子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -22ページ目

 

海軍が寄港する上海などでは、以前より軍人相手の妓楼がありました。

 

しかし、南京城陥落(昭和12年12月13日)に伴う混乱のため、暴行防止と性病感染対策のために、日本から上海へ女性たちが送られてきました。

 

この人たちが、慰安婦としての最初の人たちでした。

 

昭和13年(1938年)1月2日、上海の小学校にて、日本から送られてきた約100名(邦人20名、朝鮮人80名、いずれも北九州在住者)の身体検査を、陸軍軍医であった麻生徹男少尉が行いました。

 

2月上旬から上海楊家宅にて慰安所を開設。続いて、江湾鎮民営の軍慰安所を開設。

 

官営はその後まもなく閉じられて、民営の慰安所のみとなりました。

 

この昭和13年1月2日の行われた慰安婦検診の結果について、麻生徹男軍医による報告書が以下の通りです。

 

「花柳病(性病)の積極的予防法」

 

1、緒言

 

ある疾病にして患者及びその周囲の者に関連する利害関係が大なれば、その疾病の社会的意義は大なりと言う可し。

 

その意味において花柳病はその平時、戦時たるを問わず、急性伝染病は別にして、結核に劣らぬ重要性を有するものなり。

 

されば、その撲滅の目的貫徹には今日まで考察せられたる諸種対策の中、小部分的固執、小部分的欠如も賦課にして、宜しく全面的充実を期せざる可からず。

 

すなわち目的とするは、既患者を治療し、健康者に伝染せざる如くするにあるをもって、既患者、健康者各個への治療予防の諸問題と共に、その対社会的因子の調査研究を必要とす。

 

伝染源、病種別、転帰別、等の頻度、数量の統計的観察を為し、将来への対策に資する所有ラザル可からず。

 

これらの内、人ありてかある物を積極、ある物を消極なりと区別する趣きあるも、本症のごとく重大社会性を有する疾病においては全て、対策が平等なる発言権を有する者なり。

 

2、娼婦

 

昨年1月小官上海郊外勤務中、1日命令により、新たに奥地へ進出する娼婦の検査を行った。

 

この時の被検査者は(朝鮮)半島婦人80名、内地(日本)婦人20名にして、

 

半島人の内花柳病の疑いある者は極めて少数だけれども、内地人の大部分は現に急性症状こそないが、はなはだ如何わしい者のみで、

 

年齢もほとんど20歳を過ぎて中には40歳になろうとする者もいて、既に売淫稼業を数年経験してきた者のみである。

 

半島人の若年齢かつ初心者なる者の多いこと興味ある対照をなせり。

 

後者の内には今の支那事変に際して、応募してきた。未教育補充ともいうような者が混じっていた。

 

一般に娼婦の質は若年齢ほど良好である。すなわち、ミュンヘン市における検査では、2,686人の娼婦中、花柳病に罹る者は26.5%に及び年齢別では、

 

16歳以下 19

16歳〜18歳 104

18歳〜21歳 239

21歳〜30歳 281

 

ミュンヘン市未成年者において3年間に判決された年若き娼婦の中に花柳病と診断された者は、

 

15歳 55%

16歳 61.5%

17歳  68.6%

 

であり、若年齢の者ほど、疾患率は小さい。また、「スツットガルト」の娼婦五百六十五人においては、

 

14歳〜21歳 55.0%

 

ミュンヘン市においては1908年23.5%、パリ市においては58.0%である。また、昭和7年福岡県における年齢40歳までの調査において、20歳以下の者の数は、

 

芸妓 56.3%

娼妓 29.1%

酌婦 44.6%

女給 46.5%

 

である。すなわち、娼婦の約半数は年齢20歳以下の者ということになります。

 

故に若年の娼婦に保護を加えることが重要にして、意義あることなり。

 

されば、戦地へ送り込まれる娼婦は年若き者を必要とする。しかして、小官某地にて検査中、手術の痕跡があり、明らかに既往花柳症の烙印を押され、アバズレ女の類は敢えて一考を与えたし。

 

これ皇軍将兵への贈り物として、実に如何わしき物である。如何に検査を行うとはいえ。

 

一応戦地へ送り込む娼婦は内地最終の港湾において、充分なる淘汰を必要とする。

 

ましては内地を喰いつめたが如き女を、戦地へ鞍変へさせるということは、言語道断の沙汰である。

 

これと類似する問題として、現地支那の娼婦及び難民中の有病売淫者への微毒性疾患の浸潤に驚く。

 

これらに対して、軍としてもし必要なら軍用慰安所として、我が監督下に入るか、しからざる者に対しては断固として処置する。

 

ドイツでは、ケルン市の守備兵間に一時花柳病が蔓延し、特に厳重なる検査も効果なく罹患者22%という高率である。

 

これすなわち、私娼の結果によるものである。

 

このため、ケルン市においては英米の先例に倣い、女警官をおき、この粛正にあたり、著しい効果をだしたという。

 

ここに注意する支那娼婦の内、ある者は予防法である「コンドーム」の使用を忌避し、そのはなはだしきはこれを破棄する。

 

これは、敵の謀略により戦力を消耗させられるのと、同一の結果である。

(「花柳病の積極的予防法」陸軍軍医 麻生徹男)

 

参考図書

「慰安婦と医療の関わりについて」麻生徹男、天児都著

 

 

 

南京事変の証言

都新聞 小池秋羊記者

聞き手 阿羅健一氏

 

ー南京城に入るのは何日ですか?

 

小池「13日か14日かはっきりしませんが、多分、13日だったと思います。師団司令部が南京に入るというので、我々も中山門から入りました。すでに第16師団の歩兵は残敵掃討ということで、中山門方面から南京市街地をしらみつぶしにして進んだ後でした。

 

我々も中山東路を行きましたが、城内はどの家も空き家で、物音一つしない死の大市街でした。犬、猫の姿一つ見受けられず、不思議な妖気が漂い、街路は激戦の跡とも見受けられない整然とした街並みで、びっくりしてしまいました。

 

私たち記者団、すなわち、報知、読売、上海日報、それと都の一行、6、7人は、南京城外到着以来、中島師団司令部から食料の給与を受けておりました。

 

その中に師団付の従軍僧という人物が一人参加しており、彼が師団との連絡係をやってくれました。

 

城内を記者団一行は徒歩で観察していましたが、その時、中正路の奥の方から家事が起こり、誰一人いない空家街は、濛々たる黒煙に包まれ、消火する人もいないままに、燃えつのって、一層すさまじさ拡大していました。

 

そこへ、2台の自動車に分乗した外国人たちがやってきて、街を縦横に疾走して、パチパチとカメラのシャッターを切ってました。

 

そして、彼らは一応の取材をすると疾風のように現場を去って行きました。

 

後になって、この一行は、南京における日本軍の蛮行、というスクープを打電した「ニューヨーク・タイムス」のティルマン・ダーディン記者たちであったらしいことがわかりました。」

 

ーその時の南京の様子はどうでした?

