【特集】ワクチン後遺症
~副反応ではない 慢性的な後遺症の訴え~
#キャッチプラス #サンテレビ
【特集】ワクチン後遺症~副反応ではない 慢性的な後遺症の訴え~ (サンテレビ)
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☆練習中に倒れて死亡した中日・木下投手の「ワクチン接種」を報じない朝日新聞とNHK
(SAMEJIMA TIMES 2021年8月10日)
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【関連記事】
☆新型コロナウィルス・ワクチンは《遺伝子組み換えワクチン》~子宮頸がんワクチン被害を繰り返すのか~
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町山智浩
映画『ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男』
2021.11.09
フライパンが危ない!隠された令和の水俣「PFOA」
NO.1【Tansa報道最前線】20220208
Tansa (探査報道に特化したジャーナリズム組織)
「PFOA」「PFOS」問題を、Tansaの記者さんが
『週刊金曜日』でも提携連載されています。
☆米小売業で広がる「永遠に残る化学物質」PFASの使用取りやめ
(「サステナブル・ブランド ジャパン」)
☆沖縄の米軍基地から漏れ出す「永遠の化学物質」
(「Web 論座」 島袋夏子 琉球朝日放送記者)
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〈【前ページ】からの続き〉
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ヒトラー政権に抵抗した、ごく平凡の夫婦の実話。
『ヒトラーへの285枚の葉書』予告編
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“一生を通じて、ナチス体制に協力せず、
公的な生活に関与することを拒んだ数少ない人々は、
どのような形で他の人々と違っていたのか‥‥
(引用者中略)
こうした人々が殺人に手を染めることを拒んだのは、
「汝殺すなかれ」という古い掟をしっかりと守ったからではなく、
殺人者である自分とともに生きていることができない
と考えたからなのです。”
(ハンナ・アーレント【著】/ジェローム・コーン【編】/中山元【訳】
「独裁体制のもとでの個人の責任」(『責任と判断』所収)
2016年、ちくま学芸文庫、71-73頁)
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‟ロボットはたがいに愛しあうことができないが、
同様に神を愛することもできない。
神への愛の崩壊も、
人間どうしの愛の崩壊と歩調を合わせて進行している。”
(エーリッヒ・フロム【著】/鈴木昌【訳】
『【新訳版】愛するということ』
1991年、紀伊国屋書店、154-155頁)
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“…愛の発達を阻害するような社会は、
人間の本性の基本的欲求と矛盾しているから、
やがては滅びてしまう。”
(エーリッヒ・フロム【著】/鈴木昌【訳】
『【新訳版】愛するということ』
1991年、紀伊国屋書店、197頁)
―――――――――――――――――――――
“【シニョレ】
――おぞましく、取り返しがつかず、恐ろしく、耐え難いといったものでした。
たえず泣きたくなると同時に吐き気がしました。
まず、盗聴器に取り囲まれているといった即座の印象があります。
この印象はたぶん間違っているかもしれませんが、
なにしろポーランド人たちはあまりにもそう信じ込んでいるので、
私たちもしまいにパラノイアのヴィールスに感染してしまうのです。
それから、一目瞭然とも言える種類の人心の荒廃があります。
ワルシャワの大ホテルは、
ちょうど〔パリの】サン=ドゥニ街で見られるように、娼婦たちでいっぱいです。
ホテルの周囲には闇の両替屋たちが うようよといて
みんな彼らは密告者だと噂しています。
それから、それとは別に、他の人たち、他のすべての人たちがいます。
私が〔ナチスによるフランス〕占領時代にさえも見たことがないような人の列。
そして、すばらしい一年のあとの全面的な絶望。
――絶望ですって?いくつものデモ、抵抗があるというにに、ですか?
