ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

前回までで偉大なチェリストたちの紹介を終わり、今回は最後のまとめです。

 

 

書いていて感じましたが、巨匠たちの人生にはおおむね似たパターンがあります。

 

まず才能が見いだされ、よき教師やよき友に出会います。その後頭角を現して活躍しはじめ、確執や対立、苦悩などを乗り越えて、才能が開花して成功します。

行く先々で皆に祝福されます。しかし、成功は永遠には続かず、晩年は衰えやがて亡くなる、という感じです。

 

そういう人生の中で、音楽を通して本当に神と繋がるような体験があり、さらにそれを人と共有する貴重な音楽の営みがあったものと思われます。

 

才能を与えられた側の立場として音楽を真剣に追究し、人生の時間つまり命を、チェロを通して燃焼させた人たちのそういう物語を、私なりに短くまとめてこのブログで書かせていただきました。

 

 

私自身として考えさせられたのは、人生を生きる中でチェリストとして、音楽を追究するというのはどういうことか、ということです。

 

まだ、完全に答えは出切っていませんが、私の中では大切なメッセージがもらえた様に思います。

 

 

 

人生といえば、仏教で「縁起」という考え方があります。

人はすべての物、事の網の目の中にいる。その網の目の中で他者との関係性によってはじめて存在していると言える、というような考えです。

 

才能のある巨匠達は、その網の目を通じ、チェロの演奏を通して広い範囲に幸せ発することができた存在だったと思われます。

そして、幸せを発すれば、感謝としての幸せが帰ってくる。その循環で幸せが増幅して、偉業が残されていったのでしょう。

 

私自身のことを振り返って考えてみると、たとえ彼らほどの才能、影響力なくとも、世の中に幸福を与えるというベクトルを持って活動すれば、例え規模は小さくとも、より良い幸せの循環が誰にでも作れると考えます。

 

そして、最後に必ずこの世とのお別れが来ます。

必ず終わりがあることを認識しながら、ベストを尽したいですね。

 

 

ところで、今回は日本人チェリストの登場は無しでした。

身近過ぎて逆に共感に時間がかかりそうだったこともあり、今回はやめにしました。偉大なチェリストたち、日本人編も、もしかしたらもしかしたらやるかもしれません。

 

偉大なチェリストたちのシリーズをここまで読んでいただきありがとうございました。

 

ひでちぇろブログはテーマを変えてまだまだ続きます。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

チェコ出身のユダヤ人で、チェロの技巧を極限まで極め、向上させたチェロ奏者「ダーヴィト・ポッパー」(1843-1913)です。

 

 

それでは、ポッパーの人生を見ていきます。

 

1843年プラハのユダヤ人街に生まれます。

 

父はユダヤ教寺院で祈りを先導して聖歌を歌う、カントルという仕事をしていました。

まだこのころはユダヤ人が公に差別されていて、居住区の外に出るには黄色い星の標識を身につけることが義務付けられていました。

 

3歳には父の歌う聖歌を正確に真似て歌えるようになり、

 

5歳でピアノの即興演奏ができる様になります。

 

12歳でプラハ音楽院でチェロを学び始めます。この時の先生は、フランスのデュポール弟とドイツのロンベルグ両方の直系の弟子である、ゴルターマンでした。

 

まさにチェリストの歴史を作ってきた人たちの直系です。

 

その後、18歳でドイツ南部の地方都市、レーベンスブルクの礼拝堂楽団に入ります。

 

ワーグナー、ベルリオーズがここに指揮者として訪れた時には、ポッパーの演奏に賛辞を送ったそうです。

 

当時最高の指揮者、ハンス・フォン・ビューローがフォルクマン作曲のチェロ協奏曲を初演のする時、チェロのソリストに、5歳上のダヴィドフでなく、若いポッパーを選びました。すでにこの時点で最高のチェリストと認識されていました。

 

そしてその演奏は、

「それはまれにみる満足すべき演奏だった。素晴らしい才能、美しい音と驚くほどのテクニック…」

(マーガレット・キャンベル著、山田玲子訳、「名チェリストたち」、東京創元社刊)

と、ビューローに言わせるの名演奏でした。

 

その後、25歳でウィーン宮廷歌劇場の首席チェリストに就任します。

作曲家のシューマンも一時期主宰していた「新音楽時報」にも、ウィーンに優れたチェリストがやってきたことへの歓迎と賛辞の記事が書かれた記録が残っています。

 

30歳になり、広く活動する為にウィーンを去って、ヨーロッパ各地への演奏旅行に出かけます。この時には、イギリスやロシアにも足を運びました。

 

43歳の時には、プラハ出身の若い女性と2回目の結婚します。(1回目のピアニストとは破局しています)。そして、ハンガリー王立アカデミーのチェロ教授となります。

 

ハンガリーではブタペスト弦楽四重奏団を結成ましたが、この四重奏団に作曲家のブラームスがよく加わりました。ピアノ3重奏を初演したりと、多くのブラームスの作品も紹介されました。ブラームスのチェロソナタ第2番もブラームスの伴奏で演奏しました。

 

48歳でイングランド、スコットランド、アイルランドに演奏旅行します。国中のチェリストが聴きに来たそうで、「チェリストのサラサーテ」などと呼ばました。

 

52歳の時、ブタペストの貧しい人たちの為のサナトリウム建設チャリティコンサートで、当時18歳だったハンガリーを代表する作曲家のバルトークと共演しました。バルトークは母への手紙に、本物のの演奏家と一緒に演奏できたこと、楽しい人と知り合いになれたこと、ポッパー自宅の練習で何度もありがとうを言われたことなどの喜びを書き記しています。

 

67歳で一人息子を失ってしまいます。これは相当なショックだった様です。

 

69歳で凍った路上で転んで右腕を骨折し、チェロが弾けなくなってしまいます。その年の70歳の誕生日にオーストリア・ハンガリー帝国の皇帝から最高栄誉の「宮廷顧問官」を称号を授与されますが、たった2日後にウィーン近郊のバーデンにて心臓発作で亡くなります。

