子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -40ページ目

日華事変の後、日本軍(関東軍)と蒋介石軍との戦いは圧倒的に日本軍に優勢でしたが、日本の連合国に対する無条件降伏により、蒋介石国民党軍は棚ぼた勝利を勝ち取りました。

 

その棚ぼた勝利もつかの間、蒋介石国民党軍は毛沢東共産党軍(八路軍)と再び戦争状態となります。日本軍との戦争で、常に前線にて戦ってきた蒋介石国民党軍はかなり戦力を消耗していました。

 

それに対し毛沢東共産党軍(八路軍)は、ほとんど前線にて日本軍と対峙したことはなく、主に後方の補給路などに対して、便衣兵(民間人を装って、相手の油断のすきをついて武力攻撃をする軍人)としてゲリラ戦に終始していました。

 

また、国民党軍は抗日戦線においては米国から十分な軍事物資の援助を受けていたのですが、日本降伏後、米国から中国全権特使に任命されたマーシャル将軍は、米国からの軍事支援物資の実施を意図的に遅らせるなどして、米国からの援助が事実上なくなってしまいました。

 

その一方、共産党軍(八路軍)は、日本軍の武装解除により、ソ連軍が日本軍から奪った武器弾薬を横流しで受けとっていたので、国民党軍との戦力差は開いてしまいました。

さらに、中国残留日本人のうち、軍人や医師、看護師らがソ連軍により強制連行され、毛沢東共産党軍(八路軍)のために、軍事戦略や飛行機の操縦技術、医療など技術指導しました。

 

それまで、毛沢東共産党軍(八路軍)は、航空隊や戦車を持ったことがなく、全て日本軍の武装解除後、ソ連軍が日本軍(関東軍)から接収したものでした。

 

また、空軍を持ったことがないので、林弥一郎少佐以下の関東軍で第二航空隊第四錬成飛行部隊を送り込み、東北民主連軍航空学校を設立して航空部隊を養成しました。

 

また、共産党軍(八路軍)は、正規の砲兵隊がなかったので、日向勝を筆頭とした日本人教官の元で、砲兵学校を設立して養成しました。

医師や衛生兵や看護師など、戦争に必要な技術を持つ人は日本に帰国させず、国共内戦で勝利した後も長期にわたって徴用しました。

 

その結果、毛沢東共産党軍(八路軍)は航空隊や砲兵隊、医療班をもつ近代的軍隊となったので、蒋介石国民党軍に勝利することができ、中華人民共和国を建国することができました。

 

正規軍だった蒋介石国民党軍は、国共合作以前の時、共産匪賊という非合法のゲリラ部隊にすぎなかった毛沢東共産党軍(八路軍)を圧倒的に優位に戦いを進めていました。

 

しかし、蒋介石国民党軍は、常に前線で日本軍と戦ったため戦力を消耗し、一方、毛沢東共産党軍(八路軍)は、ソ連に連行された日本軍や医師からの技術指導と、日本軍(関東軍)から略奪した武器弾薬などのおかげで、正規軍である蒋介石国民党軍に勝利することができたのです。

 

これは、コミンテルンのシナリオ(資本主義国同士を戦わせ、消耗させ、敗戦後に共産革命を行う)に忠実に従った結果、勝ち取った勝利となります。

 

中国共産党は、このような経緯で建国することができたわけですが、いつの間にか、「抗日戦に勝利して建国した」と、全世界に宣伝しています。

 

このように宣伝(プロパガンダ)することで、戦後賠償の代わりとして、日本からのODAや円借款を受け取る口実にしているのでしょうか?

 

 

 

 

 

昭和13年(1938年)11月と12月に近衛内閣は「東亜新秩序」という考えを発表しました。

 

この東亜新秩序とは、抗日政策をとる国民党政府を叩き、日本と満州と中華民国の3国により共産国から防衛して、新しいブロック経済を作るという構想でした。

 

この構想について、尾崎秀実は「中央公論」昭和14年1月号に投稿しています。

これからの戦いの究極の目的を「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設にあり」と規定し、そのための戦いを「聖戦」と言い、

 

「一身を投げ打って国家の犠牲となった人々は絶対に何らかの代償を要求して尊い血を流したのではないと確信する。平和をもたらすために東亜新秩序の人柱となることは、この人々の望むところであるに違いない。」と言い切っています。

 

蒋介石国民党軍と戦いを継続する大義名分とするために、近衛内閣のブレーン達は「東亜新秩序」なる構想を作り、言論界や世論をリードしていきました。

 

一体、この東亜新秩序なる理想を、真面目に信じて戦って死んでいった人たちは、どれくらいいたのでしょうか?

 

実はそれは嘘で、本当の目的はコミンテルンのために共産革命を起こすための戦争だったんだと知ったら、あの世でどう思うでしょうか?

 

 

 

 

 

実は、近衛首相の「国民党政府を相手にせず」という声明後も、和平工作が水面下で行われました。

 

玄洋社の頭山満などと一緒に孫文の中国革命に協力して、蒋介石国民党首脳部と親しい関係にあった茅野(萱野)長知氏は、日本と支那の和平工作をします。

 

昭和13年3月に上海のカセイホテルにて国民政府側要人Aと松本蔵次氏が会見。そこで要人Aは「このままで行けば日本と支那は共倒れになる。アジア全体の不幸になる。なんとかして和平の道を講じなければならない」と語りました。

 

その後、二度目の会見で、茅野(萱野)長知氏の和平案を提出します。

1、日華双方とも即時停戦すること

2、日本は中国の主権を尊重し、撤兵を声明すること

3、日本側の要求する満蒙問題の解決については、原則的に

  これを承認するが、具体的には日華両国で協議すること。

 

国民政府側要人Aは、茅野長知氏の手紙を携えて、漢口にいる国民党の行政院長(首相)である孔祥煕にこの和平案を提出し、茅野(萱野)長知氏あての、孔祥煕からの返事を携えて上海に戻ってきました。

 

茅野(萱野)長知氏は、その手紙を日本政府と軍部と協議するために上海から東京に向かいました。

板垣陸軍大臣と近衛首相と協議して、両者ともにこの和平案を承認したので、再び上海に向かいました。

 

そこで、国民党政府の要人Aと会見する予定が、警備の関係で数日遅れることになり、その間、茅野(萱野)長知氏は、松本重治氏(同盟通信社上海支社長)にこの和平交渉の経過について話してしまいました。

 

その後、香港にて、国民党政府考試院(人事院)長である居正夫人が、行政院長(首相)である孔祥煕の代理としてきて、日本と支那(国民党政府)との和平交渉の事務レベルでの下準備はまとまりました。

 

1、国民党政府側は、首席孔祥煕行政院長、副主席居正、

  他要人5名。

1、日本側は、近衛首相又は宇垣外務大臣を首席とし、

  陸軍、海軍代表を加えて構成する。

1、場所は香港湾外の日本側軍艦を用いて洋上会見とする。

1、日華両国代表によって行う取り決め内容は、日華双方とも、

  即時停船命令を発することに署名すること。

1、停戦後の条件は、両国間で具体的に協議すること。

 

この時、居正夫人は茅野(萱野)長知氏に次のように語りました。

「戦争をやめてしまえばあとはどうにでもなります。それに日本側からすれば、中国政府の代表五人を日本の軍艦に乗せて談判するんじゃありませんか?

捕虜にしたのも同然でしょう。これで、日本側の面目が立つでしょう。あとはなんとかなります。」と。

 

しかし、ここまで和平交渉がまとまったのもつかの間、茅野長知氏と松本蔵次氏が東京に戻り、板垣陸軍大臣と会って報告すると、状況が一変していました。

 

板垣陸軍大臣は「中国側に全く戦意なし、このままで押せば、国民政府は無条件で降伏する。日本側から停戦協定の申し出をする必要は無くなった」というのです。

 

茅野(萱野)長知氏が東京に戻る前に、松本重治と国民党政府の高宗武(こう・そうぶ)が東京に来て、板垣陸軍大臣や近衛首相に、先ほどのような情報を伝えていたのです。

 

板垣陸軍大臣はその情報を信用し、和平の方針を改めます。そして、近衛首相もそれを受けて、和平交渉は白紙となってしまいました。

 

その後、茅野(萱野)長知氏は上海の国民党政府の要人Aに会って、説明すると、上海から電報で漢口にある国民党政府に確認をとりました。すると、その高宗武(こう・そうぶ)が「日本側に戦意なし、中国が抗日戦を継続すれば、日本側は無条件で停戦、撤兵する」という秘密電報が入っていたということです。

高宗武(こう・そうぶ)は、全く日本と真逆の情報を送っていたということになります。

 

板垣陸軍大臣は、ついこの間まで和平に同意していたのに、一体、なぜそんなに簡単に、信用してしまったのでしょうか?

