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HARUのブログ

ラッパの事、普段の事、色々。



ある本屋さんの本のオススメのレビューでピンと来てすぐに買った。読んだのは数ヶ月前。
それから事ある度にこの内容を確認する事となっている。

我々は考えて分析すれば全てが明確に解決する。分析する方が良い方向に進むと思いがちだが何かの技術を会得するプロセスでそれが邪魔をする事も知るべきだと言うことを感覚的でなくて脳の働きとして理解出来た。いや、人間は全てを理解出来ない(脳が意識に対してさせない〜ある意味ブロックがかかってる)事を理解したし、そこに触れようとする事は全ての動きをぎこちなくする事を学んだ。

教える立場にある人はその教えることだけで無く、人の脳のシステムの事も少し知るべきではないだろうか?と考えされられた一冊。それが教えるメソードと矛盾がある時はメソードを疑う事も必要だろう。それはメソードそのものより自らの理解度、理解の仕方かも知れない。少なくてもこの本を理解出来る位の思考能力は理論を論ずるには必要だと思う。(正しいと思うかとは別)



専門的な表現もあり、この位の量の本を読む時間のだいたい倍程度の時間がかかった。
知りたかった事と言うか、確認したかった事は前半に多かったが、後半の「意識」とはなにかも興味深かった、人格にまで踏み込むし犯罪や刑罰にも踏み込むのでこの辺りは好き嫌いや意見が分かれそう。著者は此処が一番論じたかったのかも知れない。

ただ、科学は絶対的なものでは無く、何十年か何百年先には今の理解が稚拙に感じる部分が有るであろうと言う意見を読めたのは、科学はその時々の最新だと思う自分にとって研究者自身の言葉に寄って確認が出来た。(これが唯一の方法で正しいと述べる唯一論や、乱暴に言うとより細かい方に注目すれば解明すると言う還元主義、的なパフォーマンスへのアプローチが多いのがとても気になっている。そんな単純では無いと感じている。)

楽器やスポーツ、パフォーマンスをする事において、その瞬間の動きを分析する事は「それ」が上手く運ぶのには逆効果だとも触れて居る。もちろん、自身の目標や求めるもの、方向性を決めるのは自身の意識でありそこが意識の仕事なのだけど、実際は脳や身体の中のそれぞれのパートや時には多くのパートが連携して動き、その働きのシステムには意識はアクセスすら出来ない。またアクセス出来ない領域に記憶されないと上手く働かない。
楽器なら演奏中に演奏の方法を考えると上手く動かない、動かし方が判らなくなるなどと言う事。何故そうなのかと理解をする為に様々な脳の働きやそれに対しての認知から判りやすく〜専門的な知識の理解を求められるが、ちゃんと説明されていてそこを理解して乗り越えれば「様々な解りやすい本やメソード」より明確に何をどう見るべきかを提案してくれている。

もちろん、この著者の述べる事は全てとは限らないし、上にも書いたけど時が経てばもっとこの世界の認識は変わるだろう。著者もそこに触れている。

人は何処か、何か、一つの物に寄りかかりたくなるしそれによって安心を得るが、常に変化して追い求める事〜自らの中でもいくつもの意見や感じ方を持ち結論を出しそれも常に変化していく事が何故大切なのかも科学的な根拠を上げて論じられてる。

意識が気がつく前に脳自体は気が付く事や、人が何か行動を起こす時には意識が1/10秒前に動き、脳は実は1秒前から動いていると言う測定結果が有り自分の意思が実は意識する前の脳の活動から選ばされていると言うことが一番印象的だった。
音楽の演奏に当てはめると、指揮の動き見て合わせていたり、音を聴いて合わせようとしても既に間に合わない。要はどの時間で事がどう起きるのかを予測して動き始めて無いとならない。その為にはその行為を行っているその時に意識しても時間的には間に合わない。音を移る瞬間に意識を持っても既にその音は終わって居る。
意識の例として指をパチンと鳴らす事を意識が理解出来るのは、脳の物理的仕組みから時間的には全て終わってからだそう。でも、私達はその瞬間的に見て聴いてると知覚してる。これは時間の感じ方すらもコントロールして“脳が意識に観せて居る”そうだ。