 

小池「その時のことだと思いますが、難民区に行くと、補助憲兵というのがいて、難民区に潜入している敗残兵を連れ出していました。

 

連れて行かれる中国人の親か兄弟かが、兵隊でない、と補助憲兵にすがっているのもいましたが、その光景はまともに見ることができませんでした。

 

それでも補助憲兵は連れて行ったようです。」

 

ー何人位の敗残兵を連れて行ったのですか?

 

小池「10人か20人かにまとめて連れて行きました。多分射殺したと思います。」

 

どこでですか?

 

小池「直接見ていませんが、郊外に連れて行って射殺したのではないでしょうか?」

 

ーその他の難民区の様子はどうでした?

 

小池「敗残兵探しの時は難民も動揺していましたが、一般には平静でした。また、食料がなく飢餓状態で、食料をくれ、と我々にすがりつく人もいました。

 

私たちの宿舎には発見された米が何俵もありましたので、難民区のリーダーを宿舎に連れて行き、米や副食品などを大八車2台分やりました。

 

難民区には6、7万人いたので、これだけでは全く足りなかったと思います。」

 

ー難民区の様子など記事にして送っていましたか?

 

小池「ええ、私なりに歩いて見た話を書いていました。私たちは無電は持っていませんでしたので、上海から来ていた軍の報道部の人に頼んで軍の無電で送りました。」

 

ーその後の南京の様子はどうでしたか

 

小池「南京城内はあちこち行きましたが、私たちは車を持っていなかったので、行動半径は限られていました。

 

入城式の時は、松井大将の入城する様子を中山門の上からロングで撮り、カメラマンの吉野はプロですから、近くから松井大将のアップを撮りました。

 

また、正月用の写真ということで、一個小隊が紫金山で万歳している写真を撮りました。これはやらせです。」

 

ーいつまで南京にいましたか

 

小池「12月24日には上海に帰りたかったので、軍に話に行き、22日に上海行きの船に乗らせてもらうことにしました。

 

船で一泊して、23日に上海についたと思います。24日にイブは上海のフランス租界で祝っていましたから」

 

ー南京では虐殺があったと言われていますが

 

小池「虐殺されたものか、戦死体かわかりませんが、中央ロータリーのそばに作りかけのビルがあり、その地下に数体の死体がありました。地下に水が溜まっていて、この水が血で赤くなっており、青白い死体をみた時はぞっとしました。

 

それと、だ江門だったと思いますが、軍のトラックでここに行った時、車になんども轢かれてせんべいの様になっていた死体が一体ありました。

 

下関から出発する時は下関にあるドック、それはグランド・スタンドのような鍋型の造船所ですが、そこに累々たる死体が投げ込まれていたのも目撃しました。」

 

ードックの死体はどのくらいですか

 

小池「5体や10体じゃなかったと思います。何十体かあったと思います。これは戦死体だと思います。」

 

ーそのほかに死体はありませんでしたか

 

小池「ありませんでした」

 

ー南京で虐殺の話を聞いたことはありませんか

 

小池「ありません」

 

ー噂話といった類のものはどうでしたか?

 

小池「中国兵が食えなくなって、自ら捕虜になったという話は聞きました。」

 

ー先ほどの話では、外人記者に会ったということですが

 

小池「彼らは一人が1台ずつ車を持ってて、城内の掃討作戦や火事の現場を撮ったり、難民区にも入って写真を撮ってました。

 

あまり頻繁に撮っているのでびっくりしたほどです。

 

私は一度、第16師団の城内掃討作戦で兵隊が略奪しているのを見ていますし、食べ物の略奪は上が黙認していたようなので、これらが記事になっては大変だと思い、このことを調べるといって、各城門で外人記者を抑えようとしたらしいのです。

 

しかし、実際、やろうとした時には記者がもう上海に帰った後でした。

 

それが、「シャンハイ・イブニング・ポスト」とか「ノースチャイナ・デイリー・ニュース」に記事になって出ました。

 

先ほど言ったように、「ニューヨーク・タイムス」などの海外の新聞にも出たわけです。」

 

ー「シャンハイ・イブニング・ポスト」や「ノースチャイナ・デイリーニュース」などを小池さん自身ご覧になったのですか

 

小池「ええ。上海に戻ってから見ました。そう言った中立国系の新聞だけでなく、中国の新聞にも出ていました。」

 

ーどう言う内容でした?

 

小池「はっきり覚えてませんが、日本軍が南京で略奪をやったとかそういうものだったと思います。

 

我々は軍の報道部に行って取材しましたが、都新聞の3人の記者では取材力が限られていましたので、前線に行くより英字新聞から情報を得ることにしていました。

 

ですからイギリスの共同租界に行って、新聞を読むのを日課にしていました。」

 

ーそういった新聞は反日宣伝の記事も多かったと思いますが、どう判断なさってましたか?

 

小池「もちろん共同租界に行けば、日本人は危険ですし、辻には、親日の中国人が日奸と行って殺されて、さらし首にされていました。

 

イギリスも反日ですから、取り締まりもしないでそのままにしています。

 

私がよく新聞を買いに行ったケリーというイギリスの本屋には反日の本がたくさん売ってました。

 

こういうところですから、中立国の英字新聞といっても、中国寄りの記事で、そのままでは使えません。

 

でも中国側の立場がわかります。私はそれらを頭に入れて記事を書いていました」

 

ー戦後、南京では何十万人かの虐殺があったと言われてますが

 

小池「私自身が南京で見た死体はさっき言った通りです。ただ、私は、南京全体を見ていた訳ではなく、行動が限られていましたので、他のことはわかりません。

 

ですから、私の見ていない場所で虐殺があったと言われれば、否定はできません。」

 

この対談の中で、”日本兵は難民区の敗残兵を摘発した”とありました。

 

南京城が陥落した後、中国兵の多くは敗走しました。

 

その時、軍服を脱いで、一般人民から服を奪い、便衣兵となって一般人民が避難している難民区(安全区)に潜り込んだり、下関から揚子江に向かって敗走したりしました。

 

南京城に入った日本兵は、その便衣兵たちを摘発するために、難民区に入りました。

 

なぜ、便衣兵を摘発したかというと、彼らは軍服を脱いだ兵隊であり、隙あれば日本兵を攻撃してくる可能性があったからです。

 

南京事変に限らず、中国戦線では、この便衣兵に日本兵は苦しめられました。

 

軍服を着ていない便衣兵は、一般人民と区別がつかないので、油断していると、日本兵がやられてしまうということが多発したからです。

 

参考図書

「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一著

 

画像 

佐藤振寿氏撮影、昭和12年12月15日、佐藤氏の手記より

 

「12月15日、南京中央部。中山路と中山北路の西側の一区画で、場内に残留した南京市民。

 

安全区の中に難民区もあって、ここを訪れた時に、両者の識別は難しかった。

 

ともかくもバラックの様な家に居留していた。背景の高級住宅と対比すると、難民と言えるだろう」

 

 

昭和20年(1945年)8月6日広島に、8月9日長崎に原子爆弾が投下されました。

 

それから70年あまり経過しましたが、また、原子爆弾が投下されてしまうかもしれません。

 

原子爆弾が投下されるとどうなるのでしょうか?

