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HARUのブログ

ラッパの事、普段の事、色々。

どうやったらバッハの一番パートをより小さな負担で吹けるかを探っていて少し発見。バテル気がしなくて上手く行く時と未だ余裕な筈なのに少し頑張らないとならない時の差は何処から来るのか?

身体で体感してる事を整理して文章にする試み。

楽器側からかかるマウスピースのプレスと自分の方から楽器へ寄りかかるマウスピースへのプレス。自分の方から寄りかかるプレスは唇の筋肉を上手く使いバランス良くマウスピースを受け止める感覚を生み出している事に気が付く。両者がバランス良く無いとコントロールは落ちる。呼吸のエネルギーが大きく関わるがそれを上手く使う為には一方向へのプレスだとロスが生まれる。

ただし、構える時はマウスピースの方へ自分が行くのでは無くて唇にマウスピースを持って来る。

感覚的には常に同じ様に同じ場所にマウスピースが軽く乗っている感覚。ぺたっと当てると此処が感じ取れない。反応が悪くなるから息を強くスピードをつけないといけなかったり、息を吐く時に身体のエネルギーがエキストラに必要になる。

一点においての物理的な力は同じでも、高音と低音をコントロールする、高音を持続させる上ではマウスピース側からのみ力をかけるのとはその完成度が決定的に違う。音が鳴るって感覚の中では唇の存在は感じない位の方が上手く行くけど、マウスピース〜楽器と身体の接点を上手くコントロールするには唇のセンサーを繊細に保つ事が必要で、繊細さを保つ為には繊細にマウスピースを当てないと判らない。結果的に軽く乗せる事になる。
そして、繊細に当てる為には身体側の準備〜特に呼吸とそれを自然に引き出す身体のポジションが出来てないと上手く行かない。実はプレスそのものよりこちらの方がポイント。こちらが上手くいけばプレスは自然と軽くなる。軽くなるものを強くしようとするのは〜実は何年もの間何回も色んな状況で試したけど、ただの一度も上手く行かなかった。

プレスだけで無くて力や動きは一方向でなく常に反対方向へもバランスを取って働く。

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生徒さんや自分への覚書の意味も含めて。


ラッパを練習する(向上する為に)、心地良く吹く為には先ず自分が心地良く自分の求める音を吹いてる状態を想像する事。
そして、そのイメージに自分の呼吸を含む身体全体や音そのものを合わせる事。

ここでイメージが湧かない、ぼやっとしてる、って人は自分の好きな演奏家の演奏を出来れば映像付きで聴くことも有効。

そして、吹こうとしてるフレーズ(音)が声で歌えること、または、声で出ない音は歌ってるイメージを持てること。
〈だからソルフェージュは楽器をやる全ての人にとても役に立つに必要な訓練になる〉

呼吸はたっぷり吸っても自然と話が出来る、少し出したり、または吸ったり、そして苦しく無く(喉や胸が苦しい事も無く、唇や舌でせき止めるのでも無く)キープ(保持)出来る呼吸を探し求めて、いつでも落ち着いた呼吸が出来ること。気持ちが焦っていてもダメ〜

その呼吸が出来る姿勢がその人にとっての良い姿勢で、上手く行き始めると姿勢を取り始める事で息は自然に身体に入る様になる。

その上で楽器を「吹いてる状態と同じ」位置に構える事。判らない時は一度吹いてみて(もちろん出来るだけ自然な呼吸と音で)、身体を緩めず(支えを保った状態)に、唇から水平方向にほんの数ミリ放してみると判りやすい。それを全体像として感覚で覚え、次に吹く時にそれを再現出来る事。ただし、固定されたものでは無くてあくまでも時間や呼吸の流れの中での動作である事。全て時間の流れを感じて行う事。

アンブシュアも含めて、身体全体は、楽器で音を出してる時に始めて全ての条件(時間の流れも条件に入る)が整い「型」が存在する。
少し判り難い言い方かも知れないけど、演奏する時に全ての条件が一度に同時に揃う様に仕向ける準備が必要。

一度に同時に動くにはバラバラに考えても機能しない。数えられない筋肉が同時に力のバランスを作って初めて機能する。
音楽をする時に一つ一つ考える時間は無いし、それをやっても同時にバランス良く動く事は不可能。全てが同時に動く為のエクササイズをする事。

呼吸を中心としたエネルギーや条件が揃ったところで、構えた楽器を〜マウスピースを唇に「軽く」乗せる。押さえつけない事。身体や呼吸の準備が出来ていないと、押さえつけてしまうし、本当にその人にとっての最適なマウスピースを乗せる場所も選べない。プレスの加減は身体が選ぶ。プレスが必要以上に強くなるのは他の条件が揃って無いからだという事が多いし、抑えないといけない、抑えると良い時は身体の準備が不足してる。(ただし、ノンプレスは有り得ない)この時、ある程度の経験者なら唇(顔の筋肉)がマウスピースを迎えようと動く。それを頭(意識)で邪魔しない。身体が自由に動けるように。
〈この動きに関しては修正が必要な事もある。大抵はゆっくりと身体に聞けば答えを示してくれる〉

