翁長雄志の『言葉』 ~又、ハンストという『言葉』、投票実現という『言葉』、座り込みという『言葉』
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〈【1月17日改訂】情報などお知らせ〉
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【前のページ(72g)】で中断した箇所からの続きを
以下に行ないます。
前ページでの要諦を、一部引用を重複させつつも、
その続きを以下に続けます。
次のページから
藤野豊『強制された健康』において
藤野氏が《ファシズムの特徴》とした性質や光景は、
フーコーが《生権力》と形容した現象と重なる点が見られ、
《藤野氏「ファシズム」/フーコー「生-権力」》の
様相をもった
戦前の日本帝国の生(健康や衛生や性など)管理行政のなかでの《従軍慰安婦》問題
(また一方に、
国家と個人とを交叉的につなぐ装置としての《国体》概念、
他方で同時に、
国家人種主義的で虐殺的な《731部隊》現象)に、
すこし触れてみたいと思います。
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……この〔生-〕権力は
主権者として、原子爆弾を使います。
そうするとこれは
19世紀以来そうであったような生命を保証する権力、生権力
たりえなくなってしまいます。
ところがもう一方の極では、
反対に過剰が生じているのです。
それはもはや生権力に対する主権的権力の過剰ではなくて、
生権力の主権的権力の過剰なのです。
この生権力の過剰が生じるのは、
生命を調節するばかりか、
生命を繁茂させ、生物を製造し、怪物を製造し、
究極には管理不可能で普遍的破壊力をもつウィルスを製造することが
技術的にも政治的にも人間にとって可能になる時です。
生権力の素晴らしい拡大ですが、
私が今原子的権力について申し上げた事とは反対向きに、
生権力は
人間的主権からははみ出してしまうことになるでしょう。
生権力に関して
こんなふうにお話ししたことを許していただきたい。
しかしこうした背景があってこそ、
私が提示しようとした問題が見えてくると思うのです。
では、
君主的権力がだんだん後退していき、
反対に
規律的で調整的な生権力が
ますます進展してくるとすれば、
生命を対象としてかつ目標とする……
この権力のテクノロジーにおいて、
どのようにして殺す権利と殺害の機能が
行使されることになるのか?
本質的に
生命を最大化し、その持続期間を伸ばし、
そのチャンスを増大させ、
偶発時を回避したり、欠損を補ったりすることが
めざされているのなら、
どうして死ぬに任せることができるのか?
生権力を中心にしえた政治的システムのなかで、
どのようにして死の権利を行使するのか、
どのようにして死の機能を行使するのか?
そこに、
人種主義が介入してくるのだと思うのです。
人種主義がこの時期に発明されたなどと言う気は
毛頭ありません。
人種主義は
ずっと昔から存在していました。
しかし別の場所で機能していたと思うのです。
人種主義を
国家のメカニズムに組み込むことになったのは
生権力の出現なのです。
その時、人種主義は、
近代国家において行使されているような形で、
権力の根本的メカニズムとして定着したのであり、
その結果、
なんらかの時期に、なんらかの範囲内で、
そしてなんらかの条件下で、
人種主義を経由しない国家の近代的機能など
ほとんど存在しないのです。
実際、
人種主義とは
何なのでしょうか?
