない

だから、政治家に「利他」を求めるだけでも足りない。

市民のために尽くす。

弱い人のために働く。

暮らしをよくする。

それは重要である。

しかし、

何が市民の幸福なのかを誰が決めるのか

という問いが残る。

善意ある政治家が、

「あなたたちのためだから」

と決定することもできる。

その判断が実際に正しい場合もある。

しかし民主主義は、善意の統治よりも要求水準が高い。

市民自身が、

「自分たちはどう生きたいのか」

「何を守りたいのか」

「どの負担を引き受けるのか」

「何を次の世代へ残すのか」

を語ることができなければならない。

民主政治とは、

人々に幸福を与える技術であるだけではない。

人々自身が幸福とは何かを語ることのできる条件を守る政治でもある。


十二 では、民主主義における偉大な政治家とは誰か

ここでようやく、本稿の題に戻る。

民主主義は誰を「偉大な政治家」と呼ぶのか。

信長のように、世界を自分の力で切り拓く政治家なのか。

秀吉のように、頂点まで上り詰める政治家なのか。

家康のように、長く続く制度を作る政治家なのか。

それぞれに偉大さはある。

しかし民主主義では、もう一つ別の偉大さが必要になる。

それは、

自分の政治的可能性を大きくするのではなく、市民の政治的可能性を大きくすること

ではないだろうか。

自分に賛成する者だけでなく、反対する者が語れる場所を守る。

批判者を敵としない。

情報を独占しない。

市民が判断するための情報を開く。

少数意見を、採決で負けたからといって消さない。

住民が自分で考え、話し、提案し、場合によっては政治家に逆らえる条件を作る。

そして何より、

自分がいなくなっても、市民が自分たちで政治を続けられるようにする。

ここに、民主主義における政治家の新しい偉大さがある。


十三 偉大な政治家とは、自分を必要なくしていく人である

この考えをさらに進めると、逆説的な結論に行き着く。

信長の英雄性は、

「信長でなければならなかった」

ことにある。

家康の制度設計の偉大さは、

「家康でなくても続く」

世界を作ったことにある。

では、民主主義の政治家の偉大さとは何か。

おそらく、

「政治家でなければできないこと」そのものを少しずつ減らしていくこと

ではないだろうか。

市民が自分で議論できる。

地域で決められる。

当事者が制度形成に参加できる。

住民が情報へアクセスできる。

行政知を行政だけが独占しない。

政治家だけが課題設定を独占しない。

自治できる領域を増やす。

協同できる領域を増やす。

相互扶助できる領域を増やす。

これは政治家が何もしないということではない。

むしろ、非常に高度な政治である。

自分に権力を集中させれば、政治家の存在感は大きくなる。

しかし、

自分に集まった政治的可能性を社会へ返す

ためには、自分自身を相対化する能力が必要になる。

だから民主主義における偉大な政治家とは、

自分を必要なくしていく方向へ政治を開く人

なのかもしれない。


十四 政治家を生み出す市民から、政治を生み出す市民へ

しかし、ここでなお政治家を中心に考えていることに気づかなければならない。

「良い政治家を、市民がどう生み出すか」。

これは大切な問いである。

だが、それだけでは市民はまだ「政治家を選ぶ者」でしかない。

もっと先へ進む必要がある。

市民の役割は、優れた政治家を生み出すことではなく、

政治そのものを生み出すこと

なのではないか。

政治家が問題を提示する前に、市民が問題を見つける。

行政が制度を作る前に、市民が話し合う。

公権力が命じる前に、人々が助け合う。

専門家にすべてを委ねる前に、当事者が経験を語る。

ここでは、市民は「ボトム」ではない。

政治家が上にいて、市民が下にいるのでもない。

政治そのものが、

水平的な人間関係の中から立ち上がる。

だから、

市民 → 政治家 → 政治

という図式から、

市民同士の「あいだ」 → 言論・協同・自治 → 政治

へ移る必要がある。

政治家は、その政治の唯一の作者ではない。

社会の中で生まれた言葉や要求や実践を、公的な制度へ媒介する者の一人なのである。


十五 「人民の名」から、現実の人民へ

この観点から見ると、民主主義の課題もはっきりする。

「人民主権」と宣言するだけでは足りない。

その人民が実際に語らなければならない。

異議を唱えなければならない。

考えなければならない。

互いに聞かなければならない。

場合によっては、共に何かを始めなければならない。

つまり民主主義とは、

「人民の名において」統治することから、現実の人民が公共へ現れることへ

進まなければならない。

ここに、議会の意味もある。

議会が多数決だけの場所なら、初めから人数を数えればよい。

しかし討論がある。

質問がある。

反対意見が記録される。

なぜか。

議会とは、決定装置である前に、

異なる世界の見え方を公共へ現す場所

だからである。

多数決は必要である。

しかし多数決は公共そのものではない。

決定した後にも批判は続く。

少数意見は消えない。

公共は、採決によって閉じてはならない。


十六 民主主義とアナーキズムのあいだ

では、民主主義はどこまで進めばよいのだろうか。

アナーキズムは、公権力そのものをどこまで必要とするのかを問う。

しかし現代の巨大で複雑な社会では、公権力にしか担いにくい機能もある。

災害対応。

感染症。

広域インフラ。

再分配。

環境規制。

犯罪への対応。

世代を越えた資源配分。

利害が決定的に衝突する問題。

公共の言論だけでは、最終的な決定ができないこともある。

したがって、

「国家をなくせばすべて解決する」

と単純に言うことはできない。

しかし、アナーキズムの問いを捨てる必要もない。

むしろ民主主義は、その問いを内部に持ち続けるべきなのではないか。

つまり、

公権力を残しながら、どこまで公権力を小さくできるのか。

命令を残しながら、どこまで自治を大きくできるのか。

「従え」をどこまで減らし、「語ろう」「共にやろう」をどこまで増やせるのか。

これが、民主主義にとってアナーキズムが残した最も重要な問いの一つだと思う。

民主主義は、

公共によって公権力を統御する。

アナーキズムは、そのさらに先から、

公権力そのものを、公共と自治によってどこまで代替できるのか

と問い続ける。

両者の緊張は、解消する必要がない。

むしろ、その緊張を持ち続けることが重要なのかもしれない。


十七 英雄の不死から、公共の不死へ

ここで、英雄論の出発点だった「不死」も、もう一度考え直すことができる。

英雄の不死には、固有名詞がある。

アキレウス。

義経。

信繁。

信長。

彼らの不死とは、

「この人がいた」

という記憶である。

英雄は代替不可能な一人として、共同世界に残る。

しかし民主主義や自治の世界では、別の残り方がある。

一人の名前は残らないかもしれない。

しかし、人々が守った学校が残る。

残した森が残る。

作った制度が残る。

変えた条例が残る。

守った権利が残る。

地域の慣行が残る。

誰かを排除しないという文化が残る。

災害のときに助け合った経験が、次の世代へ伝わる。

ここには英雄の不死とは異なる、

公共の不死

がある。

それは、

「この偉大な人が私たちに与えた」

という形ではない。

「私たちは、これを共に作った」

という形で残る。

英雄の不死が、

「この人がいた」

なら、

公共の不死は、

「私たちは、ここにいた」

である。

これは不死の民主化と呼ぶこともできるだろう。

一人の英雄に集中していた「世界へ何かを残す」という可能性が、無数の人々へ開かれるのである。


十八 しかし、市民もまた英雄を欲しがる

ところが、ここには大きな障害がある。

政治家だけが英雄になりたがるのではない。

市民も英雄を欲しがる。

難しい問題が起きたとき、

「誰か何とかしてくれ」

と思う。

複雑な政治判断を前にすると、

「この人を信じればよい」

と思いたくなる。

社会が不安定になるほど、

「強い指導者」

「決断できる人」

「すべてを分かっている人」

への欲望が生まれる。

これは理解できる。

自分で考え続けることは苦しい。

他者と議論することも疲れる。

意見の違いに耐えることも難しい。

誰かに判断を委ねれば楽になる。

しかし、その瞬間から民主主義には危険が始まる。

優れた政治家を支持することは問題ではない。

敬意を持つことも問題ではない。

だが、

自分自身の政治的判断を、その人物へ預けてしまうこと

は別である。

政治家が偶像になったとき、市民は自らを政治的主体として失い始める。

ここで、ニーチェの言葉が必要になる。


十九 「わたしを失い、おまえたち自身を見出すがいい」

『ツァラトゥストラはこう語った』の中で、ツァラトゥストラは弟子たちに、自分から離れることを求める。

いつまでも弟子でいるな。

私を信じ続けるな。

私を警戒せよ。

私への敬意が偶像にならないようにせよ。

そして最後には、

「わたしを失い、おまえたち自身を見出すがいい」

と迫る。

ここで重要なのは、師が謙遜しているのではないということである。

「私は大した人物ではない」と言っているのではない。

むしろ、師を信じるという関係そのものを壊そうとしている。

弟子が成熟するためには、師から離れなければならない。

師の言葉を繰り返すだけでは足りない。

師を否定することさえできなければならない。

これは政治にも鋭く響く。

本当に成熟した政治家と市民との関係も、

「私を信じ続けよ」

ではないはずである。

むしろ、

「私を疑え」。

「私が間違えば、私に反対せよ」。

「私なしでも判断できるようになれ」。

と言える関係でなければならない。


二十 ニーチェ、アーレント、アナーキズム

もちろん、ニーチェ、アーレント、バクーニン、クロポトキンは同じ思想家ではない。

政治観も人間観も大きく異なる。

それらを一つの思想へ溶かしてしまうことはできない。

しかし、この地点では奇妙に響き合う。

ニーチェは、

師から離れ、自分自身を見出せ

と言う。

アーレントは、

人々自身が現れ、語り、共に行為せよ

と考える。

アナーキズムは、

なぜ誰かが誰かを支配しなければならないのか

と問う。

三者に共通する一つの方向は、

依存を永久化しないこと

である。

成熟した師は、永遠の弟子を必要としない。

成熟した政治家は、永遠の支持者を必要としない。

成熟した民主主義は、永遠の被統治者を必要としない。

ここに、「英雄なき時代」という言葉の本当の意味が見えてくる。


二十一 英雄を拒む英雄

すると、英雄という概念は最後に反転する。

前近代の英雄は、

「私でなければならない」

という存在だった。

信長がその極にいる。

家康は、

「私でなくても続く」

世界を作った。

そして民主主義における最も偉大な政治家は、さらに、

「私を必要とするな」

と言える人なのかもしれない。

これは奇妙な逆説である。

民主主義における最大の「英雄」は、

英雄であることを拒む者

になる。

自分への忠誠を作らない。

自分を中心とする運動を永続させない。

自分への信仰を政治の基礎にしない。

自分を超えて、市民が自立していくことを望む。

自分の支持者が、いつか自分に反対できることを喜べる。

そこに、英雄の時代とは異なる偉大さがある。


二十二 しかし、政治家がそう言うのを待っていてはいけない

ただし、ここで再び市民の側へ反転しなければならない。

「私を疑え」と言える政治家が現れるのを待つ。

「私なしで立て」と言える指導者を待つ。

それでは、まだ英雄待望論から抜け出していない。

政治家が自分を相対化してくれるのを、市民が待っているからである。

だから、ニーチェの言葉は政治家から市民への言葉であるだけではない。

市民が、自分自身に向けるべき言葉でもある。

支持しても、服従しない。

尊敬しても、偶像にしない。

共に歩いても、自分の足で立つ。

賛成していても、自分で考える。

昨日支持した人に、今日は反対することもできる。

政治的忠誠より、公共世界への責任を上に置く。

成熟した市民とは、

支持する政治家を失っても、自分自身の政治的判断を失わない人

なのである。


二十三 誰が政治を始めるのか

ここまで来れば、最初の問いはもう変わっている。

「民主主義は誰を偉大な政治家と呼ぶのか」

と問うて始めた。

しかし最後には、

「なぜ、政治の主語を政治家だけにしているのか」

という問いに変わった。

英雄の時代には、

「誰が歴史を作るのか」

と問われた。

国家の時代には、

「誰が正当に支配するのか」

と問われた。

民主主義は、

「誰を選ぶのか」

と問う。

しかし公共と自治の政治は、さらに先へ進む。

「私たちは、誰かに導かれなくても、共に政治を始めることができるのか。」

ここで政治の主語が変わる。

「彼」ではない。

「国家」でもない。

抽象的な「人民」ですらない。

現実に異なる場所で生き、異なる経験を持ち、異なる意見を持ちながら、それでも同じ世界を共有している、

私たち

である。


結び――英雄を失い、私たち自身を見出す

英雄は、人間の可能性を示してきた。

義経は、人間が利害だけで結ばれる存在ではないことを示した。

信繁は、人間が自己保存だけのために生きる存在ではないことを示した。

信長は、世界が与えられた形のままでなければならないわけではないことを示した。

秀吉は、人間が与えられた位置を越え得ることを示した。

家康は、一人の英雄を必要としない制度を作ることができることを示した。

そして近代民主主義は、さらに別の可能性を開いた。

政治は、偉大な一人の人間だけのものではない。

特定の家のものでもない。

国家だけのものでもない。

政治家だけのものでもない。

人々自身が語り、

助け合い、

約束し、

異議を唱え、

共に何かを始めるところにも、政治は生まれる。

アーレントが示したように、人々が共に行為するとき、そこに権力が生まれる。

クロポトキンが示したように、人々が相互扶助するとき、そこに秩序が生まれる。

そしてアナーキズムは問い続ける。

私たちは、「従え」をどこまで小さくし、「語ろう」と「共にやろう」をどこまで大きくすることができるのか。

この問いには、最終回答はないのかもしれない。

国家が必要な場面は残る。

公権力が決定しなければならない問題も残る。

政治家が判断しなければならない瞬間も残る。

しかし、それでも方向を問うことはできる。

政治家へ集中する権力を、市民へどこまで返せるのか。

行政へ集中する知識を、市民へどこまで開けるのか。

命令による秩序を、自治による秩序へどこまで置き換えられるのか。

そして、市民はどこまで、自分自身の判断を他者へ預けずにいられるのか。

ここで、ニーチェの言葉が最後に戻ってくる。

「わたしを失い、おまえたち自身を見出すがいい。」

これは師と弟子についての言葉である。

しかし民主主義においては、あらゆる政治的指導者と市民との間に置かれてよい言葉でもあるのではないだろうか。

偉大な政治家とは、自分を信じる人々を増やす人ではない。

自分を疑うことのできる市民を増やす人である。

自分に従う者を増やす人ではない。

自分なしでも政治を始められる人々を増やす人である。

そして成熟した市民とは、政治家から、

「私を失え」

と言われるのを待つ人ではない。

自ら偶像を降ろすことのできる人である。

支持しても、服従しない。

尊敬しても、判断を委ねない。

他者とともに歩いても、自分自身を失わない。

英雄の不死とは、

「この人がいた」

という記憶だった。

公共の不死とは、

「私たちは、ここにいた」

という痕跡である。

英雄は、自分の名を共同世界へ刻む。

しかし市民は、必ずしも名を残さなくてもよい。

自分たちが作った世界を残すことができる。

守った権利。

残した制度。

育てた関係。

助け合った経験。

違う者どうしが、それでも共に生きることのできる場所。

それらが残ればよい。

英雄の時代は、

「誰が私たちを導くのか」

と問うた。

国家の時代は、

「誰が正当に私たちを支配するのか」

と問うた。

民主主義は、

「私たちは誰を選ぶのか」

と問うた。

しかし公共と自治の政治は、さらに問う。

「私たちは、誰かに導かれなくても、共に政治を始めることができるのか。」

英雄を待たない。

良き支配者を待たない。

国家だけに政治を預けない。

政治家だけに政治を預けない。

語る。

聞く。

助け合う。

異議を唱える。

共に決める。

共に始める。

そのとき、政治の主語はついに、

「彼」

ではなくなる。

「私たち」になる。

そしておそらく、「英雄なき時代」とは、英雄が存在しなくなった貧しい時代ではない。

一人の英雄に集中していた政治的可能性が、無数の人々へ返されていく時代なのである。

だから最後に必要なのは、新しい英雄を見つけることではない。

むしろ、

英雄を失う勇気なのかもしれない。

英雄を失い、

師を失い、

良き支配者への依存を失い、

そのあとに残るもの。

それは孤独ではない。

互いに異なりながら、同じ世界に生きる、

私たち自身である。

「わたしを失い、おまえたち自身を見出すがいい。」

民主主義とは、もしかすると、この言葉を政治の原理へ翻訳し続ける、終わりのない試みなのかもしれない。

10月5日、北杜市議会の「中学校統合にかかる特別委員会」の視察で、岐阜県恵那市を訪れました。

恵那市では、今年4月、岩邑中学校、山岡中学校、明智中学校、串原中学校、上矢作中学校の5校を統合し、新たに「恵那南中学校」が開校しました。生徒数は約330人です。

北杜市でも中学校を2校に統合する計画が進められています。今回の視察では、恵那市がどのような考え方で統合を進め、開校後の学校生活にどのような変化が生じているのか、また、どのような課題があるのかを学びました。

