子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -23ページ目

獄窓の遺書

海軍兵曹長 真鍋茂雄 命

昭和22年10月30日

セレベス島マカッサルにて法務死

享年35歳

 

「のりあきの、学校の姿を見て、うれしく思う。 今後もよろしく、養育頼む。

 

なお、御見らの、幸福を祈る。

 

写真見て、感慨無量。

 

はなはだ気の毒だが、生涯、のりあきの賢母として、養育頼む。

 

汚名を着るも、恥ずるなし、やがては咲きて若桜。

 

行く末守る、御身らを。 

 

返無用。さらば。」

 

参考図書

「英霊の言の葉」靖国神社

 

 

 

 

 

南京事変の証言

新愛知新聞(現在の中日新聞) 南正義記者

聞き手 阿羅健一氏

 

ー南京にはどの方向から行きましたか?

 

南「中山門から入りました。先頭の兵隊と一緒に進み、暗いうちに中山門まで行きました。

 

そこから先には進めず、中山門上で城内の様子を伺いながら待機していました。

 

12月13日ですが、先頭の部隊と共に中山門から城内に入り、中山東路を進むと、街路樹のプラタナスに日本兵が吊るされていて大騒ぎになりました。」

 

ー日本兵ですか?

 

南「そうです。後でわかったのですが、通済門か光華門で戦いがあり、そこで捕まった日本兵らしいのです。

 

それを中山東路に連れてきて、殺して、プラタナスの木に吊るしたものです。

 

下から火であぶってありました。」

 

ー何体くらいですか?

 

南「私が見たのは2、3体です。すぐプラタナスから下ろしました。それを見た兵隊たちはカーっとなりましてね。それ得なくとも敵愾心がありますから」

 

ー初めて聞く話ですが。

 

南「1番最初に入った兵隊しか知りませんからそうでしょう。すぐに日本兵を下ろしましたしね。

 

南京城内で私はこのことが一番印象に残っていたので、戦後、南京に行った時、そのプラタナスの所に行って見ました。

 

40数年経っていましたが、プラタナスはそのままありました。当時はこんなもの(両手の人差し指と親指で輪を作る)でしたが、

 

その時は一抱えもある(両腕で輪を作る)ほど伸びていました。ああ、これがあのプラタナスだったなと思いました。

 

日本兵を下ろした後は、戦闘中ですからすぐ城内の中心に向けて進みました。」

 

ー城内で虐殺があったと言われていますが

 

南「そう言うことはありません。虐殺があったなど誰も行っていませんし、見ていない。日本が戦争で負けてから中国がでっち上げて言い出したことです。」

 

ー城内で虐殺らしきことは見てませんか?

 

南「見てません。全て戦闘です。一部の兵隊がカーッとなっていることはありますが、戦闘です。

 

日本兵は食料はない。中国兵も統制が取れないと言うことがあり、戦闘というものは規則通り行われるものじゃありませんがね。

 

夫子廊のあたりで各部隊を止めて、市民のいる所にはいけませんでしたし。」

 

ー捕虜をやったと言われてますが

 

南「その時、『決戦に捕虜なし』という言葉があって、捕虜という考えは日本軍にはなかったと思います。

 

もちろん中国だって、逃げる時は家を焼き払い、物を壊して逃げ、便衣兵になってスパイをやるし、捕虜になって助かるという気はありません。

 

お互い捕虜という概念がなく、助かろうという気もないから、捕虜をやったというのも変な話です。

 

それは、後からこういう国際法に照らし合わせればということでね。戦場を知らない人がそれを虐殺だと行っているだけです。

 

便衣兵のことを虐殺だと言ってる人もいますが、それは虐殺ではありません。」

 

ー同じジャーナリズムでも朝日新聞は南京虐殺だと言ってますが。

 

南「ああ、朝日新聞ね。朝日新聞はモスクワででも発行すればよい」

 

ー南京ではどこにいましたか?

 

南「後で名古屋の第3師団が南京に来ましたから、そちらに行ってます。私は通信のため南京と上海を何度も往復して、年が明けてからも南京に行ってます。

 

共に上海に行ったカメラマンの川井克己と一緒のことが多く、従軍記者の中には、松井大将の親戚にあたる松井敏もいました」

 

ー先ほど、戦後南京に行ったとおっしゃっていますが、いつのことですか?

 

南「私は従軍記者をやっていて、日本が勝った記事を書いていたから、中国に行っても嫌われるだろうし、行く気もなかった。

 

中国に負けて悔しいとも思っていましたからね。名古屋市が南京市と姉妹都市になって、日中友好をやろうということになった時もそんな気でいました。

 

ところが、私も東海ラジオでこういう立場だから南京と友好をやらないわけにはいかない。

 

東海ラジオでも友好のための何かをやろうということになった時、私が率先して南京に行きました。

 

南京に東海ラジオの番組を持って行って流すと、音楽など中国人は喜ぶんだな。

 

そこでうちの番組を南京で流すことにした。また、揚子江に長江大橋という立派な橋がある。

 

何キロもあるやつでね。この橋を使って日中友好ジョギングをしようという案を出して、ジョギング大会を始めた。

 

今年は3回目で、11月3日にやる予定です。私も去年Tシャツを着て南京市長と一緒に走ったよ。」

 

ー南京に行って、中国側から虐殺のことを言われませんか?

 

南「一度もない」

 

ー南京に虐殺記念館ができてますが・

 

南「ほう、そうか。私は中山門とか、中山通とか、思い出の場所には行ったが、虐殺記念館は知らない」

 

ー江東門外にあるということですが。

 

南「そっちには行ったことがない。南京市長も何も言わない。そもそも南京事件ということを南京では誰も言わないよ。

 

中国では当然、私の前歴など調べて、どんな人間か知っているはずだ。まあ、今、お互いにうまく行っているから何も言わないんだろう。

 

しかし、南京事件といってもありもしないことだから、もし相手が言うようだったら、私も言うよ。

 

南京市長より私が当時をよく知っているからね。逆に、今、私が先頭で友好をやっているから、南京事件がなかったと言うと問題がある。

 

影響があるからね。私は昔のメモなど持っているので、今の仕事を辞めたら本当のことを書きたいと思っているんだ。」

 

南氏が務めた新愛知新聞は、名古屋新聞と合併して中部日本新聞になりました。南氏はのちに、東海ラジオを作り社長に就任し、東海テレビの社長も務めました。

 

参考図書

「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一著

 

 

 

 

 

 

南京事変の証言

読売新聞 森博カメラマン

聞き手 阿羅健一氏

 

ー杭州湾から戻って、南京に向かうのですか?