まず、
それは権力が引き受けた生命の領域に
切れ目を入れる方法なのです。
そうやって生きるべき者と死ぬべき者を
分けるのです。
人種間の生物学的連続体において、
諸々の人種が現われ、
人種間の区別やヒエラルヒーが設けられ、
ある人種は善いとみなされ、
ある人種が反対に劣るとされるなどして、
権力の引き受けた生物学的な領域が
断片化されていくことになるでしょう。
人口の内部で、様々な集団を
たがいに引き離していくわけです。
要するに、
まさしく生物学的領域として与えられる一領域の内部で
生物学的な切れ目を行なうことになるのです。
そのおかげで権力は
人口を
諸人種の混在として扱えるようになる。
より正確には
種を扱い、権力が引き受けた種を、
まさしく
人種という下位区分に分割できるようになるのです。
断片化すること、
生権力が差し向けられる生物学的連続体の内部に
区切りを入れること、
これが、
人種主義の最初の機能なのです。
その一方で、
人種主義には
2つ目の機能が生じることになる。
「殺せば殺すほど、より多くを死なせることになるだろう」とか
「より多くを死ぬに任せれば、
その事実自体によって
おまえはより生きることになるだろう」といったタイプの、
ポジティブな関係を確立する役割を、
人種主義は
持つことになるのです。
結局、こういう関係
(「生きたいのなら、死なせなければならないし、
殺すことができなければならない」)を
発明したのは
人種主義でもなければ
近代国家でもありません。
これは戦争的な関係です。
つまり
「おまえは生きるためには敵を殺戮しなければならない」と。
しかし人種主義は
この戦争型の関係
――「お前は生きるためには敵を殺戮しなければならない」――を、
まったく新しいやり方で、
生権力の行使と
まさに両立するやり方で機能させ、作動させているのです。
(引用者中略)
とにかく、
19世紀に新しい、戦争の人種主義が登場することになる。
これは
生権力が戦争をしたいと望むとき、
敵を破壊したいという意志と、
本来ならば保護し調節し増大させるべき者たちを殺しかねない危険とを
どうすれば連結することができるのか
という事実から必要とされたものだと思うのです。
犯罪性についても同じことが言えるでしょう。
犯罪性が
人種主義との関わりから考えられるようになったのは、
やはり、生権力のメカニズムのなかでも
犯罪者を処刑したり追放したりすることが
できなければならなかったからです。
狂気についても、様々な異常についても
同じことが言えます。
大雑把に言って、
ひとが
あるひとつの人種あるいは民族のメンバーであったり、
まとまりをもった生きた複数性の一要素である限り、
他者の死は、自己を生物学的に教化することになる、という原則に従って、
人種主義は、
生権力の機構【エコノミー】のなかで
死の機能を保証していると思うのです。
私たちは結局、
人種がたがいに軽蔑しあったり憎しみあったりするような、
昔からある単純な人種主義からは
ほど遠いところにいるわけです。
諸国家やある階級が、
【自分たちに】向けられかねない、
あるいは社会体のなかで作用しているかもしれない諸々の敵意を、
架空の政敵へと逸らそうとするときに用いる、
一種のイデオロギー操作としての人種主義からも
私たちはほど遠いところにいます。
私が思うに、
これは古い伝統よりもずっと奥深く、
新しいイデオロギーよりもずっと奥深い、別のものなのです。
近代人種主義の特徴、
この特徴を形成しているものは、
心性やイデオロギーや権力の嘘とは
何の関わりもありません。
それは権力の技術、権力のテクノロジーと結びついているのです。
その特徴は
人種間の戦争および歴史の理解可能性からは
もっとも遠いところ、
生権力の行使を可能にするメカニズムのなかに
私たちを位置づけるところにあるのです。
したがって人種主義は、
君主的権力を行使するためには、
人種を、人種の抹殺を、人種の浄化といったものを
