ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

 

インターネットマーケティングの先駆者で、

本田晃一さんという方がいらっしゃいます。

 

笑顔がとても魅力的で

話が面白く、楽しい方です。

 

もちろんビジネスでも成功されている実力者です。

 

本田さんが動画の中で

面白いことをおっしゃられてました。

 

「お金をたくさん儲けている人には、

世の中の大きなお金の流れが見えている。

お金をたくさん稼ぐ人は

そのお流れの一部をちょこっと自分経由にするだけ。」

 

なんだそうです。

 

また、

 

「お金は自分の目の前の流れだけ見ていると、

ちょっと出ていく度に、

すぐに稼いですぐにためないと!という気持ちになり、

お金の奴隷になりやすい。

これが、大きい流れ全体が見えていると、

自分もその中に入ってお金(幸せ)を流すだけ。

となる。」

 

らしいです。

 

 

音楽もお金の様に、

世の中をそうやって流れているんでしょうか?

 

音楽こそ、

悠久の古代文明の時代から、

歌い継がれ、弾き継がれ、語り継がれて

いろいろな形態で世の中を流れてきたのでしょう。

 

現代でもまた、

作曲されて、演奏されて、聴かれて、

それに影響されてまた作曲と、

どんどん循環し、流れていきます。

 

また、お金の流れとインターネットのスピードと相まって、

ものすごい勢いで世の中を駆け巡り始めています。

 

音楽の部分だけを見れば、

演奏者が演奏によって音楽を提供し、

音楽介して、演奏者と聴き手が共に神に繋がる行為をしている訳ですが、

 

現実社会の目に見え、耳に聞こえる範囲では、

生の演奏か、録音された媒体を通して音楽が伝わり、

等価交換でお金も逆方向に流れます。

 

これによって、幸福の循環が起き、

また、発信者と聴き手の役割分担が発生して、

クオリティの高い音楽がみんなに行きわたるシステムが

出来上がっています。

 

音楽とお金の交換による幸せの循環システムです。

この中のお金がある程度の割合で大手資本に取られるのは、

大規模な流れを支えるにはやむなしなんでしょう。

 

 

 

ここで、

アマチュア演奏家はこの流れの中では、

あくまで受動的な聴き手にすぎません。

 

お金と等価交換できる音楽を生み出すのは困難です。

 

しかし、自分に関わるお金の流れ=幸せの循環を

どう作るかというのは生き方の問題でもあります。

 

ということで、

次回はアマチュア演奏家の生き方について考えてみます。

 

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

 

前回書いた様な、

資本主義的な、壮大な上納システムを

お金の「縦の流れ」とすると、

 

上納なしに個人間を行き来するのが

お金の「横の流れ」です。

 

 

間に大きい企業が仲介して、

コントロールされていないことが「横の流れ」の条件です。

 

 

これはまさに、

お金が人を幸せにする性質そのもので、

価値の等価交換による幸せの循環です。

 

西洋なら中世、

日本なら江戸時代以前はこれが主流でした。

 

 

現代であれば、

商店街の個人商店での買い物が

「横の流れ」に当たります。

 

顔が見えて、信頼関係がありますし、

商品や払ったお金で相手が幸せになることが実感できます。

 

価値の交換と共に、

仏教で言う「縁起」上での幸福の循環が生まれます。

 

顔の見えない資本家に不労所得を取られることもありません。

 

これが、コンビニ、スーパーみたいに資本が入ると、

顔のない抽象的な消費者が数字としてのお金を払い、

どこかで利益が抜き取られる構造になる

という感じになってしまいます。

 

 

 

「横の流れ」は、これらとは似ている様で全く違います。

 

現代では、

元々あった「横の流れ」を、

「縦の流れ」にして利益を得ようと、

企業の人たちは頑張って?います。

 

その結果、

多くの商店街がシャッター通りになってしまいました。

 

「横の流れ」は実際に「縦の流れ」にどんどん吸収されています。

けれど、個人にとって、

幸福なこととは言えない、と思われます。

便利にはなってはいますが。

 

 

 

これに対抗という訳ではありませんが、

現代はインターネットのネットワークが浸透してきています。

 

ひと昔前は、

情報は、テレビ局とか新聞社とか出版社(上流)から

視聴者、読者(下流)に与えられる、「縦の流れ」でした。

 

しかし、最近ではSNS等を通じた情報の

「横の流」れが活発化してきました。

 

報道等もツイッターの情報と、

ネット上の大手の流すニュースを見比べて判断する様になりました。

 

「縦の情報」を「横の情報」で補完している訳です。

 