最後に一拍か二拍バックスイングの様に自然に呼吸をして(普通は軽く、時に強く)息を送る。口からでも鼻からでも良い。

アンブシュアの唇はある程度閉じてる事が音を出すには必要。でも、音を出す瞬間に完全に閉じてはいけない。息が流れないから。息が流れないと唇の振動は起こらない。ブーって自分で振動を起こしてから息を送るので無くて、程良く閉じられた上下の唇の間を息が通り、それにより楽器から呼び起こされる唇の振動が起こり、それが空気の振動波を起こし管体と共鳴してサウンドになる。

因みに息の吐き始めは息を吸う時に使った筋肉が元に戻るのを利用するのが自然。勢いをつけてスピードを付けた息を吐くのでは無い。溜息はその力を一度に抜く(戻す)事で、それを身体でサポートしつつ一度に吐き出されない様にゆっくりと元に戻していく事がブレスコントロールの第一歩。上手く息が吸えていれば(呼吸が出来ていれば)、吸い終わった時に吐く為のエネルギーは準備されてる筈。

因みにハイトーンでは流れる息がより少なくなる。

全ては全体のバランスの上に成り立ってる。

タンギングは舌全体がリラックスして動く事。決して一部が動くわけでは無い。全体がバランス良く、程良く、効率良く動く為に一部が動いている様に感じるかも知れないが、固定して一部だけ動かそうとしても自然には動けない。

アンブシュアも全ての筋肉が少しづつ作用している為に変化が小さく見えるが一部だけを使うので無くて、呼吸や姿勢を含めて全てが動いた結果がアンブシュアになる。
無理矢理力で押さえつけるものでは無いし(無理矢理 型作るものでは無い)、コンディションによってアンブシュアの細部は日々変化してるとも思う。

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3ヶ月ほどバロックラッパとバロックマウスピースに集中してモダンに戻って来るとどうしても細かなコントロールなどがしっくり来るのに時間がかかる。

これは個人差があると思う。
僕の友人はバロックに行く方が大変と言う。僕は戻って来る方が大変。
いや、難しさはそれぞれだし、同じバロック音楽をやるならバロックの方がコントロールが難しいんだけど、しっくり来るのに時間がかかるのはモダンに戻る時。

モダンを常に基準に置けば問題はかなり小さくなるのだけど、やはり、出来る限り集中したいのでバロックに集中する時は音出しは平らなリムの19mmのもので意識的に耳を変化させる。実戦では大きさは17mmまで小さくするけど平らなリムばらさせて変わらず、音域は常に高い所となり、音色感、アーテキュレーションも違う。

大まかに言うと、バロックは息のエネルギーが少し小さくなりアンブシュアのテンションが上がる感じ。モダンはアンブシュアのテンションが下がり、息のエネルギーが上がる感じ。
その微妙な感じがピッタリ来るまで時間がかかる。

今回は指もかなり危くなっていたし、モダンへのアジャストを含めて苦手な部分を同時に改善しようとしてはまってしまって居た。

二週間半経ってある事に気がつく。


下手にベーシックをさらうより、慣れた曲を吹く方が問題の核心を的確に把握し易い。問題の表面を修正しようとして苦手な部分を抜き出して練習することは必ずしもプラスにならない〜駄目なイメージの上塗りばかりになる事が有る。。わざと目を向けないことも時には必要だと思う。意外と全体が改善されると消えてしまう事もある。もちろん、全てを理解してから取り出すのは有効。

そして、メカニカルなスキルや苦手な所をフォーカスしてさらい過ぎると、音楽的なエネルギー(緊張感とも言える)を伴った息の流れを失い易い。技術を練習する時も音楽的な感覚を失ってしまうと上手く進まない。進んでるつもり、一見上手く行っていても頭打ちになる。

この音楽的なエネルギー(緊張感)を持った息ってのが問題の核心を自然と修正してくれたりする。今回は色々と試しつつそこに辿り着くまでに、その試した事が無駄な事、そんなに役に立たない事だったと言う事を確認するのに時間がかかったとも言える。

レッスンで悪い見本を見せたりするとその後コントロールを失う事が僕にはある。大切な感覚的な事が薄れたり、音楽に必要なエネルギーを持った息が流れなくなっているのかも知れない。

その息は長いフレーズを持ち、時間の流れの中で途切れないエネルギーを持つ。
誤解したくないのは、力強く吐き続けるのでも無くて、速いスピードでも無い。空間に音楽を存在させるエネルギーを持つ息が流れ続けるか否か。

アンブシュアのコントロール、舌の動き、マウスピースのプレス、息の吸い方、そして、また吐き方… 全てがリンクして同時にバランスを得る。

音楽を感じ始めると身体が動きを選び始める。最初はついてこなくて良い。だんだんとついて来る。そこで、音楽を抜きに技術が良くなってから音楽へと言う方法をとると… 上に書いた通り。


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途中でピッコロを吹いたもののこの3ヶ月は殆どバロックトランペットばかりだった。


僕はたぶん神経経路を痛めてるので双方の行き来に少し時間がかかる。

(でも、痛めてからの方が本番の安定感や耐久力、音域のカバーの力が上がってるのは面白い。きっと周りには判らない)

気になるところ、コントロールの難しい所に如何に信号を通さないか?がポイント。



やっとモダンが少し普通になって来た(笑)