 

 

 

 

次はポッパーの音楽についてです。

 

彼は、たくさんの技巧的な小品、チェロ協奏曲等を作曲しました。また優れた練習曲も書きました。

 

小品で最も有名でそして素晴らしいのは「妖精の踊り」かと思います。この曲は、エレキギターの速弾きとかいう次元ではなく、超高音、超高速で目にも止まらない超絶技巧の曲です、ロストロポービッチ演奏のユーチューブの映像を見ると、人間技を超えている感じで目が点になります。

 

また、40の練習曲は、チェロの技術の発達の中で非常に重要な位置を占めていて、いまでも音楽大学でのソリスト養成の為の必須の課題となっています。

 

 

ブログの題名に「カザルス以前」と書きましたが、ポッパーの活動していた時期とカザルスがデビューした時期は少し重なっていました。彼は若きカザルスの演奏を聴きに行きましたが、感銘はしたものの「素晴らしいことばかりなのに、彼はわたしの心を打たなかった」と言ったそうです。

もしかしたら、自分の思い描いていた音楽の理想と、これからの時代の音楽の間に隔たりを感じ、自分の中で消化しきず、納得しきれないところがあったのかもしれません。

 

次の時代を作ったカザルスとは方向性が異なったのかもしれませんが、ポッパーにはオーケストラ曲を聴き覚えだけで一流ピアニスト顔負けのフレージングで弾くことができるような、モーツァルトやメンデルスゾーンのにもみられる天才的な能力の持ち主でもあり、ハイドンやシューマンの協奏曲を名人芸的技巧から解釈を重視する芸術として演奏した最初のチェリストでもありました。

 

これだけの才能と功績を考えると、チェロの音楽の大きな流れをカザルスにバトンタッチする前の最後の一人だったのかもしれません。

 

 

 

 

ポッパーの人となりですが、

 

背が高くて二枚目、そしてステージに上がると誰も抵抗し難い様なカリスマ性を持っていたそうです。そしてどんな話題にも対応できる会話上手で、人の話もよく聴いてあげられる人でした。非常に礼儀正しい人だった様です。

 

そして、彼のユダヤ人としてのエピソードが一つだけあります。

 

1880年代、ポッパーが演奏旅行していたロシアでは、労働者の運動に対抗したアレクサンドル3世によってロシア国内の単一民族支配が強化され、その影響でユダヤ人が迫害されていました。演奏旅行先のオデッサで、裕福そうな紳士からユダヤ人の歌であるコル・ニドライの演奏を頼まれ、父が歌っていた聖歌のメロディーを記憶から奏でると、その人は感動に涙して大金を渡していったとのことです。

 

やはり、ポッパー自身は成功していましたが、大半のユダヤ人同胞はヨーロッパのあちこちで迫害を受け、ポッパー心を痛めていたのではないかと想像できます。

彼自身もヨーロッパの各都市でユダヤ人が強制的に住まわされた居住区である、ゲットー出身です。幼い頃には理不尽さや世の中の矛盾にたくさん直面したであろうと思われます。

 

しかし、彼には、モーツァルトやメンデルスゾーンにも与えられた様な、聴いた音楽をすべて正確に記憶する能力や、チェロという武器が与えられました。

 

また、背も高くて、見た目も二枚目で、高いコミュニケーション能力を持ち合わせていました。

 

彼は、ゲットー生まれのユダヤ人であることの逆境にひるむことなく、すべての才能を生かして、チェロを通して自分を表現し、世界に貢献しました。

 

傍からみれば才能がある恵まれた人にしか見えなかったかもしれませんが、スタート地点は差別された境遇であり、同胞を不幸にした世界に対して一矢報いる意味も込めて、彼なりに人生でやり抜き、成功しなければならないモチベーションが有ったのだと思います。

 

 

 

ここで恐縮ながら私自身の話ですが、20代の頃、音楽、とくにチェロの演奏にのめり込みました。20代で就職してから、大人の世界の厳しさ、資本主義社会の矛盾を嫌というほど味わいました。

 

内向的で世間知らずでコミュニケーションも不器用だった自分は、世間から否定された様な感覚を味わい、社会に適応できませんでしが、逆にそれがモチベーションとなり、自分のアイデンティティとなった音楽にのめり込み、今まで生きて来ました。これまで生きるモチベーションを維持してこられたのも、音楽のおかげと思っています。

 

 

 

才能やスケールは全く別次元ですが、ネガティブに始まった人生を音楽でポジティブに変えて、才能生かして強く生き切ったポッパーの人生に強く共感します。

 

ポッパーの作品そして功績も、時代の近いカザルスにかき消されることなく、これからの時代にも残っていってほしいと思います。

 

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

今回は、ロシアの理系天才チェリスト、「カール・ダヴィドフ」(1838-1889)です。

 

 

それでは早速、彼の人生を見ていきましょう。

 

カール・ダヴィドフは1838年、ラトビアのクルディーガという都市にて生まれました。

父はユダヤ人医師でアマチュアバイオリン奏者でした。

 

彼の生まれたラトビアは、現在ではバルト三国の一つで独立していますが、当時はロシアの支配下にありました。

 

またクルディーガは、中世には、オランダ、ドイツ、ポーランド、バルト三国の海沿いの商業都市が貴族に対抗して経済同盟を結んでいた、ハンザ同盟に属していたことが有り、このころにはドイツの言葉が使われていました。

つまり、ドイツとロシアの文化が交錯する街に生まれたということです。

 

生まれてからしばらくしてロシアのモスクワに移住し、5歳でピアノ、12歳でチェロを始めます。

そして、音楽家になる前に、親の方針もありサンクトペテルブルク大学で数学の学位を取得します。

 

その後、音楽の勉強のためにドイツのライプツィヒ音楽院に入学し、

音楽理論と作曲をハウプトマン、

指揮を当時超一流の指揮者だったハンス・フォン・ビューロー、

チェロをグリュツマッヒャーに学びます。

 

