子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -39ページ目

皇室解体を目論み、日本国憲法を作成したトーマス・ビッソンとハーバート・ノーマン

 

 

 

 

GHQ占領下の昭和22年10月、日本の皇室11宮家が臣籍降下(皇室がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りること)しました。

 

実は、その原因を作った張本人は、「アーサー」というカバーネームを持つコミンテルンのスパイ、トーマス・ビッソンという人物だったのです。

 

彼は、日本国憲法を作成した、GHQ民政局の一員として潜り込んでいました。当初、この憲法は英文で書かれており、それを吉田茂の側近であった、白州二郎などが、日本語訳に直しました。

 

その翻訳にあたり、できるだけ日本側に有利になるような翻訳に心がけました。

 

例えば、88条では、
「すべての皇室財産は、世襲の遺産を除き、国に属する」と翻訳したのですが、それをコミンテルのスパイであるトーマス・ビッソンたちが見つけて、GHQ幹部に働きかけて「世襲の遺産を除き」という文言が削除されてしまいました。

 

この「世襲の遺産を除き」という一言が削除されてしまったために、これまで受け継いできた皇室財産がすべて没収されてしまい、皇室財産が逼迫してしまいました。(なお、三種の神器は没収されずに、そのまま受け継がれています)

 

その結果、直宮家(皇室、秩父宮、高松宮、三笠宮)だけ残していくしかないということなり、11宮家が臣籍降下をせざるを得なくなってしまいました。

 

この時の臣籍降下した11宮家は以下のなります。
(伏見宮、山階宮、賀陽宮、久邇宮、梨本宮、朝香宮、東久邇宮、北白川宮、竹田宮、閑院宮、東伏見宮)

 

戦前の天皇は、日本国中に広大な森林(御料林、御料地)を保有しており、その森林から得られる収益は莫大な金額でした。戦前当時の財閥並みの財産を所有していると言われており、関東大震災の時には、昭和天皇は日本政府に対し、莫大な資金援助をしました。

 

戦前に、財閥並みの皇室財産に対し批判的な意見を持つ人もいましたが、関東大震災など国家財政が逼迫した緊急時に、昭和天皇は莫大な資金援助を日本政府にしていたので、被災した日本国民にとっては、ありがたいことだったのです。

 

「世襲の遺産を除き」という一言が日本国憲法に残っていたら、11宮家はそのまま維持され、男系男子の皇族が減少してしまうという、今現在直面している皇室の危機にはならなかったでしょう。

 

ちなみに、マッカーサー司令長官は、この11宮家の臣籍降下について、直接指示していませんでした。

 

コミンテルンのスパイであるトーマス・ビッソンらによって、臣籍降下をせざるを得ない状況になってしまったのです。

 

もう一つの例では第98条を、
「この憲法は、この憲法に基づき発行した法律及び条約とともに、国の最高の法規及び規則の一群である。
これに反する法律・命令・詔勅及び国務に関するその他の行為の全部またはその一群は、その効力を有しない」
と翻訳しました。

 

これは、日本国憲法が発行される昭和21年11月3日から、それが施工される昭和22年5月3日までの間に成立された法律は、憲法と同等の地位を有するというものになります。

 

日本国憲法が発行される昭和21年11月3日の直後に、皇室典範を改定してしまえば、憲法と同等の地位となります。

 

これにより、その皇室典範を修正をするために、国会を通さなくてはならないという状況を阻止しようと考えたのです。

戦前は、大日本帝国憲法(明治憲法)と皇室典範は並列の立場でした。

しかし、この翻訳もビッテルらに指摘されてしまい、次のように修正されてしまいました。

 

「この憲法は、国の最高規範であって、その条規に反する法律、命令、勅語及び、国務に関するその他の行為の全部または一部は、その効力を有しない」と。

 

この結果、皇室典範に政治家が関与することができるようになってしまいました。

これはどういうことかというと、仮に、国会議員のうちの一定数を、革新勢力に確保されてしまったら、合法的に皇室制度を改定または解体することが可能となってしまった、ということになります。

 

トーマス・ビッソンは、太平洋問題調査会(IPR)の機関誌『パシフィック・アフェアーズ』1944年3月号で次のように述べています。

 

「日本国民が天皇にそむき、天皇を退位させるならば、その行為は賞賛され、支持されなければならない。もしも彼らがそうしないのならば、彼らが必ず黙従すると考えられる根拠があり次第、彼らに代わってただちにその措置をとらなければならない。

そのような方針は連合国がとりうるものではない。なぜならば、それはきわめて微妙な問題であり、天皇崇拝は、日本国民の意識の中にあまりにも深く根をおろしているからだ」という主張もあろう。

 

こういった反対論に対する答として言えば、だれひとり、一日とか一ヵ月かのうちに、あるいは米国軍政府の命令によって成果を挙げることは期待していない。

深部からの革命による以外には、一夜にして成果をもたらすことはできないであろう」
(『資料 日本占領・ 天皇制』)

 

トーマス・ビッソンは、占領軍による命令により天皇制を廃止するのではなく、日本人の深部からの革命によって、それはなされるべきである、と考えていました。

 

そのために、日本国憲法の皇室に関する条文に関して、日本政府からの果敢な抵抗を受け入れず、将来、日本人自らの革命により解体していくように修正しました。

 

占領時のGHQに紛れ混んでいた、コミンテルンのスパイであるトーマス・ビッソンたちが、日本国憲法に埋め込まれた時限爆弾によって、日本の皇室は存在の危機に直面しているのです。

 

 

 

 

 

闇に葬られたジョン・マクマリー駐中国大使の報告書

 

 

 

 

昭和6年(1931年)9月、満州事変が発生し、日本軍(関東軍)は満州全土を占領し、翌年の昭和7年に満州国が建国されました。

 

昭和10年(1935年)11月、米国国務省極東部長スタンレーホーンベックに対し、ジョン・アントワープ・マクマリー駐中国大使は、次のような報告書を提出しました。

 

「日本の徹底的敗北は、極東にも世界にも何の恩恵にはならないであろう。

それは単に、一連の新しい緊張を生むだけであり、ロシア帝国の後継者たるソ連が、日本に変わって極東支配のための敵対者として現れることを即すに過ぎないであろう。

こんな戦争でアメリカが勝ったとしても、その成果は恐らくソ連が独占してしまうことになる。」と。

 

マクマレーは、日本の脅威よりもソ連の脅威を警戒していました。
日本に対して経済制裁を行なって日本に圧力をかけ、その後、日本と戦争をして勝利したとしても、米国の国益にとってマイナスとなるだけであると、日米開戦の6年前である昭和10年の時点で主張していました。

 

スタンレーホーンベックは、このジョン・マクマリーからの報告書を破棄してしまいました。

 

彼のアシスタントとして働いていた人で、アルジャー・ヒスという人物がいます。このアルジャー・ヒスはコミンテルンのスパイでした。

アルジャー・ヒスにとって、このジョン・マクマリー駐中国大使の報告書は都合が悪い内容でした。

 

なぜなら、アルジャー・ヒスのコミンテルンから与えられた役割は、日米開戦を実現することでした。

 

そのために、まず米国の政府高官達に信頼されるように活動していたのです。

そして、のちにルーズベルト民主党代表の側近にまで上りつめます。

 

アルジャー・ヒスにとって、何としても日米で戦争を起こさせなくてはなりませんでしたので、スタンレーホーンベックに対し、ジョン・マクマリー駐中国大使の報告書を握り潰すように、スパイとして誘導したのでしょう。

 

ジョン・マクマリー駐中国大使が、昭和10年に懸念していた通り、昭和20年に米国が日本に勝利したのち、中国に共産党国家が樹立。また、朝鮮半島の北半分も共産主義国家となりました。

 

もし、このジョン・マクマリー駐中国大使の報告書が、ルーズベルト大統領に届いていたら、どうなっていたでしょうか?