演奏中の分析や細かい所への意識が役に立たなく返って悪い方向へ導くのは経験的に感じていたし〜私達の意識は大きな方向性を決めて舵取りは出来るが、細かい動きにはアクセス権を持っていない。僕の個人的な意見では、先人達の長く使われているメソードにはそのエッセンスだけが記されていて理解は難しいけど、そこを理解しようとする事、意識がアクセス出来ない領域に仕事をさせる〜身体が覚えるまでって事はとても科学的な事なのだと理解出来る一冊。

最初から最後までとても筋が通っていて後へ行くほど最初の記述への理解が深まる。

普通に上達するには特段に必要な知識では無いし楽器のことに対して理解する為に書かれた本では全く無い事は確かだけど、自らの中に新しいシステムを構築する事や既存のシステムを改良したり、再構築するにはとても役に立つ知識、考え方だと思う。
ゆっくりと自分の音や音楽、そしてそれを奏でる為の技術と向き合って行きたい方いらっしゃいませんか?

進学や転職などで生徒さんが離れられて少し余裕が出来ました。
(演奏が立て込んでる時期はお休みしてしまうかも知れませんがごめんなさい…)

ゆっくりと時間をかけながら生涯の趣味と出来る楽器や音楽とどう向き合うかのお手伝いが出来たら嬉しく思います。


どうしたら良い音が見つけられて、その人にとってのフルオーダーのコントロールが身につくかをお手伝いしながら、御自身でやり方を見つけられる様になってもらう事を第一に、時には調子の調整などトレーナー、インストラクターなどの役割も担うのが僕のレッスンです。

判りやすく言うとシンプルなメロディが自然な発音によるその人自身の良い音で自然に演奏出来て、そのサウンドのまま音域を拡げたり、技術を自ら向上して行くお手伝いをします。

場所は自宅の防音室(こちらは午前中から深夜まで可能)若しくは出張となります。

特に自宅の場合は単純に時間で区切るので無く、その日の目標まではやり切る形です。ペースは遅くても一生懸命な方には必ず良いお手伝いができます。でも、ちょっとしたコツを習ってサラサラっと上手くなりたい方には向かないかも知れません。。。
直ぐに難しい事を演奏したい。簡単にハイトーンが出る方法を知りたい。この方法さえ知っていればと言うマニュアルやコツを知りたい…などの方には向かないかも知れません…)

バロックトランペットやバロック音楽、ピッコロトランペットのアドバイスも行います。こちらは全国から訪ねていらっしゃいます。時間と都合の許す限り楽器の選定や相談も受けています。

一部の時間の限りが示してあるレッスン、グループレッスン以外はどの個人レッスンも「状況の許す限り」どんなに延長しようが一回とカウントします。延長料金は頂いてません。

このリンク先のレッスン規定に詳しいことが書いて有ります。(またpdfにリンクしています)


下記に少し演奏の動画をリンクしておきます。トレーニングのパターンと古い時代の曲ばかりなのは著作権上の問題も有ります。御容赦下さい。
YouTubeの動画にリンクしています。

ご連絡は上記のリンクからメールが送れるようになっております。










僕がトランペットを始めたのは中学の吹奏楽でした。

しかし、そのクラブは殆ど活動してなかった。親が探してくれた地元の大学の学生の方(教育学部の方)に教えてもらいつつ一人で練習する事が殆どでした。

コンクールも一番ポピュラーなものには出場せず。

一人で練習しながら隣の市の一般の吹奏楽団に所属して週一回の合奏をやってました。大人の方達と。

僕が専門の道に進みたいと思ったのは最初はカナディアンブラスのフラッドミルズの音やその音楽に魅せられてでした。なぜあんな繊細な表現が出来るのだろうって。

専門に進むとなってからは色々と伝手を頼って東大阪に住まわれて居た先生につくことになりました。
「どうしてこんなに楽に音が出るの?」
初めてのレッスンでの印象。
それを会得しようと高校生時代は合奏の基礎練習は出ず(笑)ひたすらトレーニングしました。エチュードもさらった。市民吹奏楽も続けました。

コンクールの曲はその貯金で吹けるようにとにかく自分の実力を上げる事に一生懸命だった。

この頃はトマス スティーブンスやモーリスアンドレに夢中でした。(結構対極ですね 笑)