 

森「杭州湾から戻った時、上海が平静になり、しばらくして陸軍がなんきんに向かいましたので、私も行き、無銭の占領を撮りました。

 

この時、読売の渡辺峰雄記者と朝日の前田恒カメラマンが死んでいますすが、渡辺記者はもともと上海にいた人で臨時雇いだったのですが、勇敢な人でした。

 

前田カメラマンは、我々と別れて一時間ほどした時、死んだと聞かされましたので、その時は驚きました。

 

カメラマンとしてはじめての犠牲者だったはずです。

 

陸軍と一緒に無銭までは行きましたが、その頃はまだ南京攻略が決まってなかったので、そのあと私はいったん上海に戻りました。

 

読売新聞では、3ヶ月位戦場にいると、一度東京に戻ることになっていまして、私も上海に渡って3ヶ月になりましたので、それから東京に戻りました。

 

その頃、朝日新聞や都新聞の記者は1日15円の従軍手当がつき、毎日新聞は13円の手当がついてました。

 

読売は1円もつきませんでしたが、その代わり、本社に戻ると、正力松太郎社長が一人一人にあって、5百円をくれる決まりになっていました。

 

給料が60円位の時のことです。

 

正力社長は、戻った時に会うだけでなく、出発の時も必ず東京駅まで見送りに来てくれましたから、皆やる気になっていたと思います。

 

この時、私はすぐに上海に戻り、それから南京で入城式があると言うので自動車で行きました。

 

入城式が17日でしたから、15日か16日頃、南京に行ったと思います。」

 

ーいつまで南京にいましたか?

 

森「入城式は多分大島源太郎カメラマンが撮ったと思います。私は翌日の慰霊祭を撮りました。

 

ですから、19日頃まで南京にいたはずです。」

 

ー南京の様子はどうでしたか?

 

森「特別のことはありませんでした。南京にはその時だけでなく、その後も何度か行っており、翌年の1月頃は、南京が平和になったというので、それを撮るために行ってます。

 

入城式の頃は、1月頃に比べると、街には中国人も相当いましたが、日本兵が中心でした。

 

2度目に行ったときは鉄道で行きましたが、その時は日本兵も一部だけになり、3度目に行った時は日本人が相当来ており、福田屋という日本の旅館もありました。」

 

ー入城式の頃、中国の市民たちは日本兵を恐れていましたか?

 

森「住民は敵意を持っていなかったし、日本兵を怖がっていなかったと思います。逆に、便衣兵がいましたので、日本兵の方が中国人を警戒していました。」

 

ー日本兵による中国兵に対する殺戮があったといわれてますが。

 

森「ありました」

 

ーご覧になったのですか?

 

森「見てませんが、兵隊から聞きました」

 

ーどんなことですか?

 

森「捕虜を揚子江の淵に連れて行って、どこかに行けと行って放したが、結局、殺したということです。

 

岸がしたいで一杯だったとも聞きました。それは本当だと思います。市民に対しては何もありませんが、中国兵に対してのそういうことはありました。」

 

ー南京にいて聞いたのですか?

 

森「ええ、南京にいる時です。何箇所かで聞きました」

 

ーなぜやったのでしょうか?

 

森「捕虜を捉えたが、捕虜にやる食料がないし、収容するところがない。放しても又兵隊になる、それで困ってやったと言ってました。

 

中国の兵隊は日本と違って、食えないから愛国心がなくとも兵隊になります。

 

事実、放すと、すぐにどこかで兵隊になってます。

 

また、中国には便衣兵がいて、日本兵はこれを恐れえていましたから、やってしまおうということになったのだと思います。」

 

ーどの位の捕虜をやったのですか?

 

森「相当多数だ、と聞きました」

 

ーうえの命令でやったのですか?

 

森「下士官が単独でやったのだと思います。分隊長クラスの下士官です。もしかすると、もう少し上の方も知っていたのかもしれません。

 

その頃、捕虜を扱う国際法か何かあったと思いますが、兵隊は捕虜をどう扱うのか知らなかったし、自分たちは捕虜になったら死ぬものだと思っていたので、捕虜は殺すものと思っていたのでしょう。

 

陸軍の下士官の中には何年も軍隊にいて、軍隊のことは何もかも知っていて、新任の少尉が小隊長で来ても、上官とも思わずバカにしている悪い奴がいました。

 

彼らが新しく入ってきたへいたを殴っていじめていたのですが、そういった下士官がやったのだと思います。

 

私も何年かして、前線を進撃しながら、捉えた中国兵を切っているところに出くわし、下士官から斬って見ないか、といわれたことがあります。

 

戦争ですから、殺す、殺されるのは当然ですが、やらなくてもいいことまでやったと思います。」

 

ー下士官全体がそうだったのですか?

 

森「いや、一部の下士官です。陸軍は国民全部が兵隊になりますから、一般社会では使い物にならない悪い奴も入ってきて、これらが陸軍を悪くしていました。

 

そういう奴が、ああいうことをしたのだと思います。

 

私はカメラマンとして従軍していましたから、一度も軍隊に入らずすみましたが、そういうのを見ていましたから、いつも軍隊には入りたくないと思っていました。

 

軍といっても、海軍は陸軍と違ってスマートでしたから、私は好きでした。

 

海軍の報道担当をしていた重村実大尉さんは、よく共同租界のダンス・ホールにもいってました。

 

陸軍の将校は、ダンス・ホールに行っても日本刀を振り回したり、剣舞をやったりしていました。陸軍と海軍はその位違ってました。」

 

ー下士官は残虐なことをやっているという気持ちはなかったのでしょうか?

 

森「日本兵は捕虜をやっても悪いことをやっているとは思ってなかったと思います。

 

私もその頃は日本が戦争に負けるなどとは思っていませんし、負ける時は死ぬ時だと思っていました。

 

戦争は勝つか、そうでなければ死ぬものだと思っていたわけです。

 

兵隊もそうだったと思います。ですから、兵隊は捕虜をやったことを隠してませんし、悪いと思ってなかったし、自分が生きるため仕方なかったと思います。」

 

ー虐殺に関して、直接、何かを見ましたか?

 

森「話だけで、実際は何も見てません。南京では見てませんが、その後の作戦で、攻撃の途中、日本兵が民家に入って、床を剥がして飯盒の焚き付けにしているのは見たことがあります。

 

また、、出発する時、家をわざわざ壊したり、中に放火をしているのを見たことがあります。

 

その時、兵隊に聞いたところ、敗残兵が入ってくるからだ、と言ってました。」

 

ー略奪もあったと言われてますが

 

森「南京ではどうだったのかわかりませんが、略奪と言いますか、そう言うことは兵隊だけでなく記者もやっていました。

 

作戦が始まる時、連隊本部からは従軍記者も何日か分の食料をもらいます。しかし、重いですから2、3日分の食料しか持たずに従軍して、なくなれば後は民家に入って探します。

 

食料を撮るのは悪いとは思ってませんでしたから、そう言うことは兵隊も記者もやってました。

 

記者の中には食料以外のものを略奪する人もいて、上海の博物館から勝手に持って行った記者もいたと言います。

 

もっともそこにあるのはイミテーションで、本物は重慶にあったと言いますが」

 

ー南京で虐殺をやったと言うのはどの部隊ですか?

 

森「さあ、どこでしょうか。わかりません。第6師団のように強い部隊ですと、中国軍もそれを知っていて、戦う前から逃げていたようです。

 

私は鹿児島生まれですから、その後の漢口作戦などは第6師団について行きましたが、第6師団が通った後に、中国兵がまだいましたから、その後続部隊がやると言うことはあると思います。」

 

ーその時、南京での事件を他の記者も知ってましたか?

 

森「よく仲間とはお茶を飲みに行ったりしましたが、話題にはしてませんでした。しかし、知っていたと思います。」

 

ーなぜ誰も話題にしなかったのですか?

