南京事変の証言
同盟通信 新井正義記者
聞き手 阿羅健一氏
新井「我々が南京にいた時、大虐殺なんて聞いたこともなかった。何年か前、上海の支社長をやっていた松本重治が回顧録を書くことになったが、松本は上海にいたから南京のことは何も知らない。
そこで、南京で取材をやっていた深沢幹蔵と前田雄二、そして僕が呼ばれた。
一緒に飯を食いながら、当時の事を話してくれ、というわけだ。
その時、前田は見たと言ってたが、僕は虐殺とかそういう現場を見たことがないんだな。
死体は見た。兵士の死体だ。便衣の者もいた。その中に捕虜のしたいもあっただろう。南京の全域をカバーした訳じゃないが、全部で3、4万人の死体があったのじゃないかな。
大部分は戦闘で死んだものだが、その中にそういうものがあったのかもしれない。飯を食いながらそういう話をした。
従軍記者といっても、まともに扱われるのは徐州作戦あたりからで、あの頃は全て自前でね。
食事やらロバやら自分で用意する。本当にひどいものだった。
あの時はどの部隊が南京に一番乗りするか、それを誰が記事として送るか、それが競争で、だから、危険でも最前線まで行った。
広島の大学に行った堀川武夫と、この前死んだ前田と三人でチームを作っていつも一緒だった。
一人が軍の本部にいて二人が最前線に行く。交代でこの組み合わせをした。
最前線には上海で雇った若い中国人を伝令として連れて行った。
何かあるとこの中国人を本部にやらせる。
本部には無電があり、これで上海に記事を送るのだ。この無電というのが重くてね。一人じゃ持てない。ロバに乗せて運んだ。
私はざほくの戦いが終わったあと、東京から上海に行き、待機していた。
その時は、柳川兵団に続け、と言われていた。蘇州あたりで柳川兵団に追いついた。柳川兵団は杭州湾上陸以来、特別大きい戦闘もなくすんなり南京まで行った。
彼らが、何かやったとは思えない。上海でも戦っていた師団が後から追いついてきた。
彼らは、仲間が半分近くもやられた連中もいたから、気が立っていた。やったとすれば彼らだろう。
柳川平助中将軍司令官から、南京の首都攻防軍が20万人から25万人くらいだろう、という話を聞いたことはある。
柳川軍は5万、日本軍は合計で10万ぐらいということだ。
すんなり南京に行ったと行っても、敵がいない訳ではなく、蘇州の先では朝日の記者がやられている。
私らは線路に沿って南京に向かったが、柳川兵団は太湖の方を廻っていた。
線路上を北上して行くのだが、線路のそばの稲の列が線路と直角になると、兵が隠れているのが見える。
そうすると突然撃ち合いになる。そうやっってどんどん進んだ。
途中でよく中国人にあった。中には日本兵が「この中国人を使役した」と書いたものを腕につけているものもいた。
これを見せるんだな。便衣兵に間違われるので身の危険を感じてこうしたのだろう。
紫金山あたりから本格的な戦闘になった。紫金山から城壁までの間、相当撃ち合いがあった。
12月13日に私たちは中山門から南京城に入った。入ってから同盟の宿を探した。
どの家も戸が閉まっている。結局、中山門から少し入ったところに設営した。
南京城内に残っていた人たちは、見てわかるが、貧民だけだった。
南京城内に入ったと行っても場外にはまだ敗残兵がたくさんいて、戦闘が終わったという感じではなかった。
乱戦が続いて危なかった。計算から行くと、敗残兵は16万くらいいたのだろう。
13日か14日だと思うが、郊外にあった軍司令部で宮様がやられた、と聞いて慌てて取材に行った。
車で40分ぐらいかかったと思う。宮様に会うと、「昨夜はえらい目にあいました」とおっしゃっていた。そういう状況だった。
15日に旧支局に入った。旧支局は町の中で、すぐそばに金陵女子大学があった。
旧支局に入ってから、女子大学の校長か寮長かが来て、婦女子の難民を収容しているが日本兵が暴行する、同盟さんに言えばなんとかなると思ってきました、と言う。
そこで我々は軍司令部にそのことを伝えに行った。
私自身は虐殺の現場や死体を見たことがない。下関では中国兵が揚子江を渡る時、撃ち合いがあったとは思う。
下関で、堀川か誰かが、兵隊の射殺現場か死体を見たと言っていた。
16日に軍官学校で処刑を見たと前田が書いているが、それは軍政部じゃないのか。
どっちにしろ、私は見ていない。すぐにいろいろな軍が入ってきたから、相互に牽制して暴力はやれなかったのじゃないかな。
捕虜もいたが、日本のひえたいが捕虜の持っている缶にコメを入れてあげるのを見たこともある。
入城式直後には小物も売っていたし、兵隊が甘いものに植えていたから甘味料もよく売っていた。
こう言う状況だから虐殺というものはどうかな。
全然なかっとは言えないが、20万とか、そういうのは全然ありえない。
どのくらいか、見ていないから言えない。
入城式の時、何か起こるかもしれないというので、道路脇に並んでいる兵隊の後から、前田と一緒に松井石根大将を追いかけた。
万一を考えてそうした。だからすっかり安全だったという訳ではなかった。
私は入城式の後まで南京にいて、海軍の軍艦で上海に戻った。
南京にいたのは約1週間だった。
虐殺というのは戦後、東京裁判で初めて聞いた」と。
参考図書
「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一著
写真
”無名戦士よ眠れ!”
「抗日の世迷いに乗せられてとは言え、敵兵もまた華と散ったのである。戦野に屍を横たえて風に晒されていた哀れな彼ら。
が、勇士たちの目には大和魂の涙浮かぶ。
無名の敵戦士たちよ眠れ!
白木に滑る筆の運びも彼らを思えば、優しき心の墓標だ。」
(小川特派員撮影『朝日新聞』昭和12年(1937年)11月25日)