やっぱり大事なのは「感覚が取り戻せるか?」に尽きる。耳も付いていかないし。

感覚なんてあてにならないって人はそこへの踏み込み方が全然足りないんだと思う。

調子良く音を鳴らしてる、音楽してるイメージの中に拘り無く自らが入って行ければ良い。



理論で考えても上手くいかないんだな…

音楽って感覚的な物が一番芯にある。

そこを否定したら音楽で無くなる。(音楽に限らずアート全てだと思う)

その芯の部分がその人の音のコアとなる。

その音を創り出す為に身体は使われる。

そこを忘れた時に全ては狂い始めるし、自らの出してる音が表面的にしか聴こえなくなると思う。

感覚に対して踏み込んで行けば身体は付いてくるもの。理論はそこをカバーする事、引き出すヒントにしか使えない。


どんな響きのどんな手触りのどんな輝きの音で、今、自分が居る空間をどう鳴らしたい?



今日レッスンしていても、生徒さんが聴くことを中心にして感覚が開いて来ると自然に他は整い始める。


その上で「唇にマウスピースを"軽く"乗せて、軽く乗って居ながら自然に良い音が出る様にイメージして準備しつつ、必要なエネルギーが揃うのを待ってごらん」って言葉で出だしが驚くほどスムーズになる。

息を吐く時にお腹を使うとかそんな意識も殊更持つ必要が無く全てが自然に動く。

何処をどう使うって話じゃ無いんだよね。

全ては同時に動くもの。使い方は身体が教えてくれる。頭がそれを邪魔する事を止めれば良い事。


シャルリエの幾つかの曲は調子のバロメータ(笑)


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某所に書いた事が反響が有ったのでこちらにも転載の形で載せます。

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ちょっと上手く書けるかどうか自信は無い。
でも、ここ最近ずっと思って来た事、そしてドイツ旅行の中での事を踏まえて一つ。

よく「歌いなさいとか、技術的に出来てから表現を、完璧に出来るようになってから音楽的に、ちゃんと吹けないのに余計な事をするな、こうすると高い音が出るよ、高い音には息のスピードが必要だからその訓練を、幾つかのパターンを出来るようになるまで訓練して、」などなど、未だたくさんアドバイスの表現は有るのだけど、そのどれもが具体的な音楽を前提にしないと成り立たないと思う。

その音楽を前提にした事から外れたアドバイスを目にしたり聞いたりすると、ものすごく違和感を覚えるし、自分自身も短く無い人生の中でそこに縛られて来てるのを感じる。

ブレーメンのレッスン(日本ではあまり知られてない方にアドバイスを求めました。国内で彼女のような音楽的なアプローチをされるトランペット奏者は皆無だと思います)ではそこを鋭く見抜かれた。貴方は全てを持ってるのに何故もっと表現者にならないのか?って。(それは、何処までそこに入り込みどこまで自由になって良いかって事を実際にヨーロッパで演奏している演奏家に聞きたかったポイントそのものでした)
意識的に知識や経験があればある程度のセオリー通りになる曲を避けて、自分の中で迷いを持つ曲を選んでレッスンを受けました。
師 インマー氏のおかげやこれまでの経験の中でセオリー通りで自然に進むものはある程度見えて来たというのは有ったのですが、本質的に何を見るべきか?に迷いが有ったのです。

迷いに対しての答えでもあるのだけど「ああ、そういうことか!」って自分にかけられて居た(自らもかけて居た)意識への鍵を一度に簡単に開けてくれた。何を見てどう自らの扉を開くかが鮮明になりました。

ただ、彼女はそこを単に指摘するので無くて、何がそうさせているのか探りながら言葉を選んで、問いかけを混ぜながら進めて行く。意識の鍵が開いたもののなかなか音に現せない私に何曲かデュエットをして下さった。そこで、やっとスムーズに彼女の音楽の会話のテンポに乗っかる事が出来た。(これは今までの中でちょっとない位に楽しい時間だった)

自分の中の常識や受けて来た教育のある面がそれを素直に音にする事やもっと想像力を働かせる事に鍵をかけてた。会話をする事、指摘をする事、デュエットで彼女は見事にそのいくつかの鍵を外してくれたと思う。

僕の演奏を言葉豊かだと言ってくれる人もいます。でも、レッスンの最初に彼女の問いに音で応えられなかった。(普段よりずっと言葉に近い表現を求められた中で〜たぶん、普通に自分の仕事の中でやったらやり過ぎって言われる… でも、とてもファンタスティックで好き勝手とは違うもの)音楽家にとって音で応える、現わせるってことはどんな言葉より大切。