 

森「戦争だから殺しても当然だと思っていたし、戦場ですから死体を見ても気にしていませんでした。

 

ですから、話題にしなかったのだと思います。そう言うことで記者は突っ込んで取材をしようとはしませんでしたし、我々も軍から、中国兵も日本兵も死体を撮ってはダメだ、と言われていましたから撮りませんでした。

 

死体のことを書いても撮っても仕事にならなかった体と思います。

 

日本軍の悪いことばかりを話しましたが、もちろんいい話もたくさんあります」

 

ー東京裁判で南京事件が取り上げられましたが、その時、南京事件を知っていた人はどの位いましたか?

 

森「誰も知らなかったと思います。東京裁判の時の記憶がはっきりしませんが、多分、田中隆吉少将のような人が告発したからだと思います。

 

ただ、私は南京で話を聞いてましたから、あのことかと思いました。」

 

森氏は、読売新聞から、各社のニュース映画部門が統合されて作られた、日本ニュース映画社の社員となり、東京裁判の映像をGHQを代表して撮影しました。

 

その後、NHKに移り定年まで勤めました。

 

参考図書

「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一著

 

 

 

 

「はじめに言葉あり、言葉は神と共にあり、言葉は神なりき。

 

この言葉は、はじめに神とともにあり、萬のものこれに由りてなり、成りたる物に一つとして之によらで、成りたるはなし。

 

之に生命あり、この生命は人の光なりき、光は暗黒に照る、しかして暗黒は之を悟らざりき。」

(ヨハネ伝 第1章1−5節)

 

「言葉は神である」と言う言葉とは、生命の振動(バイブレーション)であります。

 

「言葉は神とともにあり」とは言葉と神は別もので並列しているものではなく、言葉そのものが神であると言う事です。

 

日本は、言霊の国と言われていますが、その言葉を大切に扱って、悪い言葉を使わないようにしていました。

 

大東亜戦争中に第二の国歌と言われるほどに、歌われた歌があります。

 

それは「海ゆかば」です。

 

その歌詞は以下の通りです。

 

「海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)

山行かば 草生(くさむ)す屍(かばね)

大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ

かへりみはせじ

 

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)

山行かば 草生(くさむ)す屍(かばね)

大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ

長閑(のど)には死なじ」

 

現代語訳

「海を行けば、水に漬かった屍(かばね)となり、山を行けば、草の生す屍(かばね)となって、大君(おおきみ)のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない」

 

この歌詞を読むと、海軍兵士は、水に漬かった屍(かばね)となり、陸軍兵士は、草の生す屍(かばね)となる、という事になります。

 

実際、大東亜戦争では、この歌詞の通りとなりました。

 

言霊の力の威力を発揮したのです。

 

戦後、北海道のある炭鉱で、事故が多発して、作業員の死者や重軽傷者が頻発していたことがありました。

 

この炭鉱では、作業中、「海ゆかば」を放送していました。

 

この状況に困っていた現場の責任者は、ある工員から、この「海ゆかば」の放送を中止してはどうかという提案があり、試しに止めることにしました。

 

すると、それまで頻発していた事故が、嘘のようにピタッと止まったそうです。

 

悪い言葉を発したり、それを聞いたりしていると、潜在意識に蓄積されて、その言葉が現象として現れてしまうのでしょう。

 

もし、戦争中に、「海ゆかば」ではなく明るい歌を歌うようにしていたら、戦局は変わっていたかもしれません。

 

参考図書

「ヨハネ傳講義」谷口雅春著 日本教文社

 

 

戦地より愛児への葉書

陸軍兵長 柴田勝見 命

昭和17年8月8日 中支にて戦死

ロス五輪出場 ホッケー選手 享年31歳

 

「えみこちゃん まいにちげんきにがっこうへいってますか? まだ、おべんとうはもっていきませんか? 

 

がっこうはとてもおもしろいでしょう。それから、おうちではおかあさんのいうことをよくきいて、しかられたりしないでしょうね。

 

かつやのおもりもよくしますか?

 

こんど、おとうさんはとおい「シナ」のおくへきていますから、このまえのときのように、ときどきおうちへかえることはできませんから、

 

よく、おかあさんや、おばあさんのいうことをきいて、おりこうにし、おうちのおてつだいをしてください。

 

がっこうのおべんきょうも、よくするのですよ。おとうさんも、そのうちおみやげをもって、おうちへかえりますから、たのしみにまっていてください。

 

じゃ、さようなら。」

(原文 カタカナ)

 

参考図書

「英霊の言の葉」靖国神社

 

 

南十字星に祈る

陸軍軍属 松下八寿雄 命

ニューギニアにて戦死 享年 45歳

 

「長男 文男君へ

健康で、明朗で、篤実な青年たれ、生意気な人間になるな。祖父母の言付を守り奮闘せよ。

 

自己の職責に忠実なれ。父は若き将来あるお前に期待すること切なり。自重自愛を祈る。

 

千鶴ちゃんへ

おじいさんや、お母さんや、兄さんの言付けをよく聞いて、体をたいせつに、家の事を出来るだけお手伝いしなさい。

 

弟を大事に、ケンカせぬように、毎日おさらいを忘れぬよう。学校ではべんきょうや運動をいっしょうけんめいにきばって、よい子供になってください。

 

つよし君へ

日本のおとこのこはなくな、うちのひとのいわれることを、よくきいて、よいこどもになりなさい。

 

びょうきにかかるな。ケンカするな。おとうさんは、とおいところにいっても、かしこくしているか、どうかはよくわかる。

 

よいこだつよい、つよい、おまえのなのような、こになりなさい。

 

参考図書

「英霊の言の葉」靖国神社

 

 

 

 

南京事変の証言

同盟通信映画部 浅井達三カメラマン

聞き手 阿羅健一氏

 

ー南京には何日に入ったのですか?

浅井「13日です。中山門から入りました。」

 

ー城内の様子はどうでしたか?

浅井「中山門を揚子江の方にいく途中に難民区があって、日本人は入れないようになっていたようです。

 

入ろうと思っても中国人が沢山いるから危険では入れませんがね。そこは、紅卍字会の人たちが世話をしていました。

 

中国人は主に難民区にいて、難民区以外の自分の家にいる人は表に出てこないようでした。」

 

ー紅卍字会の人はどの位いましたか?

 

浅井「さあ、どの位だったのか。印象に残ってる位ですから、相当いたと思います。

 

難民区で紅卍字会の人たちが、日本の兵隊の前に立ち塞がり、その人たちは兵隊ではない、と一生懸命説明していたことがありました。

 

また、城内に入って2、3日してから城内のあちこちが燃えていました。」

 

ー日本兵がやったのですか?

 

浅井「日本兵なのか中国兵なのかはっきりしません」

 

ー中国人は日本軍をどう見ていたのでしょう?

 

浅井「怖がっていたと思いますよ。それは戦後アメリカ軍が上陸した時、日本人が怖がったのと同じです。」

 

ー虐殺があったと言われてますが

 

浅井「私は見てませんが、あったという話です。そんな話を聞きました。」

 

ーやっているのを誰か見たのでしょうか?