与えられたものをこなすより自分で常に考えた。それは師の教えでもありました。その最初の師が東大阪から島根県に仕事の関係で引っ越されて東京のG師匠のところへ。
「厳しかった」
楽譜を投げつけられたり、コテンパンに言われる事が少なくなく、テンパると最初の師匠のところに普通車両の夜行列車に乗りアドバイスを求めに行きました。

僕の奏者としての吹奏楽コンクール歴は実質この高校生の時だけです。

さて、大学も卒業して指導する立場として関わる事になりました。

しかし、僕は何を求められてるか?より、一人、一人が一生の趣味として楽しめるような技術や音楽のアイディアが生まれる様にレッスンを続けることしか気質上出来ませんでした。

最初は一年待ってください。それから次は三年。もちろん、先生や父母会が有ればその方々の理解や協力が必要です。その上でそれだけの期間を我慢してほしい。

なんの楽器にも触れてこなかった子供が初めて楽器を持つ場合はもっと時間がかかることすらある(中学校だけ、高等学校だけでは収まらないってことですね。)ピアノなどの経験のある子は少し有利です。

それではコンクールに間に合わない、結果が出て出せないと思われるのは当然なのですが、僕にとって音楽はそれだけの為のものでなくて、人生を豊かに出来るとてもステキな物なのです。一生の楽しみに出来ます。どちらを取るかと行ったら迷わずに後者を取ります。

もちろん、後者を目指しながらコンクールで良い賞を取ることも可能です。ただ、一人一人が確実な力を付ける必要があり、それにはそれぞれの奏者が鍛錬をしつつ熟成させる時間が必要だと考えます。

人によって早い遅いは有りますが、先ずは一年。
これは基本的な音を作る時間。この間は綺麗なメロディを丁寧に沢山吹いて音や音楽に対する一番根本のイメージを作り上げ、それに必要な技術を会得する。楽譜を後々しっかりと読める訓練もこの時期に丁寧にやらないと読めないまま先に進むことになります。(これはそれぞれの曲を覚えて吹くこととは違います。コンクールの曲は吹けるし、毎日、全調性のスケールをクラブでやると言いながら、たった7種類の調のゆっくりしたシンプルなパターンの基礎トレーニングのフレーズを二年間出来ない人も居ました)

次は三年間。最初の一年の後に二年かけて音域を広げつつより高度な楽譜を読みつつも音色やコントロールが壊れない様に育つのを待つ。

経験上、ここまで行くとそれぞれの三年やった人達はその人の中の土台が出来上がって来るし、クラブとしても世代が一廻りしたパートはしっかりします。

何故かズバ抜けた子が出てくるのもこの頃で、その子に引っ張られる様に全体がグッとレベルアップします。

耳が育つ。個人としても学校のパートとしても。
耳が育つ事はどんな優れたメソードやシステムより大切なことだと思います。それ無くして音楽が成り立たないのは説明するまでも有りませんよね?耳が育てば音楽に対する想像力もグッと上がる。


でも、、、なかなか、三年待ってくれる所は無いのですけどね(笑)マーケティング的には求められる事を的確にこなす事が最良でしょう。でも、僕にはそうで無い大切なものが有ると思えるのです。ここを失ったら僕が音楽をやる理由が無くなります。

ほんの数時間、時には数十分でかけた魔法は必ずリミットが来る。

これは根性論でも無く、さまざまなメソードやシステムへの批判では有りません。それらにどう取り組むか?何を最優先にするか?を大切にしたいし、常に音楽を意識してないと見失いがちになる。
コンクールを最大目標や最終目標するのか。コンクールを利用して技術の向上をして、さらなる音楽の喜びに向かう為の礎にするのか?

僕は現在演奏活動を古楽器にかなり力を注ぎ時間をかけています。でも、普通のトランペットも演奏しますし、丁寧に自分と向き合いたい生徒さんとは短くて90分(子供は集中力や技量に応じて短くもします)、長いと三時間かけてゆっくりその人の感覚の中に落とし込むレッスンをします。
個人的にもモダン楽器(普通のトランペット)も以前よりずっとヘルシーに吹ける。

その根底はアンドレの音楽やミルズの軽やかな音だったりする。そして今一番影響を受けるのはヒトの声でしょうか。

皆さんにとってコンクールとは、音楽とは、楽器とはなんですか?





