〈前ページからの続き〉
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"もし近代における財産法の成果が
資本主義の興隆の本質的な基盤であったなら、
知的財産の所有権にかかわる革命は
現代の市場の社会的深化における根本的な基盤となりうる。”
(テッサ=モーリス・スズキ【著】/辛島理人【訳】
『自由を耐え忍ぶ』2004年、岩波書店、P.82)
―――――――――――――――――
‟ 飽くなき拡大という性質を持つ、
近代の企業による市場システムの核心に迫った議論
という意味で、
デ・ソトの『資本の謎』は 魅力的な面を持つ。
資本は
新たなる資本を生み出すために存在するものであり、
資産は
さらなる資産を生みだすために存在する
とデ・ソトは主張した。
たとえ、
土地は食料を生み出し、
家は風雪をしのぐことを身体化したものであったとしても、
際限のない成長をやめた資本は「死んだ」ものだそうだ。
ハンナ・アーレントが1950年代に観察したように、
財産権擁護にかかわる近代的な概念は
「近代が熱心に保護するのは、
財産そのものではなく、
それが
新たなる財産や蓄積の追求を可能とすることである」。
あるいは
(エレン・メイスキンス・ウッズの言葉を借りるならば)、
近代資本主義は
「絶えざる自己拡大についての特異な要求とさらにはその能力」によって特徴づけられる。
企業による市場経済は、
「なすに任せよ(laissez faire)」ではなくて、
「成長するに任せよ(laissez crôitore)」
という原理に基づいている。”
(テッサ・モーリス-スズキ 同 P.35-36)
――・――・――・――・――・――・――
ロバート・レペット 世界資源研究所(2000年)
「・・・…鉱物資源を掘りつくし、森林を伐採し、
土壌を浸食し、帯水層を汚染し、
野生動物を絶滅に追いやったとしても、
国の収益には影響がない…・・・」
――・――・――・――・――・――・――
ウェントワース懸念する科学者の会(2008年)
「会計システムは、
資源が永遠であると思われていた時代に、
自然環境の保護ではなく
産業革命の推進に重きが置かれる状況のもとで発展した。」
(以上の2つは、
ジェーン・G・ホワイト【著】/川添節子【訳】
『バランスシートで読みとく世界経済史』2014年、日経BP社、P.220)
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このテーマのシリーズの過去記事において、
ジェーン・G・ホワイトによる
『バランスシートで読みとく世界経済史』を通じて、
今の近現代資本主義システムは、
《会計システムや仕組み》の面でも
支えられていることを、垣間見ました。
こうした事からも、
〈現在までのこの資本主義システム〉というものが、
抽象的で非歴史的なものではなく、
《歴史的で制度的な複合体》であることを
確認することができます。
《テクノロジー》と関係する、
《成長経済》の姿を捉えるべく、
ここ何回かでは、
《民営化》が、
《国家権力と企業との癒着》で齎されてきたことに
見たように、
新自由主義政策というものが、
《政治と市場との融合》という格好で、
実現化されている側面を
拾い上げているところです。
この点に関して、
自由主義者のベンサムの矛盾を
テッサ・モーリススズキ氏は
改めて取り上げ、指摘しています。
この《国家と市場との融合》という格好での
《新自由主義》政策は、
モーリス-スズキ氏の考察では
長期歴史的視点から
《市場の社会的深化》として捉えられ、
そして、その歴史的視野から、
この《近現代の資本主義システム》の性格を、
”成長するに任せよ(laissez-crôitre)”や
“企業市場経済”と
言い当てています。
ここで今ひとつ、
デヴィッド・コーテン
『グローバル経済という怪物』で見たように、
《成長経済のパイ》は
《ドコから、どのようにして拡張されてきた》のか?
――非経済領域の貨幣領域化によって。
隙間産業や隙間サービスや
新しい必要のマーケット化など、
日常空間の細分化・細密化を通じて。
つまり
見田宗介氏の表現を拝借すれば、
《貨幣への疎外》によって、
デヴィッド・ハーヴェイ氏のを借りれば、
《略奪による蓄積》を通じて。
テッサ・モーリス-スズキ氏のを借りれば、
《市場の社会的深化》を通じて――。
〈アダム・スミスやデヴィッド・リカードの時代と
その著作からは、
「水には、使用価値はあっても、
交換価値は無い」例にされていた状態〉が、
今日までに
水道などのライフラインのインフラが
行政によって敷かれ、
《水が供給されるシステムが整備されたり、
水道システムを設える技術力を備えている現在》
にあっては、
いつしか
《水が「最高の商品」として、
グローバル企業の対象となり、
「水ビジネス」化や、水源をめぐる外交や紛争が
起こるようになっている》のを見つめ直すと、
《成長経済システム》は、
〈非貨幣領域だったもの〉を
《貨幣への疎外化をする》現象を
伴ってきたのではないか?