さて、気がついた事は、今巷にある奏法のアドバイスって、結局、その音楽を言葉のように話したり相手に伝えたり、感じた事を素直に音にする事から離れて行くようなアプローチがとっても多いと思う事。
とても良い方法でも、そこに直接的に音楽との結びつきを伴わないアドバイスは、気がつかないうちにそのアドバイスによって受け手にある種のロックをかける。(例えば自分はこのタイプだからこう、ハイノートはこう、全ての音を均一に、真っ直ぐ…等)
もちろん、技術としてやそのコツとしては大切な事もあるし、その場では効果を生む事も有る。しかし、それが反面、音楽の制約を生む言葉になりうるし、長い目で見ると音楽を奏でる技術の発展を邪魔する事になりかねないと思う。
そして、歌いなさいとか、もっと表現を抑揚をつけてってのも同じで、本人がそのメロディから本当の意味を感じ取れれば自然に音になるもの。自然に音になる様な吹き方を目指していれば、音楽の表現と奏法の双方が自然とバランス良く育つもの。平坦だから抑揚をこう付けるって方法論はとっても危険だと思う。それらに教師は気がつくべきではないだろうか。ここが自分の感じて居た違和感なんだなと今ならハッキリと判る。違和感が有れど言葉に出来なかった。
付け加えると楽器を演奏したり歌ったり目の前でする事が必ず必要と言っているわけでは無いんです。『音楽を感じさせるなにか』を伴わないアドバイスは非常に危険だと思うという事。
メールや実際にその場での空気を感じないやり取りはとっても危険だとも思う。特に未だ未熟である質問者に対しては危ないでしょうね。僕はここのコメントに質問されても答えません。実際に目の前で聴かないと判るわけないですから。

素晴らしい音楽家に出逢えた事に感謝。

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今までの演奏活動の中でつい何年か前までは、メサイアはそんなに演奏回数に恵まれなかった。

この何年かは年に何回かチャンスを頂いている。今年は3回目。この週末もメサイア。年始もメサイア。

色々なところで演奏をさせて頂いているが、ありがたい事に四国学院のメサイアはこの五年間続けてオファーを頂いている。

最初の年は他のツアーから直接向かい、しかもそのツアー中にかなりしつこい風邪をひいてしまい、皆さんに御心配をかけてしまうと言うあまり良くない印象からのスタートだった。それにも関わらず今年5年目の参加となった。

この3年はマエストロと相談した上でモダンオーケストラの中でバロックトランペットを使うと言う色々な意味でリスク負いチャレンジとなる試みに、マエストロ、オーケストラの皆さん、合唱、ソリストの皆さんが賛同して下さって、毎年、配置、座奏か立奏か、演奏のスタイルなど試行錯誤を繰り返している。でも、この場所でモダン楽器に戻る事はもう無いだろう。もちろん、モダンよりは傷が生まれてしまうし、表面的な技術の完成度はモダンの方がずっと高いクオリティを作りやすい。しかし、弦楽器や人の声との調和や人の言葉の様に喋る事、ある色からある色へ変化して行くときの独特の繊細さはモダン楽器では届かない。そして、時には音量で無くて音色の荒々しさも逆に際立つ。



何故ブログで取り上げようと思ったか。
依頼を受けて参加させて頂く演奏団体はもちろんどの団体も素晴らしいのだけど、毎年40年続いているこのコンサートは自らも五年間続けて参加させていただく中で少し特別な存在となりつつあるのを感じているから。自分の変化を感じ取る事も出来る場所でもある。

合唱団の人数はOBも含め決して多くないのだがコンサート(と言うよりは救世主と呼ばれる音楽にと言う方が正解かも知れない)にかける思いが本当に強いと感じる。それをサポートしてくださる大学の懐の深さやオーガナイズする先生方の献身的な御尽力に本当に頭が下がる。

その合唱団の今年の声、音楽は本当に素晴らしかった。声がエネルギーを持って立体的に聴き手に迫る様に会場に届く経験はそんなに多くない。
何年か前にドイツから来日した若いプロフェッショナルな合唱団の迫る様なベクトルを持つエネルギーに溢れたサウンドを聴いた時に驚いた経験が有るのだけど、今回はそれを思い出した。

技術では無いもっと深いところからのもの。僕は"魂"だと思う。

それに対してソリストやオーケストラが応えないわけがなく、お互いに手を抜かない本気のやり取りが二回コンサートが有る前日の夜の通し稽古から繰り広げられた。22時半まで!
3回本番を行なったと言っても過言では無い(ソリストの1人から限りなく本番に近いゲネプロとの表現が有ったがその通り)
これにはもう一つ、リハーサルからコンサートまでが録音を兼ねていたと言う理由が有るのだけど、この様なコンサートで、合唱団、オーケストラ、ソリストがあそこ迄三日間全力投球するのを経験した事は無い。

ソリストが素晴らしかったのは勿論のこと(その中でも事務の仕事、合唱団の指導を兼ねていたソプラノのI先生の歌は音楽の喜びと強い意志を感じ本当に素晴らしかった)、オーケストラがマエストロを中心にモダン楽器ではあるがバロックの同じ語法で進化を続けている事も凄い。
これは2日目のホールでの演奏でよりくっきりと感じ取れた。全ての奏者がお互いを信頼して一つのサウンドを、たった一年に2日間(今回は3日間)なのに共有してリスクを恐れずに進化をさせ続けている。

マエストロの力は本当に大きいと思う。そして、そこに共感する演奏者とバックアップしてくださる大学。一つの理想形だと思える。

それは、ただメサイヤのコンサートをするって事でなくて、その音楽の意味やテキストの意味、そこに感ずる思いを全員が共有して毎年音楽として伝え続ける。数百年前に西洋で生まれた音楽が、毎年東洋の小さな町の大学のチャペルで生まれたての様に魂を持って演奏される。