 

まず、太陽の光よりも眩しい光線が、ピカッと光ります。眩しいので目の前を手でふさぐと、手が透けてレントゲン写真のように骨が見えたそうです。

 

次に猛烈な爆風と衝撃波が襲いかかり、家屋や橋などの建築物が根こそぎ破壊されます。

 

この間、わずか10秒の出来事でした。

 

ピカッと光って衝撃波がドンっとくるので、原爆のことを”ピカドン”と言っていました。

 

爆風と衝撃波を避けるには、地下に潜るのが一番効果的と言われています。

 

今から核シェルターを構築していくには時間がかかりますので、各地で防空壕を作り避難場所を確保すると良いでしょう。

 

地下鉄やデパ地下などがあれば、そこに避難すると良いでしょう。

 

中立国のスイスでは、核シェルターの普及率が100%です。また、外国からの攻撃に対して、民間で防衛することが徹底されています。

 

日本では、どうでしょうか?

 

平成15年に成立された事態対処法と、平成16年に成立された国民保護法により、地方自治体や警察、消防隊が主体となって、一般住民を避難したり救助することとなっています。

 

武力攻撃事態等となった場合、国は、都道府県に対して警報を通知(Jアラート)。さらに避難が必要な時は、公共放送や防災行政無線を通じて、情報が伝達されることとなっています。

 

内閣官房 国民保護ポータルサイト

http://www.kokuminhogo.go.jp/pc-index.html

 

動画 YOUTUBE ”広島原爆投下”より

 

 

 

 

昭和12年8月15日から12月12日まで、日本海軍は、南京を空爆しました。

 

欧米で、この爆撃を批判的に報道をされてしまった、長谷川司令長官。

 

長谷川司令長官は、南京空爆を事前に警告することで、外交人の被害を、最小限に食い止めようとしました。

 

昭和12年(1937年)9月20日、上海の日本海軍第三艦隊司令長官の長谷川清海軍中将は、予定されていた南京爆撃について、南京在住の外国人に対して、次のような警告文を送りました。

 

「日本の軍事行動の目的は現在の戦闘状況を早期解決に導いいて、中国軍の敵対活動を終わらせることにあり、

 

そして南京は中国の軍事活動の主な拠点となっているので、日本海軍の爆撃機は9月21日の午後に爆撃という攻撃手段に訴えるかもしれない。

 

その攻撃目標は中国軍、および南京内外の軍事作戦と軍事行動に関係する全ての施設に向けられるであろう。

 

予定されている攻撃の間、友好的な列強諸国民の生命と財産の安全が十分に考慮されるであろうことは繰り返すまでもない。

 

しかしながら、そのような警告にもかかわらず、日中間の戦闘にそれらの諸国民が、危険な状態で巻き込まれるかもしれぬ可能性を考えると、

 

第三艦隊の最高司令官としては、南京内外に居住している職員や住民に対して、どうしても次のように忠告せざるを得ない。

 

より安全な地域へ、自発的に移動するための適切な手段をとるように、と。

 

揚子江での危険を避けたいと申し出ている外国の軍隊およびその他の船舶は、下三仙のもっと上流に停泊するように、との忠告を受けた」と。

 

この警告文は、日本軍の軍事行動を事前に明らかにしてしまったので、南京を守備している国民党軍からの猛反撃にあってしまい、日本軍は危険に晒されてしまうこととなりました。

 

しかし、それ以上に、南京にいる外国人の生命と財産に対する危険を最小限に食い止めようと思い、長谷川司令官は、事前に警告文を送ったのです。

 

日本海軍による南京空爆は、無差別爆撃ではなく、軍事施設と政府施設のみを狙った爆撃でした。

 

そうはいっても、実際、どんなに訓練を積んだ飛行士でも、誤爆の可能性もありますし、また、軍事施設に隣接している民間人に被害がおよぶ可能性も出てきてしまいます。

(実際、パネー号やレディーバード号の誤爆事件が起きました。)

 

そのために、事前に軍事機密であるはずの爆撃計画を、敵に知られる危険を冒してまでも、南京にいる外国人の生命と財産に対する危険を最小限に食い止めようと、長谷川中将は警告文を発行したのです。

 

しかし、長谷川中将の善意を踏みにじるように、欧米の新聞で報道されてしまいました。

 

昭和12年9月21日付 上海発 NYタイムズ

 

「日本が大都市としてのそして政府所在地としての南京を破壊し尽くし、この中国の10年に及ぶ首都の壮麗な新しい建造物を全て、灰にするつもりであることは、

 

長谷川中将の『敵に決定的な打撃を与え、それによって戦闘の終結を早めたいと願っている』という宣言によってはっきり示された。」と。

 

他の新聞各社も、次のような言葉を記事にして、批判的に報道しました。

 

「日本軍は、南京を破壊して地図の上から消し去ってしまう。」

 

「南京の全区域に空からの集中攻撃を行う」

 

「南院の無制限空爆」

 

「日本軍は、巨大な戦闘機編隊を本日集結。中国の首都であり、百万以上の人間の住む南京を破壊する目的である」

 

「日本軍、南京の完全破壊を望む」

 

「日本軍、中国の近代的な首都を完全破壊しようと決意」

 

など。

 

日本海軍は、上海や天津にあるいくつかの大学のキャンパスを攻撃しましたが、その理由は、その大学を国民党軍が軍事目的で使用していたためでした。

 

また、昭和12年12月13日、日本軍による南京城陥落に際し、松井中将は「孫文の墓である中山陵など文化施設において、決して砲撃しないこと」、というような命令を出しました。

 

そのおかげで、南京城内にある歴史的施設はそのまま破壊されずに残りました。

 

その一方、国民党軍の蒋介石はどのようなことを行なったのでしょうか?

 

蒋介石を始めとする将校達は、日本軍が南京に到着する前の12月7日に、南京から逃亡したので、現場の守備隊は指揮系統が乱れて、国民党軍による、略奪、暴行、破壊が横行することとなりました。

 

また、中国兵が逃亡する際、得意とする焦土作戦により、南京城内外の建物の多くは焼かれました。

 

山東省、済南では、日本人が純粋に科学的目的のために設立した、気象台を焼き払いました。

 

また、日中国民の福祉のために日本人が経営していた病院を略奪し尽くし、そのほとんどを破壊していきました。

 

日本人学校も焼き払いました。

 

青島では、日本人が経営する絹糸工場と綿糸工場の全てを、焼き払い破壊しました。

 

その被害総額は、3億円(昭和12年当時)に上ぼりました。

 

しかし、欧米の多くの新聞では、「日本軍による空爆により、多くの文化施設が破壊された」と、大々的に報道(プロパガンダ)されてしまいました。

 

参考図書

 

「シナ大陸の真相」カール・カワカミ著

 

 

 

 

