子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -41ページ目

あなたは使命をご存知ですか?
この世に産まれてきたからには、
何かしらの使命があります。

 

でも多くの人が、その使命をよくわからずに、
一生を終えます。

 

一体自分にとっての使命はなんなのだろう?

自分がやりたい事ってなんなのだろう?

 

と、あなたは何となく考えているかもしれません。

 

生活費をかせがなくてはいけないから、仕方なく今の仕事をしている、という人は多いと思います。

 

だけど、本当は他の事やりたいんだよね。
と思っている人も多いのではないでしょうか?

やりたい事もやれずに、
ただ、親から期待されたので今の仕事をしている、
とか、

 

親から後継ぐようにを頼まれて、
仕方なく、今の仕事をしている、
とか、

 

今まで経験した事ある職業はこれしかないから、
他の仕事につく事出来ない、
とあきらめていたり。
と、さまざまでしょう。

 

でも、それが本当にあなたがやりたかった仕事なのですか?

 

人はそれぞれ産まれる前に、
この世では、こんな事を経験しよう、
とか、こんな事を学ぼう、

 

といった事を決めて、地上に降りてきます。

信じられない人は信じなくてもいいです。
それが、普通ですので。

 

でも、何となくそんな気がする、
と感じてくれる方は、続きを読んでみてください。

 

ある方の事例ですが、お父さんが息子に医者になってほしいと希望しました。
その家は、医者の家族でしたが、本人は医者が大嫌い。

 

大嫌いな医者になんかなりたくない、と反発してましたが、あんまりしつこく親から言われるので、仕方なく医者の学校に通いだしました。

 

すると、ある日、突然、心臓麻痺となり、帰らぬ人となってしまいました。まだ、その人は若かったのですが、どうして、こんな事になってしまったのでしょうか?

 

肉体は、医者になろうと勉強をしていましたが、魂は、医者になりたくなかったのです。

 

他にやりたい事があったのです。
産まれる前に決めてきた事があったのです。

 

でも、医者になる勉強をしなくてはいけない状況に追い込まれてしまったので、魂は、こんな世界にいても仕方ないと思って、心臓麻痺になって、あの世に旅立っていったのです。

 

だからと言って、別に自殺でもなんでもありません。

別な事例では、一代で事業を起こした人が、息子に後継をしてほしいと願いました。

 

しかし、息子は親の事業に興味がありません。
反発してましたが、親の執念が強くて仕方なく後継ぐ事になりました。

 

ある日、風呂に入っていると、突然、心臓麻痺になって、そのまま帰らぬ人となってしまいました。
その人は、その直前に親戚中を挨拶まわりして、身辺を綺麗に掃除して整理してました。

 

別に身体の具合が悪いというわけではなかったですし、まだ、若かったのですが、急にあの世旅立つことになってしまいました。

 

この人の場合も、肉体は、やりたくもない仕事を親から言われたので、仕方なくやっていましたが、魂は、嫌で嫌でたまりませんでした。

 

どうしたら、抜け出せるかと考えていましたが、抜け出す事できずに、ズルズル年を重ねていました。

 

そして、このままこの世にいても、やりたい事が出来ないと観念して、ある日突然、心臓麻痺になり、あの世に旅立ってしまったのです。
この人の場合も、自殺でもなんでもありません。

 

せっかく、希望に溢れて、この世に産まれてきたのに、産まれる前に決めてきた事もできずに、再び、あの世に帰っていってしまいました。

 

無念だった事でしょう。

 

あなたは、やりがいを感じて生きているでしょうか?

あなたが、死ぬ間際に家族に見守らながら、
[人生どうだった?]、
と、子供から聞かれます。

 

その時に、丸くサインを出して、笑顔であの世に旅立ちたいです。



 

あなたは毎日、食事を食べていると思います。
その食事は、あなたが食べていると思ってますか?

 

そんなの当たり前だろ、と怒られてしまうかもしれません。

でも、実はそうではないのです。

 

あなたの食べた食事は、ご飯でもパンでも肉でも、魚でも、そのままでは、あなたになりません。

 

ん? 意味わからない。何言ってるの?

と、思われてますね。

 

あなたが食べた魚を、
ある一定の処理をしないと、
あなたの身体になりません。
あなたの血液になりません。
あなたの身体の栄養分になりません。

 

そのままでは、魚は魚のままです。

ある一定の処理をする事で、その魚は、はじめてあなたになるのです。

 

ある一定の処理とは、何だと思いますか?

 

それは、消化して細かい成分に分解する事になります。

そんな事、知ってるよ。
と、ほとんどの人は思うでしょう。

 

あなたの腸内には、無数の菌が生息しています。
その数は数え切れない程です。
軽く数兆匹という感じです。

 

地球上の人口は70億と言われてますので、
その数万倍の数の生物が、
あなたのおなかに生息しているのです。

 

信じられますか?

 

その細菌が、酵素の力を借りて、
あなたが食べた魚などを分解して、
食べます。

 

あなたの腸内には神様が宿っています。
その神様に食事を捧げます。

 

食育が流行ってますが、
食事の本来の目的は、あなたの腸内に宿っている神様に捧げものをする行為になるのです。

 

あなたは、信じられますか?

 

信じなくて大丈夫です。

これは、私の勝手な独り言ですので。

 

腸内に宿っている神様とは、細菌です。微生物です。
あなたの肉眼ではみることが出来ない、生き物です。

あなたは、この小さな微生物に支配されているのです。
健康も感情も、すべてです。

 

小さいからと言って侮ってはいけません。
地球上の人口の数千倍の数が、生息しているのです。

圧倒的な数の力です。
侮ってはいけません。

 

その神聖な微生物さん(神様)に、食物を捧げ、分解した栄養素を、あなたの腸内にある根っ子から吸収していきます。

腸内に根っ子なんてあるわけないだろ、

 

ばか、あほ、とんま、まぬけ。
と、いじめないでください。

 

あなたの腸内には、根っ子が生えているのです
嘘だと思ったら、胃腸科のお医者さんに聞いてみてください。

その、根っ子から、栄養分が吸収され、血液を通して、全身に行き渡ります。

 

植物が、大地に根っ子を張っています。
その根っ子から、大地の栄養分を吸収して、幹を通して、枝葉に行き渡らせています。

大地なは神様が宿っています。

 

その大地には、無数の微生物が生息しています。
あなたの肉眼ではみることが出来ない生物です。
一握りの土に、数兆匹という微生物が生息しています。

 

信じられますか?

 

この地球上の人口の70億人。
たった一握りの土に生息している微生物は、数兆匹。

 

あなたは、微生物に勝てると思いますか?