20歳の時に、病気で出演できなくなったグリュツマッヒャーの代役でピアノトリオの演奏会に出演し、大好評を得て、チェロ奏者としてデビューします。

 

さらに、ライプツィヒのオーケストラと自分で作曲したチェロ協奏曲で共演で演奏会を開き、これも大成功します。

 

22歳にはライプツィヒ音楽院の教授に抜擢されます。

 

その後、ヨーロッパ中を広く演奏旅行し、その時代における最高のチェリストとして名声を確立します。

 

ロシアに帰国後には、サンクトペテルブルク音楽院のチェロ科教授となり、32歳で後援者よりストラディバリを送られます。

このチェロは後に「ダヴィドフ」と名がつけられて、デュ・プレ、そして現在はヨーヨーマへと受け継がれていきます。

 

38歳には、作曲家のチャイコフスキーとダヴィドフの2人が、サンクトペテルブルク音楽院の学院長候補になり、学院長の座をダヴィドフが勝ち取ります。

 

2歳年下のチャイコフスキーは、ダヴィドフのことを「チェロの皇帝」と呼びました。

 

彼の在任中には、貧乏な学生の為の奨学金の対象人数大幅増やしたり、無料の学生寮を用意したりと、苦学生への優しい配慮があった様です。

 

彼は約10年学院長を務めましたが、

49歳の頃に若いピアノ学生とのスキャンダルで立場を追われてしまいます。

(ピアニストのルビンシュタインの陰謀説もある様です)

 

その後学院を出てソリストとしてツアーを行い、行く先々で大喝采を浴びます。

 

しかし、ロシアでのベートーベンのチェロソナタ公演の途中で倒れ、そのまま数日後に亡くなってしまいます。

 

50歳でした。

 

 

 

 

次に彼の音楽について見ていきます。

 

まず、作曲した曲についてです。

 

ハンザ同盟の土地柄に生まれたからか、全体としてドイツ色が濃いです。

特にチェロ協奏曲は、正統派ドイツ音楽という感じであまりロシアの民族的な匂いがありません。

ドイツのライプツィヒで勉強した影響もあるかもしれません。

 

一方、チェロの小品は、正統派という感じではなく、自由に書いている感じがします。

特に、チェロの高等テクニックが華やかな「泉にて(At a fountain)」は、

彼の自由な感性が花開いていて私も好きな曲です。

曲芸的ながらしっかりと音楽的でもあり、アマチュアには演奏困難ですが、弾けたらすごく楽しそうな曲です。

 

 

チェロのテクニック面では、本人は数か月練習しなくても、演奏会でちゃんと弾けた様です。

楽器を弾いて温めるのを学生に頼んでいたほど、練習の必要がなかったということで、本当に天才肌です。

 

テクニックの発展については、グリュツマッヒャーの影響もあって、解剖学、生理学的な考察からみたテクニックを開発しており、後のカザルスによる革新的なテクニックの進歩に繋がるものだと思われます。

 

またテクニックをバイオリンの名手から学ぼうとししました。

チェロにおける弦楽器のテクニックと音楽性の統合の為には、バイオリニストの自然なフレージング、歌い方等の様なものも参考になったのではないかと考えられます。

 

 

あとは、これまでのチェロ奏者との違いとして、「理系」の学問で学位まで取得していることです。

そして、作曲の先生であるハウプトマンも数学が得意でした。

 

5度の調弦で起こるハーモニー上の不都合など、数学的に理解していました。

(自分もエクセルを使って計算したことがあります。)

こういうのを当時から理解していたのは強い、というか演奏者としては特異だったかもしれません。

 

また、解剖学や生理学からテクニックを考えたりもしていました。

 

理系の感性もあわせ持つ天才チェリスト、ということで当時としては非常に稀有な存在だったと思われます。

 

また、出身がラトビアで、ハンザ同盟で親ドイツだったり、征服されてロシア圏だったり、ドイツとロシアの交錯する土地柄で生まれたこともあり、どちらの文化にもアクセスするのに抵抗が無かったのかもしれません。

ロシア人ながら、曲を聴いてみるとドイツに傾いていて、あか抜けたチャイコフスキーっぽい感じです。

 

 

 

 

理系で、ドイツとロシアの両方の影響を受けながら、貧乏な学生には優しさも見せる、ロシア最初の大チェリストである彼は、どんな理想に向かっていたのでしょうか。

 

ドイツの、バッハやメンデルスゾーン、シューマン等が活躍したライプツィヒで音楽の大切こと、特に作曲を学んだのは大きいと思われます。

最初は作曲家を目指していたので、本当は、シューマンとかブラームスみたいになりたかったかもしれません。

 

しかし、グリュツマッヒャー先生不在時の代役で出演して大成功してしまい、結果として天才的だったチェロの演奏が一番の肩書になりました。

 

また、チャイコフスキーに競り勝って、サンクトペテルブルク音楽院の院長の職を得るものの、自分の不徳か陰謀かは分からないけれど、職を追われてしまい、その後すぐに亡くなってしまいます。

 

もしかしたら、チャイコフスキーを超えて、ブラームス級に超立派な鬚を蓄えて、権威の中心にいる様に見えて、今一つやりたいことが追求できずに終わってしまった人生だったのかもしれません。

 

理系的探究心を持って、ドイツ音楽の森に分け入って、ドイツ三大Bの様な系譜に加わりたかったのかもしれません。

彼のチェロ協奏曲を聴くとそんな気がします。

 

そして、人生最後の1年くらいで院長職を解かれて自由を得て、作曲ではないものの、思う存分チェロを弾いて人から喝さいを浴びてから亡くなりました。早死にでしたが、演奏会で倒れてそのまま亡くなるのも音楽家としてはある意味で幸せだったかもしれません。

 

ダヴィドフの人生を見てみてから、自分の人生を振り返ると、若い時の理系的な真理への探究心とか、本来どんな音楽がやりたかったかについて、最近あまり考えていなかったなと気づきました。

 

人生は短いので、「自分がどんな音楽を追求したいのか」について、もっとしっかりと考えていきたいと感じました。

 

 

それでは。

こんにちは、ひでちぇろブログです!