■ 統合によって生まれた新しい教育環境

恵那市側からは、統合によって生徒の交流範囲が広がり、新しい友人関係を築く機会が増えたことが説明されました。

また、小規模校では難しかったクラス替えが可能になったほか、教員同士が教科ごとに相談し、授業づくりに取り組みやすくなったとのことでした。

部活動についても、スポーツだけでなく、文化的な活動を含めて選択肢が広がったという説明がありました。

こうした点は、学校統合によって期待される利点として参考になります。

一方、私は、統合による教育効果をどのように検証しているのか、事前に質問していました。

これに対する恵那市側の回答は、「効果検証等はこれから実施するため回答できない」というものでした。

開校から約半年であり、教育効果を十分に検証するには時間が必要です。ただし、統合によって期待される効果と、実際に確認された効果とは区別して考える必要があります。

■ 統合以外の選択肢は、どのように比較されたのか

私は、今回の統合に当たり、ほかの選択肢とどこまで比較検討したのかについても質問しました。

具体的には、統合以外の選択肢を含め、教育面、通学面、財政面、地域への影響などをどのように比較したのか、比較資料は作成されたのか、という質問です。

恵那市側からは、平成21年頃から議論を重ねてきた経緯について説明がありましたが、具体的な比較検討の内容については回答を得られませんでした。

もちろん、回答が得られなかったことをもって、比較検討が行われなかったと判断することはできません。

しかし、学校統合は、子どもたちの教育環境だけでなく、地域の将来にも関わる重要な政策です。

だからこそ、どのような選択肢があり、それぞれにどのような利点と課題があるのかを、客観的な資料に基づいて比較することが大切だと考えています。

■ スクールバスによる通学と学校生活

恵那南中学校では、広い地域から生徒が通学するため、スクールバスが運行されています。

学校説明資料によると、朝はおおむね7時50分から8時5分に学校へ到着するよう運行され、下校バスは原則1便です。

そのため、部活動に参加しない生徒も、下校バスを待つことになります。

私は、実際の待ち時間と生徒の反応について質問しました。

恵那市側からは、待ち時間は最大30分程度で、生徒から特に声は聞こえてこないとの説明がありました。

また、長時間通学による生徒への影響や、バス通学による保護者の負担についても事前に質問しましたが、いずれも「把握していないため」として回答を得られませんでした。

これは、通学によって問題が生じていることを意味するものではありません。同時に、問題がないことを確認できたわけでもありません。

通学時間の長期化は、子どもたちの生活時間や放課後の活動、家庭での過ごし方などにも関わります。

北杜市においても、単にスクールバスを運行できるかどうかだけでなく、実際の通学時間や生徒・保護者への影響を十分に検討する必要があると感じました。

なお、スクールバス運転手を将来も確保できる見通しかという事前質問については、「業務委託契約のため」として回答はありませんでした。

■ 教員配置――計画と実際の違い

教員配置についても質問しました。

恵那南中学校については、令和6年度に示された教科担任配置の想定では非常勤講師が0人となっていましたが、令和8年4月1日の開校時の資料では2人となっていました。

この違いを尋ねたところ、美術担当1人と学習支援員1人との説明がありました。

ただし、学習支援員の職種上の位置づけや、当初想定から変更された理由については、なお確認が必要です。

学校統合によって教員配置の充実が期待される場合でも、計画段階の想定と開校時の実際の配置を照らし合わせることが重要だと感じました。

■ 旧5校の文化や伝統をどう引き継ぐのか

今回、印象に残った回答の一つが、統合前の5校の文化や伝統をどう継承しているのかという質問への回答でした。

恵那市側からは、「一番苦しんでいるところ」との率直な説明がありました。

それぞれの学校には、地域とともに育んできた文化や伝統があります。それらを新しい一つの学校ですべて引き継ぐことは容易ではありません。

そこで、恵那南中学校では、生徒が自分の出身地域以外の祭りや行事にもボランティアとして参加するなど、地域を越えた交流を促しているとのことでした。

恵那市側は、こうした取り組みが明るい未来につながるものと期待していました。

新しい地域間交流が生まれることには意義があります。

その一方で、従来の学校を拠点として継承されてきた活動や伝統をどう守るのかは、引き続き考えなければならない課題です。

■ 地域に残された「まなびルーム」

恵那市では、学校を1校に統合する一方、各地域のコミュニティセンターに地域教育拠点「まなびルーム」を整備しています。

私は、なぜ学校を統合しながら、各地域に教育拠点を設けたのか質問しました。

恵那市側からは、各地域に図書館があればよいが、図書館がないため、地域の学習場所として整備したとの説明がありました。また、利用率は高いとのことでした。

学校の配置を見直す場合でも、子どもたちが地域で学べる環境をどう確保するのかという視点は、北杜市にとっても参考になると感じました。

■ 保護者や地域住民の声を聞くことの重要性

今回の視察に先立ち、私は、教育委員会からの説明に加えて、実際に統合を経験した保護者や地域住民からも話を聞く機会を設けていただけないかと要望していました。

しかし、今回の視察では、そのような機会は設けられませんでした。

行政や学校から制度の説明を受けることはもちろん重要です。

それとともに、子どもたちや保護者、学校がなくなった地域の住民が、統合による変化をどのように受け止めているのかを知ることも、政策を検証するうえで大切です。

今回の視察では、そうした当事者の経験を直接確認することはできませんでした。

■ 北杜市の中学校統合を考えるために

今回の恵那市視察では、統合によって生まれた新しい教育環境や、広域通学を支える仕組み、地域との関係を維持するための取り組みについて学ぶことができました。

一方、統合による教育効果の検証はこれからであり、長時間通学による生徒への影響や保護者負担については、恵那市側から「把握していない」との回答がありました。

また、旧5校の文化や伝統の継承には、学校側も難しさを感じていることが分かりました。

私は、今回の視察を通じて、学校統合の是非を判断するには、学校規模や施設整備だけでなく、教育上の効果、通学条件、保護者負担、地域との関係などを総合的に検討する必要があると、改めて考えました。

北杜市では現在、中学校を2校に統合する計画が進められています。

恵那市と北杜市では、学校の配置、地理的条件、生徒数、地域の実情が異なります。恵那市で採用された仕組みが、そのまま北杜市にも当てはまるとは限りません。

大切なのは、他市の統合事例を結論の根拠として用いることではなく、そこで得られた知見を、北杜市自身の条件に照らして検証することです。

今後も、統合以外の選択肢との比較、教育効果の見通し、通学条件、財政負担、地域への影響などについて、資料と事実に基づき、議会で丁寧に確認していきたいと思います。

子どもたちにとって、どのような教育環境が望ましいのか。

その問いを中心に据えながら、引き続き中学校統合問題に取り組んでまいります。

私は前稿「戦国大名とヤクザ――暴力から生まれる『公』、言論から生まれる『公共』」で、暴力によって秩序をつくる〈公〉と、人々が言葉を交わすことによって生まれる〈公共〉について考えた。

その文章を書いた直後、偶然、一つのニュースが目に留まった。

 

では、その〈公共〉を実際に支えているものは何なのだろう。

 

そんなことを考えさせられる出来事だった。

 

一人のラッパーが、ステージから「Free Palestine」と訴えた。

そして、そのラッパーがツアーから外された。

ここまでなら、政治と音楽をめぐってこれまでも繰り返されてきた論争の一つとして終わっていたかもしれない。

しかし、私が強く心を引かれたのは、その後に起きたことだった。

フィニアス、アーロン・ロウ、ベオガ、ルーカス・グラハム。

エド・シーランの米国ツアーに参加していた、あるいは参加予定だったアーティストたちが、マックルモアの降板後、相次いで出演を辞退したのである。

彼らが示したものは、単なる「賛同」ではなかった。

自分自身の出演機会を手放すという、不利益を引き受けての〈連帯〉だった。

ここから、一つの問いが生まれる。

 

もし同じことが日本で起きたら、どうなるだろうか。

 

だが、問いをそこで止めてはいけない。

「アメリカ人は自由を尊重するが、日本人は同調圧力に弱い」。

そんな単純な「日本人論」にしてしまえば、この出来事から本当に考えるべき問題を取り逃がしてしまう。

問うべきなのは、もっと別のことである。

 

なぜ日本では、政治的発言をした人への〈連帯〉が成立しにくいように見えるのか。

 

そして、その奥には、さらに根本的な問いがある。

 

そもそも〈自由〉は、何によって支えられているのだろうか。

 

「Free Palestine」の後に起きたこと

2026年9月4日、ニュージャージー州のメットライフ・スタジアム。

エド・シーランの米国ツアーで前座を務めていたマックルモアは、ステージからパレスチナへの連帯を表明し、「Free Palestine」と訴えた。

その後、複数の会場が、マックルモアが出演するのであれば公演を受け入れないとの意向を示した。ツアーの興行主は、残る米国公演から彼を外すことを決めた。

後にエド・シーラン自身も、これは自分の決定ではなく、興行主と会場側による決定だったと説明している。

もちろん、この出来事を単純な「言論弾圧」の物語として描くことには慎重でなければならない。

マックルモアを批判する側は、今回の発言だけでなく、過去の言動や表現も含め、反ユダヤ主義への懸念を示している。マックルモア自身は、イスラエル政府への批判とユダヤ人への敵意は別のものだとして、そうした批判に反論している。

また、米国憲法上の「表現の自由」は、原則として政府による言論規制から個人を守るものであって、民間の興行主や施設所有者に、あらゆる表現者へ舞台を提供する義務を課すものではない。

だから、この事件については、二つの問題を分けて考える必要がある。

 

マックルモアの主張をどう評価するのか。

 

そして、

 

その主張をしたことを理由として、舞台から排除することをどう考えるのか。

 

この二つは、同じ問いではない。

そして今回、後者の問いを行動によって突きつけたのが、他のアーティストたちだった。

マックルモアが外されると、フィニアス、アーロン・ロウ、ベオガ、ルーカス・グラハムが相次いでツアーから離脱した。

それぞれの理由は完全に同じではない。

しかし、その行為には一つの共通点があった。

 

「一人が排除された後も、何事もなかったかのように自分だけその舞台に立ち続けることはしない」

 

という態度である。

ここに、「支持」と「連帯」の決定的な違いがある。

 

「私はあなたの意見に反対する。しかし……」

ここで、よく「ボルテールの言葉」として紹介される、あの有名な一節を思い出す。

 

“I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it.”

 

「私はあなたの言うことには反対だ。しかし、あなたがそれを言う権利は、命をかけて守る。」

 

実は、これはボルテール自身の言葉ではない。

1906年、英国の作家エヴリン・ベアトリス・ホールが『The Friends of Voltaire』の中で、思想家エルヴェシウスの著作が弾圧された際のボルテールの態度を表現した言葉である。

しかし、その由来を知ると、この言葉はむしろいっそう興味深くなる。

ボルテールは、エルヴェシウスの著作に賛同していたから、その自由を擁護したわけではなかった。

その著作自体には批判的だった。

それでも、その本が弾圧され、焼かれることには抗した。

 

「あなたの意見に賛成だから、あなたを守る」のではない。

「あなたの意見には反対だ。それでも、あなたがそれを語ることのできる社会を守る」。

 

自由というものの難しさは、まさにここにある。

自分と同じことを言う人間の自由を認めるだけなら、自由という原理はそれほど必要ではない。

自由が本当に試されるのは、

 

自分が間違っていると思うことを語る人間の自由を、それでも認めることができるか

 

という場面なのである。

 

連帯とは「同じ意見になること」ではない

このことは、〈連帯〉について考えるうえでも重要である。

私たちはしばしば、連帯を「同じ意見を持つこと」だと思ってしまう。

しかし、本来の連帯は、それほど単純ではない。

私はあなたとすべての問題について同じ意見ではない。

あなたの言葉遣いに疑問を持つこともある。

あなたの政治的主張そのものに反対しているかもしれない。

それでも、

 

「あなたがその意見を述べたという理由によって公共的な場所から排除されるなら、それはあなた一人の問題ではない」

 

と考える。

なぜなら、今日あなたを排除することのできる力は、明日には私を排除することができるからである。

だから連帯とは、同質性から生まれるものではない。

むしろ、

 

異なる者同士だからこそ必要になる関係

 

なのである。

そして連帯には、しばしばコストが伴う。

自分には何の不利益もなく、「応援しています」と書くだけなら比較的容易である。

しかし、出演機会を手放す。

仕事を失う可能性を引き受ける。

取引先との関係が悪化するかもしれない。

自分まで批判されるかもしれない。

それでも他者の隣に立つ。

そこで初めて、連帯は単なる「共感」から、公共的な行為へと変わる。

 

日本で同じことが起きたら

では、日本で同じような出来事が起きたら、どうなるだろう。

仮に大規模な音楽イベントで、ある歌手が戦争や人権問題について政治的な発言をしたとする。

その発言が問題視され、スポンサーや会場側からの要請で、その歌手が出演できなくなった。

もちろん、

「日本なら誰も声を上げない」

と決めつけることはできない。

日本にも政治的・社会的問題について発言してきた音楽家、俳優、芸術家はいる。

だから、「アメリカは自由、日本は沈黙」という図式を描くつもりはない。

ただ、興味深い研究がある。

2026年、岡田亜朱、稲増一憲の両氏は、日本で著名人が政治的発言をした場合、人々がどのように反応するかを実験的に調べた。

その結果、同じ政治的内容であっても、発言者が著名人である場合には、そうでない場合より否定的な反応を受けやすいことが示された。

もちろん、一つの研究だけから「日本人は政治的発言を嫌う」と一般化することはできない。

しかし、私たちが日常で耳にする、こんな言葉を考える材料にはなる。

「歌手は歌だけ歌っていればいい」

「政治を持ち込むな」

「観客は政治の話を聞きに来ているわけではない」

ここで注目したいのは、政治的発言の内容への反論ではない。

「その意見は間違っている」ではなく、

 

「そもそも、あなたは政治について語るべき人ではない」

 

という反応である。

ここには、民主主義を考えるうえで看過できない問題が潜んでいる。

 

歌手である前に、市民である

歌手は歌う人。

俳優は演じる人。

スポーツ選手は競技する人。

教師は教える人。

会社員は会社で働く人。

それぞれに社会的な「役割」がある。

もちろん、役割があること自体は何も悪くない。

問題は、その役割が、その人の〈市民〉としての資格よりも前面に出るときである。

「あなたは歌手なのだから政治について語るな」

という言葉の背後には、

 

「あなたは一人の市民である前に歌手である」

 

という発想が潜んでいる。

しかし民主主義社会では、本来逆ではないだろうか。

歌手である前に、市民である。

俳優である前に、市民である。

会社員である前に、市民である。

政治家であろうと、教師であろうと、農業者であろうと、芸術家であろうと、一人ひとりが社会について考え、語る資格を持っている。

もちろん、その発言は批判されてよい。

反論されてもよい。

間違っていると思えば、その間違いを指摘すればよい。

しかし、

 

「あなたの職業の人間は政治について語るべきではない」

 

ということとは、まったく別の問題なのである。

 

アメリカを理想化しない

ただし、ここで、

「アメリカでは自由な市民が堂々と政治について発言するのに、日本では黙っている」

という物語にしてはいけない。

アメリカでも、著名人の政治的発言には激しい反発がある。

今回の出来事そのものが、それを示している。

マックルモアは批判を受け、複数の会場が出演を拒み、最終的にツアーから外された。

今回の出来事の興味深さは、

 

アメリカには抑圧が存在しないことではない。

 

そうではなく、

 

一人が排除されたとき、それに対抗する別の力が社会の内部から立ち上がったこと

 

にある。

会場所有者には経済力がある。

興行主には契約上の力がある。

スポンサーにも影響力がある。

しかし、アーティストには「出演しない」という力がある。

観客には、支持したり批判したりする力がある。

ジャーナリズムには、その対立を社会に開く力がある。

一つの力が社会全体を覆い尽くすのではなく、異なる力が互いに緊張関係をつくる。

私はここに、民主主義社会における〈公共〉の萌芽を見る。

 

「公」と「公共」は違う

私はこれまで、「公」と「公共」は同じものではないと考えてきた。

〈公〉は、上から作ることができる。

国家が制度を作る。

自治体が施設を作る。

企業がホールを作る。

興行主が舞台を作る。

そこには管理者がいて、規則があり、秩序がある。

しかし、それだけでは〈公共〉にはならない。

公共とは、完成された「場所」の名前ではない。

 

異なる人間同士が、互いを完全には理解できなくても、なお同じ場所に存在し続けようとする〈関係〉の名前なのではないか。

 

だから公共には、異論が必要である。

反論が必要である。

ときには衝突さえ必要になる。

誰もが同じことを考え、同じことしか言わない空間は、静かではあっても、公共的とは限らない。

むしろ公共が本当に試されるのは、

 

自分が聞きたくない言葉を語る人間と、それでも同じ社会にいられるか

 

という瞬間なのである。

その意味で、〈公〉は権力によって作ることができる。

しかし、

 

〈公共〉は、異なる他者との関係によってしか作ることができない。

 