 

しかし、すでに米国民主党内には、アルジャー・ヒスを筆頭に、コミンテルンスパイ達が活発に活動していたのです。

 

 

 

 

 

人工妊娠中絶は子宮内殺人です。

 

 

昭和23年に優生保護法ができ、人工中絶が合法化されました。
(平成8年に母体保護法となりました。)

 

それまで日本では、人工中絶は堕胎罪により、殺人罪とされていましたが、この法律ができたために、昭和30年(1955年)では年間110万人以上の胎児が、闇に葬られました。

 

その数は年々減少し、平成26年(2014年)では18万人余りと公表されています。
あくまでの公表されている数ですので、実際は、病院に行かずに薬物で堕胎することもできるようなので、その3倍くらいはいるのではないかと言われています。

 

マザーテレサは、平成6年(1994年)に開かれたカイロ人口会議で次のようなメッセージを伝えました。

 

「平和の最大の破壊者は中絶です。母が子を殺せる社会で、人間同士の殺し合いをどうして止められますか?」

 

カトリック教など、堕胎を禁止している宗教は多いです。

 

もともと、人工中絶が許されていたのは、レイプされた時とか、母体に悪影響が出て生命の危機の可能性があるなど、止むに止まれぬ事情があった時にのみ、許されていました。

 

それが、戦後ももなく、経済的な事情で、簡単に人工中絶が許されるようになりました。

 

人工中絶がなぜ悪いかというと、使命を持ってこの地球上に生まれてこようとしていた魂を、まだ、生まれる前に、闇から闇に葬ってしまうことだからです。

 

あなたが地球上に生まれてくる確率は、どれくらいだと思いますか?
数兆分の一の確率だそうです。

 

あなたが生まれてくる確率は奇跡なのです。

 

そして、あなたはお父さんとお母さんを選んで生まれて来ました。

目に見えない世界から、地上を見下ろして、どの親のところに生まれようかな、と探しています。

 

そして、あの親のところに生まれようと思って、神様にお願いします。

目に見えない世界から、妊婦さんのお腹の中に、産土(うぶすな)の神様によって、魂が結ばれます。

 

お腹の赤ちゃんに魂が宿る瞬間です。

 

そして、生まれる前に今世で行う使命を決めて来ます。

そんな人間業ではとてもなし得ない、神様の世界の働きによって、奇跡的に生まれてこようとしていたのに、その親の経済的な理由という身勝手な理由で、ぐちゃぐちゃに引っ搔き回されて、闇に葬られてしまったら、その子の魂はどうなってしまうでしょうか?

 

この地球上は魂を磨くための学校です。
そのせっかく与えられた、魂を向上させる機会を奪ってしまうのです。

 

このように、親の身勝手な理由で闇に葬られてしまった魂は成仏できずに、悪さをします。

悪霊が地上で生きている人間に働きかけて、あの世に道連れにしていくという話を聞いたことがあるかもしれません。

 

オカルト的な話で、怖くて、信じられないという人がいるかもしれません。
唯物論で目に見えない世界を信じない人にとっては、理解できない世界でしょう。

 

JAXA(当時ISAS)が、平成15年(2003年)「はやぶさ」という小惑星探査機を打ち上げました。

 

小惑星「イトカワ」からサンプルを採取し、貴重な映像を送ってくれました。

一時、故障のため行方不明になってしまいましたが、電波を送り続けていたら、信号をキャッチして、はやぶさを見つけることができました。

 

そして、地球から信号を送って、その軌道を修正して、はやぶさは、サンプルを地球に持ち帰ってくれました。

 

このように、遠隔で遠く離れた衛星に電波を送ることで、その軌道を操ることができます。

 

このような話は、唯物論者の科学者でも信じます。

それと同じで、宇宙に漂う霊が地球上に人間に信号を送って、その行動を操ることはできるのです。

 

ある家で強盗殺人がありました。
その家の前の交差点では交通事故が多発して、死者が頻繁に発生しましたが、そこにほこらを作り、お経をあげて供養したら、それ以降、交通事故がなくなったという話があります。

 

これも、成仏できない霊が、宇宙から電波を送って、地上の人間の行動を操作して、あの世に道連れにしようとした結果です。

 

交通事故で死亡する人の数は年々減少していますが、平成27年(2015年)で4000人余りいます。

その数は事故後24時間以内で死亡した数ですので、実際はもっと多いでしょう。

 

また、自殺者も平成26年(2014年)で2万5千人余りいます。その数も遺書が見つかった場合に自殺認定されるので、実際はもっと多いでしょう。
うつ病など精神疾患の人の数もかなりいます。

 

これらの人たちの多くは、成仏できない霊たちの影響を受けているのです。

 

闇に葬られてしまった流産児たち。

 

まだ結婚前で妊娠してしまったとか、堕さないと別れると言わてしまったとか、経済的な理由で簡単に人工中絶をしてしまう人達。

 

色々な事情があるでしょう。本人も悩み苦しんだ結果、仕方なく堕胎すると決めてしまうこともあるでしょう。

 

しかし、因果は巡ると言います。この世は、業の世界です。悪因(悪い原因)を作れば、悪果(悪い結果)が出て来ます。

 

決して脅かすつもりはありません。
ただ、これは宇宙の真理なので、避けて通ることはできません。
多くの宗教が堕胎を禁止していることからもわかります。

 

少子化対策のために、多額の税金を使うのではなく、生命の尊厳を教えていくことに多額の税金を使うべきです。

そうすれば、人口妊娠中絶も減り、出生率も上がっていくことでしょう。

 

また、母体保護法を改正して、人工妊娠中絶を禁止することです。

そうすれば、主要国の中で突出している日本の自殺者や、交通事故死、うつ病などの精神疾患の患者数も激減することでしょう。

 

マザーテレサは、カイロ会議で次のよなメッセージを伝えました。

 

「まだ生まれ来ぬ子も含め、生命は最も美しい神からの贈り物であるのに、今日、世界中で戦争や暴力や中絶により多くの生命が奪われているのは耐えられないこと。神以外のだれも生命を奪うことはできない」

 

 

 

 

 

 

なぜ、マスメディアは通州事件を報道しないのか?

 

 

 

昭和12年7月に起きた通州事件の新聞報道は、大手新聞社を始め、各社報道合戦を繰り広げ、真実を伝えていました。

 

しかし、戦後の大手新聞を始めとするマスメディアは、報道規制がかけられているため、真実を伝えていません。

 

あなたは、言論の自由が阻害されていたのは、戦前の帝国主義の時代であり、民主化された戦後は、言論の自由も許されるようになった、と思い込んでいませんか?

 

実は、戦後の日本は報道規制の歴史なのです。

 

昭和20年9月、GHQはプレスコードというものを発令し、参謀第二部(G2)管理下のCCD(民間検閲支隊)において検閲を実地しました。

 

新聞、ラジオ、政治家の声明、個人の手紙類は全て、検閲されて、GHQの気に入らない内容は、削除されました。

 

そして、すでに戦前に出版されていた書籍の中で、GHQの気に入らない書籍は、流通網から回収されて処分されてしまいました。(焚書)

 

昭和27年4月、サンフランシスコ講和条約に伴い、このプレスコードは失効しました。

 

次に、中国共産党と交わした、記者交換に関する取り決めがあります。

昭和39年(1964年)、日本の報道各社が、中国で活動する際の取り決めを定めた、「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」が、中国共産党と取り交わされました。

 

この協定は、昭和47年(1972年)9月、日中国交正常化に伴い昭和48年末で失効されましたが、昭和49年1月、新たに「日中両国政府間の記者交換に関する交換公文」が交わされました。

 

その内容は、昭和35年(1960年)に、周恩来が日本側に公式見解で示した「政治三原則」を遵守することとなってます。

 

政治三原則とは、
1、中国敵視政策をとらない
2、「二つの中国」をつくる陰謀に参加しない
3、中日両国の正常な関係の回復を妨げない
というものです。

 

日本のマスメディアは、この政治3原則に違反しないように、中国共産党の意に沿った形で報道しています。

 

なぜなら、この政治3原則に違反すると、多くの報道機関が置いている北京支局が閉鎖され、特派員は強制出国させられてしまうからです。

 

通州事件について、日本のマスメディアが報じないのは「中国共産党に対する敵視政策」とみなされ、「中日両国の正常な関係の回復を妨げ」てしまうからでしょう。

 

真実を知りたい、真実を伝えて欲しいという欲求は、多くに人にあると思いますが、報道規制がかけられているマスメディアに、その希望を託すのではなく、自分の頭で調べて、考えて、行動していくしかありません。

 

 

 

 

 

通州事件 真犯人は蒋介石と中国共産党だった

 

 

 

今から80年前の昭和12年7月29日、北京郊外の通州というところで、支那人による日本人を標的にした残虐テロ事件がありました。

 

実は、このテロ事件を裏で仕組んだのは蒋介石と中国共産党だったのです。

 

「天津文史資料選集」第21集(天津人民政治協商会議天津市委員会文史資料研究委員会編)に収録されている、「冀東保安隊通県反正始末記」(張慶余 執筆)から引用させていただきます。