――そして、
《そこには、政治的権力の助力が働いていた》と――。
しかもまた、
成長経済は《未来を担保にする》とも、
モーリス-スズキ氏は述べます。
――《未来を担保にする》に関して、
まったく別のところで、まったく別の識者である、
マウリツィオ・ラッツァラート氏が、
『〈借金人間〉製造工場』という著書のなかで、
《新自由主義》について考察するのに際して、
《債務/借金》といううものは、
《債務者の未来を、
債務返済のために拘束でき、
統治コントロールできて、
利息を獲得できる点で
理想的な統治テクノロジーや装置》という点で、
《経済的徴兵制》に、
新しい見方をもたらしてくれます――
今回ページでは、
前回ページ内に納められなかった箇所をご紹介し、
以降では
《成長するに任せよ(laiseez-croitre)》な
今日の世界が、築かれてしまう歴史的考察を
見ていきます。
その《政治と市場との融合》の
先行する象徴的存在として、
功利主義者で自由主義者にして、
パノプティコンの発案者である、
ジェレミー・ベンサムの矛盾を、
モーリス-スズキ氏は、取り上げ、指摘します。
ジェレミーベンサムの矛盾は、
前回ページのテーマで、
収めきることができれば良かったのですが、
しかし他方で同時に、
このベンサムの矛盾の、もう一方の片足が、
今回記事の主題にも架かっているため、
そのベンサムの矛盾から、まず見ていきます。
現在の世の中の実相を
観察し描写した結果の表現として、
選ばれたタイトルの書籍、
『自由を耐え忍ぶ』では、
なぜ
《自由を耐え忍ぶ》世の中になったのか?
《不自由な自由》な世の中になったのか?
その考察が行われています。
モーリス-スズキ氏の言う、
‟《成長するに任せよ》”な世界に、
あるいは
“《企業市場経済》”になっていて、
‟《市場の社会的深化》”が進んでいる
仕組み的な原因や根源を、
西欧近代が17、18世紀に発明した
《所有に関する法体系》と《法人》とにまで、
遡っています。
その事から、
モーリス-スズキ氏の叙述には、
つぎのような記述が出てきます。
‟〔経済学者の〕ヘルナンド・デ・ソトが
近代資本主義の基礎と位置づけた
簡明な財産法の制定に、
ベンサムは主導的提唱者の役割を果たした。”
(テッサ・モーリス-スズキ【著】/辛島理人【訳】
『自由を耐え忍ぶ』P.66)
※以下の引用文中での、下線・太字・色彩での強調は
引用者によるものです。
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‟ 《ネオ-ベンサム的世界》
自由貿易と市場における「見えざる手」の恩恵を強調した
アダム・スミスの理念が
21世紀初頭となって勝利した、とするのが
一般的な見解だろうか。
しかし、
ジェレミー・ベンサムが描いたビジョンと
不気味に類似した世界に我々は住んでいる、
とする方が より的を得ているのだろう。
ベンサムの再検証は、
今日の「不自由な自由」という矛盾の理解を
助ける手掛かりとなる。
これまで以上に、すべての人間の行動は
苦痛の回避と快楽の追求に基づく「効用」の合理的最大化、
というベンサムの考えから導かれた基本理論によって
今日の経済的決定は行なわれている。
効用を最大化することによって起こる
競争的な自由市場の絶えざる拡大は、
すべての人間に幸福をもたらすとされてきた。
しかし
以前にも増して今日は、
ベンサム理論の最大の矛盾点は
この自由という部分にある。
国家政策のあるものは
市場を自由にするために必要であろう。
(国家規模でも国際的規模でも)官僚制は、
人びとが
真の「効用」を知るための統計データや他の情報を提供することにより、
社会を「透明」にする。
政府の諸機関は、
市場の生成に必要な私有財産制度の維持・強化のために
法制化を行う
(実際、のちにヘルナンド・デ・ソトが
近代資本主義の基礎と位置づけた簡明な財産法の制定に、
ベンサムは主導的提唱者の役割を果たした)。”
(テッサ・モーリス-スズキ【著】/辛島理人【訳】
『自由を耐え忍ぶ』P.66-67)
――――――――――――――――――
以降では、
そのヘルナンド・デ・ソトについての議論です。
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‟ 〈第2章「暴走する市場」〉
ベルリンの壁の崩壊は、
全体主義に対する自由と民主主義の勝利だ
と広くとらえられてきた。
ある意味では、そうだろう。
