〈【前のページ】からの続き〉
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レイチェル・カーソン
「化学薬品による防除は、もともと
自滅 ── 天に向かってつば〔唾〕するたぐいだ。」
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「ファシズムの本質」を見ていくに際して、
何故カール・ポランニーは
〈社会主義〉を高く評価していたのか?
と疑問に思う方もいらっしゃるかもしれません。
人間が「自由」になるためには、
(ポランニーが、その議論のベースにしている、
マルクス『資本論』において、見える化された)
《‟商品論”的な世界》から
人間が「抜け出す」必要がある、
とポランニーは考えていたようです。
この経済的社会に生きる個々人は、
個々の意志や願望を遂げようにも、
自分たち人間の意志など《お構いナシに、嘲り笑う》かのように、
《価格いかん》で、
労働の方向性やクビになるかどうかが左右されてしまったり、
《利子率》が
おカネの行き先を左右してしまったり、
《資本主義世界での競争メカニズム》によって、
〈労働者〉ばかりでなく、
労働者を使っているような〈使用者/資本家〉も
同じく翻弄されている・・・
――《これら人を翻弄する物事》は、“客観的存在”と呼ばれるのですが、
今現在に生きるボクには、《進歩》や《経済成長》すら“客観的存在”とすら思っています。
〇【A】「拡大成長の呪縛をどう断ち切るか ~地球資源、人的資源の決定的限界に向き合う~」
〇【B】《楽園のパラドックス》~「拡大成長の呪縛をどう断ち切るか」~
〇【C】《足下の在り方や政策発想の抜本的大転換の必要》 ~拡大成長の呪縛を どう断ち切るか?~
〇【20b】《経済成長》の姿を探して ~【監視-AI-メガFTA-資本】~
〇【20c】《経済成長》の姿を探して ~【監視-AI-メガFTA-資本】~
〇【35】モーリス-スズキ氏による〈ヘルナンド・デ・ソト『資本の謎』考〉 ~死んだ資本~
〇【36】「成長するに任せよ」――「未来を担保にする」《成長経済システム》 ~AI-資本~
〇【37】テッサ・モーリス-スズキ《市場の社会的深化》 ~AI&メガFTA&資本~
〇【27】④ 史的な資本主義システムは《ダイナミックに変身し、生まれ変わる》という見方
・・・と言った光景が《‟商品論”的な世界》、
《資本主義世界の仕組み》や《市場社会》から、
人間の「自由な意志」がきく範囲を
すこしでも拡げるための方途として、
ポランニーが期待したのが
「民主主義」と「社会主義」だったようです。
――第1次世界大戦後の中部ヨーロッパでは、
普通選挙を通じた、工業労働者階級による、
経済的・社会的立法に及ぼす影響力が大幅に増大し、
じじつ大きな経済的危機が起こる度に、
そうした議会は社会主義的解決策に傾斜していくのを
目にしてきたらしき事が、
この「ファシズムの本質」の初めのほうの箇所に
出てきます――。
かつては、
〈市場〉というものが、
社会のうちの一部でしかなかったのに、
近現代以降は、
《社会が市場に呑み込まれた》が故に、
この社会を‟《市場社会(☜リンク)》”
とポランニーは形容したワケですが、
そのことを描いた『大転換』とは別の仕事として、
〈アリストテレスの経済論〉や
〈古代ギリシアの経済制度〉といった、
近現代西欧の社会形態とは〈別の形態の社会〉を提示することで、
《いま私たちが暮らしている市場社会》を
「相対化」させる試みを行なっています。
《市場社会》に生きる今日の私たちにとって
想像しがたいかもしれませんが、
古代ギリシアにおいては、
〈市場〉は、
「民主制を維持、下支え」すべく、
市民を支えるための制度として、
社会のなかに「埋め込まれていた」ことを紹介する
ということを、ポランニーは行なっています。
