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偉大なチェリストたちシリーズ、今回は、「ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ」です。

 

 

2007年に亡くなりましたが、彼はいまでもチェリストの王様であり、かつチェロを楽器の王様にした人です。

 

圧倒的な音楽性、音量、技術を持ち、モスクワ音楽院ではマイスキー始め多くの一流チェリストを育て、200曲以上の曲を世界初演しています。

 

現代のチェロの世界は、カザルスが始めてロストロポーヴィチが完成させたと言えます。

 

人となりとしては、愛情の塊で、チャーミングで周りを明るく照らす、太陽の様な性格であり、学生時代のあだ名は「ひまわり」でした。

 

それではまず、彼の人生を見ていきましょう。

 

 

 

 

1927年3月、旧ソ連、アゼルバイジャンのバクーに生まれます。

 

4歳でピアノを始め、7歳でチェロ、10歳には作曲学び始めます。

 

父がソロにオーケストラにと活躍するチェリストだったので、父からチェロを教わります。彼は、父を尊敬していて、いつも教えてもらうのを楽しみにしていました。

 

14歳のころ、ドイツのソ連への侵攻で一度疎開します。そして、15歳で尊敬する父が倒れ、亡くなってしまいます。しかし、辛い戦時中に助け合う人々見て人の善意というものを信じる様になります。

 

16歳で戦況が好転し、モスクワ音楽院に入学します。ここで、作曲家のショスタコーヴィチと出会います。

 

18歳で全ソ連音楽コンクールで優勝します。

 

23歳でバッハの活躍したライプツィヒ(当時の共産圏である東ドイツ)に行き、バッハのお墓のある聖トマス教会などを見ます。この後、バッハを真面目に勉強すべきとして全曲演奏会を開いて成功し、スターリン賞を受賞します。しかし、本人としては録音の自信までは持てず。録音を発表したのは相当後の60代でした。

 

29歳でモスクワ音楽院の教授に就任します。その後、後進の指導、賞の受賞、指揮者デビュー等、活躍を続けます。

 

32歳でショスタコーヴィチが作曲してくれた、チェロ協奏曲第一番を弾きます。(アマチュアにはほぼ演奏不可能な、超難曲で名曲です。)

 

43歳、名声実力共に頂点だった時に文学者のソルジェニーツィンを擁護したことで反体制のレッテルを張られて演奏活動が出来なくなります。

 

47歳で西側に亡命します。出国前のモスクワ音楽院でのさよならコンサートでは皆がすすり泣き、行かないでの大合唱になったそうです。

 

50歳でアメリカに渡り、ワシントンナショナル交響楽団の指揮者に就任します。

 

63歳でゴルバチョフ体制となって開放政策が取られたため、自分のオーケストラとなったワシントンナショナル交響楽団を率いて帰国し、凱旋演奏をします。

 

68歳で来日した時に、阪神淡路大震災追悼演奏会を小澤征爾と共に開きます。(テレビで見ました。追悼の為に弾いたアンコールのバッハ作曲無伴奏チェロ組曲2番サラバンドは、魂に響きました。)

 

78歳での来日時、神戸で1000人のチェロによる演奏会の指揮を振りました。

 

80歳、モスクワで亡くなりました。

 

 

 

 

ここでまず、私が実際に生で見て聴いたロストロポーヴィチの印象をご紹介します。

 

始めて生で彼の演奏に触れたのは、東京文化会館でのピアノ伴奏での演奏会でした。ロストロポーヴィチ65の時です。

 

他に聴いたことのあるすべてのチェロ奏者の演奏を圧倒する迫力で、音楽の密度、説得力、音量が「すごい」という感じでした。

 

演奏の後に、楽屋の出口で出待ちしたのですが、ロシア語で感激を伝える女性ファンにを抱き締めて頬にキスしたり、満面の笑顔で大声で弾丸の様にロシア語で何かを話したり、周りの人間は全員ロストロポーヴィチに視線がくぎ付けでした。

ものすごくパワフルですぐに周りの人たちを巻き込んで幸せにしてしまう様なキャラクターの人でした。

 

ロストロポーヴィチが70歳の時に、東京御茶ノ水のカザルスホールで彼の公開マスタークラスが開かれたので見にに行きました。(ちなみに公開で受講したチェリスト2名は、今ではオーケストラのトップや、ソリストとしてその界隈では良く名前の知られた方です。)

彼がチェロの受講生達に言っていたのは、もっともっと、どんどん表現しなさい、スケールをもっと大きく、楽器も身体全体を使って弾きなさい、ということを言っていました。

 