用いざるをえない国家の機能と
結びついているのです。
生権力を通じて、
死を与える権利という古い主権的権力が
併存している、というより機能しているということは、
人種主義が機能し、配置され、活動している
ということなのです。
そして
そういうところで、
人種主義は実際に根付いているのだ
と思うのです。
――――――――〈P.257〉――――――――――
こういったことを考えあわせてみれば、
どのようにして、
そして
なぜもっとも殺人的な国家が
同時に必ずもっとも人種的ななものになるかが
わかるでしょう。
結局のところ
ナチズムは、
18世紀以来配置されていた
新しい権力のメカニズムが頂点に達したものなのです。
ナチス体制ほど規律的な国家はなかったことは
言うまでもありません。
生物学的調整が
あれほど緊密かつ執拗に重視されていた国家も
ありません。
規律的権力に生権力。
これらが、
ナチス社会の末端まで行き渡り、
これを支えていたのです
(生物学的なもの、繁殖、遺伝の管理。同様に病気や事故の負担)。
ナチスによって配置された、
あるいはとにかく企図された社会ほど、
規律的かつ保障的な社会はありません。
生物学的プロセスに付きものの偶然を
管理することは、
この体制が
まず目標としたことのひとつでした。”
しかし
普遍的に保障的で、普遍的に安全的で、
普遍的に調整的で普遍的に規律的な社会が現われる
と同時に、
この社会を通じて、
殺人的権力が、
つまりあの殺すという古い主権的権力が
もっとも安全な形で解放されるのです。
ナチス的社会の全体に行き渡るこの殺す権力が
発現するのは
まず、殺す権力、生殺与奪の権力が
国家だけでなく、
一連の諸個人や相当数の者たち
(SAやSSなどがそうです)に与えられているからです。
極端なことを言えば、
ナチス国家においては、
誰もが隣人の生殺与奪権を持っているのです。
告発するだけで、そばにいる者を実際に殺す、
あるいは殺させることができるのですから。
(引用者中略)
ですから、ナチス社会には
やはり次のような途方もないことがあるのです。
つまり
これ〔ナチス社会〕は
生権力を間違いなく全般化した社会でありますが、
同時に、
殺す主権的権力を全般化した社会でもあるのです。
2つのメカニズムが、
国家に市民の生殺与奪権を与える古典的メカニズムと、
規律と調整を中心に組織化された新しいメカニズム、
要するに生権力の新しいメカニズムとが、
まさに一般化しているのです。
その結果、こういうことができます。
ナチス国家は、
それが
生物学的に調整し保護し豊かにする生命の領域
と同時に、
誰か――他者ばかりでなく仲間をも――を殺す主権的権利を
絶対的に共存させたのである、と。
ナチスにおいては、
全般化された生権力が、
とてつもなく増大した死の権利と死の危険によって
ふたたび行き渡った絶対的な独裁政治と
一致していました。
全体的に人種主義的で、絶対的に殺人的で、絶対的な独裁政治と全体的に自殺的な国家なのです。
人種主義国家、殺人国家、自殺国家。
これらが必然的に重なり合い、
言うまでもなく、1942年から1943年の「最終解決」
(これによって、ユダヤ人を通して、
ユダヤ人がそのシンボルでも表われでもある
すべての他人種を抹殺しようと望んだのです)
に、
ついで1945年4月の、
ヒトラーがドイツ人民そのものの生存条件を破壊することを命じた七一電に行き着くことになったのです。
他人種に対しては最終解決、
そして【ドイツ】民族の絶対的自殺。
ここに、
近代国家の機能のなかに書き込まれたメカニズムは
行き着いたのです。
もちろんナチズムだけが、
殺す主権的権利と生権力のメカニズムのあいだの作用を究極まで推し進めたのです。
しかしこの作用は実際には
あらゆる国家の機能のなかに書き込まれているのです。
ということは、
あらゆる近代国家の、
あらゆる資本主義国家の機能のなかに
ということなのでしょうか?