 

地球上の生物は、すべて、もれなく、微生物に支配されているのです。

大地に宿った神様である、微生物。


根っ子(ご先祖様)から神様のわけ御霊を頂き、幹(父、母)を通して、枝葉(あなた)は生かされているのです。

 

その大地から栄養分を吸収した農作物を、あなたの口から胃腸を通り、あなたの腸内菌(神様)が酵素を使って消化して、腸内に生えている根っ子(ご先祖様)から吸収して、血液(父母)を通して、あなたは生かされているのです。

 

食前に祈りましょう。

 

[聖書に我らが祭壇に対して供え物を献ずるにあたっては、まず、兄弟と仲直りしなければならないという事が書いてある。

 

我らは食事をとるにあたってもやはりこれと同じことをしなければならないのである。
何故なら食事は自己に宿る神に供え物を献ずる最も厳粛な儀式であるからである。

 

一椀を手にしては、これ、今まで過ちて人に対して憎み怒りし自己の罪が神によって許されんがための供え物であると思いて、食せよ。

 

二椀を手にしては、これ、すべての人の罪が神によりて許されんがための、供え物であると思いて食せよ。

 

三椀を手にしては、これ、神の護りによりて、自己が再び隣人を憎み怒るの罪を犯さざらをが為の供え物であると思いて食せよ。

 

しかして、一杯の飲料を手にしては全ての人の罪をこの水の如く、わが心より洗い流して心にとどめざらんが為の、しるしと思いて飲め。]

食前の祈り終わり



 

日本を救った吉田茂

 

 

吉田茂は、戦争反対論者で、特に旧日本陸軍を徹底的に嫌っていました。

太平洋戦争開戦後も、一貫して和平工作を進めていました。

 

吉田茂は、英国大使として英国に駐在していましたが、昭和14年に退官して日本に帰国しました。

戦争中は、戦争反対という意見を公にいうと、憲兵隊に捕まり、厳しい取り調べを受けました。そのあまりの厳しさに、獄中で死亡してしまう人も多数いました。

 

ただ、吉田茂は、その義理の父が牧野伸顕という皇室側近の人ということで、憲兵隊も簡単に連行することができませんでした。そこで憲兵隊と陸軍中野学校出身の諜報機関の工作員をそれぞれ別個に吉田茂の身辺に送り込み、書生として住み込みをしながら、大磯の別荘と東京の平河町の自宅の電話の盗聴から郵便物のチェックなど情報収集を行なっていました。

 

吉田茂とその反戦グループ(ヨハンセン)は、戦時中、常に監視されていたのです。

 

そして、昭和20年4月に、とうとう吉田茂も憲兵隊に連行されてしまいました。

 

玄関を激しく叩く音がしたので、玄関をあけると憲兵隊が4人いました。

書生として住み込んでいた工作員の一人、東輝次が「何の嫌疑ですか?」と尋ねると、そんなことは答えられない」と憲兵は言った。吉田は洗面を済ますと「心配しなくていいから、すぐ帰るから」と言い残して連行されて行きました。

 

吉田茂の逮捕は憲兵隊主導だったので、工作員の東輝次は全く予期していませんでした。

約40日後、吉田は証拠不十分で釈放されます。

 

連行の容疑は、近衛元首相が天皇に宛てた上奏分についてです。

吉田茂は、「日本は敗戦の道を辿っているが、敗戦となると共産革命が起きるだろう、その上で陸軍の指導者の中に意図していないにしても、共産主義者の策動に乗せられている者がいる」という内容の上奏文の下書きを近衛元首相から相談され、その補正をしました。

翌日の昭和20年2月14日、近衛元首相が天皇にそれを上奏したのですが、憲兵隊はその内容を知りたがったのです。

 

なぜかというと、憲兵隊は戦争をやめるべきという考えを持った人や和平工作をする人物を、徹底的に連行して、厳しく取り調べをしていたからです。

 

同年8月に終戦を迎え、戦後の内閣で吉田茂は外務大臣に就任し、その後総理大臣も兼務するようになります。

 

朝鮮戦争が起こり、日本を占領していたGHQも朝鮮戦争に介入していきました。

そのような時期に、米国のダレス国務長官顧問が日本の吉田首相に対して、再軍備をするように強硬に圧力をかけてきました。

 

米国主導の国連軍だけでは対応が不十分なので、日本に再軍備をさせて、日本兵を朝鮮半島に送り込もうとしたのです。

吉田茂はこの米国の圧力に屈せず、断固拒否の姿勢を貫きました。

 

戦勝国が敗戦国の兵隊を最前線に送り込んで、捨て石として次の戦争に動員させることは、歴史的によくあることです。

吉田は、日本が再軍備してしまったら、再び戦場に日本の若者を送り込むことになり、最前線で米軍の捨て石として多くの死傷者を出すことになってしまう、という危惧を持っていたのです。

 

吉田茂は、日本には憲法9条があるので、軍隊を持つことは憲法違反となってしまう、と言ってダレス国務長官顧問の強硬な圧力に対し、最後まで拒否しました。

結局、日本は再軍備することなく、警察予備隊を編成し、日本国内で武器製造などの後方支援をすることで妥協しました。

 

その後、吉田茂は、講和条約を結び独立するためにダレスとの交渉を続けます。

米国のワシントンに側近の白州次郎などを派遣して、日本が米国と講和するためのロビー活動をしました。

 

マッカーサーは当初、米軍基地は沖縄だけで十分と考えていました。なぜなら、沖縄には強力な米国空軍と核兵器が実戦配備されているので、日本本土に米軍基地は必要ないと考えていたからです。

 

しかし、1949年(昭和24年)にソ連も核実験に成功すると、相手が核で攻撃してきた場合、沖縄の米軍基地だけではリスクがあるので、日本全国に複数の基地が必要と考えるようになりました。

 

1949年に中国に共産国が誕生。1950年に朝鮮半島が戦争状態に入りました。

マッカーサーは講和後の日本の安全保障について、次のような提案を1950年6月にワシントンにしました。

「日本全土が防衛作戦のために潜在的基地とみなされるべきである」と。

 

これを受け米国国防省で、日本との講和交渉で示すべき安全保障協定の草案が作成されました。

そして、ダレスが日本との講和交渉の根本的課題について、次のような発言をしました。

「我々が望む数の兵力を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保することである」と。

 

当時の米国は、朝鮮戦争やソ連や中国の共産国の脅威に対して、日本列島をその盾として米軍を日本全国に駐留しておきたいと考えていたのです。

 

吉田茂は、日本の主権回復後も米軍が引き続き日本全土に駐留するという、安全保障協定の提案を受け入れ、米国との単独講和を実現しました。

 

1951年9月にサンフランシスコにて講和条約が締結。それと同時に日米安全保障条約が締結されました。講和条約の調印式とは別に、安全保障条約の調印式には、他の閣僚や側近を連れず、吉田茂単身で行いました。

 

当時の日本国内では、講和による日本の主権回復ということだけ聞かされており、日米安保条約の詳細について、知っている人はあまりいませんでした。

吉田茂としては、後々、この日米安保条約について、日本国民から非難されることを予想し、他の閣僚にその責任を負わせたくないと考えて、単身で調印式に向かったのかもしれません。