イギリスの植民地だったマレー半島には、インドから派遣された英インド部隊が駐屯していました。

この英インド部隊は将校以外は全員インド人で構成されていましたが、昭和16年12月、日本軍がマレー半島に侵攻したとき、多くのインド兵が捕虜となりました。

 

このインド人捕虜に対して、特務機関であるF機関の人たちが説得にあたりました。

 

F機関とは、タイ王国公使館附武官の、田村浩大佐の下に設置された特務機関であり、機関長は、陸軍参謀本部から派遣された、藤原岩市少佐でした。

 

10人足らずの構成員でしたが、皆、陸軍中野学校出身でした。

F機関の人たちは、丸腰のままインド人捕虜たちと寝起きを共にし、同じアジア人同士が戦うことは愚かなことであると諭しました。

 

そして、イギリスなど白人帝国主義者をアジアから追放して、「アジア人のためのアジア」を復興するという大アジア主義を説きました。

共通の敵であるイギリスに対して、共に戦おうと説得していったのです。

 

その説得に動かされたインド人兵士達は、日本軍の指導のもと独立軍(インド国民軍)を組織して、その司令長官にチャンドラ・ボーズが就任しました。

 

戦前のインドは、200年以上もの長い間、英国の植民地支配の下にありました。

 

チャンドラボーズが、イギリス植民地支配からインド独立のため、義勇軍を組織しました。

チャンドラボーズはイギリス軍により投獄されましたが、脱走し、アフガニスタンからドイツまで逃れました。

 

ドイツでヒトラーと会見する機会があり、インド独立のため支援を要請しましたが、「インドが独立するまで、あと150年はかかるだろう」と、ヒトラーから冷たくあしらわれてしまいました。

 

ヒトラーは、徹底的な白人優越主義者であり、日本などアジア人を劣等民族(ウンターメンシュ)として見下していたので、インドが独立することなど、興味なかったのです。

 

どの国からも相手にされず、ヒトラーからも冷たくあしらわれてしまったチャンドラ・ボーズ。

 

そんな中、唯一チャンドラ・ボーズの独立の理念を理解し、協力をしようと手を差し伸べた国があったのです。

 

それが日本の東條英機でした。

 

東條英機首相は、次のような声明を出しました。

「インドもイギリスの暴虐なる圧政から脱出して、大東亜共栄圏に参加すべき絶好のときである」と。

昭和17年(1942年)2月、イギリスによる植民地支配されていた、難攻不落のシンガポール要塞に、日本軍が侵攻。

 

日本軍の2倍の兵力があったにもかかわらず、たったの10日足らずでイギリス軍は降伏。

 

昭和17年(1942年)8月、イギリス植民地支配に反対する大規模のデモがインド全土で起きました。 

 

イギリス軍は、戦闘機からデモ行進している民衆に対して機銃掃射を行い、940人が死亡、6万人を逮捕しました。

 

昭和18年5月、東京に到着したチャンドラ・ボースは、日比谷公会堂で次のような演説をしました。

「約40年前に、私がようやく小学校に通い始めた頃、アジア民族である日本が世界の巨大な白人帝国のロシアと戦い、大敗させました。

 

このニュースがインド全土に伝わると、興奮の波が全土を覆った。

インドのいたるところで、旅順攻撃や、奉天大会戦や、日本海海戦の勇壮な話によって、沸き立しました。

 

インドの子供達は、東郷元帥や、乃木大将を慕いました。

 

親たちが競って、元帥や大将の写真を手に入れようとしても、それができず、その代わりに市場から日本製の品物を買ってきて、”アジアの希望の光”のシンボルとして家に飾りました。

その間、インドの革命家たちは、どうして日本が白人の超大国を打ち破ることができたのか、学ぶために、日本を訪れた。

 

日本から、岡倉天心を始めとする先覚者がインドを訪れ、アジアを救う精神を説きました。

岡倉こそ『アジアは一つ』と断言した。

偉大な先覚者でした。

 

この度、日本はインドの仇的であるイギリスに対して、宣戦布告しました。

日本は我々インド人に対して、独立のための千歳一隅の機会を与えてくれました。

我々はそれを自覚し、心から感謝しています。

 

一度、この機会を逃せば、今後、100年以上にわたって独立の機会が訪れることはないでしょう。

勝利は我々のものであり、インドが念願の独立を果たすことを確信しています」と。

この演説は、インドへ向けてラジオ放送されました。

 

昭和18年10月、チャンドラ・ボースを代表とする、自由インド仮政府が成立し、10月24日、イギリス、米国に対して、宣戦布告をしました。

 

昭和18年11月6日、大東亜会議が東京で開催され、”大東亜共同宣言”を決議しました。

 

この大東亜会議は、有色人種によって初めて開催されたサミットでした。

日本、満州国、中国南京政府、フィリピン、ビルマ、タイ、そして自由インド仮政府代表としてチャンドラ・ボースが参加しました。

 

その”大東亜共同宣言”の内容は、以下の通りになります。

 

「世界各国が、民族毎に自分たちの土地を持ち、お互いにたすけあって、ともに国家として発展し、みんなで明るく楽しみをともにするためには、まず世界平和の確立がその根本です。

 

けれども米英は、自国の繁栄のためには、他国や他の民族を無理矢理押さえつけ、とくに東亜諸国に対しては飽くなき侵略と搾取を行い、

 

東亜諸国の人々を奴隷するという野望をむきだしにし、ついには東亜諸国の安定そのものを覆(くつがえ)そうとしています。

 

つまり、東亜諸国の戦争の原因は、そこにその本質があるのです。

 

そこで東亜の各国は、手を取り合って大東亜戦争を戦い抜き、東亜諸国を米英の押さえつけから解放し、

その自存自衞をまっとうするために、次の綱領にもとづいて、大東亜を建設して世界の平和の確立に寄与したいと考えます。

 

1 東亜諸国は、協同して東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。

2 東亜諸国は、相互に自主独立を尊重し、互いに助け合い、東亜諸国の親睦を確立します。

3 東亜諸国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、東亜諸国それぞれの文化を高めあいます。

4 東亜諸国は、互いに緊密に連携することで、それぞれの国家の経済の発展を遂げるとともに、東亜諸国の繁栄を推進します。

5 東亜諸国は、世界各国との交流を深め、人種差別を撤廃し、互いによく文化を交流し、すすんで資源を解放して、世界の発展に貢献していきます。」

 

以下は、大東亜会議に出席された、チャンドラ・ボーズ氏の演説になります。

 

「議長(東條首相)閣下、私が昨日及び本日、この大東亜会議の議事を傾聴している際、私の目の前には「パオラマ」のごとく世界の歴史が去来してきました。

 

私は過去100余年もの間、開催された数多くの国際会議を回想しました。そしてかつて私がインドの自由の叫びに耳を傾けてくれる者を求めて、幾日も虚しくさまよったことのある国際連盟の会議。

そして、その廊下やロビーを想起しました。

 