 

松本重治は尾崎秀実と同じ近衛内閣のブレーンでして、朝飯会でも一緒でした。尾崎秀実から影響も受けていたでしょうし、陸軍軍人へ戦争を継続させるための、ツボをついた交渉の仕方も心得ていたのかもしれません。

 

この高宗武と松本重治の行動により、日本と国民党との和平交渉は永遠に実現することがなくなり、その後の日本の敗戦への道を決定づける結果となりました。

 

この時の宇垣一成外務大臣は、この和平工作に期待をかけていました。しかし、陸軍から中国外交の外務省外しの工作を受け、外務大臣を辞任してしまいました。

 

もし、和平交渉が成立していたら、中国大陸には、共産党国家は成立していなかったかもしれません。

 

また、日本は南仏印進駐(フランス領インドシナへの進駐)する必要もなかったでしょう。

なぜなら、南仏印進駐は、蒋介石軍へのイギリス、アメリカからの軍事物資援助ルートを抑えることがその目的だったからです。

 

そして、アメリカ、イギリスと戦争することもなかったでしょう。

なぜなら、日米交渉での最大の懸念材料は、日本陸軍による南仏印進駐だったからです。

 

そう考えると、この成立一歩手前まで行っていた、蒋介石国民党との和平交渉を決裂させた人物である、高宗武と松本重治、そして、彼らに大きな影響を与えていたであろう尾崎秀実は、日本の運命を大きく狂わせてしまいました。

 

これも、コミンテルンの描いたシナリオ通りに事が運びました。

 

 

 

 

 

あなたは日本が大東亜戦争で負けた原因は、陸軍が暴走したからだと思っていますか?

 

実は、大東亜戦争のシナリオを裏で描いていたのは、コミンテルンのスパイである尾崎秀実だったのです。

 

コミンテルンとは、1919年にソ連(ロシア)で結成された共産主義政党による国際組織であり、世界で共産革命を起こすということを目的にしていました。

 

世界に共産革命を起こすにあたり、非常に邪魔な存在であったのは当時の日本帝国でした。

 

そこで、コミンテルンの基本方針として、資本主義国家(帝国主義国家)同士で戦わせて、国力を消耗させ、敗戦後の国民が、精神的にも経済的にも大打撃を受けている時に、共産革命を起こすという二段階シナリオを描いていました。

 

その方針に沿って、尾崎秀実は日本で活動します。

 

日華事変から蒋介石国民党軍との戦いを始めますが、途中何度か和平工作が実現しかかりました。その瀬戸際で、尾崎らのグループが妨害工作をし、和平が実現せず、最後の最後まで中国大陸での泥沼の戦争を続けることになります。

 

抗日戦線を続ける蒋介石国民党軍を倒し、日本と満州国と、新たに近衛内閣が作った親日政権である、汪兆銘中華民国がブロック経済を作り、東亜に新しい秩序を作るという、「東亜新秩序」という理論を近衛内閣が発表して、日本が中国大陸で戦う大義名分にしました。

 

昭和14年1月号の「中央公論」で尾崎秀実は次のように述べています。
これからの戦いの究極の目的を「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設にあり」と規定し、そのための戦いを「聖戦」と言い、

 

「聖戦の意味について三思する必要がある。……一身を投げ打って国家の犠牲となった人々は、絶対に何らかの代償を要求して尊い血を流したのではないと確信する。東亜に最終的な平和をもたらすべき東亜新秩序の人柱となることは、この人々の望むところであるに違いない。」と。

 

また、三国同盟を結んでいたドイツがソ連に参戦した際、日本もソ連に参戦すべきという意見が政府内に出ましたが、その際、尾崎秀実は「中央公論」などに「ソ連に参戦しても日本にとって利益はない」というような投稿し、言論界をリードして世論を形成していきました。

 

そして、南方に進出すべきという意見を「中央公論」「改造」「朝日新聞」などに投稿し、世論を形成しました。

その結果、日本陸軍は、それまで北方に集中配備していた軍隊を、南方に大量に移動しました。

 

南方への進出理由は、蒋介石国民党軍を後方から援助していた、米国とイギリスの補給路を断つという事でした。

 

しかし、南方進出すれば、米国が日本に対して経済封鎖をするのは明らかでしたし、その結果、米国と戦争することになることも十分に予想されていたことでした。

なぜ、仮想敵国であるソ連と戦うことをせずに、米国と戦うリスクを選んだのでしょうか?

 

ここでも、尾崎秀実達が「新しい世界秩序を作るには血を流さなくてはならない」というような意見を、言論界でリードして世論を形成していき、陸軍もそれに沿うような形で、誘導していったのです。

 

広大な中国大陸で展開している軍隊を維持するだけでも大変なのに、それと同時に米国やイギリス、オランダなどと戦争をするとは、誰の目から見ても無謀な戦争でした。

尾崎秀実は「改造」昭和16年11月号で、「大戦を最後まで戦い抜くために」と題して次のように述べています。

 

「国民を率いて第二次世界大戦を戦い抜け」また、「勝ち抜ける」という楽観視もしていますが、初めから負けを意識させてしまっては国威高揚になりませんので、このように表現していたのでしょう。

 

「最終戦を戦い抜くために国民を領導することこそ、政治家の任務である」とまでいっています。

 

「最後の最後までアメリカ、イギリスと戦い抜け」と、「そのように国民をリードすることが政治家の務めである」、とあくまでもコミンテルンのスパイというのを表に出さずに、うまく戦意高揚させながら、コミンテルンのシナリオに従うように世論をリードしていきました。

 

尾崎は、論文を投稿するだけではなく、近衛内閣のブレーングループの一員という立場を利用して、大きな影響力を発揮することができました。

 

特に、日本陸軍は青年将校を中心とした革命思想を持った人たちがたくさんいました。

日本陸軍は、北一輝が書いた「日本改造法案大綱」をバイブルとして、515事件や226事件など、クーデターを繰り返していましたが、彼らの革命思想と、マルクスレーニン主義の共産革命とは、天皇中心とした国体を守るという点以外は、ほぼ共通していました。

 

尾崎秀実は、日本に共産革命を起こすということは全く表面に出しませんでした。なぜなら、そんなことを公にすると、憲兵隊や特高に捕まってしまうからです。

 

しかし、共産革命と共通項の多い、陸軍内部に浸透している革命思想をうまく刺激して、陸軍を暴走させていったのです。

 

尾崎秀実は、近衛内閣の政策研究団体「昭和研究会」や、毎週水曜朝8時からの政策勉強会「朝飯会」のグループの中に入り、様々な活動を行いました。そこで知り得た最高機密情報を、尾崎の上司であるゾルゲに報告し、モスクワに流していました。

 

尾崎の活動目的は、ソ連を日本の攻撃から守るということと、日本の機密情報をモスクワに流すということであると、昭和16年10月15日、尾崎が特高警察に検挙されたのちの取り調べで述べました。

 

ゾルゲは、何度も尾崎に日本陸軍がソ連に侵攻する様子はないか、神経質がくらい聞いていました。

 

ソ連にとって、ドイツと日本の両面から侵攻されるのをとても恐れていたのです。

日本陸軍が南方に移動するという報告を尾崎から受けて、モスクワに「帰国しても良いか?」と打電しました。

 

日本が南方に侵攻するということは米国と戦争となることでしたので、コミンテルンのシナリオ通り、資本主義国(帝国主義国)同士で戦わせて、消耗させ、敗戦後の疲弊した時に共産革命を起こすという戦略に、日本をはめることができたので、ゾルゲの役目は終わったということだったのです。

 

尾崎とゾルゲは巣鴨プリズンに拘留されましたが、とても和やかにゾルゲと廊下ですれ違ったりしていた、と同じ時期に抑留されていた三田村武夫衆議院議員が語っていました。

 

昭和16年12月8日に海軍は真珠湾攻撃を行い、陸軍は南仏印に進出していきました。

全て、尾崎秀実のシナリオ通りの展開になっていったので、達成感を感じていたのでしょう。

昭和19年11月7日、ロシア革命記念日に合わせて、ゾルゲと尾崎は共に死刑が執行されました。

 

日本はその後、ソ連を仲介とした和平交渉を持つ方針を取りますが、昭和20年8月8日、ソ連軍が満州や樺太に侵攻。日本が和平交渉の仲介の望みを託したソ連は、はじめから、日本に侵攻するタイミングを計っていたのです。

 

昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受託しました。

 

見事なまでに、コミンテルンの陰謀にはめられた日本陸軍。

そしてその陸軍の暴走を阻止することができなかっった、日本政府や明治憲法。

 

日本が大東亜戦争で敗戦してしまった原因は、このようなことだと思います。

 

そして、敗戦後70年経った今でも、そのシナリオ(敗戦後の日本に共産革命を起こす)を実現するために活動している人たちがいます。

 

それは日本共○党や日○組という、明らかに「私は赤です」と公にしている、わかりやすい人たちではありません。

 

尾崎秀実は近衛政権の中枢の中で活動していました。しかも、尾崎が「赤」ということを知っている人は、妻も含めて誰もいなかったのです。

 

 

 

 

 

あなたの体の遺伝子の数はどれくらいだと思いますか?

 

ネズミの遺伝子は2万3千個、ミジンコの遺伝子は3万1千個です。

人間は万物の霊長と言われていますので、ネズミやミジンコに比べれば遥かに多い遺伝子を持っていると思われるでしょう。

 

でも実は、あなたの体の遺伝子はミジンコの数より少ないのです。

その数、2万1千個です。

 

ではどうやって、ミジンコよりも少ない遺伝子で、万物の霊長と言われる人間の体を維持しているのでしょうか?

