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今回は、ロシアの理系天才チェリスト、「カール・ダヴィドフ」(1838-1889)です。

それでは早速、彼の人生を見ていきましょう。
カール・ダヴィドフは1838年、ラトビアのクルディーガという都市にて生まれました。
父はユダヤ人医師でアマチュアバイオリン奏者でした。
彼の生まれたラトビアは、現在ではバルト三国の一つで独立していますが、当時はロシアの支配下にありました。
またクルディーガは、中世には、オランダ、ドイツ、ポーランド、バルト三国の海沿いの商業都市が貴族に対抗して経済同盟を結んでいた、ハンザ同盟に属していたことが有り、このころにはドイツの言葉が使われていました。
つまり、ドイツとロシアの文化が交錯する街に生まれたということです。
生まれてからしばらくしてロシアのモスクワに移住し、5歳でピアノ、12歳でチェロを始めます。
そして、音楽家になる前に、親の方針もありサンクトペテルブルク大学で数学の学位を取得します。
その後、音楽の勉強のためにドイツのライプツィヒ音楽院に入学し、
音楽理論と作曲をハウプトマン、
指揮を当時超一流の指揮者だったハンス・フォン・ビューロー、
チェロをグリュツマッヒャーに学びます。
20歳の時に、病気で出演できなくなったグリュツマッヒャーの代役でピアノトリオの演奏会に出演し、大好評を得て、チェロ奏者としてデビューします。
さらに、ライプツィヒのオーケストラと自分で作曲したチェロ協奏曲で共演で演奏会を開き、これも大成功します。
22歳にはライプツィヒ音楽院の教授に抜擢されます。
その後、ヨーロッパ中を広く演奏旅行し、その時代における最高のチェリストとして名声を確立します。
ロシアに帰国後には、サンクトペテルブルク音楽院のチェロ科教授となり、32歳で後援者よりストラディバリを送られます。
このチェロは後に「ダヴィドフ」と名がつけられて、デュ・プレ、そして現在はヨーヨーマへと受け継がれていきます。
38歳には、作曲家のチャイコフスキーとダヴィドフの2人が、サンクトペテルブルク音楽院の学院長候補になり、学院長の座をダヴィドフが勝ち取ります。
2歳年下のチャイコフスキーは、ダヴィドフのことを「チェロの皇帝」と呼びました。
彼の在任中には、貧乏な学生の為の奨学金の対象人数大幅増やしたり、無料の学生寮を用意したりと、苦学生への優しい配慮があった様です。
彼は約10年学院長を務めましたが、
49歳の頃に若いピアノ学生とのスキャンダルで立場を追われてしまいます。
(ピアニストのルビンシュタインの陰謀説もある様です)
その後学院を出てソリストとしてツアーを行い、行く先々で大喝采を浴びます。
しかし、ロシアでのベートーベンのチェロソナタ公演の途中で倒れ、そのまま数日後に亡くなってしまいます。
50歳でした。
次に彼の音楽について見ていきます。
まず、作曲した曲についてです。
ハンザ同盟の土地柄に生まれたからか、全体としてドイツ色が濃いです。
特にチェロ協奏曲は、正統派ドイツ音楽という感じであまりロシアの民族的な匂いがありません。
ドイツのライプツィヒで勉強した影響もあるかもしれません。
一方、チェロの小品は、正統派という感じではなく、自由に書いている感じがします。
特に、チェロの高等テクニックが華やかな「泉にて(At a fountain)」は、
彼の自由な感性が花開いていて私も好きな曲です。
曲芸的ながらしっかりと音楽的でもあり、アマチュアには演奏困難ですが、弾けたらすごく楽しそうな曲です。
チェロのテクニック面では、本人は数か月練習しなくても、演奏会でちゃんと弾けた様です。
楽器を弾いて温めるのを学生に頼んでいたほど、練習の必要がなかったということで、本当に天才肌です。
テクニックの発展については、グリュツマッヒャーの影響もあって、解剖学、生理学的な考察からみたテクニックを開発しており、後のカザルスによる革新的なテクニックの進歩に繋がるものだと思われます。
またテクニックをバイオリンの名手から学ぼうとししました。
チェロにおける弦楽器のテクニックと音楽性の統合の為には、バイオリニストの自然なフレージング、歌い方等の様なものも参考になったのではないかと考えられます。
あとは、これまでのチェロ奏者との違いとして、「理系」の学問で学位まで取得していることです。
そして、作曲の先生であるハウプトマンも数学が得意でした。
5度の調弦で起こるハーモニー上の不都合など、数学的に理解していました。
(自分もエクセルを使って計算したことがあります。)
こういうのを当時から理解していたのは強い、というか演奏者としては特異だったかもしれません。
また、解剖学や生理学からテクニックを考えたりもしていました。
理系の感性もあわせ持つ天才チェリスト、ということで当時としては非常に稀有な存在だったと思われます。
また、出身がラトビアで、ハンザ同盟で親ドイツだったり、征服されてロシア圏だったり、ドイツとロシアの交錯する土地柄で生まれたこともあり、どちらの文化にもアクセスするのに抵抗が無かったのかもしれません。
ロシア人ながら、曲を聴いてみるとドイツに傾いていて、あか抜けたチャイコフスキーっぽい感じです。
理系で、ドイツとロシアの両方の影響を受けながら、貧乏な学生には優しさも見せる、ロシア最初の大チェリストである彼は、どんな理想に向かっていたのでしょうか。
ドイツの、バッハやメンデルスゾーン、シューマン等が活躍したライプツィヒで音楽の大切こと、特に作曲を学んだのは大きいと思われます。
最初は作曲家を目指していたので、本当は、シューマンとかブラームスみたいになりたかったかもしれません。
しかし、グリュツマッヒャー先生不在時の代役で出演して大成功してしまい、結果として天才的だったチェロの演奏が一番の肩書になりました。
また、チャイコフスキーに競り勝って、サンクトペテルブルク音楽院の院長の職を得るものの、自分の不徳か陰謀かは分からないけれど、職を追われてしまい、その後すぐに亡くなってしまいます。
もしかしたら、チャイコフスキーを超えて、ブラームス級に超立派な鬚を蓄えて、権威の中心にいる様に見えて、今一つやりたいことが追求できずに終わってしまった人生だったのかもしれません。
理系的探究心を持って、ドイツ音楽の森に分け入って、ドイツ三大Bの様な系譜に加わりたかったのかもしれません。
彼のチェロ協奏曲を聴くとそんな気がします。
そして、人生最後の1年くらいで院長職を解かれて自由を得て、作曲ではないものの、思う存分チェロを弾いて人から喝さいを浴びてから亡くなりました。早死にでしたが、演奏会で倒れてそのまま亡くなるのも音楽家としてはある意味で幸せだったかもしれません。
ダヴィドフの人生を見てみてから、自分の人生を振り返ると、若い時の理系的な真理への探究心とか、本来どんな音楽がやりたかったかについて、最近あまり考えていなかったなと気づきました。
人生は短いので、「自分がどんな音楽を追求したいのか」について、もっとしっかりと考えていきたいと感じました。
それでは。