(引用者中略)
【クシュネール】
―― ・・・ポーランド人たちは
自分たちがどこまで行けるのかを知っているからです。
ヤルゼルスキーもまた知っています。
ポーランドのひとたちは、
「ソ連の怒りを引き寄せることなく、これ以上なにができるのか?」
と言っていますが、
じっさいこれ以上はなにもできはしないのです。
ヤルゼルスキーは血腥いクーデターをやる必要などなかった。
〔ソ連という〕ビッグブラザ―の影があったからです。
【フーコー】
――ビッグブラザ―の影、
そしてたえず私たちを非難してやまない
私たちにたいする、私たち自身の無力があったからです。
ポーランド人たちは、
あなたがたは私たちを見放すだけでなく、
「あなたがた自身を見放しているのだとでも」と言っているのです。
まるで、
彼らを見放すことで私たち自身の一部を見放すのだとでもいうように。”
(ミシェル・フーコー【著】/西永良成【訳】
「ポーランド人たちを見捨てるとは、私たち自身の一部を断念することだ」
ミシェル・フーコー【著】/
蓮實重彦・渡辺守章【監修】/小林康夫・石田英敬・松浦寿輝【編】
『ミシェル・フーコー思考集成IX 1982-83 自己/統治性/快楽』所収
2001、筑摩書房、P.198-169)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
『人間の條件』映画公開50周年トレーラー
/ 小林正樹監督と名優・仲代達矢が贈る
渾身のヒューマニズム巨篇
戦争とファシズム映画祭『人間の條件』
仲代達矢×想田和弘
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‟ ナショナリストではない人が
インターナショナリストになることはあり得ない。
ナショナリズムが達成された時に、
すなわち、
いろいろな国に所属する諸国民が自らを組織化し、
一人の人間のように行動できるようになった時に
初めてインターナショナリズムは可能になるのである。
悪は
ナショナリズムではなく、
狭量・利己主義・排他性という近代国家の毒なのだ。
それぞれの国が
他国の犠牲の上に自国の利益を追求し、
他国の破滅の上に自国の隆盛を望んでいるのだ。”
(マハートマー・ガンディー【著】/古賀勝郎【訳】
『今こそ読みたいガンディーの言葉』
2011年、朝日新聞出版、162頁)
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前回ページと今ページの下とに見られるような
ポランニーによる「ファシズムの本質」の叙述には、
〈すべてのファシズムにおける至高の価値は、
人種もしくは民族である。〉
〈ファシズムの思想は、
現実には生気論と全体主義の二つの極のあいだを絶えず揺れ動いている。
この二つの理論はどちらも、ファシズム哲学が 要求している主要なもの
――人格を持った個人間の関係ではないような人間社会についての概念――を打ち立てるのに成功している。
これらの理論は
人間存在に関するあるヴィジョンをわれわれに提示することによって、
この目標に到達しているのである。
しかし、そのヴィジョンは、それを受けいれるや否や、
われわれの意識は、
人間みな同胞という教えによって生み出された型とは異質な型のなかに
無理やり押し込まれてしまうようなものである。
ただし、
ファシズムが生気論の方に傾斜していることは明白である。
ファシズムがキリスト教に対してもっている不退転ともいうべき敵意の
もっとも深い根は、こうした傾向のなかに明らかにされる。
(中略)
あるフィクションの助けを借りることで、
民族という理念は、生気論の物質的なパターンに容易に適合させられる。
すなわち、
人種の概念が、原始状態が真の姿であり、
(中略)
国家社会主義の哲学は、
人種を民族の代わりに使っている生気論である。
人種と民族がファシズム思想のなかにもっている中枢的ともいうべき性格〉
というように、
前後ページに見られる叙述で、
ナチス・ドイツ/ファシズム体制下での
《協同組合主義的資本主義》では充足できない、
《技術的合理主義》と《ナショナリズム》という
ファシズムにとって極めて重要な2つの要件を
充足することを可能にしてくれる生気論のために、
‟民族”という枠組みを、
生気論の物質的なパターンに適合させるべく
再編成された《人種主義》という枠組みは、
人間みな同胞という〈人類愛/ワンネスの型〉とは
《異質の型に人びとを導く枠組み》であるものとして
ポランニーは、位置づけて論じていますが、
〈ファシズム〉と〈人種〉との関係について、
たとえば、この拙ブログでは、
フーコーが
コレージュ・ド・フランスの1975ー1976年度の講義
「社会は防衛しなければならない」の終盤のほうで、
《生権力》との関係で〈人種(主義)〉について
論じている箇所を、取り上げた事があります。
〈 実際、人種主義とは何なのでしょうか?
