南京事変の証言
福岡日日新聞 三苫幹之助記者
聞き手 阿羅健一氏
昭和12年11月5日、杭州湾敵前上陸戦に参加
ー上陸の時は第18軍師団と一緒だったのですか?
三苫「そうです。薄暗い朝靄をついて銭唐江下流の濁水の遠浅を、胸のあたりまで塩水に浸かり、部隊と共に上がりました。
重たいリュックを背負い、カメラを構えて、できる限り撮りまくったのですが、ずぶ濡れになってしまい、ボケ写真1、2枚がやっと使用に耐えた、と言う有様でした。」
ー第18師団は南京攻略に参加したのですか?
三苫「特設第18師団の任務は、攻略戦に際しては南京城内方面から脱出してくる敵の退路を遮断し、殲滅することでありました。
そのため、湖州が陥落してから、南京を遠巻きに太湖から揚子江に至る南西方面に布陣して待機していました。
南京では中華門攻撃が開始され、大激戦の様子でしたが、陥落はもう時間の問題とされていました。
陥落したら入城式が行われます。師団司令部は入城式に部隊を代表して参列する様に命令を受けていました。
そのため司令部は前もって、南京城西側の水西門から入城して、その日を待つことになっていました。」
ーそうすると、三苫さんは師団司令部とともに入城されたのですか?
三苫「いいえ、私は南京攻略の華々しい現場がどうしても見たいので、またしても部隊から離れて彷徨していると、ふと揚子江のほとりに出ました。
そこは太平という所でした。港町の様でした。やがてどこかの部隊の鉄船が上流から下ってきて着岸しました。
聞けば南京に行くのだという。そこでこれ幸いと頼み込んで便乗しました」
ー揚子江を降られたのですか?
三苫「揚子江を下る途中、川の中の一つの島にどうやら部隊がいる様でしたから、艇をつけてもらいました。
地図を按ずると、左岸近くに島江という地名がのっています。楚の項羽の故事で名高いあの土地です。」
それから南京に入られたのですか?
三苫「鉄船で揚子江を下り、南京の表玄関である下関(シャーかん)の埠頭に上陸しました。
日にちは、はっきりしませんが12月13日の午後ではなかったかと思います。日本軍が中華門近くに突入したのが12月12日。
13日午前中まで城内外で掃討戦が続いていたと言いますから、私が入城したのが12月13日の午後だったと思います。戦闘はもうすっかり終わっていました。」
ー水西門に着いて、どうされましたか?
三苫「水西門を出た所に、鹿児島の小原部隊がいました。大隊副官は、その夜は建物の一室に、部屋をあてがってくれました。
翌日、暗い中に起きて道路に出ました。道路の脇を見てごらんなさいと言われたので、気をつけてよく見ると、朝霧の中に、藍衣の支那兵の死体がゴロゴロ転がっていました。
数が多いので驚き、念のため、何名ぐらいであろうかと数えてみると、概算5、6百名でした。」
ー第18師団司令部の宿舎は見つかりましたか?
三苫「城内はガランと静かで、住民の姿は一人も見かけませんでした。たまに人がいると、それは日本の兵隊が城内を見て歩いているのでした。
兵隊を捕まえて、片っ端から尋ね歩いていると、案外容易に見つかりました。師団司令部は中華門の宝慶銀楼と言う空屋を宿舎にあてていました。
牛島貞雄師団長は、私が軍と共に泥んこの悪路を何日も強行軍し、また原稿発送のため戦地と上海間を廻っていたことをよく承知していたので、「君も随分苦労したね」と言って、すでに書いておいた1枚の墨書をくれました。
昔、戦場で武将が部下に与えた感状の様な意味あいのものだなと思いました。
牛島師団長はまた、私のために取っておかせた恩賜の酒1本と煙草1箱をくれました。
親父の様な暖か味の感じられる人柄でした。」
ー陥落後の南京城内の有様はどんなでしたか?
