ようこそ、ひでちぇろブログへ。

(この記事は2018年12月1日投稿のものにさらに内容を追加したものです)

 

今回は、アンナー・ビルスマです。

 

 

オランダ人であるビルスマは、バロックチェロの第一人者です。

 

バイオリンが普及した頃様な時代の少し構造の異なる楽器を古楽器と言います。

この古楽器を使って当時の奏法で音楽を再現してみると、非常に演奏効果上がることを発見し、それを世の中に広めた人たちがいます。彼はその中のリーダー的存在の一人でもあります。

 

演奏者として高みに登ったチェリストという意味では、カザルス、ロストロポーヴィチ、ヨーヨーマという様な存在と同等レベルであるかと思います。

 

現在は、演奏活動が体調的に継続困難となったので、演奏活動は止めて、オランダの自宅で暮らされています。

 

 

 

 

それでは、ビルスマの人生を見ていきましょう。

 

1934年、オランダのハーグに生まれます。父はハーグの王立音楽院で学び、教師にもなったトロンボーン奏者です。

 

3歳からバイオリンを学び、チェロは8歳から始めます。

 

15歳でハーグ王立音楽院に入学し、23歳で最優秀賞を得て卒業します。

 

26歳でネーデルランド歌劇場管弦楽団に第一奏者として入団します。

 

27歳でパブロ・カザルス国際コンクールで優勝します。その後、今では古楽界の最重鎮でもある、リコーダー奏者のフランス・ブリュッヘンから声がかかり、同じく超重鎮となるクスタフ・レオンハルトと共に3人でバロック音楽の演奏活動を開始します。

 

28歳でネーデルランド歌劇場管弦楽団を辞めて、オランダのトップオーケストラ(世界的に見ても超一流)であるコンセルトヘボウ管弦楽団の第一チェロ奏者に就任します。

しかし、6年間在籍の後、バロック音楽の道に進むべく退団します。本人曰く、オーケストラの仕事は面白くなかったそうです。その後、バロックチェロを使って、バロック音楽の分野で活躍します。

 

50歳の頃に、日本のバロックチェロの第一人者である鈴木秀美氏と出会います。その後、鈴木秀美氏はハーグ王立音楽院でビルスマに師事し、その道での日本人の第一人者として活躍されます。

 

50代中盤に、ラルキブデッリという名でバイオリン(妻のベラ・ベスとクスマウル)、ビオラ(ルシーファンダール)、チェロ(ビルスマ)をメインのメンバーとした弦楽合奏団を結成して活動を開始します。

 

70歳過ぎで、東京で演奏している時に、一音だけ間違った音を出してしまい、老いを感じました。これがきっかけとなって、チェロを弾く活動をやめてしまいました。(これ、自分が聴きに行った演奏会かもしれません)

 

現在は、歩行器を使わないと歩けない病気(命にはかかわらない)にかかってチェロは弾けませんが、ご自宅で奥様と暮らされています。

 

 

 

 

ここからは、ビルスマの音楽に関してです。

 

私が始めてビルスマを素晴らしいと思ったのは、大学の後輩にCDを貸してもらって、バッハの無伴奏チェロ組曲の1回目の録音(1979年)を聴いた時でした。

 

バロックのピリオド奏法の音楽が斬新で、しかも的を得ていて、これだ!という感じで何度も聴き込んだのを覚えています。

 

かれこれ20年ちょっと前の話です。

 

CDで感銘を受けた少し後に、来日されたので、迷わずコンサートに行ってみました。

 

その演奏会では想像以上に素晴らしい体験ができました。

 

 

場所は、東京の武蔵野市民文化会館の小ホールというところで、小さめな300~400人くらいのホールであったと思います。

 

そのときの演目がバッハの無伴奏チェロ組曲1、3、5番(6番まで有り)で、始めにバッハの無伴奏組曲1番が演奏されました。

 

そして、一番最初の、1番プレリュードを弾き終わった後、一瞬、「フワーッ」とホール全体がじんわり温かいもので包み込まれる様な、感覚がしました。

 

高揚するのではなく、一緒にじんわり温かみを感じている様でした。

 

これは、いったいなんだろう??

と未体験の感触でした。

 

そしてこれが、ビルスマの独自の音楽の片鱗を生で初めて体験できた貴重な瞬間でした。

 

ビルスマの音楽の一番の特徴は、「一対一の対話」の様に「語りかける」、ということです。

 

ホール全体に向かって演奏はしていますが、あたかも一人に向かって演奏されている様に感じられるんです。

 

普通、百人、千人、に向かって演奏するなら、その分派手で、声高で、大げさな感じになりがちですよね。

 

ポピュラーなロックやジャズの世界的アーティストなんかで、1万人超えの観客に対してだと、映像も音も増幅して、少しでも大きく見せようとしますよね。

 

ものすごいエネルギーを使うんでしょうし、音楽のキャラクターもそんな感じになります。

 

演劇でいえば観客がたくさんいると、ド派手な舞台衣装とメイクになりますよね。

ナチュラルメイクなんかでは遠くからは分かりませんから。

 

しかし、ビルスマは、少なくとも数百人の前で、一対一で語ることが出来るんです。

CDでも一対一で語っています。

 

また、音楽の物語を語るのであって、自分のことを語った独りよがりな部分は皆無です。

 

 

「語る」ということに加えて、もう一つのビルスマの特徴が、「深い音」だということです。

 

とくにそれが一番現れているのが、バッハ作曲、無伴奏チェロ組曲のCDの2回目の録音(1992年)です。

 

このとき、チェロは少し特殊なものを使っていて、古楽器と代楽器の中間の様な構造を持つらしい、ストラディバリ製作のセルヴェという楽器を使っています。

サイズが少し大きくて低音がよく響きます。

 

で、CDでの音なんですが、一体どこからこの音は来ているか?この世のものか?

 

と思う様な、ありえないくらい「深い音」がします。

 

口で説明するのは困難ですし、ユーチューブだけでは味わいきれないと思います。

 

これも、ビルスマならではの、特徴ですね。

 

自分の文章だけだと表現に限界があるので、ルドルフ・シュタイナーの言葉を引用してみます。

 

「人間は死の扉を通っていきます。

子音はまもなく捨てられます。しかし、母音、

とくに母音の抑揚は、より高められた度合いで体験されます。・・・

・・・この音楽要素のなかに、霊的世界から魂が吹き込まれ、

開示していきます。」

 

(イザラ書房 ルドルフ・シュタイナー(西川隆範 訳)

 「音楽の本質と人間の音体験」P.114より抜粋)

 

シュタイナーは、こんな言葉で、この世の経験を超えた、彼岸の音について語っています。

 

子音が抜けて、母音に魂が吹き込まれた音。

 

こういう言葉を引用してしまう様な、ビルスマの音深さの次元が少しは伝わるでしょうか。。。

 

ビルスマは、他の音楽家と物事の捉え方が根本的に異なるのだと思います。

 

彼の目からみると、「強い陶酔感」を伴うロマンチックなアプローチが通常になったクラシック音楽は、本質から外れているのかもしれません。

 

そして、音楽の本質はこういうところにあるんだよとチェロを使って「一対一」で「語って」くれるているのでしょう。

 

音楽だけでなく、人生において、言葉では表現できないけれども大切なことを、チェロの音を通じて自らの存在を懸けて教えてくれている様にも感じます。

 

普段こういうものを勧めたりしませんが、

 

「アンナー・ビルスマ演奏、

1992年録音の、

バッハ作曲無伴奏チェロ組曲全集」、

 

これは一度は聴いて損はないと思います。

 

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

偉大なチェリストたちシリーズ、今回は、「ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ」です。

 

 

2007年に亡くなりましたが、彼はいまでもチェリストの王様であり、かつチェロを楽器の王様にした人です。

 