まず、
それは権力が引き受けた生命の領域〔生-権力〕に
切れ目を入れる方法なのです。
そうやって生きるべき者と死ぬべき者を分けるのです。〉
と述べて、
‟人種主義”というものを、
〈人種主義は、
生権力の機構【エコノミー】のなかで
死の機能を保証している”〉
という位置づけをしており、
〈ナチズムは、
18世紀以来配置されていた新しい権力のメカニズムが
頂点に達したもの〉
〈人種主義を国家のメカニズムに組み込むことになったのは
生権力の出現なのです。
その時、人種主義は、
近代国家において行使されているような形で、
権力の根本的メカニズムとして定着したのであり、
その結果、
なんらかの時期に、なんらかの範囲内で、
そしてなんらかの条件下で、
人種主義を経由しない国家の近代的機能などほとんど存在しないのです。〉
〈極端なことを言えば、
ナチス国家においては、誰もが隣人の生殺与奪権を持っているのです。
告発するだけで、
そばにいる者を実際に殺す、あるいは殺させることができるのですから。
(引用者中略)
ですから、ナチス社会には
やはり次のような途方もないことがあるのです。
つまり
これ〔ナチス社会〕は
生権力を間違いなく全般化した社会でありますが、
同時に、
殺す主権的権力を全般化した社会でもあるのです。
2つのメカニズムが、国家に
市民の生殺与奪権を与える古典的メカニズムと、
規律と調整を中心に組織化された新しいメカニズム、
要するに生権力の新しいメカニズムとが、
まさに一般化しているのです。
その結果、こういうことができます。
ナチス国家は、
それが
生物学的に調整し保護し豊かにする生命の領域
と同時に、
誰か――他者ばかりでなく仲間をも――を殺す主権的権利を
絶対的に共存させたのである、と。
ナチスにおいては、
全般化された生権力が、
とてつもなく増大した死の権利と死の危険によって
ふたたび行き渡った絶対的な独裁政治と一致していました。
全体的に人種主義的で、絶対的に殺人的で、絶対的な独裁政治と全体的に自殺的な国家なのです。
人種主義国家、殺人国家、自殺国家。〉
といったように、
‟人種(主義)”というものを、
〈生権力〉という、もう片方の一翼と共に
近現代国家の両翼を構成するもののような位置づけが
なされて、論じられた事があります。
【参考記事】
☟
〇【72f】①《生権力》と《人種主義》と《ジェノサイド》&《全体主義/ファシズム》と
〇【72g】②《ナチズム》――《生権力》と《人種主義》との頂点に達した政体――
〇【72h】③《ナチズム》――《生権力》と《人種主義》とが混在し、それらが頂点に達した政体――
フーコーは、
つぎの点は指摘してはいないはず
――その一連の論理展開上の文脈では
必要なかったのかもしれませんが――ですが、
ポランニーが位置づけた〈人種主義〉の枠組みでも、
フーコーが位置づけた〈人種主義〉の枠組みでも、
いずれにしても
《協同組合主義的資本主義システム》下でも、
《生権力システム》下であっても、
アーレントが取り上げていた
「殺人者である自分とともに
生きていることができない」という意識は
《まったく必要とされない》という点で、
いずれにも当てはまるのではないでしょうか?
そして戦後や、
とくに今般のコロナ災禍を受けた今日では、
《権力が引き受けた生命の領域〔生-権力〕に
切れ目を入れる方法》として、
また言い換えれば、
《生きるべき者と死ぬべき者を分ける尺度》として、
ナチスドイツ下で機能していた
《人種主義》という枠組みに代わって、
今日では主に社会全般的には《功利主義》という形の優生思想が、
《生きるべき者と死ぬべき者を分かつ尺度》として、
依然として生き残り、機能し続けているのを、
限られた医療機会や製剤配分をめぐって出てくる
“トリアージ(いのちの選別)”という言葉を
――2020年11月に吉村洋文 大阪府知事による《救急病床トリアージ》発言がありました――
目や耳にしながら、
目の当たりにしているのではないでしょうか?