加えてさらにこの歴史的会議(大東亜会議)の議事を聞いていて、私はこの会議とかつて、世界史上に現れた類似の諸会議との間に、大きな差があることを思います。

 

議長閣下、本会議は、戦勝者間で行われる戦利品分割の会議ではないのです。

 

それは弱小国家の犠牲に供する、陰謀、謀略の会議でもなく、また弱小である隣国を騙そうとする会議でもないのです。

 

本会議は解放された諸国民の会議であり、正義、主権、国際関係における互恵主義、及び相互扶助等の原則に基づき、世界のこの地域に新秩序を創建しようとする会議です。

 

私はこのような原則に基づく会議が、日出ずる国(日本)にて開催されたことは、偶然ではないと考える者です。

 

そもそも世界が光明と指導とを東洋に求めたということは、これを持って初めてではないからです。

世界新秩序建設は、過去において、かつ他の地域において、何度も試みられてきましたが、全て失敗に終わりました。

 

それは新秩序創建の指導的立場に立つべきものに利己欲、強欲、及び猜疑心があったためです。

それゆえに、ここに世界が再び光明を東亜に仰がなければならないことになったのは、誠に当然の理であり、歴史的必然なのです。」

 

ボーズ氏は、

「本会議は、戦勝者間で行われる戦利品分割の会議ではないのです。それは弱小国家の犠牲に供する、陰謀、謀略の会議でもなく、また弱小である隣国を騙そうとする会議でもないのです。」

と語りました。

 

このような”大東亜共同宣言”にある理想の元に、日本は大東亜戦争を戦ったのです。

 

昭和19年3月、日本軍がインド国民軍(INA)とともに、インドビルマ国境から、インパールを目指して進軍しました。(インパール作戦)

 

「チャロ、チャロ、デリー!」(進め、進め、デリーへ)を合言葉に、「我らの国旗を、デリーのレッドフォードに掲げよ!」とチャンドラボーズは激励して、進軍していきました。

 

「チャロ、デリー!」は軍歌となって、今でも多くのインド人が歌っているそうです。

この行軍は、雨季の時期の猛烈なスコールと、マラリア、食料補給が途絶えてしまったこのなどのため、途中で退却することになりました。

 

チャンドラ・ボーズは、最後の一兵まで残って戦う、と退却を拒否しましたが、日本将校に説得されて、仕方なく撤退せざるを得ませんでした。

 

昭和19年11月、チャンドラ・ボースが再来日して、日比谷公会堂で次のように演説しました。

「アジアに住むインド人は、人的、物的資源を総動員して、、日本と生死を共にする」と。

 

日本の力無しに、アジアの解放は成し遂げられなかったのです。

しかし、昭和20年8月15日、日本降伏。

 

日本が武器をおいても、チャンドラ・ボースは、インド独立を諦めませんでした。

インパール作戦の残存兵を中心として、今度はソ連の支援を取り付け、再びインドのデリーを目指して進撃する計画を立てました。

 

ソ連に向かうため、サイゴンから台北に到着し、そこから日本の輸送機に乗って大連に向かう際、輸送機が墜落。

 

この事故で重傷を負ったチャンドラ・ボースは、しばらくして亡くなりました。

死の間際に、チャンドラ・ボースはハブビル・ラーマン大佐に言いました。

「ハビブ、私はまもなく死ぬだろう。祖国の人々にインドの自由のために戦い続けるよう伝えてくれ。」と。

 

イギリスは、インド国防軍(INA)の将校たちを、エリザベス女王に銃を向けた反逆罪として、軍事裁判を行いました。

 

インドの三大宗教であるイスラム教、ヒンズー教、シーク教別にそれぞれの信徒の将校たちを一人ずつ選び、3人を代表として被告席に座らせました。

 

昭和20年11月5日、軍事裁判が始まりました。その裁判で、証人として、F機関の藤原岩市元少将が、占領中の日本から呼ばれました。

 

藤原岩市元少将と同様に、証人としてインドのデリーに派遣されていた、沢田駐ビルマ大使が、被告人たちに対して次のように提案しました。

 

「みなさんは、INAは日本軍の手先として、インド将兵は自由意志によらず、日本軍によって強制されたと主張して、罪を軽くするのが良策だと思います。」と。

 

この提案を聞いて、インド人たちは怒り出して、次のようなことを口々に言いました。

「インド人を侮らないでほしい。INAは、日本軍と対等な立場で、共同作戦を行った独立軍である。日本軍の傀儡では決してない。

 

そのようなことを、絶対に言って欲しくない。その結果として被告全員が死刑となっても、インド国民に悔いはない」と。

 

裁判が行われたレッドフォード周辺では、不当な裁判に対する抗議行動を行っていた市民に対して、警官が発砲して、数百人の死傷者が出ました。

この抗議行動は、インド全土に広がっていきました。

「彼らは戦犯などではない、愛国者だ!」

 

インド民衆が一斉に蜂起。

 

昭和21年1月3日、イギリスは、事態の収拾ができなくなったため、被告への刑の執行停止を発表しました。

 

昭和21年(1946年)3月、シンガポールのチャンギー刑務所に送られ、厳しい尋問を受けた後、クアラルンプールに送られました。

 

その裁判中、インド国内では10万人規模のデモが起こったため、刑の執行は行われませんでした。

そこで、藤原岩市元少将は、イギリス軍から、”輝かしい功績”と評価されて、F機関とインド国民軍との関わりについて、取り調べを受けました。

 

イギリス軍は、なぜ、捕虜として捉えられたインド人兵士が、インド国民軍を結成して、日本軍と共にインパール作戦を戦うまでになったのか、とその理由を知りたがったのです。

 

ニューデリーでは、釈放祝賀会が大規模に行われ、会場には、今は亡き、チャンドラ・ボーズの巨大な肖像画が飾られました。

 

しかし、イギリスは、「被告については問責しないが、イギリス軍に対する殺人の被人道的犯罪については、裁く」と発表。

 

イギリス軍が、それまでの数百年にわたり行ってきた、インド人に対する被人道的な拷問虐殺については、一切不問としてです。

 

抗議デモが、インド全土で再び起こりました。

 

イギリスはこのような状況にもかかわらず、昭和21年2月7日ニューデリーにて盛大な対日戦勝祝賀パレードを行う計画でした。

 

しかし、ニューデリーでは全戸に弔旗が掲げられ、商店も学校も工場も全て休みとなり、数万人規模のデモ行進が行われました。

昭和22年8月15日、イギリスはインドの統治権を放棄。ついに悲願であった、インド独立を果たすことができました。

 

チャンドラボーズの志が、死んだ後も引き継がれたのです。

 

そして、200年以上にわたるイギリスの植民地支配から終止符が打たれました。

軍事(報復)裁判のインド側の弁護団長だったデサイ氏は、インド独立後に次のように語りました。

 

「日本軍がインド国民軍を編成して、武器を取って進軍させてくれた。(インパール作戦)

この進軍が、インド全土で国民運動となって、イギリスに独立を認めさせる契機となった。インド独立をもたらしたのは、日本軍であった。」と。

 