 

これは通州事件の主犯格の張慶余(ちょう・けいよ)自ら書いた始末記になります。

蒋介石政権と日冦(ニッコウ)(日本政府)とで結んだ、塘沽(タンクー)協定の後、冀東は非武装地帯とされた。

 

次に蒋介石政権は河北省の首席・于学忠(う・がくちゅう)に密命を下し、特殊警察総隊を作り冀東非武装地帯に入れ、警備させた。

 

于学忠(う・がくちゅう)は、私、張慶余(ちょう・けいよ)と張硯田を選出し、第一総隊長と第二総隊長に任命した。

 

その営長と連長も第51軍から選び、訓練を開始した。
1935年に冀東地区に移動し駐屯した。そして、冀東防共自治政府を殷汝耕(いん・じょこう)が樹立させ、名称を冀東保安隊に改称しして、偽政権の統括となったのである。

 

私の長男、張玉珩(ちょう・ぎょくこう)は、私が偽冀東政権で有力な責任者の席に付いているという話を聞き、

 

私が国家に反したと判断し、恥ずべき父親だ、私と親子関係を切るとまで言いだし、その言葉を新聞にのせた。

 

妻の于徳三も速やかに反正の方法を講じるべきで、さもなければ親友郷党から問題視されるから逃げよう、と言いだした。

 

そこで、私は極秘裏に妻に告げたのである。「私の意思を今すぐにはっきりさせるのは適当でない。けれども、近い将来には必ず明らかになる。息子に伝えて欲しい。耐えてまち、お前の父親のこれからの行動を見ていろ」と。

 

1935年、宗晢元(そう・てつげん)が冀東政務委員会に就任して間も幕のことだった。

 

私と張硯田は極秘のうちに張樹声(ちょう・じゅせい)(国民党軍の将軍で哥老会の会員)に頼んで、「宗晢元を直接紹介してもらいたい。できれば宗に従って、抗日戦線に加わりたい」と伝えた。

 

張樹声は快諾し、すぐに手配してくれた。宗は非常に喜び、私たちと会いたがってくれたが、日冦や漢奸(漢民族の裏切者のこと)どもの目につくのを極度に警戒し、天津の旧イギリス疎開の17号路にある宗の自宅で私と張硯田と会談した。

 

その席で宗は「元々お二方は祖国を熱愛し、また最近は俊傑(張樹声のあざ名)兄が、お二方が力を合わせて抗日したいと言われていると伝えてくれました。

私は、ここに国民党政府を代表して心から歓迎の意を表します。

 

現在は、にせ冀東政権問題があるので、お二方に置かれては注意を怠らないようにしていただきたい。

すなわち、宗哲元は決して国を売りません。お二方には今日以降私に外で合わないように注意を払い、合わせて立場を固く守り、決して動揺することのないようにお願いしたい。」

 

と語った。宗は続けて「軍隊を訓練させて強化し、準備を整えて日冦の侵略を防ごうではないか」と付け加えた。

 

言い終えた宗は、準備させた一万元を、私たちそれぞれに手渡した。
私たちは宗に向かって感謝の言葉を述べ、次のように言った。

 

「私たち二人は今後、心を一つにして宗委員長に従い、国家の為に尽くします。」

私たちは宗と硬い握手を交わして別れたのでだった。のちに保安隊が通県(通州のこと)で義挙(起義)したのは、この日の会談の約束を果たした結果である。

 

盧溝橋事件発生後、宗哲元が北平(北京)にいなかったため、私は腹心の劉春台(りゅう・しゅんだい)(ニセ冀東教導訓練所副署長)を密かに北平(北京)に向かわせ、河北省首席・馮治安(ひょう・ちあん)に行動指針をどうするか伺った。

馮治安は劉に次のように告げました。

 

「今の所、我が軍は日軍同様まだ戦略が決まっていない。張隊長に伝えて欲しいのは、しばらく軽挙を控えることです。我が軍と日軍が開戦する時を待って、その時は、張隊長に不意をついて通州で義挙する一方、兵を分けて豊台を側面から攻撃し、挟撃の効果を収めようではないか」

 

さらに劉春台にこう付け加えた。
「腹心の人物を登用派遣し、第29軍参謀長の張越亭と普段からいい関係を維持するといい」

 

劉春台は、馮治安に別れを告げるとすぐに張越亭に面会を求め、良い関係を作った。張越亭もすぐに私と張硯田の保安隊を戦闘序列に加えたのであった。

 

この時、日冦の通県に駐在する特務機関長、細木繁中佐は、第29軍が通県に侵攻するのを防ぐため、特に私と張硯田を招集して、軍事会議を開いた。

会議は通州の防衛についてで、彼は、5千分の1の地図を前に私たちに地図を基にした、防衛計画を作るように命じた。

 

私は立ち上がってこう述べた。

「私たち二人は、軍人出身です。学問もなく、難しい軍用地図はよく分からない。でも、我々には自信があります。通州をしっかり守り抜くことができますし、皇軍とともに戦えば、第29軍をつき崩すことは可能です。

 

ただ、目の前にある兵力は少なくこのままではダメです。私の考えを申し上げれば、あちこちに駐留させている各所の保安隊を通州に集中させてから命令を待って、それから作戦会議をさらに開いた方が良いと思うが、いかがですか」

 

細木繁はもっともだと頷き、その案はすぐに許可された。加えて、彼は我々を忠実で頼りになると信じたらしく、各地にバラバラで生活している日僑を、保護の目的で通州に集中させることに決定した。

 

私は、すぐに張硯田と手分けして、所轄のあちこちに分駐している部隊を通県(通州)に集めるよう指示した。

 

私は、日冦が大挙して南苑を侵略し、併せて飛行機を飛ばして北平(北京)周辺を爆撃するのを見て、戦機はいよいよ近いと知った。
このまま座視しているわけにはいかなくなり、遂に、7月28日夜、通県で義挙すると決定した。

 

直ちに私は兵を出し、通州城の城門を封鎖し、市内の交通を断ち、電信局や無線台を占拠させた。合わせてニセ冀東政府を包囲し、漢奸、殷汝耕を拘束させた。

私は、同時に西倉に兵を向かわせ、特務機関長、細木を捕らえた。細木は銃声が四方から響くのを聞いて異変を察知、特務の十数人を率いて抵抗した。

 

細木は片手に銃を持ち、片手で我が軍の将兵を指差して大声でわめいた。

「お前たちは速やかに保安総隊へ帰れ。お前たちは生き残れないぞ」細木は話が終わらないうちに、我が軍の乱れ打ちにより射殺された。

残りの特務の連中は形成不利と考え、速やかに特務機関内に身を返し、門を閉じて死守しようとした。

 

我が軍は大砲と機銃で猛烈に掃射し、集中掃討したのだった。激戦は7月29日午前9時ごろに至り、日冦は一部の逃亡者を除き、頑固に抵抗したものはことごとく殲滅した。

 

日冦は爆撃機24機を派遣して、我が通県起義軍に対して爆撃を繰り返し、7時間の長きに達した。私の命を奉じて戦ってきた蘇連章の団は、対空装備がないので全く支えきれず、ここに置いて軍服を脱ぎ城を捨てて逃げた。

 

張硯田と蘇連章らの相次ぐ逃亡はこの通県反正に対する影響上、極めて不都合だった。程なく私は蒋介石から電話で招かれ、南京へ向かった。

蒋介石は私にこう語りかけた。

 

「あなたはこの度、通州で蜂起し、破れて未だに栄誉を得ていないが落胆することはない。損失は私が整理して軍政部から補充するから、しばらく休んで静養し、その後再び戦線に復帰してもらいたい」

 

さらに、蒋介石は、
「あなたは殷汝耕を捉えたのに、なぜ殺さなかったのか」
と問うので、私は、

 

「当時はまさに逆賊の殷汝耕をさらし首にして見せしめにし、民の怒りを鎮め、はっきりさせようと銃殺を考えました。
けれど、もっと良いのは北平(北京)の宗哲元委員長のところまで護送し、中央の法律で処罰してもらうのが妥当だ、とニセ冀東教導訓練所副所長の劉春台が阻んだのです。
と答えた。

 

蒋介石は良いとも悪いとも言わずに、私を旅館に帰って休ませ、明日、何応欽部長のところへ行き、再度協議しようと言われた。

 

1938年、改めて私は第91軍副軍長に派遣されたが、私は病気を理由に断り、遂に職につかなかった。

ーーーーーーーーーー
以上、引用終わり。

 