こうした「比較経済史」や「文明の相対化」の仕事にも窺えるように、
ポランニーは、
人間の「自由な意志」や「人間基本的土台」が
《市場社会》や《商品的な世界の仕組み》によって
《翻弄されたり、受動的に編成される》のではなく、
「人間」や「自由」を《市場》から「守る」ための意識を持っていたようです。
《市場と社会とを同一視する経済的自由主義的政策》が20世紀前半に見られた経済的破局の数々を
もたらした結果も踏まえて、
その反省からポランニーは、
「人間を〈市場〉から守る」べく、
〈経済〉を、
「社会的・政治的・文化的諸制度のなかに埋め込む」ための方途として「社会民主主義」を便がとしたのでした。
〈商品や貨幣の関係〉を媒介にするが故に、
良しにつけ悪しにつけ、
人々の相互依存関係が《目に見えず》、
資本主義の論理に左右される”《市場経済》では、
自分の経済活動が他の人々に与える《悪影響や矛盾》を《捉えることが出来ず》、
《そうした不可視性》から、人びとは、
自分が従事する活動の「責任」を
《引き受けることができない》。
市場社会の矛盾や悪循環が
《見えていない》からこそ、
《市場社会》では、
「人間の自由」が《制約されてしまう》。
カール・ポランニーにおいては
「自由」と「責任」とは近しい関係にあり、
自分が行うことが他者に及ぼす社会的負荷などの帰結
について「責任」や「義務」を持つべきで、
その「責任」を果たしてこそ、
社会における「自由」を手繰り寄せることができる、
としました。
《市場社会化》によって《不透明》になっていく
〈人々のあいだの社会的相互関係性〉や〈社会生活〉は「透明・可視化」されるべきで、
そうした「透明性を高めて、見通せる仕組み」をもつことで、人びとは、
他者や自然に対する個々人の社会的責任性を果たす」ことができ、
それが結局は「社会的自由」につながる。
《市場社会化》を「後退化」させると同時に、
人間の「(責任ある)意志・選択の自由の領域を拡大」させることが出来るための方途が、
ポランニーの意味する「社会主義」だったようで、
そのための制度的な便がが、
自分たちが参画する「機能的民主主義」的な在り方だったようです。
「機能的民主主義」制度をもっての「改革」を通じて、「自由」の精神的基盤である「人格」をも確保していこうとする。
ポランニー「ファシズムの本質」の叙述における、
「個人/人格」と「民主主義」と「社会主義」との間の近しい関係性は、
こうしたポランニーの思考地図の配置ぐあいから来ます。
―――――――――――――――――
ただし、
ポランニー自身が、
《技術的に複雑な社会》についての問題意識や
《人々の行動や選択の、他者や自然に及ぼす社会的負荷》についての意識意識を持っていたワケですが、
さらに《テクノロジー社会の行き詰まり》に直面した今日にあっては、
仮に「理想的なまでに、内部メカニズムやプロセスが透明で、住民参与が申し分ないような理想的な民主主義制度」環境を手にすることが出来たとしても、
それでもなお、
そうした「透明な機能的民主主義」制度社会は、
あくまでも〈社会を、公正に健全に運営するにあたっての人間の都合の次元の問題〉に留まるものであり、
「地球をふくめて、持続可能的に維持して行けること」を‟必ずしも保証する制度ではない”
――しかし、健全かつ公正な民主主義的制度の存在は
必要不可欠ですが――
ということの分限(ぶんげん)意識を持っておく必要はある、と私は思うのです。
という理由はシンプルで、
人間の知や能力には〈限界がある〉からです。
にもかからわず、
今の私たち人類が苦心・葛藤するのは、ひとえに、
フーコー『知への意志』にあるように、
「近代の人間とは、
己が政治の内部で
彼の生きて存在する生そのものが
問題とされているような、そういう動物」で、
《近現代》とは、《自分たちの統治空間のなかで、生を統治・管理するようになった社会》であるからではないでしょうか?