しかしまた、
自由と民主主義における関係の根深い複合性を露呈した瞬間でもあった。
私有財産の大規模な没収や国営事業の巨大化を通し、
経済生活にまで「民主主義」を広げようとした試みとしての
東ヨーロッパのマルクス主義の経験は、
人間の自由に対し悲惨な結果をもたらした。
一方、勝利した自由主義イデオロギーは、
「民主主義」を政治の領域に閉じ込めつつ、
市場でのあくなき利潤の追求は、
経済的「自由」の権利であるとみなした。
自由にかかわる従来の自由主義的伝統は、
国家がなす強制や暴力に対する民衆の抵抗に、
長らくその基盤を提供してきた。
しかし
この自由主義的伝統では、
市場という別の強制から人々を保護する重要性を
認知できない。
とはいえ、
現在の世界では、
国家ではなく、
反省も際限もない拡大の論理によって
市場の力で動かされている。
もし、民主主義という概念が
市場の要素を完全に排除した「政治的」領域のみに
押し込められているとするなら、
〔引用者:《市場の社会的深化》や《民営化》など、市場の論理が、
社会の運営や決定権・社会の領域を浸食していくにつれて〕
民主主義は その意味を 縮小する。
不自由な自由という今日の矛盾を 理解するためには、
際限なき市場の社会的深化、ならびにそれが誘発した、
企業経済、国家、そして人間の自由の関係を通し、
この市場という侵略的力を検証する必要があるのではなかろうか。
この章では、
すでに信頼を失った計画経済型の社会というビジョンに
頼ることなく、
民主主義と市場、政治的自由と経済的自由の関係について再考する基盤を
提示したい。
《権利証書》
空港や高級ホテルにある書店には、
健康や財テク、ビジネス関係のベストセラー本とともに、
『資本の謎――なぜ資本主義は西洋で勝利し、他の地域で敗北したか
(the Mystery of Capital
Why Capitalism Triumphs in the West and Fails Everywhere Else)』(未邦訳)
が並んでいる。
著書であるヘルナンド・デ・ソトは、
偶然にも有名なスペイン人征服者と同名のペルーの経済学者であり、
失墜した権力者フジモリ元大統領の首席顧問を務めたこともあった。
現在〔2004年現在〕では、
「自由と民主主義研究所(Institute of Libery Democracy)」
というシンクタンクの創設者兼代表である。
デ・ソトのこの本は、
サッチャー元英国首相やフランシス・フクヤマ、
元国連事務総長のペレス・デ・クレヤルといった人たちによって、
知の金字塔と称賛され、
空港や高級ホテルの書店に置かれて売られている。
ちょうど空港や高級ホテルにある書店に置かれた本が、
ダイエットや結婚不和、あるいは不安といった主題に
即効性をもつ解答を与えてくれるように、
同書は、
世界の貧困問題に単純で包括的な解決策を提唱するのである。
欧米資本主義の成功の秘訣は、
農業生産の上昇でも
初期近代の秩序における階級構造でも、
また大航海時代以降の富の蓄積でもなく、
所有に関する西欧の法体系だ
とデ・ソトは主張した。
デ・ソトによれば、
所有は
「それ自体は財産ではなく、
それらの財産が
どのように保持され、あるいは使用・交換されるべきか という
人々の間の合意である」(164頁)
物的財産を
資本、
すなわち ある場所から他所に移動できうる抽象的で可動なものに
転化させるためには、「転換過程」が必要である。
欧米の勝利は、
所有にかかわる普遍性を有した公的な法体系を創出し、
そして
「資本の生成を可能にする交換過程」を発明した点にある
とデ・ソトは強調した。
17、18世紀のヨーロッパや独立前後のアメリカの発展を跡付けることにより、
デ・ソトは、
法律家が
いかに土地やその他の財産の所有に関する記録、投機の方法を標準化してきたかを示した。
このシステムの魔術は、
平原・木・家・納屋といった
ほとんど無限の様式を持つ不動産や物的財産を、
交換・貨幣・抵当化に 容易に可能な財として、
簡単で抽象的な形式に表現したところにある。
世界の貧困化の多くは、
旧共産主義諸国と同じく、
簡易化され信頼しうる所有システムが 整備されていない。
その一方で、
所有権は
伝統的な慣習や調停的裁定、さらには官僚主義的慣例により
決定されている。
例えば、エジプトでは、
土地の購入にあたって
14年もかかる77もの公的手続きが必要であり、
ハイチでは
19年を要する176もの手順が求められる、