また、クラスを終えた後の最後の言葉で、「音楽は奏者と聴衆を結ぶ架け橋であり、感動は音楽を通じて必ず聴き手に伝わると信じている」という言葉がありました。この言葉は今でも胆に命じています。

 

 

 

 

次に、彼の音楽に対する姿勢が分かるエピソードをいくつか紹介します。

 

世界的な指揮者、小澤征爾さんの言葉から。

「彼が、まさに命がけで音楽に取り組んでいた姿を見て、私も少しでもスラーヴァに近づこうと、一生懸命音楽に打ち込んできました。」

(エリザベス・ウィルソン著、木村博江訳、「ロストロポーヴィチ伝」より)

 

小澤さんとロストロポーヴィチは仲が良く、よく一緒に活動していましが、小澤さんから見ても「命がけ」であり、お手本だったのですね。

 

 

ロストロポーヴィチ本人の言葉から。

「私はどんな曲でも、第一音を弾くとき最後の音をどう弾くべきかすでにわかっている。それがわかったら、あとは中間を埋めていくのが演奏家の仕事だ。」

 

「私はいつも音楽の中に作曲家の顔が浮かび上がるほど、その存在をはっきり感じる様にしている。それを通して作曲家の話し方や姿形(言い換えれば、彼の全人間性)と、音楽の中に表現されている彼自身との間に、橋をかけるのだ。」

 

「シューマンの協奏曲の出だしは、とても内密で深い・・・一小節目をどう弾くかで、演奏全体が決まる。」

(以上、エリザベス・ウィルソン著、木村博江訳、「ロストロポーヴィチ伝」より)

 

これらの言葉から分かるのは、彼は作曲者の全人生、人間性を理解し、曲全体のイメージを作り上げて、そのうえで最初に一音の音を出すべきだと主張していることです。

たしかに、音楽って、最初の一音が後の方向性をすべて決めてしまうところがありますが、成り行きで無意識に音を出している部分が必ずどこかにあるので、本当に彼の言う通りにできれば飛躍的に演奏の質は向上しそうです。

 

現在では最高レベルのチェリストであるあのマイスキーでさえ、ロストロポーヴィチのレッスンでシューマンのアダージョとアレグロを弾いた時、頭の中ですでに雰囲気を作らなければならないと、容赦なく何度も何度も最初の一音ばかり弾かされたというエピソードも残っています。

 

 

最後に、

ロストロポーヴィチは、音楽で神とつながる幸せである感動を、世界中の人に届けるという大きな欲望、大欲に生きた人であったと思います。

 

また、単に音楽だけでなく、人生レベルで人を理解し、感動を共有することの大切さを教えてくれました。

 

そして、その感動を伝えるには、音の初めで終わりがイメージくらい、細部も全体もすべてが高度に演奏者によって作られている必要があるということでした。

 

言い換えると、

作曲者の音楽だけではなく、人生、つまり生き死にのレベルまで奥行を拡大して理解しようとすること。そして、弾き始めた時には終わりのことが分かるくらい、その音楽を身体に入れること。生き死にレベルの共感と、それを自分のものにする努力で、感動が伝わっていくということだと思います。

 

ロストロポーヴィチの場合、

そうやって音楽で伝わった感動=愛情がみんなを幸せにし、その幸せが演奏者に帰ってきて、幸福の循環が生まれ、それがどんどん大きくなっていってものすごいエネルギーになったのでしょう。そして、それでも我を失わずにチャーミングさを失わなかった器の大きさがあったのでしょうね。

 

晩年にロストロポーヴィチが「キャラバン」と称して、少な目の人数の音楽家で日本の田舎を演奏して回るのをNHKのドキュメントで見たことがあります。この時に寺の本堂の中で、サンサーンスのチェロ協奏曲のチェロソロを笑みを浮かべて弾くロストロポーヴィチの映像を見ましたが、まるでダライ・ラマみたいな宗教指導者の様な光を放って見えました。

 

人間、目的小さいとエネルギー切れしてしまいます。特にサラリーマンや主婦をやりながら音楽もやる様なアマチュア演奏家は、曲を理解せずに演奏で曲を消費する感じになって目の前の音楽をこなすだけになってしまいがちです。

 

ですので、せっかくのロストロポーヴィチの人生を参考にして、アマチュアであっても、少しづつでも、音楽による幸福が循環が出来るように、活動できたらと思います。

 

それでは。