三苫「さぞ、荒廃しているだろうと思っていましたが、あまり荒れていませんので、意外に思いました。
激戦のあった中華門など城門のあった所は被害が大きかっただろうと思いますが、そこまでは遠くて見に行けませんでした。
市街も道路も綺麗になってました。入城式を控えて、清掃されたことも事実でしょう。中山東路の軍官学校や、入城式のある中山門の下見にも行って見ました。
どこも綺麗に片付いて、放置された死体などありませんでした。」
ー南京では大虐殺が行われたと言われてますが。
三苫「私は、陥落直後の南京を見ておりますから自信を持って言えることですが、大虐殺の話なんか見ても聞いてもおりません。
痕跡すら何一つありませんでした。もっとも、私は入城式が住むとすぐ上海に特派員交代をして、年内に日本に帰ってきましたので、その後のこと存じません。
しかし、南京が陥落した後にそんな虐殺行為を行うはずがありません。
南京の住民は、早くから難民区に収容されて保護を受けており、支那兵は南京守備隊を残して大部隊は撤退したものと私は考えます。
南京城内に大部隊の兵隊が集結していたら、日本軍が包囲態勢で攻めてきているので全滅するしかありません。
中国は広い。深傷を負わないうちに部隊はいち早く奥地・漢口へ退きました。
当然なことでしょう。まだ、先に重慶もあります。日本軍の戦線を糸の様に弱く引き伸ばすのが敵の作戦でしょう。
昭和14年の春になり、私は南京支局長を命ぜられて、再び南京に行きました。支局は中山北路にあり、それから南京に足かけ6年いて、現地召集で応召し、漢口で入隊、長沙方面に向かいました。
終戦になり、召集解除後、南京居留民の1万人と一緒に南京城外の旧日本兵舎に収容生活を送り、半年ばかりして引揚げたのですが、この間一度も虐殺の話を聞いてません。
虐殺の話を知ったのは、例の極東軍事裁判で問題にされたからです。
あれは戦勝者のでっち上げです。私は全く信じておりません。」
ーそのほかに何か当時を知る参考になることがありましたら。
三苫「それにはこれを見てください。私が南京支局に勤務している時、南京陥落2周年が巡ってきました。
本社では記念特集を企画しました。福日南京支局では中国人夫妻をボーイとして雇っておりました。
二人は戦争中も南京にいて、当時のことを詳しく知っていました。
私は匿名の条件で色々聞き質して記事にしました。その記事は福日紙の昭和14年12月10日付第7面に載りました。
難民区の有様が良く分かると思いますので、読んでみます。見出しは、
『難民に当時を聴く、恐怖の拉夫、拉婦、目に余る中央軍(国民党軍)の暴虐』
で、男の名前は黄真民(仮名27歳)で、南京より南方10里ほど隔てた郷土の出身で、中学卒業の学歴があり、女は陳美君(仮名26歳)で母は蘇州人です。
記者(三苫)「日本軍がやってきた時、君たちは何処で何をしていたか?」
黄「私たち夫婦は国際委員会で設定された南京城内西北の山二西路からズッと入ったイホロの難民区にいました。難民区には30万人の難民が混雑していました。
中央軍(国民党軍)の兵士が銃槍を持って夜となく昼となく代わる代わるやってきて難民を検察し、食料や物品を強奪し、お金と見れば一銭でも2銭でも捲きあげて行きました。
最も怖がられたのは拉夫、拉婦で独身の男は労役に使うため盛んに拉致されていき、夜は姑娘が拉致されていきました。
中央軍(国民党軍)の横暴は全く目に余るものがありました。
記者(三苫)「日本軍がやってきたことはどうして知ったか?』
黄「戦争が非常に重要時期にあり危険を感じて難民区に入ってからは屋外には一歩も出ませんでしたが、確か12月11日だったと思います。家の中で友達と話していると、後の方でバン!バン!と銃声が聞こえました。
はてな?可笑いい銃声だなと思わず友人と顔を見合わせました。」
記者(三苫)「日本軍を見たか?」
黄「日本軍を見たのは12月18日でした。日本の憲兵が巡察に来たのを初めて見ました。」
記者(三苫)「難民区の中には支那兵はいなかったのか?」
黄「居りました。それは皆発見されて捉えられていきました」
記者(三苫)「君は支那兵と間違えられる様なことはなかったか?」
黄「手や頭など調べられましたが、肌の色が兵士とは違うし、又私には妻があったので、中国兵でないということがすぐ理解されました。」
記者(三苫)「すると陳美君は君の生命の恩人だね、喧嘩せぬ様に仲良くしなければいかんよ。」
陳「調べられるときは本当にどうなる事かと怖うございました。」
記者(三苫)「難民区で君たちの食料はあったのか?」