元インド国民軍デロン中佐は、手紙に次のように書きました。

「日本はチャンドラボーズとともに、インド独立のために戦ってくれました。

 

インドは、日本軍の犠牲のもとに独立することができたのです。

 

もし、あんなに犠牲者を出すことなく、また、インド国民軍と協力しないでインドに侵攻したならば、イギリス軍のインド部隊は、自分たちの方針を変えなかったでしょう。

 

25万のインド部隊が方針を変えたことにより、イギリスから独立することができたのです。」

 

元インド国民軍ヤダバ大尉

「我々インド国民軍将兵は、インドを解放するためにともに戦った戦友として、インパールの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対して、最も甚大なる敬意を表します。

インド国民は大義のために命を捧げた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代に至るまで、決して忘れません。」

 

元インド国民軍ヤダフ大尉

「インドが日本おおかげを被っていることは、言語に尽くせない大きなものがあります。

 偉大な日本国は、インドを解放するために可能な限りの軍事援助を提供しました。

何十万に上る日本軍兵士がインド国民軍の戦友として、ともに血と汗と涙を流してくれました。

インド国民軍は、日本帝国陸軍がインドの大義のために払った尊い犠牲を、永久に忘れません。

インドの独立は、日本陸軍によってもたらされました」

 

ロンドン大学教授である、エリック・ホプスバウ博士は次のように語りました。

「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派が展開した、非暴力の独立運動によるものではない。

 

日本軍と、チャンドラボーズが率いたインド国民軍(INA)が協力して、ビルマを経由してインドへ侵攻した、インパール作戦によって成し遂げられたものである」

 

日本軍参謀の無謀な作戦によって、多くの犠牲を出したインパール作戦。

 

しかし、この戦いは無謀な作戦でもなく、この戦いによる犠牲者は犬死でもありませんでした。

日本陸軍とインド国民軍との連合軍による、インパール作戦があったおかげで、インドが独立することができたからです。

 

参考図書

「なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか」加瀬英明、ヘンリーストークス著 

「帝国陸軍見果てぬ「防共回廊」」関岡英之著 祥伝社

 

 

 

「遺児の声」

 

陸軍工兵上等兵 川口熊市 命

昭和12年11月20日戦死

 

長男 川口忠信氏

 

僕の父は、僕がまだ生まれていない時、中国で戦死しました。

 

それで、父も、僕の顔を見ず、僕も父の顔を写真でしか知らないのです。

 

父がいないため、母は大変苦労されました。学校の教員になり、伊賀上野で家を借りて、勤めに出られたりしましたが、やがて郷里の阿波村に帰り、村の小学校に勤めていられたのです。

 

その頃のことです。丁度僕が二年生の冬のことです。乱暴だった僕は、学校の近くにあった炭がまの上で遊んでいて、釜の中に落ちて大火傷をしました。

 

母は、夜も眠らないで僕を看病してくれました。

 

こんなに苦労多く、父、亡き後の負担も多かったのか、病気になり、とうとう肺炎で、昭和22年5月15日に母は祖父母の元で息を引き取ったのです。

 

この5月15日は、何と不思議なことに僕の誕生日なのです。生まれてから父を知らず。母にはわずか10年で死に別れなければならなかった僕は、何と不幸な宿命をになっていたのでしょう。

 

母が死んだ後、僕は祖父母の元で、手伝いを一心にして、やっと中学校の三年生になりました。

 

祖父母のおかげです。しかし、楽しい時も僕の自慢話を聞いてくれる父がいません。

 

悲しい時も僕を慰めてくれる母がいません。そっと川辺にたたずんで、

 

「お父さん」

「お母さん」

 

と叫んで、涙が僕の心を押さえ、言いたいことは冷たい星空に向かって話しました。

 

「お父さん、お母さん、どうか天から僕をお守りください」

 

参考図書

「英霊の言の葉」靖国神社

 

 

 

 

 

南京事変の証言

福岡日日新聞 三苫幹之助記者

聞き手 阿羅健一氏

 

昭和12年11月5日、杭州湾敵前上陸戦に参加

 

ー上陸の時は第18軍師団と一緒だったのですか?

 

三苫「そうです。薄暗い朝靄をついて銭唐江下流の濁水の遠浅を、胸のあたりまで塩水に浸かり、部隊と共に上がりました。

 

重たいリュックを背負い、カメラを構えて、できる限り撮りまくったのですが、ずぶ濡れになってしまい、ボケ写真1、2枚がやっと使用に耐えた、と言う有様でした。」

 

ー第18師団は南京攻略に参加したのですか?

 

三苫「特設第18師団の任務は、攻略戦に際しては南京城内方面から脱出してくる敵の退路を遮断し、殲滅することでありました。

 

そのため、湖州が陥落してから、南京を遠巻きに太湖から揚子江に至る南西方面に布陣して待機していました。

 

南京では中華門攻撃が開始され、大激戦の様子でしたが、陥落はもう時間の問題とされていました。

 

陥落したら入城式が行われます。師団司令部は入城式に部隊を代表して参列する様に命令を受けていました。

 

そのため司令部は前もって、南京城西側の水西門から入城して、その日を待つことになっていました。」

 

ーそうすると、三苫さんは師団司令部とともに入城されたのですか?

 

三苫「いいえ、私は南京攻略の華々しい現場がどうしても見たいので、またしても部隊から離れて彷徨していると、ふと揚子江のほとりに出ました。

 

そこは太平という所でした。港町の様でした。やがてどこかの部隊の鉄船が上流から下ってきて着岸しました。

 

聞けば南京に行くのだという。そこでこれ幸いと頼み込んで便乗しました」

 

ー揚子江を降られたのですか?

 

三苫「揚子江を下る途中、川の中の一つの島にどうやら部隊がいる様でしたから、艇をつけてもらいました。

 

地図を按ずると、左岸近くに島江という地名がのっています。楚の項羽の故事で名高いあの土地です。」

 

それから南京に入られたのですか?

 

三苫「鉄船で揚子江を下り、南京の表玄関である下関(シャーかん)の埠頭に上陸しました。

 

日にちは、はっきりしませんが12月13日の午後ではなかったかと思います。日本軍が中華門近くに突入したのが12月12日。

 

13日午前中まで城内外で掃討戦が続いていたと言いますから、私が入城したのが12月13日の午後だったと思います。戦闘はもうすっかり終わっていました。」

 

ー水西門に着いて、どうされましたか?

 

三苫「水西門を出た所に、鹿児島の小原部隊がいました。大隊副官は、その夜は建物の一室に、部屋をあてがってくれました。

 

翌日、暗い中に起きて道路に出ました。道路の脇を見てごらんなさいと言われたので、気をつけてよく見ると、朝霧の中に、藍衣の支那兵の死体がゴロゴロ転がっていました。

 

数が多いので驚き、念のため、何名ぐらいであろうかと数えてみると、概算5、6百名でした。」

 

ー第18師団司令部の宿舎は見つかりましたか?