 

今回は、ベルギーのアドリエン・フランソワ・セルヴェ(1807-1866)についてご紹介します。

 

 

後に自分の名を冠する大型のストラディバリを使い、ロマンチックさが個性の演奏そして作曲もしました。

エンドピンをはじめて使っことでも有名です。

 

 

 

 

それでは、彼の人生を見ていきましょう。

 

セルヴェは、ブリュッセル郊外の街、ハレに生まれます。

まるでおとぎ話の世界の様な「ハレの森」のある風光明媚な所です。

 

 

彼は最初バイオリンを始めたのですが、途中でチェロの音に魅せられて、チェロに転向します。

そしてチェロ転向後すぐ、20歳の頃に一年でブリュッセル音楽院を主席で卒業して、チェロの先生の助手を勤めます。

 

その後演奏活動をしますが、ベルギー国内での評価は最初はいまいちでした。

 

しかし、国外のツアーに出て、パリや、ロンドンでまず高い評価を得ました。

 

その後、再度ベルギーで研鑽を積んで、テクニックを完成させてから、パリをはじめヨーロッパ中を回り、大絶賛を得ます。

 

このころフランスで力の有った作曲家のベルリオーズからは、セルヴェのことを「チェロのパガニーニ」とも評されました。

 

ロシアにも合計10回程行き、40歳くらいでロシア人女性と結婚しています。

 

最後、ロシア全土への演奏旅行から帰って、故郷のハレで過労で亡くなります。

59歳でした。

 

冒頭にも書きましたが、彼はロシアの女王に買ってもらった大型ストラディバリを使っていました。

 

この頃は弦がガットからスティールに移行している時期で、楽器も小型化改造を受けたものが多かったらしいのですが、このストラディバリは小型化の改造を免れたようです。現代ではスミソニアン博物館に寄贈されています。

 

この楽器の音はビルスマがバッハの無伴奏チェロ組曲を弾いたCDを出していて聴くことができますが、びっくりするくらい深い音がする楽器です。

セルヴェがこの楽器を弾いていたのをぜひ聴いてみたかったです。

 

と、話がすこし楽器の方に脱線してしまいました。

 

 

 

 

次は、彼の音楽について書いていきます。

 

彼は、作曲家でもありましたが、彼の作曲したチェロの曲は、親しみやすい甘めなメロディー、超高音への跳躍と非常に早いスケールなどの難しい技術、間に挟まれる可愛らしさ、などが特徴です。

 

特にチェロ二重奏は、甘いメロディー、ヴィルトーゾ感、茶目っ気がいいバランスで作られていて非常に魅力的な曲です。

 

想像ですが、その音楽性は、チャイコフスキーやラフマニノフを輩出ロシアで特に好まれそうな感じがします。

 

実際、妻もロシア人ですし、ロシア演奏旅行の過労で亡くなるなど、ロシアとのつながりが深いあ人でもありました。

 

音楽ではありませんが、彼は、チェロを支える、エンドピンの発明者でもあります。

 

肥満で楽器を支えられなくなったかららしいのですが、結果としてそのおかげで高音域が弾きやすくなり、後のすべてのチェリストがその恩恵に浴していることを考えると、非常に素晴らしい功績だと思います。

 

という風な感じで、彼は、

ロマンティックなヴィルトーソとしてチェロ奏者の時代の先端を歩いていた人でした。

 

 

 

セルヴェの人となりについても触れたいと思います。

 

 写真では少し怖そうな顔をしていますが、どんな人に対しても親愛の情を持って接する、物腰の柔らかい人だった様です。

 

また、舞台上で変な顔をして人を笑わせたりする、ちょっと変わったひょうきんな一面もあったりして、多くの人から愛された様です。

 

実際彼が亡くなった後、故郷の市民は彼の死をいたんで、ストラディバリを持った等身大の像を立てたくらいです。

 

気取らず、気さくな、太ったおじさん風のチェロの巨匠だったのですね。

 

 

 

 

セルヴェは、チェロを弾かせたらチェロのパガニーニと言われる程の巨匠でした。

 

しかし、偉ぶることもなく下から目線で、いつも人を喜ばせようと考えている人でした。

 

そして、ロシア人にも愛されるロマンチストでした。

 

彼は、与えられた才能と気質を自分の為ではなく、すべて人のために使った人だったのではないでしょうか。

 

だからこそ、過労で倒れるまで、求められれば演奏しに出掛けていったのでしょう。

また、ロマンチストな個性を生かしたみんなを喜ばせる曲もたくさん作りました。

 

求める人の為に演奏を続け、最後まで命の炎を燃やし続けた、優しきチェリスト。

人への優しさと音楽への情熱に生きた人生、私も少しでもそういう志を持って生きてゆきたいと感じます。

 

それでは。

 


ブルックナー7番の演奏会でした。
練習していたのですブログが滞ってました(^^;

3列目の左の青いシャツが私です。
久しぶりでしたが、やっぱりオケは楽しいです(^o^)
あと、ブルックナー、ホントに最高です!!

ようこそ、ひでちぇろぶろぐへ!