圧倒的な音楽性、音量、技術を持ち、モスクワ音楽院ではマイスキー始め多くの一流チェリストを育て、200曲以上の曲を世界初演しています。

 

現代のチェロの世界は、カザルスが始めてロストロポーヴィチが完成させたと言えます。

 

人となりとしては、愛情の塊で、チャーミングで周りを明るく照らす、太陽の様な性格であり、学生時代のあだ名は「ひまわり」でした。

 

それではまず、彼の人生を見ていきましょう。

 

 

 

 

1927年3月、旧ソ連、アゼルバイジャンのバクーに生まれます。

 

4歳でピアノを始め、7歳でチェロ、10歳には作曲学び始めます。

 

父がソロにオーケストラにと活躍するチェリストだったので、父からチェロを教わります。彼は、父を尊敬していて、いつも教えてもらうのを楽しみにしていました。

 

14歳のころ、ドイツのソ連への侵攻で一度疎開します。そして、15歳で尊敬する父が倒れ、亡くなってしまいます。しかし、辛い戦時中に助け合う人々見て人の善意というものを信じる様になります。

 

16歳で戦況が好転し、モスクワ音楽院に入学します。ここで、作曲家のショスタコーヴィチと出会います。

 

18歳で全ソ連音楽コンクールで優勝します。

 

23歳でバッハの活躍したライプツィヒ(当時の共産圏である東ドイツ)に行き、バッハのお墓のある聖トマス教会などを見ます。この後、バッハを真面目に勉強すべきとして全曲演奏会を開いて成功し、スターリン賞を受賞します。しかし、本人としては録音の自信までは持てず。録音を発表したのは相当後の60代でした。

 

29歳でモスクワ音楽院の教授に就任します。その後、後進の指導、賞の受賞、指揮者デビュー等、活躍を続けます。

 

32歳でショスタコーヴィチが作曲してくれた、チェロ協奏曲第一番を弾きます。(アマチュアにはほぼ演奏不可能な、超難曲で名曲です。)

 

43歳、名声実力共に頂点だった時に文学者のソルジェニーツィンを擁護したことで反体制のレッテルを張られて演奏活動が出来なくなります。

 

47歳で西側に亡命します。出国前のモスクワ音楽院でのさよならコンサートでは皆がすすり泣き、行かないでの大合唱になったそうです。

 

50歳でアメリカに渡り、ワシントンナショナル交響楽団の指揮者に就任します。

 

63歳でゴルバチョフ体制となって開放政策が取られたため、自分のオーケストラとなったワシントンナショナル交響楽団を率いて帰国し、凱旋演奏をします。

 

68歳で来日した時に、阪神淡路大震災追悼演奏会を小澤征爾と共に開きます。(テレビで見ました。追悼の為に弾いたアンコールのバッハ作曲無伴奏チェロ組曲2番サラバンドは、魂に響きました。)

 

78歳での来日時、神戸で1000人のチェロによる演奏会の指揮を振りました。

 

80歳、モスクワで亡くなりました。

 

 

 

 

ここでまず、私が実際に生で見て聴いたロストロポーヴィチの印象をご紹介します。

 

始めて生で彼の演奏に触れたのは、東京文化会館でのピアノ伴奏での演奏会でした。ロストロポーヴィチ65の時です。

 

他に聴いたことのあるすべてのチェロ奏者の演奏を圧倒する迫力で、音楽の密度、説得力、音量が「すごい」という感じでした。

 

演奏の後に、楽屋の出口で出待ちしたのですが、ロシア語で感激を伝える女性ファンにを抱き締めて頬にキスしたり、満面の笑顔で大声で弾丸の様にロシア語で何かを話したり、周りの人間は全員ロストロポーヴィチに視線がくぎ付けでした。

ものすごくパワフルですぐに周りの人たちを巻き込んで幸せにしてしまう様なキャラクターの人でした。

 

ロストロポーヴィチが70歳の時に、東京御茶ノ水のカザルスホールで彼の公開マスタークラスが開かれたので見にに行きました。(ちなみに公開で受講したチェリスト2名は、今ではオーケストラのトップや、ソリストとしてその界隈では良く名前の知られた方です。)

彼がチェロの受講生達に言っていたのは、もっともっと、どんどん表現しなさい、スケールをもっと大きく、楽器も身体全体を使って弾きなさい、ということを言っていました。

 

また、クラスを終えた後の最後の言葉で、「音楽は奏者と聴衆を結ぶ架け橋であり、感動は音楽を通じて必ず聴き手に伝わると信じている」という言葉がありました。この言葉は今でも胆に命じています。

 

 

 

 

次に、彼の音楽に対する姿勢が分かるエピソードをいくつか紹介します。

 

世界的な指揮者、小澤征爾さんの言葉から。

「彼が、まさに命がけで音楽に取り組んでいた姿を見て、私も少しでもスラーヴァに近づこうと、一生懸命音楽に打ち込んできました。」

(エリザベス・ウィルソン著、木村博江訳、「ロストロポーヴィチ伝」より)

 

小澤さんとロストロポーヴィチは仲が良く、よく一緒に活動していましが、小澤さんから見ても「命がけ」であり、お手本だったのですね。

 

 

ロストロポーヴィチ本人の言葉から。

「私はどんな曲でも、第一音を弾くとき最後の音をどう弾くべきかすでにわかっている。それがわかったら、あとは中間を埋めていくのが演奏家の仕事だ。」

 

「私はいつも音楽の中に作曲家の顔が浮かび上がるほど、その存在をはっきり感じる様にしている。それを通して作曲家の話し方や姿形(言い換えれば、彼の全人間性)と、音楽の中に表現されている彼自身との間に、橋をかけるのだ。」

 

「シューマンの協奏曲の出だしは、とても内密で深い・・・一小節目をどう弾くかで、演奏全体が決まる。」

(以上、エリザベス・ウィルソン著、木村博江訳、「ロストロポーヴィチ伝」より)

 

これらの言葉から分かるのは、彼は作曲者の全人生、人間性を理解し、曲全体のイメージを作り上げて、そのうえで最初に一音の音を出すべきだと主張していることです。

たしかに、音楽って、最初の一音が後の方向性をすべて決めてしまうところがありますが、成り行きで無意識に音を出している部分が必ずどこかにあるので、本当に彼の言う通りにできれば飛躍的に演奏の質は向上しそうです。

 

現在では最高レベルのチェリストであるあのマイスキーでさえ、ロストロポーヴィチのレッスンでシューマンのアダージョとアレグロを弾いた時、頭の中ですでに雰囲気を作らなければならないと、容赦なく何度も何度も最初の一音ばかり弾かされたというエピソードも残っています。

 

 

最後に、

ロストロポーヴィチは、音楽で神とつながる幸せである感動を、世界中の人に届けるという大きな欲望、大欲に生きた人であったと思います。

 

また、単に音楽だけでなく、人生レベルで人を理解し、感動を共有することの大切さを教えてくれました。

 

そして、その感動を伝えるには、音の初めで終わりがイメージくらい、細部も全体もすべてが高度に演奏者によって作られている必要があるということでした。

 

言い換えると、

作曲者の音楽だけではなく、人生、つまり生き死にのレベルまで奥行を拡大して理解しようとすること。そして、弾き始めた時には終わりのことが分かるくらい、その音楽を身体に入れること。生き死にレベルの共感と、それを自分のものにする努力で、感動が伝わっていくということだと思います。

 

ロストロポーヴィチの場合、

そうやって音楽で伝わった感動=愛情がみんなを幸せにし、その幸せが演奏者に帰ってきて、幸福の循環が生まれ、それがどんどん大きくなっていってものすごいエネルギーになったのでしょう。そして、それでも我を失わずにチャーミングさを失わなかった器の大きさがあったのでしょうね。