通州事件の首謀者である、張慶余(ちょう・けいよ)は冀東保安隊第一隊長とて、国民党軍29軍の攻撃から日本人居留民を保護することを任務としていました。

 

しかし、張慶余は、その国民党軍第29軍の宗哲元と裏で繋がっており、日本人虐殺のための活動資金までもらっていたのです。

 

冀東政府を樹立した殷汝耕は元々、国民党軍にいた人であり、日本傀儡(かいらい)政権と言われた冀東自治政府を樹立した時、蒋介石は裏切り者として逮捕状を出していました。

 

蒋介石は張慶余に対し、
「あなたは殷汝耕を捉えたのに、なぜ殺さなかったのか」

と問いただしたのは、そういった背景があったからです。

 

いつも私たちを守ってくれている保安隊の人たちを信じて生活していた、日本人たち。その保安隊が突然日本人を皆殺しにしろと、いって夜中に襲ってきたのです。

 

どれほど驚いたことでしょう。そして、見るも残酷な方法で無抵抗な女子供たちを、強姦、略奪、殺人を犯し、それをシナ人たちは楽しんでいたのです。

 

その首謀者である張慶余は、通州事件の2年前から敵の国民党軍と内通して、日本人殺戮のために準備していたのです。

 

細木特務機関長をはじめ日本人居留民たちは、まさか、張慶余が敵のスパイであったとは全く知らずにいました。

 

しかも事件後、張慶余は蒋介石から呼び出され、
「通州で蜂起し、破れて未だに栄誉を得ていないが落胆することはない。…その後再び戦線に復帰してもらいたい」
と言われました。

 

つまり、通州事件を裏で画策していたのは、蒋介石だったのです。

また、「盧溝橋事件風雲編」(中国人民大学出版社刊)が盧溝橋事件から50年たった1987年に出版されました。

 

これは、抗日戦争50年記念事業として、中国の歴史書として中国共産党が編纂したものになります。

 

この中で、通州事件についても次のように触れられています。
1935年、宗哲元と張慶余、張硯田との秘密会談について書かれた後、

 

ーーーーーーーー
第29軍の宗哲元は冀東保安隊を差別することなく、努力して味方として団結させた。そして、のちに保安隊が通州で反正したのは、まさにこの時の約束と直接的な関係があったのだ。

 

冀東保安隊と29軍は、ずっと極秘のうちに行き来し続けたのである。

冀東保安隊は日軍、敵警察、憲兵と日鮮浪人500人を殺害し、河北郡民の抗日闘志を示した。

ーーーーーーーー
以上、引用終わり。

 

500人というのは中国共産党が得意とする水増しです。
実際の殺害された人数は250余人となります。

 

戦後、蒋介石も中国共産党も、通州事件について謝罪していません。また、日本政府も戦後、一切この事件について外交問題にしていません。

 

どんなに南京大虐殺について中国共産党から、歴史認識を改めるように謝罪要求されてもです。

 

この中で「反正」という言葉が出てきますが、これは「反省」ではありません。間違いを改め正しい状態に戻すという意味で、この場合は、日本の侵略という間違った状態を改め、日本の傀儡政権である冀東政府を倒し、日本人を抹殺すること、というような意味で使われています。

 

無抵抗な女性(妊婦)や子供達(赤ん坊)、多数の日本人居留民を、シナ人による残虐な方法で強姦、略奪、殺人を犯した通州事件は、蒋介石や中国共産党にとっては「反正」であり、輝かしい抗日戦であり、日本に謝罪するようなことではないのです。

 

 

 

 

 

 

幻の東京オリンピック

 

 

 

あなたは、東京がオリンピック開催国に選ばれたのは今回が2度目だと思ってますか?

 

実は3度目なのです。

 

昭和39年はご存知の通りですが、その前の昭和15年(1940年)にも東京での開催国が決定されていたのです。

 

しかし、その3年前の昭和12年(1937年)に起きた盧溝橋事件をきっかけに、中国と日本は全面戦争へと突入し、第二次世界大戦となります。そして、昭和15年のオリンピック開催は中止となってしまいました。

 

次回のオリンピックは2020年です。その3年前に当たる2017年に、80年前に起きた盧溝橋事件と同じような事件が起きると思いますか?

 

昭和12年7月7日、中国国民党軍の第29軍(宗哲元)と日本陸軍は盧溝橋を挟んで対峙していましたが、中国共産党軍の劉少奇(りゅう・しょうき)の工作にはまって、戦闘行為が始まってしまいました。

 

当時の首相、近衛文麿は不拡大の方針を出すが、杉山陸軍大臣の強行姿勢に押されて、中国大陸に派兵する方針が決まってしまいました。

 

その時、参謀本部にいた石原莞爾少将が近衛の別邸である荻外荘(てきがいそう)に訪れ、直談判します。「支那に兵を出すのは反対であり、ソ連との戦争に備えて満州を強化すべしである。陸軍の支那への動員案を否決してほしい」と。

 

しかし、近衛首相は陸軍を抑えることができずに、大陸へ軍隊の派兵を決定しました。

その後も何度か、北京郊外で日本軍が中国国民党軍29軍から銃撃を受けたため、日本政府もやむなく3個師団の派兵を実行に移しました。

 

その後は、杭州湾上陸作戦、南京城攻略、漢口攻略など、中国全土に戦線が拡大していき、泥沼の戦争へと突入していきました。

 

時代を今に移しますと、舞台は盧溝橋から尖閣諸島に移ります。

 

ここで、中国共産党軍は挑発行為を繰り返しています。

日本は隠忍侍従。自衛隊を派遣せず、警戒を続けています。

 

ここまでは、80年前とほぼ同じです。

問題はここからです。

 

中国共産党は、いずれ実弾射撃をしてくるでしょう。
(すでにロックオンは行なっています)

 

その時、安倍首相が中国共産党の挑発行為に乗って、軍事行動を起こすか、あるいは、挑発に乗らずにやり過ごすかどうかです。

米軍が守ってくれると思っている人がいますが、どうでしょう。

 

かつて、朝鮮戦争の際、マッカーサーがワシントンに軍事援助を要請しました。朝鮮半島に押し寄せてきた中国共産党軍と戦うために、中国大陸に米軍を派兵してほしいという要望です。また、核兵器も要求しました。

 

そのマッカーサーからの要求を受けて、当時のトルーマン大統領は、どういう行動をとったでしょうか?

 

トルーマン大統領は、マッカーサーの要求を受け入れず、司令長官の職を解任してしまったのです。

 

おそるべき米国の文民統制(シビリアンコントロール)です。
マッカーサーの要求をそのまま受け入れていたら、おそらく第三次世界大戦となっていたでしょう。

 

米国は中国と戦争をしたくないのです。
また、米国は世論の力が強いです。

 

そのため、中国共産党は40年以上前から1兆円規模の予算を使って、周到に準備してきました。

 

日本と戦争状態になった場合、米国世論が中国の味方となるようにです。

そうすることで、米軍基地も日米安保も無力化することができると考えているのでしょう。

 

また、日本の世論の形成にも力を入れてきました。
中国共産党に対して抵抗する力を削ぐようにです。

 

そのために、歴史認識を繰り返し強調して、日本人に中国に対する罪悪感情を徹底的に刷り込んでいきました。

 

首相はじめ大臣閣僚や他の政治家が、8月15日に靖国神社に参拝することを阻止することで、死を恐れずに突撃してくる日本軍の精神を打ち砕いていくことを狙いました。

 

それから、桁外れの軍備増強は周知の通りです。

 

中国共産党は、なぜそこまでして、日本と戦争したがるのでしょうか?