 

それは、あなたの体に住んでいる微生物さんたちのおかげです。

あなたの体には、100兆個もの微生物さんが住んでおり

(共生)、その微生物さんたちの遺伝子は440万個になります。

 

あなたの体の遺伝子は2万1千個ですので、微生物さんの約0、5%になります。

 

実は、あなたは、微生物さんたちによって生かされているのです。

 

あなたの食べた食物は、胃袋で酵素によって消化され、次に全長7メートルの小腸に運ばれます。そこで小腸や胃や膵臓から送り込まれた酵素により、食物の大きな分子は、小さく分解され消化され、腸壁を通って血管に入り、全身に運ばれます。

 

タンパク質はアミノ酸やペプチドに、炭水化物はブドウ糖や果糖に、脂肪はグリセロールや脂肪酸に、といった具合に細かく分解されていきます。

 

次に、大腸に運ばれ、そこに共生している微生物さんたちが食べます。微生物さん自身が持っている酵素により、分解して食べます。そして、その残りを腸壁から吸収されて血液を通して全身に運ばれます。

 

つまり、あなたが口に入れた食物は、あなたの体にある遺伝子によって作られた消化酵素の働きにより、一部は小腸で消化吸収され、次に、あなたの大腸に住んでいる微生物さんたちが作った消化酵素により消化され、それを微生物さんたちが食べ、残りの大部分を大腸から吸収されるという仕組みになっています。

 

ほとんどが、あなたが飼っている微生物さんのおかげで、消化吸収できているのです。

 

ダイエットが流行っています。

色々なダイエット方法が考案されて、流行していきます。

食事の量を減らして(カロリー制限)、運動して(カロリー消費)、そのカロリー差を限りなく減らすことで、ダイエットができるという考え方です。

 

しかし、痩せている人でも、太っている人より多くの量を食べる人はよく見かけます。

痩せの大食いというのは極端にしても、必ずしもカロリー制限して運動をたくさんしている人が痩せているというわけではありません。

 

私も結構な量を食べますし、ほとんど運動しませんが、体型は痩せ気味です。

 

何が違うのでしょうか?

それは、太っている人と痩せている人の腸内に住んでいる微生物さんたちが違うからです。

 

ベルギーのルーバン・カトリック大学のパトリス・カニ氏は、アッカーマンシアという細菌が痩せている人の腸内に、たくさん生息していると発見しました。

 

このアッカーマンシアはオリゴ糖が大好物ですので、食物繊維と一緒にオリゴ糖を食べると、アッカーマンシアが大量に繁殖します。そして、今まで通り、高脂肪の食事を取り続けていても、コレステロール値が下がり体重増加の速度も軽減されます。

 

このアッカーマンシアは、腸壁を覆っている粘膜を厚くしてくれます。それにより、リポ多糖という血液に入ると脂肪組織に炎症を起こして、不健康に体重を増やすことを促進してしまうものが、血液に入るのを阻止してくれます。

 

また、体重増加に抗生物質が関係しています。

養鶏農家や畜産農家では、鶏や牛や豚に、抗生物質を当たり前のように餌と混ぜて与えてます。

 

なぜそのようなことをするかというと、感染症の予防もありますが、経済的な理由も大いにあります。

抗生物質を与えると、鶏やぶたや牛の生育が促進されるのです。

 

あなたは、抗生物質を与えられた肉を食べていることになりますが、抗生物質による体重増加は、人間でも当てはまります。

 

子供の頃、よく医者に行って抗生物質を処方されて飲んだ人は多いと思います。

 

子供にちょっと軽い中耳炎の症状が出て、耳鼻科に行くと、医者は抗生物質を処方します。鼻の炎症でも同じです。

耳と鼻は繋がっており、子供の頃はよく炎症を起こします。

 

この抗生物質を飲むと、どういう弊害があるかというと、腸内にある微生物さんたちが死滅します。

じゅうたん爆撃を食らったようなものです。

それまで、微生物さんたちが作ったコロニーやフローラ(お花畑)が、見るも無残に焼け野原となってしまいます。

 

それにより、病原菌を殺すことができるので、医者の立場としては、処方しての抗生物質を飲むように進めますが、その通りにすると、副作用に苦しむことになります。

 

一旦、焼け野原となったコロニーやフローラを元に戻そうとすると、大変な時間がかかってしまいます。

 

そして、肥満の原因にもなったり、アトピーや花粉症といった免疫系の異常によるアレルギーにもなりやすくなります。

 

私が子供の頃は、花粉症とかアトピーは聞いたことがありませんでしたが、今では当たり前ですし、その数も増えています。

また、自閉症といった精神障害にもこの抗生物質との関連が指摘されています。

 

あなたの腸内に住んでいる微生物さんたちは、あなたの健康だけでなく心にも大きな影響を与えているのです。

 

今、70歳以上の人たちに、花粉症やアトピーといったアレルギーを持っている人は見かけません。

 

なぜでしょうか?

 

よく、戦前の適度の不衛生な環境に育ったので、それがかえってよかった、というような説明がされます。

 

抗生物質が一般に普及しだしたのは、1944年 連合国がノルマンディ上陸作戦を行ったとき、負傷した兵隊に治療を施す為にペニシリンが使われだしたのが始まりです。

 

その後、ペニシリンを始め20週類の抗生物質が作られ、大量生産されるようになり、それまで不二の病と言われていた色々な伝染病を根絶することができました。

 

抗生物質は人類にとってとても大きな貢献をしてくれました。

 

しかし、それを救急医療目的ではなく、ちょっとしたことで頻繁に使ってしまうと、色々と弊害が生じてしまいます。

 

以前は、私も風邪をひくと必ず医師にいき、抗生物質を処方してもらいました。

風邪が、抗生物質を飲むことで治るわけではないのですが、風邪を引いたら抗生物質という、おきまりの行動パターンとなっていました。

 

今70歳以上の人たちは、子供の頃に抗生物質というものは存在していませんでした。

 

存在していても、それは本当に生きるか死ぬかという重症患者の緊急医療の時に使われたりしていたので、風邪やちょっとした耳や鼻の炎症程度のことで、抗生物質を処方されるということはありませんでした。

 

その結果、70歳以上の人の腸内に住んでいる微生物さんたちは、死滅することなく、コロニーやフローラ(お花畑)を育んで行くことができたのです。

 

子供の頃、特に生後18ヶ月以内で、抗生物質を服用してしまうと、腸内の微生物さんに重症な影響を与えてします。

 

お母さんのお腹にいる赤ちゃんは、まだ、腸内に微生物さんは存在していません。羊水の中にいる時は、外界の微生物からも、お母さんの微生物からも守られています。

いつから住み着くかというと、破水と同時に微生物さんが入ってきます。

お母さんが陣痛で苦しんでいる時、お母さんの産道を通っていく際に、膣の中にいる微生物さんを、お母さんからプレゼントされます。

 

膣の中には微生物さんがたくさん生息しています。

特にビフィズス菌がたくさんいます。その微生物さんが赤ちゃんの体に付着します。

 

次に産道から赤ちゃんが顔を出した時、今度は産道にいる微生物とは別の微生物のプレゼントを受け取ります。お母さんの糞便の中にいる微生物さんたちです。

 

陣痛時や出産時に、ほとんどの女性は排便をします。

それは子宮収縮ホルモンの影響や産道を通ってくる赤ちゃんの圧力のためですが、お母さんが次の陣痛のために一呼吸置いている時に、お母さんからの最高のプレゼントである、微生物さんを受け取り、人生の幸先のいいスタートを切ることになるのです。

 

赤ちゃんの腸内に住み着いた微生物さんはラクトバチルスという乳酸菌になります。この微生物さんはミルクをヨーグルトに変えたり、微生物さん自身で抗生物質(バクテリオシン)を作り出します。

 

赤ちゃんに住み着いた微生物さんは数年かけて、赤ちゃんの腸内に生物多様性の生態系を作っていきます。

 

このとても大切な時期に、抗生物質を外部から入れてしまうと、とんでもないことになってしまいます。

未熟児に生まれた赤ちゃんが、抗生物質を服用することで、体重が増加するということはよくあります。

体重が増加したからといって、いいことばかりではありません。

 

せっかく、お母さんから最高のプレゼントをいただいた赤ちゃんの腸内では、ほとんど微生物さんが死滅してしまい、ミルクから十分な栄養を消化吸収できなくなったり、色々なアレルギー症状を起こしたり、自閉症などの精神疾患になってしまったりします。

 

昔は、自宅出産が当たり前でした。近所からお産婆さんを呼んで、自宅で産みました。病院出産はごく最近になってからです。また、人類の歴史からいっても、病院で出産するというのは、極めて珍しい行為になります。

 

しかし、現代では、自宅出産をするというと、周りから寄ってたかって、反対されてしまいます。危ない、危険、もし万が一のことがあったらどうする、とかいわれてしまいます。

 

私は、最初の子供が妊娠した時に自宅出産を希望しましたが、当時の奥さんから反対にあり、病院出産になりました。

 

なぜ、自宅出産を希望したかというと、まず陣痛促進剤の弊害、それから、せっかくお母さんからの最高のプレゼントである、膣と糞便に宿っていた微生物さんたちを、病院では「不潔」といって、綺麗さっぱり消毒して洗い流してしまうからです。

 

赤ちゃんが、これから長い人生、肉体的にも精神的にも健康に生きていく上でとても重要な微生物さんたちを、全て殺してしまうのです。

 

せっかくお母さんから頂いた最高のプレゼントである微生物さんたちを、せっかく幸先のいい人生をスタートできると思っていた矢先に、「不潔」といって、ゴミ箱に捨てられてしまうのです。

 

これでは、病原菌に弱い子供に育っていってしまうでしょう。

 

現代の産婦人科では、陣痛促進剤を入れられ、その後帝王切開というパターンが王道になっています。

 

昔は帝王切開というのはごく稀のケースでした。

よっぽどでない限り、自然分娩でした。

 

なぜ、帝王切開を進めるかというと、それは病院側の経済的な理由です。その方が儲かるからです。

 

病院では、様々な書類にサインを要求されます。

ほとんどの人は、内容をよく読まずにサインします。

 

そして、病院の言われるままに、帝王切開をせざるを得ない状況に持って行かれて、有無を言わさず、帝王切開という流れになります。

 

帝王切開がなぜ悪いかというと、お母さんの膣を通らないで出産してしまうからです。

 

するとどうなると思いますか?