――※【追伸・お詫び】
外国人技能実習生問題、
ウィシュマ・サンダマリさん事件を氷山の一角とする
入国管理局での収容者/難民者に対する人権蹂躙、
又、定住外国籍住民の方々の「地方参政権」問題・・・
《人種主義》は、いま現在もなお依然として
深刻な問題として、
人々の《あいだを分けている》問題でした。
訂正して、お詫びを申し上げます。――
☟【関連記事】
〈B(一連バージョン)〉"遺伝子組み換え技術ワクチン” ~斎藤貴男『子宮頸がんワクチン事件』~
‟WHOの「予防接種拡大計画」も、
ずいぶんと変質してきたのではないか。
「1%の人びとが99%の人間を支配している」といわれる
グローバル・ビジネスの時代と、
経済合理性を掲げつつ、道徳律までも
自家薬籠中【じかやくろうちゅう】のものにしてしまう功利主義とは
あまりに相性がいい。
そう言えば、
功利主義のイロハをわかりやすく解説した案内書には、
マイケル・サンデル教授が例に挙げていた路面電車などの事例とともに、こんな問答も紹介されていた。
「あなたの父親と、
『ハリー・ポッター』の作家J・K・ローリングさんが
火事場にいた。
どちらかしか助け出せないとしたら、
あなたは どちらを助けるか?」
この場合は当然、「ローリングさん」と答えなければならない。
彼女のほうが社会全体の利益に寄与すると判断できるためだ
(児玉聡『功利主義入門』より)。
功利主義における「最大多数の最大幸福」に
利益の分配という発想はなく、
もっぱら総和された利益の最大化のみを重んじているからである。
(斎藤貴男【著】
『子宮頸がんワクチン事件』
2015年、集英社インターナショナル、214-215頁)
―――――――――――――――――――――
‟ ・・・第二次世界大戦が始まりました。
いまや、人間とその生命が、
死のために役立てられるまでになったのです。
そして、強制収容所が建設されました。
収容所では、
死刑の判決を下された人間の生命さえも、
最後のひとときにいたるまで徹底的に利用されたのです。
それにしても、
生命の価値はなんと低く見られたことでしょうか。
人間はどれほどその尊厳を奪われ、おとしめられたことでしょうか。
このことを確認するために、ちょっと思い浮かべてみましょう。
一国家が、自ら死刑の判決を下したすべての人間を、
なんとかしてもっと徹底的に利用しようとするのです。
猶予された人生の最後の瞬間にいたるまで、
なおその労働力を役立てようとするのです。
おそらく、そのような人間をあっさり殺してしまったり、
それどころか生かしておいて死ぬまで養ったりするより、
そうするほうが合理的だという考えから、そうしようとするのです。
また、強制収容所では、
私たちは、「スープをやる値うちもない」といって非難されることさえ
しばしばでした。
そのスープはといえば、
一日に一度きりの食事として与えられたものでした。
しかも私たちは土木工事を果たして、
その経費を埋め合わせなければならなかったのです。
価値のない私たちは、
この身にあまる施しものを受け取るときも、
それにふさわしい仕方で受け取らなければなりませんでした。
囚人はスープを受け取るとき、
帽子を脱がなければならなかったのです。
さて、私たちの生命がスープの値うちもなかったように、
私たちの死もまた、たいした値うちはありませんでした。
つまり、私たちの死は、
一発の銃弾を費やす値うちもなく、
ただシクロンB【※】を使えばよいものだったのです。
【※】シクロンB:青酸の入ったガス状の害虫駆除。
おしまいには、精神病院での集団殺人が起きました。
ここではっきりしたのは、
もはやどんなみじめなあり方でも
「生産的」ではなくなった生命はすべて、
文字どおり「生きる価値がない」とみなされたということです。”
(ヴィクトール・E・フランクル【著】/山田邦男・松田美佳【訳】
『それでも人生にイエスと言う』
1993年、春秋社、5-7頁)
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以下、
カール・ポランニー「ファシズムの本質」の、
前ページからの続きです。