靭帯断裂から5日。杖も使い足を引きずりながらレッスンをしてるのだけど(大袈裟)、電子ピアノを導入してとても効果的に使えている。パイプオルガンの音(もちろんダミー)が出せる事、ピッチが変えられる事が大きい。最近のRolan●凄い。
単音を伸ばした上で音階を吹いたり、和音を鳴らした中でリップスラーをやったり。基音となる音を決めて鳴らし続けて音がどう響き合うかを聴き取れれば奏法の方も意図的に手を加えなくても修正させる事の多い事。これをワザワザ言葉に置き換えることがどれだけ難しくしてるかも再確認してる。
(言葉を使う事で説明は出来るし導けるが、それがベストでは無いし、時に本質から離れてしまう原因になる事はこれまでの自分の経験から自戒を込めて記す)

低いから「上げる」高いから「下げる」では片付かない事は多いし、其れ位単純な言葉でないと実際の演奏の中では意識は無理だし、それ以上の説明は自然な身体の動きを邪魔する。演奏しているその時はトレーニング時でもダイレクトに音にアクセスした方がずっと良いと思う。

ピアノでは単音が保てない。いわゆる電子音のオルガンの音では無機質過ぎる。だから本当は本物のオルガンが有れば一番良い。
(Rolan●のサンプリングは流石)

自分よりレベルの高いプレイヤーの中で一緒に演奏すると調子が上がるのも同じ理由だろうと思う。

耳が開いて活性化されるとそれに対して身体が動く。

だから音程が悪くて音が良い、音程が悪くて奏法が良いって事は何処かバランスが悪いままだと思うし、片方が良くなっていると錯覚してる場合も少なくないと思う。
(完璧でないと駄目だとは思わない〜気持ち良く高くなってる時などは楽器的、奏法的には正解だったりするし、第7倍音に当たる様な元々低い音は低い方が良い)

ある方のレッスンの最後の方で曲を吹いてもらうと、そこまで自然に出来てきたことが全て消えてとても機械的になり、結果的に身体が硬くなりコントロールが利き難くバテる。音程どころでは無い。その中で表現しようとするとアンバランスなフレーズになる。
言葉をかけながら自然な状態を体感してもらうが自身で再現が出来ない。

「何が違うのでしょうか?」のこちらからの問いに「違いは判るが同じ様にしても出来ない」とのお応え。

「では、同じ様にしようとしないで、同じイメージを持ちつつ後は身体に任せてただそれを聴いて下さい」って伝えた。「ただし、身体が自由に動ける様に準備は怠らないで」(この準備については文章では誤解も生むしますます長くなるので割愛)

その瞬間から音もフレーズも全て自然に動き始めた。フレーズ感も自然。間に話や休憩を挟み4,5回繰り返しても即再現可能。

同じようにしようという思い(意識)が、意識がアクセス出来ない脳の領域の仕事を「意識」がやろうとする行為に繋がり頑張れば頑張るほど結果が欲する状態(イメージ)から離れて行く。そこで手を加えると益々離れて行く…
(この部分を脳科学の本を読むまでは「感じる」「感覚」で済ませていたのだけど、そこを脳の仕組みで説明できる様になったのは個人的には大きい。そのアクセス出来ない脳の領域という仕組みが感覚に繋がるのだと今は考えている)

この場合の言葉や理論は杖だな…
良い杖は助けてくれる。
でも杖無しの方がずっと自由。(切実な思い)



2つのシュミレーションについて書こうと思う。

1つは普段のトレーニングや練習からアンサンブル、もっと大きな合奏、コンサート全てに共通して使える楽器の演奏そのものへアプローチする意味で。

何かの音を出す時、若しくは何かのフレーズを吹く時にどれだけの人がどれだけのイメージを持って準備し音にしているだろう。

レッスンをしていると最初の音だけを考えて、時には最初の音すらも頭の中に無く行き当たりばったりって事も少なくない。考えてる人もこの音はこれ位の身体の使い方でこのアンブシュアの力の入れ具合と判断してる人も少なく無いように思う。