 

昭和天皇がこの講和条約締結に伴い、退位する意向を側近に漏らしているという情報がありました。

吉田茂はこの講和条約が締結されるまで、天皇に何度も進捗状況を報告していましたが、日本の主権回復後もその任にとどまっていただくよう、それとなく伝えていました。

 

翌年の1952年4月に講和条約は発効。吉田茂は次のような声明を発表しました。

「この日を持って日本は主権を回復しました」

 

もし、朝鮮戦争時に米国の圧力に屈して再軍備をしていたら、多くの日本の若者が米軍の捨て石となり、朝鮮半島の戦場で死傷していたことでしょう。

もし、安全保障協定に反対し、主権回復後の米軍の駐留を認めなかったら、日本はまだGHQの占領下の状態であったかもしれません。

もし、米国の圧力に屈して再軍備をしていたら、軍事予算に多くの財政を割くことになるので、戦後の復興やその後の高度経済成長はなかったかもしれません。

 

 

 

 

 

 

唯物論者が考える世界は一般的な思考回路です。

この世界は全てが物質から成り立っているということです。

人間も地球も宇宙もです。

 

でも、本当でしょうか?

 

昔、ある少女がいました。その子のお父さんはいつも仕事から帰ってくると、「あーしんどい、疲れた。」と言っていました。

その父親の姿をいつもみていました。

 

そして、そのうちにこう思いました。

お父さんがあんなに辛そうにしているのはとてもかわいそうだから、楽にしてあげたい。と。

 

ここまではいいのですが、その次に何を考えたかというと、その子は何とお父さんを殺害してしまおうと思ったのです。

 

お父さんが憎くてではありません。殺意の動機は、お父さんが毎日辛そうにしている姿をみて、かわいそうだから、楽にしてあげたい、という愛からなのです。

 

お父さんを愛しているから、殺してしまう、という発想はとても理解できないでしょう。

 

でも、その少女は本当にそう思ったのです。

そして、お父さんを殺す前に、まず、弟を殺しました。

家にあったライフル銃でです。

 

次にお母さんを殺そうと思い、家に帰ってくるお母さんを待ち構えました。お母さんが帰ってきた時に、息子が血まみれになっているのを見つけて、事件が発覚しました。

 

なぜ、その少女はそのような残虐行為をしたのでしょうか?

 

何か精神的に問題を抱えている訳ではありませんでした。

どこにでもいる普通の少女でした。

 

これは唯物論の世界しか見えていない人にとって、どうにも理解ができない事件です。

 

学校では、人間をただの物質としてしか捉えていないで、物事を教えています。多くの人は、人間を肉体だけの物質であると認識していますので、日常生活でも大人は何かにつけて、そのような言葉を話しています。

 

病気になれば、その目に見えている症状だけを緩和しようと、医者は対処療法をします。

薬を使って、熱を下げたり、下剤を飲ませたり、血圧を下げたり、臓器を切り取ったりします。

 

風邪をひいて寝込んでいると、体に栄養を入れないといけないと言って、食欲もないのに無理に食事を食べさせようとします。

 

これは全て、目に見えている症状を緩和しようとする発想です。

 

動物は栄養学も消化吸収のメカニズムも医学的知識もありません。

しかし、宇宙の法則を知っています。

その宇宙の法則に則って生きています。

 

病気になれば、何も食べようとしません。

断食して、ただじーっと静かにしています。

栄養を取らないといけないと言って、無理に食べようとしません。

 

野生動物は、薬も飲みませんし、病んでいる臓器を切ったりしません。

 

でも、病気を克服してまた元気に活動します。

また、自分の死期が近いと認識すると、誰もわからないところに行って、静かに息を引き取ります。

 

野生動物の死骸があちこちに見ることはないでしょう。

交通事故以外は。

 

人間の肉体は、ただの物質の塊に過ぎないという発想で生きていると、先ほどの少女のように、辛そうなお父さんを、助けてあげたいという愛の表現として、殺人を犯してしまうのです。

 

人間は、肉体だけでなく、霊体、幽体、エーテル体という4重構造に作られています。

これは地球も同じです。

 

あなたは、これを信じれれますか?

 

信じなくて大丈夫です。

普通の人は信じられません。

信じられないなら、あなたは普通の人です。

安心してください。

 

私のようにちょっと、イってしまっている人は理解できるでしょう。

 

障害者施設で起きた大量殺人事件。

殺意の動機は恨みや金銭目的でもありません。

障害者は、生きている意味がないからという理由だそうです。

 

唯物論だけで物事を見ようとすると、考えもつかないような行動をとってしまう人が出てきてしまうのでしょう。

 

障害を持った人もこの世に命を授かって生まれてきたからには、使命があるのです。

魂的には、そのような人たちは高いレベルの人たちです。

 

あなたは、この地球上に何度も生まれ変わってきています。

輪廻転生ですが、何度も生まれ変わるのには理由があります。

それは、魂の向上がまだ不十分なレベルだからです。

 

この世で学んでまた魂の故郷に帰ります。

そして、課題をクリアして行きますが、合格点に達しない人はまた、この世に生まれて課題をクリアして行きます。

 

ロールプレイングゲーム(RPG)のようにです。

課題をクリアしていけばいくほど、武器を身につけて行きます。

その武器というのは、相手を攻撃するものではなく、その先の旅を続けていく際に、必要なものになります。

 

障害を持った方達は、魂的にもうすぐ合格点に達する人たちです。

あえて、身体に障害を持つことで、魂を向上させることができるからです。

 

目に見える物質だけでしか物事を判断することができないと、障害者は生きていても仕方がない人である。だからその肉体を消滅させてやろうという発想になってしまうのでしょう。

 

霊体である、幽体である、エーテル体である、という考え方を多くの人たちが理解できるようになると、凶悪殺人事件も無くなるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 



 

この宇宙には、目に見える世界と目に見えない世界があります。
目に見える世界とはあなたの顔の前に2つ付いている肉眼で見ることができる世界。

目に見えない世界とは、その肉眼を通して認識することができない世界です。

 

 

今の日本は物質的にはとても豊かです。世界中のものでも、簡単に手に入れることができます。飲食店でもミシュランの5星の評価をもらっている店がたくさんあります。

安全で、物が溢れていて、便利で、これほど豊かな時代を経験した時代は、2600年の歴史で初めてではないでしょうか?

 

 

しかし、目に見えない世界である精神世界はどうでしょうか?

毎年、自殺する人が後を絶ちません。その数は3万人と言われていますが、自殺認定を受けるには、遺書がないといけないので、実際の数字はその10倍とも言われています。

 

なぜ、目に見える世界では有史以来初めてと経験しているというほどの、豊かな世界を実現しているのに、目に見えない世界では、自殺するような人が増えてしまっているような、まずしい世界になってしまったのでしょうか?