 

三苫「城内はガランと静かで、住民の姿は一人も見かけませんでした。たまに人がいると、それは日本の兵隊が城内を見て歩いているのでした。

 

兵隊を捕まえて、片っ端から尋ね歩いていると、案外容易に見つかりました。師団司令部は中華門の宝慶銀楼と言う空屋を宿舎にあてていました。

 

牛島貞雄師団長は、私が軍と共に泥んこの悪路を何日も強行軍し、また原稿発送のため戦地と上海間を廻っていたことをよく承知していたので、「君も随分苦労したね」と言って、すでに書いておいた1枚の墨書をくれました。

 

昔、戦場で武将が部下に与えた感状の様な意味あいのものだなと思いました。

 

牛島師団長はまた、私のために取っておかせた恩賜の酒1本と煙草1箱をくれました。

 

親父の様な暖か味の感じられる人柄でした。」

 

ー陥落後の南京城内の有様はどんなでしたか?

 

三苫「さぞ、荒廃しているだろうと思っていましたが、あまり荒れていませんので、意外に思いました。

 

激戦のあった中華門など城門のあった所は被害が大きかっただろうと思いますが、そこまでは遠くて見に行けませんでした。

 

市街も道路も綺麗になってました。入城式を控えて、清掃されたことも事実でしょう。中山東路の軍官学校や、入城式のある中山門の下見にも行って見ました。

 

どこも綺麗に片付いて、放置された死体などありませんでした。」

 

ー南京では大虐殺が行われたと言われてますが。

 

三苫「私は、陥落直後の南京を見ておりますから自信を持って言えることですが、大虐殺の話なんか見ても聞いてもおりません。

 

痕跡すら何一つありませんでした。もっとも、私は入城式が住むとすぐ上海に特派員交代をして、年内に日本に帰ってきましたので、その後のこと存じません。

 

しかし、南京が陥落した後にそんな虐殺行為を行うはずがありません。

 

南京の住民は、早くから難民区に収容されて保護を受けており、支那兵は南京守備隊を残して大部隊は撤退したものと私は考えます。

 

南京城内に大部隊の兵隊が集結していたら、日本軍が包囲態勢で攻めてきているので全滅するしかありません。

 

中国は広い。深傷を負わないうちに部隊はいち早く奥地・漢口へ退きました。

 

当然なことでしょう。まだ、先に重慶もあります。日本軍の戦線を糸の様に弱く引き伸ばすのが敵の作戦でしょう。

 

昭和14年の春になり、私は南京支局長を命ぜられて、再び南京に行きました。支局は中山北路にあり、それから南京に足かけ6年いて、現地召集で応召し、漢口で入隊、長沙方面に向かいました。

 

終戦になり、召集解除後、南京居留民の1万人と一緒に南京城外の旧日本兵舎に収容生活を送り、半年ばかりして引揚げたのですが、この間一度も虐殺の話を聞いてません。

 

虐殺の話を知ったのは、例の極東軍事裁判で問題にされたからです。

 

あれは戦勝者のでっち上げです。私は全く信じておりません。」

 

ーそのほかに何か当時を知る参考になることがありましたら。

 

三苫「それにはこれを見てください。私が南京支局に勤務している時、南京陥落2周年が巡ってきました。

 

本社では記念特集を企画しました。福日南京支局では中国人夫妻をボーイとして雇っておりました。

 

二人は戦争中も南京にいて、当時のことを詳しく知っていました。

 

私は匿名の条件で色々聞き質して記事にしました。その記事は福日紙の昭和14年12月10日付第7面に載りました。

 

難民区の有様が良く分かると思いますので、読んでみます。見出しは、

 

『難民に当時を聴く、恐怖の拉夫、拉婦、目に余る中央軍(国民党軍)の暴虐』

 

で、男の名前は黄真民(仮名27歳)で、南京より南方10里ほど隔てた郷土の出身で、中学卒業の学歴があり、女は陳美君(仮名26歳)で母は蘇州人です。

 

記者(三苫)「日本軍がやってきた時、君たちは何処で何をしていたか?」

 

黄「私たち夫婦は国際委員会で設定された南京城内西北の山二西路からズッと入ったイホロの難民区にいました。難民区には30万人の難民が混雑していました。

 

中央軍(国民党軍)の兵士が銃槍を持って夜となく昼となく代わる代わるやってきて難民を検察し、食料や物品を強奪し、お金と見れば一銭でも2銭でも捲きあげて行きました。

 

最も怖がられたのは拉夫、拉婦で独身の男は労役に使うため盛んに拉致されていき、夜は姑娘が拉致されていきました。

 

中央軍(国民党軍)の横暴は全く目に余るものがありました。

 

記者(三苫)「日本軍がやってきたことはどうして知ったか?』

 

黄「戦争が非常に重要時期にあり危険を感じて難民区に入ってからは屋外には一歩も出ませんでしたが、確か12月11日だったと思います。家の中で友達と話していると、後の方でバン!バン!と銃声が聞こえました。

 

はてな?可笑いい銃声だなと思わず友人と顔を見合わせました。」

 

記者(三苫)「日本軍を見たか?」

 

黄「日本軍を見たのは12月18日でした。日本の憲兵が巡察に来たのを初めて見ました。」

 

記者(三苫)「難民区の中には支那兵はいなかったのか?」

 

黄「居りました。それは皆発見されて捉えられていきました」

 

記者(三苫)「君は支那兵と間違えられる様なことはなかったか?」

 

黄「手や頭など調べられましたが、肌の色が兵士とは違うし、又私には妻があったので、中国兵でないということがすぐ理解されました。」

 

記者(三苫)「すると陳美君は君の生命の恩人だね、喧嘩せぬ様に仲良くしなければいかんよ。」

 

陳「調べられるときは本当にどうなる事かと怖うございました。」

 

記者(三苫)「難民区で君たちの食料はあったのか?」

 

黄「難民区が設定されると同時に、私はデパートを退職し、米2石、油塩その他の食料品を買い込んで妻と二人難民区に避難したのです。

 

最初、難民区には前の居住者は逃げてしまって人は全くいなかったのですが、後にはいっぱいに埋まってしまいました。

 

この事務室位に12人も一緒に寝ました。」

 

記者(三苫)「君の郷里は南京からそう遠くはないじゃないか。なぜ郷里へ避難しなかったか。」

 

黄「それは途中に土匪が多いからです。中央軍(国民党軍)もたくさんいます。」

 

記者(三苫)「中央軍がいた方が、土匪が来なくて都合がよくはないか?」

 

黄「いいえ中央軍(国民党軍)も土匪と同じです。金や品物を持っていれば、殺したり強奪したりするのです。」

 

陳「それで一番安全な難民区へ早くから入ったのです。」

 

記者(三苫)「君たちは殺されたり、強奪されたりする程、金銭や品物を持っていたのか?」

 

黄「私たちは勤めている時分一家を構えていたので、家財道具がたくさんありました。それから、私は貯蓄していた金を8百元、妻は4百元持っていました。」

 