 

晩年にロストロポーヴィチが「キャラバン」と称して、少な目の人数の音楽家で日本の田舎を演奏して回るのをNHKのドキュメントで見たことがあります。この時に寺の本堂の中で、サンサーンスのチェロ協奏曲のチェロソロを笑みを浮かべて弾くロストロポーヴィチの映像を見ましたが、まるでダライ・ラマみたいな宗教指導者の様な光を放って見えました。

 

人間、目的小さいとエネルギー切れしてしまいます。特にサラリーマンや主婦をやりながら音楽もやる様なアマチュア演奏家は、曲を理解せずに演奏で曲を消費する感じになって目の前の音楽をこなすだけになってしまいがちです。

 

ですので、せっかくのロストロポーヴィチの人生を参考にして、アマチュアであっても、少しづつでも、音楽による幸福が循環が出来るように、活動できたらと思います。

 

それでは。

 

ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

今回は、女流チェリストのジャクリーヌ・デュ・プレです。

 

自分は女性ではありませんが、出来る限り彼女の気持ちに寄り添って書いていきたいと思います。

 

 

デュ・プレの演奏は、

チェロの神様、カザルスの再来とまで言われました。信じられないくらい情熱的で説得力のある演奏で、ある意味ではカザルスをも凌いでいたかもしれません。

 

ただ、

活躍した期間が12年と短かったのは非常に残念でした。

 

 

 

それでは、彼女の人生の流れを見ていきます。

 

1945年の1月にイギリスのオックスフォードで生まれます。日本ではちょうど太平洋戦争の渦中で終戦間近の頃です。

 

4歳の時、ラジオでチェロの音を聴いてチェロを志します。

 

5歳の誕生日前日に3/4のチェロを母からプレゼントされます。

 

5歳でロンドンチェロスクールに入ります。後でも縁のあるバルビローリが総長を務めている学校です。

 

10歳でチェリストのウイィアム・プリースに師事します。彼女がその後もプリースのことをチェロのお父さん呼び尊敬した、名教師です。

 

13歳で、その後の18番ともなるエルガーのチェロ協奏曲をプリースから教わります。

 

15歳でスイス、ツェルマットでのカザルスマスタークラスに参加します。

 

16歳、ロンドンでバッハ、ブラームスなどでデビューし、絶賛を浴びます。このときの楽器はすでにストラディバリでした。

 

17歳でBBC交響楽団バックでエルガーのチェロ協奏曲を初めて弾きます。その後、ロンドンのプロムスという有名な夏の音楽祭でも毎年エルガーを弾く様になります。また、フランスのトゥルトゥリエに学びに6か月パリに留学します。

 

19歳で、新たな楽器、ストラディバリのダヴィドフを購入し、愛器となります。現在はヨーヨーマが使っている楽器です。

 

20歳で、バルビローリ指揮ハレ交響楽団でエルガーのチェロ協奏曲を演奏します。バルビローリは元チェロ弾きでデュ・プレのファンでもあり、共演できる日を楽しみにしていました。その後アメリカ公演の成功を挟んで、バルビローリ指揮、ロンドン交響楽団でエルガーのチェロ協奏曲を録音しました。名演としてあまりに有名なこのCDは今でも売れ続けています。(私も当然持っています)

バルビローリ自身、この曲の初演にチェロ(オーケストラ側)で出演していたり、デュ・プレの才能にほれ込んでいたこともあり、これ以上ない組み合わせです。

 

21歳でロストロポービッチに学ぶ為、ロシアに4か月留学しました。その後、友人のクリスマスパーティでバレンボイムと出会います。初対面でブラームスのチェロソナタ2番を合わせた様です。

 

22歳でバレンボイム指揮BBC交響楽団でエルガーのチェロ協奏曲にて初共演します。その後そのまま婚約、結婚します。(若い時のバレンボイム、イケメンです。)

 

25歳で、アメリカシカゴ交響楽団と共にバレンボイムとドボルザーク、エルガーを録音(ライブ含む)します。

その後もしばらく活躍が続きます。

 

28歳に手の感覚が鈍くなるなどにより満足な演奏が難しくなってきました。そして、医者に多発性硬化症と診断されてしまいます。不治の難病です。

 

30歳には大英帝国勲位を受けます。

 

34歳には、音楽での功績が称えられ、エリザベス女王から音楽博士の名誉学位与えられます。また音楽学校でマスタークラスを行う等、後進の指導も行います。

 

42歳、多発性硬化症の進行により、ロンドンの自宅で生涯を閉じます。

 

 

デュ。プレの演奏について書いていきます。

 

興味がある方は一度ユーチューブで画像を見ていただくと分かりますが、情熱的というより、鬼神(運慶・快慶の金剛力士像クラス)が乗り移って弾いているかの様な演奏姿です。

 

そして、弾いている時は鬼神ながら、バレンボイムとの共演で弾き終わると、「テヘッ」、という感じの愛嬌のある笑顔をバレンボイムに向ける、20代の若いお嬢さんという感じで、ギャップが半端ではないです。

 

音楽かチェロの、だいぶ激しめの神様に気に入られたお嬢さんという感じですね。

 

これは、私の勝手な想像ですが、女性のチェリストってどうしても力強さで男性に負けてしまって、頂点のチェリストは必ず男性となってしまうので、悔しい思いをしてきたのではないでしょうか。

 

そういう、力強いはずの男性チェリストを、すべてなぎ倒して、さらに弾き飛ばすくらいの勢いが彼女の演奏にはあります。

 

女王の中の女王という絶対の存在で、もし自分が女性のチェリストだったら憧れるのではないかな~と思います。

(勝手な妄想、失礼しました)

 

 

 

最後に、もう一度彼女の人生を振り返ってみます。

 

まず、チェロを引退するまでの人生の前半。

 

あれだけの激しさ、情熱、集中力があり、自分の中に音楽の鬼神が宿っていることが分かりつつ、周りに女性としてのお手本もなく、どんな感覚で生きていたのでしょうか。

 

もしかしたら、本当にこれでいいのかと常に不安定な部分があったかもしれません。

 

また、音楽以外でも彼女の人生に色々言う人いるもいます。映画でダークな部分に光を当てられてしまいましたし。

 

しかし、

どう人生をコントロールしてよいのか、何が許されて何が許されないのかということを、才能あってしまったが故に、同じ人生の土俵に立つ人間として教えてくれる人がいなかっただけなのかもしれません。

 

音楽が教えてくれた様に、直感に正直に生きるしか選択肢がなかったのかもしれません。

 

 

 

そして、人生後半。

 

多発性硬化症にかかってしまい、28歳で引退を余儀なくされる訳ですが、これは本当に難病で、かつ不治の病です。

 

少し話がそれますが、この病では、神経を覆うカバーの役割である髄鞘という部分を、自分の白血球が攻撃が攻撃してしまうそうです。

 

それにより神経の情報伝達がうまくいかなくなり、視力、筋力、感覚、思考力など、脳と神経系統が少しづつ蝕まれます。

 

明確な原因はいまだに不明で有効な治療法がありません。

 

そして、症状が発症したり少し良くなったりしながら徐々に悪化し、少しずつ自由が奪われていきます。

 

その先に待つのは死しかありません。

 

人生の前半では、その分野では女性で初といえる程の偉業、同じ世界で才能に恵まれた男性と結婚と、ありえないくらいの恵まれた環境から、

一挙にすべてを取り上げられ、病に蝕まれながら死を待つのみという状態に叩き落されました。

 

世間的には、凄い人だったけれど、最後はかわいそうで不幸な人だったねという程度の印象でしょう。

 

しかし、当人にとっては、かわいそうとか不幸という次元を超えた、

塗炭の苦しみだったのではないかと思います。

もし、自分がその立場だったらとの想像でしかありませんが。

 