報道しない自由が

いかに駆使されてきたのか明らかになってきたなと感じます。

 

「縦の流れ」による上からのコントロールが

効きにくくなってきているのが現在の状況です。

 

アメブロをやっている様な皆さんはご承知の通りです。

 

 

そして、お金の流れは情報の流れについていく性質があります。

 

インターネットを介した情報の「横の流れ」

はどんどんこれから増加していき、

ネット上で個人が活躍できる様になってきました。

 

例えば、ネット上に店舗を構えるのは、実店舗よりはるかに安く済みます。

しかも無人で24時間働いてくれます。

 

インターネット特有のビジネスである、

情報販売、アフィリエイトなども、

元手なしで始められます。

 

なので、

実際、インターネットでの個人起業も増え始めています。

 

 

これは実は非常に大きいことで、

資本家のコントロール外のエリアで生きられるということです。

 

大企業と付き合ってたら、ピラミッドの下で自由がありません。

特に時間や住む場所の自由がありません。

 

インターネットのインフラを駆使して個人が自立して、

お金の「横の流れで」幸せを追求する時代だと感じています。

 

 

 

ということで、次回は、

「音楽」とお金や情報の「横の流れ」について考えてみます。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

「音楽」と「お金」の話、

今回は「資本主義」についてです。

(お堅いテーマですみません)

 

 

私(ひでちぇろ)は、世間でよくあるサラリーマンで、

会社に勤めて給料をもらっています。

 

この会社に勤めて給料もらう人たちは、

「資本主義」の世界ではプレーヤーではありません。

 

テニスなら玉拾いみたいなものです。

 

以前、NHKで「プロジェクトX」という、

モノづくりのドキュメント番組をやっていました。

技術者たちが命がけで難しいプロジェクトを完成させる姿を

ドラマチックにまとめた番組でした。

 

自分も技術系サラリーマンなので、

共感してよく見ていましたが、

あれは、資本主義的には命がけのテニスの玉拾いです。

 

なぜなら、命を懸けようがなにしようが、

給料にはあまり関係ないからです。

 

 

 

ところで、「資本主義」においては、

「株式会社」という仕組みが重要です。

 

「株式会社」という仕組みは、

ヨーロッパ大航海時代からあるものです。

 

まず、株主が共同出資してまとまったお金を作ります。

そのお金を使って、

社長と役員にあたる立場の人が、

船と人(船長、船員)を手配します。

 

そして、船はインドとかアフリカなど遠隔地への航海を経て、

植民地で出来た(収奪した?)農産物を持ち帰ります。

 

その農産物をお金に変えて、

株主は投資した以上のお金である「利益」を得る訳です。

 

つまり、投資をして、利益を得る株主が主人公で、

船長とか船員とかは利益の為の手段でしかない訳です。

 

利益が出て、それを受けとる株主、つまり資本持ち、

お金を投資して働かずに利益を得る人がメインプレイヤー。

それが「資本主義」なわけです。

 

なので、少なくとも、

会社の社長以下は、船乗だったり船長だったりで、

利益とは関係ない人たちです。

 

社長や役員でさえ、

船乗りと資本家の間に入るつなぎ役の手配師です。

 

社長以下みんな、

航海のお駄賃として、

利益と関係なく、

人並みの生活をするための「必要経費」としての給料をもらう存在です。

 

「資本主義」の仕組みはそんなところです。

 

 

 

こういう構造を暴いて世の中に広めたのが、

かの有名なマルクス大先生です。

 

ただ構造まではよかったんですが、

労働者サイドも変わらない人間なので、

暴力革命をしてみたけれど、

完全にはうまく行かずに元に戻っちゃいました。

(すいません、政治的な左右の思想はありませんので、

批判は無しでお願いします。)

 

 

という訳で、繰り返す様ですが、

「資本主義」はお金を持った人が、

そうでない人を余分に働かせて上納させて、

さらにお金をを増やしていく為に出来上がった構造のことです。

 

資本を持った人がプレイヤーである状態が「資本主義」です。

 

こういう、世の中の仕組みだけを見ていると嫌になりますが、

崩すのは不可能です。

人類の進歩の程度にあった構造ともいえます。

 

これに対して、

世の中には、また違うお金の流れもあります。

 

ということで次回に続きます。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

これから、このシリーズでは、

「音楽」と「お金」の話をします。

 

 

少し前にも過去記事で、

似たようなテーマの記事を書きましたので、

リンクを貼っておきます。

音楽とお金と幸せの流れ

 

 

前の記事にも出しましたが、

まずは、「お金」が人を幸せにする例です。

 

例えば、ピアニストと料理人がいたとします。

(単純化の為に人を二人に限定します)