そうした《生権力システム等》が
突き当たった“袋小路”や“矛盾”が、
今まで以下に提示してきた《難問》や《行き詰まり》ではないか、と思っています。
《自分たちの統治空間のなかで生を統治・管理する》
という在り方や考え方は、
近代の人間がもつ《傲慢》な考え方だ、
とボクは思うのですが、
〈「機能的民主主義」への期待という
人間の都合の次元の問題〉から、
いま一つ、さらに視野を広げて、
このコロナ災禍を受けて。
これからの持続可能性と未来への責任性を、
この機会に見つめ直すとすれば、
これまで書いてきた拙記事のなかでは、
次のような問題を提示することができます。
【人間社会の都合と人間の驕り
&近代文明の行き詰まり】
・【7-⑳】〈4d〉《私たちの驕り》と「自然観の変質」~ハンス・ヨナス《無限の円環》~
・【7-①】《経済成長/GDP》と《生物多様性・自然環境破壊》
《ブラジリア症》
・【7-⑯】〈3〉理性の《限界、ブラジリア症》~ユートピア主義者たちの「完全な都市」の《誤算》~
《システム危機リスク》
・【7-⑳】〈4d〉《私たちの驕り》と「自然観の変質」~ハンス・ヨナス《無限の円環》~
《《沈黙の春』と人間の限界性&人間の驕り》
・【6】「土壌(地表)」――素晴らしき哉、この“複雑系”なる世界
・【12-④】《現代テクノロジーと効率主義による貧困と死角》【~監視社会=AI=メガFTA=資本~
・【19-⑨】〈分業社会〉に突きつけられた《福井豪雪》【監視-AI-メガFTA-資本】
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さて、以下の引用文中には
“生気論(☜リンク)”の存在が出てきますが、
「我-汝」の関係を《必要とせず、魂の統治》を果たした、ここでの《ファシズムの生気論》は、
戦前・戦中の日本帝国においては、
《国體》という仕掛装置がその役割を果たしていた
のではないか?と思われるので、
すこしでもイメージし易いか、と思い、
以下に並べさせて頂きます。
―――【「国體」についての関連記事】―――
・【18】明治政府が新たに形成した「日本人」という枠組み~明治民法の《戸籍》制度という権力装置~
・【19】1870~90年までは「夫婦別氏(姓)」が明治政府の命令だった!?~《戸籍》という装置~
・【20】1870~90年までは「夫婦別姓」が明治政府の命令だった?!~《戸籍》という権力装置~
・明治政府の“統治的都合”から、なぜ《夫婦同姓≒一家一氏》に「変更された」のか?【21】
・明治政府の“統治的都合”から、なぜ《夫婦同姓≒一家一氏》に「変更された」のか?【22】
・近代国家における国籍 ~国籍という「国民」の資格・忠誠義務から個人の権利へ~【23】
・【24-1】近代国家における国籍 ~国籍という「国民」の資格・忠誠義務から個人の権利へ~
・【24-2】近代国家における国籍 ~国籍という「国民」の資格・忠誠義務から個人の権利へ~
・【24-3】近代国家における国籍 ~国籍という「国民」の資格・忠誠義務から個人の権利へ~
・【25-0】明治日本における国籍法の誕生~家族に求められた「血の同一性」と《家》~
・【25-1】明治日本における国籍法の誕生~家族に求められた「血の同一性」と《家》~
・【26-1】 《元祖日本人》“画定の必要”を感じた明治政府 ~明治維新と脱籍者~
・【26-2】 《元祖日本人》“画定の必要”を感じた明治政府 ~「壬申戸籍」の成立~
・【26-3】 《元祖日本人》“画定の必要”を感じた明治政府 ~「壬申戸籍」の“行きづまり”~
・【27-1】《国体》思想と結びついた《戸籍》 ~明治国家において創作された《家》概念~
・【27-2】《国体》思想と結びついた《戸籍》 ~《戸籍》とは「家」なり~
・【28-1】戦前に形成された《国体》と、敗戦後処理のその『痕跡』と、戦前・戦後の《人的資源》政策
・【72i】《社会ダーウィニズム》と《優生思想》~藤野 豊『日本ファシズムと優生思想』
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以下、
カール・ポランニー「ファシズムの本質」の
引用になりますが、
前ページの内容と同様にして、
ファシズムは、
「個(人)」「人格(我と汝との関係性)」への
《排除や攻撃性》に積極的である、という点で
一貫している模様を
このページでも見て頂きます。
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〈2 無神論者とキリスト教個人主義〉
ここでわれわれの主要な関心は、しかし、政治にはない。
前節において、
反個人主義が
おおむねすべてのファシズムの思想潮流にとっての鍵であることを