チェロも弾けなくなり、夫も家から去り、おそらく最後の10年くらいは

世間からも相手にされなくなって姉、弟、母から介護を受けての生活だったでしょう。

 

そして、脳と神経の病気だけに、悲惨な最後だったのではないでしょうか。

 

 

 

ここで、自分の家族の話で大変恐縮ですが、一昨年に約3年間の入院生活を経て、母が亡くなりました。

 

精神の病、腰骨の骨折そして最後の一年は上手く飲み込むことが出来なくなり、少しずつ衰弱して亡くなりました。

 

傍から見ていても本当につらそうで、かわいそうでした。

 

ですが、亡くなる直前、そして亡くなった直後、病と闘う人の気高さというのを感じました。

これだけの症状とこれだけの苦痛に耐えて、それでも生きている事の尊さという感じです。

 

そして、なくなった直後、

本当によくがんばったんだねと、畏敬と賞賛の気持ちさえ生まれた。

人生で初めて味わった感情かもしれません。

 

 

 

同じではないかもしれません。

 

しかし、最後の瞬間まで病と闘うことで、チェロの演奏以上に、彼女の魂は気高く成長して旅立っていったのではないかと、勝手ながら想像します。

 

彼女の人生前半で生の輝きも、後半での魂の輝きも、自分なりにどちらも等しく想像しつつ、

 

素晴らしいエルガーのコンチェルトに感謝しながら、デュ・プレの演奏を今後も聴いていきたいと思います。

 

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

皆さん、チェリストのピエール・フルニエをご存知でしょうか。

フルニエといえば、

歩く「気品」という感じのチェロ奏者です。

 

実際

彼に関する文章を読むと、

おおよそ、

気品とか、格調高いとか、プリンス、貴公子といった単語が並びます。

 

確かにそうで、

優美で気品に溢れる容貌としぐさ、

激しい曲でも維持される美しい姿勢

が特徴的です。

 

私は、

始めて聴いたバッハの無伴奏チェロ組曲が、

フルニエの3番と5番のカセットテープでした。

 

最初一通り聴いてもあまり理解できなかったのですが、

2~3回聴いたら麻薬?の様に止められなくなって、

ずっと聴き続けたのを覚えています。

 

この原体験があったからこそ、

チェロをここまで続けられたのかもしれません。

私にとっても恩人の様なチェロ奏者です。

 

それでは、彼の人生を見ていきます。

 

フルニエは、1906年にパリで生まれます。

 

最初はピアノを勉強し始めましたが、

小児麻痺で右足に障害が出た為、9歳でチェロに転向します。

 

その後パリ音楽院を首席で卒業し、

18歳でパリでデビューします。

 

パリ音楽院では、

作曲家フォーレの教えを受けたこともあったそうです。

 

フォーレと言えば、

ベルリオーズやサンサーンスの流れを汲み、ドビュッシーやラベルに繋がる様な、フランス人作曲家の系譜の中でも主要な人物です。

演奏者とはいえ、そういうフランス音楽の流れの中にいたのですね。

 

そして、

最初はペルルミューテル(ピアノ)、ブイヨン(バイオリン)と組んだピアノトリオで注目され、

ドイツへの演奏旅行が成功して名声を確立します。

 

その後、ソロ、室内楽と活躍し、

39歳で、カザルスの抜けたピアノトリオ(元カザルストリオ)

とトリオを組み世界的にも演奏活動を広げます。

 

53歳の頃に最初の無伴奏チェロ組曲を録音し、

その後も、著名なチェロ協奏曲や、チェロソナタを録音していきます。

 

なかでも、

ピアノのケンプとは相性が良かった様で、ベートーベンのチェロソナタの名演奏のCDも残し、この二人で何度も来日もしています。

 

プライベートですが、

二度目の結婚相手が日本人の方であり、

非常に親日家だったそうです。

 

実際に日本人の弟子も多く、

藤原真理さん、上村昇さん、山崎伸子さんのような、

まさに現在日本のチェロ界をけん引されている方々ばかりです。

特に上村昇さんのバッハには、

フルニエの音色を彷彿とさせるものが有ります。

 

プライベートに戻りますが、

50歳以降は、

チャップリンやヘップバーンも住んでいた

スイスのレマン湖のほとりのマンションに住み、

 

行きつけのレストランではいつも、

ボージョレーのワインとタンシチューを頼んでいたそうです。

 

今で言うセレブという感じですね。

 

そして、

数々の名演奏、名録音、名演奏者となった弟子を残しながら、

1986年79歳でジュネーブにて生涯を閉じました。

 

 

 

フルニエの音楽に関してですが、

 

彼の演奏は、

無駄がなく、感情の抑揚は少しおさえめ

テンポもキッチリしています。

 

そして、

音そのものには強い個性、味わいがあります。

 

彼の演奏を別のものに例えると、

きちんとした部屋で、

きちんとしたコーヒーカップで、

一杯3000円くらいの

味わい深いブルーマウンテンを飲んでいる感じでしょうか。

 

ビジュアル的には、

上体をあまり動かさず、

表情もそれほど変えません。

うつむき加減で穏やかな表情のままです。

 

姿勢は非常に姿勢がよく、

何気無い動作の中に何故かものすごく

「品」があります。

動作が洗練されているからかもしれません。

 

弓を持つ右手はどっしりして、

腕の重みがつねに効率良く弓にかかっていて、

いかにもホールの奥までしっかり音が飛びそうです。

 

 

こういうのを一言で言うと、

「気品がある」

という言い方になるのでしょうね。

 

 

ところで。

クラシック音楽の”classic”は、

古典という意味だけでなく、

「格式」という様な意味もあります。

 

また、

「気品」はフランス語で”classe”

という意味だそうです。

 

そういう風に見ても、

フルニエの個性はクラシック音楽の王道なのかもしれません。

 

 

 

ここで、そもそも「品」とか「気品」があるとは、

どういうことを意味するのか、

ちょっと考えてみます。

 

「品」とか「気品」の反対は「下品」ですね。

 

「下品」とは自分の目の前の欲望をコントロールできておらず、

それば表に出てしまっている状態です。

 

一方、「品」があるとは、

理性で目の前の欲望がコントロールできている状態です。

 

カザルスは、戦争における人の生き死にという次元、

「魂」という次元で世の中に影響を与えましたが、

 

これに対してフルニエは、

 

理性で自分をコントロールすることによって生まれる、

「品」という、

戦争が終わった後にも、戦争を再発させない様な、

平和を維持する為の基本中の基本という意味で、

世の中に影響を与えました。

 

これもまた、カザルスが残したものと同じく

大切なものであり、貴重なお手本であると思います。

 

 

生来か、親の教育かが良かったのか、その両方か、は分かりませんが、

おそらくフルニエは、小さい頃から、

人よりも自分を理性で律することができたのでしょう。

 

その長年の積み上げではじめて、

人格そしてチェロの音の中に「気品」という光が輝き始めたのではないかでしょうか。

 

また、その「気品」の影にあるはずの、

葛藤や努力の積み上げは演奏だけからは分かりません。

 

光の裏には必ず影あるものです。

 

生身の人間の人生なので、

当然、気持ちがくじかれてチェロをやめようと思ったり、

辛い別れがあったり、

人生に絶望することがあったりと

色々あったはずなのですが、

 

フルニエを紹介するどの文章を見ても、

人生の苦労については、

9歳での右足の小児麻痺以外見当たりません。

 

そういう不幸を表に出さずに、一生を終えたのは、

人間の器が大きかったからでしょうし、

ものすごくクールというか、ダンディというか、カッコいいと思います。

 

唯一苦労を隠せないのが、

チェロの音色ですね。

 

チェロの音の中

そして一瞬のメロディとメロディの間の一瞬の間の中にだけ人生の重みがつまっている感じです。

 