目に見える世界と目に見えない世界は繋がっています。両方が豊かになって初めて、幸せな生活を送ることができます。

 

 

心も満たされ、体も満たされ、物心両面を豊かにしていくことが必要なのです。

しかし、戦後の日本は、物質面だけの豊かさを追求し、精神面の豊かさをないがしろにしてきました。

 

学校教育がその典型例です。
小学校に入ると、国語、算数、理科、社会、体育、図工、家庭科などと科目別に授業のカリキュラムが組まれ、それに沿ってそれぞれの科目を学びます。

そして、人によっては算数は得意だけども、国語が苦手とか、社会が得意だけども、理科が苦手とか、いう人がいます。
すると、苦手科目を平均点まで引き上げるようにと、指導されます。
大学まで行く人はかなり多いです。
高校へはほとんどの人が進学します。

 

このようなすべての科目を平均的に勉強して行く学校システムが戦後の教育システムでした。

このシステムは、いい部分もありますが、弊害も多いです。
中でも一番の弊害は道徳の授業です。

戦前の道徳といえば、「修身」と言って日本の偉人や、古典、神話の世界をたくさん学びました。

 

忠孝といったご先祖様を敬う、両親を敬う心を育んで行きました。
家族を大切にする心を育てる、という社会のシステムで一番の根幹をなす家族制度を大変重視しました。

 

3世代、4世代の大家族の中で生活するという経験を通して、おじいちゃんおばちゃん、ご先祖様を敬う心が自然と育まれて行きました。

 

サザエさんという漫画が国民的人気ですが、その理由は昔の日本の家庭を姿を表現しているからだと思います。

戦後の家庭はほとんどが核家族です。
日本国憲法にも個人の尊厳ということが強調されています。

 

その個人の尊厳ばかりを強調して行くと、どうなるかと思いますか?

一見、民主主義のいい部分かと思いがちですが、本当にそうでしょうか?

 

親から経済的に援助してもらって大学まで行かしてもらったのに、老後は親の面倒を見ないとか、親を殺す、兄弟を殺す、子供を殺すといった事件も決して珍しくありません。

 

このような個人の尊厳ばかりを強調して行くと、心は貧しくなって行きます。

ご先祖様、両親がいてくれたおかげで、あなたが今、ここに行きているのです。
その御恩をすっかり忘れてしまって、自分さえよければいいというような心が、目に見えない世界を貧しくして行くのです。

 

「忠孝」というような話をすると、封建的だ、とか時代錯誤だとか、軍国主義だ、右翼だ、という人がいます。

戦前の道徳教科書の「修身」には、このような忠孝をテーマにした物語がたくさん出てきます。

 

日本は、かつて、ロシアと清という超大国を相手に戦いました。
それまで鎖国政策により、近代的な軍事力や工業生産力など、数百年遅れていましたが、そのハンディキャップを見事に克服し、勝利しました。

 

人口もわずか3千万人という国力でです。
一方、当時のシナは6億人、ロシアは3億人の人口でした。

なぜ、このような奇跡的とも言える勝利を収めることができたのでしょうか?

 

「主権在民」という考え方があります。
国民主権と言ったりしますが、主権は国民一人一人にあり、国家というものは、国民の意思を反映して、設立運営される機関である、というものになります。

明治憲法にはこの主権という言葉はなく、日本国憲法になって、この言葉が取り入れられました。

 

あなたは、この国民主権を、いい考え方と思いますか?

 

個人単位だけで考えれば、都合のいい考え方かもしれません。
でも、国や民族単位で考えると、果たしてそうでしょうか?

 

ミツバチがいます。
はちみつを作ってくれるとてもありがたい昆虫です。

ミツバチの世界では嬢王蜂がいてその体は他のはちと比較しても巨大です。
蜂の世界では、その女王蜂を中心として、社会を構成しています。

そして、外敵から攻撃を受ければ、お尻についている針を相手に一刺しして、自分も死にます。
このようにして社会を守ろうとします。

 

日本はどうでしょう?

 

天皇を中心とした国体を形成しています。
そして、外から攻撃を受けたら、刀を使って相手と戦いました。
また、主君に対して、辱めを受けるような事態を招いてしまったら、刀を自らの腹に向けて刺し、死にます(切腹)。

 

このような天皇を中心とした社会を構成し、「武士道」といった精神世界を持っていました。

 

もし、ミツバチに女王蜂がいなくなってしまったらどうなるでしょうか?
もし、日本に天皇がいなくなってしまったらどうなるでしょうか?

おそらく、烏合の衆となり、バラバラに分裂して、外からあっという間に侵略を受け、日本という国は消滅してしまうでしょう。

 

 

明治の時代、超大国のロシアや清を相手に勝利を収めたかつての日本。
天皇を中心とした国体を有し、忠孝という目に見えない精神世界が、一般大衆の隅々にまで浸透していたために、そのようなありえないような勝利を収め、そして外からの侵略を防ぐことができたのです。

 

 

個人主義、自由主義、物質主義だけを追求するのではなく、徳を積み、ご先祖様を敬い尊ぶ精神世界を追求して行きたいです。
そうすれば、物質的豊かさと同様、世界が羨ましがるほどの精神的に豊かな国に変わっていくことでしょう。



 

皇居勤労奉仕団というものがあります。

 

皇居内を清掃するボランティア活動で4日間に渡り、だいたい15人から60名弱の団体で活動しています。これは戦後の昭和20年から始まり、今まで累計で100万人以上の人達が奉仕活動に携わってきました。

 

この皇居勤労奉仕は、戦後の荒廃時期に、東北の宮城県栗原郡の農村から青年達が、皇居の二重橋に雑草がおおい茂っていて荒れ果てているという話を聞いて、草むしりのお手伝いをしたい、と言って上京してきたことから始まりました。

 

事前に、二人の代表が皇居の門前を警備している皇宮警察官に相談に行きました。その連絡を受けた総務課長は即断で了諾します。

 

その後、昭和20年12月8日に宮城県から約60名の青年団が上京してきました。

当時は過酷な占領下で、極めて醜い状況の下にあるので、GHQがどのような措置を取るかわからない。皇室のために奉仕をするということで、GHQから逮捕されてしまう恐れもありました。

 

ある娘のうちでは、兄弟や両親と長い別れの水盃を交わして上京してきた人もいたそうです。

 

このような申し出をする方も、またそれを受ける方も命がけだったのです。

 

そのような決死の覚悟を決めて上京してきた奉仕団でしたが、GHQに拘束されることはなく、奉仕活動に取り組むことができました。

 

この話を聞いた昭和天皇は彼らと話をしたいと言い、奉仕活動をしている人達のところへ向かわれました。

 

正午近くになった頃です。静かだった奥御殿の石段の上にかすかに人の気配がするのでひょっと見上げると陛下がお立ちになってこちらをご覧になっておられる。

お付きの方が見えて陛下がお呼びだという。私は作業着のまま石段を登って御前に参りますと木下侍従次長さんのお取次で、いろいろと御下問を賜りました。

 