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‟〈8 生気論の勝利〉
政治的宗教を生み出そうとする国家社会主義の傾向は、
ローゼンベルクの仕事によく表れている。
彼はこれを神話の創造と呼ぶ。
彼の努力は、
われわれのこれまでの分析でおなじみとなった
ファシズム思想のあらゆる異なった側面を反映している。
その側面とは、すなわち、
生気論と全体主義論に 二またをかけた依存、
機械時代の必要性への生気論の適応、
〔「「人類はみな同胞」という人類愛の考え方に導かれないように〕
生気論が優越的地位を占めるようになる傾向、
ファシズムへの適合性の最終的な試金石としての反個人主義などである。
ローゼンベルクは、
クラーゲスとシュパンの体系を共に拒否することによって、
みずからの哲学的位置を規定しようとした。
しかし、そこには注目すべき相違点が一つある。
すなわち、
彼はクラーゲスを批判しているものの、
自分自身も生気論に深くコミットしており、
シュパンに対してずっと強い批判を行っているのである。
(引用者中略)
ローゼンベルク自身の哲学は、本質的に生気論である。
彼によれば、
「真理とは、
生命の有機的原理が真理と定めるところのものであり」、
「論理や科学、芸術や詩、道徳や宗教における最高の価値は、
人種のもつ有機的真理の異なった諸側面にすぎない」。
彼の理論的、実践的目的を
おそわくもっともよく要約している言葉は、
「すべての真の文明とは、
人種のもつ成長力、生命力ある特徴にしたがって
意識が形成され、形づくられていくことにほかならない」、
という言葉であろう。
重要なのは、
この人種の概念が
それ自体としては必ずしも生物学的な人種概念ではない、という点である。
普通、人種は血と同一視されるが、
さまざまの相違なる要素から成り立っている
とみなされることもしばしばである。
祖先の共通性は、
支配的な要素ではあるが、そのうちの一要素にすぎない。
こうして、人種概念は拡張され、
肉体ではなく「魂」が人種の担い手とされると、
人種理論にもとづくナショナリズムの把握が非常に容易になるのである。
(引用者中略)
……ローゼンベルクは、
憎悪と軽侮の念をもって普遍主義に立ち向かっていく。
旧約聖書とユダヤ教の精神、新約聖書とキリスト教精神、
ローマ教会とマルクス主義社会主義、
平和主義とヒューマニズム、自由主義と民主主義、
アナキズムとボルシェヴィズム、
これらすべてが、どれも普遍主義であるとして非難される。
これら一連の非難の対象には、
聖書の詩編から山上の垂訓、さらには『共産党宣言』にいたるまで、
彼の軽蔑するほとんどすべてのものが含まれている。
(引用者中略)
明確に反個人主義的な哲学は、
もっとも露骨に動物的な意味の反個人主義の場合を除けば、
人類という概念を一切拒否するにちがいない。
あらゆる色あいのファシストたちが
人類という考え方そのものに浴びせる罵声の激しさは、
ここに根ざしている。
個人が織りなす社会として人類をみる人類観には、
個人主義の極と普遍主義の極の二つがあるが、
こうして、人種主義――民族主義の原理は、
その双方に対抗する二重の機能を託されるのである。
ファシズムによる国際主義の否定は、
民主主義の否定に呼応するものにほかならない。
共同組合主義的資本主義は
権威主義的かつ民族主義的であり、
個人間の不平等と国家間の不平等を同じように主張する。
「国際主義と民主主義は分かちがたい」。
まだ十分注目されるようになっていない演説であるが、
デュッセルドルフでの
国家社会主義の創設に関する演説において、
ヒトラーはこういい切ったのである。
個人主義――普遍主義の原理に対する
人種主義――民族主義の原理の敵対関係は、
宗教的な問題の核心にまで及ぶ国家主義であれ何であれ、
すべてのファシズムにおける至高の価値は、人種もしくは民族である、
それに対して、
個人と人類が、
人間世界全体にわたるキリスト教イデオロギーの二つの極である。
したがって、
宗教的な争いが不可避的に接近しつつあるという意識は、
国家社会主義の初発時から明らかに存在した。
最初のナチ党綱領が