そして、その重みと共に音が光輝く時があり、

そこが最高に好きなんですよね。

 

それらが無意識のうちに伝わって、

演奏が皆に愛されたのだろうとも思います。

 

理性で自分をコントロールして「気品」を得、

フォーレにも教えを得たフランス人チェロ奏者の

代表的な存在のフルニエ。

 

欲望にまかせて好きなように弾いてしまいやすい

アマチュア奏者としては、

定期的にフルニエのバッハを聴いて、

自分を律していきたいと思います。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

 

自分がチェロを弾くということもあり、

チェロの演奏に生かすという意味で

過去のチェロ奏者たちの軌跡を学ぼうといことで、

 

「偉大なチェリストたち」

というテーマで

チェリストをピックアップしていきます。

 

あくまでも私目線ですが、

人生全体から学ぶ視線で見ていきます。

 

 

ということで、初回はやはり

 

「パブロ・カザルス」

 

からです。

 

 

故郷のカタルーニャを蹂躙する

スペイン、フランコ政権に抗議して

天才の名を欲しいままにしながら演奏を休止したり、

 

世界的に評判を得た、

ピアノ三重奏のカザルストリオを、

バイオリンのティボーがナチスと

関わったことが解った時点で解散したり、

 

国連本部での、

故郷の鳥は「ピース、ピース」と鳴くと言った、

有名なスピーチと「鳥の歌」の演奏等、

 

政治や戦争に巻き込まれながらも、

自分の信条は絶対曲げない、

強い意志の持ち主でした。

 

 

また、

チェロの演奏面では、

 

非常に存在感ある音で、

一瞬でカザルスの音と分かる音の持ち主で、

 

命のやり取りをしかねないレベルの気迫と、

王の様な高貴さを兼ね備えた

音楽性を持ち、

 

チェロの旧約聖書と言われる、

バッハの無伴奏チェロ組曲の楽譜を発掘して、

演奏で世界に広めたこともあり、

 

現在のチェロ界の発展は、

彼の人生なくしてはありえないくらいの

人物です。

 

 

ここで、

「パブロ・カザルス」

の人生を、

スペインの内戦も含めて振り返ってみます。

 

カザルスは、

1876年にスペインのカタルーニャ地方の

アル・バンドレイに生まれます。

 

カタルーニャはバルセロナなどの大都市も擁しますが、

アル・バンドレイは、

地中海沿いのワインやオリーブ等の農業が盛んな地域です。

 

4歳からピアノを始め、

11歳でチェロを始めたカザルスは、

6歳から作曲を始めるなどすぐに特異な才能を見せ、

11歳から母の勧めでバルセロナの音楽院でチェロ、ピアノ、作曲を学びます。

 

そして、

13歳から同じく母の勧めでマドリードに移り、

王室からの庇護を受け始めたりもします。

 

20歳には、

バルセロナに戻って音楽院で先生をしながら、

演奏活動を始めます。

 

子供時代から王室の庇護を受け、

成人の頃には先生と、

私たちが名前を知っている昔の作曲家たちと同じく、

本当に早熟というか才能に溢れていたんでしょうね。

 

 

27歳のころ、15歳でバルセロナの楽器屋さんで見つけた、

バッハの無伴奏チェロ組曲を初めて公の場で演奏します。

 

今ではチェロの旧約聖書などと呼ばれていますが、

当時は誰も見向きをしない練習曲と思われていました。

埋もれていたこの曲を「音楽」として

発見してくれたカザルスには感謝しかありません。

 

 

28歳には、コルトー(ピアノ)、ティボー(バイオリン)

と組んでカザルス三重奏団を結成して、

室内楽でも活躍します。

 

31歳には、チェロソロと指揮者兼任での演奏会を行う等、

指揮者としての活動も始めます。

 

ここまで、その才能を生かして、

活動の幅を広げてきましたが、

43歳の頃に第一次世界大戦が始まった為、

一度カタルーニャに戻ります。

 

その後、53歳の時には

バルセロナという州都を擁するカタルーニャ州に

自治政府が出来、

カザルスは自分のオーケストラを率いて式典で第九を演奏します。

 

ここまでは、上り調子でした。

 

 

 

しかし、その後第二次世界大戦前夜のタイミングで、

スペインに内戦が始まってしまいます。

スペイン内戦は悲惨な状態だった様です。

 

ソ連が支援しアサーニャ率いる人左派の人民戦線政府と、

ドイツ・イタリアが支援するフランコ率いる右派の反乱軍

の2陣営に分かれて国土を取り合う戦争を初めてしまいました。

 

ファシズム対共産主義で、

今から見るとどちらが勝ってもやばそうですし、

戦いも激しそうです。

 

実際に相手の補給を断つ為に町を空爆したりとか、

民間人をたくさん殺害したりとかも

あった様です。

 

この内戦、

最初はフランコの反乱軍が劣勢でしたが、

 

反乱軍がドイツとイタリアの支援を得たことと、

敵対するソ連の味方をしたくない、

イギリスとフランスが中立になったこと、

そして、人民戦線政府へのソ連の支援は

あくまで有償でタダではなかったこともあり、

 

最後にはフランコの反乱軍が勝利します。

 

また、内戦の天王山であった戦いは、

カザルスの生まれ故郷であるカタルーニャの

エブロ川の戦いで、

反乱軍は30万の兵を送って、

州都のバルセロナ占領します。

 

この戦いで、

人民戦線政府を支持していた多くのカタルーニャ市民が

冬のピレネー山脈を越えてフランスに亡命しました。

(亡命後も、フランスがドイツに占領されてすぐには安住できなかった様です)

 

その後、イギリス、フランス、アメリカが

フランコ政府を承認して内戦が終了します。

 

内戦に勝利した後のフランコ政府は、

人民戦線側だった人たちを何万人と処刑したり、

 

人民戦線側だったカタルーニャの

カタルーニャ語の公的な場での使用を禁止するなど、

戦争が終わった後も、

フランコが亡くなってカルロス1世が独裁政治をやめるまで、

この過酷な状況は続きました

 

 

スペイン内戦の話が長くなりましたが、

 

62歳のカザルスは、

この戦争のためフランスに亡命し、

スペイン国境すぐの町であるプラードに移り住みます。

この国境の町で、スペイン内戦による難民の

救護活動もしていました。

 

その後、

第二次大戦が終わって、

演奏を再開しようとしてますが、

イギリス、フランスが

フランコ政権を認めてしまったことに抗議して、

演奏活動を休止してしまいます。

 

しかしここで、

自身もアウシュビッツで家族を失った

バイオリン奏者のシュナイダーの説得により、

73歳となったカザルスを音楽監督とする音楽祭、

プラード音楽祭が毎年開催されるようになります。

 

その後、

母の生まれ故郷であるプエルトリコに移住し、

80歳でほぼ60歳下のチェロの生徒だった

21歳のマルタと結婚します。

マルタもまた、プエルトリコ出身でした。

このプエルトリコでも音楽祭が開催される様になります。

 

その後、81歳で国連本部での伝説のスピーチと「鳥の歌」の演奏、

 

84歳にはホワイトハウスでケネディ大統領に招かれて演奏し、

私的に1時間程度会談するなど、

国際社会での活躍もありました。

 

同じく84歳の時には来日もしています。

 

最後は1973年、94歳でプエルトリコの病院で亡くなりました。

 

 

 

 

カザルスは、

音楽家やチェロ奏者である前に、

思想家であり、行動する人でした。

 

生まれ故郷がファシズム政権に蹂躙され、

それに抗議し続けるなかで、

戦争の悲惨さと平和の大切さを

身をもって味わい、

 

それを音楽の力で少しでも

変えていこうと

戦い続けた

誇り高い武人の様な人生であったのではないでしょうか。

 