 

お母さんからの最高のプレゼントである、微生物さんをもらいそびれてしまうのです。

 

これからの時代は、病院ではなく自宅出産に積極的に切り替えていく必要あります。

そうすれば、現代病と言われるものはかなり、軽減されていくことでしょう。



 

新嘗祭(にいなめさい)

これは、天照大神(あまてらすおおみかみ)が瓊瓊杵尊(ににぎのミコト)に授けた直会(なおらい)で、神代から続いている唯一の儀式です。

 

11月23日 午後6時から宮中三殿の一つ神殿の中の神嘉殿にて行われます。(夕の儀)

 

西南に天照大神(あまてらすおおみかみ)と諸神を招待する神座(席)があり、それと相対して天皇陛下の御座(席)があり、中央に寝座(神々が休まれる座)があります。

 

陛下が神々に対座して、自ら品々を竹の箸で小皿に盛り分けて、捧げます。

その後、ご拝礼して、御告文(おつげぶみ)を奉上(豊穣を奉感謝し皇室国家国民の繁栄を祈願されます)

 

次に、陛下は神々に御親供(ごしんく)されたものと全く同じ品々を、御対座して召し上がります。

 

これは、直会(なおらい)と言って、神霊が召し上がったものと同じものを頂く事により、神霊との結びつきを強くし、神霊の力を分けていただき、その加護を強くする行為となります。

 

この時が、陛下のお身体が栄られ、お力が増し、お徳が高められる神聖な時であります。

 

神穀を通じて皇祖、皇宗、八百萬神のお力をお身体に体せられる時であります。

 

午後11時から、夕の儀と全く同じ儀式が行われます。(暁の儀)

一夜、神嘉殿でお休みして頂いた賓客、天照大神(あまてらすおおみかみ)はじめ神々の方達に、新穀の朝食を接待申し上げるとともに、陛下もお召し上がります。

 

昭和22年5月、日本国憲法の施行とともに廃止された皇室祭祀令には、大祭と指定されており、また、11月23日は「新嘗祭」として国民の祝祭日とされていました。

 

現在も同日は祝祭日となっていますが、日本の歴史と伝統と全く関係のない、意味不明な内容となっています。

 

 

 

 

 

神嘗祭(かんなめさい)

10月17日に行われる大祭。

第11代の垂仁天皇(すいにんてんのう)の時から行われている。

それまで、天照大神(あまてらすおおみかみ)は皇居に鎮座しておりました。

 

第10代崇神天皇(すじんてんのう)が、百姓の流離や背叛などが起きた際、その原因が天照大神を同じ皇居に祀っているからだと考え、豊鍬入姫命(とよすきいりひめのミコト)に命じて、皇居に祀られていた天照大神を笠縫邑(かさぬいむら)に移して祀りました。

 

その後、天照大神(あまてらすおおみかみ)の神霊を込めた鏡(八咫鏡)を鎮魂する場所を探すため、垂仁天皇の第4皇女である倭姫命が全国各地を巡っていました。(元伊勢伝説)

 

そして、垂仁天皇25年(紀元前5年)(皇紀656年)に伊勢の地に鎮魂されました。この地は、現在の伊勢神宮の内宮(五十鈴の宮)となります。

 

現在の皇居の賢所には、伊勢神宮と同じく天照大神(あまてらすおおみかみ)の八咫鏡(やたのカガミ)が鎮座されています。

 

壇ノ浦の戦いで、源氏に敗れた平家は滅亡します。

その時、二位の尼(平時子)が、まだ満6歳の安徳天皇を抱いあげました。

安徳天皇は尼に問いかけました。

「尼、今からどこへ行くの?」

二位の尼は答えました。

「君は前世の修行により、天使様としてお生まれになられましたが、悪因縁に引っかかり、ご恩は尽きてしまわれました。

この世は辛く嘆かわしいところですから、極楽浄土へお連れいたします。」

それを聞いた安徳天皇は、小さな手を合わせて、東を向いて伊勢神宮を拝みました。

二位の尼は、そのまま安徳天皇を抱いて、海中に身を投じて自害をしました。

その際、八咫鏡(やたのカガミ)と八尺瓊勾玉(やさかにのマガタマ)と天叢雲剣(あめのむらくものツルギ)も一緒に壇ノ浦に沈めました。それを源義経が回収したものが、現在の皇居の賢所に安置されていると言われています。

 

神嘗祭は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が初めて鎮座された、伊勢神宮の起源となった大祭中の大祭です。

 

天皇陛下は、神嘗祭に先立ち神嘉殿にて伊勢神宮を拝礼され、

午前10時、天皇陛下が、宮中三殿の賢所で初穂を天照大神に奉納、拝礼し御告文を奉上します。そして、産業の振興と国家の繁栄を祈願されます。

 

伊勢神宮へは、天皇陛下が作られた稲穂を根のついたまま、勅使が持っていきます。

 

昭和22年5月、日本国憲法の施行に伴い廃止された、宮中祭祀令では大祭の指定であり、また、10月17日は「神嘗祭」という国民の祝祭日でした。

 

昭和天皇のお歌(昭和31年)

「我が庭の 初穂ささげて来む年の 田の実りいのりつ 五十鈴の宮に」

 

 

 

 

 

宮廷の祭儀は年間20回以上行われています。

天皇陛下にとって最も重要で大きな仕事となります。

年末年始の大きな大祭としては、

 

12月31日 大祓の儀(おおはらい)

午後3時 宮中三殿の神殿の中の神嘉殿(しんかでん)の前庭にて、大祓詞(おおはらえのことば)をとなえ、国家国民が犯してしまった罪穢れを祓い清めたまえ、と浄化の祈願をしていただきます。

 

室町時代の応仁の乱以降行われてなかったのですが、明治天皇が復活させて以降、毎年行われています。参列される皇室の方は男性に限っていましたが、平成26年から男性皇族が少なくなったという理由で、女性皇族の方も参列できるようになりました。

 

宮中三殿のすぐ近くに体を清める建物があり、そこで皇族の方は清めてから、宮中三殿に入ります。

 

1月1日 四方拝(しほうはい)

午前5時30分 宮中三殿の中の神嘉殿(しんかでん)の南庭の白砂の上に、屏風4枚で囲んだ三尺角の厚畳の上に天皇陛下が座られて、西南の方向の伊勢神宮(天照大神)を拝みます。続いて四方の天神、御陵、諸大社を拝みます。

 

天神として天津神、国津神。

天津神(あまつかみ)とは天照大神(あまてらすおおみかみ)に代表される、高天原にいる神様たちの総称。

 

高天原(たかあまはら)とは、この宇宙全体を指します。肉眼に見えている世界と肉眼で見えない世界の全てを総称します。

 

日本のある特定の地域という説がありますが、違います。

また、高い天と書くので、遠い宇宙の世界かなと思いますが、実はそうではありません。あなたのすぐ脇にあります。ただ、あなたの肉眼では見えないだけです。

 

肉眼で見える宇宙と、それよりもはるかに広大に広がっている、目に見えない宇宙は、お互いに重なり合っているのです。

 

国津神(くにつかみ)とは、須佐之男命(すさのおのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)に代表される、葦原中国(あしはらのなかつくに)(日本のこと)を国譲りを受けた神様たちの総称。

 

御陵として、神武天皇、明治天皇、大正天皇、昭和天皇の各御陵(むささぎ)。

 

諸大社としては、埼玉の氷川神社(武蔵国一宮)、京都の石清水八幡宮、愛知の熱田神社、茨城の鹿島神宮(常陸国一宮)、千葉の香取神社(下野国一宮)、京都の賀茂別雷(上賀茂)神社(山城国一宮)。

 

五穀豊穣と国民の安寧を祈願される重要な大祭。明治から昭和22年5月、日本国憲法の施行に伴い皇室祭祀令が廃止されるまで、「四方節」と呼ばれていました。

 

この四方拝では、天皇陛下は次のように祈願されます。

 

「今年、国民に災難が起こるならば、まず、私の体を通してからにしてください。」と。

 

誠にもったいないお言葉です。

 

1月1日 歳旦祭(さいたんさい)

午前5時40分 天皇陛下は賢所(かしこどころ)に昇殿して、玉串を奉ってご拝礼祈願されます。

 

庭火とぼんぼりのあかりの中で行われるため、最も森厳な行事になります。宮中三殿(皇祖、皇宗、天地神)に対して、神恩に感謝して国運隆昌を祈願する大祭になります。

 