 

今回はドイツのチェロ奏者で作曲家のベルンハルト・ロンベルク(1767-1841年)です。

 

 

ボッケリーニやデュポール兄弟の築いた音楽を継承し、チェロの音楽を古典派からロマン派へつなぐ橋渡し役を担いつつ、ベートーベンの3つ年上の良き先輩でもあったドイツチェロ界の総元締め的存在です。

 

 

では彼の人生を見ていきます。

 

1767年、オルデンブルグというドイツ北部の都市に生まれます。

 

幼少時は同じドイツ北部のミュンスターという街で過ごします。

 

生まれたのは父がファゴット奏者、叔父がクラリネット奏者で聖楽隊長と、音楽に恵まれた家でした。

 

最初は父から、後にシュリックというチェリストからチェロを教わります。

また、小さい時から、当時ウィーンで活躍したバイオリン奏者からも指導を受けていた様です。

 

同い年のいとこが優秀なバイオリン奏者で、7歳の頃から二人でミュンスターの聴衆の前で演奏していました。

 

8歳からは国外にツアーにも出かけます。

 

16歳の頃にはパリのサロン「コンサート スピリチュエル」というところでも成功しました。

パリでは、当時最高のバイオリニストの一人、ヴィオッティに紹介されたり、デュポールの名人芸に触れたりと、パリに出られたことは彼にとって大きい経験になった様です。

 

2人は一度ミュンスターに戻ってオーケストラで演奏しながら、数年間演奏の勉強を続けます。

 

22歳の頃ケルン大司教がミュンスターを通りがかり、演奏聴いて感激してボンの礼拝堂に招かれました。そこで、ベートーベンと出会います。

 

ボンの礼拝堂では、ベートーベンをビオラとして弦楽四重奏を結成しました。

ファーストバイオリンが、ボンにいたリーズ、セカンドバイオリンがいとこのアンドレアス、チェロがロンベルクというメンバーでした。

頻繁に演奏会を開き、自作のチェロ曲も演奏したりしました。

 

ボンではベートーベンがロンベルクを音楽家として、また良き先輩として尊敬していた様です。

 

ボンは、フランス革命につながる進歩的な考え方の影響を受けた町で、ロンベルグもその影響を受けた様です。

 

そして、ロンベルク25歳の頃、フランス軍がドイツに侵攻してきた為、ボンを離れてハンブルクに戻ります。

 

28歳、イタリアツアーの帰りのウィーンでハイドンに会い、ベートーベンにも会います。ここでベートーベン作曲のチェロソナタを演奏しました。

 

しばらくハンブルクにいた後、32歳でパリでの演奏にまた成功します。

当時のフランスでの最高のチェリストはデュポールでしたが、ロンベルクも同格であることを示しました。

33歳からそのままパリ音楽院の教授を務めましたが、これは合わなかったらしく2年で辞めてしまいました。

 

37歳には、ベルリン礼拝堂でデュポールと何度も共演しました。共演だけでなくソロの演奏でも、作曲家としても成功しました。

 

39歳、フランスとの講和条約でドイツの地位が低下し、ドイツ国内の状況が悪化した為、一時的にロシアに移り、6年間住むことになります。

ロシアではサンクトぺテルブルグやモスクワそして地方で大絶賛を受けます。このころが演奏技術のピークだった様です。ロシアは相当相性が良かった様です。

 

51歳、ロンベルクはロシアからベルリンを経て、またハンブルクに定住します。

 

54歳、チェロの息子と歌手の娘と共にウィーンへのツアーに出かけ、ベートーベンと再開します。

この時すでにベートーベンは著名な作曲家でしたが、耳の病が悪化しはじめていました。

 

66歳、ウィーンでのコンサートでは「すべてのチェリストの王、ロンベルク」と呼ばれました。まさにチェロ界の頂点に君臨していました。

 

最晩年の71歳にはチェロの教則本を出版しました。

 

そして73歳、ハンブルグで亡くなります。

 

 

 

 

ロンベルクの人となりですが、

 

ベートーベンからチェロ協奏曲を作曲しようと申し入れがありながら、自分で作曲するからいらないと断るなど、なかなか、自己主張が強めの性格であった様です。

 

しかし、ベートーベンからは生涯にわたって頼れる良き先輩音楽家として、親しみと共に尊敬されていた様です。

 

近しい人には兄貴肌だったのかもしれません。

 

 

音楽面も見てみます。

 

チェロソナタ第1番聴くと、ベートーベンなどと比べるとさすがに佳作という感じですが、曲の中に明確に「歌」があります。

歌詞付きの気品のあるメロディーで歌手が訴えかけてくる感じです。

それまでの器楽曲っていう感じと明確に一線を画した音楽です。

 

デュポール兄弟や、ボッケリーニが作り上げた高度なチェロの技術に、さらに歌の要素を取り入れたのが、ロンベルクと思われます。

 

これが後のブラームスのチェロソナタ等に繋がって行く感じでしょうか。

 

また、ロマン派以降の作曲家の交響曲では、よくチェロに歌うメロディが与えられていますが、これもロンベルクがチェロに「歌」という役割を与えたおかげということもあり得ます。

 

 

 

ロンベルクは、チェロという楽器の改良にも寄与しています。

 

一番低い弦であるC線の部分の指板を削って弦の高さを確保して力強い表現を可能にし、指板を長くして、ボディから距離を離して高音を弾きやすくするなど、技術の幅を広げる様な改良を施し、それは現代でもそのまま採用されています。

 

 

 

オケで気持ちのいいメロディを弾たり、高い音を弾いたり、低い音を強く弾いたりするときにロンベルクの功績の恩恵に浴していることが実感できます。

 

 

 

こう見ると、

 

自己主張が強そうな性格も、

音楽、テクニック、楽器等、自分の中に確固たる理想像が有って、理想に従ったり、理想を守ったりしていただけかもしれません。

また、だからこそ、べートーベンに頼られる程の存在だったのかもしれません。

 

 

 

 

ドイツのチェロ界の総元締め的存在のロンベルク。

 

チェロを弾く人間として、その人生を祝福し感謝しつつ記憶に留めておきたいと思います。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

今回はイタリア出身のルイジ・ボッケリーニ(1743-1805年)です。

 

 

ボッケリーニは、イタリアのフィレンツェ郊外、ルカという街で生まれ、チェリストとしてだけでなく、ハイドン、モーツァルトと同時代の古典派の作曲者としても活躍しました。

 

 

それでは、彼の人生を見ていきます。

 

父がプロのコントラバス奏者で、最初は父、その後はルカ大聖堂の楽長からチェロを学びます。その後はローマでも勉強します。

 

17歳にはウィーン宮廷楽団で高い評価を得、18歳で作曲も始めます。

 

その後、ミラノ、パリを始めヨーロッパ中で演奏活動を行い、高い名声を得ます。

 

