ようこそ、ひでちぇろブログへ!
今日のテーマは、
「美のイデア」と「音楽」についてです。
まず、「イデア」とは何か?ですが、
これは、古代ギリシャの哲学者でソクラテスの弟子である、
プラトンが提唱した考え方です。
天を指している左側の人がプラトン、
地を指している右側の人がプラトンの弟子のアリストテレスです。
ざっくり言うと、プラトンが天上界をスタート地点と考える「観念論」、
アリストテレスは現実世界から物を考える「唯物論」、
と、このころから現代までずっと、
物事の見方が二つに分かれています。
現代なら、科学か宗教かでしょうか。
「イデア」に戻りますが、
これは、プラトンの哲学で出てくるもっとも重要な概念です。
通常我々が見聞きしているものは、
その真の姿を捉えておらず。
魂の目でしか見えない純粋な形、完全なもの、
を「イデア」と呼びます。
「イデア論」のその前提は、
哲学というよりだいぶ宗教的だと思います。
プラトンによると、
我々は天上界にいて、本来の姿「イデア」を見ていた。
しかし、天上界を追放されて、地上界に来た。
その時に、見ていた「イデア」を忘れた。
しかし、視線を魂の内面に向けて、
おぼろげながら思い出すこと、
イデアを「想起」することが物の原形を真に認識すること。
真の philosopher(愛知者)は、
できるかぎりその魂を身体から開放して、
魂がそれ自体であるように努める者である。
この愛知者の知の対象が「イデア」である。
というロジックです。
つまり、「天上界」や、「魂」の存在を前提としています。
天上界を追放されたというような、宗教的な考えかたが、
キリスト教が出来る前のこの時代からあったのですね。
ここで、音楽と「イデア」の話に進みます。
音楽は、プラトンの言う「美のイデア」に属すると思われます。
「善のイデア」が根本にあり、その下位に「美のイデア」が来ます。
「美のイデア」ということで、
普遍的な音楽の美とは、
天上界で魂が耳にしていた音楽だ、
などと言われても急には理解が難しいですね。
なので、
過去の自分の音楽体験の引き出しから、
そういう言葉が当てはまる音楽を探してみます。
まず、最初に思い浮かぶのが、
バッハ作曲、無伴奏チェロ組曲第六番のサラバンドです。
金色に輝くような和音の移り変わなど、
天上界と言われても違和感がありません。
完全に主観の世界ですが。
次に、モーツアルトのクラリネット五重奏の第二楽章。
繊細で美しいメロディに、
忘我の境地に至る様な曲です。
もう一つ、マーラーの交響曲第三番の六楽章です。
神の懐に包まれるかのようなスケールの大きい、
深い癒しと悦びが得られます。
どれも、「神々しさ」と「なつかしさ」の両方を感じます。
昔は魂として天上界で接していたけれども、
現在は忘れていて、
音楽によってそれを想起させられるという、
プラトン的な考えがぴったり来る曲です。
まさに「美のイデア」に近づいた音楽ですね。
音楽を聴いて、「美のイデア」が伝わってくるというのは、
演奏者としてはまだまだ受動的です。
自分の演奏によって、
聴き手も自分も美のイデアに近づく為には
どうすればよいのでしょうか。
ここで思い出すのが、
世界最高峰のチェリストである。
ロストロポーヴィチの公開レッスンで聞いた言葉です。
場所は御茶ノ水のホールでした。
レッスンを受けていた方々は今では第一線で活躍されています。
で、その言葉とは、
「音楽は人の心に架け橋を作る。
演奏者が感動すれば、
それは音楽を通してかならず聴衆の心に届く。
と私は信じている。」
という主旨のものでした。
演奏者が実際の演奏で真摯に「美のイデア」に近づこうとし、
聴き手も同じ方向を向いてそれに近づこうとすれば、
両者にによって「美のイデア」は間近になるかもしれません。
しかし、ここでもまだ疑問が残ります。
「美のイデア」に近づくにはどうすればいいのでしょうか。
誰かが地図を用意してくれている訳でもありません。
考えるに、これはすぐに近づくのは無理なのかなと思います、
ただ、音楽の「美のイデア」が存在するというのを、
一度心の底から信じてみること、
そして、その「美のイデア」に近づく演奏することを常に「意志」すること、
かと思われます。
長く音楽に関わる上で、
目先のことに囚われない為に、
最も遠くにある道標が「美のイデア」だと考えます。
自分なりに、「美のイデア」(=究極の理想の音楽像)を持って、
音楽とつきあっていきたいと思います。
音楽の快感シリーズはこれで終わりです。
ここまで読んでくださった方々、
どうもありがとうございました。
それでは。