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 昨日622日はドキュメンタリー映画「島で生きる」の第1回目の上映会でした。

 

沖縄県石垣島では、20233月、陸上自衛隊ミサイル基地が開設しました。

石垣市には、自治基本条例という「まちの憲法」があります。そこには、有権者の4分の1の署名が集まれば市長は「所定の手続を経て住民投票を実施しなければならない」と書かれてありました。

ミサイル基地の配備は米国と中国の対立を背景に島の外側からやってきたことですが、基地の配備は島の人びとの暮らしや将来を大きく左右します。そこで若い農民が中心となって「石垣市住民投票を求める会」が結成され、自衛隊配備の賛否を問う住民投票の実施を求めて、運動を起こします。

「求める会」は2018年、1ヵ月で石垣市平得大俣地域への自衛隊配備の賛否を問う住民投票条例制定請求署名14,263筆を集めきりました。その数は、石垣市有権者の4分の1をゆうに超える3分の1以上の人数でした。

しかし石垣市はこの請求を無視し、「求める会」の若者たちは、署名をしてくれた人たちに応えるために、裁判で闘い続けています。

 

映画上映後のお話会では、若者たちの行動について次のような発言がありました。

 

「映画を観て、『普通の人って強いんだな』と思いました。『求める会』の若者たちは政治的な活動をそれまで特にしたことがない人たちですよね。以前に池袋暴走事故遺族の松永拓也さんを取り上げた番組を観た時にも同じことを思いました。普通の人が立ち上がっていることが印象に残りました。」

 

とてもいい指摘だと思いましたので私は次のように応答しました。

 

「どうして『普通の人』が立ち上がることができたと思いますか?」

「わかりません。」

「それは彼らが『当事者』となったからです。」

「当事者がみんな立ち上げるわけではないですよね。」



確かに、当事者が誰でも立ち上がるわけではありません。立ち上がるのは、当事者意識を持った「当事者」です。

当事者とはその事柄に直接関係している人ですが、当事者意識とはある問題や状況を「自分ごと」と捉えて、主体性や責任を感じて取り組むことです。

たとえば松永さんは当事者遺族になった後、当事者意識を持ちました。その証に自らの顔と名前を出して記者会見をしようと心に決めました。

 その意識について松永さんは次のように語っています。

 

「(この事故に遭うまで)僕自身がテレビで交通事故のニュースとか見た時に、『可哀想だな』とか『辛いだろうな』とは思っていたけど、心のどこかで『自分は被害者にも加害者にもならないだろう』って思っちゃっていた。自分がそう思っちゃってたからこそ『それで終わらせていいんだろうか』今…あのタイミングでまだ世の中の方が池袋暴走事故にすごく注目しているタイミングで、僕が顔と名前を出して交通事故の悲惨さを伝えたら、もしかしたら誰かの心に『こんな交通事故って悲惨なんだ』『じゃあ起こさないようにしなきゃとか』『加害者にも被害者にもならないようにしなきゃ』とか思ってくれる人が1人でも生まれたら、妻と娘の命は生き続けるんじゃないか。」 



少し難しい言い方になりますが、当事者意識は自分が状況の一部になっている、すなわち自分という存在自体が現在生じている事象の発生に何かしら与えている影響の実態に対して、自ら気づいていることを意味しています。

松永さんは、事故をきっかけにして、自らが(既に)交通事故の当事者だったにもかかわらず、「自分が当事者である」ということに気づいていなかったということに、気がつきました。すなわちそういう自分の在り方自体が交通事故の発生に何らかの影響を与えているということに、自ら気がついたのです。これが当事者意識を持ったということです。

したがって、当事者意識に対しては、実際に当事者であるものの、そのことに意識が及んでいない、すなわち気づいていないということが生じえます。実際に当事者であることと、そのことに対して当事者意識があることの間にはギャップが生じうるということです。

 

事故を通して松永さんは交通事故の当事者としての意識を持ちました。それによって彼は、「多くの人に交通事故の現実を伝えて、加害者にも被害者にも遺族にも誰もがならない社会に少しでも近づいていけば」と行動を起こします。

自らの体験を戦争体験者の体験と重ね合わせながら、松永さんは次のように言っています。

 

「戦争だって、差別問題だって、どんな事だって当事者の人が声を上げて、多くの人がそこに共感して、社会って、どんな社会問題も改善されて良い社会になってきたと思うんですよ。だから私も交通事故遺族として、この現実を多くの人に見てもらって。

交通事故は本当は誰しもが当事者。当事者でない人って、1人もいないと思っていて…多くの人が考えて欲しい。自分が、加害者にも、被害者にも、遺族にも、加害者家族にもならないような。」

 

要するに、松永さんは交通事故に当事者でない者はいなくて、だからこそ「自分が交通事故の関係者である」と自覚して(当事者意識を持って)、この問題を他人事にせず、積極的に関わって欲しいと訴えているわけです。

 

ひるがえって見るに、石垣市長や市長に賛同する市議会議員が島への自衛隊配備の賛否を問う住民投票条例の請求を拒んだ理由は、「防衛は国の専権事項であって、一地方自治体が扱うものとしては馴染まない。」というものでした。これをあえて読み替えれば、「防衛については、住民以上に国が知っている。住民にとって、何が一番いいかの判断は国にあずけよう。」ということになります。

 それに対して「石垣市住民投票を求める会」は、「自分たちの地域のことは自分たちが一番わかっているのだから、自分たちのことは自分たちで決める」といういわゆる当事者主権を訴えました。さらには、「自分が防衛問題の関係者である」と自覚して、この問題を他人事にせずに関わろうとしました。

 

 「自分のことは自分が一番わかっているのだから、自分のことは自分で決める」ことを当事者主権といいます。民主主義は当事者主権です。

そして運動の結果、自衛隊配備の賛否を問う住民投票条例請求書名が有権者の3分の1以上にあたる14,263筆集まったということは、この「当事者」としての彼らの声に多くの住民が共感したということでしょう。

 それは、当事者としての彼らの根底に地域への愛があることを感じ取ったということだと私は思います。

 松永さんの声が胸に響くのも、当事者としての彼の根底に妻子への愛があるからです。

 当事者意識を生む原動力は愛です。

 

 民主主義は当事者主権である。そして愛が当事者意識を生む。

そういうことを教わった上映会&お話会でした。

 

 「島で生きる」の2回目の上映会は監督の湯本雅典さんをお迎えして、824日(土)

午後2時から生涯学習センターこぶちざわホールで開きます。

 大勢の皆さまのご参加をお待ちします。