皇后陛下のお歌(昭和50年)に次のようなものがあります。

「星かげのかがやく空の朝まだき君はいでます歳旦祭に」

 

1月3日 元始祭(げんしさい)

午前10時 賢所、皇霊殿、神殿に順にご拝礼、ご告文を奉上されます。天皇陛下が祭主となり自ら神々に祈願のお言葉を奉上されます。

 

その後、皇后陛下、皇太子殿下、皇族の方々が拝礼される最大規模も大祭。皇室と国家国民の繁栄を祈願されます。

 

昭和22年5月、日本国憲法施行に伴い廃止された皇室祭祀令では大祭に指定されており、また、1月3日は「元始祭」という祝祭日でもありました。

 

 

 

 

 

あなたがこの世に誕生したのは奇跡です。

あなたがこの世に生まれるには、お父さんとお母さんが必要でした。

 

でも、それだけではあなたは生まれることはできなかったのです。

もう一人の力が必要でした。

それは、産土(うぶすな)の神様です。

あなたは親を選んで生まれてきました。

 

そして、この世で経験したいということも決めてきました。

そのあなたの希望を考慮して、産土の神様があの世(目に見えない世界)にいたあなたの魂をこの世(目に見える世界)とムスビつけてくれたのです。

 

産土の神様はムスビの神様なのです。

 

この三位一体の協力がなければ、あなたはこの世に生まれることはできませんでした。

 

妊娠したある妊婦さんが産婦人科に検査に行きました。

検査すると音信が聞こえません。

 

エコーで調べてみると、赤ん坊の体ではなくブドウ状に細胞分裂した塊がありました。

ガンの一種ということで、摘出手術をしました。

てっきり、妊娠したと思ったのですが、実はガンだったということです。

 

これは、精子と卵子の結合だけでは人間にはならないということです。

そこに魂が入ってこないと、細胞分裂を繰り返す、ただの肉の塊ということになります。

 

魂というと宗教か?と思うかもしれませんが、太古の昔から伝えられている宇宙の真理になります。

 

あなたが、お母さんのお腹の中にいた時に住んでいた家があるはずですが、その家の近所にある産土の神社があなたの神社になります。

 

その土地で管轄している神社が異なりますので、よくわからない場合は、近く神社に実際にいってみると良いでしょう。

 

産土神社があなたの生まれた地域にない場合もありますが、氏子神社はあると思います。

その氏子神社が産土神社も兼ねている場合があります。

 

そこで、なんだか懐かしい感じがするとか、昔、見たことある感じがするという神社が、おそらくあなたの産土(うぶすな)神社となります。

 

この産土(うぶすな)の神様はあなたを一生涯に渡り、守り続けてくれます。

ですので、とても大事な神様となります。

 

1月元旦に初詣に行く人はたくさんいます。

多くの人が、有名な神社や人がたくさんいく大きな神社に初詣にいくでしょう。

 

でも、おの前にまずあなたの産土(うぶすな)の神社にお参りして見てはいかがでしょか?

 

あなたのことを生まれた時からずっと見守ってくれている神様なのです。

そんな大切な神様に、一番先にお参りに行くと、きっと神様も喜んでくれるでしょう。

「よくきたね」といって、ますますあなたのことを大切に思ってくれるでしょう。

 

シンパシーです。

あなたのことを忘れずにいつも思ってるよ、ということが伝わると、相手は、とても嬉しくなります。

これは、神様の世界だけでなく、人間の世界でも同じですよね。

 

まず、産土(うぶすな)の神様にお参りしてから、大きな有名な神社に行くのなら、ご利益もあるでしょう。

 

それをせずに、いきなり、大きな有名な神社に行っても、どこの誰?と神様から思われるだけです。

多くの人が参拝に来ますので、誰が誰だか区別がつきません。

 

そこでまず、あなたの産土(うぶすな)神社に参拝して、「これから、〇〇神社にも参拝に行って来ますからよろしくお伝えください。」と伝言してみてください。

 

すると、あなたの産土(うぶすな)の神様はちゃんと、〇〇神社の神様に伝言してくれます。

 

「今度、誰だれが参拝に来るので、よろしくね。」というようにです。そうすれば、〇〇神社の神様も、あなたのことをきちんと見分けてくれるでしょう。

 

これであなたはきっと開運します。

 

 

 

 

 

昭和18年(1943年)4月のある日、近衛元首相に対して、衆議院議員の三田村武夫氏が次のように詰問しました。

 

「この戦争は必ず負ける。そして敗戦の次にくるものは共産主義革命だ。日本をこんな状態に追い込んできた近衛公爵の責任は重大だ」と問い詰めると、近衛公爵は次のように答えた。

 

「何もかも自分の考えていたことと逆な結果になってしまった。ことここに至って静かに考えてみると、何者か目に見えない力に操られていたような気がする。」と。

 

近衛元首相は、昭和20年2月14日に昭和天皇に次のような上奏文を提出しました。

 

「我が国内外の情勢は今や共産革命に向かって急速に進行しつつあると存じます。

 

国内を見ると、共産革命達成のあらゆる条件が具備せられていく観があります。すなわち、生活の困窮、労働者発言の増大、イギリス、米国に対する敵愾心の高揚と親ソ連、軍部内の革新運動、それに便乗する新官僚運動、およびこれを背後より操りつつある左翼分子の暗躍。

 

この内、特に憂慮すべきは軍部内一味の革新運動にあります。軍人の多数は我が国国体と共産主義は両立するものなりと信じているもののごとく、軍部革新論の基調も、またここにありと存じます。

 

職業軍人の大部分は中流以下の家庭出身にして、その多くは共産主義的主張を受け入れやすい境遇にあり、また、彼らは軍隊教育において国体観念だけは徹底的に叩き込まれているので、共産分子は国体と共産主義の両立論を持って彼らを引き摺り下ろそうとしつつあります。

 

そもそも、満州事変、日華事変を起こし、これを拡大して遂に大東亜戦争にまで導いたのは、これら軍部内の意識的計画なりしこと、今や明瞭なりと存じます。満州事変当時、彼らは事変の目的は国内改革にあり、と公言したのは有名は事実に存じます。

 

日華事変当時も、「この事変が長引くのがよろしいが、この事変が解決してしまったら、国内改革ができなくなる」と公言したのはこの中心的人物に存じます。

 

これら軍内一味の革新論の狙いは必ずしも共産革命にあらずとするも、これを取り巻く一部官僚および民間有志は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を包蔵しており、無知単純なる軍人これに踊らされたり、とみて間違いないと存じます。

 

このことは過去10年間、軍部、官僚、右翼、左翼、の多方面に渡り、交友を持った私が最近、静かに反省して到達した結論にして、この結論の鏡にかけて過去10年間の動きを照らしみるとき、そこに思い当たる節々、多きを感ずる次第に存じます。

 

私は、この間、二度までも組閣の大命を拝しましたが、国内の相克、摩擦を避けようとして、できるだけこれらの革新論者の主張をを容れて挙国一体の実を挙げんと焦慮せる結果、彼らの背後に潜める意図を十分看守する能が無いのは、全く不明の致すところとして、何としても申し訳なく、深く反省いたします。」

 

「日華事変当時も、「この事変が長引くのがよろしいが、この事変が解決してしまったら、国内改革ができなくなる」と公言したのはこの中心的人物に存じます。」と言っていた中心人物とは一体誰のことでしょうか?

 

レーニンはコミンテルンで共産主義の第一の目標は資本主義国家の政治権力を倒して、共産党独裁政府を樹立することであり、この共産党独裁政治(プロレタリア独裁)を通じてのみ、共産主義社会の実現は可能だと繰り返し述べています。

 

そして、マルクスレーニン主義に従えば、資本主義国家の権力的支柱をなすものはその国の軍隊である。したがって、この軍隊をいかにして崩壊させるかが共産主義革命の戦略的戦術的第一目標とされる。

 

その目的達成には、軍隊の内部機構や組織を内部崩壊させることである、そして、資本主義国家同士が互いに戦争し、自己破壊するように導け、と説いています。

 

コミンテルン第6回大会が1928年(昭和3年)に開催されました。

 

この中で、⑴自国政府の敗北を助成すること。

⑵帝国主義国家の戦争を自己崩壊の内乱戦に誘導すること。

⑶民主的な方法で共産革命は不可能だから、戦争を通じて共産革命(プロレタリア革命)を行うこと。

 

つまり、資本主義国(帝国主義国)同士の軍隊を戦わせ、国力を消耗させて、敗戦の手助けをし、次に、内部から共産革命を起こすという

二段階シナリオを描いていました。

 

このシナリオにきっちりハマってしまった国がありました。

 

それは日本です。

 

戦時中、コミンテルンの指示を受けて諜報活動をしていたスパイがいました。

それは、尾崎秀実(おざきほつみ)という人物です。

 

彼は、大正15年に東京朝日新聞に入社、社会部に配属され昭和2年に大阪朝日新聞に転勤となり、昭和3年、上海支局に特派員として転出しました。

上海支局時代に中国共産党上部組織とコミンテルン本部機関に加わりました。

 

1935年(昭和10年)に第7回コミンテルン大会が開催されました。

この大会で、中国の敵は日本であり、そのため中国共産党軍への援助を決定し、中国全土に抗日人民戦線運動を巻き起こすべし、と指令しました。

 