 

浅井「少数の記者が死体を見たと言ってました。東宝の白井氏(文化映画部カメラマン)さんなんかは我々と違って、南京の真ん中に宿舎があったので、色々見たのでしょう。「カメラと人生」に書いてます。」

 

ー死体はどんなところにあったのですか?

 

浅井「揚子江と雨花台にあったと言ってました。」

 

ー戦死体ではありませんか?

 

浅井「さあ、やったと聞きましたが。どのように片付けたのか、入城式までには片付けたと言ってました。」

 

ー人数はお聞きになってますか?

 

浅井「どのくらいかわかりません」

 

ー浅井さん自身がご覧になったことは?

 

浅井「中国人が、城内を列になってぞろぞろ引かれていくのは、見ています。

 

その姿が眼に焼きついています。その中には軍服を脱ぎ捨て、便衣に着替えている者や、難民となって南京に逃れてきた農民もいたと思います。

 

手首が黒く日に焼けていたのは敗残兵として引っ張られて行ったと思います。」

 

ーそれはいつ頃ですか?

 

浅井「昼でした。2百人か3百人の列で、その列が2つか3つあったようです。」

 

捕虜の連行とか城内の様子は撮らなかったのですか?

 

浅井「南京陥落や城内に入った直後は色々とりましたが、一段落してからは撮りませんでした。

 

撮っても仕事になりませんからね。その他、私が撮ったのは入城式の模様で、松井石根大将が、中山門を通って行くのを中山門上で後から撮って、それを納めてから中山門を駆け下りて、前からも撮りました。」

 

ー虐殺の現場はどの社も撮ってませんか?

 

浅井「誰も撮ってないでしょう。記録はないと思います。私は死体は撮りたくなかったから、現場を見ても撮らなかったのでしょう。

 

ずっと戦場にいましたが、戦闘は撮っても死体は撮ったことがありません。

 

それからやらせを一度もやったことがありません。南京でも占領して万歳している写真というのはやらせです。

 

占領した瞬間というのは戦闘の続きですから万歳どころじゃないですよ。

 

そんなところにカメラマンも滅多に行けませんしね。万歳できるのは占領してから半日もしてからでしょう。

 

ただし、占領した嬉しい気持ちを表すために、万歳してもらって写真に撮るのは、やらせでも良いと思います。気持ちが行動に出てますからね」

 

ー同盟通信の中で、虐殺というようなことが話題にならなかったのですか?

 

浅井「なりませんでした。その頃、敗残兵や便衣兵がよくいて、それをやるのが戦争だと思っていましたから」

 

ー外国のジャーナリストが数人、南京に残ったと言われてますが。

 

浅井「さあ、会ったことはありません。ただ、パネー号が沈んだので、それに乗っていた記者たちが南京に入ってきました。

 

14日だと思います。4人でね。上海に行きたいと同盟通信にきました。同じ記者ですから、同盟通信にきたと思います。

 

車で上海に行くという話がありましたが、途中、中国兵がいて危ないので、海軍と話をして、海軍の船に乗って行きました。

 

パネー号の沈没を撮ったフィルムは水に濡れたが写っていた、と後で聞きました。」

 

ー外国の記者は虐殺を見てますか?

 

浅井「その頃、話は起きてませんでしたから、見てないでしょう」

 

ーパラマウントのニュース・カメラマンのアーサー・メンケンが残って南京陥落を撮ったと言われてますが。

 

浅井「メンケンなら私も知ってますよ。上海で一緒でしたから。彼もそれまで上海で撮ってました。

 

でも南京では合わなかったな。1月ごろ上海に戻ってからも、よくメンケンとは昼飯を一緒に食べました。

 

フランス租界のジミーというところに行くといつもいてね。一緒に撮った写真もあります。」

 

ーアーサー・メンケンから虐殺の話は聞いてませんか?

 

浅井「聞いてません」

 

ー南京には何日位いましたか?

 

浅井「入城式を撮ったのは確かですが、それで上海に戻ったのか、その後も数日はいたのかはっきりしません。

 

上海に戻ってから杭州攻撃があったので、すぐ杭州に向かいました。

 

昭和13年になって上海に戻った時、石川達三にあってます。彼とは名前が同じで、同盟通信には村上逹というのがいたので、三逹と言って三人で飲みました。

 

石川達三は中国でのことを「行きている兵隊」に書いています。

また、前田雄二さんの「戦争の流れの中に」にも一文を寄せていますが、書いてる通りだと思います。」

 

ー浅井さんはそのまま上海にいたのですか?

 

浅井「2月に、上海から凱旋する松井大将と一緒に東京に帰りました。

 

上海を出る時は畑俊六大将も宮様(朝香宮)も見送りにきてました。

 

下関から東京行きの富士というのがあって、赤い絨毯が敷いてある列車ですよ。

 

確か二両特別連結したと思います。この車両に松井大将と副官と馬渕逸雄中佐さんと私と、全部で6、7人いたと思います。

 

途中から軍の参謀が乗り込んできましたけど。

 

途中、戦塵を流すというので、多分熱海だったと思いますが、そこに一泊しました。

 

次の日は天皇陛下に会いますからね。私も同じ旅館に泊まりました。翌日、東京駅につきましたが、東京駅には軍のお偉い方がほとんど迎えにきてました。

 

松井大将が降りるのを撮影しようと、列車から一番に降りたら憲兵に怒鳴られて、それでもこっちは報道部だと言って撮り続けました。」

 

ー松井大将はどんな方ですか?

 

浅井「とてもとても、話す間柄ではありません。私は隣の車両にいましたし、それでも上海では時に記者会見の場で顔だけは会わせていました。」

 

ー戦後、東京裁判を撮るわけですが、松井大将は死刑になりますね。

 

浅井「私は日本代表して最初から東京裁判を撮っていました。南京のことが起訴状にあった時、それは当然だと思いましたよ。

 

ある程度はありましたからね。また、ピラミッドの頂点だった松井大将は仕方がないと思います。

 

ただ、20万人もの虐殺と言ってますが、数の面ではそうは思いません。南京の人口の大半がいなくなる数ですから。」

 

参考図書

「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一著

 

写真

昭和12年(1937年)12月15日

 

「南京難民区で撮影した時、難民たちは日本人を恐れることなく、カメラの前に立った。白布に赤い布を丸く切って、日の丸の印として、日本兵に反抗する意思のないことを表していた。」

東京日日新聞(毎日新聞)記者 佐藤振寿氏の手記より

 

 

 

南京事変の証言

同盟通信 新井正義記者

聞き手 阿羅健一氏

 

新井「我々が南京にいた時、大虐殺なんて聞いたこともなかった。何年か前、上海の支社長をやっていた松本重治が回顧録を書くことになったが、松本は上海にいたから南京のことは何も知らない。

 

そこで、南京で取材をやっていた深沢幹蔵と前田雄二、そして僕が呼ばれた。

一緒に飯を食いながら、当時の事を話してくれ、というわけだ。

 

その時、前田は見たと言ってたが、僕は虐殺とかそういう現場を見たことがないんだな。

 

死体は見た。兵士の死体だ。便衣の者もいた。その中に捕虜のしたいもあっただろう。南京の全域をカバーした訳じゃないが、全部で3、4万人の死体があったのじゃないかな。

 