「空気」と「公共」

日本社会について語るとき、「同調圧力」や「空気」という言葉がよく使われる。

しかし、

「日本には空気がある」

と言った瞬間、その空気を誰が作っているのかが見えなくなる。

スポンサーなのか。

芸能事務所なのか。

テレビ局なのか。

興行会社なのか。

SNS上の批判を恐れる本人なのか。

それとも、

「政治について語る人は面倒な人だ」

と距離を置く、私たち一人ひとりなのか。

空気は自然現象ではない。

人間が作っている。

だから、人間によって変えることもできる。

そして私は、「空気」と「公共」は正反対の方向を向くことがあると思う。

空気は、

 

「周囲と同じであれ」

 

と迫る。

公共は、

 

「違ったまま、ここにいてよい」

 

と認める。

空気は異論を孤立させる。

公共は異論を関係の中にとどめる。

だから、民主主義社会に必要なのは「空気を読む能力」だけではない。

ときには、

 

空気に逆らって、孤立した誰かの隣に立つ能力

 

なのではないだろうか。

 

しかし、語らない自由もある

同時に、もう一つ忘れてはならない。

 

政治について語らない自由もある。

 

すべての歌手に政治的発言を要求する社会も、また息苦しい。

「なぜパレスチナについて発言しないのか」

「なぜこの戦争について声明を出さないのか」

「沈黙しているということは、どちらかに加担しているのではないか」

そうやって全員に政治的立場の表明を要求し始めれば、それもまた別の同調圧力になりうる。

エド・シーランは今回、自分のコンサートについて、政治的なフォーラムではなく、人々を結びつける場所であってほしいという考えを説明している。

その選択にも、また自由がある。

語る自由と、語らない自由。

賛成する自由と、反対する自由。

参加する自由と、参加しない自由。

それらが同時に存在できなければならない。

だから、この事件で本当に問われているのは、

「アーティストは政治について発言すべきか」

ではない。

 

発言する者と発言しない者、賛成する者と反対する者が、互いを社会から追放することなく、同じ公共空間に存在できるか。

 

そのことなのだと思う。

 

自由を守るのは誰なのか

自由について語るとき、私たちは法律や憲法を思い浮かべる。

もちろん、それらは不可欠である。

権力が人間の思想や言論を恣意的に封じることを防ぐ制度は、民主主義の基礎である。

しかし、どれほど立派な憲法があっても、それだけで自由な社会が完成するわけではない。

なぜなら、社会の中で一人の人間が孤立させられたとき、その人の隣に立つことを法律は私たちに強制できないからである。

そこで必要になるのが、〈連帯〉なのだと思う。

エヴリン・ベアトリス・ホールがボルテールの態度を表現した、

 

「私はあなたの言うことには反対だ。しかし、あなたがそれを言う権利は、命をかけて守る」

 

という言葉が、一世紀以上にわたってボルテール自身の言葉だと誤解されながら、それでも人々を惹きつけてきた理由も、そこにあるのではないだろうか。

この言葉の核心は、単なる「寛容」ではない。

寛容という言葉には、ときとして「私は正しいが、あなたが間違っていることを大目に見てあげよう」という響きさえある。

しかし、ここで語られているのは、それよりも強い。

 

自分とは異なる他者の自由を、自分自身の問題として引き受けること。

 

そこには、すでに〈連帯〉の思想がある。

そして今回、フィニアスたちが行動によって示したものも、その一つの現代的な形として読むことができる。

「あなたが正しいから、あなたの隣に立つ」

だけではない。

 

「あなた一人を黙らせることで成立する舞台なら、私はその舞台に立たない」

 

という選択である。

 

「黙らされた一人」の隣に立てるか

だから今回の事件で、私が最も考えさせられたのは、マックルモアの言葉そのものだけではない。

その後だった。

一人のアーティストが舞台から外された。

すると、別のアーティストが自分も舞台を降りた。

さらに別のアーティストも降りた。

そこには、

 

「あなた一人の問題にはしない」

 

という意思があった。

ここに、私は〈公共〉を見る。

公共とは、意見の一致ではない。

同じ価値観を持つ者だけが集まることでもない。

むしろ、

 

違う者同士が、違うままで、互いが語ることのできる場所を守ること。

 

その関係そのものが、公共なのではないだろうか。

だから、日本社会について本当に問うべきなのは、

「なぜ日本人は政治について語らないのか」

ではない。

まして、

「なぜ日本人はアメリカ人ほど自由ではないのか」

でもない。

問うべきなのは、もっと身近で、そして厳しい問いである。

 

自分とは違う意見を語った誰かが、そのために孤立したとき、私たちはその人の隣に立つことができるだろうか。

 

しかも、自分自身にも少し不利益が及ぶかもしれないときに。

自由とは、自分が好きなことを言える状態だけではない。

 

自分とは違うことを言った他者が、そのために孤立させられたとき、その人を一人にしないこと。

 

〈公〉は、制度によって作ることができる。

しかし〈公共〉は、誰かの自由が危うくなったとき、その人の隣に立つ人間がいて初めて生まれる。

だから――

 

自由を本当に支えているものは、自由そのものではなく、〈連帯〉なのかもしれない。

はじめに

先日、私は「勝利のために進歩したスポーツは、スポーツそのものとしても進歩したと言えるのか」という文章を書いた。

きっかけは、夏の甲子園を見ながら抱いた、ごく小さな違和感だった。

「あっ、いいカーブだな」

そう思わせてくれる投手を、以前ほど見なくなったように感じたのである。

そこから、テニスにおけるサーブ&ボレーの退潮、そしてスキーにおけるターンの多様性へと考えを広げながら、私は一つの問いに行き着いた。

スポーツの技術は間違いなく進歩している。しかし、勝つための技術が進歩することと、スポーツそのものが豊かになることは、本当に同じなのだろうか。

その文章を書いてから、まだそれほど時間はたっていない。

ところが、現在開催されている2026年全米オープンで、まるでこの問いに応答するような出来事が起きた。

ステファノス・チチパスが4回戦でベン・シェルトンに2―6、3―6、4―6で敗れた。

その結果、2026年の四大大会では、片手バックハンドを使う男子選手が一人もシングルス準決勝へ進まないことが確定した。

これは、男子のグランドスラムが始まった1877年以来、初めてのことだという。

149年間続いてきた一つの記録が、途切れたのである。

もちろん、一つの記録が途切れただけとも言える。

しかし、私には象徴的な出来事に思えてならない。

チチパス自身も敗戦後、片手バックハンドを「伝統的でクラシックなショット」と表現し、その衰退を惜しんだ。

彼によれば、1950年代には選手の97~98%ほどが片手バックハンドだったのに対し、現在では2~3%程度だという。

だが、私がさらに強く惹かれたのは、その先の言葉だった。

チチパスは、片手バックハンドの衰退を、一つの技術だけの問題として語っていない。

かつてのテニスには、もっと多様なプレースタイルがあった。サーブ&ボレーをする選手、カウンターパンチャー、守備的な選手――それぞれが異なる方法でテニスをしていた。

ところが現代では、その多様性が一つのスタイルへと狭まりつつある。そして、かつてテニスを面白くしていたのは、まさにそうした「違い」だったのではないか、と彼は語っている。

これは、単なる片手バックハンドへの郷愁ではないと思う。

もっと根本的な問題を指している。

片手バックハンドは、なぜ消えていくのか

片手バックハンドが減っているのには、当然、理由がある。

現代テニスでは、サービスもストロークも高速化し、強烈なトップスピンによってボールは高く弾む。

リターンでは、一瞬で大きな力を受け止めなければならない。

そうした条件の中では、両手バックハンドには安定性を確保しやすいという大きな利点がある。

だからジュニアを育てる指導者が、両手バックハンドを選ぶ。

選手自身が両手バックハンドを選ぶ。

そこには十分な合理性がある。

勝利を目指す以上、より成功確率の高い技術を選択するのは当然だからだ。

問題は、その先にある。

一人ひとりが合理的な選択を積み重ねた結果、競技全体から一つの身体技法が消えていく。

これは、野球のカーブについて考えたときとよく似ている。

現代野球では、より速く、より鋭く変化し、打者が判断しにくいスライダー、カットボール、スプリットなどが発達してきた。

それらを選択することには合理性がある。

しかし、その一方で、大きな弧を描き、速球との落差によって打者の「時間」そのものを狂わせるようなカーブを投球の中心に据える投手は、以前ほど目立たなくなったように思う。

テニスでも同じことが起きているのではないか。

サーブ&ボレーが減り、片手バックハンドが減り、ベースラインから高速のストロークを打ち合うスタイルが支配的になる。

一人ひとりの選択は合理的である。

にもかかわらず、その合理性の総和が、スポーツ全体の多様性を失わせていくことがある。

ここには、一つの逆説がある。

選手の能力は増大しているのに、スポーツが示す身体的可能性は縮小している。

「そんなやり方があったのか」が消えていく

私は、ここにスポーツの本質に関わる問題があると思っている。

スポーツを見る喜びとは、単に世界最高水準の技術を見ることだけなのだろうか。

もしそうなら、すべての選手が最も効率的なフォームを身につけ、最も効率的な戦術を採用し、最も効率的な身体を作ればよい。

しかし、私たちがスポーツに魅了される瞬間は、それだけではないはずだ。

「そんな球で抑えられるのか」

「そこからネットへ出るのか」

「そんな打ち方があるのか」

「そんな身体の使い方があるのか」

つまり、

「そんなやり方があったのか」

という驚きである。

スポーツにはルールがある。

コートの大きさも決まっている。

ネットの高さも決まっている。

勝敗の条件も決まっている。

しかし、その厳しい制約の中で、人間は一つではない解答を生み出してきた。

力で押す者がいる。

速さで勝負する者がいる。

相手の力を利用する者がいる。

前へ出る者がいる。

後ろで待つ者がいる。

片手で打つ者がいる。

両手で打つ者がいる。

同じルールの中に、異なる身体的世界が存在する。

そして、その異なる世界同士がぶつかる。

私は、そこにスポーツの大きな魅力があると思う。

片手バックハンドは「美しい」だけなのか

片手バックハンドが惜しまれる理由には、もう一つある。

美しいからである。

フェデラー、エドベリ、レンドル、クエルテン、ワウリンカ、そしてチチパス。

もちろん、それぞれのバックハンドは違う。

しかし、一方の腕とラケットが身体から大きく解放され、ボールを捉え、空間を切り裂くように振り抜かれていく片手バックハンドには、独特の「線」がある。

以前、野球のカーブについて考えたとき、私は、

ストレートが「力」の美であるなら、カーブは「形」の美なのではないか

と思った。

片手バックハンドにも、それと似たものを感じる。

身体が空間の中に一瞬の軌跡を描く。

もちろん、スポーツは美しさを競う競技ではない。

テニスでは、美しいフォームに得点は与えられない。

だからこそ重要なのだと思う。

選手は美しく見せるために片手バックハンドを打っているのではない。

勝つために打っている。

それなのに、その身体運動が結果として美を生み出す。

ここに、スポーツと芸術が奇妙に接近する場所がある。

私は前稿で、スポーツを、

「勝敗という厳しい制約の中で行われる身体的創造」

と考えた。

芸術家には、少なくとも原理的には、スポーツのような勝敗はない。

しかしスポーツ選手には勝敗がある。

相手がいる。

時間がある。

ルールがある。

失敗すれば負ける。

その厳しい現実の中で、それでも身体が独自の「形」を生み出す。

だからスポーツは芸術そのものではない。

しかし、そこには確かに芸術に似た何かがある。

「片手バックハンドを残したい」という選手

興味深いことに、チチパスは敗戦後に初めてこの問題を語ったわけではなかった。

全米オープンの大会中、彼は片手バックハンドを存続させる運動を始めたいという趣旨の発言をし、自ら「#KeepOneHanderAlive」という言葉まで口にしている。

さらに、日本の若い選手を指導・助言し、片手バックハンドを続けるよう励ましていることも明かした。

次の世代にも、このショットを受け継いでほしいからだという。

ここには興味深い逆転がある。

普通、スポーツの技術は「より新しいもの」へ受け継がれていくと考えられる。

しかしチチパスが次世代へ手渡そうとしているのは、効率という尺度だけなら淘汰されかねない、古い身体技法である。

なぜ、それを残そうとするのだろう。

おそらく、片手バックハンドという技術そのものだけが問題なのではない。

その技術が存在することによって、

「テニスには、こういう身体の使い方もある」

という可能性が残るからではないだろうか。

守るべきなのは「片手バックハンド」なのだろうか

だからといって、私は片手バックハンドを保存すべきだと言いたいわけではない。

ルールを変えて片手バックハンドを保護するべきだ、と言いたいのでもない。

カーブを投げる投手を増やさなければならない、と言いたいのでもない。

技術は変わる。

スポーツも変わる。

消えていく技術があるのは当然である。

私が失われてほしくないと思うものは、特定の技術そのものではない。

もっと根本にあるものだ。

それは、

異なる身体的解答が生まれる余地

である。

同じ問題に対して、誰もが同じ答えを出さなくてもよい。

同じ競技をしていても、身体の使い方が違ってよい。

一見非効率に見える技術が、ある選手の身体と出会うことで、まったく新しい武器になることがあってよい。

そして、

「そんな方法でも勝てるのか」

と私たちを驚かせる選手が現れてよい。

その余地こそ、スポーツの豊かさなのではないか。

149年目に消えたもの

2026年の全米オープンで、一つの149年間の連続記録が途切れた。

しかし、そこで消えたのは、単なる記録ではないのかもしれない。

一つの身体技法。

一つの美。

一つのテニス観。

そして、一つの「別の答え」。

もちろん、片手バックハンドそのものが今日で消滅するわけではない。

新しい片手バックハンドの名手が、また現れるかもしれない。

私は、むしろそうであってほしいと思う。

しかしチチパスの言葉を聞きながら、改めて前稿の問いを思い出した。

勝利のために進歩したスポーツは、スポーツそのものとしても進歩したと言えるのか。

そして今、その問いにもう一つ付け加えたい。

スポーツが進歩するとは、より強くなることなのか。
それとも、同じルールの中から、まだ誰も見たことのない身体的解答を生み出し続けられることなのか。

片手バックハンドが149年目に私たちへ残した問いは、案外、後者なのではないかと思う。

9月1日(火)から、北杜市議会第3回定例会が始まっています。


会期は9月28日(月)までです。

今回の定例会は、令和7年度の市政を振り返る「決算議会」でもあります。

市民の皆さんからお預かりした税金が、どのように使われたのか。

行われた事業は、本当に市民の暮らしのためになったのか。

当初の目的は達成されたのか。

課題が残ったとすれば、それを次の市政にどう生かしていくのか。

予算を決めるだけでなく、その予算が実際にどう使われ、どのような成果と課題を残したのかを検証することも、議会の大切な仕事です。

私も決算特別委員会をはじめ、それぞれの審議に臨みます。

そして今回の定例会では、特に二つの日に、市民の皆さんに議会へ足を運んでいただきたいと思っています。

■ 9月15日(火)午前10時~

総務常任委員会

「非核三原則の堅持」を求める請願の審査

市民の皆さんから、

「日本政府・国会に非核三原則を堅持する意見書の提出を求める請願」

が北杜市議会に提出されました。

私は、この請願の紹介議員として総務常任委員会に出席し、請願の趣旨を説明します。

「核兵器を持たず、つくらず、持ち込ませず」。

この非核三原則をこれからも堅持するよう、北杜市議会から日本政府・国会へ意見書を提出することを求める請願です。

核兵器をめぐる国際情勢が厳しさを増す中、唯一の戦争被爆国である日本がどのような立場をとるのか。

そして、その問題について地方議会から何を発信するのか。

立場や考え方の違いを越えて、議論すべき重要な問題だと思います。

市民から提出された請願を、議会がどのように受け止め、議員が何を語り、どのような判断をするのか。

ぜひ、その審査を見届けていただきたいと思います。

■ 9月25日(金)午後3時30分頃~

飛矢﨑雅也 一般質問

今回、私は二つの問題について一般質問を行います。

① 小学校登校時における児童の安全確保と教育行政の責任について

第2回定例会に引き続き、子どもたちの登校時の安全について質問します。

私が問いたいのは、個々の学校や先生方の対応ではありません。

現在の安全確保の仕組みは、教育行政の制度によって現場が支えられている状態なのか。

それとも、制度上十分ではない部分を、校長先生や教職員、学校支援員など現場の皆さんの努力によって補っている状態なのか。

児童の安全確保を、現場の善意や努力に委ね続けるのではなく、教育行政としてどのように制度的・継続的に支えていくのか。

その責任の所在を教育委員会に問います。

② 部活動の地域展開について

――子どものスポーツ・文化芸術活動をどう保障するのか

いま、学校部活動を地域クラブへ展開していく大きな制度改革が進められています。

しかし、これは単に「学校で行ってきた部活動を地域へ移す」という問題ではないと私は考えています。

スポーツや文化芸術に親しむ機会は、家庭がお金を払って購入する「サービス」なのでしょうか。

それとも、子どもの成長や人格形成に関わるものとして、行政も一定の責任を負って保障すべき、教育的・公共的な活動機会なのでしょうか。

北杜市は、地域展開によって子どもたちに何を保障しようとしているのか。

制度整備はどこまで進んでいるのか。

「公的な性質を有する活動」としながら、原則として家庭に費用負担を求めることをどう考えるのか。

家庭の経済状況、住んでいる地域、保護者が送迎できるかどうかによって、子どもの活動機会に格差が生じないのか。

そして、現在進められている中学校二校統合と部活動の地域展開という二つの政策は、本当に整合しているのか。

子どもたちのスポーツ・文化芸術活動を、これからの北杜市がどのように保障していくのか、根本から問いたいと思います。

※一般質問の開始時刻は、議事の進行によって前後する場合があります。

■ 市民が議会を見ることから

私は、議会を傍聴することは、特定の議員を応援するためだけのものではないと思っています。

賛成でも、反対でも構いません。

議員が何を問い、行政がどう答えるのか。

市民から提出された請願について、議員たちが何を語り、どのような判断をするのか。

そして、市民からお預かりした税金が、どのように使われてきたのか。

ぜひ、ご自身の目と耳で確かめてください。

民主政治とは、一度の選挙ですべてを誰かに任せることではありません。

市民が問いを投げかけ、行政がそれに応答し、議会が検証する。

そして、その議論を市民が見つめ、さらに問いを重ねていく。

その積み重ねによって、地方自治はつくられていくのだと思います。

市民が議会を見る。
議会が市民に見られる。

その関係があってこそ、議会はより緊張感を持ち、市民に開かれたものになっていくのではないでしょうか。

9月15日の総務常任委員会。

9月25日の一般質問。

もちろん、決算特別委員会をはじめ、それ以外の審議も大切です。

お時間の許すところだけでも結構です。

一人でも多くの市民の皆さんに議会へ足を運んでいただき、北杜市で何が議論され、何が決められているのかを、一緒に見ていただければ幸いです。

議会を、もっと市民の身近な場所へ。

皆さまの傍聴を、心よりお待ちしています。

北杜市議会議員
飛矢﨑 雅也

私のブログをご覧いただき、有難うございます。


明日9月1日は「防災の日」です。

それを前に、昨日は私の住む地区で防災訓練が行われました。

今回は、前半に「減災ネットやまなし」の向山健生理事長のお話を伺い、後半には実際に災害が発生したことを想定した訓練を行いました。


向山さんからは、「地区・地域の減災力を高める」をテーマに、近年各地で発生している自然災害や、日本を取り巻く地震のリスクなど、具体的な事例を交えながらお話しいただきました。