確認することに成功したとして、
では、ファシストの攻撃が向けられた個人主義とは
一体何であり、
それと社会主義やキリスト教との関係は
どのようなものであるのだろうか。
この点についてわれわれが
シュパンの議論から引き出す回答は、
ひどく逆説的な性格を帯びている。
つまり、
社会主義が基本的に拠り所としている個人主義、
シュパンの攻撃が必然的に向けられるはずの個人主義と、
シュパンが実際に議論の対象としている個人主義とは
まったく異なったものなのである。
したがって、
シュパンの議論は、
批判を通じてファシズムに寄与する上では
失敗しているのである。
しかし、
たまたま彼の議論によって、
社会主義とキリスト教が共通にもつ個人主義の意味という問題の
真の性格が、
異常なほど明晰さで明らかにされているのである。
シュパンの個人主義告発の基礎となっているのは、
個人主義の個人および社会のとらえ方が
現実から乖離しており、また、自己撞着に陥っている
という二重の主張である。
個人主義は、
人間をいわば精神的に「自立した」独立の存在
と考えるに違いない。
しかし、
このような個人は 現実には存在しない。
個人の精神的自立性などというものは
想像上の産物である。
その存在はフィクションにすぎない。
(引用者中略)
シュパンの個人主義批判は、
その基本的な曖昧さのために力をそがれている。
彼が誤りであることを論証しようと‟めざしている”のは、
社会主義の内容としての個人主義である。
これは本質的にキリスト教的なものである。
しかし、
彼の‟実際の”議論の対象となっているのは
無神論的な個人主義である。
これら2つの形態の個人主義の起源は
いずれも神学的である。
しかし、
絶対者との関係について、一方は否定的であり、他方は肯定的である。
事実、一方は他方のまさに対極にある。
これらを混同すると、
有効な結論に達することはできないであろう。
無神論的個人主義の型は、
ドストエフスキーの『悪霊』のキリーロフにみられる。
「もし神ががいるとしたら、ぼくは神だ」。
すなわち、
神は人間の生命に意味を与え、
善と悪とのあいだの相違を創り出すものであるから、
もしこの神がみずからの外になければ、
自分自身が神である。
‟なぜなら、私がこれらのことをなすがゆえに”。
この議論は反駁不能である。
小説のなかでは、キリーロフは
死の恐怖を征服することによって、
神たる自分を現実かつ真実のものにしようと決心する。
彼は自殺によってこれを達成しようと計画するのである。
しかし、
彼の死は結局ひどい失敗であった。
ドストエフスキーによるキリーロフの仮借ない分析は、
精神的に自立した人格の真の性質と限界とを疑問の余地なく示している。
巨大な超人は、
ニーチェが死を宣告した神々のあとを継ぐものであるが、
ドストエフスキーは、
ラスコーリニコフ、スタウローギン、イワン、
イワンから派生するスメルジャコフなどの
神秘的な人物像によって、
そしてなかでも、キリーロフの姿において
もっても力強く、人間の人格についてのそうした概念、
ほとんど完璧なまでの確かさで否定してみせてくれた。
個人主義に対するシュパンの批判は、
ドストエフスキーが半世紀も前に対象としたニーチェの座に、
遅ればせの攻撃を加えたものにすぎない。
歴史的には、
ニーチェもドストエフスキーも、
孤高の天才ゼーレン・キルケゴールによって先んじられている。
キルケゴールは、
苦心して独特の弁証法を用い、
彼ら二人より一世代も前に
自立的個人を創出し、さらにそれを消し去ったのである。
オトマール・シュパンは、
ドアをこじあけただけでなく、
そのドアをとおって誤った場所に入りこんだのである。
無神論的個人主義に、
不必要な、しかし効果的な攻撃を加えることによって、
彼が論駁しているのは、共同組合的資本主義であって、
彼が究極的には支持するつもりの対象、
つまり不平等な個人の個人主義にほかならず、
彼が知らず知らずのうちに賛意を表しているものこそ、
論駁の当初の対象である平等な個人の個人主義なのである。
というのは、
前者〔=不平等な個人の個人主義〕が無神論的個人主義と、
後者〔=平等な個人の個人主義〕がキリスト教的個人主義と
分かちがたく結びついているからである。
キリスト教的個人主義は、
絶対者に対する関係において
無神論的個人主義とまったく反対である。
すなわち、
「神が存在するがゆえに、
個々の人格は無限の価値をもつ」
と考えるのである。
それは、
人間みな同胞という考え方である。
人々が霊魂(soul)をもつということは、
彼らが個人として無限の価値をもつことを
言い換えたにすぎない。
人々が平等であるというのは、
人々が霊魂をもっているというのと