こういう音楽の出逢いやこの様に深い所を目指してる事に関われる事は本当に音楽家として幸せな瞬間。

来週からはドイツ。
今度はその音楽の生まれた国で歴史と共に変化して来た伝統の音楽の中に身を置かせてもらい様々な事を感じるだろう。


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これは何処でも良いというか人それぞれだと思う。

でも、本当にその人にとって良い位置を選ぶには、イメージや音感がしっかりとして身体全体の楽器吹くための要素が揃って無いと選べないと思う。

先ず口に当ててから他を揃えようとするしてもその人にとっての最適な位置には先ず収まらない。

全ての要素が揃った上で唇にマウスピースを近づけると唇は自然にその人の自然なアンブシュアを形作る方向へと動き始めて、パズルの最後のピースとしてマウスピースが唇に乗る。これは押さえつけるでも、ペッタリと当てるのでも無くて軽く唇に乗るのが良いと思う。ただし、息が漏れる様に浮いていては駄目だとも思う。

取り敢えず押さえても吹けるけど、ロートーンやハイトーンで支障が生まれる。ある程度まで来た時に改めてやり直さないとならなくなる。
対処療法を繰り返して誤魔化すなら別。
でも、僕は結局はそれの方が難しいと思う。常に問題が現れて来るから。


アンブシュアやプレスの強さはイメージを含む身体全体のが要素が楽器に伝わる身体の最後の部分で、そこにそこまでの使われ方が全て現れるのだと思う。

アンブシュアが良いから上手くいくというより、イメージ、呼吸、身体のバランスが揃うと自然なアンブシュアになるし、プレスも適度、そして、マウスピースは自然に最適な位置に導かれる。身体や唇が選ぶし、イメージ、呼吸を含めた身体全体がアンブシュアを形作る。


さて、その位置だけど、体や唇、歯並び、筋肉以外の要素でも変わるし、本人の意思でも変えれると僕は思う。

実際に僕は身体の使い方と音に対するイメージの変化で場所は若い時と比べて変わった。それは何年もかけて少しづつ意志を持って変えた。

結果はずっと安定した。
感覚と身体に自然と選ばせる事がとても大切だと思う。

そして、それはひょっとしたら毎日の様に変化してるかも知れない。

写真は
高校生〜大学生〜約現在(笑)

ちょっと見辛いが、高校生、大学生の頃はマウスピースの中の唇の割合が上1/3、それから30歳前後に下1/3若しくは1/4に徐々に変化し始めて(身体全体を含めて変化させ始めて)今に至る。
音色を含めてどう音を奏でたいか?どうコントロールしたいか?でその場所はきっと変わって来る。一言で言うと音抜きには語れない。
このアンブシュアだからこういう音ってので無くて、身体そのものの使い方を含めてその人が求める結果がそこに現れるのだと思う。

だから一概にタイプ別とは言えないと思うのが僕の経験上の答え。


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レッスンをしながら芯になる部分を導く為に言葉で説明したり、音と全体を観察しながらその人のポイントとなるであろう場所を “一時的” に修正をかけて良い状態を引き出して体験してもらう事は、楽器のコントロールを常識だけに捉われ無く追い求め、経験を積んだ人にはそう難しい事ではないと思う。

 
でも、そこは決して芯の部分では無くて、そのキーワードはその時には有効でも変化していく中では有効でなくなるだけで無く、悪い方向に行く事だってある。
 
また、言葉を意識をする事で過剰になったり、一番大切な「音が空間に響く事」、「音や音楽のイメージ」、「音を聴き感じ取る事」から離れてしまったら本末転倒になってしまう。
 
ひたすら方法だけを追い求めてしまう事になりかねないし、音となったものから気がつけなくなる。ある方法をとれば正しいので無く、良い音のする方法が正しいとも言える。
 
生徒や複数の人の前で一時的に変化させる事はそう難しく無い。相手に気がついてもらうには非常に効果的である。
 
でも、大切なのはその結果何が起こってるか?音や体の感覚の上で何を感じてどう変化したか?その時の音や身体の感覚を記憶して自らが再現出来るように… これが難しい。一時的な変化に教える側も習う側も満足してはいけないと思う。もっと先を見てちょっとしたコツで上手くなった気がする段階で終わらない様に。
 
 
中学生の時に同級生が「蹴上がり」を練習するのに、「気がついた時に何回かやってみて練習するのが良い、やり過ぎてはいけない」って行ったのだけど、僕はその当時(20代くらいまで)はもっと根を詰めて一生懸命にやらないと一つの事を会得するのは難しいと考えていた。
 
その同級生の言っていた事は一生懸命にやらないって事で無く、一回一回の感覚を大切にするって事。
 
実はある事に対して見てる部分、いや、見えてる部分が違っていた。彼はその年代で「そこ」に気が付き、「それ」が見えていた。
 
 
楽器が上手くなる段階でも方法やコツだけで無くて、「そこ」や「それ」が見えないと上手くいかない。
これは知識では無くて「そこ」に気が付かないと、「それ」が見えたり聴こえたりしないと先に進めない。
 
最初から苦労無しに伸びる人は「そこ」が当たり前に解っていて、「それ」が当たり前に見える。だから、見えないって事、解らないって事が解らない。
 
見えない人は「そこ」、「それ」が何か?って見えないのだから当然に解らない。
 
この違いって大きな壁。
 
メソードってそこに気がつく為に作られたものであるし、「そこ」、「それ」が何か?って事を常に考えて感じないと扉が開いた様で開いて無い事が多い。
もちろん、繰り返すうちに気がつく事もあれば、考えて丁寧にやらないと気がつかない事も有る。
 