 

ピアニストは一万円持っていた

お腹が空いたので、

料理人に一万円払って料理を

作ってもらい、食べる。

料理の疲れを癒す為、

一万円払って

ピアニストに癒し系の曲を弾いてもらう。

 

と、

ここまでで、

一万円を循環させることで価値を交換し、

ピアニストも料理人も

幸せを受けとれました。

 

こんな感じで、

対等な人同士の価値の交換に使われるのであれば、

「お金」は人を幸福にしてくれます。

 

人を幸福にし、

人の間を循環する価値エネルギーを数値化したものが

「お金」であると言えます。

 

また、「お金」は貯蔵することができます。

 

例えば、冷凍庫などの無い時代の漁師は、

沢山の魚を取ったとしても、

売り切れて余ってしまったら捨てるしかありません。

 

しかし、「お金」は腐ることはないので、

よほど短期間に価値が大きく変わらなければ、

貯めておくことが出来ます。

 

交換できて、貯蔵も出来て、

何も悪いことはない様に思えます。

 

さらにお金という抽象的なエネルギーの数値のみ(お金単体)で、

あげたり、貸し借りまでできてしまいます。

 

これによって、人類はみんなが得意な分野や立地などを生かして

分業して大きく発展しました。

 

お金によってここまで発展できたので、

皆がお金の価値を信じる様になり、

人類が共通に信じるのは神でなくお金なのかもしれません。

ある意味宗教です。

 

 

 

という神がかった感じの「お金」ですが、

 

当然神ではなく、人間が作ったものですし、

現在でも人間によって発行されています。

 

そして、「お金」は原材料費や印刷費を除けば、

タダで発行できるという大きい特徴があります。

通貨発行者だけ、その人だけが得する。という特性があります。

これは非常に大きい特徴なのですが、

できるだけ注目されない様にしている感じです。

 

また、通貨発行の権利は血を血で洗う様な争いの結果、

つまり暴力によって手に入れられたものです。

これによって国の長が暗殺されることもあり、

暴力に支えられた、権利を持つものだけが得するものです。

 

 

つまり、

逆らい様のない、一部の人の為の上納システムの側面と、

 

みんなを幸せにする、貯蔵可能な価値循環ツールの側面の、

 

両方の性質こ兼ね備えたのが「お金」です。

 

(そのうち、音楽の話に繋がります。。。)

 

今回はそんなところです。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

今日のテーマは、

 

「美のイデア」と「音楽」についてです。

 

 

 

まず、「イデア」とは何か?ですが、

これは、古代ギリシャの哲学者でソクラテスの弟子である、

プラトンが提唱した考え方です。

 

 

天を指している左側の人がプラトン、

地を指している右側の人がプラトンの弟子のアリストテレスです。

 

ざっくり言うと、プラトンが天上界をスタート地点と考える「観念論」、

アリストテレスは現実世界から物を考える「唯物論」、

と、このころから現代までずっと、

物事の見方が二つに分かれています。

現代なら、科学か宗教かでしょうか。

 

 

「イデア」に戻りますが、

これは、プラトンの哲学で出てくるもっとも重要な概念です。

 

通常我々が見聞きしているものは、

その真の姿を捉えておらず。

魂の目でしか見えない純粋な形、完全なもの、

を「イデア」と呼びます。

 

「イデア論」のその前提は、

哲学というよりだいぶ宗教的だと思います。

 

プラトンによると、

 

我々は天上界にいて、本来の姿「イデア」を見ていた。

 

しかし、天上界を追放されて、地上界に来た。

 

その時に、見ていた「イデア」を忘れた。

 

しかし、視線を魂の内面に向けて、

おぼろげながら思い出すこと、

イデアを「想起」することが物の原形を真に認識すること。

 

真の philosopher(愛知者)は、

できるかぎりその魂を身体から開放して、

魂がそれ自体であるように努める者である。

 

この愛知者の知の対象が「イデア」である。

 

 

というロジックです。

 

つまり、「天上界」や、「魂」の存在を前提としています。

 

天上界を追放されたというような、宗教的な考えかたが、

キリスト教が出来る前のこの時代からあったのですね。

 

 

 

ここで、音楽と「イデア」の話に進みます。

 

音楽は、プラトンの言う「美のイデア」に属すると思われます。

「善のイデア」が根本にあり、その下位に「美のイデア」が来ます。

 

「美のイデア」ということで、

普遍的な音楽の美とは、

天上界で魂が耳にしていた音楽だ、

などと言われても急には理解が難しいですね。

 