この方針の従い、中国共産党は1936年(昭和11年)抗日救国宣言を発表しました。

「日本帝国軍の侵略に対し、中国国内で内戦をしている時ではない、抗日の名の下に、全中国各階級の民衆を組織して、抗日闘争を展開せよ」

 

当時の中国は、蒋介石率いる中国国民党軍と毛沢東率いる中国共産党軍が内戦状態でした。

 

毛沢東からのこの宣言に対し、蒋介石は抵抗します。蒋介石は共産党が大嫌いでした。しかし、蒋介石が張学良により軟禁される事件が起きます。(西安事件)この事件により、中国共産党軍と国民党軍が共同で抗日闘争と展開していきました。(中共合作)

 

ここで、コミンテルンのシナリオ通りとなります。

 

蒋介石はイギリスと米国から武器援助を受けてましたので、その蒋介石軍と日本軍が真っ向から戦争することで、帝国主義国家同士の戦争が実現しました。

 

どちらが勝とうが負けようが、コミンテルンとしては痛手はありません。国力が消耗して、敗戦した時をついて、共産革命を起こせば良いのです。

 

昭和13年(1938年)1月、駐華ドイツ大使のトラウトマンを仲介にした日本と国民党との和平交渉をしましたが、交渉決裂。近衛首相は「国民党政府を相手にせず」と声明を発表します。

 

この時、読売新聞の1月19日付けで三木清が次のような論文を投稿しました。

「いよいよ長期戦の覚悟を決めなければならぬ場合となった。それはもちろん、新しいことではなく、事変の当初から既に予測されていたことである。今更改めて悲壮な気持ちになることはない。」

 

近衛内閣の日華事変の不拡大方針にもかかわらず、陸軍の拡大路線に引きづられ、和平交渉も決裂。そんな時期に、「日華事変は長期戦になるということは、当初から予測されていたこと」と述べています。

 

三木清を始め共産主義グループは、日華事変の長期戦を支持しました。中途半端に和平となってしまうと、コミンテルンのシナリオ通りの、敗戦後の共産革命が成り立たなくなるので、なんとしてでも日華事変は泥沼の長期戦に持って行きたかったのです。

 

実は、「国民党政府を相手にせず」という声明後も、和平工作が水面下で行われました。

 

玄洋社の頭山満などと一緒に孫文の中国革命に協力して、蒋介石国民党首脳部と親しい関係にあった茅野(萱野)長知氏は、日本と支那の和平工作をします。

 

昭和13年3月に上海のカセイホテルにて国民政府側要人Aと松本蔵次氏が会見。そこで要人Aは「このままで行けば日本と支那は共倒れになる。アジア全体の不幸になる。なんとかして和平の道を講じなければならない」と語りました。

 

その後、二度目の会見で、茅野(萱野)長知氏の和平案を提出します。

1、日華双方とも即時停戦すること

2、日本は中国の主権を尊重し、撤兵を声明すること

3、日本側の要求する満蒙問題の解決については、原則的に

  これを承認するが、具体的には日華両国で協議すること。

 

国民政府側要人Aは、茅野長知氏の手紙を携えて、漢口にいる国民党の行政院長(首相)である孔祥煕にこの和平案を提出し、茅野(萱野)長知氏あての、孔祥煕からの返事を携えて上海に戻ってきました。

 

茅野(萱野)長知氏は、その手紙を日本政府と軍部と協議するために上海から東京に向かいました。

板垣陸軍大臣と近衛首相と協議して、両者ともにこの和平案を承認したので、再び上海に向かいました。

 

そこで、国民党政府の要人Aと会見する予定が、警備の関係で数日遅れることになり、その間、茅野(萱野)長知氏は、松本重治氏にこの和平交渉の経過について話してしまいました。

 

その後、香港にて、国民党政府考試院(人事院)長である居正夫人が、行政院長(首相)である孔祥煕の代理としてきて、日本と支那(国民党政府)との和平交渉の事務レベルでの下準備はまとまりました。

 

1、国民党政府側は、首席孔祥煕行政院長、副主席居正、

  他要人5名。

1、日本側は、近衛首相又は宇垣外務大臣を首席とし、

  陸軍、海軍代表を加えて構成する。

1、場所は香港湾外の日本側軍艦を用いて洋上会見とする。

1、日華両国代表によって行う取り決め内容は、日華双方とも、

  即時停船命令を発することに署名すること。

1、停戦後の条件は、両国間で具体的に協議すること。

 

この時、居正夫人は茅野(萱野)長知氏に次のように語りました。

「戦争をやめてしまえばあとはどうにでもなります。それに日本側からすれば、中国政府の代表五人を日本の軍艦に乗せて談判するんじゃありませんか?

捕虜にしたのも同然でしょう。これで、日本側の面目が立つでしょう。あとはなんとかなります。」と。

 

しかし、ここまで和平交渉がまとまったのもつかの間、茅野長知氏と松本蔵次氏が東京に戻り、板垣陸軍大臣と会って報告すると、状況が一変していました。

 

板垣陸軍大臣は「中国側に全く戦意なし、このままで押せば、国民政府は無条件で降伏する。日本側から停戦協定の申し出をする必要は無くなった」というのです。

 

茅野(萱野)長知氏が東京に戻る前に、松本重治と国民政府の高宗武が東京に来て、板垣陸軍大臣や近衛首相に、先ほどのような情報を伝えていたのです。

 

板垣陸軍大臣はその情報を信用し、和平の方針を改めます。そして、近衛首相もそれを受けて、和平交渉は白紙となってしまいました。

 

その後、茅野(萱野)長知氏は上海の国民党政府の要人Aに会って、説明すると、上海から電報で漢口にある国民党政府に確認をとりました。すると、その高宗武が「日本側に戦意なし、中国が抗日戦を継続すれば、日本側は無条件で停戦、撤兵する」という秘密電報が入っていたということです。

高宗武は、全く日本と真逆の情報を送っていたということになります。

 

板垣陸軍大臣は、ついこの間まで和平に同意していたのに、一体、なぜそんなに簡単に、信用してしまったのでしょうか?

 

松本重治は尾崎秀実と同じ近衛内閣のブレーンでして、朝飯会でも一緒でした。尾崎秀実から影響も受けていたでしょうし、陸軍軍人へ戦争を継続させるための、ツボをついた交渉の仕方も心得ていたのかもしれません。

 

この高宗武と松本重治の行動により、日本と国民党との和平交渉は永遠に実現することがなくなり、その後の日本の敗戦への道を決定づける結果となりました。

 

この時の宇垣一成外務大臣は、この和平工作に期待をかけていました。しかし、陸軍から中国外交の外務省外しの工作を受け、外務大臣を辞任してしまいました。

 

もし、和平交渉が成立していたら、中国大陸には、共産党国家は成立していなかったかもしれません。

 

また、日本は南仏印進駐(フランス領インドシナへの進駐)する必要もなかったでしょう。

なぜなら、南仏印進駐は、蒋介石軍へのイギリス、アメリカからの軍事物資援助ルートを抑えることがその目的だったからです。

 

そして、アメリカ、イギリスと戦争することもなかったでしょう。

なぜなら、日米交渉での最大の懸念材料は、日本陸軍による南仏印進駐だったからです。

 

そう考えると、この成立一歩手前まで行っていた、蒋介石国民党との和平交渉を決裂させた人物である、高宗武と松本重治、そして、彼らに大きな影響を与えていたであろう尾崎秀実は、日本の運命を大きく狂わせてしまいました。

 

これも、コミンテルンの描いたシナリオ通りに事が運びました。

 

昭和13年(1938年)11月と12月に近衛内閣は「東亜新秩序」という考えを発表しました。

 

この東亜新秩序とは、抗日政策をとる国民党政府を叩き、日本と満州と中華民国の3国により共産国から防衛して、新しいブロック経済を作るという構想でした。

 

この構想について、尾崎秀実は「中央公論」昭和14年1月号に投稿しています。

これからの戦いの究極の目的を「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設にあり」と規定し、そのための戦いを「聖戦」と言い、

 

「一身を投げ打って国家の犠牲となった人々は絶対に何らかの代償を要求して尊い血を流したのではないと確信する。平和をもたらすために東亜新秩序の人柱となることは、この人々の望むところであるに違いない。」と言い切っています。

 

蒋介石国民党軍と戦いを継続する大義名分とするために、近衛内閣のブレーン達は「東亜新秩序」なる構想を作り、言論界や世論をリードしていきました。

 

一体、この東亜新秩序なる理想を、真面目に信じて戦って死んでいった人たちは、どれくらいいたのでしょうか?

 

実はそれは嘘で、本当の目的はコミンテルンのために共産革命を起こすための戦争だったんだと知ったら、あの世でどう思うでしょうか?

