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前回記事では、近代国家の運営上の必要から、
出生や死亡、また婚姻関係や親族関係など
国民の個々の身分関係の変動を
詳細に把握する機能が、
《戸籍》に要請されたことを見ました。
《国籍》が、
かかる国の所属員/構成員であることの資格を示すものである一方で、
《戸籍》は、
各個人の一生における家族的身分関係を明らかにするために記録・記載される公文書であるのですが、
じつは、
「自分が日本国民であること」を証明できる文書は、
結局のところ、「戸籍」であり、
「《戸籍》は日本国籍の証明書となっている」のだ、
と遠藤正敬氏は言います。
その著書『戸籍と国政の近現代史』の冒頭部で、
導入されているのですが、
自分がパスポートを申請し、発給されるにも、
その必要書類として、
「戸籍謄本」(戸籍の記載の全部を写し取ったもの)や
「戸籍抄本」(戸籍の記載の内で、抄本の発行を求めた者が
指定した部分だけを抜き写したもの)の提出が、
義務づけられ、求められてくる以上は、
《戸籍》と《国籍》が“重なってくる”のでありますが、
《戸籍》制度は、
「国家政府が扱う道具の一つ」であるが故に、
〈明治以来の近代日本国家政府〉が目指した、
(その都度の歴史状況における)
「日本国家の方針や方向性」と
「その試行錯誤の結果、行きついた形」というものが、《戸籍》制度には反映され、
また国家権力の装置の一つとして機能してきた、
のでありました。
個人の《戸籍》というものが、
個人の人生における“節目”や“要所”で“問われ、
否が応でも意識させられるもの”であるが故に、
自分の人生の節目や要所要所で問われる、
《自分の家族的身分関係について記載された
戸籍の存在》を通じて、
〈日本国民の一人ひとり〉のあたまには、
《家制度》の概念および思想や、
また天皇を親とし頂点にもつ《国体》概念や思想が、
根づく「装置」として(も)機能してきたようです
――明治以降の日本国家における《戸籍》制度は、
日本帝国の臣民としての〈日本国民〉に、
《(明治国家の文脈での)家制度》思想と
《(天皇を頂点にたつ親として、
日本国家を一つの家とする)国体》思想とを、
根づかせた「装置」として機能した他方で、
《戸籍》は、
「親族との身分的関係」
――誰を親や祖父母など親類に持ち、
誰と結婚したか――を記録・記載している事から、
「自分と脈絡する親族関係のツリー(樹木)状」の
個人情報の芋づる的関連構造をしているが故に、
〈行政側〉の立場から見れば、
かかる個人と脈絡のある「親族関係の検索的機能」も、有していると言います。
たとえば、生活保護受給に関して、
できるだけ生活保護受給を避けるべく、
音信不通の親続や遠い親類に向けて、
〈役所側〉が「扶養照会」文書が送られるのにも、
この「親族関係の検索可能構造」が
効いているのではないでしょうか――
さて今回は、
〈近代国家〉が
〈個人〉の「精神分野に介入する」のに、
《戸籍》を介してきた側面の片鱗を、
遠藤正敬『戸籍と国籍の近現代史』に覗いて
見てみたいと思います。
“戸籍は
古代国家による人民動員と治安維持のための身分登録制度として
発祥したものであり、
元来は倫理的規範と無関係な存在であった。
だが、近代国家は国民に対して、
社会資本の整備や生活手段の充足といった物質的分野のみならず、
倫理・教育・宗教・風俗といった精神的分野への介入を
当然とするに至った。
フランスの政治学者ド・ジュヴネルが、
権力の成長を「自然史」として描いた『権力論』(1945年)において、
近代社会において目を見張るべきは
個人の活動を条件づけ、私的生活を形式づける、
道徳的および物質的な支配を真に結合させた壮大な国家装置である
と述べた通りである。
つまり、国家権力は
その意図する方向に個人を束ねていくための道徳観念を醸成する装置を
用意しているのである。
近代日本国家では戸籍法が、
「国民」や「家族」をめぐるある種の道徳というべきものを生み出した。
その積年の効果として、
「日本人」であるならば必ず戸籍をもっているとか、
どこの「籍」にも入っていないのは普通ではない
というような、戸籍をめぐる集合意識ができあがっている。
こうした日本人の法的・文化的な意識について、
かつて法学者の山主政幸は「戸籍意識」と呼んだ。
戸籍に管理されることが「日本人」としての地位を保障し、
ひいては
日本社会の秩序であるという意識が根付いていることは
否定できないであろう。
このような「戸籍意識」は一般社会、