そして25歳の頃にマドリッドで高い評価を受けて、皇帝の弟、ドン・ルイス皇子付きのチェリスト兼作曲家として後半生を送ります。

 

しかし皇子が亡くなった後失職してしまいます。

 

さらに、作品を書いてもだまされてお金を送ってもらえず、貧困と失意の内にこの世を去りました。

 

チェロも作曲も現代にも名前が残るほどの実力を持ちながらも、人が良かったのか、かわいそうな最後でした。

 

 

ボッケリーニに関しては、

バロック界最高峰のチェリストであるビルスマが、世界最高のチェリストとして、演奏、作曲共に非常に高く評価しています。

 

ビルスマは、ボッケリーニの弟子なんじゃないかというくらい、好意的かつ的確な言葉を本に記されています。

 

 

 

対談本である、

「バッハ・古楽・チェロ、アンナー・ビルスマは語る  著:アンナー・ビルスマ+渡邉順生、編訳:加藤拓未/アルテスパプリッシング」

 

より、ビルスマの言葉を抜粋します。

 

 

まずは、ボッケリーニの時代上の位置付けです。

 

「時が過ぎて市民社会の時代になって・・・・人びとが感情を共有する感覚が生まれた。・・・・ボッケリーニはそうした新しい時代の「最初期」を生きた音楽家だと思うね。」

 

権力から解放された音楽の一番最初の頃の作曲家なんですね。

バロックとは違う聴きかた、つまり、神とか偉人ではなく、ボッケリーニの感じたことが音楽になっているということです。そういう意味では、モーツァルトとベートーベンの間くらいという感じでしょうか。

 

 

 

次に、ボッケリーニの音楽のキャラクターについてです。

 

「ボッケリーニの音楽とは「人を楽しませたい」という音楽なんだ。彼は主君を愛し、家族を愛した。」

 

彼は最高のチェリストでありつつ、愛情深い人だった、そしておそらく「いい人」だったのでしょうね。

 

 

 

 

曲の長さについてです。

 

「ボッケリーニの音楽は短いんだ。それは人生も短いから。」

 

彼は結核にかかっていたこともあり、常に死を意識していたことが考えられます。

命と時間の大切さ、そして生かされて人生を体験しているこの一瞬がいかに大切か、常に意識していたのかもしれません。そしてそれが音楽にも表れているのでしょう。

 

 

 

弦楽五重奏について。

 

「弦楽五重奏の美しさの秘密は、二本のチェロにあるんだ。二本のチェロがともに響きあって、この魅力的なサウンドを作っているんだ。」

 

チェロが響き合うサウンドなんですね。じつは、チェロの曲ばかり聴いていたので、私も聴かないといけませんね。

 

 

 

 

ビルスマは、彼のいたスペインの宮殿に行ってみたそうです。

 

「宮殿に入って、私はボッケリーニの弦楽五重奏が演奏されていた部屋に入ったんだ。理想的な空間だったね。響きも最高だった。」

 

理想的環境だった様ですね。そして弦楽五重奏曲は、この宮廷で、すべてストラディバリで弾かれていたという、夢のような恵まれた環境だった様です。

 

 

最後は、ボッケリーニの音楽についてです。

 

「今日、世界の音楽は、どんどん音が大きくなっている。しかし、ボッケリーニの音楽は「仲間」と「愛」に満ちた音楽なんだ。」

 

肥大した自我ではなく、親しい人間関係の上で成り立つ、等身大の私。その私を祝福する音楽が、ボッケリーニの音楽なのかもしれません。

 

現代社会にこそ、まさに求められるべき感覚ですね。

 

商業主義によりなかなか難しいですが、ここら辺はまさにアマチュアの出番かもしれません。

 

そして、もしかしたら一度忘れられたボッケリーニの音楽がまた時代に求められる時が来るかも知れませんね。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

今回以降の何回かは「カザルス以前」ということで、18世紀から20世紀初頭までにヨーロッパの各国で活躍したチェリストを見ていきます。

 

ということで、まずはフランスから行きます。

 

フランスのチェロ楽派始祖と言われる、ベルトー(1700頃~1771)の最も重要な弟子で、現在でもチェリストの間では練習曲の作者として名前が良く聞かれるのが、「デュポール兄弟」です。

 

兄弟二人ともチェロの名手でした。

 

特に弟は、音大の入試にもよく使われる「21の練習曲」や、同じストラディバリをロストロポーヴィチが使ったことで知られています。

 

 

ではまず、ジャン・ピエール・デュポール(兄 デュポール、11741~1818年)から。

 

フランスで生まれてデビューして活躍の後、ドイツに渡りベルリン王立礼拝堂のソロチェリストとなります。

 

ドイツでは、モーツァルトと親交が出来、弦楽四重奏曲で彼を想定したチェロの活躍する曲が書かれてました。

また、ベートーベンのチェロソナタをベートーベンのピアノ伴奏で宮廷で演奏したりこともあり、当時を代表する音楽家とも直接関係があったチェリストでした。

 

ジャン・ルイ・デュポール(弟デュポール、17491‐819年)もまた、

 

 

フランスでデビューし、活躍しますが、フランス革命が起こった為に、難を逃れてしばらく間、兄のいるの宮廷で過ごしました。

 

その後、またフランスに戻って同じく活躍して名声を得、皇帝のソロチェリストという地位に就任します。

 

チェロはストラディバリを使っていましたが、ナポレオンにふざけてつけられたキズが今も残っているそうです。

このチェロはデュポールと名付けられ、後々ロストロポーヴィチにも使われました(今は20億円の価値があるそうです)。

 

現代でも使われている、弟デュポールの書いた21の練習曲ですが、私も20代の頃よく夢中になって練習しました。

音程を取る左手完成度が上がりましたし、音楽的にも面白くて好きな教本です。

 

 

残された情報は少ないものの、モーツァルトから10歳くらい、ベートーベンから20~30歳くらい年上という、この時代に偉大な作曲家達とも対等に付き合えた人物がチェロの世界にもいたというの事がうれしいですし、チェリストの伝統もこの時代から作曲家の伝統と同じく脈々と受け継がれてきたということにロマンを感じます。

 

また、弟デュポールの絵を見ると、同じチェリストとして、次元は全く違うけれどもどこか親近感を感じてしまいます。

 

彼の人生に思いを馳せつつ、またデュポール弟の練習曲を味わいながら弾こうかと思います。

 

 

カザルス以前、まずはフランスのデュポール兄弟でした。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!