中国は太平洋に進出していく野望がありますので、日本列島が喉から手が出るほど欲しいのです。

 

しかし、その島々に昔から住み着いている大和民族が邪魔で邪魔でしょうがないのです。

 

そこで、中国共産党は、大和民族浄化計画を作成しました。
(実際、この計画書を見たことありません。私の勝手な妄想と思ってご了承ください)

中国共産党は過去に民族浄化を行なってきました。

 

例えばチベット族やウイグル族などです。
これはまだ進行中です。

 

中国共産党政府の支配している国は94%は漢民族です。残りは朝鮮族や満州族、モンゴル族など少数民族で構成されています。

 

おそらく、東アジアは漢民族で支配しようと企んでいるのでしょう。

 

過去に何度も支那人に抵抗してきた、生意気な大和民族は地球上から抹殺してしまおうと考えてもおかしくありません。

 

安倍首相のブレーンには、ソ連のスパイが潜んでいるかもしれません。

彼は、自分がマルクスレーニン主義にはまっている革命思想の持ち主であるとは、決して公にしません。なぜなら、スパイだからです。

 

一見すると、保守のような論陣を張り、憂国の志士として行動しています。

そのスパイは軍事行動を積極的に支援するでしょう。

 

安倍首相は、そのようなスパイからの意見に左右されてはいけません。

また、かつての石原莞爾のような人が現れるかもしれません。

 

彼は、軍事行動を制しするように意見しますので、その意見に耳を傾けるべきです。

中国共産党軍が実弾攻撃をして犠牲者が出たら、おそらく今の世論とは全く異なることになるでしょう。

 

そうなった時に、安倍首相は、かつての石原莞爾のような人の意見を無視せず、中国共産党の挑発にのらないことです。

 

近衛文麿首相のように、ソ連のスパイだった尾崎秀実の意見を聞き入れ、中国の挑発に乗ってしまった結果、かつての日本帝国が滅亡してしまった、二の前にはならないで欲しいです。

 

そうすれば、2020年東京で平和なオリンピックを開催することができるでしょう。

 

 

 

 

 

谷寿夫中将の南京軍事法廷での弁明

 

 

 

終戦後、東京裁判と共に行われた、中国の南京軍事法廷にて、昭和12年12月の南京攻略に第6師団長として参加した、谷寿夫中将の裁判記録です。

 

谷寿夫の弁明

 

1.谷の部隊は入城後、中華門一帯に駐屯し、昭和12年12月21日にすべて蕪湖に移動した。当時中華門一帯は激戦によって住民はすべて避難しており、虐殺の対象となるような者はいなかった。

 

そのうえ被害者はみな、日本軍の部隊番号を指摘できていない。ゆえに虐殺事件は中島・末松およびその他の部隊が責任を負っているのである。

 

犯罪行為調査表にも「中島(中島今朝吾 )」の字句が多く載せられているのは、被告と関係がないことを示している。

 

2. 谷の所属部隊は軍規厳正でいまだ一人も殺害していないことを保証できる」。(中略)

「被告所属の参謀長下野一霍・旅団長坂井徳太郎・柳川部隊参謀長田辺盛武・高級参謀藤本鉄熊などの召喚訊問を要請したい。そうすれば明瞭となろう。

 

3. 本事件の証拠はすべて偽造であり、罪を論ずる根拠となすには不十分である」

谷寿夫中将率いる第6師団は第10軍に所属しており、第10軍は南京攻略の前に杭州上陸を行いました。そして、南京陥落後、蕪湖へ前進しました。

歩兵隊として、その行軍の様子を手記として書き残した人がいます。

 

谷口勝歩兵上等兵です。

 

http://ameblo.jp/hirohirobbb2000/entry-12234277402.html

 

彼のいた部隊は、南京攻略を中華門から攻めます。

 

谷寿夫中将率いる第6師団の歩兵隊ではなかったかと思われます。

この手記の中で、12月11日朝から大城門手前2000メートル地点で敵と対峙します。敵は雨花台砲台と城内から容赦無く撃ってきます。味方も負けじと応戦します。

 

中華門手前500メートル地点にきます。
間もなく南京城は夜になりますが、敵の攻撃は容赦無く続きます。
敵からの猛攻に耐えながら、味方の兵隊がどれだけ生き残れるだろう
かと思われるくらいの機銃掃射の嵐でした。

 

夜が明けると、城内への突入が始まります。
歩兵と戦車が一斉に城内になだれ込み、午後12時に南京城に日章旗が翻ました。

城内に入ると地雷がたくさん埋めてあったので、それを掘りながら中へ進みますと、置き去りにされた軍馬や軍刀などが散乱してました。

 

また、激しい撃ち合いで死んで行った兵隊は敵味方問わず、多数、倒れていました。

歩兵隊や戦車が次々に城内に行進して入城してきました。

 

翌日の12月13日、彼の部隊は蕪湖への前進命令が出ます。

再び、一昨日の激戦地の中華門から南京城を後にしました。
南京から蕪湖への道中、敗残兵でいっぱいでした。

 

この街道沿いは驚くべき近代的な銃座も持った防衛陣地が構築されていました。

 

畑に掘られた延々と続くトーチカや塹壕、無数に張り巡らされた鉄条網。

敵は蕪湖から南京へ進軍してくると思って、構築したようでしたが、一発も銃声を放つことなく、銃を捨てた敗残の陣となっていました。

 

一発の銃も使うことなく、素手で敵兵を捕まえることができました。

 

その光景を見た時、谷口上等兵は、ハッと思いました。
これから蕪湖への進軍していく我々の食料もままならないのに、この敗残兵たちのどのようにして養い、扱って行ったら良いのだろうか、と。

 

以上、「征野千里」から要約して引用。

 

再び、南京判決文に戻ります。

 

略奪、強姦は被告部隊の南京駐留期間(12月14日から21日まで)に起きている。被告部隊の担当地域である中華門一帯での放火、略奪、殺人、強姦、のあった住民について調査可能な事件は459件に達している。
として、次の判決が出ました。

 

判決主文、「谷壽夫は作戦期間中、兵と共同してほしいままに捕虜および非戦闘員を虐殺し、強姦、略奪、財産の破壊をおこなったことにより死刑に処す」

 

1947年4月26日、蒋介石の執行命令により処刑されました。
南京軍事法廷では、マッカーサーではなく、中華民国政府の統帥権を持っていた蒋介石の執行命令により刑が執行されました。

 

谷中将は、我々の部隊は南京入城後、中華門一帯に駐屯したが、12月21日にすべて蕪湖に移動した。

 

当時、中華門一帯は激戦によって住民はすべて避難しており、虐殺の対象となるような者はいなかった。

と、最後まで訴えましたが、全く聞き入れられずに、極刑が言い渡されてしまいました。

 

谷口勝上等兵の手記にも、中華門は激戦地で、一昼夜、雨あられのように撃ち合いがあり、敵味方相当の死傷者がでたと言うようなことが書かれていましたので、この地域に民間人がいたと言う証言は極めて疑わしいです。

 

また、南京陥落後、すぐに蕪湖に前進命令が出され、南京城を後にしたが、南京から蕪湖への道中はたくさんの敗残兵がひしめいていたと書かれています。

そして、あたり一面は、近代的な銃座を配備し、トーチカや塹壕、鉄条網などをくまなく張り巡らしていたと、書かれています。

 

敵は、この付近で日本軍と対峙することを、想定していたわけです。
そのような場所に、一般の住民を残しておくことは考えられません。

 

住民から調査可能は事件が459件に達していると判決文にありますが、そもそも住民は避難していることが十分考えられるのに、どうやって、略奪、強姦、殺人、放火をするのでしょうか?

 

 

 

 

 

通州事件の真の首謀者とは?

 

 

 

 

 

通州事件が昭和12年7月29日に起きた当初、日本陸軍は、その首謀者を通州を統治していた、冀東(きとう)防共自治政府の殷汝耕(いん・じょこう)長官であると思いこみ逮捕しました。その後、玄洋社の頭山満の計らいで助命されます。

 

この事件の実行犯である保安隊5800名を買収したのは国民党政府軍であり、また、同じく実行犯である北京大学などの学生達を扇動したのは中国共産党でした。

 

また、保安隊の蜂起を主導した張慶余(ちょう・けいよ)は、この事件の後、国民党政府軍で出世しました。

 

張慶余(ちょう・けいよ)は、通州事件の3週間前の盧溝橋事件で、日本陸軍と交戦した中国国民党軍第29軍の軍長の宗晢元(そう・てつげん)と共に、秘密結社哥老会のメンバーでした。

 

張慶余(ちょう・けいよ)は、張硯田と宗晢元(そう・てつげん)と共に、以前から日本打倒の密約を交わしていたのです。

 

そもそも、この保安隊は日本の支那駐屯軍から厳しい軍事訓練を受けた精鋭達でした。また、天津に駐屯している日本陸軍から武器貸与を受けていました。
 

さらに、将校には日本の士官学校並の教育も行われました。

そのようにして、日本陸軍も友軍として認識していた冀東保安隊でしたが、その総隊長である張慶余(ちょう・けいよ)は初めから、国民党軍の宗晢元(そう・てつげん)と共に、日本打倒の機会を伺っていたのです。

 

この事件の後、コミンテルンのスパイである尾崎秀実は、同じくゾルゲ機関のスパイとして活動していたの川合貞吉に、次のように述べています。

 