やがてご政務所へお帰りになりましたが、その後ろ姿を拝して、一同期せずして君が代を合唱しました。誰の目にも涙がいっぱいでした。(木下侍従次長「皇室と国民」より引用)

 

まさか昭和天皇が自ら奉仕団の元へきて、御言葉をかけられるとは、誰も想像すらしていませんでした。

 

陛下は宮城県の状況や列車の混雑状況、コメ作の状況などをお尋ねになられました。御会釈は30分ほど続きました。

 

そして、陛下は踵を返してその場を立ち去られました。

皆、感激のあまり胸がこみ上げてきて、誰からともなく、君が代の大合唱となりました。

 

そして、陛下は思わず立ち止まり、その君が代の合唱をじっと聞いていました。

その歌声は涙声となり嗚咽まじりとなりました。

 

それまで天皇陛下が、国民とそんなに身近に接するということはありえないことでした。

 

この奉仕団と天皇陛下との交流が、その後の国民と寄り添う皇室の原点だったのです。

この話が広まり、全国各地から奉仕団が結成されて、皇居に殺到するようになりました。

 

やがて、GHQが不信感を持つようになり調査をしましたが、背後に何も不審な組織もなく、ただ、純粋に皇室を思う国民の意思だとわかったのです。

 

このように国民から愛されている皇室は世界的に見ても稀です。

 

特に戦争に負けた、立憲君主制をとっていた国の君主は、滅びるのが常ですが、日本の

皇室の場合は、その逆で滅びるどころか国民から愛され続けているのです。

 

日本の君主制を破壊し、共産革命を起こすことを立党の精神として約100年前に作られた、日本○○党。戦争反対、平和、平和と表面上は国民受けするようなスローガンを掲げてます。

 

しかし、その実態はあくまで「打倒天皇制」なのです。

この立党の精神は、約100年間、決してブレることなく続いています。

 

この日本○○党は朝鮮総連とともに、破壊活動防止法に基づく調査対象団体として指定され、今でも公安当局の監視下に置かれています。

 

この破壊活動防止法は、あの地下鉄サリン事件を起こして日本中を震撼させた、オウム真理教に対してもその適用を見送られた法律です。

 

ですので、日本○○党はオウム真理教よりもはるかに、危険思想を持った暴力団体ということになります。

 

国民から愛されている歴史ある皇室を、このような危険思想を持った団代から守り、次世代に残していくことが、私たちの勤めではないでしょうか?

 

 

 

 

 

 

昭和20年10月、日本が敗戦した年にGHQのマッカーサーから、幣原首相に憲法を作成するよう指示が出されました。

 

そして、松本国務大臣を筆頭とする憲法問題調査委員会が設立され、憲法草案が作られました。当初は、新しい憲法が日本人の手によって作られようとしていたのです。

 

しかし、その原案をまだマッカーサーに提出する前に、毎日新聞にリークされて、昭和21年2月1日付けの一面に記事にされてしまいました。

 

その内容を知り、マッカーサーが激怒。今度はマッカーサー自らが作成した原案(マッカーサーノート)を元に、GHQの民政局長ホイットニーに憲法の作成を指示しました。しかもその期限は1週間でした。

 

(なぜ1週間にこだわったのかというと、2月12日がリンカーンの誕生日だったので、その日までに間に合わせたかったためのようです。)

 

その日本国憲法の作成に関わった民政局の職員は、24人。その誰もが憲法についての知識が全くない素人でした。ましてや日本の歴史や文化についての知識もほとんどありませんでした。

 

仕方がなく、ドイツのワイマール憲法や、ソ連のスターリン憲法、アメリカの独立憲法など世界各国の憲法の内容をコピーペーストし、マッカーサーノートに沿った形で、1週間後、半ばやっつけ仕事でその草案がまとまりました。

 

その草案をマッカーサーがチェックして、昭和21年2月、外務大臣官邸にて、吉田外相、松本国務大臣らの元にわたしました。

 

その時、「もし、この草案を日本国政府が受け入れることができないなら、天皇の身柄を保障することはできない」
と脅迫されました。

 

当時は、連合国から天皇の戦争責任を問うべきとの意見が大勢を占めており、天皇の身柄がどうなるのかはGHQの一存にかかっていました。

 

また、その草案を渡した後、「しばらく原子力エネルギーの暖に当たってくる。この草案を検討するように」と言ってGHQ民政局の職員は、部屋の外に一旦出て行きました。外の太陽エネルギーのことを、「原子力エネルギーの暖」と比喩した表現を使ったのでしょう。

 

その後、B29が上空を飛行する音が聞こえ、残された大臣たちは、広島、長崎の原爆投下の悪夢が頭によぎったそうです。

 

天皇の身柄が拘束されて、戦争責任を追及されるようなことは、決してあってはならない、という思いがすべての閣僚にありました。

 

仕方なく、断腸の想いで、そのマッカーサーGHQから提示された、屈辱的な憲法草案を受諾する閣議決定をすることにしました。その時、幣原内閣の閣僚は皆、くやし涙を流したそうです。

 

当時の幣原首相はこう述べています。
「我々は、このような憲法を決めてしまって、果たして子々孫々に対して、どう責任を取れば良いのだろうか?」

 

当時、GHQの民政局にいて、憲法草案を作成した職員たちはみな、この憲法は占領下の暫定的な憲法であり、いずれ日本が独立を果たしたのちは、日本人の手で新しい憲法が作られるだろうと、考えていました。

 

第9条を担当した、チャールズ・ケーディス氏は「日本国憲法が一度も改正されていないと聞いて驚きました。」と憲法学者の西氏からのインタビューに答えています。

 

また、国会の章と担当した、ハウゲ氏は「私は日本国憲法は暫定的な性格のものと、理解していました。」と。

 

内閣の章を担当した、エスマン氏は「私は不幸なことだと思いました。なぜならば、外国人によって起草された憲法は、正当性を持たないと感じたからです。」とインタビューに答えています。

 

この憲法を改正するにはどのような手続きが必要なのでしょうか?

まず、衆議院と参議院の国会議員、それぞれ総議員の3分の2以上の賛成を受け、国会が発議し、次に国民投票にかけます。その国民投票の過半数の賛成を受け、国民の承認を受け、初めて憲法が改正されます。

 

このような改正要件は世界中で一番厳しいものとなっています。

 

そのような厳しい改正要件ということもあり、日本の憲法は一度も改正されることがなく71年もの長い月日が流れてしまいました。

ちなみに他の国の憲法改正の数はどうかというと、
ドイツ  59回
イタリア 20回
フランス 24回
米国   6回
インド  90回
になります。

 

ではなぜ、マッカーサーはこのような厳しい改正要件をつけたのでしょうか?