同じことにほかならない。
人類みな同胞の考え方は、
個人の人格が
共同体【コミュニティ】の外では
現実のものとならないことを
暗に意味している。
共同体の現実性とは 個人間の関係であり、
共同体が現実であるべきであるというのは、
神の意志にほかならないのである。
真理がこのように統一的のある連関をもっていることをなによりも証明しているのは、
ファシズムが
この真理のリンクの一部を棄却しようとして、
結局その全部を否認せざるをえなくなっている
という事実である。
ファシズムは
人間の平等性を否定しようと試みるが、
それをするためには、
人間が霊魂をもっていることを
否定しないわけにいかない。
幾何学の図形がもつさまざまな属性にも似て、
人間が平等であることを述べることと、
人間が霊魂をもっていると述べることとは、
まさに一つなのである。
個人を発見することは
人類を発見することにほかならず、
個人の霊魂の発見は共同体の発見にほかならない。
また、
平等を発見することは
社会【ソサエティ】の発見である。
これらの一方は他方のなかに含まれている。
結局、
個人を発見することは、
社会が個人間の関係であるということを発見することである。
人間という観念と社会という観念とを
別個に取り扱うことはできない。
ファシズムが闘いの相手としているのは、
人間と社会に関するキリスト教の観念全体なのである。
そして、その中心には
人間についての理念がある。
これは宗教的側面における個人であるが、
ファシズムが一貫して
この面における個人をみようとしないことこそ、
キリスト教とファシズムがまったく両立しないことを
ファシズムが認めている証左である。
キリスト教は、社会を個人間の関係と考える。
ほかのことはすべて
この点から論理的に出てくるのである。
それに対して、
ファシズムの中心的な主張によると、
社会は個人間の関係では‟ない”。
この点にこそ、
ファシズムの反個人主義のもつ真の重要性がある、
ここに含まれる否定の考え方こそ、
ファシズム哲学を形成する原則であり、
その本質である。
ファシズムの思想が、
歴史、科学、道徳、政治、経済、宗教において
何をやるべきかが、ここから明瞭になる。
こうして、ファシズム哲学は、
社会が個人間の関係で‟ない”ような世界像を
生み出す努力となる。
その社会では、
実際、意識をもった人間そのものが存在しないか、
あるいは
人間の意識が社会の存立や機能と
何らのかかわりももたないのである。
この主張を少しでも割り引けば、
社会についてのキリスト教の真理に
立ち戻ることになるであろう。
この主張は不可分であって、
不可分な全体を発見したことは
ファシズムの業績である。
個人主義、民主主義、社会主義の諸観念が
相関関係にあることを
ファシズムが主張しているのは正しい。
キリスト教かファシズムか、そのどちらかが
闘争のなかで滅びなければならないことを
ファシズムは承知しているのである。
(引用者中略)
――――――〈146〉―――――――――――
〈7 人種主義と神秘主義〉
ファシズムの思想は、
現実には生気論と全体主義の2つの極のあいだをたえず揺れ動いている。
この2つの理論はどちらも、
ファシズム哲学が要求している主要なもの
―人格をもった個人間の関係ではないような人間社会についての概念―
を打ち立てるのに成功している。
これらの理論は、
人間存在に関するヴィジョンをわれわれに提示することによって、
この目標に到達しているのである。
しかし、そのヴィジョンは、
それを受け入れるや否や、われわれの意識は、
人間みな同胞という教えによって生み出された型とは異質な型のなかに
無理やり押し込まれてしまうようなものである。
ただし、ファシズムが
生気論の方に傾斜していることは明白である。
ファシズムがキリスト教に対してもっている
不退転ともいうべき敵意のもっとも深い根は、
こうした傾向のなかに明らかにされる。
ファシズムの生気論への傾斜が
もっとも終始一貫してみられるのはドイツにおいてである。
こうした事態の展開のコロラリーとなっているのが
人種主義と神秘主義である。
この2つによって、生気論は、
協同組合主義的資本主義が
それ自身では充足しえない2つのきわめて重要な要件、
技術的合理主義とナショナリズムを満たすことができるのである。
奇妙なことに、生気論と全体主義論も ともに、
ナショナリズムに対してはその概念構造のなかに
ほんのわずかの場所しか残していない。
(引用者中略)
しかし、
あるフィクションの助けを借りることで、
民族という理念は、
生気論の物質的なパターンに容易に適合させられる。
すなわち、
人種の概念が、原始状態が真の姿であり、