「あれは君、支那民族の怒りの姿だよ、眠れる獅子が目を覚ました姿だ。冀東地域へ入り込んでいる日本人にろくな奴はいない。
 

淫売、ゴロツキ、事件屋、そんな連中が兵隊の威力を借りて威張り散らし、悪辣極まることをして、土着民を縛り虐待しているんだ。そういう政策を推し進めている日本の民度の低さに問題があるんだ。」と。

 

尾崎秀実は、当時の日本帝国を破壊滅亡するためのシナリオい従い、近衛政権の中枢に入り込み、日本陸軍や近衛内閣を裏で誘導していきました。

 

その尾崎秀実のシナリオに、見事にはめられた日本陸軍は、蒋介石国民党軍と泥沼の戦争を最後まで続け、ソ連への参戦ではなく、米国と戦争になるリスクを犯して、南仏印侵攻へと暴走していきました。

 

その尾崎秀実は、通州事件で残虐極まりないテロの被害にあった日本人に対して、殺されて当然であり、そもそもろくなやつらではない、日本の民度に問題がある、などと語っているのです。

 

尾崎には日本人としての魂はないのでしょう。
とても日本人では行えないような、残虐極まりないテロ行為を行った支那人に対して、弁護しているのです。

 

この通州事件により、日本国民は「支那人を懲らしめろ!」と世論が沸騰し、日本陸軍は、蒋介石国民党軍との泥沼の戦争へと突き進んでいきました。

 

もしかしたら、この通州事件は、尾崎秀実が仕組んだ罠だったのではないでしょうか?

 

 

通州事件とは? 私は見たー佐々木テン氏の告白

 

 

 

昭和12年(1937年)7月29日、中国の通州というところで、日本人を標的にした残虐なテロ事件が起きました。

 

当時の通州は、昭和10年(1935年)から蒋介石国民党政権と分離した自治政権、冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)を殷汝耕(いんじゅこう)が設立統治してました。そして、残虐なテロ事件はその自治政府の保安隊5、800名が起こしました。

 

その当時、通州に住んでいた、佐々木てん氏は事件の様子を目撃します。その記録は「天皇様が泣いてござった」のご著書に収録されていますので、引用させていただきます。

 

なお、以下の引用文は、勝手ながらR指定(未成年者禁止)とさせていただきます。

その内容が、あまりにも残虐だからです。

 

大人の方でも、そのメンタルケアについては自己責任でお願いします。途中で気分が悪くなりましたら、画面をすぐ閉じてください。

 

以下、引用始まり

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私は沈さんに従ってその年の3月に支那に渡りました。長い船旅でしたが、しばらく天津で仕事をしておりました。

 

そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになってまいりました時に、沈さんが通州へいくというのです。

 

通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いて、支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私は沈さんに従って通州に行くことにしたのです。

 

それは昭和9年の初めごろだったのです。

沈さんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。

 

だから、買う人にとってはとても便利なんです。

沈に頼んでおけばなんでも手に入るということから、商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。

 

沈さんも北門のあたりまで行って、日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。

 

この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。私たちは、沈さんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。

 

この通州の町にはその当時、冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)がありました。

これは殷汝耕(いん じょこう)さんという人が作った政府で、軍隊も一万人以上いたそうです。

 

そして日本に対しては非常に親日的だったので、私も、日本人であるということに誇りを持っていたのです。

 

ところが、昭和11年の春も終わろうとしていた時、沈さんが私に、これから日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故かと尋ねますと、支那と日本は戦争をする、その時私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまり付き合ってはいけないと申すのです。

 

私は心の中に不満が一杯だったけど、沈さんに逆らうことはできません。

 

それが昭和11年の終わり頃になると、こうした支那人たちの日本に日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。

 

それは、支那のあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるようにに思われました。

 

そしてこの頃(昭和12年)になると、一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那の国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら、行進をするのです。

 

それが7月になると「日本皆殺し」「日本人は人間じゃない」「人間でない日本人は殺してしまえ」というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。

 

鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

 

昭和12年7月29日の朝、まだ辺りが薄暗い時でした。突然、私は沈さんに激しく起こされました。大変なことが起こったようだ。

 

早く外に出ようというので、私は風呂敷包み二つを持って外に飛び出しました。日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。8時をすぎて9時近くになって、銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心している時です。

 

誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。

そのうち、誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。

 

何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。

 

私は沈さんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。

日本人居留区に近づくと何か一種異様な匂いがして来ました。

何か生臭い匂いがするのです。

血の匂いです。

 

沢山の支那人が道路の傍に立っております。

そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も混じっています。

 

いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。

そのうち、日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。15歳から16歳と思われる色の白い娘さんでした。

その娘さんを引きだして来たのは、学生でした。

 

その娘さんは恐怖のため顔が引きつっております。

体はブルブルと震えておりました。

その娘さんを引き出して来た学生は何か猫がネズミをとった時のような嬉しそうな顔をしておりました。

 

そして、その着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。

薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。

 

すると、雪のように白い肌があらわになってまいりました。

娘さんが、何か一生懸命この学生に言っております。

 

しかし、学生はニヤニヤと笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。

娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。

 

学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。

そして下着を取ってしまいました。

娘さんは「助けて!」と叫びました。

 

とその時です。

 

一人の日本人の男性がパアッと飛び出してきました。

そしてこの娘さんの上に覆いかぶさるように身を投げたのです。

恐らくこの娘さんのお父さんだったのでしょう。

 

すると、保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。

 

何かグシャっと言うような音が聞こえたように思えます。

頭が破られたのです。

 

でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。

保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。

娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。

 

保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。

パーっと辺り一面に何かが飛び散りました。

 

恐らくこの男の脳漿(のうしょう)だったろうと思われます。

そして2、3人の兵隊と2、3人の学生がこの男の人の体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。

 

服が破れます。肌が出ます。血が流れます。そんなこと御構い無しに踏んだり蹴ったりし続けています。

そのうち保安隊の一人が、銃につけた剣で腹のあたりを突き刺しました。

 

血がパーっと飛び散ります。

その血は横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。

 

腹を突き刺しただけではまだ、足らないと思ったのでしょうか?

今度は、胸のあたりを突き刺します。

また腹をつきます。

 

胸をつきます。

たくさんの支那人が見るけど「うーん」とも「わー」とも言いません。

 

ただ、見ているだけです。この屍体を3メートル程離れたところま

で、丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生たちは、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。

 

この娘さんはすでに全裸になされております。

そして、恐怖のために動くことができないのです。

その娘さんのところまで来ると、下肢を大きく広げました。

 

そして凌辱を始めようとするのです。

これはもう人間のすることとは言えません。

ところが娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。

 

どうしても凌辱がうまくいかないのです。

すると三人ほどの学生が広げられるだけこの下肢を広げるのです。

そして保安隊が持っている銃を持って来て、その銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突っ込むのです。

 

何人もの支那人がいるのに止めようともしなければ、声をだす人もおりません。

すると、ぎゃーと言う悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。

 

保安隊の兵隊がニタニタ笑いながら、この娘さんの陰部を抉り取っているのです。

 

私の身体はガタガタと音を立てるほど震えました。

この兵隊は今度は腹を縦に割くのです。

それから、剣で首を切り落としたのです。

 

その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。

 

日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。

ほとんどの日本人はすでに殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。

あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がわーっと押し寄せていきます。

 

私も沈さんに抱き抱えられながらそちらに行って見ると、日本人の男の人たちが5、6名兵隊達の前に立たされています。

 

そして、一人また一人と日本人の男の人が連れられてきます。

十名程になったかと思うと兵隊達が針金を持ってきて、右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。

 

そうして、今度は銃につける剣を取り出すと、その男の人の掌をグサッと突き刺して、穴を開けようとするのです。

悪魔でもこんな無残なことはしないのではないかと思いますが、支那の学生や兵隊達はそれ平気でやるのです。

 

集められた十人ほどの日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。

そして60歳を超えたと思われる老人もいるのです。

 

この10名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉り取った学生や兵隊たちは、今度は大きな針金を持ってきてその掌の中を通すのです。

10人の男の人が数珠つなぎにされたのです。

 

学生と兵隊達この日本人の男の人たちの下着を全部取ってしまったのです。

そしてもちろん裸足にしております。

その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、20歳前後と思われる男のところに行くと足を広げさせました。

 

そして、男の人の男根を切り取ってしまったのです。

この男の人は「助けて!」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにぐさりと男根を切り取った時、この男の人は「ぎゃっ」と叫んでいましたが、そのまま気を失ったのでしょう。