とりわけ日常の言葉において随所に現れている。
例えば、
婚姻届を出したとき、一般に「入籍」と表現されることが多い。
ことに芸能人の結婚報道でも、
「結婚した」もしくは「婚姻届を提出した」と表現すればよいところを、
どういうわけか「入籍した」(当人が「入籍」という言葉を使っていないにもかかわらず)と報じられるのが日常茶飯事になっている。
(引用者中略)
・・・・「戸籍意識」は、男性上位の思想と一体である。
婚姻という男女の対等な結合であるはずのものが、
明治民法の家制度では夫の家に入るのが原則であった。
家制度のなくなった戦後においても、
実際には妻が夫の戸籍に入るのが一般的であった。
そこに至るまでの当事者のさまざまな事情や思惑をよそに、
世間の眼には、夫が妻を「めとる」「もらう」のであり、
親が娘を夫の家に「やる」ものだと映る。
また、妻が夫を「主人」と呼び、家長を他人が「旦那様」と呼ぶのは、
外国人の眼には奇異に映るであろう。
このような家族観が今なお息づいているのは、
家制度の因習がいかに根強いものかを物語ている。
・・・・家制度においては家族関係の本質が「主従関係」にあり、
婚姻や養子縁組といった夫婦・親子関係の形成は
家を存続するための「手段」とされ、
当事者の自由意思は二の次であった(「嫁」という字も「家につく女」と書く)。
家族が同一の戸籍のなかに収まることが
「美俗」として崇められることで、
戸籍に離婚や婚外子の記載があると「戸籍が汚れる」と表現するように、
戸籍を神聖視する独特な倫理的規範が生成されてきた。
しかしながら、戸籍に表示される「家族」というのは、
現実の生活共同体ではなく
戸籍の編製単位として規格化された「家族」である。
家制度においては、戸主との続柄にある者が
広範囲(三代にわたって)に一つの戸籍に記載されたので、
戸籍だけをみると日本には
あたかも祖父母から孫に至る“大家族”が一般的であるかのような外観を呈していた。
このような「三代戸籍」は現行戸籍法では廃止されている。
だが、例えば、
もう何年も会っていない者同士でも、
「家族」として同一の戸籍に記載されていることがある。
(中略)
こうした例を考えても、
戸籍に表示される「家族」と現実の生活共同体との齟齬が鮮明となろう。
戸籍の抱えるこうした現実との齟齬を自覚したときが、
多くの人々にとって「空気」のような戸籍の存在を
窮屈な「気圧」として感じる契機となるものかもしれない。”
(P.15-17)
“ 《血統とは何なのか?》
近代世界において勃興した主権国家は、
「ネーション・ステート(国民国家)」という概念を骨組みとしてきた。
「国民」(nation)という概念は、政治社会において
人々を統合する紐帯として「同族意識」を根幹にもつものであり、
そこには
国家の構成員は同一の血統に由来するものである
という共通理解があった。
しかし、加藤節のいうように、近代国民国家は
「ネーション」と「エスニシティ」との実質的な分離を
克服しえない構造を本来的にもつものであった。
基本的に「ネーション」は
同一の国籍による包摂という一種の強制性を出発点とする概念であり、
共通の出自、言語、習俗、宗教、居住地などを基にして
生来的な同質性・一体性を形成する「エスニシティ」との間には、
おのずと個人のアイデンティティの強固性において
開きが生まれるからである。
これに関して引いておきたいのが、
政治学者の大山郁夫の「同類意識」論である。
大山によれば、
国家は
その内部に相反する利害を有する無数の個人、階級、団体といった
複合分子を包含しつつ、
「国家なる統一的単体としての面目及び勢力を維持する」一要因が
「同類意識」である。
この「同類意識」とは、
共通の血族関係のみによるものではなく、
共同の歴史的伝統や宗教的信念、そして思想・言語・風習によっても
醸成されうるものである。
日本国家における「同類意識」は
むしろ国民の「純血」を最大限に保持することで、
一体性を維持しようとする傾向がある。
日本の国籍政策が明治以来、
血統主義に固執し続けているところにそれは明らかである。
島国であり、
徳川幕藩体制では鎖国政策を200年以上維持したため、
欧米や中国などと比べれば
異民族との交流が活発ではなかった日本では、
あたかも同一の「血」のみが日本を支配しているかのような信仰が
社会の基底に腰を据えやすかった。
このようなひたすら「血統」に国民的一体性をとりもつ紐帯を
繁茂させてきたのが、
「日本人」との血縁関係によって
日本国民の保持を排他的に証明する戸籍ではないだろうか。
(引用者中略)