(本記事は2018年10月21日の記事に内容を追加したものです)

 

今回は、「ヨーヨー・マ(馬友友)」さんです。

 

 

 

私の一番好きなチェリストは、

断トツ、文句なしで

ヨーヨー・マさんです。

 

中性的でストレスのない歌い回し、

 

細かいところまで完成された表現、

 

それでいてスケールの大きい音楽。

 

西洋のクラシック音楽にもかかわらず、

キリスト教文化の匂いよりも、

東洋的な愛の様なものが

感じられるところが、

 

これまでのチェリストにない

個性かと思います。

 

 

 

 

それではまず、彼の半生を見ていきます

 

ヨーヨー・マさんは、

1955年に中国人のご両親の元、

パリで生まれました。

 

そして4歳より父からチェロを学びます。

 

その後ニューヨークに移り住み、

 

7歳にJ・F・ケネディと5千人の聴衆の前で演奏し、

大喝采を受けます。

 

8歳にはバーンスタインが出るTV番組に

出演します。

 

ジュリアード音楽院に入学し、

アメリカ最高のチェリストであった、

レナード・ローズ氏に師事します。

 

ローズ氏に、

もう教えることはないと言われたヨーヨー・マさんは、

 

17歳でハーバード大学に入学し、

伝統的な教養科目の教育を受けて、

人類学の学位を取得しました。

 

その後デビューし、

すぐに天才チェロ奏者として、

世界中で活躍します。

 

クラシックだけでなく、

アルゼンチン・タンゴのピアソラや、

アメリカのカントリーミュージックなど、

クラシック以外の分野でもアルバムを収めたり、

 

坂東玉三郎等、異分野の芸術家と共に、

バッハの無伴奏チェロ組曲と映像を収めた、

映像作品「インスパイアド・バイ・バッハ」を制作したり、

 

世界20か国から集まったメンバーを擁する、

「シルクロード・プロジェクト」という団体を創設したりと、

 

これまでに多彩な活動を続け、

グラミー賞を18回獲得しています。

 

 

チェロは、

デュ・プレが弾いていたダヴィドフ・ストラディヴァリと、

ヴェネツィアのモンタニャーナによる2台のチェロを愛用しています。

 

ご家族は、

ご夫人と2人の子供がいらっしゃいます。

 

 

 

 

私が実際に直接生で体験した

ヨーヨー・マさんの演奏は、

 

バッハの無伴奏チェロ組曲(2回)と、

ドボルザークのチェロ協奏曲、

ベートーベンの三重協奏曲

 

です。

 

いずれも、

 

上に書いた個性に加えて、

音楽の存在感と、

なにしろ、ご本人のオーラが桁違いでした。

 

また、

私が録音されたもので好きなのは、

バッハ作曲無伴奏チェロ組曲の、

2回目録音(インスパイアド・バイ・バッハ)

のCDです。(映像付のものもあり)

 

これは本当に、

完成されたヨーヨーマの世界というか、

一度ここでピークを

迎えている感じがします。

 

 

ここで、

ヨーヨー・マさんの人となりですが、

 

人柄も明晰で明るくて、

周りを幸せにする

キャラクターのようです。

 

まさに私にとって、

世界一なってみたい、

憧れの存在です!

 

 

 

 

ところで、昔(20年くらい前)、

ある本で、人の人格は、

 

「血」(血筋)、

「知」(知識、育った社会)

「地」(住む土地)

 

と3つの「ち」に依って立つものだ。

というのを読んだことがあります。

 

ヨーヨー・マさんの場合、

「血」は中国系、

「知」はご両親が中国系で育ちはニューヨーク

「地」はフランス生まれで育ちはニューヨーク

と、

特に東洋(中国)と西洋(アメリカ、フランス)で

完全に分断されています。

安易にこれに依って立つのは難しそうです。

 

まったく分野の異なる例で恐縮ですが、

当時珍しかった、

イギリス留学帰りの夏目漱石は、

日本の和魂洋才とか、文明開化とかを、

「皮相上滑りな開化」と呼びました。

 

東洋のものと、西洋のものを表面的にくっつけて、

はい出来上がりみたいに、

簡単にはいかないんだよ、

っていうことです。

 

西洋の文化は、内側から時間をかけて

少しずつ発展して今の様になったのであり、

表面だけ真似してもダメだということでしょう。

 

と、

話を戻して、

 

ということで、やはり、

東洋と西洋の矛盾を乗り越えるには、

まず、相互の特徴とか違いを知って理解しあいながら、

少しずつ統合された何かを導きだしていく、

それをすこしずつ「深めて」ゆく

というアプローチになるのではないでしょうか。

 

そういう意味で、

ヨーヨー・マさんは、

異分野のアーティストと組んだり、

「シルクロード・プロジェクト」をライフワークにされているのでしょう。

 

つまり、

音楽を通じて、

西洋と東洋を統合する試みを、

音楽という冒険として、

我々に見せてくれているのだと思います。

 

日本に住む我々は、

その気になれば西洋、東洋両方の文化の最先端に

触れる機会があり、

 

かつ、私としてはクラシック音楽の活動をしているので、

 

ヨーヨー・マさんの冒険を楽しませていただきつつ、

世界最高のお手本として(レベルが違いすぎですが)、

ウォッチしながら、

これからも活動したいです。

 

そして、

ぜひ長生きしていただきたいです。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!!

 

 

皆さんご存知ですか?