 

当時、敗戦国の日本を占領するにあたり、WGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)というものを実行しました。

 

WGIPは何かと言いますと、日本人に罪悪感を植えつけて、二度と連合国(主に米国)に敵対できないような民族に、マインドコントロールしようというプログラムです。

そのWGIPの一環として、新憲法の制定がありました。

 

日本に軍隊を持たせない、とか家族制度の解体など、それまでの強い日本の源泉となっていた箇所を破壊するような憲法にしました。

 

また、簡単に改正されたりしないように、その改正要件も厳しくしたのです。

この憲法を平和憲法として、日本人の中に定着させるために、「GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判」をさせないよう、プレスコードを作り、これを検閲対象にしました。

 

このプレスコードは、昭和27年4月にサンフランシスコ講和条約の発効に伴い失効しましたが、今でも、忠実に、このプレスコードを守っている、マスメディアや国会議員の方々などいます。

 

占領時のマッカーサーの人気は絶大でした。
米国の当時のトルーマン大統領から、すべての役職を解任され日本から去る時、マッカーサーの偉業を讃えようと、自由の女神像と同じ規模の銅像を、東京湾に面した浜離宮に立てる計画や、マッカーサー記念館の建設、マッカーサー灯台の建設などの計画があったほどでした。(結局、これらの計画はその後、頓挫して立ち消えとなりました。)

 

なぜ、これほどまでに当時の日本人は
マッカーサーを慕っていたのでしょうか?

 

民主主義を教えてもらったからでしょうか?
戦後の食糧難の時代に、救援物資を送ってくれて飢えをしのぐことができたからでしょうか?

 

ある、おばあさんから、先日、こんな話を聞きました。

 

終戦後にマッカーサーが日本に来るまでは、日本女性は、男性の3歩後ろを歩くように言われ、高等教育を受けることもできないような社会でした。

 

そして、議員を選挙する権利も与えられていませんでした。それがマッカーサーが来てから、選挙権も与えられ、女性でも活躍できるような社会に変わっていった、と。

 

ちなみに、そのおばあさんは、マッカーサーの息子さんから秋田犬が欲しいと言われたので、秋田犬のブリーダーをしていたから、マッカーサーの宿泊施設まで家族で、秋田犬を届けにいったことがあったそうです。

 

歴史的な人物の評価というものは、その時代によって変化します。
また、人によってもその評価はまちまちです。

 

平和憲法を日本に残していってくれたマッカーサー。
ありがとう、と感謝している人。

 

改正するのにこんなに厳しい要件をつけ、米国の軍事力を背景に脅迫して憲法を押し付けたマッカーサー。

日本に大きな禍根を残していってくれた、と頭を抱えている人。

 

マッカーサーの評価については歴史家に任すことにしましょう。

 

何れにしても、時代が変化しても一度も改正することができない日本国憲法を、次世代に残していくことは、大きな禍根を残すことになるでしょう。

 

まるで氷河期に対応することができなかった恐竜のように。

 

 

 

 

 

中国人民抗日戦争70周年記念式典が2015年9月3日に北京の天安門広場で行われました。

軍事パレードは今までも定期的に行われていますが、今回は、それに加えて、抗日戦争70周年記念という特別な式典でもあり、世界各国から代表が参加しました。

 

ここで少し歴史の勉強をしたいと思います。

 

日本は第二次世界大戦で米国やイギリスなど連合国と戦いました。

そして、中国とも戦争しましたが、その当時の中国というのは蒋介石率いる国民党軍でした。当時の中国は無政府状態であり、中国各地に軍閥が組織され、内戦状態でした。

そのような状況で孫文や蒋介石が率いる国民党軍が北伐をして、南京に蒋介石を首席とする国民党政府が一旦成立しました。

 

しかし、毛沢東率いる共産党軍を完全に滅ぼすことができず、中国は完全に統一されたとは言えない状況でした。

 

日本軍(関東軍)は満州国を拠点として、蒋介石率いる国民党軍と戦いました。

当時、蒋介石率いる国民党軍は正規軍であり、一方の毛沢東率いる共産党軍は、地方の軍閥にすぎませんでした。

 

度々、国民党軍と共産党軍が協力して日本軍と戦おうという計画(国共合作)が出ましたが、蒋介石は徹底して共産党と手を組むことを拒否してきました。

しかし、蒋介石が軟禁される事件(西安事件)が起き、国共合作が実現します。

 

日中戦争(中国の言う抗日戦争)の間、毛沢東率いる共産党軍は後方にて直接日本軍と対峙することはほとんどありませんでした。

 

日本が連合国に対し無条件降伏し、中国全土から日本軍が引き上げると、蒋介石率いる国民党軍と毛沢東率いる共産党軍は再び内戦状態になります。

 

その後、日本軍の全面に立って戦力を消耗した国民党政府軍は、後方で力を蓄え、巧みな宣伝活動で人民を味方につけた共産党軍に敗れ、台湾に避難します。

 

蒋介石率いる国民党軍に勝利した、毛沢東率いる共産党軍は、1949年に北京を首都とする中華人民共和国(英語名PRC)を建国しました。

 

ここで簡単な計算をしてみます。

記念式典を行った2015年から、共産党が建国した年1949年を引くと66年となります。

日本が無条件降伏した年が1945年ですので、そこから計算すると70年となります。

66年だろうが70年だろうが、どうでもいいことかもしれませんが、問題は算数の問題ではありません。

 

日本軍が日中戦争で戦ったのは、ほとんど蒋介石率いる国民党軍であり、毛沢東率いる共産党軍ではなかったということです。

そして、共産党軍が建国できたのは国民党軍に勝利した為です。

 

当時の状況は複雑に入り組んでいて単純化できませんが、わかりやすく例えるならば、トーナメント線で、まず国民党軍と日本軍が戦って国民党軍が勝利。

(実際は、日本軍が圧倒的に勝利していましたが、日本軍が連合国に降伏した為に、中国から引き上げた結果の勝利となります)

 

次にその勝利者である国民党軍と共産党軍が戦って共産党軍が勝利。そして、勝利者である共産党軍が中国を建国した、という図式です。

 

つまり、今現在中国を建国して統治している共産党は、日本軍と全面に立って戦ったことが、ほとんどないということになります。

 

それがどういうことだ、何が問題なんだと批判されるかもしれません。

間接的にも、日本軍に勝利したことにはかわりないのではないか、と言われるかもしれません。

 

確かにそういう考え方でもいいのかもしれません。

 

でも、歴史的に検証すると、今、中国を統治している共産党は、蒋介石率いる国民党との戦いに勝利した結果、建国したのです。

 

日本軍に勝利した結果、建国したのではありません。

 

抗日戦勝利70周年記念式典は本来であれば、蒋介石が率いていた国民党が行う式典であり共産党ではありません。

 

国民党でも共産党でもどっちでもいいだろう、と怒られるかもしれません。

 

でも、徳川家康は豊臣家との戦いに勝利して江戸幕府を開いた、という歴史を、

徳川家康は織田信長との戦いに勝利して江戸幕府を開いた、と言われたら、

あなたはどう思いますか?