まず頭の中でこれから演奏する音やフレーズを思い描き、出来るだけ時間も端折らずに、一度頭の中で、さも自身が吹いているように脳内で吹いてみてからそれに合わせて身体や呼吸を準備してみると効果的。ここまで出来るとアンブシュアは身体が選ぶ。自然にその音を発する状態に動く。
大切なのは延ばしの音も端折らずに時間も吹く時と全く同じ様にそのままシュミレーションする事。頭の中では二回吹く事になり二回目に実際に音にする事になる。
これでかなりの不具合が自然に改善される。

また、改善される人はそれだけそれまで準備がおろそかになっていると言う事でもある。

2つ目のシュミレーション。

ステージの上での事。
これは基本的に2つに分けると良いと思う。先ずはシュミレーションと言うより、ステージでは何が起こりうるか考えてそれに対して対処を用意しておく事。

あがり(緊張)、ピッチが高い、低い、テンポのズレ、演奏環境(暑い、寒い)、音量のバランスetc.
ピッチならどの気温なら何処までコントロールが効き暑くなったらどれ位上がるのか?寒い時は何処まで上げられるか?を確認しておく。
テンポは様々なテンポで練習して自分の限界を超える時にどうするかも作戦を練る 笑
演奏環境を変えて練習する。
大きな音や小さな音、周りとのアンサンブルにおいて自分がどうなってるか(どう影響を受けて、どう対処するか)を普段から感じ取っておく。

しかし、緊張に関しては悪い事をシュミレーション〜想像しない方が良い。何故ならそれは実際のステージで緊張をより強く起こりやすくする可能性が有るからだ。想像して対処方を考えても殆ど効果は無いだろう。

緊張は自らが作り出すものであり、そこに確かに存在するものでは無い。自らの心の中にある。それをつくる努力を普段から故意にしてしまうとその場面でそちらが優先される。シュミレーションするなら、ひたすら人前で心地良く音楽を奏でている自分を思い描く方が遥かに効果的だと思う。

緊張そのものに対処する方法は無いと思う。そのまま受け入れて何時もの様に演奏する事が一番早く緊張を収めたり、緊張を更なる力に変えてくれる。

普段の練習の中で求める精度を上げて集中する事。此処はステージの上だとシュミレーションすれば良い意味での緊張感が生まれるし、それ以上のシュミレーションは必要無い〜ただし、この場合は個人での練習の意味で、アンサンブルで行う場合は進行やホールでやる事、現実に近いシュミレーションで自然に緊張感を味わえる。要は緊張してもちゃんと身体は動くと判れば「余計な事」をしなくなり、普段通りに身体は動く。もし、ミスが出たとしよう。そのミスは普段は絶対に起こりえないか?音が揺れたとしよう。準備を慌てたり、息が整わないうちに楽器を吹いて同じ様なことは無かったか?緊張するあまり、いや、緊張に対処しようとするあまりにごく当たり前な手順を端折って無いだろうか?心当たりがあるなら緊張により敏感になり(これは感覚を研ぎ澄ませた状態でプラスに働くし、そこの感覚の鋭敏さに負けない心の強さは必要かも知れない)自身の意識がそれを加速させている。対処法として普段と違う事をする事で益々深みにはまる。

その時に最初に書いた、これから吹くフレーズをシュミレーションする事が普段から出来ていて、ステージ上でも出来れば身体は覚えており緊張とはほとんど関係無く身体のシステム動く。正確には脳の「意識がアクセス出来ない部位」が仕事をしてくれる。この部位に楽器を演奏する行為が記憶されないと楽器は上手くコントロール出来ない。いちいち分析すると全てはぎこちなくなる。考えれば考えるほど上手くいなくなる。
(ただし、自分の弱点を克服する時に出来ればアドバイザーから全体を観察してもらいバランスを修正する事は有効だと思う。しかし、この場合も全体を感じ取りながら全てが同時に動く事は大切で一ヶ所を分析してそれらを総合するようなアプローチは実戦では役に立たないと思う)