特に印象に残ったのは、「防災」と「減災」の違いです。

災害時の公的機関による「公助」だけでなく、平常時から住民一人ひとりが備える「自助」、そして地域で互いに助け合う「共助」を育て、災害による被害をできる限り小さくしていく。そのためには、住民自身が主体となった日頃からの取り組みが重要だというお話でした。


向山さんのお話を伺うのは、昨年、私が北杜市地域減災リーダー育成講習を受講したとき以来でしたが、今回も具体的で、大変分かりやすい内容でした。

そして、今回特に良かったと感じたのは、お話を聴いて終わりにするのではなく、その後、実際に自分たちで「やってみた」ことです。


受付、簡易トイレの設置と使用後の処理、炊き出しなど、実際に取り組んでみると、話を聞いているだけでは気づかなかったさまざまな課題が見えてきます。

「知っている」ことと、「実際にできる」ことは違う――。防災訓練では、この違いを埋めていくことがとても大切なのだと感じました。

最後は、皆で炊き出しをいただきながら質疑応答を行い、訓練を通じて気づいたことや課題を確認しました。


ありがたかったのは、向山さんが最後まで残り、訓練の様子を見ながら助言してくださったことです。その旺盛な行動力と、地域の減災に対する強い問題意識には、改めて頭が下がる思いでした。

片付けの後には反省会も行い、今回の取り組みを次年度以降にどうつなげていくか、地域の皆さんにどのように周知し、参加者を増やしていくかについて意見を交わしました。

今回の訓練を通じて、こうした一つひとつの取り組みの積み重ねが、地域の減災力を高め、災害に備える基礎になるのだと実感しました。

同時に、減災とは設備や知識だけの問題ではないとも感じました。

日頃から顔の見える関係をつくり、地域のつながりを結び直していくこと。そのコミュニティの力そのものが、いざというときに人を支える重要な「減災力」になるのではないでしょうか。