 

織田信長亡き後、その後継者となった豊臣家を倒したのだから、間接的には織田信長に勝利したと言えないこともないではないですが、本当にそれでいいのですか?

 

そんなことを言い出したら、歴史はめちゃくちゃになってしまうでしょう。

歴史に学ぶこともできなくなってしまうでしょう。

 

プロパガンダに振り回されるのではなく、歴史を学びたいものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

出光佐三氏は、大学を卒業後、小さな石油商店で働き始めましたが、いつかは独立しようと夢を持っていたした。その当時、家庭教師をしていたある資産家の日田重太郎氏から資金提供を受けました。

 

君の夢を実現するためにこのお金を使いなさい、と言って、その日田氏の所有していた家を売却したお金を、無利子、返却不要、事業報告も不要、ただし独立して兄弟仲良く事業をする、という条件で資金提供を受けました。

 

出光氏はその資金を元手に石油小売業の事業を始めますが、約3年ほどで全ての資金を使い果たしてしまいます。運転資金がなくなってしまったので、事業の継続を諦めていたところ、その日田氏から叱咤激励を受けます。

 

「たった3年で諦めるのか、運転資金がなくなったなら、他の家を売却してお金を調達する。その資金を使って5年、10年と続けなさい」と。

 

出光氏は戦前、日本国内だけでなくアジア各国に資産を持つ大企業でした。社員数も1000人ほど抱えていましたが、終戦とともに全てを失いました。

しかし、そんな時にも、やく1000人の社員を一人も解雇することなく、雇用しづづけました。

 

当時、出光興産ではタイムカードもなく出勤簿も定年もありませんでした。社員はいつ出勤してもよいという自由な会社でした。そしてどんなに業績が悪くても社員をリストラしないという方針でした。

 

戦後、出光氏は13人の侍に囲まれて孤軍奮闘していました。そのとき、13人の侍に対峙するには一つの刀が必要であると考えた。13人の侍とは国際石油メジャーです。

 

その刀とはタンカーです。当時の経済安定本部の金融局長に直談判してタンカーの建造の許可してほしいと訴えました。その結果2隻のタンカー建造の許可が出ます。

 

その2隻のタンカーのうち1隻は大手海運会社に決まり、残りの一隻をどの会社にするか紛糾しました。そのとき、運輸大臣が出光興産にするという鶴の一言で決まりました。

 

当時の日本の石油販売会社は全て外資のメジャーに支配されていました。

その中で唯一、日本の会社である出光興産が孤軍奮闘していたのです。

 

その出光氏の願いとは敗戦で打ちのめされた日本経済を立て直すためには、米国、英国の石油メジャーの支配から脱却して、安くて良質の石油を自ら手に入れることが必要不可欠であると持論を展開しました。

 

これは一企業の戦いではなく日本が真に独立するための戦いです。そのために刀が与えられたら、国際石油カルテルを打ち破ってみせます、と。

その出光氏の思いが当時の役人と大臣に通じたのです。

 

念願のタンカー、日章丸が進水式を終え処女航海に出ました。目的地は米国のサンフランシスコです。

当時世界最大級のタンカーをサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジの下をくぐりました。敗戦国の日本から世界最大級のタンカーが米国に着き、重油と軽油を積み込んで、日本に持ち帰って行きました。
 

 

日本では質の悪いガソリンが高値で売られていました。米国ヨーロッパの民間石油会社の代表からなる占領軍石油顧問団(PAG)からGHQへの働きかけの影響です。

 

日章丸は米国ロサンジェルスのロングビーチ港に着き、メジャー以外の独立系石油会社と契約して、安価で良質なガソリンを積み込んで日本に持ち帰りました。そのガソリンのブランド名を「アポロ」として販売しました。

 

また、米国の大手銀行(バンク オブ アメリカ)からガソリン輸入のための巨額の融資を受けることができました。当時としては破格の融資額でした。

 

その後、米国メジャーからの圧力により、出光興産と契約を結ばないという、米国西海岸の独立系石油会社の対応により、出光は窮地に立たされます。

 

その頃、中東のイランで巨大な石油利権を手にしていたイギリスに対し、イランが反撃に出ました。イラン国内で取れる地下資源はイランのものであると。そして、石油精製施設を国有化したので、イギリスは報復措置としてペルシャ湾にイギリス海軍を配備して経済封鎖しました。

 

そして、全世界に次のような通知を出し警告しました。

「イランの石油を買うことを禁ずる。イランと取引する者に対しては、必要と思われるあらゆる措置をとる」と。

 

イランはこのイギリスによる経済封鎖のために、極貧の状況になりイラン国民は飢えに苦しんでいました。

 

そのような状況で、出光氏はあるアメリカ人のコンサルタント会社を経営していたポール・B・コフマン氏から、イランの石油の購入話を持ちかけられました。

 

どの国もイランの石油には魅力に感じていましたが、大英帝国の海軍に対して、誰も立ち向かおうという気概のある国や業者はいませんでした。

 

出光氏をはじめ社内の重役達も皆そのリクスを感じ反対意見でした。しかし、出光氏はイランの石油を購入すると決断します。

 

「出光興産は国際カルテルの包囲網の中でもがいている、彼らは配下に収めた日本の石油会社と手を結び、出光興産を潰そうとしている。この我々の状況は国際社会におけるイラン国の状況と同じである。

 

イラン国の苦しみは出光興産の苦しみでもある。イラン国民は今、極貧の苦しみに耐えながら、イランの石油を買ってくれる海外からのタンカーが来るのを祈る思いで待ち望んでいる。これを行うのが日本である。そして出光興産に課せられた使命である。」と。

 

イラン国との交渉のために出光興産の役員がテヘランに行った。その時、イラン国の首相ムハンマド・モテザク氏とナンバー2の国会議員ハシビイ氏は次のように言った。

 

「我々は色々な国と契約を交わした。大きく値引きして譲歩もした。しかし、実際にタンカーをよこした国はない。」

 

難航した交渉がまとまり、いよいよ日章丸がイランに向けて出航した。航行先を知らされているのは船長と機関長だけで、他の乗組員には知らされていませんでした。この機関長は元海軍の機関兵で駆逐艦の乗組員でした。

 

この日章丸は表向きサウジアラビアに向かうことになっており、その後、航路を変更してイランに向かう計画でした。

 

日本を出航し数日後、航路変更をした時に、出光氏からの手紙が乗組員に対して読まれました。

 

「今から本船はイランの向かう、終戦後、出光興産は日本の石油産業確立のために猛進した。しかし、メジャーと彼らと手を組んだ石油会社のために、様々な圧力と妨害を受け、ついに包囲網を敷かれ、身動きが取れなくなった。

 

この絶体絶命の窮地を打ち破るために与えられたのが日章丸である。世界の石油業界は7人の魔女と呼ばれる欧米の石油会社に長い間支配され続けてきた。イランはそれに立ち向かった勇気ある国である。しかしイランはそのために厳しい経済封鎖を受け、彼を助ける者は誰もいない中、世界から孤立し、困窮に喘いでいる。