なので、

過去の自分の音楽体験の引き出しから、

そういう言葉が当てはまる音楽を探してみます。

 

まず、最初に思い浮かぶのが、

バッハ作曲、無伴奏チェロ組曲第六番のサラバンドです。

 

金色に輝くような和音の移り変わなど、

天上界と言われても違和感がありません。

完全に主観の世界ですが。

 

 

次に、モーツアルトのクラリネット五重奏の第二楽章。

 

繊細で美しいメロディに、

忘我の境地に至る様な曲です。

 

 

もう一つ、マーラーの交響曲第三番の六楽章です。

 

神の懐に包まれるかのようなスケールの大きい、

深い癒しと悦びが得られます。

 

どれも、「神々しさ」と「なつかしさ」の両方を感じます。

昔は魂として天上界で接していたけれども、

現在は忘れていて、

音楽によってそれを想起させられるという、

プラトン的な考えがぴったり来る曲です。

 

まさに「美のイデア」に近づいた音楽ですね。

 

音楽を聴いて、「美のイデア」が伝わってくるというのは、

演奏者としてはまだまだ受動的です。

 

自分の演奏によって、

聴き手も自分も美のイデアに近づく為には

どうすればよいのでしょうか。

 

ここで思い出すのが、

世界最高峰のチェリストである。

ロストロポーヴィチの公開レッスンで聞いた言葉です。

 

場所は御茶ノ水のホールでした。

レッスンを受けていた方々は今では第一線で活躍されています。

 

で、その言葉とは、

「音楽は人の心に架け橋を作る。

演奏者が感動すれば、

それは音楽を通してかならず聴衆の心に届く。

と私は信じている。」

 

という主旨のものでした。

 

演奏者が実際の演奏で真摯に「美のイデア」に近づこうとし、

聴き手も同じ方向を向いてそれに近づこうとすれば、

両者にによって「美のイデア」は間近になるかもしれません。

 

 

しかし、ここでもまだ疑問が残ります。

「美のイデア」に近づくにはどうすればいいのでしょうか。

誰かが地図を用意してくれている訳でもありません。

 

考えるに、これはすぐに近づくのは無理なのかなと思います、

 

ただ、音楽の「美のイデア」が存在するというのを、

一度心の底から信じてみること、

 

そして、その「美のイデア」に近づく演奏することを常に「意志」すること、

 

かと思われます。

 

長く音楽に関わる上で、

目先のことに囚われない為に、

最も遠くにある道標が「美のイデア」だと考えます。

 

自分なりに、「美のイデア」(=究極の理想の音楽像)を持って、

音楽とつきあっていきたいと思います。

 

 

 

音楽の快感シリーズはこれで終わりです。

 

ここまで読んでくださった方々、

どうもありがとうございました。

 

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

今日のテーマは、「脳」と「音楽」です。

 

 

脳科学に関するものを読むと、

 

「脳」が心のすべて、ということが良く書かれています。

 

一方、脳科学者でも、「脳」を超える何かを想定しないと、

説明がつかないと考える人もいます。

 

おそらく、現代の科学ではどちらも証明できず、

片方しか想定しないとしたら、

それは「科学」ではなく、「宗教」なのかなと思います。

 

私個人は、

死んだ直後の人の脳から、

すべての記憶データとか人格とかを入手できて初めて脳イコール心、

っていう意見を受け入れられるかもと考えています。

 

私は基本的には、

脳だけでは心についての説明がつかないという立場です。

その方が、実生活に役に立つ考えができると思っています。

 

 

 

 

ここで、脳の働きをざっくり見てみます。

 

まずは、身体の調節ですね。

血液の循環、消化吸収、老廃物の除去、

感覚器官(五感)を通しての外界からの情報の受け取り、

生命維持の為の警報装置として、お腹が空く、眠いと感じる、

身体を動かす指示等々です。

 

次に自我の反応です。

異性に興味抱いて種を保存しようとしたり、

おかしな行動の人に不快を感じたり排除し、

集団の為に働いて認められたいと感じて、

自分の属す集団を維持したり

という様な、

自分や集団を維持する為の、

快不快の感情を感じることですね。

 

また、目的を達成する為に、

計算したり、計画したり、

論理的、体系的に物事を組み立てて考える、

左脳のプログラミング機能というのもあります。

 

 

 

一方、

なにか新しいものや組み合わせを思いついたり、

美しいとか楽しいものを創ったり発見するといった、

創造性というのもあります。

 

美しいものを感じ取る心や、

善悪等の倫理的な判断は、

生命としてのプログラミングではなく、

神とか魂の領域のものであり、

テレビが電波を受信するごとく、

右脳が魂から情報を受信していると考えます。

 