参加された皆さん、そして準備・運営にご尽力いただいた役員ならびに関係者の皆さんに、心より感謝申し上げます。

ちなみに、炊き出しで食べた非常食、意外と美味しかったです。

はじめに

英雄とは何か。

これまで私は、源義経と源頼朝、真田信繁と徳川家康を比較しながら、この問いを考えてきた。

そこで見えてきたのは、歴史の勝者と、人間の記憶に残る者とは、必ずしも同じではないということだった。

頼朝は勝った。

義経は敗れた。

家康は勝った。

信繁は敗れた。

しかし、義経も信繁も忘れられなかった。

人間は死ぬ。

それでも、ある人間の言葉や行為は、その人の死後も人々によって語られ、共同世界の記憶に残ることがある。

アーレントが古代ギリシャから取り出した「不死」の問題は、ここにあった。

ただし、「不死」は「永遠」ではない。

不死とは、死すべき個人が人間世界の記憶の中に残ることであって、時間そのものを超越することではない。

そして、ここから徳川家康を見ると、別の問いが現れる。

家康は英雄だったのか。

もちろん、それも一つの問いである。

しかし家康という人物を考えるためには、それ以上に適切な問いがあるのではないか。

家康は、どのような権力者だったのか。

この問いを考えるとき、エリアス・カネッティの『群衆と権力』に出てくる「後に残る者」という権力者像が浮かび上がってくる。

そして、ここから家康を見直してみると、彼の生涯を貫いていたものが、これまでとは違った姿で見えてくる。

家康は「後に残る者」だった。

しかし、人間である以上、家康自身も最後には死ぬ。

では、「後に残る者」である権力者は、自分自身の死をどうするのか。

この問いに対する家康の政治的な答えこそ、

〈家〉

だったのではないだろうか。

より正確に言えば、

徳川将軍家

である。

家康は、「家」の政治家だったのではない。

「家」の権力者だった。

一 権力者とは「後に残る者」である

カネッティは、権力の深部に「生き残ること」の経験を見た。

他者が倒れる。

自分は立っている。

敵が死ぬ。

自分は生きている。

周囲の者が消えていくなかで、自分だけが「後に残る」。

そこに、権力者の根源的な感覚がある。

この視点から戦国時代を見ると、家康という人物はきわめて興味深い。

武田信玄が死んだ。

織田信長が死んだ。

豊臣秀吉が死んだ。

家康は残った。

もちろん、家康が彼らの死をすべて政治的に予測していたという意味ではない。

重要なのは、家康が自分より強い相手が存在するとき、必ずしもその場で決着をつけようとしなかったことである。

負ければ退く。

勝てない相手には従う。

不利なら待つ。

そして、次の機会を迎える主体そのものを消滅させない。

三方ヶ原で武田信玄に大敗しても、徳川は残った。

小牧・長久手の戦いを経て、秀吉の巨大な権力を最終的に受け入れても、徳川は残った。

1590年、長年の基盤だった三河・遠江・駿河などから関東へ移されても、徳川は残った。

そして最後には、信玄も、信長も、秀吉もいなくなった世界に家康が立っていた。

その意味で家康は、カネッティ的な「後に残る者」だった。

二 浅井長政は、なぜ後に残れなかったのか

ここで、一人の戦国大名を家康の前に置いてみたい。

浅井長政である。

長政は織田信長と婚姻同盟を結んでいた。

ところが1570年、信長が越前の朝倉義景を攻めると、長政は信長に反旗を翻した。

かつては、浅井氏と朝倉氏には「代々の盟約」があり、長政はその義理を守ったのだと説明されることが多かった。

しかし今日では、浅井・朝倉関係をそのような単純な物語だけで説明することには慎重であるべきだろう。

それでも問題は残る。

信長が急速に勢力を拡大するなかで、浅井家が独立した戦国大名としてどこまで自らの意思を貫けるのか。

それは長政にとって、単なる外交上の選択ではなかった。

浅井家の面目にかかわる問題だった。

戦国社会における面目は、現代的な意味での「プライド」だけではない。

大名が侮られ、それに応答できなければ、

「あの大名は恐れる必要がない」

と見られる。

外部の大名だけではない。

家臣たちもまた、

「この主君についていてよいのか」

と考える。

だから面目を失うことは、戦国大名としての政治的存在そのものを傷つけられることでもあった。

長政は戦った。

浅井家が浅井家であるために。

しかし、その結果として1573年、小谷城は落ち、長政は死に、戦国大名としての浅井家は滅びた。

ここには、戦国社会の残酷な逆説がある。

浅井家であり続けるために戦い、その戦いによって浅井家そのものを失った。

三 面目を守る長政、面目を延期する家康

家康も面目を重んじなかったわけではない。

戦国大名である以上、威信を失えば家臣団を統率できない。

他大名から侮られれば、政治的立場も危うくなる。

しかし家康は、面目と存続が衝突したとき、両者を切り離すことができた。

面目は後から回復できる。

失った地位も、情勢が変われば回復できるかもしれない。

領国すら、新たに作り直すことができる。

しかし、

自らが滅びてしまえば、次はない。

だから家康は、面目を捨てたのではない。

面目の回復を延期することができた。

今日、屈辱を受けてもよい。

今日、強者に従ってもよい。

今日、思いどおりにならなくてもよい。

明日も自分たちが存在しているならば。

長政が、

現在において浅井家であること

を守ろうとしたとすれば、

家康は、

未来にも徳川が存在していること

を優先した。

ここに、「後に残る者」としての家康の特質がある。

四 しかし、「後に残る者」も死ぬ

ところが、ここに権力者にとって避けられない問題がある。

どれほど後に残っても、人間は死ぬ。

信玄より長く生きても、

信長より長く生きても、

秀吉より長く生きても、

最後には家康も死ぬ。

1616年、家康は死んだ。

カネッティ的な「後に残る者」であることを個人の生存だけで考えるなら、ここで終わる。

では、

自分が死んだ後にも、自分が築いた権力を「後に残す」ことはできるのか。

ここから家康の〈家〉が見えてくる。

家康が残そうとしたのは、単に徳川姓を名乗る血族ではなかった。

徳川という一族がどこかに残ればよかったのではない。

政治的に決定的なのは、

徳川が将軍家であり続けること

だった。

したがって、今回いう〈家〉の内実は、

徳川将軍家

である。

家康は、自分一個の身体に集中していた権力を、徳川将軍家という〈家〉の権力へ転換しようとした。

ここに、「家」の権力者としての家康が現れる。

五 頼朝という先行者

しかし家康は、まったく前例のない場所でこの問題を考えたわけではない。

彼の前には、巨大な先行者がいた。

源頼朝である。

頼朝もまた、「後に残る者」だった。

平家は滅びた。

弟義経も死んだ。

奥州藤原氏も滅びた。

そして頼朝が残った。

頼朝は鎌倉を本拠とする武家政権を作り、征夷大将軍となった。

権力者として巨大な成功を収めた人物である。

しかし、頼朝の死後を見ると、別の光景が現れる。

頼家。

実朝。

そして源氏将軍家は三代で途絶えた。

鎌倉幕府そのものは続いた。

しかし、頼朝が作った権力を、頼朝の家が将軍家として保持し続けることはできなかった。

ここに頼朝の成功と失敗が同時にある。

頼朝は武家政権を残した。

しかし、

源氏将軍家を永続させることはできなかった。

六 家康は『吾妻鏡』に何を読んだのか

そして家康は、『吾妻鏡』を重視した。

『吾妻鏡』は、頼朝の挙兵から鎌倉幕府の政治を記録した、武家政権を考えるうえで決定的に重要な歴史書である。

家康はその伝本を集め、1605年には活字による、いわゆる伏見版『吾妻鏡』を刊行させた。

ここから先は、史実と推察を分けなければならない。

家康が、

「頼朝は源氏将軍家を三代しか残せなかった。だから自分は徳川将軍家を長く残そう」

と明言した史料があるわけではない。

したがって、そう断定することはできない。

しかし、問いを立てることはできる。

家康は『吾妻鏡』から、頼朝がいかに権力を獲得したかだけを読んだのだろうか。

それとも、

頼朝が死んだ後、その権力に何が起きたのか

まで読んだのだろうか。

『吾妻鏡』をこれほど重視した家康が、頼朝の成功だけを見て、その死後に生じた権力継承の問題を見なかったとは考えにくい。

もし家康がそこに政治的教訓を読み取ったのだとすれば、その教訓は厳しい。

天下を取るだけでは足りない。

取った天下を、後に残さなければならない。

頼朝は「後に残る者」として成功した。

しかし、その成功を源氏将軍家の永続へ転換することには失敗した。

家康は、その先へ行こうとしたのではないか。

七 1605年――家康から徳川へ

この視点から見ると、1605年という年の意味は大きい。

1603年、家康は征夷大将軍となった。

ところが、わずか二年後、家康は将軍職を秀忠へ譲る。

家康はまだ生きている。

政治的実力も失っていない。

それでも将軍職を息子へ渡した。

ここで起きたことを、

「家康から秀忠への交代」

だけで捉えると、その意味を見失う。

より重要なのは、

「家康が将軍である」ことから、「徳川家が将軍を出す」ことへの転換

である。

家康が将軍でなくなっても、将軍は徳川である。

つまり家康は、自分が生きているうちに、

自分個人と将軍職を切り離した。

そして将軍職を、

徳川将軍家が継承する権力

へ変えていった。

これは、家督を息子へ譲ったというだけではない。

個人の権力を〈家〉の権力へ転換する行為だった。

八 直系が途絶えても、将軍家を残す

その構造の強さは、家康の死後に明らかになる。

家康。

秀忠。

家光。

将軍職は徳川家の内部で継承されていく。

しかし、どれほど制度を整えても血統には偶然がある。

子が生まれないこともある。

直系が途絶えることもある。

実際、七代家継の死によって、秀忠以来の将軍家の直系は途絶えた。

それでも徳川将軍家は終わらなかった。

紀州徳川家から吉宗が八代将軍となる。

ここに、源氏将軍家との決定的な違いを見ることができる。

実朝の死によって頼朝の直系が途絶えると、源氏将軍家も終わった。

しかし徳川では、将軍家の直系が途絶えても、徳川一門から将軍を出すことができた。

つまり、

血統の一本線が切れても、〈徳川将軍家〉という権力主体は再生できた。

家康が直接、後世のすべての継承方法を設計したとまで言うべきではない。

江戸幕府の持続は、歴代将軍、幕臣、大名、社会経済的条件など、多くの要因によって支えられた。

しかし家康が、自分一代の権力を徳川家による将軍職の継承へ転換する方向を明確にしたことは重要である。

九 「家」は永遠ではない

ここで、一つ区別しておかなければならない。

〈家〉は永遠ではない。

どれほど長く続いた家でも、断絶する可能性がある。

徳川家とて例外ではない。

したがって、家康が作ったものを「永遠の権力」と呼ぶことはできない。

ここで問題となっているのは、

永遠ではなく、永続である。

永遠とは、歴史的時間そのものを超える次元に属する。

それに対して永続とは、歴史的時間の中で、世代を越えて続いていくことである。

そしてこれは、冒頭で触れたアーレントの「不死」とも違う。

不死は、死すべき個人の言葉や行為が人間世界の記憶に残ることにかかわる。

家の存続は、それとは別の問題である。

したがって、

英雄の「不死」と、

家の「永続」と、

「永遠」とを、

混同してはならない。

今回問うているのは、家康個人が不死になったかどうかではない。

家康が、自分一代の権力を徳川将軍家という〈家〉の権力へ転換し、その永続を図ったのではないか

という問題である。

十 信長と秀吉

ここで信長と秀吉を振り返ると、家康の特異性がさらに見えてくる。

もちろん、信長も秀吉も家の存続を考えなかったわけではない。

信長は子どもたちを各地に配置した。

秀吉は晩年、秀頼への権力継承に腐心した。

だから、

「信長と秀吉は個人しか考えず、家康だけが家を考えた」

という議論は成り立たない。

しかし結果として、信長の死後、織田家は天下の支配主体ではなくなった。

秀吉の死後、豊臣政権も長くは続かなかった。

家康の場合は違った。

家康が死んでも、

徳川が将軍である。

秀忠が死んでも、

徳川が将軍である。

さらに将軍家の直系に問題が起きても、

徳川一門から将軍を補うことができる。

ここで権力は、

徳川家康という一人の身体

から離れ、

徳川将軍家という〈家〉

に宿るようになる。

家康が「家」の権力者だったというのは、この意味である。

十一 頼朝を超える

こうして頼朝と家康をもう一度並べてみよう。

頼朝は武家政権を作った。

家康も武家政権を作った。

頼朝は征夷大将軍となった。

家康も征夷大将軍となった。

頼朝は「後に残る者」だった。

家康も「後に残る者」だった。

しかし、その死後は違った。

頼朝が作った鎌倉幕府は残った。

しかし、源氏将軍家は残らなかった。

家康が作った江戸幕府は残った。

そして、徳川将軍家も残った。

だから家康が『吾妻鏡』から何を具体的に学んだかを史料的に断定することはできなくても、政治思想上の比較としては、こう言うことができる。

家康は、頼朝が到達できなかったところまで行った。

頼朝は権力を獲得した。

家康は権力を獲得したうえで、

それを〈家〉の権力へ転換した。

頼朝は幕府を残した。

家康は幕府だけでなく、

将軍家を残した。

ここに、「後に残る者」としての家康の巨大な成功がある。

十二 「家」の権力者

ここまで来て、ようやく家康を一つの言葉で捉えることができる。

徳川家康は「家」の権力者だった。

それは、家康が単に家族を大切にしたという意味ではない。

徳川という血統の存続だけを願ったという意味でもない。

彼は、

自分の権力を、自分の死後にも「後に残す」ために、徳川将軍家という〈家〉を権力主体として成立させようとした。

だから家康にとって〈家〉とは、単なる血縁集団ではない。

権力を世代から世代へ運ぶ器だった。

自分は死ぬ。

しかし将軍家は残せる。

自分の身体は消える。

しかし徳川の将軍は存在し続けることができる。

ここでカネッティ的な「後に残る者」は、個人の生存を越えて、〈家〉の権力へと姿を変える。

もちろん、家は永遠ではない。

いつか終わり得る。

しかし、だからこそ家康の試みは現実的だった。

永遠を獲得したのではない。

権力を、自分一代より長く永続させる仕組みを作ったのである。

結び 家康が後に残したもの

英雄について考えるところから、この議論は始まった。

英雄は、死んでも人間世界の記憶に残ることがある。

しかし、権力者の問題は違う。

権力者にとって問われるのは、

誰よりも後に残ること

である。

家康は後に残った。

信玄より。

信長より。

秀吉より。

しかし、家康自身も死んだ。

そこで家康は、「後に残る者」であることの主体を変えた。

徳川家康という一人の人間から、

徳川将軍家という〈家〉へ。

それこそが、家康の権力者としての最大の成功だったのではないだろうか。

頼朝は幕府を残した。

しかし源氏将軍家を永続させることはできなかった。

家康は幕府を残した。

そして徳川将軍家を残した。

だから家康は、単なる天下人ではない。

「後に残る者」であることを、自分の死後にまで延長する仕組みを作った権力者だった。

家康は「家」の政治家だったのではない。

「家」の権力者だった。

しかし、ここでさらに一つの問題が生まれる。

徳川将軍家は、あくまで一つの〈家〉である。

その〈家〉の権力が、なぜ他の家々に命令し、徴収し、裁き、天下を支配することができるのか。

なぜ徳川家の命令が、

単なる一つの私的な〈家〉の命令ではなく、

「公儀」の命令

になるのか。

ここから問題は、

〈家〉の権力から〈公〉の権力へ

移る。

そして、その問いの先に、

戦国大名とヤクザ、

私的暴力と公権力、

権威とレジティマシー、

さらに「公」と「公共」の違いという問題が現れる。

「後に残る者」は、〈家〉を残した。

では、その〈家〉は、

いかにして「公」になったのか。

次の論考では、その問題を考えたい。

はじめに

前稿「戦国大名とヤクザ――暴力から生まれる『公』、言論から生まれる『公共』」では、一見奇妙な比較から出発して、「公」と「公共」の違いを考えた。

戦国大名とヤクザ。

時代も規模も社会的機能も大きく異なる。

しかし、「大名」「暴力団」という後世の分類をいったん外し、私的な武装集団による支配という構造だけを取り出してみると、両者の間には驚くほど多くの共通点が現れた。

領域。

武装組織。

徴収。

保護。

裁定。

内部規律。

階層。

抗争。

暴力独占への志向。

儀礼。

制度化。

そして、面目・面子。

浅井長政の事例から見えてきたのは、暴力を背景として複数の集団が競合する社会では、面目を失うことが単に自尊心を傷つけられることではない、ということだった。

他者から軽く扱われ、それに反撃しなければ、さらに侵害される。

内部からも、

「この主君についていて大丈夫なのか」

と思われる。

したがって、面目を失うことは、支配者としての存在そのものを危うくする。

だから、ときには自己保存に反してでも戦わなければならない。

浅井家を物理的に残すだけなら、信長に従った方が合理的だったかもしれない。

しかし、浅井家が独立した「浅井家」であり続けるためには、信長に刃向かわなければならなかった。

存在を守るために戦い、その戦いによって存在そのものを失う。

そこに、暴力社会の残酷な逆説があった。

しかし前稿の問いは、そこで終わらなかった。

私的暴力が競争に勝ち、権威と結びつき、レジティマシーを獲得すると、それは「公権力」へ転化し得る。

そこで二つの系列を示した。

私的暴力 → 支配 → 権威 → レジティマシー → 公権力

それに対して、

複数の人間 → 言論 → 討議・説得 → 共同行為 → 公共

である。

そして、こう結論した。

公権力の起源には暴力がある。

公共の起源には言論がある。

ここから、次の問いが生まれる。

もし「公」と「公共」が異なる原理から生まれるのだとすれば、

政治とは、どちらに属するのだろうか。

人間を従わせる公権力の側なのか。

それとも、人間が互いに語る公共の側なのか。

さらに浅井長政の問題を通過したいま、もう一つ問いを加えることができる。

他者から承認されるために、相手を屈服させる必要のない世界は可能なのか。

これが、本稿の問いである。

一 私たちは「政治」を国家だと思っている

「政治とは何ですか」

そう問われたら、多くの人は何を思い浮かべるだろう。

国会。

内閣。

選挙。

政党。

首相。

大統領。

官僚。

地方議会。

ほとんどの場合、私たちは政治を「国家に関係する活動」として理解している。

これは偶然ではない。

近代社会において、政治は長い間、国家を中心として考えられてきたからである。

国家は法律を作る。

税を徴収する。

警察を持つ。

軍隊を持つ。

行政を行う。

社会全体に拘束力を持つ決定を行う。

したがって、

政治=国家をめぐる活動

と考えることには十分な理由がある。

しかし、本当に政治とは国家なのだろうか。

前稿で見たように、国家の根底にある公権力を遡れば、そこには最終的な強制可能性が存在する。

国家は、

「お願いだから税金を払ってください」

と言っているわけではない。

法的義務として徴収する。

法律に違反すれば制裁がある。

もちろん民主国家では、その権力は法によって制限され、選挙によって統制され、人権によって境界を与えられている。

それでも、国家が最終的な強制力を持つこと自体は変わらない。

すると、国家を政治そのものだと考えるとき、政治の中心にはどうしても、

命令する者と従う者

という関係が現れる。

言い換えれば、

「従え」

である。

しかし、人間が共に生きるということは、本当に「誰が誰を従わせるか」という問題なのだろうか。

二 政治はもともと国家ではなかった

ここで、政治という言葉の起源まで戻ってみよう。

politicsの語源は、古代ギリシャのpolis、ポリスである。

しかし、ポリスをそのまま近代的な意味での「国家」と訳してしまうと、大切なものを見失う。

古代ギリシャ人にとって政治とは、国家官僚が社会を管理することではなかった。

自由な市民が公的な場所に現れ、共通の事柄について語り、議論し、説得し、判断し、行為することだった。

もちろん、古代ギリシャのポリスを理想化してはならない。

女性、奴隷、在留外国人など、多くの人々が政治的市民権から排除されていた。

その意味で、現代の民主主義から見れば極めて限定された公共空間だった。

しかし、それでもそこには、近代国家とは異なる政治の原型がある。

政治とは、

誰かが命令し、誰かが服従すること

ではなく、

異なる人間が互いに現れ、語り合うこと

だったのである。

ここで、

政治=国家

という近代的な常識が揺らぎ始める。

三 しかし近代は「国家」を捨てなかった

古代ギリシャ的な政治経験が、そのまま近代へ受け継がれたわけではない。

むしろ近代政治思想が直面したのは、別の問題だった。

国家には強制力がある。

では、その強制力はなぜ正当なのか。

前近代の支配者は、この問いに対して、しばしば自らの外部に存在する権威を借りた。

神。

宗教。

王朝。

血統。

伝統。

天。

日本史で言えば、武家権力にとっての天皇・朝廷も、その一つだった。

暴力によって人を従わせることはできる。

しかし、

「従わざるを得ない」

ことから、

「従うべきである」

ことは導けない。

そこで、暴力的支配と正当な支配との間を、権威が媒介した。

しかし近代になると、神や王朝という正統性の根拠そのものが疑われ始める。

では、王権神授説を否定したあとに、公権力を何によって正当化するのか。

そこで登場したのが、

社会契約

だった。

四 社会契約――暴力を「自分たちの意思」に変える

ホッブズ、ロック、ルソー。

三者の社会契約論は同じではない。

しかし、彼らに共通する重要な転換がある。

国家の正統性を、

神の意思

ではなく、

人間自身の意思

から説明しようとしたことである。

社会契約とは、通常、実際に歴史上のある日に全人民が集まり、国家設立契約書へ署名したという歴史的事実を意味しない。

それは、

正当な政治秩序が成立するとすれば、人々自身の同意によって成立したものとして考えられなければならない