大部分は戦闘で死んだものだが、その中にそういうものがあったのかもしれない。飯を食いながらそういう話をした。

 

従軍記者といっても、まともに扱われるのは徐州作戦あたりからで、あの頃は全て自前でね。

 

食事やらロバやら自分で用意する。本当にひどいものだった。

 

あの時はどの部隊が南京に一番乗りするか、それを誰が記事として送るか、それが競争で、だから、危険でも最前線まで行った。

 

広島の大学に行った堀川武夫と、この前死んだ前田と三人でチームを作っていつも一緒だった。

 

一人が軍の本部にいて二人が最前線に行く。交代でこの組み合わせをした。

 

最前線には上海で雇った若い中国人を伝令として連れて行った。

何かあるとこの中国人を本部にやらせる。

 

本部には無電があり、これで上海に記事を送るのだ。この無電というのが重くてね。一人じゃ持てない。ロバに乗せて運んだ。

 

私はざほくの戦いが終わったあと、東京から上海に行き、待機していた。

 

その時は、柳川兵団に続け、と言われていた。蘇州あたりで柳川兵団に追いついた。柳川兵団は杭州湾上陸以来、特別大きい戦闘もなくすんなり南京まで行った。

 

彼らが、何かやったとは思えない。上海でも戦っていた師団が後から追いついてきた。

 

彼らは、仲間が半分近くもやられた連中もいたから、気が立っていた。やったとすれば彼らだろう。

 

柳川平助中将軍司令官から、南京の首都攻防軍が20万人から25万人くらいだろう、という話を聞いたことはある。

 

柳川軍は5万、日本軍は合計で10万ぐらいということだ。

 

すんなり南京に行ったと行っても、敵がいない訳ではなく、蘇州の先では朝日の記者がやられている。

 

私らは線路に沿って南京に向かったが、柳川兵団は太湖の方を廻っていた。

 

線路上を北上して行くのだが、線路のそばの稲の列が線路と直角になると、兵が隠れているのが見える。

 

そうすると突然撃ち合いになる。そうやっってどんどん進んだ。

 

途中でよく中国人にあった。中には日本兵が「この中国人を使役した」と書いたものを腕につけているものもいた。

 

これを見せるんだな。便衣兵に間違われるので身の危険を感じてこうしたのだろう。

 

紫金山あたりから本格的な戦闘になった。紫金山から城壁までの間、相当撃ち合いがあった。

 

12月13日に私たちは中山門から南京城に入った。入ってから同盟の宿を探した。

 

どの家も戸が閉まっている。結局、中山門から少し入ったところに設営した。

 

南京城内に残っていた人たちは、見てわかるが、貧民だけだった。

 

南京城内に入ったと行っても場外にはまだ敗残兵がたくさんいて、戦闘が終わったという感じではなかった。

 

乱戦が続いて危なかった。計算から行くと、敗残兵は16万くらいいたのだろう。

 

13日か14日だと思うが、郊外にあった軍司令部で宮様がやられた、と聞いて慌てて取材に行った。

 

車で40分ぐらいかかったと思う。宮様に会うと、「昨夜はえらい目にあいました」とおっしゃっていた。そういう状況だった。

 

15日に旧支局に入った。旧支局は町の中で、すぐそばに金陵女子大学があった。

 

旧支局に入ってから、女子大学の校長か寮長かが来て、婦女子の難民を収容しているが日本兵が暴行する、同盟さんに言えばなんとかなると思ってきました、と言う。

 

そこで我々は軍司令部にそのことを伝えに行った。

 

私自身は虐殺の現場や死体を見たことがない。下関では中国兵が揚子江を渡る時、撃ち合いがあったとは思う。

 

下関で、堀川か誰かが、兵隊の射殺現場か死体を見たと言っていた。

 

16日に軍官学校で処刑を見たと前田が書いているが、それは軍政部じゃないのか。

 

どっちにしろ、私は見ていない。すぐにいろいろな軍が入ってきたから、相互に牽制して暴力はやれなかったのじゃないかな。

 

捕虜もいたが、日本のひえたいが捕虜の持っている缶にコメを入れてあげるのを見たこともある。

 

入城式直後には小物も売っていたし、兵隊が甘いものに植えていたから甘味料もよく売っていた。

 

こう言う状況だから虐殺というものはどうかな。

 

全然なかっとは言えないが、20万とか、そういうのは全然ありえない。

 

どのくらいか、見ていないから言えない。

 

入城式の時、何か起こるかもしれないというので、道路脇に並んでいる兵隊の後から、前田と一緒に松井石根大将を追いかけた。

 

万一を考えてそうした。だからすっかり安全だったという訳ではなかった。

 

私は入城式の後まで南京にいて、海軍の軍艦で上海に戻った。

南京にいたのは約1週間だった。

 

虐殺というのは戦後、東京裁判で初めて聞いた」と。

 

 

参考図書

「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一著

 

 

写真

”無名戦士よ眠れ!”

 

「抗日の世迷いに乗せられてとは言え、敵兵もまた華と散ったのである。戦野に屍を横たえて風に晒されていた哀れな彼ら。

 

が、勇士たちの目には大和魂の涙浮かぶ。

 

無名の敵戦士たちよ眠れ!

白木に滑る筆の運びも彼らを思えば、優しき心の墓標だ。」

 

(小川特派員撮影『朝日新聞』昭和12年(1937年)11月25日)

 

 

 

 

 

北海道の北半分を守った男 樋口季一郎陸軍中将

 

昭和20年2月、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの三首脳はクリミア半島のヤルタ島で会談を行いました。(ヤルタ会談)

 

この秘密会談で、ドイツが降伏した2、3ヶ月後に、ソ連が対日参戦することが決まり、そしてその見返りとして、次の条件を挙げました。

 

1、外蒙古は現状維持

 

2、1904年の日本の背信的攻撃により侵害された、ロシアの旧権利は回復される。

 

(イ)南樺太はソ連に返還される

 

(ロ)大連におけるソ連の優先的利益は擁護され、港は国際化される。ソ連の海軍基地として旅順の租借権は回復される。

 

(ハ)東清鉄道と南満州鉄道は、中ソ合弁会社として共同運営される。中華民国(蒋介石)は、満州における完全な主権を保有する。

 

3、千島列島はソ連に引き渡される。

 

このヤルタ密約は、ルーズベルト大統領が、友人のスターリンに、南樺太、千島列島、東清鉄道、南満州鉄道、大連、旅順を、中華民国(蒋介石)に満州を、プレゼントする約束をしたものでした。

 

昭和20年4月、ソ連は、日ソ中立条約の不延長(破棄)を駐ソ大使の佐藤尚武に通告しました。

 

日ソ中立条約の規定では、不延長後も昭和21年4月まで有効であるとする佐藤駐ソ大使の意見に、ソ連のモロトフ外相も一応、確認しました。

 

ソ連は昭和20年3月までの対日戦の作戦計画を作成して、シベリア鉄道を使って軍事輸送を開始しており、日本大使館もそれを確認していました。

 

本格的な輸送は、ドイツが降伏した5月7日以降になりますが、極東ソ連軍は、日本参戦までに40個師団から80個師団までに倍増していました。

 