先ず、不調からでは無いけど右上の親知らずを1月に抜いてから、ほんの少し“違い”を感じていたのだけど、もう分からなくなった。

少しづつ身体の変化(ハード)に動き(ソフト)が対応した感じ。敏感な生徒さんによると音も変化したらしい(かなり)のだが、本人にはもう全然分からない。。

ただ、調子は良くなった気がする。全てでは無いけど二十代の頃のような柔軟な感触が有る。そして、音域がほんの少し、いや、音域自体は変わらないが、出る音の限界辺りの音質が改善されてしっかりした感じ。故意に何かをしたので無くて自然に時間をかけて変わった。


さて、生徒さんの中に無理をされてから本調子の頃と比べて不安定な調子の中で模索を続けている方が居る。

この「調子を崩す」って奴は小さなものから大きなものまでラッパ吹きなら皆が経験するもので自分にも有るし、周りの人の上でも多く見ている。
どちらかと言うと歳や経験を重ねた人に増える状態。若い時に体力やいわゆるパワーで吹いていたものが機能しなくなることもあるし、軽い程度だと知らずうちに戻ったり、また少しの無理をした時に落ち込んだり戻ったりを繰り返し長引く事も少なくない。

生徒さんを観察していると、最初は無理をして上手く働かなくなっているハードを休めずに使ってしまい、元の良いプログラムが崩れてしまった感じ。

そこで、「不味い!」と思い色々と意識的に吹き方に手を加えて益々はまり込みイメージを失って行く様子が見て取れた。

音のイメージ、音の表情とかを含む感触も薄れていく。最初はきっと求める物と違うから焦るのだけど、だんだんと求める物(イメージ)をも見失う。ここが一番怖い

レッスンで自然な方向に行き始める(必ず自然に動くまで何時間でもレッスンは終えない〜必ず音が出るのだと言う感触を持って帰ってもらう)と何も問題が無い位に吹ける。でも、失敗や調子悪いときの状態が少しでも起こるとそこから身構え始めてしまいその瞬間から硬くなり視野が狭くなり深みにはまって行く。普段の練習でレッスン時に僕が果たしている補助者が居ないとより陥りやすい。

その深みにはまる過程で何かちょっと工夫をしたら良くなったからそれを方法として再現するうちに、その細部に意識の焦点が当たってしまい全体のバランスが無くなったり、音や音程や音楽や耳から入る情報を感知出来ない状態により陥ってしまう。それにより元々のプログラムはますます崩れる。自分の身体や感覚を信用できなくなっている状態でもある。(その信用を取り戻す事を一番最初にレッスンではやる)

僕はレッスンをする時「アンブシュアの修正」が必要だと思っても直接そこに触れる事はあまりしない。吹いている時の口の形には意識を向けさせない様にする。音や身体の感覚が変われば口元は不思議と変化して行く。

例えば楽器の角度を上の音はこう、下の音はこうだと決めるので無くその時々に自由に身体やアンブシュアが勝手に動ける様にして(身体が選ぶようにして)、意識的に何かを工夫する事は極力避ける事が最善だと思っている。工夫はある意味一番危険な方法だと考える。

これは自身の上で沢山の実験をして、メモも取り、それらが必要無くなる毎に安定して来た経験からそう考えつつ同時に生徒さんを継続して長い間観察して行き着いた事と、「インナーゲーム」と言う素敵な考え方に出会った事、そして、それらを裏付ける脳科学の本に出会えた事(これはつい今年)で確信に変わって来ている。(でも、科学がその時々の最新の情報からの見地であるように変わるかも知れないが…)

確かにある程度の仕組みを知りその通りに動く事は大切なのだけど、実際に楽器を演奏しているその時は、「意識の上では全てを忘れていた方が良い。音や音楽に集中した方が良い」とシビアな場面になる程感じるし、その方が良い結果も得られる事を実感している。

脳科学的には演奏が上手くいっている時に身体の動きは脳の中の「人の意識がアクセスできない領域」で行われているそうだ。意識し始めると途端に怖くなったり失敗が生まれ出す。(経験が有りませんか?)