という、規範的な構成である。

その意味では、一つの強力な政治的フィクションである。

「フィクション」と言っても、「嘘」という意味ではない。

人々の政治的義務を理解するための、

構成的フィクション

である。

ここで近代国家の強制力は、まったく新しい説明を与えられる。

国家があなたを強制する。

しかし、それは本当は、

あなた自身が同意した権力

なのである。

したがって国家に服従することは、

他者に服従することではない。

自ら設立した政治秩序に従うことなのである。

これは公権力に対する、きわめて強力な正当化だった。

五 ホッブズ――暴力を一つに集める

ホッブズでは、この構造が特に明瞭である。

自然状態において、人間は互いに暴力を行使する能力を持つ。

暴力は分散している。

そのため、誰も安全ではない。

そこで人々は互いに契約し、主権者を権威づける。

すると、

分散した私的暴力
↓
契約・授権
↓
主権者への強制力の集中
↓
公権力

という構造が成立する。

重要なのは、この主権者が単に最強の暴力集団だから支配するのではないことである。

人々が、

自らその主権者を権威づけた

ことになっている。

ここで暴力の集中が、

「征服」

ではなく、

「同意」

によって説明される。

前近代の支配が、

「神がこの者を選んだ」

と言ったとすれば、

近代国家は、

「あなた自身がこの権力に同意した」

と言うのである。

六 ルソー――服従を自由へ変える

ルソーになると、この論理はさらに徹底される。

人は他人に従うのではない。

自分自身もその形成に参加する「一般意志」に従う。

つまり、

自分で自分に法を与える。

したがって法への服従は、自由の否定ではなく、自由そのものになり得る。

ここで近代政治思想は驚くべき転換を行う。

服従を自己統治として再定義する

のである。

国家の強制力は消えていない。

しかし、その強制は、

「他者から課せられたもの」

ではなく、

「われわれ自身がわれわれに課したもの」

と説明される。

こうして公権力は、

宗教的・伝統的権威ではなく、

人民自身の意思

によって正当化されるようになる。

七 革命とは、政治的正統性の変革だった

この社会契約論的転換を、政治的現実の上で爆発させたものの一つが近代革命だった。

革命を単なる支配者の交代と考えるなら、その本質を見失う。

フランス革命が意味したのは、

ブルボン家から別の支配者へ権力が移った、

ということだけではなかった。

もっと根底にあるものが変わった。

誰が政治権力を正当化するのか。

その答えが変わったのである。

旧体制では、

神・伝統・王朝 → 王権

だった。

革命後には、

人民・国民 → 公権力

となる。

つまり革命とは、

政治的正統性の所在そのものの変革

だった。

主権者は王ではない。

人民である。

この転換は、近代政治の歴史において巨大な意味を持つ。

しかし、ここで一つ重要なことに気づく。

革命は、

「公」から暴力を取り除いたわけではなかった。

八 「人民の名において」も、なお強制する

革命後の国家にも、法はある。

税もある。

警察もある。

軍隊もある。

裁判もある。

刑罰もある。

国家は依然として、

強制する。

変わったのは、

誰の名によって強制するか、

である。

旧体制は、

「王の名において」

命令した。

近代国家は、

「人民の名において」

命令する。

もちろん、この違いを軽視してはならない。

人民主権、法の下の平等、人権、民主的参加は、前近代的身分制国家との決定的な断絶である。

しかし、それでも一つの問いが残る。

命令する主体を王から人民へ変えれば、命令―服従関係そのものは解消されたことになるのか。

ここで、アナーキズムが登場する。

九 アナーキズムは「革命」を疑った

もっと正確に言おう。

アナーキズムが疑ったのは、革命そのものではない。

バクーニンもクロポトキンも革命思想家だった。

彼らが疑ったのは、

政治的正統性を移し替えれば、それだけで革命は完成する

という考えである。

革命によって、

王から人民へ、

貴族から市民へ、

ブルジョワジーから労働者へ、

正統性の主体を移す。

しかし、公権力の強制的構造そのものが残るなら、

本当に支配はなくなったのか。

アナーキズムはそこを問う。

革命によって、

誰が公権力を正当に所有するか

は変わるかもしれない。

しかし、

なぜ公権力が人間を強制すること自体を当然と考えるのか。

この問いは残る。

ここにアナーキズムの根源性がある。

十 革命は王座に座る者を変えた。アナーキズムは王座を疑った

思想的な比喩として言えば、

革命は、王座に座る者を変えた。

しかし、

アナーキズムは、王座そのものを疑った。

問題は、

正しい支配か、間違った支配か、

ではない。

民主的支配か、専制的支配か、

だけでもない。

さらに手前へ戻って、

なぜ、そもそも人間は人間を支配しなければならないのか。

と問う。

近代革命は、

正統性の革命

だった。

アナーキズムは、そこからさらに、

支配関係そのものの革命

を要求した。

ここには、社会契約論への根本的な疑念も含まれている。

国家は言う。

「あなたはこの政治秩序に同意している」

しかしアナーキストは問い返すことができる。

私は、いつ同意したのか。

生まれたときにはすでに国家があった。

法律があった。

税制があった。

警察があった。

私は国家への加入契約書に署名したことはない。

それにもかかわらず、

「あなた自身が同意した権力である」

と言われる。

ここで、

人民の意思という政治的フィクション

がもう一度問い直される。

十一 「人民」と公共は同じではない

ここは重要である。

近代政治は、

正統性の源泉を「人民」に置いた。

しかし、

人民主権と公共は同じではない。

「人民が同意したことになっている」

ことと、

「現実の複数の人間が実際に語り合っている」

こととは違う。

社会契約は、

公権力を正当化する原理

である。

公共は、

人間が現実に語り、応答し、共に行為する実践

である。

国家は、

「人民の名において」

法律を作ることができる。

「人民の名において」

徴税することができる。

「人民の名において」

戦争すら行うことができる。

しかし、その「人民」が現実に語り、判断し、決定しているとは限らない。

ここに、

抽象的な人民主権と、現実の公共との裂け目

がある。

十二 アーレントが再発見した政治

この裂け目を考えるとき、ハンナ・アーレントの政治思想が新しい意味を持ってくる。

アーレントにとって、政治の条件は「複数性」である。

人間は一人では政治を行わない。

異なる人間が複数存在するから、政治が生まれる。

しかも、人間は単に数が多いのではない。

一人ひとりが異なっている。

同じ世界を見ても、違う場所から見る。

違う経験を持つ。

違う意見を持つ。

だから、人間は語らなければならない。

もし全員が同じことを考えているなら、政治は必要ない。

逆に、一人の人間がすべてを決め、他の人間が従うだけなら、それもアーレント的な意味での政治ではない。

政治とは、

異なる者が、異なるまま、共通世界について語ること

なのである。

ここでは政治の原理が、

「従え」

から、

「語ろう」

へ転換する。

十三 暴力と権力は同じではない

ここでアーレントは、決定的な区別を行う。

暴力と権力は同じではない。

一般には、

「武器を持っている者は権力を持っている」

と考えられる。

しかしアーレントにとって、権力とは、人々が共に行為するときに生まれる。

一人の人間が銃を持って百人を脅している。

そこには暴力がある。

しかし、人々が互いに語り、合意し、共に行動するとき、そこには別種の力が生まれる。

それが権力である。

この意味で、権力は誰かの所有物ではない。

人と人との「あいだ」に生まれる。

人々が共に行為することをやめれば、権力も消える。

したがって、

暴力は人を従わせることができる。

しかし、

暴力は共同行為を作ることができない。

政治を単なる支配ではなく共同行為として考えるなら、政治の起源は暴力とは別のところにある。

十四 革命のもう一つの可能性

ここで革命について、もう一度見直すことができる。

革命の本質を、

王権から人民主権への正統性の移転

だけに求めるなら、革命は「公」の内部の出来事にとどまる。

誰が公権力を正当に所有するのか。

その答えを変えるだけだからである。

しかし、革命の瞬間にはしばしば、別の出来事も起きる。

人々が街頭へ出る。

集会を作る。

評議会を作る。

討議する。

新しい制度を自ら作ろうとする。

つまり、抽象的な「人民」が正統性の根拠になるだけではなく、

現実の複数の人間が公共空間へ現れる。

ここに、アーレントが革命に見いだした政治的自由の可能性がある。

革命の最も重要な瞬間は、

「誰が国家を所有するか」

だけではなく、

人々自身が政治を始める瞬間

なのかもしれない。

十五 「面目」の世界から「現れ」の世界へ

ここで、前稿で扱った「面目」の問題へ戻ろう。

暴力的競合社会において、面目とは、

「この者を軽く扱うことはできない」

という他者からの承認だった。

だから面目を潰された者は報復する。

相手を屈服させることによって、自分が侮ることのできない存在であると証明する。

そこでは、

自己の存在を守ることと、相手を屈服させることが結びついている。

しかし公共には、別の可能性がある。

人間は、自分の存在を示すために相手を屈服させる必要がない。

語ることによって、自分が誰であるかを現すことができる。

他者も語る。

その人もまた、自分が誰であるかを現す。

ここでは、一方が存在するために、もう一方を消す必要がない。

むしろ逆である。

他者が存在するからこそ、自分も現れることができる。

ここに、

面目の世界から、現れの世界へ

という大きな転換がある。

暴力社会では、

「俺を軽く扱うな」

と迫る。

公権力は、

「私に従え」

と命じる。

公共では、

「私はこう考える。あなたはどう考えるか」

と呼びかける。

人間が承認を必要としなくなったのではない。

承認の仕方そのものが変わったのである。

十六 公共とは「違う者」が存在できる場所である

公共とは、みんなが同じ意見になる場所ではない。

むしろ逆である。

異なる人間が、異なるまま共に存在できる空間である。

政治的意見が違う。

価値観が違う。

生き方が違う。

経験が違う。

それでも相手を排除せず、互いに語る。

だから公共には言論が必要になる。

暴力なら、違いを消すことができる。

相手を黙らせればよい。

追放すればよい。

殺してしまえばよい。

しかし、それをした瞬間、公共は消える。

なぜなら公共とは、

違う者が存在すること

そのものによって成立するからである。

この意味で公共は、単なる「みんなの利益」ではない。

公共とは、

複数の人間が互いに姿を現し、違いを保持したまま共通世界を作る空間

なのである。

十七 民主主義――「人民の名」から現実の人民へ

ここまで考えると、民主主義の意味も変わる。

民主主義とは、単に、

「主権者は人民である」

と宣言することではない。

それだけなら、「人民」は公権力を正当化する抽象的主体にとどまり得る。

民主主義が本当に民主的であるためには、その人民が、

実際に語る。

実際に異議を唱える。

実際に判断する。

実際に共同行為する。

必要がある。

つまり民主主義とは、

「人民の名において」統治することから、現実の人民が公共に現れることへ

進まなければならない。

ここに、社会契約論を越える民主主義の課題がある。

十八 民主主義とは多数決なのか

民主主義というと、多数決が思い浮かぶ。

もちろん、最終的に決定しなければならない場面では多数決が必要になる。

しかし、多数決それ自体が民主主義なのではない。

もし多数派が、

「われわれの方が人数が多い。だから黙って従え」

と言うだけなら、構造的には再び、

「従え」

へ戻ってしまう。

民主主義にとって重要なのは、決定の前に、

誰が何を考えているのか。

なぜそう考えるのか。

どんな経験をしてきたのか。

少数者は何を恐れているのか。

多数者が見落としているものはないか。

それらが公共空間に現れることである。

多数決は公共的討議の終点にはなり得る。

しかし、公共そのものではない。

民主主義とは、決める仕組みである以前に、異なる人間が語ることのできる仕組みなのである。

十九 議会とは何のためにあるのか

この問題は、議会を考えると非常に具体的になる。

議会は、単に多数派が少数派を数で押し切る場所なのだろうか。

もしそうなら、採決だけすればよい。

討論はいらない。

質問もいらない。

反対意見もいらない。

最初から議員の人数を数えれば結論は出る。

しかし、議会には討論がある。

なぜなのか。

それは議会が単なる意思決定装置ではなく、

異なる意見を公共空間に現す場所

だからではないか。

少数意見は採決では負けるかもしれない。

しかし、語ることには意味がある。

その言葉が記録に残り、市民に届き、後の人々が判断する材料になるからである。

今日の少数意見が、明日の多数意見になることもある。

だから議会において、

「決まったのだから黙れ」

という態度は、民主政治の核心と緊張関係に立つ。

決定することと、語ることは違う。

多数決によって決定した後でも、その決定を批判する自由は残る。

公共は、採決によって閉じられてはならない。

二十 民主政治とは「公」と「公共」をつなぐ仕組みである

では、公共だけで社会は運営できるのだろうか。

社会には最終的に決定しなければならない問題がある。

税。

福祉。

教育。

治安。

環境。

インフラ。

災害対応。

人々がいつまでも語っているだけでは解決できない問題もある。

だから、公権力には重要な機能がある。

問題は、

公権力=政治

としてしまうことである。

国家は決定する。

公共は語る。

国家は最終的には強制する。

公共は説得する。

両者は同じものではない。

しかし民主政治においては、切断されてもならない。

公共で生まれた言葉が公権力へ届く。

公権力が決定する。

その決定が再び公共にさらされる。

批判される。

修正を求められる。

場合によっては権力そのものが交代する。

模式的に書けば、

公共 → 言論 → 政治的決定 → 公権力 → 批判 → 公共

という循環である。

民主政治とは、

公権力を公共に対して開いておく仕組み

だと言うことができる。

二十一 しかしアナーキズムはそこで止まらない

ここまでなら、民主主義によって問題は解決したように見える。

しかしアナーキズムは、そこでなお問う。

公権力が民主的に選ばれている。

法律によって制約されている。

市民が批判できる。

それでも、

人が人を強制する構造そのものは残っているのではないか。

ここでミハイル・バクーニンの問いが現れる。

彼が警戒したのは、専制国家だけではない。

革命によって国家権力を握った者が、

「人民のため」

「労働者のため」

「解放のため」

と言いながら、人々を統治することだった。

支配者を交換しても、

国家という垂直的な命令―服従装置が残れば、新しい支配が生まれる。

革命による支配の消滅ではなく、

革命による支配の再正当化

が起こるのではないか。

アナーキズムが見抜いたのは、この危険だった。

二十二 バクーニン――「解放する国家」という矛盾

人々を自由にするために、

まず一部の者が権力を握る。

人々を平等にするために、

まず一部の者が命令する。

将来国家はなくなるのだから、

いまは国家を強化する。

そこには矛盾があるのではないか。

人を服従させることによって、人を自由にすることができるのか。

本稿の言葉でいえば、

「従え」によって「語ろう」の世界を作ることができるのか。

という問題である。

アナーキズムは、ここで近代革命の限界を突く。

革命は、

誰が正当に支配するのか

を変えた。

しかしアナーキズムは、

なぜ、そもそも支配しなければならないのか

を問う。

二十三 クロポトキン――秩序は上からしか作れないのか

しかし国家を批判すれば、当然の反論が生じる。

国家がなければ社会は混乱するのではないか。

警察がなければ犯罪が横行するのではないか。

政府がなければ道路も学校も病院も維持できないのではないか。

共通の権力がなければ、人間は互いに争うのではないか。

これはホッブズ以来の問いでもある。

それに対してクロポトキンは、人間社会にはもう一つの秩序形成原理があると考えた。

相互扶助である。

人間は、国家に命令されなければ他者と協力できない存在ではない。

協力する。

助け合う。

約束する。

自治する。

共同で規則を作る。

人間社会には、国家の命令によらずに形成された秩序が無数に存在する。

ここで重要なのは、

秩序には一種類しかないわけではない

ということである。

一つは、

上から作られる秩序

である。

命令。

法律。

行政。

警察。

制裁。

もう一つは、

横から生まれる秩序

である。

協議。

協同。

自治。

相互扶助。

自発的な約束。

共同実践。

国家的秩序の反対は、必ずしも混沌ではない。

そこには、

自治的秩序

という可能性がある。

二十四 アーレントとアナーキズム

もちろん、アーレントをアナーキストとして読むことはできない。

バクーニンやクロポトキンとも思想的には大きく異なる。

しかし、本稿の問題意識から見ると、両者には一つの重要な響き合いがある。

それは、

人間が共にあることそのものから、力や秩序が生まれ得る

ということである。

アーレントでは、

複数性 → 言論 → 共同行為 → 権力

となる。

クロポトキンでは、

相互扶助 → 自発的協同 → 自治 → 社会秩序

となる。

どちらも、

国家 → 命令 → 服従 → 秩序

だけが、人間社会を成立させる唯一の系列ではないことを示している。

ここで、第一論考以来の二系列をさらに深めることができる。

一方には、

私的暴力 → 支配 → 権威/社会契約 → レジティマシー → 公権力 → 国家

がある。

他方には、

複数性 → 言論 → 相互承認 → 共同行為 → 相互扶助・自治 → 公共 → 政治

がある。

前者の原理は、

「従え」

である。

後者の原理は、

「語ろう」「共にやろう」

である。

二十五 民主主義とアナーキズムはどこで分かれるのか

ここまで来ると、両者の違いも鮮明になる。

民主主義は、

公権力を残しながら、公共によってそれを統御する。

アナーキズムは、さらに問う。

その公権力そのものを、公共によってどこまで代替できるのか。

したがって、

革命――誰が公を正当に支配するのか。

民主主義――公共は公をどう統御するのか。

アナーキズム――そもそも公をどこまで必要とするのか。

という三つの問いを区別することができる。

アナーキズムは民主主義の単純な敵ではない。

むしろ民主主義が、

「人民の名によって正当化された公権力」

だけになってしまうことを防ぐ、最もラディカルな批判原理になり得る。

二十六 それでも国家は必要なのか

もちろん、ここでアナーキズムを簡単に理想化することもできない。

数千万、数億人からなる複雑な社会。

利害が根本的に対立する場面。

暴力を行使する者。

巨大災害。

感染症。

環境問題。

鉄道、電力、水道、通信。

巨大な格差。

世代間の対立。

「すべて話し合えばよい」

だけでは済まない問題がある。

公権力には、公共にはない能力がある。

最終的に決定し、その決定を広く適用する能力

である。

問題は、その能力そのものより、

その能力が公共から切断されること

である。

二十七 国家と公共の緊張関係

こうして最初の問いへ戻ることができる。

政治とは国家なのか。

公共なのか。

現実の民主社会について、

単純に、

「国家ではない。公共だけである」

と言うことはできない。

国家には決定し、執行する機能がある。

公共には問い、異議を唱え、別の可能性を示す力がある。

国家は、

「これが決定である」

と言う。

公共は、

「本当にそれでよいのか」

と問い返す。

この緊張が失われれば、民主政治は二方向に崩れる。

国家が公共を飲み込めば、権威主義へ傾く。

公共が制度的決定との接続を完全に失えば、政治的無力へ傾く。

民主主義とは、この「あいだ」を維持する営みなのである。

二十八 政治を国家から取り戻す

私たちは、政治を国家に預けすぎてきたのかもしれない。

政治家がするもの。

官僚がするもの。

国会がするもの。

自治体がするもの。

選挙で選ばれた者がするもの。

しかし、政治が人間と人間の「あいだ」に生まれるのだとすれば、政治はもっと広い。

市民が集まって語る。

地域の問題を話し合う。

学校について教師、保護者、子どもが考える。

職場のあり方を話し合う。

環境問題について住民が議論する。

異なる意見を持つ者同士が、同じ世界について語る。

互いに助け合う。

自ら制度を作る。

共に何かを始める。

そこにも政治はある。

政治とは、国家が市民に対して行うものだけではない。

市民自身が互いのあいだに作るものでもある。

結び 「誰が支配するのか」から、「政治は支配なのか」へ

戦国大名とヤクザという奇妙な比較から、この連作は始まった。

そこから見えてきたのは、

私的暴力と公権力との間には連続性がある

ということだった。

暴力が支配を生む。

支配が権威と結びつく。

レジティマシーを獲得する。

そして公権力になる。

近代は、その正統性の根拠を変えた。

神から人民へ。

王朝から社会契約へ。

革命は、その転換を現実の政治秩序の中で実現した。

それは巨大な変革だった。

しかし、革命は「公」から暴力を取り除いたわけではなかった。

王の名における強制は、

人民の名における強制へ変わった。

だからアナーキズムは問い続けた。

正統性の革命だけで、本当に革命は完成したのか。

正当化された支配も、なお支配ではないのか。

人間は、本当に誰かに命令されなければ秩序を作れないのか。

アーレントは、別の方向から問い直した。

政治の力は、本当に暴力からしか生まれないのか。

