南京事変の証言 新愛知新聞(現在の中日新聞) 南正義記者 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

 

南京事変の証言

新愛知新聞(現在の中日新聞) 南正義記者

聞き手 阿羅健一氏

 

ー南京にはどの方向から行きましたか?

 

南「中山門から入りました。先頭の兵隊と一緒に進み、暗いうちに中山門まで行きました。

 

そこから先には進めず、中山門上で城内の様子を伺いながら待機していました。

 

12月13日ですが、先頭の部隊と共に中山門から城内に入り、中山東路を進むと、街路樹のプラタナスに日本兵が吊るされていて大騒ぎになりました。」

 

ー日本兵ですか?

 

南「そうです。後でわかったのですが、通済門か光華門で戦いがあり、そこで捕まった日本兵らしいのです。

 

それを中山東路に連れてきて、殺して、プラタナスの木に吊るしたものです。

 

下から火であぶってありました。」

 

ー何体くらいですか?

 

南「私が見たのは2、3体です。すぐプラタナスから下ろしました。それを見た兵隊たちはカーっとなりましてね。それ得なくとも敵愾心がありますから」

 

ー初めて聞く話ですが。

 

南「1番最初に入った兵隊しか知りませんからそうでしょう。すぐに日本兵を下ろしましたしね。

 

南京城内で私はこのことが一番印象に残っていたので、戦後、南京に行った時、そのプラタナスの所に行って見ました。

 

40数年経っていましたが、プラタナスはそのままありました。当時はこんなもの(両手の人差し指と親指で輪を作る)でしたが、

 

その時は一抱えもある(両腕で輪を作る)ほど伸びていました。ああ、これがあのプラタナスだったなと思いました。

 

日本兵を下ろした後は、戦闘中ですからすぐ城内の中心に向けて進みました。」

 

ー城内で虐殺があったと言われていますが

 

南「そう言うことはありません。虐殺があったなど誰も行っていませんし、見ていない。日本が戦争で負けてから中国がでっち上げて言い出したことです。」

 

ー城内で虐殺らしきことは見てませんか?

 

南「見てません。全て戦闘です。一部の兵隊がカーッとなっていることはありますが、戦闘です。

 

日本兵は食料はない。中国兵も統制が取れないと言うことがあり、戦闘というものは規則通り行われるものじゃありませんがね。

 

夫子廊のあたりで各部隊を止めて、市民のいる所にはいけませんでしたし。」

 

ー捕虜をやったと言われてますが

 

南「その時、『決戦に捕虜なし』という言葉があって、捕虜という考えは日本軍にはなかったと思います。

 

もちろん中国だって、逃げる時は家を焼き払い、物を壊して逃げ、便衣兵になってスパイをやるし、捕虜になって助かるという気はありません。

 

お互い捕虜という概念がなく、助かろうという気もないから、捕虜をやったというのも変な話です。

 

それは、後からこういう国際法に照らし合わせればということでね。戦場を知らない人がそれを虐殺だと行っているだけです。

 

便衣兵のことを虐殺だと言ってる人もいますが、それは虐殺ではありません。」

 

ー同じジャーナリズムでも朝日新聞は南京虐殺だと言ってますが。

 

南「ああ、朝日新聞ね。朝日新聞はモスクワででも発行すればよい」

 

ー南京ではどこにいましたか?

 

南「後で名古屋の第3師団が南京に来ましたから、そちらに行ってます。私は通信のため南京と上海を何度も往復して、年が明けてからも南京に行ってます。

 

共に上海に行ったカメラマンの川井克己と一緒のことが多く、従軍記者の中には、松井大将の親戚にあたる松井敏もいました」

 

ー先ほど、戦後南京に行ったとおっしゃっていますが、いつのことですか?

 

南「私は従軍記者をやっていて、日本が勝った記事を書いていたから、中国に行っても嫌われるだろうし、行く気もなかった。

 

中国に負けて悔しいとも思っていましたからね。名古屋市が南京市と姉妹都市になって、日中友好をやろうということになった時もそんな気でいました。

 

ところが、私も東海ラジオでこういう立場だから南京と友好をやらないわけにはいかない。

 

東海ラジオでも友好のための何かをやろうということになった時、私が率先して南京に行きました。

 

南京に東海ラジオの番組を持って行って流すと、音楽など中国人は喜ぶんだな。

 

そこでうちの番組を南京で流すことにした。また、揚子江に長江大橋という立派な橋がある。

 

何キロもあるやつでね。この橋を使って日中友好ジョギングをしようという案を出して、ジョギング大会を始めた。

 

今年は3回目で、11月3日にやる予定です。私も去年Tシャツを着て南京市長と一緒に走ったよ。」

 

ー南京に行って、中国側から虐殺のことを言われませんか?

 

南「一度もない」

 

ー南京に虐殺記念館ができてますが・

 

南「ほう、そうか。私は中山門とか、中山通とか、思い出の場所には行ったが、虐殺記念館は知らない」

 

ー江東門外にあるということですが。

 

南「そっちには行ったことがない。南京市長も何も言わない。そもそも南京事件ということを南京では誰も言わないよ。

 

中国では当然、私の前歴など調べて、どんな人間か知っているはずだ。まあ、今、お互いにうまく行っているから何も言わないんだろう。

 

しかし、南京事件といってもありもしないことだから、もし相手が言うようだったら、私も言うよ。

 

南京市長より私が当時をよく知っているからね。逆に、今、私が先頭で友好をやっているから、南京事件がなかったと言うと問題がある。

 

影響があるからね。私は昔のメモなど持っているので、今の仕事を辞めたら本当のことを書きたいと思っているんだ。」

 

南氏が務めた新愛知新聞は、名古屋新聞と合併して中部日本新聞になりました。南氏はのちに、東海ラジオを作り社長に就任し、東海テレビの社長も務めました。

 

参考図書

「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一著