黄「難民区が設定されると同時に、私はデパートを退職し、米2石、油塩その他の食料品を買い込んで妻と二人難民区に避難したのです。
最初、難民区には前の居住者は逃げてしまって人は全くいなかったのですが、後にはいっぱいに埋まってしまいました。
この事務室位に12人も一緒に寝ました。」
記者(三苫)「君の郷里は南京からそう遠くはないじゃないか。なぜ郷里へ避難しなかったか。」
黄「それは途中に土匪が多いからです。中央軍(国民党軍)もたくさんいます。」
記者(三苫)「中央軍がいた方が、土匪が来なくて都合がよくはないか?」
黄「いいえ中央軍(国民党軍)も土匪と同じです。金や品物を持っていれば、殺したり強奪したりするのです。」
陳「それで一番安全な難民区へ早くから入ったのです。」
記者(三苫)「君たちは殺されたり、強奪されたりする程、金銭や品物を持っていたのか?」
黄「私たちは勤めている時分一家を構えていたので、家財道具がたくさんありました。それから、私は貯蓄していた金を8百元、妻は4百元持っていました。」
記者(三苫)「それで土匪や中央軍が怖かったわけだね。」
黄「怖いものはもっとあります。」
記者(三苫)「それはなんだ?」
黄「悪人です。シナには悪人がたくさんいます。1面識のあった私の友が、私に金があることを羨んで、悪人に通じたのです。それで、その悪人が私を捉えて懐中の8百元を強奪して逃げました。」
記者(三苫)「どれはいつ頃のことか?」
黄「日本軍人進城の時です。その悪い友は今はどこかへ姿をくらまして帰って来ませんが、金を奪った悪人はまだ南京にいて時々顔を合わせます。
その悪人の被害者はたくさんあります。」
記者(三苫)「なぜ、警察に届けぬのだ」
黄「いいえ、それは無駄です。悪人は徒党を組んでいます。私から金を奪った悪人は今は食うものがなくひどく貧乏をしています。」
記者(三苫)「天罰が当たったのだね。陳の4百元もその時一緒に奪われたのか」
陳「私は布団の中にしっかり縫いこんでいましたので、見つけ出されませんでした。」
記者(三苫)「城内で戦争の激しかったのはどこだったか」
黄「水西門、光華門、下関、蛇江門だったと聞いてます。日本軍の攻城は周囲から南京を包囲し、攻城法が好かったので南京は早く陥落になったそうです。なんでも、水西門付近では十一人の日本兵のために3千人ものシナ軍が捕虜になったそうです。」
記者(三苫)「それは珍問だ。なぜ抵抗しなかったのか?」
黄「戦意を失って、皆武器を捨てたのだそうです。」
記者(三苫)「実は僕も南京攻城戦の時、従軍記者としてこの南京へやってきていたんだ。水西門外には5百も6百もの遺棄死体が散乱していた。
この後、僕が止まったところに中華門の宝慶銀楼という建物があった。
今度南京にきてどうなっているかすぐに見に行ったが、あれは以前の通り、残っている支那人が住んでいたよ。」
黄「そうでしたか。少しも知りませんでした。」
記者(三苫)「中華門攻略の際には、僕の新聞社の従軍記者が一人戦死したよ」
黄「へー、従軍は自分で志願するのですか?」
記者(三苫)「新聞社が派遣するのだ。私の他に南京に7、8名来ていた。」
こういう内容です。」
三苫記者は、南京支局長時代、家族で南京に赴任しており、お嬢さんが小学1年から5年生まで、南京の日本人小学校に通っていました。
そのお嬢さんに、南京大虐殺の話を聞くと、
「そんな話は全然聞いたことがありません。あちらでは近所の支那人の子供たちともよく遊びましたが、彼らからもそのような噂すら聞きませんでした。」と言うことでした。
参考図書
「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一著
「ひとめでわかる日韓・日中歴史の真実」水間政憲著
写真
東京朝日新聞 昭和12年11月19日付
上海に国民党軍がいなくなり、治安が回復していった様子を、朝日新聞やアサヒグラフが写真で記事にしています。
平成元年(1989年)の天安門事件の後、上海地区から日本に留学して来た人に質問をすると次のような話をしたそうです。
水間政憲「日本は残虐なことをしたと教育されていると聞いているが、なぜ日本に留学しようと思ったのか?」
留学生(公務員の娘さん)「祖母は清国時代から上海を知っているが、『最悪なのは共産党の今の時代だ』と言っていました」と。
留学生(工場経営者の息子さん)「母が『上海から蒋介石軍がいなくなって、日本軍が来てからは、夕方、街にいても安全になった』と語っていた」と。
留学生(蒋介石軍の将軍だった祖父を持つお孫さん)「『日本軍は軍紀が厳しく、信頼できた』と祖父から聞いていた」と。