記者(三苫)「それで土匪や中央軍が怖かったわけだね。」

 

黄「怖いものはもっとあります。」

 

記者(三苫)「それはなんだ?」

 

黄「悪人です。シナには悪人がたくさんいます。1面識のあった私の友が、私に金があることを羨んで、悪人に通じたのです。それで、その悪人が私を捉えて懐中の8百元を強奪して逃げました。」

 

記者(三苫)「どれはいつ頃のことか?」

 

黄「日本軍人進城の時です。その悪い友は今はどこかへ姿をくらまして帰って来ませんが、金を奪った悪人はまだ南京にいて時々顔を合わせます。

 

その悪人の被害者はたくさんあります。」

 

記者(三苫)「なぜ、警察に届けぬのだ」

 

黄「いいえ、それは無駄です。悪人は徒党を組んでいます。私から金を奪った悪人は今は食うものがなくひどく貧乏をしています。」

 

記者(三苫)「天罰が当たったのだね。陳の4百元もその時一緒に奪われたのか」

 

陳「私は布団の中にしっかり縫いこんでいましたので、見つけ出されませんでした。」

 

記者(三苫)「城内で戦争の激しかったのはどこだったか」

 

黄「水西門、光華門、下関、蛇江門だったと聞いてます。日本軍の攻城は周囲から南京を包囲し、攻城法が好かったので南京は早く陥落になったそうです。なんでも、水西門付近では十一人の日本兵のために3千人ものシナ軍が捕虜になったそうです。」

 

記者(三苫)「それは珍問だ。なぜ抵抗しなかったのか?」

 

黄「戦意を失って、皆武器を捨てたのだそうです。」

 

記者(三苫)「実は僕も南京攻城戦の時、従軍記者としてこの南京へやってきていたんだ。水西門外には5百も6百もの遺棄死体が散乱していた。

 

この後、僕が止まったところに中華門の宝慶銀楼という建物があった。

 

今度南京にきてどうなっているかすぐに見に行ったが、あれは以前の通り、残っている支那人が住んでいたよ。」

 

黄「そうでしたか。少しも知りませんでした。」

 

記者(三苫)「中華門攻略の際には、僕の新聞社の従軍記者が一人戦死したよ」

 

黄「へー、従軍は自分で志願するのですか?」

 

記者(三苫)「新聞社が派遣するのだ。私の他に南京に7、8名来ていた。」

 

こういう内容です。」

 

三苫記者は、南京支局長時代、家族で南京に赴任しており、お嬢さんが小学1年から5年生まで、南京の日本人小学校に通っていました。

 

そのお嬢さんに、南京大虐殺の話を聞くと、

 

「そんな話は全然聞いたことがありません。あちらでは近所の支那人の子供たちともよく遊びましたが、彼らからもそのような噂すら聞きませんでした。」と言うことでした。

 

参考図書

「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一著

「ひとめでわかる日韓・日中歴史の真実」水間政憲著

 

写真

東京朝日新聞 昭和12年11月19日付

上海に国民党軍がいなくなり、治安が回復していった様子を、朝日新聞やアサヒグラフが写真で記事にしています。

 

平成元年(1989年)の天安門事件の後、上海地区から日本に留学して来た人に質問をすると次のような話をしたそうです。

 

水間政憲「日本は残虐なことをしたと教育されていると聞いているが、なぜ日本に留学しようと思ったのか?」

 

留学生(公務員の娘さん)「祖母は清国時代から上海を知っているが、『最悪なのは共産党の今の時代だ』と言っていました」と。

 

留学生(工場経営者の息子さん)「母が『上海から蒋介石軍がいなくなって、日本軍が来てからは、夕方、街にいても安全になった』と語っていた」と。

 

留学生(蒋介石軍の将軍だった祖父を持つお孫さん)「『日本軍は軍紀が厳しく、信頼できた』と祖父から聞いていた」と。

 

 

 

 

子供の顔がみたい

 

陸軍兵長 江越国広 命

昭和20年5月23日

ルソン島にて戦死 享年35歳

 

「としえよ、葉書有難う。

 

僕もどんなに逢いたいか。子供の顔もみたい。次の日曜日に面会許可書を頼むはずであったが、遅かった。

 

すべてはにくい未来だ。

 

お前もキツイでしょう。しかし、我慢して働いてくれ。父も母もきっと可愛がってくれるでしょう。

 

国敏もいい子だ。落ち着いた気持ちはきっと良くなると思う。

 

ああ、一度見たい。博美もいい。

 

しかし、あまり古いことにはこだわらず育ててくれ。

僕の写真にお辞儀をしたとのこと。涙が出るよ。

 

勲もだんだん良くなるよ。頭のよいところを伸ばして下さい。征記は大きくなるよ。身体に注意して育ててください。

 

兵舎の窓から走馬燈のように顔が流れる。としえ、国広が元気で帰る日を待ってくれよ。

 

そして、気をつけて、働いてくれよ。

 

8月10日

としえ殿             

                 国広」

 

(男の子四人を残して応召、戦地に出発する時、妻に宛てた手紙)

 

「英霊の言の葉」靖国神社

 

 

 

遺骨は、お母さんに抱かれたい

陸軍伍長 河野宗爾 命

昭和19年12月16日

レイテ島西方海域にて戦死 享年23歳

 

「ご面会もできず、出発すること、何だか淋しい気持ちです。

 

ニッコリ笑って戦友に見送られて行きます。生還を期せずして出て行くにあたり、心から今までの御高恩を謝し、母上40年間のご苦労に、何等お報いできなかった事を深くお詫び申し上げます。

 

今、お別れするに当たり唯一の頼みは、どうか長生きせられて、私の遺骨はお母さんの胸に抱かれて無言の凱旋をすることが、私の願いであります。

 

決して、生きて還ると言う様な事は思って下さいますな。

 

それ程、今の日本は急迫しているのです。

 

静かにペンを執って書く時、何時となく涙ぐんでくる。母上のこれからの苦労を思えば泣けてまいります。

 

お笑い下さいますな。門徒の方にも、自分は元気で征った。命を国にささげる喜びを如実に体験せんとする自分の心は平静である。

 

宜しく、よろしく、皆さまにお伝え下さいませ。」

 

「英霊の言の葉」靖国神社

 

 

 

子供の手形が欲しい

陸軍兵長 緒方誉津雄 命

昭和20年6月30日 レイテ島にて戦死

 

「雨期には珍しく月の良い晩です。月齢も丁度15、6夜で、地方なら月見で一杯というところだが、ここではそんなわけにはいきません。

 

ぼんやりお月様を見ている中に、昔の歌。。。月が鏡であったら。。。をなるほどと思ってみました。

 

最近は、あまり便りがこないが、皆んな元気でいることと思います。

 

子供の清書か図画を送ってください。四人の子供の手形も欲しい(手に墨をつけて、紙に押して日付を入れてください。)

 

正穂君から便りがあったが元気でご奉公しているそうです。

 

では又、皆んな御達者で。」

 

参考図書

「英霊の言の葉」靖国神社