つまり、こういう高次の領域については、

脳は受動的な通信機能を働かせていると考えています

 

 

 

 

脳の機能について見て来たところで、

今度は、音楽についての脳の機能を見ていきます。

 

まずは、

音やリズムを感覚器官を通して認識します。

 

次に、音をメロディとして統合したり、

リズムをまとまりで認知する機能、

音をハーモニーとして認知する機能。

 

つまり、一つの意味のあるまとまりとして認識する、

ゲシュタルト化機能ですね。

 

 

さらにそれらを統合して、

音楽の構造として認識する高次の機能もあります。

和声の進行とか、ソナタ形式とかを音楽から理解する能力です。

 

物質界で発生した音波を情報に変えて認知して、

音楽として認識している部分はどうやら脳(ハード)と

脳に付随した自我(プログラミング)が担当しているようです。

 

そして、脳による理解がすべて満たされてから、

右脳での神の領域の情報を受信できるのかと思います。

 

 

 

そして、

音楽を「聴く」行為のさらに上位にあるのが、

「演奏」です。 

 

音楽ではまず、「能動的」に左脳を使って、

楽譜を読まなければなりません。

 

 

そして、音楽を理解した上で、

身体に音楽を覚え込ませるべく、

繰り返し練習をします。

「身体性」も伴った体験、というか「行動」です。

 

左脳的には、

曲のメロディ、リズム、和声、ストーリー、作曲者の人生、

歴史までを理解して、

楽譜を読しながら、繰り返し練習します。

 

そして、それらの条件(努力)が満たされて、

最後に来るのは右脳の通信機能です。

美のイデアを天の世界から降ろす行為です。

最後に演奏会でアウトプットする時に命を吹き込むということですね。

これができるのは、

そこまでの準備のハードルをすべて超えた人だけです。

 

 

 

世界最高の技術を持つと言われる、

チェリストのヨーヨーマさんは、

いつも忘我の境地で演奏しているかの様です。

見るからに右脳の機能全開です。

 

それができるのは当然才能もあるでしょうが、

 

音楽の理論、曲の歴史的背景、

小さい頃からの日々の基礎練習、

音楽において他人が何を求めているか理解しようとする努力、

音楽そのものへの誠実なアプローチ、

等の土台があって初めて、

右脳からの明確なイメージが得られて

忘我の境地に行くことができるのかと思います。

そして、報酬系のドーパミン、βエンドルフィンが

分泌されていることと思います。

 

 

ということで、

日々の練習と勉強が結局は近道という、

極めて平凡な結論に至ります。

ただ、脳のプログラミングと通信という機能を理解すれば、

優先順位や無駄はだいぶ減るし、

ゴールが明確になりやすいと思います。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

今回は自分の演奏能力と、

演奏で得られる快感とについて考えます。

 

 

 

演奏能力とは、

物理的な正確性、

作曲家が作った曲の文脈再現能力、

そこに共感が表現されていること等、

とします。

 

 

ところで、どうして演奏上手くなりたいか?

と自分に問うてみると、

 

若い頃は承認欲求でした。

 

皆に褒められたい、

認められたいというところですね。

 

年齢が行って多少それが満たされると、

今度は、見たことのない景色をみたい、

より高い山(より難しい曲)に登りたいという気持ちが芽生えます。

 

現在の地点より満たされた状態があることを夢見て練習するわけです。

 

 

 

周りの人たちとの関係で見ると、

普段、人間関係の網の目の中で

幸せや不幸を情報としてやりとりしている訳ですが。

 

音楽を発する側としてより高度に

幸福の循環を大きしたいという気持ちもあるかもしれません。

 

より多くの幸福の循環のフィードバックをもらって、

より幸せにという感じです。

 

 

また、幸福の循環より喜びが大きいのは、

弾いている瞬間に感じる幸せかもしれません。

 

上手くなればなるほど、

弾いている瞬間の喜びは大きいのかもしれません。

これは、どうしてでしょうか。

 

ここで、

演奏という行為によって、

音楽が情報世界と物質世界両方に

またがって流れていく過程を図にして考えてみます、

 

 

①作曲家(情報)↔神

↓(作曲家の能力)

 

②演奏者の自我(情報)↔神

↓(演奏能力)

 

演奏者の身体で演奏(物質)

↓(身体能力)

 

楽器(物質)

↓(楽器の能力)

 

音(物質)→演奏者の自我に戻る→

 

演奏会場(物質)

↓(会場の能力)

 

③聴き手の自我(情報)(⑤聴き手の能力)↔神

 

 