たとえ積極的なキリスト教なるものへの支持を
宣明していたとしても、
その後の事態が示すように、
それ以後完全に捨て去られたほかの項目同様、
この項目が厳格に守られるはずはなかったのである。
ヒトラー自身の哲学は、
明らかにキリスト教と対立する人種主義的な信条を含むばかりでなく、
マキャベリ的な策略の原理を是認するものであった。
そのため、
積極的なキリスト教なるものに
リップ・サービスを行う一方で、
人種主義の信条にのっとって行動しても、
誠実さに欠けるという
きびしい非難にさらされずにすんだのである。
(引用者中略)
教会は、普遍主義の証人となることによって、
みずからの信仰の本質のために闘っている。
しかし、
ドイツのファシストの側も、
人間の平等性を否定しとおすことによって、
みずからの信条の本質のために闘っているのである。
闘いは、
人格をそなえた人間を発見した宗教の代表と、
かかる個人の概念を廃絶する決意を
みずからの新たな宗教の中心にしようとする人々とのあいだで
戦われている。
〈9 ファシズムの社会学〉
ファシズム哲学はファシズムの自画像である。
ファシズムの社会学は写真の性格に近い。
前者は自分自身の意識に反映されるままに
ファシズムを示してみせるのに対し、
後者はファシズムを
歴史の客観的な光のなかに呈示するのである。
これら二つの像はどれほど対応しているのだろうか。
ファシズム哲学がそのヴィジョン創出に努めている人間世界が、
個人間の意識的な関係ではない社会の世界であるとすれば、
ファシズムの社会学の方は、
社会主義へ向かおうとする社会の発展傾向を
ことごとく絶滅してしまうような方法によって、
社会構造を変形しようとする試みがファシズムであることを
明らかにしている。
この両者を実際に結びつける結節点は
政治の領域に見いだされる。
すなわち、民主主義の諸制度を破壊する必要性である。
〔第一次大戦後に見られたような〕
ヨーロッパ大陸における歴史的経験によれば、
民主主義の行きつく先は社会主義であるから、
社会主義の到来を妨げようとするならば、
民主主義が廃絶されなければならない。
ファシズムの反個人主義は、
この政治的帰結の合理化なのであって、
こうして、個人主義、民主主義、社会主義は、
人間と社会の性格に関する同一の解釈から生まれた、
相互に関連する概念であるとみることが、
ファシズム哲学にとって必須となる。
この解釈がキリスト教の解釈であるとみてとることは
われわれにもたやすい。
こうした状況においては、
ファシズム運動の社会学的な性格だけでなく、
ファシズム体制の社会学的性格をも
考慮しなければらならない。
ファシズムが狙っているのは、
明らかに民主主義を単に破壊することだけではない。
ファシズムは、
社会が民主主義に復帰する可能性までをも
除去してしまうような、
そういう社会構造の樹立を試みているのである。
しかし、そのためには、
一体どのようなことが
なされなければならないのであろうか。
そしてまた、
戦闘的段階のファシズムに必要な
あの徹底した反個人主義の態度を、
こうした試みのためにも
ファシズムが取りつづける必要があるのは、
なぜであろうか。
これに答えるためには、
組合主義国家の性格を
少なくとも垣間見ることが必要となる。
民主主義と資本主義が両立しないことは、
それが現在の社会的危機の背景をなすものとして、
今日では ほぼあまねく認められている。
(引用者中略)
ムッソリーニの「ファシズムの原理」の簡潔明瞭な記述によると、
民主主義はアナクロニズムである。
「なぜなら、
権威主義的国家のみが
資本主義に内在する矛盾に対処しうるからである」。
民主主義の時代は過ぎ去ったが、
資本主義は まだその緒についたばかりである、というのが
彼の確信である。
先にも触れたヒトラーのデュッセルドルフにおける演説では、
政治における民主主義的平等の原則と、
経済生活における生産手段の私的所有の原則
のあいだの完全な矛盾が、現在の危機の主な原因であることが主張された。
つまり
「政治における民主主義と
経済における共産主義とは
類似の原則にもとづいている」。