 

その後、日本軍(関東軍)と蒋介石軍との戦いは圧倒的に日本軍に優勢でしたが、日本の連合国に対する無条件降伏により、蒋介石国民党軍は棚ぼた勝利を勝ち取りました。

 

その棚ぼた勝利もつかの間、蒋介石国民党軍は毛沢東共産党軍(八路軍)と再び戦争状態となります。日本軍との戦争で、常に前線にて戦ってきた蒋介石国民党軍はかなり戦力を消耗していました。

 

また、国民党軍は抗日戦線においては米国から十分な軍事物資の援助を受けていたのですが、日本降伏後、米国から中国全権特使に任命されたマーシャル将軍は、米国からの軍事支援物資の実施を意図的に遅らせるなどして、米国からの援助が事実上なくなってしまいました。

 

それに対し毛沢東共産党軍(八路軍)は、ほとんど前線にて日本軍と対峙したことはなく、主に後方の補給路などに対して、便衣兵(民間人を装って、相手の油断のすきをついて武力攻撃をする軍人)としてゲリラ戦に終始していました。

 

また、日本軍の武装解除により、ソ連軍が日本軍から奪った武器弾薬を毛沢東共産党軍(八路軍)に横流ししていたので、さらに戦力差は開いてしまいました。

 

さらに、中国残留日本人のうち、軍人や医師、看護師らがソ連軍により強制連行され、毛沢東共産党軍(八路軍)のために、軍事戦略や飛行機の操縦技術、医療など技術指導しました。

 

それまで、毛沢東共産党軍(八路軍)は、航空隊や戦車を持ったことがなく、全て日本軍の武装解除後、ソ連軍が日本軍(関東軍)から接収したものでした。

 

また、空軍を持ったことがないので、林弥一郎少佐以下の関東軍第二航空隊第四錬成飛行部隊を送り込み、東北民主連軍航空学校を設立して航空部隊を養成しました。

 

また、正規の砲兵隊がなかったので、日向勝を筆頭とした日本人教官の元で、砲兵学校を設立して養成しました。

 

医師や衛生兵や看護師など戦争に必要な技術を持つ人は日本に帰国させず、国共内戦で勝利した後も長期にわたって徴用しました。

 

その結果、毛沢東共産党軍(八路軍)は航空隊や砲兵隊、医療班をもつ近代的軍隊となったので、蒋介石国民党軍に勝利することができ、中華人民共和国を建国することができました。

 

正規軍だった蒋介石国民党軍は、国共合作以前の時、共産匪賊という非合法のゲリラ部隊にすぎなかった毛沢東共産党軍(八路軍)を圧倒的に優位に戦いを進めていました。

 

しかし、蒋介石国民党軍は、常に前線で日本軍と戦ったため戦力を消耗し、一方、毛沢東共産党軍(八路軍)は、ソ連に連行された日本軍や医師からの技術指導と、日本軍(関東軍)から略奪した武器弾薬などのおかげで、正規軍である蒋介石国民党軍に勝利することができたのです。

 

これは、コミンテルンのシナリオ(資本主義国同士を戦わせ、消耗させ、敗戦後に共産革命を行う)に忠実に従った結果、勝ち取った勝利となります。

 

中国共産党は、このような経緯で建国することができたわけですが、いつの間にか、「抗日戦に勝利して建国した」と、全世界に宣伝しています。

 

このように宣伝(プロパガンダ)することで、戦後賠償の代わりとして、日本からのODAや円借款を受け取る口実にしているのでしょうか?

 

日華事変から太平洋戦争へと無謀な戦争の道を突き進んで行った、日本の重要な時期に、コミンテルンのスパイである尾崎秀実は、日本の政局の最上層部に参加していました。

 

尾崎秀実の所属していたゾルゲ機関の目的は、コミンテルンの特殊部門たる諜報機関の日本に置ける組織でした。そして、コミンテルンとソ連共産党とソ連政府の3者はほとんど一体の関係でした。

 

昭和2年(1927年)世界恐慌の嵐は日本にも押し寄せ、経済は深刻な不景気に悩ませれていました。特に地方の農村部は深刻で、子供を米俵1表、2表で紡績会社などに売って、生活しなくてはならない家庭がたくさんありました。NHKの朝ドラの「おしん」や映画「ああ野麦峠」の世界です。

 

1915年徳田球一がモスクワから帰国して、日本共産党を結成します。その後、昭和2年(1927年)コミンテルン大会のテーゼにより、非合法的な暴力革命により、資本主義制度の崩壊前夜と認識し、天皇制打倒を中心としたスローガンに共産革命の闘争へと突き進みました。

 

この情報を入手した内務省は、昭和3年3月15日に一斉に共産党員の検挙を行いました。(315事件)

起訴された人、530名、取り調べを受けた人、5千人に及びました。

その後も二回にわたり一斉検挙を行いました。

 

この事件は、当時の日本国民を震撼させました。何故ならば、当時は天皇に対して批判的なことを言っただけで、不敬罪として検挙された時代なのに、天皇制打倒をスローガンにして革命を起こすことなど、想像すらできませんでした。そんな思想を持った日本人が数百人、数千人もいたとは、驚きだったのです。

 

この時代はマルクス主義の全盛期で、出版物は左翼思想のものばかりでした。

また、東京帝国大学をはじめとして、大学内にもマルクスレーニン主義にハマった人がたくさんいて、学生運動の取り締まりにより検挙された人は数万人にも上りました。

 

昭和2年東方会議により、満州に対し積極的に関与することが決議、

翌年の昭和3年に張作霖学爆破事件が起きます。

この昭和3年は、共産党員一斉検挙(315事件)により革命闘争に対する弾圧が始まった年になります。

 

大陸進出の動きは加速していきます。

そして国内では旧日本陸軍の青年将校たちによるクーデターが頻繁に起きるようになります。

血盟団事件、515事件、神兵隊事件、埼玉挺身隊事件、士官学校事件、226事件といった未遂事件も含めて、多数のクーデター事件が頻発し、首相や財閥の会長など、政財界の主要な人を暗殺しました。

 

なぜ、陸軍の青年将校たちは、このような行動をとったのでしょうか?

 

旧陸軍の兵隊は地方の農民の出身だったり、小市民が多数しめていました。そして、世界恐慌の影響で地方の農村は深刻な不況にあり、その農民出身の陸軍将校たちは、このような状況を作った原因は、政府や財閥にあるとその不満のはけ口にし、暗殺するという暴挙にまで出たのでした。

 

また、クーデターを指導した人物として、北一輝と大川周明がいます。

北一輝は、青年将校のバイブルと言われた「日本改造法案大綱」を1923年(大正12年)上海にて書きました。その内容はレーニンの革命思想が引用されています。

 

旧日本軍には軍人勅語があり、日本軍人としての行動規範が書かれてました。万世一系の天皇を国家元首とする日本国の国体を命をかけて守るということを、日本軍人は徹底的に叩きつけられていました。

 

その陸軍将校たちは、革命思想に燃えてクーデターを起こしましたが、その革命思想は共産革命と共通するものでした。

 

共産革命はあくまでも天皇制打倒して一党独裁の共産国にすることが目的ですが、天皇制護持の一点を除けば、陸軍の青年将校とコミンテルンの共産革命とは思想が一致していたのです。

 

226事件の被告、元陸軍中尉新井勲は、次のように述べています。

「陛下の赤子と言われるのに、一面では栄華に暮らしている人たちがいれば、働けど働けどその日の生活に喘ぐものがあった。中でも東北地方の冷害で、満州に出征した兵の家庭では、姉妹が娼婦に売られる悲劇さえ起きていた。この社会矛盾の解決なしには、青年将校の間に広まった国家改造の機運は治る道理がなかった。」

 

昭和3年から、アジア共産革命のために活動していた尾崎秀実にとって、この日本陸軍の共産主義的革命思想は、利用価値の高いものでした。

 

日本が戦争を中途半端でやめず、最後の最後まで戦争を継続していくための施策をどんどん打って行きました。

 

昭和9年に陸軍と海軍大臣の現役制度が確立しました。(軍閥政治)

これは、政党政治から現役の軍人からそれぞれ大臣を出し、政治に口を出すということを意味しました。

 

実際、首相が内閣を組閣する際、陸軍の意向に沿わない大臣が組閣の候補に入っていると、陸軍から大臣を出さないと言って拒否されてしまいます。そうすると組閣ができませんので、仕方なく、陸軍の意向に沿った人を閣僚に入閣させるということになります。

 

事実上、日本陸軍が日本の政治の実権を握ったも同然でした。

 

そんなことが許されていいのかと思いますが、陸軍はそれまでなんどもクーデターを起こして、首相をはじめ政治家や財閥を暗殺してきましたので、誰も陸軍に逆らえなくなってしまったのです。

 

昭和13年(1938年)国家総動員法と電力国家管理法が制定されます。これは戦争を継続するために、経済を統制経済にするというもの。企画院の革新官僚が中心となって策定されました。

 

これにより日本の経済は、軍と官僚の手に握られてしまいました。

 

また、昭和初期は新体制運動が盛んになりました、これはドイツやソ連のような一党独裁国家がこれからの主流になると予想され、「バスに乗り遅れるな」というスローガンのもと、昭和15年(1940年)大政翼賛会が結成されました。これにより、非合法の日本共産党を除く全ての政党が解散して、国会議員は大政翼賛会に吸収され、一国一党体制ができました。

 

与党と野党という構図が無くなり、政府与党の政策に対して反対する政党がなくなり、数百万の陸軍軍人をバックとした一党独裁の軍閥政治となりました。

 

これで、日本の運命は決まってしまいました。誰も陸軍の暴走を制御することができず、敗戦の道をひた走っていくことになります。

 

これは、コミンテルンにとって万事好都合な事でした。

 