戸籍はその登録対象にかたくなに「血」の同一性を求めるようだ。
だが、そもそも戸籍に公示される「血統」とは
純粋に「日本人」を規定するものなのだろうか。
《本書の課題と構成》
戸籍は単なる身分登録にとどまらず、
明治以来、「日本人」を把握し、統制する装置として生き続けてきた。
これは、精神的・倫理的な意味にとどまらず、
国籍という公法的かつ国際的な身分を左右するものともなった。
つまり戸籍の問題は、
国家と個人ないし家族の間で緊張関係をたえずはらんだ権力関係として
とらえることが肝要である。
とりわけ、近代日本国家が「帝国」へと支配空間を拡張し、
異民族を「帝国臣民」として編入していく過程で、
生来の日本人と植民地出身者とで戸籍制度を区別したため、
植民地出身者は対外的には(国籍上は)「日本人」として統轄されたが、
対内的には(戸籍上は)生来の日本人と差別して管理された。
こうした帝国日本における「包摂」と「排除」という視角は、
小熊英二が『「日本人」の境界』(1988年)において提示し、
実証したものである。
(引用者中略)
・・・・戸籍とは、
近代日本国家における「家」を体現するものである。
日本の「家」が
法制度としてのみならず、
国家権力を支えるイデオローグや道徳となって
日本人を支配してきたという研究は数多い。
だが家は、「国民」の資格たる国籍の取得や喪失を
どのように規律するものであったのか。
「帝国」の空間のなかで
移民や植民といった概念が、
戸籍制度といかに結びついて操作されてきたかという視角である。
ここから、
日本の近代国家としての出立から戦後の帝国の解体を経て
現代に至る道程において、
戸籍がいかなる思想と機能をもって
「日本人」なるものを
観念と実態の両面において支配しようとしたのかを
歴史的に検討するところへ向かう。
その上で、
「日本人」とは何なのか、
「日本人」にとって戸籍のもつ意味は何かを問いなおす。
本書の構成は以下のとおりである。
第1章では、そもそも戸籍とはいかなる制度か、
何を証明するものなのかを概観する。
そこから、戸籍が個人の生活にどのような権力作用を及ぼし、
現代の「日本人」を拘束する秩序と化しているのかという問題性を
指摘したい。(引用者中略)
第2章では、
まず近代国家における国籍の意義を
近代の思想史的文脈をおさえつつ概観した上で、
明治から戦後に至るまでの日本の国籍法の歴史を振り返る。
ここでは、
「日本国籍」というものが
戸籍および家制度とどのような不可分の関係に置かれたのか、
そして日本の国籍概念の基軸をなす血統主義は
いかなる理由で政治権力の採用するところとなったのか
という問題に焦点を当てる。
第3章では、
近代日本国家において
戸籍が「日本人」を国民として統合していく歴史を検討する。
ここでは、
①近代日本の「国民」の創出において戸籍法の制定が
なぜ要請されたのか、
②戸籍に載る者が「日本人」であるという規範は
いつ生まれたのか、
③戸籍は家制度と結びつくことによって
いかに「日本人」の「血統」や「家族」をめぐる制度と倫理を
創出してきたのか、
また、そこでは
近代の個人主義思想との間でいかなる思想的対立がみられたのか、
④明治日本の領土が画定したときに、
北海道・沖縄といった新領土に戸籍法がどのように導入され、
そこに生きるアイヌや琉球人は
どのように「新日本人」として戸籍の秩序に組み込まれたのか、
これらの問題を検討するが、なかでも、
個人を拘束する家制度のメカニズムの解明に重点を置きたい。
第4章では、
日本の帝国統治における
戸籍と国籍をめぐる日本政府の政策や方針をたどり、
日本の対外膨張において、植民地の人々は
どのように「日本人」に編入され、
そして支配されたのかを、
満洲国をはじめ日本の侵出した中国領域までを含めた
帝国の空間的なつながりを軸にして検討したい。
とりわけ、
帝国日本における「日本人」「朝鮮人」「台湾人」といった概念が
はたして「民族」や「血統」を基準としたものであったか
という本質的問題を
日本の政治権力が展開した戸籍政策を通して明らかにしたい。
(引用者中略)
以上の考察によって、
戸籍という装置が対外的および対内的に
「日本人」なるものを創り出してきた歴史を通して、
「国民」「民族」「血統」とは
いかに政治権力によって操作されるものであるのかを
見つめなおすことで、
現代国家における共生社会を築いていく手がかりを探るのが
本書の意図するところである。”
(同書 P.21-26)
〈参考記事〉
○ 日本の「棄民&民草」的な国民統治の系譜の記事(26件)
(つづく)