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チェコ出身のユダヤ人で、チェロの技巧を極限まで極め、向上させたチェロ奏者「ダーヴィト・ポッパー」(1843-1913)です。

 

 

それでは、ポッパーの人生を見ていきます。

 

1843年プラハのユダヤ人街に生まれます。

 

父はユダヤ教寺院で祈りを先導して聖歌を歌う、カントルという仕事をしていました。

まだこのころはユダヤ人が公に差別されていて、居住区の外に出るには黄色い星の標識を身につけることが義務付けられていました。

 

3歳には父の歌う聖歌を正確に真似て歌えるようになり、

 

5歳でピアノの即興演奏ができる様になります。

 

12歳でプラハ音楽院でチェロを学び始めます。この時の先生は、フランスのデュポール弟とドイツのロンベルグ両方の直系の弟子である、ゴルターマンでした。

 

まさにチェリストの歴史を作ってきた人たちの直系です。

 

その後、18歳でドイツ南部の地方都市、レーベンスブルクの礼拝堂楽団に入ります。

 

ワーグナー、ベルリオーズがここに指揮者として訪れた時には、ポッパーの演奏に賛辞を送ったそうです。

 

当時最高の指揮者、ハンス・フォン・ビューローがフォルクマン作曲のチェロ協奏曲を初演のする時、チェロのソリストに、5歳上のダヴィドフでなく、若いポッパーを選びました。すでにこの時点で最高のチェリストと認識されていました。

 

そしてその演奏は、

「それはまれにみる満足すべき演奏だった。素晴らしい才能、美しい音と驚くほどのテクニック…」

(マーガレット・キャンベル著、山田玲子訳、「名チェリストたち」、東京創元社刊)

と、ビューローに言わせるの名演奏でした。

 

その後、25歳でウィーン宮廷歌劇場の首席チェリストに就任します。

作曲家のシューマンも一時期主宰していた「新音楽時報」にも、ウィーンに優れたチェリストがやってきたことへの歓迎と賛辞の記事が書かれた記録が残っています。

 

30歳になり、広く活動する為にウィーンを去って、ヨーロッパ各地への演奏旅行に出かけます。この時には、イギリスやロシアにも足を運びました。

 

43歳の時には、プラハ出身の若い女性と2回目の結婚します。(1回目のピアニストとは破局しています)。そして、ハンガリー王立アカデミーのチェロ教授となります。

 

ハンガリーではブタペスト弦楽四重奏団を結成ましたが、この四重奏団に作曲家のブラームスがよく加わりました。ピアノ3重奏を初演したりと、多くのブラームスの作品も紹介されました。ブラームスのチェロソナタ第2番もブラームスの伴奏で演奏しました。

 

48歳でイングランド、スコットランド、アイルランドに演奏旅行します。国中のチェリストが聴きに来たそうで、「チェリストのサラサーテ」などと呼ばました。

 

52歳の時、ブタペストの貧しい人たちの為のサナトリウム建設チャリティコンサートで、当時18歳だったハンガリーを代表する作曲家のバルトークと共演しました。バルトークは母への手紙に、本物のの演奏家と一緒に演奏できたこと、楽しい人と知り合いになれたこと、ポッパー自宅の練習で何度もありがとうを言われたことなどの喜びを書き記しています。

 

67歳で一人息子を失ってしまいます。これは相当なショックだった様です。

 

69歳で凍った路上で転んで右腕を骨折し、チェロが弾けなくなってしまいます。その年の70歳の誕生日にオーストリア・ハンガリー帝国の皇帝から最高栄誉の「宮廷顧問官」を称号を授与されますが、たった2日後にウィーン近郊のバーデンにて心臓発作で亡くなります。

 

 

 

 

次はポッパーの音楽についてです。

 

彼は、たくさんの技巧的な小品、チェロ協奏曲等を作曲しました。また優れた練習曲も書きました。

 

小品で最も有名でそして素晴らしいのは「妖精の踊り」かと思います。この曲は、エレキギターの速弾きとかいう次元ではなく、超高音、超高速で目にも止まらない超絶技巧の曲です、ロストロポービッチ演奏のユーチューブの映像を見ると、人間技を超えている感じで目が点になります。