そうではない。

人々が語り、共に行為するとき、そこに権力が生まれる。

こうして問いは、

誰が支配するのか

から、

何が支配を正当化するのか

へ進み、

最後には、

そもそも政治とは、支配することなのか

へ到達する。

ここに、古代ギリシャ、社会契約、革命、アーレント、アナーキズムを貫く一本の線がある。

国家には、

「従え」

と言う力がある。

しかし政治には、それとは別の力がある。

「語ろう」

という力。

そして、

「共にやろう」

という力である。

民主主義とは、単に「人民の名によって」公権力を行使することではない。

抽象的な人民を、現実に語る市民へと変えること。

暴力を究極的背景に持つ「公」を、言論から生まれる「公共」へ開き続けること。

その意味で、

民主主義とは、公共によって公を統御する試みである。

そしてアナーキズムは、そのさらに先から問いかける。

私たちは、「従え」をどこまで小さくし、「語ろう」と「共にやろう」をどこまで大きくすることができるのか。

国家をなくせるかどうかより先に、この問いがある。

それは国家とは何かを問うことであると同時に、

人間は、どこまで自らを統治することができるのか

を問うことでもある。

政治とは、おそらく、その問いを終わらせない営みなのである。

はじめに

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。

三人は「三英傑」と呼ばれ、日本史上もっともよく知られた人物たちである。

信長が天下統一への道を開き、秀吉がそれを完成し、家康が江戸幕府を開いて長期的な政治秩序を作った――三人については、しばしばそのように説明される。

あるいは、「鳴かぬなら」という有名な時鳥の句によって、信長を短気、秀吉を機略、家康を忍耐の人物として比較することもある。

しかし、こうした比較だけでは、三人の違いの核心には届かない。

三人はいずれも天下をめぐって戦った。

三人とも巨大な権力を手にした。

にもかかわらず、私たちが三人から受ける印象は大きく異なる。

三人の中で、もっとも「英雄」という言葉が似合うのは、おそらく信長である。

次に秀吉。

家康は偉大な政治家であり、三人の中で最終的な政治的勝者となった人物でありながら、信長や秀吉ほどには「英雄」という言葉になじまない。

なぜなのだろうか。

これは三人の能力の優劣だけでは説明できない。

むしろ三人が、

自らの有限な生を、どのような仕方で未来へつなごうとしたのか。

そして、

三人が死んだ後、何が残ったのか。

という問題なのではないだろうか。

そのことを考える手掛かりとして、『信長公記』『太閤記』『三河物語』という三つの「物語」を置いてみたい。

三作品は成立事情も性格も異なる。

だから、同じ種類の伝記として単純に比較することはできない。

しかし、その違いそのものが、信長・秀吉・家康という三人の歴史的存在の違いを、不思議なほど鮮明に映し出しているように思われる。


一 信長――「誰であったか」を問わせ続ける人

信長の生涯には、強烈な一回性がある。

桶狭間で今川義元を破る。

足利義昭を奉じて上洛し、やがて対立して将軍を京都から追放する。

比叡山を焼き、石山本願寺と長く戦い、安土城を築く。

そして天下統一を目前にしながら、本能寺で突然死ぬ。

これらの行為を、後から合理的な政策体系として説明することはできる。

しかし信長の魅力は、そうした説明からいつも何かがはみ出すところにある。

信長について語るとき、私たちは「織田政権とは何だったのか」と問うだけではない。

それ以上に、

「信長とは、いったい何者だったのか」

と問う。

なぜ、あの場面であの決断をしたのか。

何を見ようとしていたのか。

もし本能寺で死ななかったなら、次に何をしたのか。

信長については、四百年以上たった現在でも、この問いが終わらない。

ここに、信長の英雄性があるように思う。

英雄とは、単に大きなことを成し遂げた人物ではない。

既存の世界の中で最も合理的な場所を見つけ、そこで成功した人物でもない。

むしろ、

自らにしかなし得ない行為を通じて、それまで見えていなかった人間の可能性を世界に現す人物

なのではないだろうか。

信長が何を「革新」したのかについては、歴史学上慎重な議論が必要である。

信長以前にも楽市楽座はあり、「信長が中世を一挙に破壊して近世を作った」という単純な革命児像を、そのまま史実として採用することはできない。

しかし、それと信長の英雄性とは別問題である。

英雄性とは、政策の新規性を数えることではない。

信長という一人の人間の行為を目の前にした後世の人々が、

「この人物なら、世界をこれまでとは違う形にしてしまうかもしれない」

と感じ続けたことにある。

そして信長は、その可能性を完成させないまま死んだ。

この「未完」は重要である。

秀吉については、天下統一後に何をしたかを私たちは知っている。

家康についても、天下を取った後にどのような政治秩序を作ったかを知っている。

しかし信長についてだけは、

「その先」

が存在しない。

だから信長には永遠に、

「もし信長が生きていたら」

という問いが残る。

信長の人生には未来が欠けている。

しかし、そのために逆説的に、

信長は死後も未来を持ち続ける。


二 『信長公記』――行為を「誰」の物語へ変える

しかし、信長がどれほど非凡に行為しても、その行為だけでは後世に残らない。

行為は一回的だからである。

戦いは終わる。

命令した声は消える。

見ていた人間も死ぬ。

ここで太田牛一の『信長公記』が重要になる。

もちろん、『信長公記』を単純な英雄伝として扱うことはできない。

それは信長研究の基本史料であり、その成立過程や記述の性格を慎重に検討しなければならない。

しかし、ここで問題にしたいのは別のことである。

太田牛一が信長の行為を書き残したことによって、信長の一回的な行為は、信長の肉体の死とともに消えなかった。

信長が何をしたか。

どこへ行ったか。

何を命じたか。

誰と戦ったか。

そうした行為を読み直すたびに、後世の人間は、

「信長とは誰だったのか」

を問い直すことができる。

ここに、ハンナ・アーレントが古代ギリシアの政治経験から取り出した「不死」という問題が関わってくる。


三 不死――人間世界の中に残る「誰」

アーレントが『人間の条件』で古代ギリシアを論じるとき、重要な意味を持つのが「不死」である。

人間は死ぬ。

その意味で、人間は徹底的に有限な存在である。

しかし人間は、ただ生まれ、生命を維持し、子を残して死ぬだけの存在ではない。

他者の前で語ることができる。

行為することができる。

そしてそのとき、

その人が「何であるか」ではなく、

「誰であるか」

が現れる。

武将である。

大名である。

天下人である。

将軍である。

これらは、その人が「何」であるかを示す。

しかし、それだけでは信長が信長であること、秀吉が秀吉であること、家康が家康であることは説明できない。

「誰」は、その人にしかなし得ない言葉と行為の中に現れる。

しかし、行為は一回的である。

だから、観客が必要になる。

それを見る者。

語る者。

記憶する者。

物語にする者。

そして、その物語を次の世代へ渡す者。

そうして、一人の死すべき人間の「誰」が、本人の生命より長く共同世界にとどまる。

これが、ここでいう「不死」である。

したがって、

不死は個人について言われる。

家について言われるのではない。

制度について言われるのでもない。

この区別は、信長・秀吉・家康を考える上で決定的である。


四 不死と永遠

さらに、もう一つ区別しなければならない。

不死と永遠は同じではない。

不死は、人間世界の時間の中にある。

信長が語られる。

秀吉が語られる。

家康が語られる。

アキレウスが語られる。

語る人間がいて、物語を受け取る人間がいるから、「誰」は死後も人間世界に現れる。

したがって、この不死そのものも、人間世界に依存している。

人間世界そのものを超越したものではない。

これに対して、プラトンの『饗宴』が最後に向かうのは、まったく別の方向である。

エロスの階梯を上っていく者は、一つの美しい身体への愛から、すべての美しい身体へ、美しい魂へ、制度や知の美へと進み、最後に、

「美そのもの」

へ到達する。

それは、ある時には美しく、別の時には醜いものではない。

生まれたり、滅びたりするものでもない。

個々の美しいものが変化しても、それによって変化するものではない。

ここで問題になっているのは、

永遠なるもの

である。

したがって、

アーレントの不死は、人間世界の時間の中に残ること。

プラトンの永遠は、生成消滅する時間そのものを越えること。

両者は異なる。

英雄は、永遠の存在ではない。

むしろ、死すべき人間だからこそ英雄になり得る。

英雄が獲得し得るのは、この人間世界における不死なのである。


五 家――「誰」が替わることによって続く

では、「家」はどこに位置するのだろうか。

家は不死ではない。

永遠でもない。

家は、

持続する。

しかし、その持続の仕方は、英雄の不死とはほとんど反対である。

英雄は、

「この人でなければならなかった」

という代替不可能性によって成立する。

アキレウスを別のギリシア兵に置き換えることはできない。

信長を別の織田一族に置き換えることもできない。

ところが、家は違う。

父が死ぬ。

子が継ぐ。

その子も死ぬ。

さらに次の者が継ぐ。

家は、

「誰」が替わることによって続く。

英雄は「誰」が消えないことによって残る。

家は「誰」が交代することによって残る。

ここに、

英雄の時間と家の時間

の根本的な違いがある。

そして家は、永遠でもない。

どれほど長く続いた家にも断絶の可能性はある。

徳川家も例外ではない。

皇室も、歴史的時間の中に存在する以上、論理的に永続が保証された存在ではない。

したがって、家について語るべきなのは「不死」でも「永遠」でもない。

継承と持続

なのである。


六 秀吉――「誰」の物語から家の継承へ

秀吉もまた、一人の「誰」として強烈に物語られる人物である。

ただし、その英雄性は信長とは違う。

信長の物語を動かす問いが、

「この人は次に何をするのか」

だとすれば、秀吉の物語を動かす問いは、

「この人はどこまで上っていくのか」

である。

低い位置から出発する。

信長に仕える。

頭角を現す。

軍団を率いる。

本能寺の変が起きる。

中国大返し。

山崎。

賤ヶ岳。

そして関白となり、天下人となる。

秀吉の人生そのものに、圧倒的な上昇の運動がある。

だから後世の人間は、

「豊臣政権とは何だったのか」

だけではなく、

「秀吉とは、いったいどのような人間だったのか」

と問う。

『太閤記』が成立し、秀吉の生涯が繰り返し物語られたことは象徴的である。

豊臣家よりも先に、

秀吉という一人の人間の生涯そのものが物語になった。

ところが天下を取った後、秀吉には別の問題が現れる。

一人の秀吉が天下を取ることから、

自分が死んだ後にも、豊臣家へ政治的達成を継承できるか

という問題への移行である。

秀頼を残す。

自分の一代の達成を、家の時間へ移そうとする。

しかし、それには成功しなかった。

秀吉の死後、豊臣家は滅びる。

しかし秀吉は消えなかった。

ここに重要なことがある。

豊臣家の持続と、秀吉個人の不死は別問題だった。

豊臣家は滅びた。

しかし秀吉という「誰」は、今日まで語られている。

家が途絶えても、人は不死になり得る。


七 家康――「家康でなくても続く世界」を作る

そして家康である。

家康にも、英雄的な行為はいくらでもある。

三方ヶ原。

伊賀越え。

小牧・長久手。

関ヶ原。

家康もまた一人の「誰」として、今日まで語られている。

したがって家康にも、個人としての不死は成立し得る。

しかし、家康の政治的偉大さの核心は、それとは別のところにある。

家康が最終的に作ろうとしたのは、

家康という一人の「誰」がいなくても続く政治

だった。

1605年、家康は存命中に将軍職を秀忠へ譲る。

自らは大御所として後見する。

これは重要である。

秀忠は家康ではない。

家康ほどの軍事的英雄である必要もない。

家康ほどのカリスマを持つ必要もない。

必要なのは、

徳川家の当主として、将軍職を継承できることである。

つまり家康が解こうとした問いは、

「どうすれば第二の家康を作れるか」

ではなかった。

むしろ、

「第二の家康が現れなくても続く政治を、どう作るか」

だった。

天才は世襲できない。

英雄も世襲できない。

だからこそ、長期的な政治秩序を作ろうとするなら、

英雄を必要としない制度

を作らなければならない。

ここに家康の政治的達成がある。


八 英雄と家――代替不可能性/継承可能性

こう考えると、英雄と家の違いは鮮明になる。

英雄は、

代替不可能である。

家は、

継承可能でなければならない。

英雄は、

「この人でなければならなかった」

ことによって成立する。

家は、

「この人が死んでも次の人が継ぐ」

ことによって続く。

英雄の価値は、一回性にある。

家の強さは、反復可能性にある。

英雄は固有名詞を必要とする。

家は当主を交換しながら家名を持続させる。

だから、

英雄の不死と家の持続は、同じものではない。

むしろ時間に対して反対の構造を持つ。

英雄は、

「誰」が消えないことで残る。

家は、

「誰」が替わっても続くことで残る。

ここまで区別すると、家康が信長ほど英雄的に見えない理由も、より正確に理解できる。

家康が信長より小さな人物だからではない。

むしろ家康の最大の政治的達成が、

一人の卓越した「誰」を必要としない仕組み

を作る方向へ向かっていたからである。


九 『三河物語』――一人の英雄ではなく、家々の時間

この違いを象徴的に示すのが、大久保忠教の『三河物語』である。

『信長公記』や『太閤記』と同じ意味で、「家康という一人の英雄の物語」と読むと、その特徴を見失う。

『三河物語』に流れるのは、「家」の時間である。

松平・徳川家がある。

それに仕えてきた大久保家をはじめとする家々がある。

祖先はどのように主家へ奉公したのか。

どのような苦難をともにしたのか。

その奉公を子孫はどう受け継ぐべきなのか。

そこには、

祖先――現在――子孫

という累代の時間がある。

これは「家の不死」ではない。

継承の物語である。

そして、この違いは決定的である。

『信長公記』を読むと、私たちは信長という「誰」を問い直す。

『太閤記』を読むと、秀吉という「誰」の人生を追う。

『三河物語』を読むと、家康という個人だけでなく、

「われわれの家はいかに主家とともに現在まで来たのか」

という累代の時間が前景化する。

ここに三者の大きな違いがある。


十 三英傑――三つの「不死」ではない

以上を踏まえるなら、

信長――名の不死。

秀吉――名から家への不死。

家康――家の不死。

という整理はできない。

なぜなら、途中で概念の対象が個人から家へ変わってしまうからである。

より正確には、

信長――一人の「誰」が突出して記憶される人物。

秀吉――一人の「誰」として記憶されながら、その政治的達成を家へ継承しようとした人物。

家康――一人の「誰」として記憶される一方、自分がいなくても家と制度が持続する政治を作った人物。

と整理すべきだろう。

三人を分けるのは、「三種類の不死」ではない。

個人の「誰」と、家・制度の持続との関係の違い

なのである。

ここまで直して初めて、

「三英傑の中で信長が最も英雄的で、次に秀吉、家康は相対的に英雄から遠く見える」

という感覚も、正確に説明できる。

信長については、政治体制以上に信長という一人の「誰」が前面に出る。

秀吉も、豊臣家以上に秀吉という一人の人生が巨大な物語になる。

家康は、自らの「誰」を消したわけではない。

しかし政治的達成としては、

「家康でなくても続く世界」

を作る方向へ進んだ。

英雄性の強弱は、家が長く続いたかどうかとは別問題なのである。


十一 三人とも「不死」になり得る

では、三人の誰が不死なのだろうか。

信長か。

秀吉か。

家康か。

この問いに、家の長さで答えることはできない。

織田家がどうなったか。

豊臣家がどうなったか。

徳川家が何代続いたか。

それらは、それぞれ重要な歴史的問題である。

しかし、一人の人間が不死になったかどうかとは別の問題である。

三人とも、死後も物語られている。

三人とも、現代の人間世界に「誰」として現れる。

だからアーレント的な意味では、

三人とも不死に参与している

と考えることができる。

ただし、その現れ方が違う。

信長には、

「この人はいったい何をしようとしていたのか」

という問いがつきまとう。

秀吉には、

「この人はいかにしてここまで上ったのか」

という問いがつきまとう。

家康には、

「この人はいかに生き残り、最後に秩序を作ったのか」

という問いがつきまとう。

三人とも、

大名。

関白。

将軍。

という「何」だけには還元できない。

信長。

秀吉。

家康。

という固有の「誰」として、今も語られている。

だから三人とも、個人として不死たり得る。

しかし、

徳川家が長く続いたことは、家康の不死の根拠ではない。

家康が不死であるとすれば、それは家康という「誰」が、今なお他者によって物語られ、人間世界の記憶の中に現れるからである。


十二 英雄とは、永遠なる者ではない

ここで、英雄という存在について一つ重要なことが分かる。

英雄は、永遠なる者ではない。

むしろ、

死すべき者である。

アキレウスが死なない神であったなら、彼の選択はあれほど人間を魅了しなかっただろう。

信長が決して死なない人間であったなら、本能寺の「未完」も存在しない。

英雄の行為が輝くのは、その人の時間が有限だからである。

いつか死ぬ。

時間は戻らない。

やり直すこともできない。

それでも、その瞬間に行為する。

だから、その人の「誰」が現れる。

そして、その一回的な行為を他者が記憶する。

英雄が有限性を越えるとすれば、

永遠の存在になることによってではない。

有限なまま、人間世界の記憶へ入ることによって

なのである。


結び――英雄の時間、家の時間

信長、秀吉、家康。

三人の中で、もっとも英雄的なのは信長である。

次に秀吉。

家康は相対的に、もっとも英雄から遠く見える。

しかし、それは家康が二人より小さな人物だったということではない。

三人は、時間に対して異なる関係を結んだからである。

信長は、一人の「誰」として突出した。

秀吉も、一人の上昇する「誰」として巨大な物語になった。

家康もまた一人の「誰」として記憶されたが、その最大の政治的仕事は、

自分という一人の人間がいなくても続く家と制度を作ること

だった。

ここに二つの時間がある。

一つは、

英雄の時間。

「この人でなければならなかった」という代替不可能な「誰」が、他者によって記憶され、物語られ続ける時間である。

もう一つは、

家の時間。

一人の人間が死んでも、別の人間がその位置を継ぎ、系譜や役割を未来へ運んでいく時間である。

前者には、アーレント的な「不死」が成立し得る。

後者は「不死」ではない。

継承であり、持続である。

そして、その持続にはつねに断絶の可能性がある。

さらに、そのどちらもプラトン的な「永遠」ではない。

永遠は、人間世界の中で長く続くことではない。

生成し、変化し、消滅する個別的なものを越えた「美そのもの」へ向かう、別の次元の問題である。

だから、

英雄の不死と家の継承は、二つの不死なのではない。

また、

家が長く続くことと永遠も、同じではない。

むしろ、

有限な人間が歴史的時間と関わる、二つの異なる仕方

として、英雄と家を考えるべきなのである。

英雄は、

「誰」が消えないことによって残る。

家は、

「誰」が替わっても続くことによって残る。

『信長公記』を開けば、今日も信長が動き始める。

『太閤記』を開けば、今日も秀吉が天下へ駆け上がる。

そして『三河物語』を開けば、一人の人間の生涯を越えて、祖先から子孫へと家々の時間が流れていく。

人は死ぬ。

家も、いつか途絶えるかもしれない。

制度も、いつか終わる。

それらは永遠ではない。

しかし、一人の人間が他者の前に「誰」として現れ、その姿が語るに値するものとして記憶されたならば、その人は肉体の死の後にも、人間の共同世界へ現れ続けることができる。

それが、不死である。

そして三英傑の中で、信長がもっとも「英雄」という言葉を呼び寄せるのは、

織田家が長く続いたからではない。

信長という代替不可能な「誰」が、四百年以上たった今なお、私たちに、

「この人は、いったい何者だったのか」

と問い続けさせているからなのである。

はじめに

戦国大名とヤクザは、本質的に何が違うのだろうか。

一見すると、奇妙な問いである。

戦国大名は日本史の教科書に登場する政治権力であり、ヤクザ、すなわち現代の暴力団は、国家の法秩序によって取り締まりの対象とされる私的な暴力組織である。

両者を同列に論じること自体、時代錯誤のようにも見える。

しかし、いったん「大名」「暴力団」という後世の分類を外し、その支配の構造だけを取り出してみるとどうだろうか。

そこから、意外な光景が見えてくる。

そして、この問いを突き詰めていくと、問題はやがて「戦国大名とは何か」を越え、「国家とは何か」「公権力とは何か」、さらに「公と公共とは何が違うのか」という政治思想の根本問題へと行き着く。

一 「徳川家」を「徳川組」と呼んだら

思考実験をしてみよう。

徳川家を「徳川組」、前田家を「前田組」、伊達家を「伊達組」、毛利家を「毛利組」、島津家を「島津組」と呼んでみる。

もちろん、「暴力団」という現代日本の法的カテゴリーを、そのまま戦国時代へ遡及させるという意味ではない。

ここで問題にしたいのは、私的な武装集団による支配という構造である。

戦国大名は、「家」を中心として家臣団という武装組織を抱える。

一定の領域を支配し、そこから年貢を徴収する。領域内の争いを裁定し、治安を維持し、掟や法を定める。他の大名家と同盟し、ときには抗争し、相手の領域を奪う。

一方、暴力団も「組」を形成し、縄張りを持つ。内部に階層と掟を持ち、利益を徴収し、一定の紛争を裁定し、他組織の縄張りへの侵入を排除しようとする。そして縄張りをめぐって抗争する。