図には書かれていませんが、

この矢印「↓」の部分を音楽という情報が流れていきます。

 

つまり、①の作曲家から、③の聴き手に音楽が届く過程で、

うまく演奏できない等一か所でも滞りがあると、音楽が情報としてちゃんと流れないので

②演奏者と③聴き手の両者は幸せになれません。

 

演奏能力ががしっかりしていれば、

①作曲家、②演奏者、③聴き手の3者が「神」を介し、時間を超えて繋がって、

一体感を感じ、音楽に感動できるという訳です。

 

ちょっと、理系っぽい図を作ってしまいましたが、

音楽と付き合っていく上で、

今自分が何を頑張っているのか、

図に書き出してみるのも有りではないかと思います。

 

で、当たり前ですが、音楽で快感を得るのに、

「演奏能力」はやっぱり、

一番大事な要素の一つですね。

 

このテーマ、まだ掘り下げられそうですが、

この記事はこんなところで一旦終わります。

 

 

では。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

今回のテーマは、「自然」です。

 

 

 

似たテーマで過去記事を書いていますので、こちらもぜひご覧下さい。

クラシック音楽と自然

この記事での「自然」とは、

人間や人工物以外の、地球環境、自然環境、生物等、人の関わっていないもので、

山、川、海、植物、動物等のことを指すものとします。

 

 

これらの「自然」と触れあうことで、

人間は快感を得ることができます。

 

川のせせらぎを聴く

 

美しい山を眺める

 

野に咲く花を愛でる

 

海辺で波を見る

 

夕日を眺める

 

等によって「自然」との一体感を感じることができます。

 

このとき、「自我」は薄くなり、透明になっていきます。

そして、自分は「自然」の一部っていう感覚が甦ってきます。

 

現代社会で生きるための武装である、

「自我」という鎧を横に置いて、

 

役割を演じる人であることを脇に置いて、

 

身軽になる感じです。

 

「自然」にも何か心みたいな領域があり、

それと繋がって「自我」が透明になり、

心の中がデトックスされる感じでしょうか。

 

 

 

これに対して「音楽」は、

「自我」がそのまま薄くならず、

自然ではなく、「人」や「神」と接続される感じです。

 

西洋のルネサンス以降の音楽は

「自我」をそのまま維持しながら、

拡張して「人」、「神」と接続されます。

 

特にクラシックの古典派以降のものから、

現在世界に行きわたっているポップスまで、

みな当てはまります。

 

なぜ、西洋の音楽がここまで世界に広がり、

商用化している理由はここにあると思います。

 

クラシックで「自然」に近い、ブルックナー、シベリウスあたりも、

自然に共感している「人」の心と共感する音楽です。

自然直接ではありません。

聴いていて、自我が薄まる感覚はないです。

 

 

「音楽」は人間の「自我」、

中でも「感情」と共鳴し、「神」と接続されます。

 

その中で最も研ぎ澄ませたのがクラシック音楽、

最も分かりやすくしたのがポップスだと思います。

 

しかしながら、

「自我」を極めても、もうこれ以上のゴールない気がします。

しまいに、「感情」との共感を拒否したような現代音楽に行きついています。

人工的にゴールを作り出していますが、

「自我」の「人」や「神」との接続という機能は低下してきています。

 

 

 

ここで、未来の話ですが、

 

自我を薄める、「自然」を入り口に「神」と繋がる、

音楽が、次の時代に来るのでは?

と考えています。

 

 

日本の雅楽みたいな古代の音楽は、

「自我」の感情と共鳴する3度の和音がなく、

5度だけのハーモニーです。

 

これは「自然」と同じで、自我を薄める方向です。

視点が自我でなくなる感じです。

 

現代は、1600年周期の東西文明交代説の

東洋文明の開始時期でもあります。

「自我」と「神」的な一神教から、

多神教の時代に変わる過渡期かもしれません。

 

そういう「自然」も意識した視点で

次の時代の「音楽」に注目していきたいです。

 

 

ちょっとスピリチュアルっぽくて

分かりづらかったかもしれませんが、

 

以上です、

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

今回のテーマは、「音楽」と「物語」です。

 

早速ですが、まず「物語」について考えます。

なぜ人は、「物語」を求めるのでしょうか。

 

「物語」について考えるには、

宇宙の成り立ちレベルの視点から考えていくのが、

遠回りの様で間違いがないと考えます。

 

宇宙の成り立ちということで、

創造主は「愛」と「成長」によって「幸福」を感じる為に

宇宙を創ったと、私は考えます。

 