その一方で、日本陸軍(関東軍)は、南方へ兵力を大きく輸送していたので、ソ連国境付近の軍事力は弱体化していました。

 

ソ連は、6月26日、27日のソ連共産党、政府、軍の合同会議で、日本軍に対する攻撃作戦を8月に行うと正式に決定しました。

 

ヤルタ密約により、友人のルーズベルトからのプレゼントである、満州、南樺太、千島列島を占領することが目的でした。

 

また、北朝鮮の占領もこの作戦に含まれていましたが、北海道の占領については、まだ決まっていませんでした。

 

昭和20年7月17日からポツダムにて、米国、英国、ソ連首脳が集まり、会談が開かれました。(ポツダム会談)

 

7月25日、米軍のハンディー参謀副長官は、スパーツ陸軍戦略空軍司令官に、日本への原爆投下を命令しました。

 

翌日の26日、トルーマンとチャーチルと蒋介石の連名で、ポツダム宣言が発せられました。

 

鈴木貫太郎首相は、ポツダム宣言を「黙殺する」と声明を出しました。

 

なぜこの時、鈴木勘太郎首相は、ポツダム宣言を黙殺したのでしょうか?

 

実は、日本政府は、6月始めからソ連を仲介とする終戦交渉を行っていました。

 

東郷茂徳外相は、広田元首相に対して、ソ連のマリク駐日大使との交渉を依頼。

 

なんの進展もないまま、7月中旬に交渉は打ち切られました。

 

対日参戦のための準備を着々と進めているソ連と、終戦のため交渉を行っていたのです。

 

ポツダム宣言にはスターリンの著名がありませんでした。

そこで、鈴木貫太郎首相は、ソ連との終戦交渉の望みがまだあるとして、「黙殺する」ことにしました。

 

8月6日、米国は広島に原爆投下。

 

翌日の8月7日、スターリンは、ワシレフスキー極東ソ連軍総司令官に、8月9日零時に攻撃を開始するように命じました。

 

モスクワ時間の8月8日17時、モロトフ外相は、佐藤尚武駐ソ大使とクレムリンで会い、日本に対する宣戦布告を読み上げました。

 

モスクワ時間8月8日18時、満州・日本時間8月9日深夜0時、ソ連軍174万の大部隊が、満州や南樺太の国境から一気に侵略してきました。

 

満州を守備していた関東軍は、主力を南方に奪われたため、まともに反撃することができませんでした。

 

そのような状況の中、民間人が戦闘に巻き込まれる悲劇がありました。

 

満州には鉄道警護のための、満州鉄路警護団が70個ありましたが、本部の満州里に8月9日朝、ソ連軍が攻撃してきた時、鉄道警護隊員は応戦するも全滅。

 

満州里鉄道電話通信所で、必死に緊急電話をかけていた電話交換手六人は、乱入してきたソ連兵に射殺されてしまいました。

 

最後に、「皆様、さよなら、さよなら、これが最後です。ご検討をお祈りします。」と悲痛な叫びを残して死んでいきました。

 

避難することなく決死の覚悟で、最後までお国のために、電話交換手としての仕事を全うしていった、大和撫子たちでした。

 

日本政府は、8月10日と14日の御前会議における、天皇の御聖断により、8月14日ポツダム宣言を受諾。

 

翌日15日、終戦の詔が発布され、正午に玉音放送が流れました。

 

これを受け、英国軍と米国軍は攻撃を中止しました。しかし、ソ連は攻撃をやめませんでした。

 

8月16日、アントーノフ参謀総長は、次のような理由で攻撃の継続を声明しました。

 

「日本の降伏に関する通告は、無条件降伏の一般的通告に過ぎない。日本軍の停戦命令はまだ出ておらず、依然として抵抗を続けている」と。

 

日本の大本営は、8月16日午後4時になって即時停戦命令を出しました。

 

しかし、ソ連軍の攻撃は止むことはありませんでしたので、それを迎え撃つ最前線の部隊は、戦闘行動をとっていいのかどうか、決断ができずにいました。

 

そして、それぞれの前線部隊は、白旗を持って、敵陣地に停戦交渉を何度も繰り返しました。

 

また、即時停戦命令にも次の但し書きがありました。

 

「停戦交渉成立に至る間、敵の来攻にあたりては、止むを得ざる自衛のための戦闘はこれを妨げず」と。

 

この「自衛のための戦闘」も8月18日午後4時までと徹底されました。

 

8月17日、山田乙三関東軍総司令官は、ソ連極東方面軍に打電して、停戦を提案したが、ワシレフスキーはこれを拒否。

 

関東軍は、ワシレンスキーから、8月20日まで軍事行動を停止すること、武器を引き渡すこと、日本兵は捕虜となることを要求されました。

 

8月19日、ソ連極東方面軍司令部において、関東軍とソ連極東軍との間で、停戦協定が結ばれました。

 

日本側代表の秦参謀長は、居留民の保護と日本本土への帰還などを要求しましたが、

 

ソ連軍は守らず、多くの日本人居留民に対する略奪、暴行、強姦(レイプ)、虐殺など、満州の悲劇が起こりました。

 

樺太ではどうだったのでしょうか?

 

8月11日早朝、樺太国境付近の古屯付近で、ソ連の戦車部隊と日本の守備隊との間で戦闘が始まりました。

 

翌日の8月12日、札幌の第5方面軍の総司令官、樋口季一郎中将は、樺太の第88師団に対し、次のような訓示を出しました。

 

「断固仇的を殲滅し、もって襟を安んじ奉ランことを期すべし」と。(「戦史業書」)

 

8月15日終戦を迎え、16日午後4時には停戦命令が大本営から出たので、樋口総司令官も88師団長に対して、停戦を命令ずるとともに、

 

「停戦交渉成立に至る間、敵の来攻にあたりては、止むを得ざる自衛のための戦闘はこれを妨げず」と打電しました。

 

この打電を受けて現地の師団は混乱しました。

 

なぜなら、敵が目の前で攻撃をしかけているのに、こちらから積極的に攻撃をすることができないためです。

 

8月20日になって、樺太を担当していた第5方面軍は、樺太の第88師団に再び停戦交渉を命令。

 

22日に知取(マカーロフ)で停戦協定を結びました。

 

ソ連軍は、8月24日に南樺太の豊原(ユジノサハリンスク)、25日に大泊(コルサコフ)を占領しました。

 

このような中、民間人である、樺太の真岡郵便局の電話交換手9名が、8月20日、ソ連軍が上陸した時に、青酸カリを飲んで自決しました。

 

最後に残した言葉は、

 

「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」。

 

満州里の鉄道電話通信所と同様、避難することなく決死の覚悟で、最後までお国のために、電話交換手としての仕事を全うしていった、大和撫子たちでした。

 

千島列島ではどうだったのでしょうか?