音楽家であっても、

このような生き方できるんだなと感じさせられます。

 

 

チェロの演奏面で見ると

 

自ら編み出した効率的な左手の技術と、

常に中身のある音を出せる様な完璧で無駄のない右手の動き。

 

いつも姿勢が正しいままに保たれつつ、

肩の力無駄な力完全に抜けた、

アレクサンダーティニークのお手本のような構え。

 

半音を小さめ、導音を高めにとる、

メロディ重視の音程による表現

 

等々、

 

一つ一つが彼独自のスタイルというだけでなく、

その根底には常に

誇り高き武人の様な

自分が正しいと思ったことは命がけで貫くんだという

哲学が込められていて、

 

思想も行動も演奏スタイルも、

すべてが矛盾なく一つの個性を形成しています。

 

 

 

現代のチェリストがすべてその土台の上で

演奏しているという意味で、

宗教で言えば「チェロ教」の教祖的な存在です。

 

私がカザルスの演奏で

何度も聴いたのはやはりバッハです。

以降の演奏家には越えられない「何か」を持っていいます。

 

それは、

ものすごく存在感ある音、

強烈な個性、オリジナリティ

 

命のやり取りをしかねないレベルの気迫でしょうか。

 

 

 

思想家の松岡正剛さんは、

 

「カザルスは、どんな演奏家よりも

魂の打点が高いところを基準に弾きはじめている。」

(ホームページ「松岡正剛の千夜千冊」より)

 

と書かれていました。

 

この言葉がカザルスを一番よく表現していると感じます。

 

 

単なる「感情の表現」から「魂の打点の高いところ」へ、

 

クラシック音楽の存在意義という意味も込めて、

心の中にこの物差しを忘れずに持っておきたいと思います。

 

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

音楽を演奏する時の快感がテーマです。

 

 

まず、

演奏の時に心と体をどう使っているかです。

 

私自身の例で恐縮ですが、

 

オーケストラでチェロを弾くときに、

意識をどのように使っているか見てみます。

 

テンポの確認の為に、

指揮者を視界の隅に入れながら、

 

同時に楽譜の少し先の箇所を見ています。

 

そして、

フレーズの終わりが近くなると、

次のフレーズをどう作るか先にイメージします。

 

その時に先に気にすべき他のパート

をチェックしつつ、

 

体も、効率のいいフォームで演奏

できる様に注意を払っています。

 

 

という感じで、

色々と同時に処理しています。

 

周囲の情報、少し先のイメージ、

現在の身体の動作の複数の系統について、

同時に処理し続けている感じですね。

 

ここで見方を変えると、

 

少し先の音楽をあらかじめイメージの世界で形づくるのは、

音楽の物語を自分のものにする、

つまり、

主語を作曲家から自分に変換する行為です。

 

そしてタイミングがきたら、

体を動かして、音楽を現実の世界で形にする感じです。

 

 

音楽を聴く側も、時間は一緒ですが、

演奏者は音楽を先に「自分事」に変換しています。

 

指揮者のバーンスタインは、

マーラーの交響曲の指揮をするときに、

同じユダヤ人のマーラーが

今まさにその場で作曲しているかのように

指揮を振るそうです。

究極の状態だとそうなるのでしょう。

 

受け取って感動するところから、

自分の生で感動を「作り出す」ところまで、

演奏者になると飛躍します。

 

そもそもこういう演奏という創造行為は、

無から有を作り出すものであり、

神の性質に似通った行為です。

 

だからこそ「きもちいい」のでしょう。

 

ということで、

演奏での快感についてでした。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

今回は、「音楽はきもちいい」っていうテーマです。

 

音楽はなぜ聴かれるのでしょうか。

おそらく、世界中のどの民族においても演奏され、

聴かれている音楽。

 

その理由は、「きもちいい」からだと思います。

 

他の芸術、

例えば、

絵画、彫刻、写真という様な映像系

文学、演劇、映画などのストーリの有るもの

などありますが、

 

表現者と時間を共にし、

命を生きている感じを伴った「きもちよさ」は、

音楽に独特のものがあります。

 

しかも、多人数で同時に味わえ、

人数が増えるほど快感も大きくなります。

 

音楽の「きもちよさ」を感じている時に

脳の中で起こっていることは

また、後日詳しく書く予定ですが、

 

脳内でも特有の現象が起きたり

報酬系のホルモンが出ていることでしょう。

 

 

ここからは仮説、

というか私の考えです。

 

まず、脳内でこれが起きたから、

心はこうなる式の考え方は

科学的で一理あります。

そのホルモンや脳内現象に心が影響されますから。

 

しかし、心は脳の中だけには無く、

ネットのクラウド上みたいな別次元に

存在しているのではないかと考えます。

 

なぜなら、心のすべてが脳内にあるなら、

亡くなったばかりの人の脳から、

すべての記憶とか人格をとりだせるのか?

っていう話です。

 

たぶんそんなことは永遠にできないのではないか、

それだけの情報量は脳には保管できないのでは

と思います。

 

科学では今は検出できない魂みたいなものが

脳とはは別にあるというのが

私の意見です。

 

一方、脳にもハードとかプログラムが存在して、

魂と脳との合作で自我ができると考えています。

 

 

で、

自我は普段は魂と連絡がうまく取れないのですが、

音楽を聴くことによって、

自我が魂と繋がれる、

という機能を音楽は持っている。

芸術の中で一番強力に持っている

のではないでしょうか。

 

なので、

神を常に感じている側の魂とすぐ共鳴することが可能な、

「音楽」程、「きもちいい」芸術はないのかなと思います。

 

しかし、いかに神と共鳴するかが、

難しいところで、

歴史上の音楽家が皆んな目指してきたのかと思います。

 

また、

複雑になった現代音楽は、

これまでの音楽陳腐化し始めていることの現れかもしれません。

さらに高いもの深いものを人類が求め始めたことの証かと思われます。

 

今回はこんなところです。

 

それでは。

 

ようこそ、ひでちぇろブログです。

 

若干唐突ですが、

今回は音楽とお金の話です。

 

音楽とお金は、似ているところがあります。

それは、

 

「人を幸せにしながら世の中を

循環する」ところです。

 

ちょっと抽象的なのでもう少し説明します。

 

まず音楽です。

私が関わっているクラシック音楽を

例にとります。

 

作曲家

楽譜

楽譜が出版され、

世界に行き渡る

各地で演奏される

聴いた人が幸せになる

その曲を聴いて感動し、

別の人が作曲家になる

(戻る)

 

という感じです。

 

音楽は世の中をめぐってみんなを幸せにしています。

 

ベートーベンだと

200年くらい人を幸せにし続けてます。

 

 

次はお金です。

 

例えば、ピアニストと料理人がいたとします。

(単純化の為に人を二人に限定します)

 

ピアニストは一万円持っていた

お腹が空いたので、

料理人に一万円払って料理を

作ってもらい、食べる。

料理の疲れを癒す為、

一万円払って

ピアニストに癒し系の曲を弾いてもらう。

 

と、

ここまでで、

一万円を循環させることで価値を交換し、

ピアニストも料理人も

幸せを受けとれました。

 

こう見るとお金は本来汚いものではなく、

価値(幸福)を交換するための

ニュートラルなものです。

 

しかし、世の中では、

音楽はと違って、

お金はダーティなイメージも持たれています。

 

なぜでしょうか?