 

また、40の練習曲は、チェロの技術の発達の中で非常に重要な位置を占めていて、いまでも音楽大学でのソリスト養成の為の必須の課題となっています。

 

 

ブログの題名に「カザルス以前」と書きましたが、ポッパーの活動していた時期とカザルスがデビューした時期は少し重なっていました。彼は若きカザルスの演奏を聴きに行きましたが、感銘はしたものの「素晴らしいことばかりなのに、彼はわたしの心を打たなかった」と言ったそうです。

もしかしたら、自分の思い描いていた音楽の理想と、これからの時代の音楽の間に隔たりを感じ、自分の中で消化しきず、納得しきれないところがあったのかもしれません。

 

次の時代を作ったカザルスとは方向性が異なったのかもしれませんが、ポッパーにはオーケストラ曲を聴き覚えだけで一流ピアニスト顔負けのフレージングで弾くことができるような、モーツァルトやメンデルスゾーンのにもみられる天才的な能力の持ち主でもあり、ハイドンやシューマンの協奏曲を名人芸的技巧から解釈を重視する芸術として演奏した最初のチェリストでもありました。

 

これだけの才能と功績を考えると、チェロの音楽の大きな流れをカザルスにバトンタッチする前の最後の一人だったのかもしれません。

 

 

 

 

ポッパーの人となりですが、

 

背が高くて二枚目、そしてステージに上がると誰も抵抗し難い様なカリスマ性を持っていたそうです。そしてどんな話題にも対応できる会話上手で、人の話もよく聴いてあげられる人でした。非常に礼儀正しい人だった様です。

 

そして、彼のユダヤ人としてのエピソードが一つだけあります。

 

1880年代、ポッパーが演奏旅行していたロシアでは、労働者の運動に対抗したアレクサンドル3世によってロシア国内の単一民族支配が強化され、その影響でユダヤ人が迫害されていました。演奏旅行先のオデッサで、裕福そうな紳士からユダヤ人の歌であるコル・ニドライの演奏を頼まれ、父が歌っていた聖歌のメロディーを記憶から奏でると、その人は感動に涙して大金を渡していったとのことです。

 

やはり、ポッパー自身は成功していましたが、大半のユダヤ人同胞はヨーロッパのあちこちで迫害を受け、ポッパー心を痛めていたのではないかと想像できます。

彼自身もヨーロッパの各都市でユダヤ人が強制的に住まわされた居住区である、ゲットー出身です。幼い頃には理不尽さや世の中の矛盾にたくさん直面したであろうと思われます。

 

しかし、彼には、モーツァルトやメンデルスゾーンにも与えられた様な、聴いた音楽をすべて正確に記憶する能力や、チェロという武器が与えられました。

 

また、背も高くて、見た目も二枚目で、高いコミュニケーション能力を持ち合わせていました。

 

彼は、ゲットー生まれのユダヤ人であることの逆境にひるむことなく、すべての才能を生かして、チェロを通して自分を表現し、世界に貢献しました。

 

傍からみれば才能がある恵まれた人にしか見えなかったかもしれませんが、スタート地点は差別された境遇であり、同胞を不幸にした世界に対して一矢報いる意味も込めて、彼なりに人生でやり抜き、成功しなければならないモチベーションが有ったのだと思います。

 

 

 

ここで恐縮ながら私自身の話ですが、20代の頃、音楽、とくにチェロの演奏にのめり込みました。20代で就職してから、大人の世界の厳しさ、資本主義社会の矛盾を嫌というほど味わいました。

 

内向的で世間知らずでコミュニケーションも不器用だった自分は、世間から否定された様な感覚を味わい、社会に適応できませんでしが、逆にそれがモチベーションとなり、自分のアイデンティティとなった音楽にのめり込み、今まで生きて来ました。これまで生きるモチベーションを維持してこられたのも、音楽のおかげと思っています。

 

 

 

才能やスケールは全く別次元ですが、ネガティブに始まった人生を音楽でポジティブに変えて、才能生かして強く生き切ったポッパーの人生に強く共感します。

 

ポッパーの作品そして功績も、時代の近いカザルスにかき消されることなく、これからの時代にも残っていってほしいと思います。

 

 

それでは。