忘れられる様に訓練を積み、まるで歩いたり、話したり、ものを手で取ったりする様に楽器を演奏出来るのが最終的な目的地。この様な動作をする時にどうやって足を動かすか?どうやって発音するか?手の力の入れ具合は?と考えている様では物事は進まない。

緊張も同じで、緊張に対して何かの対処を考えるより、普段から演奏時に何をどうしてるかを事細かに考えずに音に集中して、自然に身体が動ける様に訓練を積み、本番でも同じ集中をすれば緊張は関係ない。いや、緊張は助けてくれる。何か対処をする事はせっかくの緊張のパワーを放棄するどころか、自然に起こる身体の状態に逆らう(頭や心の反応も含めて)事になるので本当の意味での克服にはならないと考える。

この話をもう少し具体的にしながら音を出してもらうと嘘みたいに不具合が消えて行く。大抵はこんなに考えなくて良いの?と言う感想になるし、上手くいって瞬間には自分が音を出す前に音が鳴るような感覚も経験する。
ただし、これはハードの不具合が起こって無ければで、その場合は新しいプログラムを再構築しないといけない。しかし、その行程は実はソフトの不具合に止まっている時と大きくは変わらず、ただ、より長い時間や高い集中力をかける事が必要になるだけだと思う。最初に書いたように歯の状態が変わったらプログラムは少し上書きが要るが、それが小さい範囲なら本人には無意識のうちに脳が終えてしまうし、しばらくの辛抱が必要な事も有る。
ここまで書くと分かると思うが、上達する過程も同じで自分の上にプログラムを作っていく。それは、こういう風に演奏したいというイメージと思いが一番大切で後はそれを補助するもの。


それでも、不調は本人にとっては物凄く大きな事で不安な中でつい何に飛びついたり、ふと、とても良いアイディアを思い付いた気がしたりしてそこに囚われてしまい自然な動きを邪魔する事が多い。レッスンではその状態を自然な方向へ導く。何かを付け足すと言う事はしない。

こう言う時に具体的な判りやすいアドバイス(それがどんなに良い内容でも)も新たに表面的なマニュアルになりやすいので殆どしない。何にどう集中するべきか?要するにどう音を聴き、その為に自然に身体が動くようにどう準備をするかを示す。時には吹いているところをただ漠然と全体を観察してもらい(絶対に細部を分析しない事!)真似てもらう事であっさり解決することも多い。それを分析してしまうとそのバランスや印象は消える。演奏時その時の身体の動きの分析は脳は理解出来て自然に動けている事を、意識がわからなくしてしまうのだと思う。

上に書いた修正(不自然な動きを除外して自然に身体が動きイメージを取り戻す手伝いをする事)を何度となく繰り返す事で枝葉が取れて大切な幹の部分がハッキリとしてくる。

脳科学の本はなんちゃって科学ではないので読み難いかも知れませんが、下に本の写真を上げておきます。興味のある方はぜひ読んでください。面白いですよ。




四年前にこんなことを書いてたんだなぁ。

最近読んだ脳科学の本でここで自分が「感覚」という事は脳の意識がアクセス出来ない領域の仕事だと知った。

楽器やスポーツの上達の為にはその動作が意識がアクセス出来ない領域に記憶されて自動的に行われなくてはならないそうだ。

そうで無く、目や耳や肌など感覚から入ったら情報が脳に達して意識して行おうとすると間に合わないのだそうだ。脳波を取った科学的なお話。


奏法をその都度分析して演奏してたのでは間に合わない。細分化してもその通りには動かない。意識がアクセスが出来る事はほんの一握りの限られた事で、脳は意識を通さずに自ら情報を受け取り身体へダイレクトに指令を出す。意識に伝えられるのはそのうちの一部。

例えばスポーツで選手がミスを犯した時にコーチが「考えろ」いう指示を出すのは脳の仕組みからすると返って上手くいかない方向へ向かう。考えずに動ける様にする事が一番効率良くミスが少ない動作に繋がる。

楽器を奏している時にどうやっているかを考える事は楽器を上手くコントロール出来ないことに繋がる。

ただし、意識は大きな方向性(どういう音を出したい、どんな音楽をしたい、どんな風にコントロールしたい等)を決めてそれを示し、全体のバランスを取るために必要である。それに基づいて、脳の幾つかの領域がそれぞれ身体に信号を送り身体を動かす。その連携が意識的にでは無くて自動的に行われる。それは意識がアクセス出来ない脳の領域の仕事であり、訓練によりそこに達した時に初めて思い通りにコントロール出来る。
身体の動作を変えるから意識が変わるのでは無い。そういう意味においては意識が変わり方向性を示すから身体が付いてくる。だが、その瞬間の動きは意識も分析されるものでは無い。

