あなたは日本が大東亜戦争で負けた原因は、陸軍が暴走したからだと思っていますか?
実は、大東亜戦争のシナリオを裏で描いていたのは、コミンテルンのスパイである尾崎秀実だったのです。
コミンテルンとは、1919年にソ連(ロシア)で結成された共産主義政党による国際組織であり、世界で共産革命を起こすということを目的にしていました。
世界に共産革命を起こすにあたり、非常に邪魔な存在であったのは当時の日本帝国でした。
そこで、コミンテルンの基本方針として、資本主義国家(帝国主義国家)同士で戦わせて、国力を消耗させ、敗戦後の国民が、精神的にも経済的にも大打撃を受けている時に、共産革命を起こすという二段階シナリオを描いていました。
その方針に沿って、尾崎秀実は日本で活動します。
日華事変から蒋介石国民党軍との戦いを始めますが、途中何度か和平工作が実現しかかりました。その瀬戸際で、尾崎らのグループが妨害工作をし、和平が実現せず、最後の最後まで中国大陸での泥沼の戦争を続けることになります。
抗日戦線を続ける蒋介石国民党軍を倒し、日本と満州国と、新たに近衛内閣が作った親日政権である、汪兆銘中華民国がブロック経済を作り、東亜に新しい秩序を作るという、「東亜新秩序」という理論を近衛内閣が発表して、日本が中国大陸で戦う大義名分にしました。
昭和14年1月号の「中央公論」で尾崎秀実は次のように述べています。
これからの戦いの究極の目的を「東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設にあり」と規定し、そのための戦いを「聖戦」と言い、
「聖戦の意味について三思する必要がある。……一身を投げ打って国家の犠牲となった人々は、絶対に何らかの代償を要求して尊い血を流したのではないと確信する。東亜に最終的な平和をもたらすべき東亜新秩序の人柱となることは、この人々の望むところであるに違いない。」と。
また、三国同盟を結んでいたドイツがソ連に参戦した際、日本もソ連に参戦すべきという意見が政府内に出ましたが、その際、尾崎秀実は「中央公論」などに「ソ連に参戦しても日本にとって利益はない」というような投稿し、言論界をリードして世論を形成していきました。
そして、南方に進出すべきという意見を「中央公論」「改造」「朝日新聞」などに投稿し、世論を形成しました。
その結果、日本陸軍は、それまで北方に集中配備していた軍隊を、南方に大量に移動しました。
南方への進出理由は、蒋介石国民党軍を後方から援助していた、米国とイギリスの補給路を断つという事でした。
しかし、南方進出すれば、米国が日本に対して経済封鎖をするのは明らかでしたし、その結果、米国と戦争することになることも十分に予想されていたことでした。
なぜ、仮想敵国であるソ連と戦うことをせずに、米国と戦うリスクを選んだのでしょうか?
ここでも、尾崎秀実達が「新しい世界秩序を作るには血を流さなくてはならない」というような意見を、言論界でリードして世論を形成していき、陸軍もそれに沿うような形で、誘導していったのです。
広大な中国大陸で展開している軍隊を維持するだけでも大変なのに、それと同時に米国やイギリス、オランダなどと戦争をするとは、誰の目から見ても無謀な戦争でした。
尾崎秀実は「改造」昭和16年11月号で、「大戦を最後まで戦い抜くために」と題して次のように述べています。
「国民を率いて第二次世界大戦を戦い抜け」また、「勝ち抜ける」という楽観視もしていますが、初めから負けを意識させてしまっては国威高揚になりませんので、このように表現していたのでしょう。
「最終戦を戦い抜くために国民を領導することこそ、政治家の任務である」とまでいっています。
「最後の最後までアメリカ、イギリスと戦い抜け」と、「そのように国民をリードすることが政治家の務めである」、とあくまでもコミンテルンのスパイというのを表に出さずに、うまく戦意高揚させながら、コミンテルンのシナリオに従うように世論をリードしていきました。
尾崎は、論文を投稿するだけではなく、近衛内閣のブレーングループの一員という立場を利用して、大きな影響力を発揮することができました。
特に、日本陸軍は青年将校を中心とした革命思想を持った人たちがたくさんいました。
日本陸軍は、北一輝が書いた「日本改造法案大綱」をバイブルとして、515事件や226事件など、クーデターを繰り返していましたが、彼らの革命思想と、マルクスレーニン主義の共産革命とは、天皇中心とした国体を守るという点以外は、ほぼ共通していました。
尾崎秀実は、日本に共産革命を起こすということは全く表面に出しませんでした。なぜなら、そんなことを公にすると、憲兵隊や特高に捕まってしまうからです。
しかし、共産革命と共通項の多い、陸軍内部に浸透している革命思想をうまく刺激して、陸軍を暴走させていったのです。
尾崎秀実は、近衛内閣の政策研究団体「昭和研究会」や、毎週水曜朝8時からの政策勉強会「朝飯会」のグループの中に入り、様々な活動を行いました。そこで知り得た最高機密情報を、尾崎の上司であるゾルゲに報告し、モスクワに流していました。
尾崎の活動目的は、ソ連を日本の攻撃から守るということと、日本の機密情報をモスクワに流すということであると、昭和16年10月15日、尾崎が特高警察に検挙されたのちの取り調べで述べました。
ゾルゲは、何度も尾崎に日本陸軍がソ連に侵攻する様子はないか、神経質がくらい聞いていました。
ソ連にとって、ドイツと日本の両面から侵攻されるのをとても恐れていたのです。
日本陸軍が南方に移動するという報告を尾崎から受けて、モスクワに「帰国しても良いか?」と打電しました。
日本が南方に侵攻するということは米国と戦争となることでしたので、コミンテルンのシナリオ通り、資本主義国(帝国主義国)同士で戦わせて、消耗させ、敗戦後の疲弊した時に共産革命を起こすという戦略に、日本をはめることができたので、ゾルゲの役目は終わったということだったのです。
尾崎とゾルゲは巣鴨プリズンに拘留されましたが、とても和やかにゾルゲと廊下ですれ違ったりしていた、と同じ時期に抑留されていた三田村武夫衆議院議員が語っていました。
昭和16年12月8日に海軍は真珠湾攻撃を行い、陸軍は南仏印に進出していきました。
全て、尾崎秀実のシナリオ通りの展開になっていったので、達成感を感じていたのでしょう。
昭和19年11月7日、ロシア革命記念日に合わせて、ゾルゲと尾崎は共に死刑が執行されました。
日本はその後、ソ連を仲介とした和平交渉を持つ方針を取りますが、昭和20年8月8日、ソ連軍が満州や樺太に侵攻。日本が和平交渉の仲介の望みを託したソ連は、はじめから、日本に侵攻するタイミングを計っていたのです。
昭和20年8月15日、日本はポツダム宣言を受託しました。
見事なまでに、コミンテルンの陰謀にはめられた日本陸軍。
そしてその陸軍の暴走を阻止することができなかっった、日本政府や明治憲法。
日本が大東亜戦争で敗戦してしまった原因は、このようなことだと思います。
そして、敗戦後70年経った今でも、そのシナリオ(敗戦後の日本に共産革命を起こす)を実現するために活動している人たちがいます。
それは日本共○党や日○組という、明らかに「私は赤です」と公にしている、わかりやすい人たちではありません。
尾崎秀実は近衛政権の中枢の中で活動していました。しかも、尾崎が「赤」ということを知っている人は、妻も含めて誰もいなかったのです。