とソトは指摘した。
このことは、
これらの社会の潜在的富が
機能もせず活用もなされていないことを意味する。
人々は、
土地や建物の居住権、占有権を主張できず、
いわば超法規的状況に生きなければならない。
このように登録もされず法の埒外にある資産を、
デ・ソトは「死んだ資本」と呼んだ。
これらには適切な評価ができないし、
また国富として計算されえない。
したがって
新たな富の生成に寄与することもできない。
「カイロの郊外では、
最貧の人々は、
古い墓地のような地域に住む。
しかしそもそもカイロは死者の都市であり、
充分に活用されることのない資産、
つまり死んだ資本の都市なのだ。
資本に生命を与える制度は ここに存在していない」(15頁)。
デ・ソトによれば、
第三世界における貧困の解決策は、それゆえ簡単である。
所有に関する効果的な制度をつくればいい。
エジプトやカザフスタンで見られる
多くの伝統的で超法規的所有権の制度は、
「一般性を持つ単一の法体系に
再編されねばならない」(170頁)
いったん標準化された所有に関する法が制定され、
所有権が登記されれば、
「死んだ資本」は蘇生する。
法的所有者が明確であれば、
比較的貧しい人々でさえ、
私的ビジネスベンチャーとして
資本を集められるようになり、
そのことを通して、
躍動的な世界経済の金融市場と繋がる。
すなわち、
自分をグローバル化することが可能となる、
とデ・ソトは主張した。
おまけに、
所有にかかわる法整備は
単に経済成長の鍵となるだけではないらしい。
デ・ソトは
それ以外の幾多の社会問題の解決策としてもとらえた。
例えば、
所有にかかわる法整備が正しく構築できれば
効率的な官僚機構やよりよい社会秩序をもたらす。
つまり、
「公式的で、日々更新される所有記録は、
(中略)
市民生活の安寧に必要な情報を警察に提供するだろう」(207頁)。
とりわけ、
財産にかかわる法的所有権の整備は
意識革命の触媒となるそうである。
「そういった意識革命は、
所有する資産に対する認識を改め、
それを使用して余剰価値の生成を可能にする」(231頁)。
所有法規の発生についての歴史的考察と
今日の貧困問題の双方から、
デ・ソトの主張には
いくつかの明快な反論が可能だ。
入植時代の北米大陸での出来事が
暴力なしではおこりえなかったことを、軽視した、
とデ・ソト自身も認めている。
まったくその通りであって、
近代財産法の西方拡大というサクセスストーリーでは、
文書として土地所有権を記録しないものの、
十分に確立された使用制度を構築していたアメリカの先住民の土地が
収奪された という事実は ほとんど無視される。
それゆえ
今日の多くの貧困国に対する近代財産法のデ・ソト流の適用は、
また同じプロセスの繰り返しにならざるを得ない。
エジプトやペルーのような国々での無登記財産に関する習慣を
成文化することによって得られる利益について、
デ・ソトの楽観的な見通しは、
ほとんどすべてのこれらの社会において
その所有は
異なった社会階層やエスニックな集団間の
常に政治的でかつ絶えない競合の帰結である、という重大な点を
曖昧化する。
もちろんある場所で、
貧困層が土地や家屋の所有登記という単純な作業によって
恩恵を受けるケースはあるだろう。
しかし、
スラム街の貧しい人々が
不動産の権利証書を入手すればベンチャー企業家になれる
という想定は笑止である。
デ・ソトの繁栄のためのシナリオの別の筋立ては
次の通りである。
法的所有の整備により所有を認められた不動産を
「余剰価値を生み出しうる」と再想像した企業家たちが、
ビジネスを起こす目的に
その不動産を担保として
多国籍金融機関から融資を引き出す。
しかし、
大企業との競合に敗れ、その事業は失敗する。
金融機関は担保を差し押さえ、
貧者に戻った起業家は、同一の場所に
今度は「違法」に居住する。
すなわち、
法的所有権の整備によって
デ・ソトが
「よりよい社会秩序をもたらす」と想定したことは、
実は
「伝統」として認知されていた住居の権利を否定し、
それを非合法居住者という犯罪へと転換させる。
貧しい者たちは
貧しい者に戻るだけでなく、
犯罪者ともされてしまうのである。”
(テッサ・モーリス-スズキ【著】/辛島理人【訳】
『自由を耐え忍ぶ』2004年、岩波書店、P.30-35)
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