 

私は、

資本主義における、

お金を巻き上げていく社会の構造に一因があるのではないかと考えます。

 

言い方を変えると、

お金は人を奴隷のようにできるものだからです。

 

資本主義の世の中では、

お金を沢山持つ人が人にお金を貸せば、

利息が帰ってきます。

 

株式なら配当が返ってきます。

 

たくさんのお金で会社を作って人に働いてもらってもいいです。

 

これらのことで、

「何もしなくても」お金が手に入ります。

不労所得ですね。

 

もっと言うと通貨を発行している人は、

お金を発行するか、

貸すかだけで「何もしなくても」お金が増えていきます

これも不労所得です。

 

その分、他の真面目に働いている人が、

余計に働いてカバーしている訳です。

 

人に働かせて利益だけもらうていうのはたしかにダーティです。

しかも、昔からその地位を争って殺し合いとかも起こってきました。

 

というふうに、

自分は楽して人に稼いでもらおうっていう

人間のブラックな側面も反映されるので、

資本主義社会では

お金はダーティなものとみなされやすいです。

 

しかし、現代の資本主義を変えるのは我々には不可能だし、

大量粛清の共産主義よりもまだましかもしれません。

(イデオロギーの話が目的ではないです。)

 

もう、世界は完全に資本主義に覆われてますが、

100%悪いことばかりではないと、私は思っています。

なぜなら、もっとひどいシステムが世の中にはあるだろうし、

それなりの自由もあって平和に暮らせているので、

最低の状態ではないと思うからです。

 

また、その中で日本に住んでいることも、

世界の中で見れば相当ラッキーな方かと思います。

 

 

 

 

ここで、

アマチュアの音楽活動をしている人間として、

今の日本の資本主義社会の中で問題点を挙げるなら、

お金だけでなく、

たくさんの人生の時間を巻き上られすぎることです。

 

しかも、不定期に出張や休日出勤させられたり、

転勤で住む土地を強制的に変えさせられたりというのもあります。

 

時間的、地理的な自由度の低さです。問題は。

(逆らって一度やめたら同じ条件で雇ってもらえない状況も含めての不自由さですね。)

 

アマチュアでの音楽活動には、

・時間

・お金

・空間

・人(コミュニティ)

 

が必要ですが、

今の現状だと圧倒的に「時間」が不足します。

ここまでが、問題点です。

 

そしてここからが、

この状況をどうブレイクスルーするか?

です。

 

資本主義では、

末端にいる一般の人から、

労働を介して不労所得を得る構造ができあがっています。

 

こういう「縦」方向のお金の流れに身を置くと、

ぜったいに自由は得られません。

(上澄みに位置しない限りは)

 

これに対して、

一般の人達だけの間でも沢山お金、

価値が流れています。

「横」方向のお金の流れですね。

 

この「横」の流れを少しだけ自分経由にして、

関わった人だけを幸せにしようという生き方が存在します。

 

インターネット経由の情報発信で対価をもらうやり方です。

自分自身をコンテンツにして情報発信し、

一部の人をにだけ自分経由で幸せを届けます。

 

実際、これで不労所得を与える分は働かなくて済みますし、

インターネット経由に多数の人を同時に相手にできるので、

うまくできれば、たくさんの自由時間が手に入ります。

 

資本主義的な上納構造から解脱できる道として、

一考に値すると考えます。

 

 

お金の話、またそのうち続きを書くかもしれません。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ。

 

さっそくですが、マーラーの続きです。

前回は、マーラーの人生、アルマとの関係について書きました。

 

 

まず、ドイツ音楽の中でのマーラーの位置づけについて見ていきます。

 

バッハの時代は貴族や教会に雇われるしかありませんでした。

しかし、

ベートーベンで初めてフリーの作曲家という地位を確立して権力から開放されます。

 

そして、バッハでは世間に認められませんでしたが、

ベートーベン、シューベルトで

音楽は神から開放されて

個人の自我の成長について書くことが出来る様になりました。

ドイツ音楽の前半でまず自我が開放されるわけです。

 

その後、メンデルスゾーン、シューマン、ブラームスの絶対音楽の世界、

ワーグナーやRシュトラウスの文学的要素を伴った世界、

巨大なスケールと聖なる世界のブルックナー、

という、流れがありこれらが一度集約するのがマーラーです。

 

その後、シェーンベルク、ベルク等の無調の十二音階の世界や

古典的な色合いを残したヒンデミット等に続きますが、

無調の世界はまた別世界の音楽とも感じられます。

(個人的な感想です)

 

 

 

 

次に、音楽における「成長」(弁証法的発展)についてです。

 

同じドイツ系の作曲家では、

バッハ、ベートーベン、ブラームス等でも

表現されていますが、

 

苦難、癒し、歓喜の規模や程度が最もすさまじいのが、

マーラーの特徴かと思います。

 

この最も深くて大規模な「成長」は、

まさに、

哲学者ヘーゲル大先生の言う、

テーゼ→アンチテーゼ→ジュンテーゼ(正反合)の

「弁証法的発展」であり、

「成長」であり、

「人間の存在理由」であり、

「宇宙の存在理由」です。

 

そしてこの、

「弁証法的発展」の深さが、

さらに一曲ごとに「弁証法的」に発展していくという、

感じですね。

 

そして最後の終着点が10番の5楽章です。

現世での成長を繰り返し、

やっと「彼岸」に「帰って来た」という感覚です。

 

マーラーの交響曲のおかげで、

自分の人生にいくら破壊的なことが起きても、

最後は癒されて成長して歓喜して、

帰れるんだという勇気がもらえます。

 

バッハでの普遍的な成長の表現。

古典派での権力からの開放。

ロマン派での個人の感情の神からの開放

と来て、

マーラーでは、

人生での成長から死

そして人生からの開放と彼岸への帰還まで到達しました。

 

 

 

 

ここで、私とマーラーの音楽について書いていきます。

 

まず、私のマーラーの音楽との出会いですが、

高校時代に若杉指揮ケルン放送交響楽団で、

マーラー交響曲第9番を聴きました。

 

高校の授業の延長で聴きに行ったのですが、

マーラーについてのなんの予備知識もなかったので、

こんなにすさまじい世界があるのかと衝撃的でした。

 

そして、演奏後に30秒くらいの静寂があり、

異様なまでの静寂でホール全体が一体となった感覚は、

いまでもリアルに思い出せます。

この体験でマーラーが好きになりました。

 

次に、

仕事で行き詰まり自殺も考えた時期のこと。

 

もう耐えられないと思い、

車を富士五湖まで走らせ逃避しました。

しかし、ずっと富士山を見ていても、

どうすることもできず、結局車で家に帰ります。

 

高速道路を使って帰る途上、

聴いたことは無いけれど、

いかにもマーラーっぽい曲がFMでずっと流れていました。

曲は最初、暗闇や霧の中にいる感じでしたが、

最後、爆発的歓喜と癒しと希望で曲が締めくくられます。

 

これを聴いて、

とりあえず、まずは明日も生きていこう。

と力づけられたのが、

交響曲第2番「復活」です。

 

と、

すべて紹介すると長くなりますので端折りますが、

 

311の後で、長期間のパワハラに会って、

ほぼ、うつ状態の時に、

彼岸では必ず救われると思わせてくれた、

演奏会でチェロトップをやった交響曲第10番。

 

母が他界した時に、

今、母はきっと青空の上の様な天上の世界で

安らかに過ごしていると思わせてくれた、

チェロトップで経験した交響曲第3番。

 

等、人生の「底」で必ずマーラーに救われています。

どん底で光をくれる作曲家です。

 

 

 

ここまで、私なりにマーラーについて、

見てきましたが、

 

マーラーという人は、物事を生き死にの様な

大本から見ていると感じます。

その大本から真理を物語ろうとして、

巨大な交響曲が生まれているのでしょう。

 

また、アルマへの愛、執着についてよく語られますが、

愛、執着を入り口にして、

物事の本質や、聖なるものへ至ったのが

マーラーの音楽の特徴でもあります。

 

人生の苦労や満たされない執着など、

底を体験したからこそ到達できる聖なるものを表現し、

人間の普遍的な成長サイクルを

バッハより一回り大きい形でリアルに描き出した作曲家マーラー。

 

今後も人生の成長サイクルを繰り返しながら、

一生付き合っていきたいです。

 

 

 

 

これで、「ドイツ音楽の系譜」シリーズを終わります。

ここまでお付き合いいただいた皆様、

どうもありがとうございました。

 

それでは。

ようこそ、ひでちぇろブログへ!

