※ 書いているうちに二つの事が結び付いて着地地点が最初と変わってしまったけど、この繋がりを自分の中では無視出来なかったのでそのまま… 今までの内容をゆっくり全部を整理して書き直せたら良いな〜
自分でももっと整理がつくだろう。整理が付いたら後は言葉からは離れられる。。
身体に良いと言われてる五本指ソックスが実は良くないって事を始めとして、足の裏の土踏まずをマッサージしてはいけないととか幾つかの事を書いた記事。
良いか悪いか、真偽のほどは専門家でないので判らないのだけど、自分の経験からなるほど…と腑に落ちたところが有った。
上に挙げた二つの事は、身体のインナーマッスルが使えなくなってしまい身体の外側の筋肉に頼るようになってバランスが悪くなると記事にあった。自分の楽器を演奏してきた上でこれまでの経験から、内側が使えなくなって外側だけに頼るって部分で、その通りだなと感じる事が少なく無いと気が付いた。
身体やメンタルのコンディションが良く無い時、またはマッサージやそれに準じた事をすると楽器のコントロールが極度に出来なくなる事を何度と無く経験してきた。そういう時って身体の内側がしっくり来ていない。息を吸おうとしても上手く吸えない。結果的に身体の外側の力に頼ろうとする。
身体の外側を幾ら頑張っても瞬間的にしか効果は無くて(アンブシュアも含めて)身体の内側が充実して無いと演奏は不可能なんだと感じている。
少なくても今の僕は無理。
若い頃はなんとかしてたのかもしれない。
年齢を重ねる中でその内側のエネルギーをどう使うか?が物凄く大きくなって来ている。いや、若い時から大事な事だった筈だが若い時は若さでカバーしていたのだと思う。
それは呼吸と深く結び付く。
上手く息が取れた時は息を吐く力が殆ど要らないと感じる。
息を吸う時には吐く力を抜いて吹く時に吐く力を使うというので無く、吹く時に自然に息が外に流れる様に息を吸い終える。そして自然に外へ流れ、また吸う。その循環、エネルギーの循環がとても意味を持つと思う。
上手く息を吸えれば身体の中のエネルギーが充実して身体の外側の筋肉は何もしてないかの様にリラックスしている様に見える。そのバランスが崩れるとバテも早いし、大きな音、小さな音、高い音、低い音などに支障が生まれる。
内側のエネルギーが充実している時はマウスピースの唇へのプレスも適度となるし、そのプレスに対する唇の受け入れもしっかりとしているので軽くのせている様に吹ける。適度なプレスは必要だが、ぺったりと唇を押さえるプレスは中音域しかコントロールが効かなくなる。「とりあえず押さえて」ってのは初めの一歩としては有効だけど、そこから離れられないうちは残念だがトータルに楽なコントロールとはならないと思う。そこで終わるアプローチはコントロールのほんの入り口にしか過ぎない。
それら全ての事のコントロールの度合いが身体の内側からのエネルギーの豊富さや意識で決まる=自然な呼吸の上に成り立つ。
(此処までが最初の着地点。でも、此処で終わると自分には足りない気がする)
そして、その自然な呼吸はこれから演奏するサウンドや音楽に対するイメージによって大きく左右される。
決して筋肉の使い方が音楽を作るわけでは無いし、呼吸が音楽を作るわけでは無い。呼吸が音楽を変えるので無く、音楽のイメージが呼吸を変えて実際に現れる音が変わる。何が核なのかを見失うと上手く行かない。
空間に描きたい音楽、相手に伝えたいものが有るから身体はそう動く。現したいと願うもの(音)のために身体の使い方をツールとして利用する。
そこが理解出来てないとただのそれぞれのパーツとしての知識やフォーカスされただけの技術となって音楽とは離れてしまう。
鏡を見て形を整えても音が感じられてなければ何も生まれないし、チューナーを見て音程を合わせても自らの耳で聴いてなければ音は永遠に合わない。
身体の何処かを意識しても全体がイメージから導き出される呼吸に乗っかりバランス良く動かなければ実戦には役に立たない。
もっと言ってしまうと、それらは言葉を超えてところにある物で、言葉はそれを引き出すキー(ワード)にしかならない。
キー(ワード)はキー(ワード)にしか過ぎず核心では無い。核心を捉える事は感覚でしか出来ないし、音楽する瞬間に技術の事を言葉にしていては音楽に辿り着く事は不可能だと思う。何故なら音楽は感覚を通して感覚で受け止めるものだから。
最終的には技術においては全ての言葉から離れる事が出来ないと自由な音は奏でられない。僕は全てを忘れるために考えて、身体の上で試し、教える時には言葉にしている。最後には言葉を捨てる。そこに辿り着いてる時は緊張する しない、調子が良い 悪いは関係無くなる。
常にそこまで辿り着ける人が初めて一つのメソードとして全てを語れるのだと思う。
僕は未だ無理。先ずは自分で全てを体現できないとね。
人の感覚は微妙でいい加減でもあるが、最も精巧なセンサーでもある。そこが言葉や理屈で無く、感覚で理解出来ないと前には進まない。進んでいるようで実は進んではいない。
言葉を全ての人が同じ受け取りをしているって思っていたら、それは大きな誤解の始まりだろう。
感覚で理解してる事を言葉に置き換えた瞬間から違うものになる。もちろん、教えるって立場の時は言葉を使う。でも、それは言葉というツールを使いつつも対象になる生徒さんからその瞬間に何かを引き出す為であって、その時々に有効なキーワードで常に有効とは言えない。
大切なのは良い音が出た瞬間の記憶。
身体状態の感覚や音の感覚、その音が空気をどう震わせたかの記憶。
今日はいつもより分かり難い文章だと思うけど(誤字脱字が多いし殆ど遂行して無いし何時も??)、この人は何を感じて考えてるの?って考えてもらう事。想像してもらう事が第一歩に繋がるかも知れない。
(自分が全てだとは思ってませんから)
楽器を演奏する上で画一的なマニュアルを習えるなんて事は幻想にしか過ぎない。
教える側が出来るのは、その人の中からその人の音を探し当てて引っ張り出し、良い状態を経験してもらい、その人にとってのキー(ワード)探しの手伝いをしてあげる事くらい。
だから、出来るだけ時間を取ってその人の「キー」が見つかる様に、一択の感覚が見つかる様に、見つかるまで一緒に探す。上手く行った時の感覚はその人にとっては一択。(そう考えたない人にはしんどいレッスンかも… そこもまた一つの考えどころ。)
先ずは感覚が動き内側が動き外側に繋がっている。外側に見える光景は全てが結果かも知れない。
最終的な目的の音楽(音)と最初の感覚をダイレクトにつなげる事が奏法なのだと思う。声で喋る様に。