最初から見える人も居れば訓練が必要な人も居る(後者が殆ど…)
 
「そこ」に気がつく、「それ」が見える、聴こえるには音楽を沢山聴いたり、ヒトの内側から出た作品に沢山触れる事も大切。音楽だけで無くて。
スポーツ選手の動きを見ても「そこ」に気がつくかも知れない。
 
それに関してはマニュアルは作り得ないし方法論、身体の仕組みの理論〜役には立つけど身体の外側、環境の理論も本当は必要だと考えてる〜では、辿り着けない。
言葉を超えた部分。
 
 
個人的には10年位前まで自分の気がついた事をノートしていた。10代からだから30年位?でも、それは、それ自体があまり意味が無くてノートの殆どが余分な事でそれらを削ぎ落とす事が一番の近道で、ノートするより感覚に落とし込む事を徹底した方が良いと気がついた時から様々な事が安定した。今はノートする時は何が不必要かをあぶり出す時位。もちろんヒントにはなる。でも、ヒントはヒント。
本当の核心の部分は言葉に出来ない事の方が多い。
 
「そこ」「それ」に気がつく事が出来て感覚的にコントロール出来る様にトレーニングを丁寧に続けられるか?
毎日ガムシャラにやってもたぶん無理。
楽器を吹く前に考える事を済ませてイメージを膨らませて、吹いている時はただ聴きながら「歌う」… これは表現するって事で無く、自分の声で歌う様にの意味。そこが基本的に出来てから、その後でコツは本当の意味で役に立つ。「歌う」で事も「そこ」に含まれるかも知れない。
 
 
最近のレッスンで改めて強く感じる事。
 
 
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※ 書いているうちに二つの事が結び付いて着地地点が最初と変わってしまったけど、この繋がりを自分の中では無視出来なかったのでそのまま… 今までの内容をゆっくり全部を整理して書き直せたら良いな〜
自分でももっと整理がつくだろう。整理が付いたら後は言葉からは離れられる。。



最近、面白い記事を読んだ。

身体に良いと言われてる五本指ソックスが実は良くないって事を始めとして、足の裏の土踏まずをマッサージしてはいけないととか幾つかの事を書いた記事。

良いか悪いか、真偽のほどは専門家でないので判らないのだけど、自分の経験からなるほど…と腑に落ちたところが有った。

上に挙げた二つの事は、身体のインナーマッスルが使えなくなってしまい身体の外側の筋肉に頼るようになってバランスが悪くなると記事にあった。自分の楽器を演奏してきた上でこれまでの経験から、内側が使えなくなって外側だけに頼るって部分で、その通りだなと感じる事が少なく無いと気が付いた。

身体やメンタルのコンディションが良く無い時、またはマッサージやそれに準じた事をすると楽器のコントロールが極度に出来なくなる事を何度と無く経験してきた。そういう時って身体の内側がしっくり来ていない。息を吸おうとしても上手く吸えない。結果的に身体の外側の力に頼ろうとする。

身体の外側を幾ら頑張っても瞬間的にしか効果は無くて(アンブシュアも含めて)身体の内側が充実して無いと演奏は不可能なんだと感じている。
少なくても今の僕は無理。
若い頃はなんとかしてたのかもしれない。

年齢を重ねる中でその内側のエネルギーをどう使うか?が物凄く大きくなって来ている。いや、若い時から大事な事だった筈だが若い時は若さでカバーしていたのだと思う。

それは呼吸と深く結び付く。

上手く息が取れた時は息を吐く力が殆ど要らないと感じる。
息を吸う時には吐く力を抜いて吹く時に吐く力を使うというので無く、吹く時に自然に息が外に流れる様に息を吸い終える。そして自然に外へ流れ、また吸う。その循環、エネルギーの循環がとても意味を持つと思う。

上手く息を吸えれば身体の中のエネルギーが充実して身体の外側の筋肉は何もしてないかの様にリラックスしている様に見える。そのバランスが崩れるとバテも早いし、大きな音、小さな音、高い音、低い音などに支障が生まれる。

内側のエネルギーが充実している時はマウスピースの唇へのプレスも適度となるし、そのプレスに対する唇の受け入れもしっかりとしているので軽くのせている様に吹ける。適度なプレスは必要だが、ぺったりと唇を押さえるプレスは中音域しかコントロールが効かなくなる。「とりあえず押さえて」ってのは初めの一歩としては有効だけど、そこから離れられないうちは残念だがトータルに楽なコントロールとはならないと思う。そこで終わるアプローチはコントロールのほんの入り口にしか過ぎない。

それら全ての事のコントロールの度合いが身体の内側からのエネルギーの豊富さや意識で決まる=自然な呼吸の上に成り立つ。

(此処までが最初の着地点。でも、此処で終わると自分には足りない気がする)


そして、その自然な呼吸はこれから演奏するサウンドや音楽に対するイメージによって大きく左右される。

決して筋肉の使い方が音楽を作るわけでは無いし、呼吸が音楽を作るわけでは無い。呼吸が音楽を変えるので無く、音楽のイメージが呼吸を変えて実際に現れる音が変わる。何が核なのかを見失うと上手く行かない。