 

千島列島では、8月15日、ワシレンスキー総司令官は、プルカーエフ第二極東方面軍司令官とユマシェフ太平洋艦隊司令官に対し、

 

北千島(占守島(シュムシュ)、幌島(パラムシル)、阿頼度島(アライト)、志林規島(シリンキ))を占領するように命じました。

 

米ソではポツダム会談の共同軍事会談で、北千島を除いた千島列島を米国による軍事行動範囲と認めていました。

 

しかし、ソ連は、この軍事会談を無視して、米国の出方を伺いながら、北千島以南へ侵略していきました。

 

8月18日早朝、カムチャッカ防衛区のグネチコ少将とペトロパブロフスク海軍根拠地の部隊が、千島北端の占守(シュムシュ)を砲撃。

 

これに対し、日本の堤不さ貴中将は、国籍不明の的に対して、直ちに反撃。

 

8月16日午後4時に停戦命令が大本営から出ていましたが、

 

「停戦交渉成立に至る間、敵の来攻にあたりては、止むを得ざる自衛のための戦闘はこれを妨げず」

 

という但し書きがあったので、自衛のための戦闘行動をとりました。

 

しかし、この自衛の為の戦闘も8月18日午後4時までと厳命されていました。

 

のちに、この時のことを樋口中将は次のように記しています。

 

「18日は戦闘行動停止の最終日であり、「戦争と平和」の交代の日であるべきであった。(略)しかるに何事ぞ。

 

18日未明、強盗が私人の裏木戸を破って侵入すると同様の、武力的奇襲行動を開始したのであった。

 

かかる「不法行動」は許されるべきではない。若し、これを許せば、至る所でこの様な不法かつ無知な敵の行動が発生し、「平和的終戦」はありえないであろう」と。

(「遺稿集」)

 

樋口季一郎司令官は、堤不さ貴師団長に次のように打電しました。

 

「断固、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」

 

占守島の竹田浜上陸に対して防戦していた、村上則重少佐率いる独立歩兵第282大隊でした。

 

ソ連軍の攻撃に対し、劣勢でしたが、池田末男大佐率いる戦車第11連隊が救援に向かいました。

 

この戦車隊も、終戦を迎えたので、燃料の入ったドラム缶も地中に埋めたり、

 

17日には、「戦車も海に捨てようか」と話していたような状況でしたが、必死に整備して再び出陣できる状況に持って行きました。

 

そして、池田末男大佐は兵士たちを前にして、次のような訓示を述べました。

 

「我々は大詔を奉じ家郷に帰る日を胸にひたすら終戦業務に努めてきた。

 

しかし、ことここに至った。もはや降魔の剣を振るうほかはない」と。

 

戦車隊が到着して、ソ連軍と戦闘を開始しました。

 

18日午後1時、樋口季一郎中将は、次の内容を大本営に打電しました。

 

「今未明、占守島北端にソ連軍上陸し、第91師団の一部兵力、これを迎えて自衛戦闘続行中なり。

 

敵は先に停戦を公表しながら、この挙に出るは甚だ不都合なるを持って、関係機関より、速やかに折衝せられたし」と。

 

この打電を受け、大本営はマニラにいるマッカーサー司令部宛に、ソ連に停戦するように指導することを求めました。

 

マッカーサーは、ソ連国防軍のアントノフ参謀長に停戦を求めましたが、ソ連軍最高司令部はこの要求を拒否しました。

 

前線においても、戦闘行動停止を求める軍使を、白旗を掲げて敵陣地に、何度も送りましたが、途中で殺害されてしまうなど、ソ連側に全く停戦する意思がありませんでした。

 

そうしているうちに午後4時を迎えました。

 

日本軍は、大本営の決めた午後4時に停戦することを厳守して、積極的戦闘を自ら止めましたが、ソ連軍はかまわず攻撃を続行してきました。

 

この時の状況を樋口季一郎中将は、のちに次のように記しています。

 

「私は、この戦闘を「自衛行動」即ち「自衛の為の戦闘」と認めたのである。

 

自衛戦闘は、「不法者側の謝罪」により終焉すべきものとの信念に基づき、本戦争の成果を待った。

 

私は残念ながら、16時をもって戦闘を止めた事を知り、不法者膺懲(ようちょう)の不徹底を遺憾とした。」と。

(「遺稿集」)

 

その後も、停戦交渉を試みますが、まとまらず、最終的に8月21日に停戦協定が締結されました。

 

この戦闘は、8月15日以降のソ連から仕掛けられた戦闘において、ソ連にとって最大の犠牲者を出す負け戦となりました。

 

ソ連のイズヴェスチア紙は、「8月19日はソ連人民の悲しみの日である」と報じました。

 

停戦協定後、ソ連軍は、日本軍将校を水先案内人として、千島列島を南下していきました。

 

8月31日までに、ソ連軍により、得撫島(ウルップ)を武装解除しました。

 

ソ連太平洋艦隊司令部は、8月26日、北太平洋艦隊に択捉と国後への上陸を命じました。

 

8月28日に択捉島、9月1日に国後島、色丹島に上陸。

 

9月2日、戦艦ミズーリ号の艦上にて、降伏文書調印式が行われ、日本は連合国に対して、正式に降伏することとなりました。

 

その正式に降伏した後の9月5日、なんと、ソ連軍は歯舞諸島に上陸して占領してしまいました。

 

北方4島に上陸する際、ソ連兵は「この島に米国兵はいるか?」と聞いて、米国兵がいないことを確認してから上陸をしていきました。

 

これは、ポツダムでの軍事会議で、北千島以外の千島列島は、米国の軍事行動範囲と認めていたため、ソ連軍は、米国の動向を気にしながら占領していったのです。

 

北海道占領作戦はどうなったのでしょうか?

 

8月15日、トルーマン大統領はマッカーサーに他する一般命令第一号を決裁したことを、スターリンに知らせました。

 

この一般命令第一号とは、日本軍が連合国のどの司令官に対して降伏するかを規定したものでしたが、

 

「満州、朝鮮半島の38度線以北と樺太」については、ソ連極東軍司令官に対して武装解除して降伏することと規定されていました。

 

この命令第一号について、スターリンは、8月16日に、ヤルタ協定に基づき、

 

ソ連軍に日本軍が降伏すべき地域に、全ての千島(クリール)諸島を含めることと、

 

北海道の北半分(釧路と留萌を結ぶ線より北側)を含めること、を要求しました。

 

同じ日の8月16日、スターリンは、ワシレンスキー極東ソ連軍総司令官に対し、北海道と南千島を9月1日までに占領するよう命令を出しました。

 

9月1日までとは翌日の9月2日が降伏文書調印式の日でしたので、それまでに火事場の泥棒的に、占領することを命じていたのです。

 

しかし、8月18日トルーマンは、スターリンに対して返答しました。

 

「北海道の北半分の占領を拒否する」と。

 

8月22日、スターリンは、トルーマンに次の内容の書簡を送りました。

 

「北海道の北半分をソ連軍への降伏地域に含めることを拒否する回答は期待していなかった」と。

 

9月2日、スターリンは、「同志スターリンの国民への呼びかけ」を公表しました。

 

その内容は次の通りです。

 

「1904年日露戦争におけるロシア軍の敗北は国民に苦しい記憶を残した。その敗北は、我が国家の不名誉になった。

 

我が国民は、日本を撃破しその恥を拭う日が来ることを信じ、その日の来るのを待っていた。

 

我々前世代の人間は、40年間その日の来るのを待っていたが、今その日がきたのである。」と。

 

樺太、千島列島の占領、日本兵のシベリア抑留が、日露戦争での敗北の復讐であったことを公表しました。

 