ある時、三田村衆議院議員は近衛元首相に「なぜ、あのような翼賛会を作ったのか?」と質問しました。

近衛元首相は次のように答えました。

「なぜ、あんなことになってしまったのか自分でもよく分からない。………この軍部と官僚に実権を握られた翼賛会をなんとかする道はないものか」と。

 

尾崎秀実は「中央公論」昭和15年12月号で次のような論文を投稿しました。

 

「第一次近衛内閣の末期に国民再組織の問題が論じられ始めた時から、新政治体制の具体的な提案のうちに満州における共和会の組織や経験が多分に取り入れられているのが見られた。

 

本格的な段階に達した日本の新体制の中核組織たる大政翼賛会構造、特に協力会議には少なからず類似点が見られる。

ともかくも、満州共和会の10年に近い民衆組織の実践は充分生かされるべきでしょう。

 

もとより、日本政治の現段階は満州のそれよりもはるかに複雑であり、高度なものであるが、日本民族が、政治的未墾地に試みた貴重なる実験結果は高く評価されなくてはならないはずである。」

 

このような思想を、事前に陸軍や官僚に植え付けることで、いつの間にか、軍閥に実験を握られた独裁体制という、新体制へ移行することになっていったのでしょう。

 

昭和16年12月、「言論出版集会結社等臨時取締法」の成立

これにより、戦争反対とか戦争に対して不平不満と公に述べたら、非国民であり国賊であるということになり、厳しく処分されて行きました。

 

昭和18年2月、「戦時刑事特別法」を改正。

この改正により、内閣を倒す計画や運動をしたものは厳罰に処分され、軍部や政府を攻撃すると「国政変乱罪」という罪で罰せられるようになりました。

 

これにより、東条英機内閣は、今まで以上に独裁政治を行えるようになり、好きなだけ戦争を継続できる体制を確立しました。

 

昭和7年2月、上海から引き揚げ後、しばらくゾルゲとの連絡はなありませんでした。昭和9年春に、朝日新聞大阪本社の外報部に配属されていた尾崎のところに、南龍一と名乗る人物が訪ねてきました。

 

彼は「上海にいた時にとても仲良くしていた外国人今日本に来ているので是非会って欲しい」ということでした。

 

その外国人というのは、どうやらゾルゲらしいので、後日、「白蘭亭」という支那料理屋で再びその青年と会いました。

その青年は宮城与徳という米国の共産党員で、コミンテルンからの指令を受けて、ゾルゲ機関で諜報活動をしている人物でした。

 

彼の訪問は、再びゾルゲとの連絡を回復することが目的でした。

その数日後、奈良公園内の指定の場所で、ゾルゲと再開を果たしました。再び、ゾルゲ機関にて諜報活動に協力するように依頼を受けた尾崎秀実は、その依頼を快諾しました。

 

昭和11年米国カリフォルニア州のヨセミテにて行われた、太平洋問題調査会第6会大会に、日本代表の一人として参加しました。

 

その時、西園寺公一とは、乗船した大洋丸で同じ船室となり、ヨセミテ滞在中の二週間、寝起きを共にしたので、親しくなりました。

帰国後、朝日新聞社に勤務しているときは、ほとんど毎日、会社に訪問して来ました。

 

昭和12年4月昭和研究会に参加するようになりました。

 

昭和13年6月、近衛内閣の時に牛場、岸両秘書官から内閣の嘱託として事務調査をするように頼まれ、引き受けました。牛場秘書官とは高校、大学の同級生でした。

その時に知り得た政治情報を、忠実にモスクワに報告していました。

 

昭和14年から、近衛内閣の時に、毎週水曜日に朝8時から朝飯会というものがありました。この会の目的は、政治情勢の分析判断や政策の討議をすることでした。メンバーは、蝋山政道、平定蔵、佐々弘雄、笠信太郎、渡邉佐平、西園寺公一、尾崎秀実、松本重治、犬養健などのほか岸秘書官、牛場秘書官でした。

場所は西園寺公爵邸や首相官邸日本間などで行われました。

 

尾崎秀実は、この会に参加することで当時の最高の政治情報を入手することができるようになり、忠実にモスクワにその機密情報を流していました。

 

日本陸軍は日露戦争時から仮想敵国をロシア(ソ連)として大陸の北方に戦力を重点的に配置してました。

 

それが、昭和15年(1940年)、南仏印(フランス領インドシナ(現在のカンボジア、ベトナム、ラオス))に進駐し、さらに翌年の昭和16年、東南アジア諸国(当時はオランダ、イギリス、フランス、アメリカなどの欧米列強に、植民地支配されていました)に進出していきました。

 

なぜ、長年の仮想敵国であったロシア(ソ連)ではなく、南仏印(フランス領インドシナ)に進駐していったのでしょうか?

 

蒋介石軍への、アメリカ、イギリスからの軍事物資の補給路を抑える、という理由などいろいろあるでしょうが、尾崎秀実の視点から見ていくと、彼は当時の言論界に積極的に論文を投稿していました。

 

『改造』昭和16年11月号に次のような記事を投稿しました。

 

「欧州に戦争が時始まった時、人々はこれをイギリスとドイツの決闘であるとみた。しかしながら、ソ連を巻き込んだ現在では、これを第二次世界大戦と見ることに誰の意義を挟まないだろう。私見では、これを世界史的転換期の戦いと見るのである。

 

旧世界が完全に行き詰まって、イギリス、アメリカ的世界支配方式が力を失ったところから起こった、世界資本主義体制の不均衡の爆発に他ならないこの戦争が、イギリスアメリカ的旧秩序に逆戻りし得る可能性は存在しないのである。戦争はやがて軍事的段階から、社会経済的段階に移行するであろう」

 

「以上のことに関連して、我々は政治指導部に希望したいことがある。

当局は、日本国民を率いて第二次世界大戦を戦いきる。

勝ち抜けるという大きな目標に沿って、動揺してはいけない。日米外交交渉もかかる目的のための一経過として役立たしめた場合にのみ、意味があるものといい得る。

 

また、今日、日本には依然として支那問題を局部的にのみ取り扱わんとする見解が存在している。

これは世界戦争の最終的解決の日まで片付き得ない性質のものであると観念すべきであろう。

 

私見では、第二次世界戦争は「世界最終戦」であろうと密かに信じている。この最終戦を戦い抜くために国民を領導することこそ、今日以後の戦国政治家の任務であらねばならない。」

 

コミンテルンの方針は、帝国主義国家(資本主義国家)同士で戦わせて、国力を消耗させて、敗戦後に共産革命を起こすというシナリオです。

 

日本とイギリス、米国を戦わせるために、様々な論文を言論界に投稿して、世論を形成していきました。

 

その世論に日本陸軍も乗ったのでしょう。

 

長年のロシア(ソ連)に対する戦力の重点配備の方針を曲げて、東南アジアに進出。その結果、米国にある日本資産の凍結や石油禁輸などの経済封鎖、そして対米戦争に突入するということは十分予想できました。

 

また、コミンテルンの方針では、中途半端に講和して、戦争終結されてしまっては、共産革命ができにくくなります。したがって、最後の最後まで戦争を継続させる必要があるのです。

 

尾崎秀実の論文でも、「国民を率いて第二次世界大戦を戦い抜け」、といっています。また、「勝ち抜ける」という楽観視もしていますが、初めから負けを意識させてしまっては国威高揚になりませんので、このように表現していたのでしょう。

 

「最終戦を戦い抜くために国民を領導することこそ、政治家の任務である」とまでいっています。

 

「最後の最後までアメリカ、イギリスと戦い抜け」と、「そのように国民をリードすることが政治家の務めである」、とあくまでもコミンテルンのスパイというのを表に出さずに、うまく戦意高揚させながら、コミンテルンのシナリオに従うように世論をリードしていきました。

 

尾崎秀実以外でも、平貞蔵、蝋山政道、細川嘉六、などが「朝日新聞」「中央公論」「改造」などに同様の記事を投稿して、世論をリードしていきました。

 

彼らは、近衛内閣のブレーンとして尾崎秀実と行動を共にしていた人たちです。

 

尾崎秀実は、昭和16年(1941年)7月、日本政府や陸軍が南仏印進駐(フランス領インドシナを拠点とした、東南アジアへの進駐)する方針を決めたという報告をゾルゲにしました。

 

ゾルゲは、モスクワに次のような電報を打ちました。

「日本における任務は終わったから帰国しようと思うが如何?」

 

日本を、イギリスと米国と戦争するように、追い込むことに成功したので、彼の任務は完了したのです。

 

第3次近衛内閣の時、昭和16年(1941年)10月、尾崎秀実が警視庁特別高等警察に逮捕されました。当初、ドイツ大使館員だったゾルゲとの関係において、陸軍は捜査打ち切りを要求しますが、翌日、近衛内閣が総辞職し、続いて東條内閣となってからは、今度は、この件により、近衛元首相を抹殺することを考えて、徹底的な捜査を命じました。

 

「私はこの第二次世界大戦の過程を通じて、世界共産革命が完全に達成しないまでも、決定的な段階に達することを確信しております。」と、警視庁の取り調べで尾崎は話しました。

 

巣鴨拘置所に拘留されていた尾崎秀実とゾルゲは、昭和19年(1944年)11月7日のロシア革命記念日に合わせて、死刑が執行されました。