元々は無垢で動きの無い「愛」だけの存在だった創造主が

始めに言葉ありきで自分を分離させ、

「愛」という名のエネルギーを元に、

「時間」、「空間」という枠組みと共に、

精霊(八百万の神)、魂、自我、生命、物質等を創ったったと想定しています。

 

その創造された、分離した物質界の掟に縛られながらも、

魂は「成長」という「物語」を紡いで行き、

最終的には創造主と一体化します。

 

「愛」という名の空間と、

「成長」という名の時間によって、

宇宙が幸福を幸福を感じるプロジェクトに参画しているのが我々の人生です。

 

 

ここで、「神話の法則」というものを紹介します。

 

色々な人がこの法則に言及しています。

重要人物としては、アマゾンの奥地で神話を採取し、

構造主義を提唱したレヴィ=ストロースなどもいますが、

 

一番一般的で理論が整理されていると思われるのが、

アメリカの神話学者のジョセフ・キャンベルによるものです。

 

キャンベル曰く、

神話における英雄の成長「物語」に共通するプロットは、

以下の通りです。

 

Calling(天命)

Commitment(旅の始まり)

Threshold(境界線)

Guardians(メンター)

Demon(悪魔)

Transformation(変容)

Complete the task(課題完了)

Return home(故郷へ帰る)

 

確かに、命の危険も有ったりしていかにも「成長」しそうな構成です。

というか、「成長」しないと死んでしまいそうですね。

 

これも、創造主が意図した「成長」の性質を表したものだと思われます。

 

そして、我々の人生もこの「成長」法則による「物語」に貫かれていると考えられます。

 

 

 

話が「物語」だけで終わりそうですが、

ここで「音楽」と「物語」についての話題に移ります。

 

まず、「音楽」は元々創造主とダイレクトに接続されるものなので、

それ自体が「愛」と「成長」の性質に貫かれています。

 

 

そのことを意識しつつ、今回のテーマである

「物語」という視点で「音楽」について考えてみます。

 

 

まず、音楽の中での最小単位は「一つ一つの音」です。

 

私の感覚ですが、

曲の途中の一つの音は、その音が出ている時間だけで存在している訳ではありません。

 

曲が始まる前のアウフタクトから準備その音が出る直前まで水面下で準備がなされ、

音が終わった後も、その後曲が終わるまで影響を持ちます。

 

その音が出ている間がピークですが、それ以外のすべての瞬間が「物語」です。

一つ一つのすべての音が「成長」ストーリーとしての「物語」を持っています。

 

 

次に、小節、フレーズ、メロディーという単位でも、

その中に一つの「成長」「物語」があります。

 

演奏で考えると、

アウフタクトで息を吸ってから始まり、

その後、少しずつ「成長」して盛り上がり、

終わりに近づいたところでピークを迎え、

最後は落ち着きます。

 

これに合わせて微妙にテンポも加速し、減速して最後は落ち着きます。

これを理解していないと、演奏しても「物語」は伝わりません。

 

 

1曲や一つの楽章の中でも、「成長」「物語」があります。

典型的なのがソナタ形式です。

 

提示部で主題が提示して冒険などが開始され、

展開部で戦って「成長」、「変容」し、再現部で帰還して終わります。

 

最も「成長」「物語」が手に取るように分かりやすいところかと思います。

 

一人の作曲家の人生の「物語」もそうですね、

学生時代など若い頃に作曲した曲から、

晩年に作曲した曲。両者では全く異なります。

その中作品ごとに「成長」「物語」があります。

 

番号のついた交響曲を見ると分かりやすいです。

例えばマーラーの交響曲第1番は楽天的で青春の様なさわやかさが有りますが、

未完の10番は最初から成熟しており、

死についても雄弁に語りかけてくる感じに死の直前まで「成長」しています。

 

さらに、クラシック音楽というジャンル全体でも「成長」があります。

ルネサンス期からバロックで始まり、

古典、ロマン派、近代、現代と、

多くの作曲家と演奏家たちによって音楽と人生のバトンと共に受け継がれました。

この大きな流れの中にも「成長」「物語」があります。

 

そして、近代の文明の上位にある人類の文明、

 

ここら辺からは音楽を超えて、

地球上の生命、地球、太陽系、銀河と

どんどん大きいレベルまで成長「物語」が入れ子になって存在しています。

 

 

そして頂点が創造主による「愛」と「成長」です。

 

音楽を演奏する立場から考えると、

この「成長」「物語」が音楽のどの段階にも含まれている事を理解すること、

今自分がどの段階の「成長」法則にフォーカスしているか、

何を意識できていないかに自覚的になれることが、

「演奏」によって音楽を目の前に創り出す、

「音楽の創造者」として大切と考えます。

 