しかし、8月18日の占守島での戦闘で、ソ連軍が予想していなかった日本軍からの積極的な攻撃のため、北海道への侵略工程が狂ってしまいました。

 

その間に、米軍が北海道に進駐してきたので、ついにソ連軍の侵略は北方4島で止まったのです。

 

もしこの時、樋口季一郎の決断がなかったら、北海道の北半分はソ連の占領下に置かれ、朝鮮半島やかつてのドイツのように、日本は分断されていた事でしょう。

 

参考図書

「指揮官の決断」早坂隆著

「シベリア抑留」長勢了治著

 

 

 

 

 

日清戦争からの中国外交の基本的政策は、日本に対する国際的な干渉を生じさせることで、日本の力と影響力を阻止することであります。

 

これは、「遠くの敵を近くの敵にけしかける」という、中国の伝統的政策となります。

 

米国生まれで少年時代を中国で過ごしたシナ学者である、オーエン・ラティモア(Owen Lattimore)は次のように語りました。

 

「中国にとって、蛮族と戦うよりも彼らに内部的混乱を起こさせた方が得策である。

 

そのために、陰謀、同盟、賄賂などがあり、相互に敵対しあうことで、どの部族も自由に中国を攻撃できなくなってしまうのである。

 

これが蛮族を持って蛮族を制する、という有名な規範であり、中国の歴史を通じてみられる根本的現象である」と。

 

日清戦争の際、中国の李鴻章は、欧米列強に対して国際干渉を引き起こそうと積極的に働きかけました。

 

「もし、中国が領土の割譲を認めるのを拒んだ場合、あなたの政府は清国のために介入してくれるか?」と。

 

この時、米国公使であるチャールズ・デンビイは次のように忠告しました。

 

「清国を救う唯一の方法は、日本と清国が全面的な協力関係を構築する誠実な意図を持って、直ちに講和を結ぶことである。

 

外国の干渉という他のいかなる方法も、清国をさらなる苦難と屈辱の泥沼に追い込んでしまうだけであろう」と。

 

日本との戦争が長引けば長引くほど、清国が受ける損傷は大きくなるばかりであるので、

 

日本と仲良くすることが清国にとって最上の選択であり、それは早ければ早いほど良い、というのがチャールズ・デンビイの持論でした。

 

しかし、清国はそのような考えを受け入れませんでした。ただひたすら、欧米列強の干渉を招くことによって、日本を打倒して、日本に屈辱を与えることを考えました。

 

日清戦争の後、下関条約で遼東半島を日本に割譲されましたが、清国は、ドイツ、フランス、ロシアによる三国干渉を引き出し、再び、返還させることに成功しました。

 

しかし、これは清国にとって破滅的な結果を招くことになりました。

 

なぜなら、山東半島南海岸の膠州湾はドイツに、満州の権益と遼東半島の大連、旅順はロシアに奪われてしまったからです。

 

さらに、この干渉が、のちの日露戦争を引き起こした要因となりました。

 

国連が設立されると、中国は、このジュネーブで開催される会議において、欧米列強からの干渉を引き出すための手段として、活用しました。

 

日中の間の未解決問題を友好的に解決しようという、日本の融和政策(幣原外相による外交方針)は、ほとんど意味を持ちませんでした。

 

なぜなら、中国は国連の場を使って、欧米列強の干渉を生じさせることで、日本を屈服させることしか興味なかったからです。

 

また、中国は外国の干渉を煽るために、日本に対する様々な挑発行為を繰り広げて行きました。

 

例えば、反日宣伝活動であり、貿易活動のボイコット、学生騒乱、日本人居留民の虐殺、反日教育など。

 

中国は、このような挑発を日本に対して行うことで、日本に軍事行動を起こさせ、その結果、国連の場を利用して英米などから、侵略してきた日本に対する制裁措置を取らせることを画策したのです。

 

一方、米国の国務長官ヘンリー・L・スティムソン(Henry Lewis Stimson)は、かつてチャールズ・デンビイ氏が清国の李鴻章に忠告した、国際干渉を求めず日本と講和するように、というのとは真逆の方針をとりました。

 

すなわち、国際干渉によって日本の影響力を阻止する政策をとるように、国連を導いていくというものです。

 

昭和6年(1931年)9月18日、満州の奉天近郊の柳条湖(りゅうじょうこ)で、日本の所有する南満州鉄道の線路が爆破される事件が起きました。

(柳条湖事件)

 

この事件をきっかけに日本陸軍(関東軍)が、満州に侵攻して満州全土を占領しました。

(満州事変)

 

スティムソンは、日本の満州への軍事行動を非難しました。

(スティムソン・ドクトリン)

 

(終戦後の昭和22年、スティムソンは、原爆投下について、「原爆投下によって、戦争を早く終わらせ、100万人のアメリカ兵の生命が救われた」と表明しました。)

 

 

昭和6年(1931年)10月18日、日本政府は、中国との直接交渉のたたき台として、国連に次の公式文書を提出しました。

 

1、日本と中国は相互不可侵を守ることを各自誓う。

2、日本は中国の領土保全を尊重する

3、中国は反日ボイコット及び反日宣伝活動を取り締まる。

4、中国は満州の日本人の生命と財産を守ることを約束する

5、中国は日本と結んだ条約を尊重する

 

国連は、この日本から提出された公式文書に基づく、中国との直接交渉をすることを拒否し、さらに満州から日本軍が撤退することを要求しました。

 

昭和7年(1932年)3月1日、満州国が建国。

 

昭和7年(1932年)9月、リットン調査団が満州から戻り、国連に報告書を提出しました。(リットン報告書)

 

その中で、「柳条湖事件における日本軍の活動は自衛とは認められず、また、満州国の独立も自発的とはいえない」としつつも、次のことを強調しました。

 

1、中国の反日ボイコットは、中国政府の側に多少の責任がある。(つまり、中国政府は反日ボイコットを止めさせる義務がある)

 

2、昭和6年(1931年)9月の時点で存在した日中条約は、両国調印国を拘束し、その条約に定義された日本の権利は、尊重されなければならない。

 

3、日本軍が満州から撤退するための準備として、満州の平和を維持するために有能な憲兵隊が組織されねばならない。

 

満州において、張学良が支配していた時期、日本人居留民が暴行や虐殺などを受けていたので、他の効果的な制度が確立しない限り、日本は軍隊を撤退させることはできませんでした。

 

英国の国際法学者トマス・バティ(Thomas Baty)は、次のように述べました。

 

「当時の中国は、南京の国民党政府と奉天の張作霖軍閥といった分裂した2つの政府があり、その2者間での内戦の中、中国の領域は、国際法的には誰のものでもなく、日本としては現地の居留民を保護するために、軍事的介入をする権利はある。」と。

(『国際法の規準』トマス・バティ著)

 

日本政府は、満州を中国から分離した行動は、九カ国条約に違反するものではないと主張。

 

しかし、国連は、日本軍の撤退を要求し、また、日本政府が提出した文書に基づく中国との直接交渉にも、拒否の態度をとったので、日中間の友好的解決ができなくなり、日本は孤立していくことになりました。

 

参考図書

「シナ大陸の真相」カール・カワカミ著