実は、
それほど確かではないのです。
私はまさに
――しかしそれはまた別の機会に示さなければならないでしょうが――
社会主義国家、社会主義も
近代国家の機能と同様に
人種主義を刻印されていると考えているのです。
私が
みなさんにお話しした条件下において形成される
国家の人種主義に向き合うようにして、
社会主義国家が形成される以前に
すでに社会的人種主義が構成されていたのです。
そもそも社会主義は19世紀においては
人種主義でした。
そして世紀はじめのフーリエであれ、世紀末の無政府主義たちであれ、
あらゆる形式の社会主義を通して見てみると、
そこにはいつも人種主義を構成する要素があるのです。
このことについてお話しするのはむずかしいですね。
勢いでこんなふうにしゃべっているのですから。
……とにかく、ただこれだけは言っておきたいのです。
つまり一般的に――ここからは多少思いつきで話しますが――
社会主義は、
まず最初に
所有権や生産様式といった経済諸問題を問わない場合
――したがって
権力の仕組み【メカニック】の権力のメカニズムの問題が
社会主義によって提示されず、分析もされない場合は――
〔社会主義は〕、
資本主義国家あるいは産業国家において
構成されてきた権力メカニズムと
同じものを間違いなく再配備し、再投入している
ように思えるのです。
とにかく次のことは確かです。
18世紀末から19世紀のあいだに発展してきた生権力の主題は、
社会主義によって批判されなかったばかりでなく、
実は
社会主義によって取り上げられ、発展させられ、
再導入され、いくつかの点で変更されたのですが、
その基礎および機能の様態が見直されることは
絶対になかったのです。
結局、
社会や国家、国家の代わりになるべきものの
本質的な機能とは、
生命を引き受け、調整し、増やし、
生命がこうむりかねない危険を減少させ、
その生物学的確率と可能性を見渡し画定するものであるという考え方は、
そっくりそのまま社会主義に受け継がれたように思います。
こういったことの帰結は、
殺す権利や抹殺する権利、
資格を剥奪する権利を行使しているにちがいない社会主義国家が
存在している以上、
明白です。
このようにして、
ごく自然に人種主義
――固有に民族的な人種主義ではなくて、
進化論タイプの人種主義、生物学的人種主義です――
が、
(ソヴィエト連邦型の)社会主義国家において、
精神疾患や犯罪者や政敵などに関して、
完璧に機能しているのが見いだされるでしょう。
これが
国家に関して言えることです。
私にとって面白いのは、
そして私にとってはずっと問題になっていることなのですが、
それは、もう一度言いますが、
人種主義のこういった機能が、
単に社会主義国家においてではなく、
19世紀を通じて、
次のようなことをめぐってなされてきた
様々な形態の社会主義的な分析や計画においても
また見いだされるということなのです。
結局、
社会主義が、
資本主義国家から社会主義への変化や移行の原理として
とりわけ経済的諸条件の変化について強調したときには
(言いかえると、
経済的プロセスのレヴェルに変化の原理を探し求めたときには)、
少なくともただちには、
人種主義が必要とされることはありませんでした。
反対に、
社会主義が
闘争の問題、敵に対する闘争の問題、
資本主義社会の内部で敵の抹殺の問題について
強調せざるを得なかったときにはつねに、
つまり資本主義社会において
階級の敵との物理的対立が問題となったときには、
人種主義が
再浮上してくることになったのです。
生権力の諸主題とやはり密接に結びついていた
社会主義的思考にとっては、
人種主義は
敵を殺す理由を考える唯一の様態だったからです。
単に敵を経済的に抹殺し、
その特権を失わせるのであれば、
人種主義はいりません。
しかし敵と面と向かうことを考えるやいやな、
そして敵と物理的に闘い、
おのれの命を危険に冒し、
敵を殺そうとしなければならない
と考えるやいなや、
人種主義が必要とされたのです。
その結果、社会主義が
闘争の問題を
強調する形態を選んだり、強調する時期には必ず、
人種主義が現われることになります。
こうして、もっとも人種主義的だったのです。
ヨーロッパにおいては、
社会主義的人種主義は
19世紀末になってはじめて、
社会民主主義
(そして、言わなければなりませんが、
この社会民主主義に結びついた改革主義)
の支配と、
フランスにおける
ドレフュス事件のようないくつかのプロセスによって
捨て去られました。
しかしドレフュス事件以前には、
すべての社会主義者、
というか圧倒的多数の社会主義者が
根っからの人種主義者だったのです。
彼らが人種主義者だったのは(ここでやめます)、
18世紀以来、
社会と国家の発展が配置することとなった
生権力メカニズムを
彼ら〔社会主義者〕が再検討に付していなかった
――あるいは
当たり前のこととして受け入れていた――からだと思うのです。
人種主義を経由せずして、
どうして生権力を機能させ、
同時に
戦争の諸権利、殺人と死の機能の諸権利を行使することができるのか?
これこそが問題だったのであり、
これはつねに問題になっていると思うのです。”
(『社会は防衛しなければならない
ミシェル・フーコー講義集成 1975-1976年度』
筑摩書房、240-261頁)
〈【次のページ(72i)】につづく〉