ミーゼス派の自由主義者の持論によると、
代議制民主主義の行う価格システムへの介入が 不可避的に
商品生産量の総計を減らしていくのであり、
ファシズムは
自由主義経済の保護手段として許されるのである。
「介入主義」ファシストも、「自由主義」ファシストも共に、
民主主義は社会主義に通じる、という確信を抱いている。
(引用者中略)
資本主義と民主主義のあいだの矛盾の解決策は
基本的二つある。
一つは
民主主義的原理を政治面から経済面へと拡張すること
〔古代ギリシャ社会における、市場の社会への埋め込みor社会主義〕であり、
いま一つは
民主主義的な「政治領域」の全廃〔=ファシズム〕である。
経済への民主主義的原理の拡張は
生産手段の私有廃止、
さらには、独立した自立的経済領域の消滅を意味する。
民主主義的政治領域が社会の全容となるのである。
これこそ本質的に社会主義である。
一方、
民主主義的政治領域をなくしてしまうと、
ただ経済生活だけが残ることになる。
さまざまな産業分野によって組織された資本主義が
社会の全容となる。
これがファシズムの解決策である。
〔《トップダウン型の共同組合主義的資本主義が、全般的にあまねく浸透する社会》=《市場原理主義の完成》が、
‟ファシズムの解決策”という事になる〕
おおまかにいって、
社会主義の社会学的内容は、
全体が個人の意志と目的に依拠する状態を完全に実現すること、
一方、
全体のなかでの持ち分に対する個人の責任を
持ち分にしたがって増大させることである。
(引用者中略)
これに対してファシズムの社会学的内容は、
全体が
それを構成する個人の意識的な意志や目的に
依存することを退けるような、社会の秩序枠である。
こうした方向を貫徹しなければならないとすると、
個人の意志とか目的とかは
存在してはならないことになる。
ここで反対されているのは、
民主主義の形式ではなく、その実質である。
民主主義のとる形が
普通選挙と議会制民主主義であれ、
小グループの民主主義に基礎をおく組織された世論であれ、
地方団体、文化団体などにおける
思想や判断の自由な表現であれ、
社会を宗教と学問に特有な影響力の経路をとおして
導いていこうとする
宗教の自由、学問の自由という形であれ、
さらには、これらを結びつけた形であれ、
とにかくすべてがファシズム下では
ひとしく消え失せなければならないのである。
この秩序枠のなかでは
人間は生産者とみなされるだけであり、
それ以外のものとは考えられない。
さまざまな産業分野は法的に組合と認められ、
それぞれの領域で生起する経済面、産業面、社会面の諸問題に
対処する特権を付与される。
つまり、
それまでは政治的国家に属していた
立法、司法、行政の力を、
組合がほとんどすべて取りこむことになるのである。
社会生活の実際の組織は、
職業を基礎としてつくり上げられる。
代議制は
経済的機能に沿って組織され、
技術的かつ非人間的になる。
そこに含まれる人間の思想も、価値観も、
そして数さえも表現されない。”
(カール・ポランニー【著】/玉野井芳郎,・平野健一郎【編訳】
『経済の文明史: ポランニー経済学のエッセンス』
1975年、日本経済新聞社、149-160頁)
ルツェビッチ氏「ロシアが本当に恐れているのは『民主主義』です。民主主義が欧米からウクライナを通ってロシアに入るのではないか、と懸念しています。でも、そうだとは決して認めません。『ウクライナが怖い』などと、ロシアは口が裂けても言えないですからね」:朝日https://t.co/aSFg1zvtQN
— 塩見卓也 (@roubenshiomi) February 11, 2022
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「独裁者の橋下です」 論説副委員長・別府育郎
(2015年5月19日 産経新聞)
‟平成23年6月のパーティーで、
大阪府知事・大阪市長のダブル選挙について
「今の日本の政治に一番必要なものは独裁」と話す姿が印象的だった。”
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