近代の民族は人工的なものであることを示す公分母として働くのである。
国家社会主義の哲学は、
人種を民族の代わりに使っている生気論である。
人種と民族がファシズム思想のなかにもっている中枢的ともいうべき性格は、本稿でもまたあとで現れてくるであろう。
もっと深刻な問題が合理性の必要性から生まれてくる。
協同組合主義的資本主義においても
近代的な機械を動かす必要があるとすれば、
合理性の概念だけでなく、
合理性が現実そのものとして確保されなければならない。
あらゆる段階の生産者によって、
知力と意志、すなわち自我の真理がもつ組織された意識が、
仕事を成就させるために用いられなければならない。
しかし、生気論は
生命が意識で機能すると主張しており、
人間の真の姿は、
人格をそなえた個人とならないようにする能力のうちに求められている。
ほかならぬ生気論をファシズムにするのは、まさしくこの原理である。
では、
人格ある個人を再立しないでおいて、
一体いかにして合理的意識を再び導入することができるのであろうか。
また、我(Ego)は、対応する汝(Thou)の存在なしで、
いかにして生まれるのであろうか。
技術文明と不可分な合理性の必要性が、
ファシズム哲学の全構造を危険にさらすのである。
ここでの問題は 明らかに宗教的な問題である。
事実、これは、
宗教的な形態をとったファシズムの、哲学的な問題ということができる。
すなわち、
究極において他人の生命に意味を見いだすことなくして、
自己の生命に意味を与えることが可能であるだろうか。
これに対するファシズムの解決策は疑似神秘主義にある。
真の神秘主義は
信仰の所産であり、信仰の証しであって、信仰に代わるものではない。
信仰の伴わない神秘主義がおちこむ先は、
ほとんどどのような美的または宗教的な内容でも
注ぎこめるような、皮相な心的状態にすぎない。
このような神秘主義が帰属するのは
精神の領域ではなく、魂の領域である。
異教の快楽追求的な神秘主義であれ、
近代の耽美主義によくみられる神秘主義であれ、
こうした神秘主義は 心理的なものであって、精神的なものではない。
精神に対して魂(さらには動物的肉体までも)の現実性を主張するために
このような手法を用いることが、疑似神秘主義なのである。
もともと社会的なものである宗教の観点からすれば、
疑似神秘主義は否定されるべき現象である。
なぜなら、神秘主義は神と人間の交わりであり、
また、神によって人間が人間から分かたれることであるからである。
神秘性をそなえた人間は神を身近にもち、
神の永続性によって仲間から分かたれる。
神秘的な経験は、自己の隣人を除く全宇宙を包みこみ、
神秘性ある自我は、それに対応する汝を人間に求めない。
ここから、
中世ドイツ神秘主義が、
今度は信仰に代わる道としてだけであるが、
改めて是認され、宗教的感情や美的感情が
倫理的な方向へ逸脱することを防ぎとめるはけ口として
ファシズムによって使われることになる。
神秘主義的な心の状態においては、
理性と意志に最高の価値をおき、
魂の能力をまさに神格化することが、
個人の人格そのものの完全な解体と共存する。
しかし、こうして神秘化された理性や意志は、
本質的に非社会的な性質をもっている。
エッカルト〔エックハルト〕のキリスト教信仰における神秘主義は、
新しい世界が他との接触と、より広い交わりを
切実に求めているにもかかわらず、
他から隔絶された状態の存続を望む中世的な魂の表現だったのである。
国家社会主義における神秘主義の役割は、
個人を社会的個体として確立させずに、
個人にとっての合理的意識の中心を人工的につくり出すことである。
エッカルト〔=エックハルト〕の神秘的体系においては、
神それ自身が人間の霊魂のなかに生まれ、
人間の霊魂の法則が神自体をも支配するのであるが、
自然が合理的なものであるということを、
これ以上に強く保証してくれる考え方は思いつけないであろう。
こうして、疑似神秘主義は、
人間の自然に対する関係がもつ極端な合理性と、
人間の人間に対する関係における合理性の完全な欠落とを
結びつける、妙にもってまわった非合理主義の要求に、
完全に呼応するのである。
結局、血と人種の崇拝が、
このようにして信仰に転形された生気論哲学にきわめてよく似た内容を、
右のような神秘主義の器に盛って提示するのである。
これが形成途上にある国家社会主義の宗教である。”
(カール・ポランニー【著】/玉野井芳郎,・平野健一郎【編訳】
『経済の文明史: ポランニー経済学のエッセンス』
1975年、日本経済新聞社、129-149頁)
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〈【次のページ】つづく〉