 

でも倒れることはできません。

学生や兵隊達はそんな姿を見て「ふっふっ」と笑っているのです。

私は思わず沈さんにしがみつきました。

 

旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行った時です。

日本の女の子が二人、保安隊の兵隊に連れられて出てきました。

 

一人の女の子は前がはだけていました。

この女の人が何をされたのか、私もそうした商売をしておったので、よくわかるのです。

 

しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。

二人のうち一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。

 

ほっぺたがひどく腫れ上がっているのです。

その女の人を引っ張ってきた保安隊の兵隊は、ほっぺたの腫れ上がっている女の人をそこに立たせたかと思うと、着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。

 

女の人は本能的に手で前を抑えようとすると、いきなりその手を銃剣で切りつけました。

左の手が肘のところからバッサリ切り落とされたのです。

かすかにウーンと唸ったように聞こえました。

 

そしてそこにばったり倒れました。

すると倒れた女の人の腹を銃剣で突き刺すのです。

 

私は思わず「やめて!」と叫びそうになりました。

その私を沈さんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。

私は怒りと怖さで身体中が張り裂けんばかりでした。

 

旭軒と近水楼の間にある松山楼の近くまできた時です。

一人のおばあさんがよろけるように逃げてきております。

するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うと、いきなりこのお婆さんに斬りかかったのです。

 

お婆さんは懸命に逃げようとしていたので、頭に切りつけることができず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。

 

学生はこのお婆さんの腹と胸を一刺しづつついてそこを立ち去りました。

誰も見ていません。私と沈さんとこのお婆さんだけだったので、私がお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんが目を開きました。

 

そして、「悔しい」と申すのです。

「仇をとって」ともいうのです。

 

私は何もしてやれないのでただ黙って額に手を当ててやっているばかりでした。

すると、このお婆さんが「ナンマンダブ」と一言お念仏を唱えたのです。

そして息が止まったのです。

 

私が西本願寺の別府別院にお詣りするようになったのは、やはりあのお婆さんの最後の一言である「ナンマンダブ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。

 

お婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえてきます。

すると支那人も沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。

 

そこに保安隊出ない国民党政府の兵隊も何名かいました。

みんなで集まっているのは女の子を一人連れ出してきているのです。

何とその女の子はお腹が大きいのです。7ヶ月か8ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。

 

恐怖のために恐れおののいている女の子を見ると、女の私ですら綺麗だなと思いました。ところが、一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、女の人が頑強に抵抗するのです。

 

歯をしっかり食いしばってイヤイヤを続けているのです。

学生が2つか3つかこの女お人の頰を殴りつけたのです。

 

そして時々「ヒーっ」と鳴き声を出すのです。

と、その時です。

 

一人の日本人の男の人が木刀を持ってこの場に飛び込んできました。

そして、「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。

これで自体は一変しました。

学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で切りつけました。

するとこの男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。

 

そして持っていた木刀でこの学生の肩を激しく打ちました。

学生は「うーん」と言ってその場に倒れました。

すると今度はそこにいた支那国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣をつけてこの日本の男の人に突きかかってきました。

 

私は、見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。

7名も8名もの支那の兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄ってきましたが、この男の人は少しも怯みません。

 

ぴしりと木刀を正眼に構えて一歩も動こうとはしないのです。

私は立派だな、さすがに日本人だなと思わずにはおられなかったのです。

 

ところが、後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって銃剣でさっと突いてかかりました。

 

するとどうでしょう。男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で激しく打ったのです。

 

この兵隊も銃を落としてうずくまりました。

でも、この日本の男の人の動きもここまででした。

 

横におった保安隊の兵隊が男の人の腰のところに銃剣でグサりと突き刺したのです。

男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱闘を始めたのです。

 

男の人はうーんと一度唸ったきり声が上がりません。

そして、あのみるも痛ましい残虐行為が始まったのです。

 

それは、この男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。

これ以上はもう人間の行為ではありません。

 

今度は、目玉を抉り取るのです。

この時まではまだ男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき僅かに手と足が動いたように見えました。

 

目玉を抉り取ると、今度は服を全部剥ぎ取り、お腹が上になるように倒しました。

そして、学生が又青竜刀で男の人のお腹を切り裂いたのです。

 

縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。

ズルズルと腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。

 

地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあと仕切りに頭のどこかで考えていました。

ハッと目を上げてみると、青竜刀を持った学生がその男の人の腸を切ったのです。

一尺ずつぐらいに切り刻んだ学生は細切れの腸を、妊婦のところに投げたのです。

 

お腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬に当たると「ヒーっ」と言って気を失ったのです。

 

その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。

その時、この妊婦の人が気がついたのでしょう。

フラフラと立ち上がりました。

 

そして一生懸命逃げようとしたのです。

その妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。

 

妊婦はばったり倒れたのです。

すると兵隊が駆け寄ってきて、この妊婦の人を仰向けにしました。

 

剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。

赤い血がパーっと飛び散りました。妊婦の人がひゃーという最後のひと声もこれ以上ない悲惨な叫び声でした。

 

お腹を切った兵隊は手をお腹の中につきこんでおりましたが、赤ん坊を探し当てることができなかったからでしょうか、今度は陰部の方から切り上げています。

 

そして、とうとう赤ん坊を掴みだしました。

その兵隊はニヤリと笑っているのです。

 

片手で赤ん坊を掴みだした兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。

 

ところが、保安隊も学生もその赤ん坊を受け取るものがおりません。

赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。

 

私は、もう街の中には痛くないと思って、沈さんの手を引いて街の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。城内の道を通った方が近いので北門から入り近水楼の近くまで来た時です。

 

その近水楼の近くに池がありました。その池のところに日本人が40人から50人立たされておりました。

ほとんどが男の人ですが、中には50を越したと思われる女の人も何人かおりました。

ついさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された10人ほどの日本人の人たちが連れられて来ました。

 

国民党政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。

そして、一番最初に連れ出された50歳くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って切りつけたのです。

 

ところが首に当たらず、肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀ひったくるようにした国民党政府軍の将校と見られる男が、肩を切られて倒れている日本の男の人を兵隊2人で抱き起こしました。

 

そして、首を前の方に突き出させたのです。

そこに国民党政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。

 

この男の人の首はコロリと前に落ちました。

これを見て国民党政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。

 

落ちた首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。

 

この国民党政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させると、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に切りつけたのです。

 

するとこの男の人の額がパックリ割られて脳梁が飛び散りました。

国民党政府軍の将校は手を挙げて合図をして、自分はさっさと引き上げたのです。

 

合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がわーっと日本人に襲いかかりました。40人か50人かの日本人が次々に殺されていきます。

 

そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。

池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。

 

全部の日本人が投げ込まれたときは、池の水は真っ赤になっていたのです、真っ赤な池です。その池に蓮の花が一輪咲いていました。

 

昼過ぎでした。日本の飛行機が一機飛んで来ました。日本軍が来たと誰かが叫びました。ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。

 

日本軍が来たというので、国民党政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。

 

悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残酷無比なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出していくのです。

 

私は今回の事件を通して支那人がいよいよ嫌いになりました。私は、支那人の嫁になっているけど、支那人が嫌いになりました。

 

こんなことから沈さんとも別れることになり、昭和15年に日本に帰って来ました。

 

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以上、引用終わり。

 

この事件に関わっっていた国民党政府軍の兵隊達。当時の佐々木テンさんのご主人が支那人だったこともあり、軍服を見て、そのように解説していました。

 

このような残虐行為を平気でする支那人の風習は、古来より実地されて来ました。明の皇帝は特にこの残虐な殺人が好みで、清朝末期の西太后の時代まで、残虐な刑罰が行われていました。

 

この現場を見た日本の兵隊は、どう感じたでしょう?