チェロ奏者の、

「フランツ・バルトロメイさん」のことを。

 

 

オケ好きでチェロ好きな方ならご存知な方も多いと思います。

 

フランツ・バルトロメイさんは、

 

39年間の長期間、

オーケストラの最高峰である

ウィーンフィルの首席奏者を

されていました。

 

そして引退された現在も音楽活動は

継続されているようです。

 

 

コンサートマスターだった

キュッヒルさんと共に、

 

ウィーンフィルの顔的存在でした。

 

 

ニューイヤーコンサートでは、

軽やかで鮮やかな弓さばきで、

ソロになると、

うつくしい音色を奏でられていました。

 

また、バルトロメイ家は

祖父の代からウィーンフィルの団員であり、

3代合わせて120年ウィーンフィルに

在籍し続けたという筋金入りの家系です。

 

まさに、

「音楽の都ウィーン」を代表する

音楽家のうちの一人でしょう。

「ウィーン伝統の至宝」とも言える存在です。

 

それではまず、3代続いたバルトロメイ家の歴史を見ていきます。

 

祖父のフランツ一世は、

1865年チェコのプラハに生まれます。

当時はオーストリア・ハンガリー帝国で

同じ国でした。

選んだ楽器はクラリネットでした。

 

最初はチェコの歌劇場に就職しますが、

ドボルザークがアメリカに渡った1892年、

27歳でウィーン宮廷歌劇場

(今のウィーン国立歌劇場とウィーンフィル)のオーディションに合格します。

 

彼は一流のプレイヤーだった様で、

クラリネット・ウィーン楽派とも

呼べる流れの創始者であり、

指揮者だったマーラーや、ワルツ王のヨハン・シュトラウスとも親交があった様です。

55歳で亡くなる一週間前まで、

クラリネットを教えていたそうで、

本当に音楽に生きた人生でした。

 

父のフランツ二世は

1911年にウィーンに生まれます。

そして1938年に、

第二バイオリン奏者として

ウィーン国立歌劇場、ウィーンフィルの

楽団員になります。

 

この年はちょうど

オーストリアがドイツに併合された年でした。

1945年にドイツが敗れるまで、

ナチスに団を仕切られ、

ナチスの党員だった団員が

権力を持つという、

暗い時代を経験します。

 

しかし、その後、

フランツ二世は、団の副楽団長を務め、

当時一世を風靡していた、

カラヤン、ショルティ、バーンスタイン等と

団の代表として交渉、調整する

などの仕事をこなします。

 

実務能力の高かった彼は、

その功績が認められて、

キャリアの最後には

ウィーンのもうひとつのオーケストラである

ウィーン交響楽団の音楽監督に就任します。

 

最期はウィーンで、

77歳で亡くなりました。

死後、ウィーン市から功績を称える

メッセージが贈られました。

 

そして、やっと今回紹介する、

バルトロメイさん(フランツ三世)です。

1946年にウィーンで生まれました。

 

4歳で、国立歌劇場の「ヘンゼルとグレーテル」を見て、

すぐこの世界の虜になりました。

9歳にはカサドとマイナルディのチェロを

聴いて、

チェロ奏者になる決心をしました。

 

その後、

19歳でチャイコフスキーコンクールに優勝、

20歳でウィーン国立歌劇、ウィーンフィルの

団員となります。

 

22歳の時、元ウィーンフィルチェロ主席で

師匠のクロチャックさんに、

糸巻きの先にライオンが彫ってある、

ライオンヘッドのチェロを譲り受けます。

 

このチェロで、リヒャルト・ストラウス

自身が指揮した、

リヒャルト・シュトラウスのドンキホーテを

弾いたりもしている、

ウィーンの伝統を身にまとった楽器です。

 

バルトロメイさんはこの楽器で主席を39年勤めました。

 

2012年、

バルトロメイさんが主席を退任する

こととなり、

バルトロメイ家とウィーンフィルの120年の

歴史が幕を閉じます。

 

 

 

実はバルトロメイさんの

大ファンになったのは

意外と最近の話です。

 

2017年、

横浜のみなとみらいホールで

バルトロメイさんのコンサートを

聴く機会がありました。

 

会場は2000人近く入る様なの大ホールでした。

 

こんな場所で、

オーケストラ奏者が一人で大丈夫か?

と聴く前には思ってしまいました。

 

しかし、これがまったくの杞憂でした!

 

テレビでは軽く見えた

フォームでしたが、

軽いなんてとんでもなかったです。

 

大ホール全体に、

チェロ一つで音が響きわたる、

それを作ることができる、

力強いフォームでした。

 

腕だけでなく、

肩とか、上半身の重みまでが、

弓で弦に伝わっているかのようでした。

 

右手で弾く8分音符のスタッカートの

一振りごとの腕の動きが、

ホール全体を響かせることを想定した強さと正確さを秘めたものだというのが、

見ていてわかる感じでした。

 

でも、動きは素早く洗練されて無駄がないので、

テレビの映像では軽やかに見えたんですね。

 

きっと、ウィーン国立歌劇場の最上階の後ろの席にも聴こえる様に想定され、洗練された技術なんでしょうね。

 

もちろん、パワーだけではありません。

 

美しいビブラートで奏でられる金色の音色。

 

とにかく、メロディーが美しい。

 

甘ったるい美しさではなく、

音楽を知り尽くした人にしか出せないような、成熟した、しかも充実した美しさでした。

 

演奏会後に、

自伝が出ていたので、

買って読んでみました。

 

その時初めて、

祖父、父から3世代続いてウィーンフィルの団員だったということを知りました。

 

本当に、モーツァルトあたりからのウィーンの伝統の流れの本流の中にいて、

 

しかし、本人はチャーミングで

大家然としていない性格なんです。

 

キャラも軽やかみたいです。

そういうところも好きです。

 

先生でチェロトップの先輩である、

クロチャックさんからもらった、

ライオンヘッドのチェロが愛器でした。

 

チェロはすでに息子さんに譲られましたが。

まだまだ末長く活躍していただきたいです。

 

もう一度生で聴きたいですね。

 

フランツ・バルトロメイさんについてでした。

 

それでは。