 

出光興産はイランの石油を購入すことによって、彼を助け、また日本の石油業界の未来に貢献する。今や日章丸はもっとも意義のある矢としてツルを放たれたのである。行く手には防壁防塞の難関があり、これを拒むであろう。

 

しかしながら弓は桑の矢であり、矢は石をも徹するものである。ここに我が国は、初めて世界石油大資源と直結したる確固不動の石油国策の基礎を射止めるのである。この矢は敵の心胆を寒からしめ、諸君の労苦を慰するに十分であることを信じるものである。」

 

「諸君も知っている通り、イギリスはイランの石油を積んだ船にはあらゆる手段を取ると宣言している。したがって今から日章丸と我々は、戦場に赴くのである。」と船長からのアナウンスが流れると、しばらくして乗組員から「万歳、万歳」と何度も何度も歓声が出ました。

 

ペルシャ湾に入りイランのアバダン港近くに入ると海岸沿いに子供達が皆手を振って、日の丸を掲げた巨大なタンカーを追いかけてくる。極秘裏に航行していた日章丸だが、イラン国民にはすでに噂となり、熱狂的に極東の遠い国から来たタンカーをイランを救う救世主のように出迎えた。

 

イギリスによる長い経済封鎖の中で、必死に生き延びて来たイラン人にとって、本当に石油を買ってくれるタンカーが現れたので、まさに日章丸はイラン人にとって希望の星だったのです。

 

その後、世界の通信社がこの事実を伝え、イギリス外務省は日本に猛烈に抗議をしました。そして、出光氏は記者会見をし、次のように発言しました。

 

「出光興産がイランの石油購入を計画したのは、国際石油カルテルの壁を打ち破り、自由競争の石油市場を作りたいと考えたからに他なりません。メジャーの手を離れたイランとの貿易は、それを可能にすることになるでしょう。なお、イランの石油はイラン国民のものであり、イギリスの主張は通らないと考えております。」

 

「私は、出光興産のためにおこなったのではない。そんな小さなことのために、日章丸の55名の生命を賭ける事は出来ない。このことが、必ずや日本の将来のためになると信じたからこそ、彼らをイランに送ったのです。」

 

このように強い口調で語ったのち、記者たちから拍手が起こりました。

 

日章丸は石油を積んで日本に向けて出航しました。途中、イギリス海軍に拿捕されるか撃沈される危険もありましたが、それ以外に座礁する危険もありました。

 

東京地裁で裁判になりました。原告であるイギリス資本の石油メジャーであるアングロ・イラニアン社は、日章丸が積んだ石油は、我々のものであるから返却しろ、という主張です。

 

裁判は結局、出光興産の勝利に終わりました。

 

当時は、サンフランシスコ講和条約が発効して、日本が独立国として認められたばかりの時代でした。

そんな時代に、日本の1企業が大英帝国を相手に危険を顧みずに抵抗したのです。

 

しかし、今の日本では隣の大国の機嫌を損ねないように、穏便に事なかれ主義がまかり通っています。米国に次ぐ世界第二の経済大国と浮かれていた時代も終わり、いつの間にか、日本は卑屈な小国と成り果ててしまったようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

言葉には現実化する力があります。

 

目標や夢など欲しいものを、周りの人に言葉に出して言ったり、紙に書いたりすると実現しやすくなる、と言われます。

 

言葉には霊(たましい)が宿っているのでしょう。

 

この言葉の力をうまく活用して、権力者は国を統治します。
例えば、日本を約7年間占領していたマッカーサー率いるGHQは、日本の新聞社や放送局に対して、プレスコードという通達を出しました。

 

それは、連合国やGHQに批判的な言論を一切してはならない、と言うものです。本や雑誌を出版しようとすると、必ず検閲されます。

 

もしその内容に先ほどの規定に引っかかる文言があれば削除されたり、出版そのものの許可が降りずに闇に葬られたりしました。

 

言葉の力を知っていたので、その言葉を社会に公表するマスメディアに統制をかけたのです。

 

このプレスコードによる発行禁止対象として、
極東国際軍事裁判の批判、
GHQが日本国憲法を起草したことに対する批判、
などがあります。

 

(ちなみに、このプレスコードは1952年に失効してますが、未だにこの通達を忠実に守っている大手マスメディアがあります。)

 

中国共産党も同じく、マスメディアを統制しています。
共産党を批判するような言論は一切禁止されています。
そして、共産党に都合のいい言論だけを公表します。

 

中国国内を統治している共産党は、隣の日本に対してもこのマスメディアに対する統制をかけています。

日本では、中国共産党が公表した言論だけを無批判にテレビや新聞で公表し、中国共産党に都合の悪い言論は、ほとんど公表されることはありません。

 

戦時中、大本営発表というものがありました。これは、海外各地の戦地で展開されている日本軍の戦況を、定期的に公表していたものですが、実際の戦況が悪化していっても、その事実が公表されることなく、都合のいい嘘の情報が公表され続けていました。

 

現在の中国共産党が公表している内容も、共産党に都合の悪い情報は公表されることはありません。

 

日中両国政府間の記者交換に関する交換公文、というものがあります。
これは、中国の意に反する報道を行わない、これに違反した場合、中国に支社を置き、記者を常駐させることを禁ずる。というものです。

 

(一部のマスメディアはこの規定に引っかかり、度々、記者を北京から引き上げさせられたりしています。)

日本の言論は、中国共産党の統制下にあるといっても良いでしょう。

中国に行くと多数のテレビチャンネルがありますが、その中で朝から夜まで放送されている、ある特定のシナリオで作られた番組があります。

 

その特定のシナリオとは、旧日本軍を悪玉にし、毛沢東率いる中共軍を善玉にして、悪玉をやっつけるヒーローとして毛沢東中共軍を描いたものです。

 

この単純なシナリオに基づいて、たくさんのテレビ番組が量産されています。全て共産党指導のもとにです。

 

日本と中国の間には条約が結ばれています。その条約の名前は「平和友好条約」となっています。

 

名前からすると、平和で友好な関係を維持しているように錯覚してしまいますが、実態はどうでしょうか?

 

戦争遂行のためによく使われる国家主導の情報工作でプロパガンダというものがあります。

これは、戦争するしか道がないということを国民に信じ込ませるために使われます。

 

中国共産党が国策として行なっている、小日本(中国が使う蔑視表現)を打ち砕き、悪を成敗したヒーロー毛沢東中共軍というシナリオのテレビ番組を量産して、中国人に反日感情を植え付けること。

 

日本の言論を統制することで、中国への批判を制限し、逆に日本人に自虐史観を植え付けて、中国に対する戦意を喪失させること。

 

考え過ぎかもせれませんが、軍事的な戦争状態ではなくても、すでに情報戦、心理戦で戦争状態になっている気がします。

 

取り越し苦労に終わって欲しいものです。