日本人を守れなかったことを悔しがったことでしょう。

 

この事件を昭和12年7月30日付けの号外として、東京日日新聞が報道したのをはじめ、読売新聞、東京朝日新聞など各社が報道しました。そして、その記事を見た日本人は皆、沸騰しました。

 

この事件に対して、冀東防共自治政府の保安隊を買収した、国民党政府は日本政府に謝罪をしたことがありません。また、「日本人を殺せ!」と街頭演説を北京大学の学生達にやらせた中国共産党も、だんまりです。

 

そして、日本終戦後、数年経った後に中国大陸で建国した中国共産党は、このテロ事件の被害者である日本人を加害者にすり替え、加害者である支那人を被害者にすり替え、事件の場所を通州から南京にすり替え、被害者の数を250余人から40万人にすり替えて、全世界に向けて宣伝(プロパガンダ)しています。

 

この宣伝(プロパガンダ)に沿った形で、歴史認識を改めるように、日本に謝罪とODAと円借款を要求し続けています。

 

そして、中国全土100箇所に南京大虐殺記念館(抗日戦線記念館)を建設して、学校教育の一環として、多くの中国人が訪れています。

 

さらに、ユネスコ世界記憶遺産として登録されました。

通州事件としてではなく南京大虐殺としてです。

 

この世は嘘であふれています。

真実を見極める目を養っていくことが求められています。

 

通州の地で無念の思いで血祭りにあげられた日本人たち。

その英霊の思いを無駄にすることなく、嘘を暴いていかなくてはなりません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本陸軍の中野部隊 歩兵上等兵だった谷口勝氏が、昭和13年12月に書かれましたご著書、「征野千里」から引用させていただきます。

 

これは、杭州湾上陸作戦、南京攻略、漢口攻略といった作戦に関わった、一人の上等兵の手記になります。
そして、GHQによる焚書図書(ふんしょとしょ)として、流通網から廃棄処分された本になります。

 

そのうちの南京攻略の一部分を引用させていただきます。

以下、引用始まり
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「われわれの部隊は南京へ前進する。・・・が、
わが部隊は○○の予備隊となった」
と荒木准尉が情けない顔をして告げられた。

 

戦友たちはまたみんな腹を立ててしまった。南京戦に予備隊とは何だ。
それでは戦争がすんでも故郷へは帰れない――という。

再び行軍がはじまった。行軍は猛烈をきわめた。

 

ほとんど休憩というものがない。
ただ走るようにして行軍する。

漸く私たちに部隊の意図がわかって来た。

 

一線部隊に追いつき、これを抜いて予備隊から脱しよう、
自ら一線の戦闘を買って出よう――それだった。

みんなが歩いた。歯を喰いしばって歩いた。

 

一線部隊を越せ、一線部隊に追いつけ、そして――南京へ南京へと進む。

「南京まで一直線135キロ」とどこで聞いてきたのか、そんな声が舞台の中に聞こえてきた。

 

するとあと4日行程だ。わたしたちが山岳地帯からはいでてたどり着いた大きな本道を、日章旗を立てた装甲車が轟々と一列に走っていた。

車も兵も軍馬もただ「南京へ」の一つの目的に動いていた。

 

すると誰からともなく、「蘇州、無銭とおもてへ回った第一線がもう南京の城壁にとっついたそうだ」と言い出した。途端にみんながっかりしてしまった。

 

すると荒木准尉がみんなに、「第一線は城壁近くに迫っただけだ。まだまだ南京戦はこれからだ、我々は死んでもこれに追いつかねばならない」と。

1日目が13里、2日目が15里、3日目が18里を突破して言葉通りクタクタになった。

 

「南京中華門まで1里」と声がかかった。

城門の鉄扉はぴったりと閉ざされて、高さ5、6メートルもある城壁のような土塀から敵が一斉に打ち下ろして、私たちの前進を阻止した。

 

そこを突破すると丘の上には官軍学校や憲兵学校の大きな建物があった。これを左右に見て、一気に進んでいくと高々とした大きな城壁が目前に覆いかぶさってきた。

12月11日朝、私たちは南京城の大城門を2千メートル目前に見て敵と対峙した。

敵は城内と雨花台砲台と両方から猛烈に私たちを撃ってくる。

 

我々の〇〇砲も一斉に雨花台砲台に向かって放列を敷き、大砲戦が続けられた。

すでに中華門は500メートルの近さにそびえていた。

 

南京城に夜が来る。場内から撃ち出す敵の迫撃砲はいよいよ猛烈を極めて、軍工路と言わず、畑と言わず、一面に灼熱した鉄片の花火が散り続けた。砲撃の目標となるの絶対に火は炊けない。

 

「ここでは死ねねえな」
と石原上等兵がいう。

間断なく打ち下ろされる砲の弾片を被って、隣の隊の戦友が倒れていった。

 

黒々と目前を覆いかぶさる大城壁上には間断なく、パッパッパと火が噴いている。

追撃砲弾は休みなく頭上の夜気を震わせ、「衛生兵」と叫ぶ甲高い声は遠く近くに夜を裂いていた。

 

敵は撃ちに撃ってこの大城壁を盾に叩き伏せようとしている。
そう考えられるほど、私たちの戦いは激烈だった。

 

夜が明けるまでに大城壁の前に何人の戦友が残るだろうか、と思うほど敵は砲をベタ射ちに射ち続ける。やがて夜が空けてきた。

 

夜が明けるとすぐに城門への突入がはじまった。
城壁の上から手榴弾と機銃弾が降って来る。

 

城壁が轟然と音を立てて爆破される。

やがて城門を埋めた小山のようた泥の坂のところで、日章旗がしきりと打ち振られた。

戦車は轟音を立てて進軍し、私たちもまた一斉に進軍した。

 

中華門を抜いたが、通りや広場にはところきらず地雷が埋めてあったので、うっかり歩めなかった。

 

地雷を掘り返しながら清涼山に登った。清涼山は二段三段と傾斜面を利用して壕が重ねて掘られてあった。

 

壕の中には銃を捨てふらふらになった兵があちこちにうずくまっていた。

次の日、「前進」の命令が出た。
蕪湖へ行くという。

 

思い出の中華門を出ようとした時、「気をつけ」の号令がかかった。

こんな号令がかかることは戦場へきて滅多になかった。
城門の脇に〇〇部隊長と〇〇部隊長と岡本部隊長の3人が立って私たちの方へ敬礼していられた。

 

私たちはみんな目頭を熱くした。

 

部隊長はいつまでも挙手の礼をして、私たちがずうっと城門の外へ出てしまったにもかかわらず、まだじいっと見送って立ちすくしておられた。

 

銃もすて帯剣もすて、軍服だけの着の身着のままの敵兵が100人、200人と軍靴もなく、裸足で次から次へと道を進んできた。

 

街道の両側、畑の中に掘られた蛇たる塹壕、草むらを被ったトーチカ、無数に張り巡らされた鉄条網。

 

この堅固な陣地はいずれも蕪湖方面に向かって構築されてあった。
敵は我々の一部が蕪湖方面から南京へ向かって進撃するものと考えていたらしい。

この堅固な陣地は一発の銃声を放つことなく、武器を捨てた敵兵を追い出す「敗残の陣」となっていた。

 

逃げ場を失った敗残の敵部隊は、限りなく街道に続いていた。
200人、300人、と集団をなした敵を素手で捕えてしまう。

 

そして……私たちはハタと当惑した。自分たちでさえ糧食の補給がつかない、無湖への進軍だけで手一杯だった。それだのに、この千に余る敵敗残部隊をどうして養っていったらいいのだろうか。

 

私たちに抵抗した南京城内の敵は、一瞬にして南京城内外の骸の山を築いてしまった。それだのにこれは……ハタと当惑したのである。
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以上、引用終わり。

 

「南京大虐殺40万人」と世界に向けて宣伝(プロパガンダ)している中国共産党。
その数は年々増えていっています。

 

そして、ユネスコ世界記憶遺産として登録もされました。

 

日本人の中でも、このプロパガンダを信じている人がたくさんいます。学校の歴史教育で教えられているので、無理もないでしょう。

 

また、中国では、学校の歴史教育の一環として、中国全土に作られている南京大虐殺記念館(抗日戦線記念館)を訪問しています。

 

このような歴史教育を受けた日本と中国の若者たちが、友好関係を結ぶのには、大きな障害を乗り越えなければなりません。

 

大量の観光客が日本に押し寄せ、爆買いしていきます。
ビザなし渡航が許されたからですが、日本に来てみると、中国人の反日感情も薄らぐようです。

 

昔、留学した際、ある中国人から南京大虐殺のことについて、怒りをあらわにして、詰問されたことがありました。

 

私が、日中の平和を望んでいるといったら、その中国人の態度が変わりました。
その後、日本人は好きだけど、日本政府は嫌いと周りに話してました。

 

中国政府から反日教育の洗脳を受けているので、そのしこりを取り除くには、なかなか難しいようです。

 

プロパガンダではなく、本当の歴史を知る必要があります。
そのためには、マスメディアの情報を鵜呑みにするのではなく、自分の頭で、見て、読んで、確かめていく必要があります。