今回はそんなところです。

では。

 

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

今回のテーマは、音楽の快感の3回目、「共感」についてです。

 

まず、「共感」とは何かということで、ウィキペディアで検索してみました。

 

「喜怒哀楽の感情を共有することを指す。例えば友人がつらい表情をしている時、相手が「つらい思いをしているのだ」ということが分かるだけでなく、自分もつらい感情を持つのがこれである。通常は、人間に本能的に備わっているものである。」

 

ということです。

つまり、感情を共有すること、実際に自分もその感情を感じることが「共感」なのですね。

 

 

心理学でよく出るマズローの欲求の5段階に当てはめてみると、「共感」は人に自分の感情を認めてもらえるとも言い換えることができるので、5段階の上から2番目にあたる「承認欲求」が満たされるものと思われます。

これだけでも幸せな気持ちになれそうです。

(※マズローの欲求の五段階は、1.生理的欲求➡2.安全の欲求➡3.所属と愛の欲求➡4.承認の欲求➡5.自己実現の欲求、というふうに、原始的なものから高次なものへ順に満たされる。)

 

 

次に、脳科学でも「共感」に対応する脳の働きが有ります。人が共感する時に働く脳の神経細胞である「ミラーニューロン」によるものです。「ミラーニューロン」とは、他人の行動見て、自分がその行動とったかのような感情を感じる神経細胞です。感情を感じてしまうとは、まさしく「共感」の定義そのものです。

 

 

 

ここでやっと、音楽における「共感」について考えてみます。

 

音楽を聴いて作曲家や演奏者に共感する。

 

音楽を演奏して、作曲家や共演者に共感する。

 

等のケースが「共感」ですが、音だけ聴いて共感する場合も含まれまるものとします。

 

 

たしかに、演奏していれば「承認欲求」とか、聴いている側なら「所属と愛の欲求」は満たされるでしょう。

また、ミラーニューロンも、音だけの場合でも働いていそうです。

 

しかし、それらだけでは説明がつかないレベルの感動が音楽にはあります。

 

例えば、クラシック音楽を聴かない方でも概ね知っている、ベートーベンの交響曲第5番「運命」。この曲を1楽章からずっと通して聴いて、4楽章に到達した時の絶頂感は、なかなかすさまじいものがあります。ミラーニューロンの働きを超えて、一瞬神の世界に繋がったかのような体験です。

 

この絶頂感を理解する為、神秘思想家である、ルドルフ・シュタイナーの言葉を引用してみます。

 

「彫刻、絵画など、音楽以外のあらゆる芸術は、自然の秘密の意図を推測するまえに、表象をまとめなければならない。それに対して、メロディ、ハーモニー、音楽は直接、自然自身の表明なのである。音楽家は、神の意志の脈拍が世界を貫くのを直接聴く。神の意志がいかに表現されているかを、音楽家は知覚する。」

(音楽の本質と人間の音体験  ルドルフ・シュタイナー著 西川隆範訳 イザラ書房より)

 

つまり、音楽は人と共感できるだけでなく、その作品を介して、人を神と繋げることができるのですね。

 

 

 

音楽は時間性を伴ったリアルタイムでの神の体験であり、通常の現世では存在しない種類の快感(=神体験)があたえられる訳です。すべての文化に音楽は存在するそうですので、この神の性質を思い出すのは人類共通のようです。人間には神を思い出す回路が組み込まれていて、それを起動させる装置が音楽なのかもしれません。

 

 

 

ところで、途中で脳のミラーニューロンの話を引き合いに出しつつ、脳を超えた話になってしまいましたが、脳科学者の間でも、脳イコール心なのか、脳を超えた何者かを想定すべきなのか意見が分かれるそうです。

 

あくまで、素人である私個人の妄想ですが、私としては、脳はパソコンの様な通信装置だと考えています。その脳に依存しているのが、自我です。

 

そして、自我をさらに高いところから操っているのが魂です。魂は神というインターネットの様な情報の海の中にあるアカウントみたいなものです。神とつながりつつ個性を伴った情報のゲシュタルト(一つの全体性をもったまとまり)が魂です。

 

と、そういうイメージで捉えています。

 

魂も自我も同時に他人そして神と繋がれる音楽。

 

まずは、その事を意識しながら、そしてそのことでどう自分(自我と魂)が変容するかを観察しながら、音楽を作っていきたいと考えます。

 

最終的には、神と繋がる自然な営みとして、音楽に向き合っていけたらと考えます。

 

考えがあちこちに飛んだ文章で失礼しました。今後、もっと分かりやすくしていきたいと思います。

 

では。