両者の規模も社会的機能も歴史的条件も、もちろん大きく異なる。

しかし構造を抽象化すると、

領域、武装組織、徴収、保護、裁定、内部規律、競合する暴力主体の排除

という共通項が現れる。

では、両者を分ける本質的なものは何なのだろうか。

二 「領民を守るから大名」なのか

戦国大名は、単に年貢を取り立てていたのではない。

領国の治安を維持し、争いを裁き、道路や用水を整備し、領民の生活が成り立つようにする必要があった。

ならば、そこに暴力団との違いがあるのだろうか。

そう簡単ではない。

暴力団も、少なくとも自らを正当化する論理においては、みかじめ料などを徴収する一方で、自らの縄張りの秩序を維持し、その内部の営業を「守る」と称することがある。

そもそも、支配者が被支配者を保護することは、それ自体では「公共性」の証明にはならない。

農民が疲弊すれば年貢は取れない。領国が荒廃すれば兵も動員できない。

支配を長期的に維持しようとすれば、支配対象を一定程度保護することは合理的である。

優秀な支配者ほど、自らの支配領域を荒廃させない。

それは優れた統治であり得る。

しかし、優れた統治であることと、「公共」であることとは同じではない。

三 暴力の独占でも区別できない

では、暴力の独占はどうだろうか。

マックス・ヴェーバーは、近代国家を、一定領域内で正当な物理的暴力行使の独占を要求する人間共同体として捉えた。

戦国大名も、自らの領国において、他者が勝手に武力を行使することを許そうとはしない。

しかし、これも戦国大名と暴力団を本質的に分けない。

暴力団も縄張りを持ち、その内部で他組織が勝手に暴力を行使することを認めようとはしない。

だからこそ、縄張りをめぐって抗争が起こる。

つまり、

「この領域で最終的に暴力を行使する資格を持つのは自分たちである」

という要求は、双方にあり得る。

さらに考えてみよう。

室町幕府という上位の政治秩序が存在していたにもかかわらず、戦国大名は独自の軍事力を持ち、徴収し、裁判し、互いに戦争した。

もし、

「すでに国家が存在する社会の内部で、それに競合する私的暴力組織だから暴力団なのだ」

というだけなら、足利将軍家の権威の下で独自の暴力装置を持った大名家をどう位置づければよいのか。

「暴力を独占しようとする」という一点だけでは、境界線を引けないのである。

四 制度化も違いではない

それでは、戦国大名は支配を「制度化」したが、暴力団はそうではないのだろうか。

これも違う。

暴力団にも、親分―子分関係、役職、加入儀礼、掟、制裁、上納などの制度がある。

彼らも彼らなりに、暴力、徴収、上下関係を持続可能な秩序として組織している。

そうすると、

暴力。

縄張り。

徴収。

保護。

裁定。

内部規律。

階層。

抗争。

暴力独占への志向。

儀礼。

制度化。

一つずつ検討しても、どれも両者を本質的に分ける指標にはならない。

しかし、もう一つ、両者に共通する重要なものがある。

面目、あるいは面子である。

五 面目を失えば、生きられない

現代社会で「面子を潰された」と言えば、しばしば自尊心やプライドの問題として理解される。

しかし、暴力を背景として複数の集団が競合する社会では、面子は単なる感情の問題ではない。

「あの集団には手を出せない」

「あの人物を侮辱すれば報復される」

という他者からの評価そのものが、その集団の力を構成している。

逆に、他者から公然と侮辱され、縄張りや利害を侵害されても何もしなければ、

「あそこは何をしても反撃してこない」

という評価が生まれる。

そうなれば、さらに侵害を受ける。

それだけではない。

内部の構成員からも、

「この親分についていて大丈夫なのか」

と思われる。

面子の喪失は、外部に対する威信の低下であると同時に、内部を統合する力の低下なのである。

だから、ときとして損得だけを考えれば割に合わない報復が行われる。

報復しなければ、その場では損失を避けられても、組織そのものが弱体化するからである。

この構造は、戦国大名にも見いだすことができる。

象徴的なのが、浅井長政である。

長政は織田信長の妹・お市を妻とし、信長と同盟していた。

ところが元亀元年(一五七〇)、信長が越前の朝倉義景を攻撃すると、長政は信長に反旗を翻した。

従来、この行動は、浅井氏と朝倉氏との古くからの盟約を長政が守ったためだと説明されてきた。

もっとも、浅井・朝倉間に後世語られるほど強固な「代々の盟約」が存在したのかについては、今日では慎重な検討が必要である。また、「信長が長政に朝倉を攻めないと明確に約束していた」と断定することにも史料上の留保が必要だろう。

しかし、それでもなお重要な問題が残る。

長政の側が、朝倉との関係を尊重することを前提として織田との同盟を理解していたとすれば、信長による越前侵攻は何を意味しただろうか。

それは単に、

「信長が朝倉を攻めた」

ということではない。

浅井の意向を考慮することなく、信長が自らの意思で浅井の外交関係を左右した、ということである。

政治的に翻訳すれば、

「浅井の意向など考慮する必要はない」

と示されたに等しい。

ここで長政が何もしなかったらどうなるだろう。

家臣や国衆、周辺の大名から、

「浅井は織田に何をされても逆らえない」

と見られる可能性がある。

それは長政個人が恥をかくということではない。

浅井家が、独立した戦国大名として他者から承認されなくなっていくことを意味する。

つまり、武士にとって面目を失うことは、単にプライドを傷つけられることではない。

支配者としての存在そのものを否定されることだった。

だから長政には、信長に刃向かう理由が生まれる。

ここには、残酷な逆説がある。

浅井家を物理的に存続させるだけなら、信長に従った方が合理的だったかもしれない。

しかし、

浅井家が「浅井家」として存在し続けるためには、信長に刃向かわなければならなかった。

そして、その結果として浅井家は滅亡した。

存在を守るために戦い、存在そのものを失ったのである。

この構造は、面子を潰された暴力団が報復を迫られる構造と驚くほどよく似ている。

他組織から公然と侮辱され、それを放置すれば、外部から軽く見られ、内部の求心力も失う。

だから、たとえ抗争によって大きな損失を受ける可能性があっても、報復せざるを得ない。

ここでは、

面目・面子は、暴力を基礎とする支配秩序における一種の政治的資本

なのである。

暴力。

縄張り。

徴収。

保護。

裁定。

内部規律。

階層。

抗争。

暴力独占への志向。

儀礼。

制度化。

そして、

面目・面子。

戦国大名と暴力団との構造的類似は、外形的な制度だけに存在するのではない。

その世界を生きる人間の行動原理にまで及んでいる。

ここで最初の問いに対する暫定的な答えが、さらに明確になる。

戦国大名と暴力団とは、私的暴力による支配という発生論的・構造的次元において、本質的な差異を持たないのではないか。

六 暴力は「従わせる」が、「従うべき」を作れない

それでも、戦国大名の一部は「公権力」になった。

なぜなのか。

ここで初めて、レジティマシーの問題が現れる。

暴力によって、人間を従わせることはできる。

「逆らえば殺す」

と言われれば、人は従うかもしれない。

しかし、

「従わざるを得ない」

ことと、

「従うべきである」

こととは違う。

前者は事実である。

後者は規範である。

たとえば徳川家康が関ヶ原で勝利したことが直接証明したのは、

徳川が強い

ということである。

しかし、

徳川には他の大名を支配する資格がある

ということは、その事実だけから論理的には導かれない。

暴力は勝者を作る。

しかし、暴力そのものから権威は生まれない。

七 暴力だけによる支配は高くつく

仮に徳川が、

「われわれが一番強い。逆らえば滅ぼす」

という理由だけで諸大名を服従させ続けようとしたらどうなるだろう。

徳川は絶えず、自らが最強であることを証明し続けなければならない。

少しでも弱くなれば、

「もはや従う必要はない」

となる。

これは非常に高コストで、不安定な支配である。

さらに、暴力的勝利には継承の問題がある。

家康が強かったとしても、

なぜ家康の息子にも従わなければならないのか。

暴力だけでは、この問いに十分答えられない。

支配を安定させ、低コスト化し、世代を越えて継承するためには、

「この者には命令する資格がある」

という承認が必要になる。

レジティマシーである。

ここで、先ほどの「面目」とレジティマシーとの違いも見えてくる。

面目とは、

「この者を軽く扱うことはできない」

という承認である。

レジティマシーとは、

「この者には従うべきである」

という承認である。

前者は、暴力社会の内部でも成立する。

しかし後者は、単なる威信を越えて、支配を規範的に正当化する。

面目からレジティマシーへ。

ここに、私的暴力が「公」へ転化していく重要な境界がある。

八 勝者は権威を「借りる」

ところが、勝者には難問がある。

自ら、

「われわれには権威がある」

と宣言しても、それだけでは権威にならない。

そこで歴史上の支配者は、しばしば自らの外部にすでに存在する権威を借りてきた。

神。

宗教。

祖先。

聖なる血統。

教会。

天。

こうした超越的・宗教的権威は、

「この者が支配している」

という事実を、

「この者は支配すべき者である」

という規範へ翻訳する。

日本史において、この構造を考えるうえで極めて重要なのが、天皇・朝廷である。

九 「徳川組」が「公儀」になる

もう一度、「徳川組」という思考実験に戻ろう。

前田組、伊達組、毛利組、島津組などが争っている。

その中で徳川組が勝ち抜いた。

いわば、暴力団同士の抗争における「チャンピオン」である。

この意味での「諸侯中の第一位」である。

しかし、チャンピオンになっただけでは「公儀」にはならない。

徳川には軍事力がある。

しかし、その軍事力の内部から、自らの支配の正当性を作ることはできない。

そこで徳川は、自らよりはるか以前から存在していた朝廷・天皇の権威と結びつく。

一六〇三年、家康は征夷大将軍に任ぜられる。

政治思想的に抽象化すれば、

私的暴力
↓
軍事的勝利
↓
最大の武装集団
↓
既存の権威を借りる
↓
レジティマシー
↓
公儀

という転換である。

徳川が天皇に権威を与えたのではない。

徳川が天皇から権威を借りた。

暴力を持つ者と権威を持つ者とが結びつき、暴力的支配が「公」へ転化する。

十 「官軍」と「賊軍」

しかし、レジティマシーは永遠ではない。

失われることもある。

ここに、私的暴力と公権力との境界が、本質的なものではないことがもう一度現れる。

幕末を見てみよう。

一八六七年、徳川慶喜は大政奉還を行う。

その後、王政復古を経て、一八六八年の鳥羽・伏見の戦いへ至る。

ここで象徴的なものが現れる。

錦の御旗である。

薩摩・長州を中心とする側に錦旗が掲げられる。

これは単なる軍旗ではない。

「この軍事力は天皇の名において行使されている」

という権威の可視化である。

すると、奇妙な逆転が起こる。

昨日まで「公儀」であった徳川幕府の軍事力が「賊軍」とされる。

一方、それぞれ島津家、毛利家という「家」を基礎とする武装勢力だった薩長側が「官軍」となる。

模式的に言えば、

薩長の暴力 + 朝廷の権威 → 官軍

旧幕府の暴力 − 朝廷の権威 → 賊軍

である。

もちろん、幕末維新の複雑な政治過程をこの数式だけで説明することはできない。

しかし、「公」と「私」の境界がどこにあるのかを考えるうえでは、これほど鮮烈な場面もない。

旧幕府軍の刀や銃が、突然変質したわけではない。

薩長軍の武器が、錦旗を掲げた瞬間に別種の暴力になったわけでもない。

変わったのは、その暴力が持つ政治的意味である。

どちらの暴力が「公」の名において行使される正当な暴力なのか。

それを分けたものがレジティマシーだった。

錦の御旗とは、

暴力を「公的暴力」へ転換する権威を、目に見える形にしたもの

だったのである。

したがって、

官軍=公的暴力

賊軍=私的暴力

という区分は、暴力そのものに内在していない。

公権力がレジティマシーを失えば、その背後にあった暴力が露出する。

つまり、

私的暴力 ⇄ 公権力

という転換は、可逆的なのである。

十一 公権力の起源には暴力がある

ここまでの議論から、一つの命題を取り出すことができる。

公権力の起源には暴力がある。

これは、歴史上のあらゆる国家が単純な征服によって生まれた、という意味ではない。

統治権力としての「公」を発生論的に遡ると、その根底に、命令し、徴収し、服従させ、抵抗に対して最終的には強制を加える能力が存在する、という意味である。

そして、暴力を制度化したから「公」なのではない。

暴力団にも制度はある。

暴力を独占しようとするから「公」なのでもない。

暴力団も縄張りの内部で同じことを求める。

違いを作るのは、暴力的支配がレジティマシーを獲得しているか否かである。

したがって、

私的暴力 → 支配 → 権威 → レジティマシー → 公権力

という一つの系列が見えてくる。

十二 しかし、公共はこの系列の外にある

ここで「公」と「公共」を分けなければならない。

日本語では非常に近い言葉である。

しかし、両者は同じものの程度差ではない。

生成原理が違う。

古代ギリシャ人が発見した公的領域を考えてみよう。

自由な市民が互いに現れ、共通の事柄について語り、異なる意見を表明し、説得し、判断し、行為する。

そこにあるのは、

「従え」

ではない。

「私はこう考える。あなたはどう考えるか」

である。

だから、

公権力の起源には暴力がある。

公共の起源には言論がある。

この二つは、本質的に異なる。

十三 公共に権威は必要ない

ここで、もう一つ重要な違いが現れる。

公共が成立するために、権威は必要ない。

「公共には権威が存在しない」という意味ではない。

知識、経験、人格、信頼によって、公共空間の内部に権威を持つ人が現れることはある。

しかし、その人から公共そのものが成立するわけではない。

公権力には、

「なぜ、この者に従わなければならないのか」

という問いが生じる。

したがって、その支配を正当化するレジティマシーが必要になる。

公共では違う。

人々は誰かから発言資格を授与されるから語るのではない。

語り、聞き、応答することそれ自体によって公共を作る。

公共に必要なのは、支配を正当化する権威ではない。

言論である。

十四 本質的に違うのは「公」と「公共」だった

こうして、最初の問いへ戻ることができる。

戦国大名とヤクザは、本質的に何が違うのか。

一つずつ検討してみると、私的暴力による支配という発生論的・構造的次元では、両者を本質的に分ける境界を見いだすことは難しかった。

そして浅井長政の事例が示しているように、その類似は制度だけではない。

面目を失えば支配者として存在できず、それゆえ、ときには自己保存に反してでも報復しなければならないという行動原理にまで及んでいる。

本質的に違っていたのは、むしろ別の二つだった。

「公」と「公共」である。

戦国大名の支配は、本質的に公共ではない。

その起点にあるのは、「家」という私的結合体を基礎とする武装勢力であり、領域をめぐる暴力的競争である。

その私的暴力が競争に勝ち、権威を借り、レジティマシーを獲得すれば「公」になり得る。

そしてレジティマシーを失えば、再び裸の暴力として現れ得る。

しかし公共は、その線上にはない。

暴力をどれほど制度化しても公共にはならない。

暴力がどれほど正当化されても公共にはならない。

権威がどれほど強固になっても公共にはならない。

なぜなら、公共は別のところから生まれるからである。

言論である。

十五 「従え」と「語ろう」

したがって、「公」と「公共」の違いを最も単純な言葉で表せば、こうなる。

公の根底には「従え」がある。

公共の根底には「語ろう」がある。

公は、命令―服従という垂直的関係を持つ。

公共は、異なる者同士が互いに語る水平的関係から始まる。

公は、最終的な強制可能性を背景に持つ。

公共は、言論と説得を原理とする。

公権力は、その支配を安定させるためにレジティマシーを必要とする。

公共は、その成立のために権威を必要としない。

だから、

公は暴力から生まれ得る。

しかし、

公共は暴力から生まれない。

公共は言論から生まれる。

結び 国家とは何か、その先へ

戦国大名とヤクザ。

奇妙な比較から始めた。

しかし、この問いによって見えてきたのは、

私的暴力と公権力との間には連続性がある

ということだった。

両者の境界を媒介するものがレジティマシーである。

幕末の「官軍/賊軍」は、その境界が動き得ることを劇的に示した。

そして浅井長政の事例は、さらにその手前にある世界を見せてくれる。

まだ「公」へ転化する以前の、複数の暴力主体が競合する世界では、面目・面子そのものが支配を支える政治的資本となる。

面目を潰され、それを放置すれば、支配者としての存在そのものが危うくなる。

だから戦う。

だから報復する。

そして、ときには存在を守るための戦いによって、存在そのものを失う。

しかし、「公共」はこの系列の外にある。

最後に二つの系列を並べてみよう。

私的暴力 → 支配 → 権威 → レジティマシー → 公権力

それに対して、

複数の人間 → 言論 → 討議・説得 → 共同行為 → 公共

である。

「公」と「公共」は、本質的に違う。

公権力の起源には暴力がある。

公共の起源には言論がある。

しかし、ここまで来ると、もう一つの問いを避けられなくなる。

では、「政治」はどちらに属するのだろうか。

人を従わせる「公権力」の側なのか。

それとも、人々が語り、共に行為する「公共」の側なのか。

言い換えれば、

政治とは、本来、国家なのか。それとも公共なのか。

この問いは、私たちを古代ギリシャからアーレントへ、そして国家そのものを根底から問い直したアナーキズムへと導いていく。

それは、次の論考の課題である。