 

今回はとうとうこのシリーズ最後の「グスタフ・マーラー」です。

少々長めになるので、2回に分けて書きます。

 

 

偉大な指揮者、ハンス・フォン・ビューロー曰くの、

ドイツ音楽の三大B(バッハ、ベートーベン、ブラームス)が

ドイツ音楽の偉大な作曲家であり屋台骨であるとよく言われます。

 

これに対抗ではないですが、

私個人にとっては、

ドイツ音楽の三大M(モーツァルト、メンデルスゾーン、マーラー)もまた、

同じくドイツ音楽をけん引した作曲家達だと考えています。

 

そして、3大Bと3大Mのオオトリを務めるのか、

このマーラーな訳です。

 

これまでのドイツ音楽のすべてを受け継ぎ、

極限の苦痛と究極癒しを音楽で表現し、

巨大な規模の交響曲で真理を探究し、

真理を物語った作曲家です。

(激酸いも激甘いもかみ分けた、っていうところでしょうか。)

 

 

 

というわけで、

まずはマーラーの人生を見ていきましょう。

 

1860年チェコのイーグラウ近郊、カリシュトという村で

ユダヤ人の家に生まれます。

(バッハが亡くなって110年も後です。)

 

父ベルンハルトは精力的な人物で後に酒造業で成功しました。

子供にも夢を託し、マーラーが良い音楽教育受けられる様尽力しました。

母は病弱でしたが、マーラーは強い愛情を感じていました。

 

そして、これまでのドイツ音楽の作曲家同様、

まずはピアノの才能で幼少期から頭角を現します。

 

10歳でイーグラウ市立劇場の音楽会にピアニストとして出演し、

11歳にはプラハで音楽を学びます。

15歳でウィーンの音楽院に入学し

16歳にはピアノと作曲で1位をとります。

すでにエリートコースですね。

 

17歳にはウィーン大学に入学し、ブルックナーの和声講義を受け、

その後もブルックナーとは交流が続きます。

 

そして、23歳以降、

カッセル王立歌劇場でベートーベン第9とメンデルスゾーン「聖パウロ」の指揮に成功

→ライプツィヒ歌劇場の楽長→ブダペスト王立歌劇場の芸術監督

→ハンブルグ歌劇場の第一楽長

 

と、各地の歌劇場で指揮者として、経済的には苦しかったようですが、順調に経験を積んでいきます。

 

ついに36歳で、

指揮者としては頂点とも言える、ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督に就任します。

また、38歳でこれまたオーケストラの最高峰である

ウィーンフィルの指揮者となります。

まさに指揮者としてこれ以上ないところまで昇りつめます。

 

この時期には交響曲の創作も始めており。

28歳で交響曲第1番「巨人」、

34歳で交響曲第2番「復活」、

36歳で交響曲第3番、

38歳で交響曲第4番までを作曲しています。

頂点に登りつめる頃に前半の主要な交響曲は書かれていました。

 

私生活面では、28歳で父、母共に相ついで亡くなるという不幸も経験しています。

 

40歳には、残念ながらウィーンフィルの指揮者を辞任します。

団員との折り合いが悪かったようです。

 

そして41歳に、画家の娘で、当時の社交界のアイドル的存在だった23歳のアルマと結婚します。

 

その後交響曲第5番、交響曲第6番、交響曲第7番と作曲し、

音楽監督の仕事では皇帝フランツヨーゼフⅠ世から勲章授与するなど、

仕事面でかなり順調でした

 

 

しかし、マーラーの高圧的な態度により、

アルマとの結婚生活は段々と冷え切っていきます。

一方的に苦労を掛けすぎた様です。

 

47歳にはジフテリアで長女が亡くなり、

本人も心臓病と診断されました。

 

また、宮廷歌劇場も確執の為、辞任させられ、

と、一挙に不幸が押し寄せます。

 

その後アメリカに活路を見出そうとします。

 

 

最初はメトロポリタン歌劇場、その後はニューヨークフィルで指揮しました。

モーツァルト、ワーグナーのオペラやブルックナーの交響曲を指揮して評価を受けました。また、交響曲第8番「千人交響曲」、「大地の歌」もこの時期に作曲しました。

 

渡米の合間には、49歳で交響曲9番を作曲しました。マーラーの交響曲中でも最高峰といえる作品です。

 

50歳になり、神経症に悩まされていた為フロイトの診察受けたりもしました。

また、ミュンヘンで自作の交響曲第8番「千人交響曲」を指揮して

熱狂的大反響受けます。

自分の曲が熱狂的に受け入れられたのは

これが初めてだったのではないでしょうか。

 

 

しかし、病が悪化し、その演奏会の8か月後に51歳目前の1911年5月8日、

ウィーンにて亡くなります。

 

 

 

 

ここで、

マーラーとアルマの関係について書いておきます。

マーラーの音楽を知るのになくてはならない要素だからです。

 

出会いはウィーン大学の社交界(サロン)でした。芸術家のサロンです。

22歳のアルマはこのサロンの中で、

美人の呼び声高く引く手あまたでした。

 

一方、40歳で、ウィーン宮廷歌劇場の指揮者で、

マーラーはまさに音楽界の頂点に昇りつめたところでした。

 

アルマは最初のマーラーからの求婚は断りましたが、

その後マーラーは高圧的、支配的ともいえる態度の手紙を何度も送って求婚し、

とうとうアルマは求婚を受け入れます。

 

高圧的、支配的な手紙に対し、

むしろ支配されたい、尽くしたいという気持ちが芽生えたのかもしれません。

41歳と23歳の、18歳差の年の差婚でした。

その後、2人の女子を授かります。

 

しかし、

マーラーは支配的な態度のままで、アルマの献身的態度に答えなかったこと、

借金、育児、マーラーとの交友関係の不一致などで、アルマに心労がたまります。

 

しかも、マーラーとの仲が冷え切ったころ、

アルマの前に建築家のグロピウスが現れて求愛され、

アルマも惹かれ始めます。

 

このことを知ったマーラーはアルマを失う恐怖で神経症の症状がひどくなります。

(ずいぶん自分勝手ですが)

 

また、このころ心臓病の診断を受けていたので、

自分の生命と妻アルマを共に失う恐怖にさいなまれました。

 

音楽としてはまさにその時期に、

「大地の歌」、最高峰の交響曲第9番、そして10番(未完)という重要な作品を作曲しました。

 

この3曲はアルマを失う恐怖と、命を失う恐怖を抱きながら書かれました。

それまでも、優美なメロディーはアルマを想って書かれたと思われるものがあり、

アルマを失う恐怖がマーラーに曲を書かせたことから、

アルマ無くして、マーラー無しとも言えます。

 

また、マーラーが凡人ではなかったのは、

「アルマを失う恐怖」=「性、愛」への執着、

というテーマで音楽を終わらせなかったことです。

 

このテーマを掘り下げていくと、

「性、愛」→種の保存→生命の創造→神の領域→「聖」

 

と、「聖」なるものに到達します。

 

 私たちの中にある、

嘘偽りのない欲求であり、

抑圧されやすいが人類を成長させるための神の要素でもある、

「性、愛」。

それから「死」。

マーラーはこれらを最晩年の作品で「聖」なるものにまで昇華させました。

 

そして、偉大なる創造者であるマーラーにとって、

アルマこそが大きな創造の源でした。

 

以降、後半に続きます。