空間に描きたい音楽、相手に伝えたいものが有るから身体はそう動く。現したいと願うもの(音)のために身体の使い方をツールとして利用する。

そこが理解出来てないとただのそれぞれのパーツとしての知識やフォーカスされただけの技術となって音楽とは離れてしまう。


鏡を見て形を整えても音が感じられてなければ何も生まれないし、チューナーを見て音程を合わせても自らの耳で聴いてなければ音は永遠に合わない。

身体の何処かを意識しても全体がイメージから導き出される呼吸に乗っかりバランス良く動かなければ実戦には役に立たない。

もっと言ってしまうと、それらは言葉を超えてところにある物で、言葉はそれを引き出すキー(ワード)にしかならない。

キー(ワード)はキー(ワード)にしか過ぎず核心では無い。核心を捉える事は感覚でしか出来ないし、音楽する瞬間に技術の事を言葉にしていては音楽に辿り着く事は不可能だと思う。何故なら音楽は感覚を通して感覚で受け止めるものだから。

最終的には技術においては全ての言葉から離れる事が出来ないと自由な音は奏でられない。僕は全てを忘れるために考えて、身体の上で試し、教える時には言葉にしている。最後には言葉を捨てる。そこに辿り着いてる時は緊張する しない、調子が良い 悪いは関係無くなる。
常にそこまで辿り着ける人が初めて一つのメソードとして全てを語れるのだと思う。
僕は未だ無理。先ずは自分で全てを体現できないとね。

人の感覚は微妙でいい加減でもあるが、最も精巧なセンサーでもある。そこが言葉や理屈で無く、感覚で理解出来ないと前には進まない。進んでいるようで実は進んではいない。

言葉を全ての人が同じ受け取りをしているって思っていたら、それは大きな誤解の始まりだろう。

感覚で理解してる事を言葉に置き換えた瞬間から違うものになる。もちろん、教えるって立場の時は言葉を使う。でも、それは言葉というツールを使いつつも対象になる生徒さんからその瞬間に何かを引き出す為であって、その時々に有効なキーワードで常に有効とは言えない。
大切なのは良い音が出た瞬間の記憶。
身体状態の感覚や音の感覚、その音が空気をどう震わせたかの記憶。

今日はいつもより分かり難い文章だと思うけど(誤字脱字が多いし殆ど遂行して無いし何時も??)、この人は何を感じて考えてるの?って考えてもらう事。想像してもらう事が第一歩に繋がるかも知れない。
(自分が全てだとは思ってませんから)

楽器を演奏する上で画一的なマニュアルを習えるなんて事は幻想にしか過ぎない。

教える側が出来るのは、その人の中からその人の音を探し当てて引っ張り出し、良い状態を経験してもらい、その人にとってのキー(ワード)探しの手伝いをしてあげる事くらい。

だから、出来るだけ時間を取ってその人の「キー」が見つかる様に、一択の感覚が見つかる様に、見つかるまで一緒に探す。上手く行った時の感覚はその人にとっては一択。(そう考えたない人にはしんどいレッスンかも… そこもまた一つの考えどころ。)

先ずは感覚が動き内側が動き外側に繋がっている。外側に見える光景は全てが結果かも知れない。

最終的な目的の音楽(音)と最初の感覚をダイレクトにつなげる事が奏法なのだと思う。声で喋る様に。


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題名が先日の題名と矛盾してるのは最後までとっておいて、、、

ある生徒さん、時々ここに登場して貰ってますがその強さをかってます。

繕った表面理論や受け売りだときっと見抜くでしょうね。

こちらが感覚で感じて体現できてる事しか伝わらないと思います。耳から盗み取る感覚が良い。

今日は生徒さん皆さんへの覚書との意味も込めて書きます。レッスンを受けてない方には判り難いかも知れません。


さて、それでは。

レッスンに来た当初は物凄く窮屈そうで一つの音がスムーズに発音出来なかったのに、中音域は本当に綺麗な音が響く様になりました。夏以降スケジュールが楽になってからはさらにリラックス出来てる。「ここ音が高くて上手く吹けないんです」てところを吹いてもらったら吹けてる… よくよく話を聞いたら、「ばててる状態だったら誰でも難しいよ」て事でした(笑)上手になっていくのを見るのは嬉しい事です。

レッスンで今までにやった事は、バジングを止めて、シラブルも止めて、自然な呼吸と とにかく音を聴いて歌う事を意識する事。高い音も未だ無理には吹かない様に。
後は徐々に身体を窮屈で無くて自然に使える様にする事を意識する事。その為の呼吸の意識。もちろん、ソルフェージュに関して事は常にアドバイスをします。(これは音楽をするには必要不可欠)

最近はどう準備するかも他の人同様に少しずつ丁寧に。

レッスンの中で、息は一つの流れでフレーズも大きく一つだけど、音が変わる時に喋るような揺らぎも同時に存在する事が自然な事だと話しました。
真っ直ぐに音を伸ばす=真っ直ぐな息を吐き続けるので無い。息は自然に外に流れて行くように身体にゆっくりと取り入れてから(曲の中で素早く取る為には別に訓練が必要)、自然に外に流れ出してとっても長い減衰が有るように、サウンドに時間が存在する様に自然に音が響く様に流れ続ける。後はそれをただ聴く。
そして、その上に音の動きが乗っかって自然に揺らぐ。一つ一つの自然減衰とフレーズの大きな自然減衰が同時に存在する。
大きな音、小さい音、高い音、低い音、跳躍したり忙しいフレーズ、全て乗っかっている元にこの自然な時間と息と音の流れが有る。

感覚的には決して頑張って吐いて、「吹くのでは無い」という事。
準備したエネルギーが自然に流れる様に扉を開くだけで良いんです。そう感じる様に身体を使う。身体が自然に動く様に仕向ける。



もちろん、これはベーシックで様々な局面では息を少し押したり、張ったりとかプラスアルファの技術は必要です。そこを否定するものでは無い事を書き加えておきます。

僕自身が彼女のレッスンをしながら、アンブシュアや姿勢その他の見た目は内側のイメージや意識から、極めてゆっくりではあるが健康的に修正できていく事を再確認させてもらってます。
これは自分の上でやってきた事でも有るんです。

この時に理論は手掛かりとして役に立ちます。

が、

実際に吹く時にはそれを考えていたのでは、自然な結果は生まれないのは経験上の事実です。自然な動きにならないし、何より音楽そのものに入れない。スポットとしては有効でも流れの中で上手く働かないのです。

技術の向こう側に音楽が有るのでは無い。
音楽を自由に行なう手段として技術が有るんです。技術を先に、、、ってやるとそこから動けない人が多いと思います。技術の論理に縛られる。

僕自身はバロックのアーテキュレーションのレッスンを受けた時に、「方法を考えるな、感覚を使え、喋れ」とアドバイスを受けました。それが今では以前より良く分かる。「あれ、今どうやったっけ?」て時ほど上手く喋れてる。そこにたどり着くアプローチが有るんです。

理論を幾ら構築しても、それを実行するのは理論で組み立てられた機械で無くて、感覚でしか感じ取れない人間なんです。バラバラにして考えてたら音出す前に時間は過ぎて終わってしまう。

どんな方法を使っても良いから良い状態を先ず経験して、それをバラバラにするので無くて、その時のサウンド、空気、時間と共にトータルの感覚として覚える。これが出来ないと楽器が上手くなるのは難しい。
レッスンはそれを経験する、または、そこに気付きを見つける場だと思います。
これは「人」なら誰でも出来るのだと思っています。やるかやらないかだけ。
どんな方法は取るかはケースバイケース。

その他の方にもそれぞれに合った表現やタイミングで同じ事を話しています。

もう一つプレス。これは、違う方の時の状況をベースに。

とりあえず唇に乗せて押さえるって事は止めましょう。

息を吸いながら楽器を自分の楽器を自然に吹く「型」に準備をする。息を吸い身体に今から吹こうとするためのエネルギーの準備が出来たら、静かに上下の唇に乗せる。大体、上と下の唇のそれぞれ一点でそれは感じ取れると思います。
ペタっと当てる感じでは無い〜これは中音域限定なら有効だと思いますが、長いフレーズや高音域、低音域のコントロールでは不必要なバテやコントロールの不具合を生みます。マウスピースを受ける側、唇の方の受け止め方と同調して増えるプレスの強さは必要です。でも、とりあえず押さえると言うのは必ず何処かで頭打ちになる。

それより当てる時にちゃんとマウスピースを感じて程良い押さえ方〜大抵は思っているより軽くですが、浮いてしまってもダメですし、唇側の、アンブシュア側でマウスピースを受け止める準備が出来てなくてもそれは上手くつかみとれません。
その為にはちゃんと息を取り、楽器を自分の型に来る様に構える。そして、吹いている間はその楽器の重さを唇にかけない。コントロールされたプレスは良いが重さを唇で支えてはダメ。唇は振動してその振動を支えているだけで精一杯な筈です。同時に身体全体も自然な呼吸が継続出来るように保つ事。
息と身体が準備出来て口元にそっとマウスピースを寄せて(自分からマウスピースに行くのはNG)ほんの1ミリ離れているくらいの所で、または唇に乗せたり離したりしながら待って見ると、ある程度吹ける人は唇が勝手にマウスピースを受け止める状態になるのが分かるはずです。身体に任せれば良い。未だ、上手く行かない人や出来上がってない人には少し閉じる様に伝えます(状態を見ながら)それを常に感じる事。身体全体の型と共に。


この辺りは文字だけではちょっと説明に無理が有りますので大雑把に書いてます。

上手くいってるかどうかは、まずは音の立ち上がりで判ります。軽く「タ」喋ればスッと音になる。そこに特別な息のスピードや力は要りません。または、ノータンギングでそっと息を入れれば入れた瞬間に音になると思います。

そして、その次に音を動かして、例えば上がっていく時に「自分が楽に吹ける音」までは何の段差も無くスムーズに移行出来るはずです。

生徒の皆さんは、ここまで読んでハッとする瞬間、あっと思い出す感覚や音があると思います。(笑)

さて、、自然とは何か?
これは全ての人への永遠の課題かも知れません。出来た時に「あ、これ…」て気がつくもの。それまでに色んなものを感じて、自然って何だろう?と考えて、考えて、、、ある時に明確に感じ取れるものだと思います。僕も考え続けてます。



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