これを踏まえてレッスンを進めると具体的な身体の動きや楽器固有の動きを意識せずともその時に必要な力のバランスで様々な身体の場所が自然に連携して動く。

結局は音や音楽そのものにどう意識を向けるかが一番大切なアプローチで有り、そのほかは付属に過ぎないのだと目の当たりにする事になる。









右上だけに有った親不知抜歯後 2日目。


腫れは昨日よりさらに無い感じで歯の有った場所も楽な感じ。薬は一回も飲んで無い。


テクニック上の機能的にはもう何の問題も無い感じ。初日は唇自体が打撲傷のような感じで腫れていて吹き難く、昨日はかなり良くなったがほんの少し違和感が残るままだった。

予想していた不調とひょっとしたら良い方向へ向かうので無いかと考えていた事は両方と予想通りになりそう。不調はあっけない程早く修正されてる。良い方向は新しい事なので少し時間がかかるかな。


有るのは感覚のズレだけ。此処は意識的に時間をかけて丁寧に。音も少し変化してるけど慣れてしまいそのうち意識出来なくなるだろう。


此処からは物理的、医学的には全く根拠の無い仮説。


本来右の歯の有った隙間から頰の方へ空気が流れてアンブシュアは左にごく僅かに流れる。吹き始めはそのほんの少しの誤差を口当たりやアンブシュアの違和感として気になる。

(以前の感覚で構えるから)


でも、ウォームアップを続けるうちにそのギャップが埋まる。

構え方の力のバランスはほんの僅か左側に落ち着く。

(高い音を吹き続けると傷が痛むので何らかの負担はかかってるのだろう。)


このギャップはどこから来るのだろう?歯が無くなった逆の方向へアンブシュアのバランスが流れるのは生徒さんの親不知抜歯の時に確認済みで、そこを筋力で補おうとするとうまくいかず、逆に流れる方へ流される事が自然で効果的な事は実証済み。


ではどうやってそのバランス度合いを選ぶのか?

まあ、音を頼りにゆっくりと合わせていけば身体が選ぶが何を手がかりにするか?


マウスピースを唇に乗せる時ちゃんと呼吸が取れていれば、プレスを押し返す力が一番強くコントロールしやすい所にマウスピースを乗せようとすると思う。上下それぞれの唇に有るポイント。

唇やその周りの筋肉の中で一番力が使えるポイント。個人的には赤い部分と白い部分の境目辺りか少し外側だと思う。

それが「その人の真ん中」となる。それは、筋肉の強さ(左右でも違う)や骨組みとなる歯並びでも場所は変わるだろう。外から見て大きくずれてる事も有るだろう。でも、その人にとっては真ん中。


この時に息が吸えて身体の中に楽器を吹くエネルギーが満ちて無いと正確な位置は選べないと僕は考える。演奏家の中で息を吸いながら構えたり、構えてから大きく息を吸う人が居ると反論されそうだけど、彼等には演奏してるその瞬間のイメージが確立されていて全てが同時に動いていたり、後から吸ってる様に見えて実は既にかなりの量の息が身体に取り込まれている事も多いと思う。


さて、何かトラブルが起きた時やアンブシュアのバランスが変更される事象が起きた時にその筋肉の強さエネルギーのバランスの真ん中がそれまでの物理的な場所からずれる事が多いと予想する。

身体全体での構えの位置や唇の表面の位置と筋肉の新しいバランスのズレから迷う事になる。この時、アンブシュアのコントロールが悪く感じたり曲がった様に感じたり、張り付いた様に感じたり、不快に感じるのではないのだろうか。。


表面で無くて筋肉(骨格や歯の並びを含んだ)の力のバランスの真ん中にマウスピースを乗せてあげればコントロールは回復すると思う。これは息を吸い丁寧にマウスピースを唇の上に乗せるプロセスを何度かやりつつシンプルなフレーズを吹けば感じ取れるだろう。後は記憶に残る表面の場所や構えた時の微妙なズレを新しい場所に上書きすれば良い。大事なのは筋肉のバランスが取れる事でマウスピースを受け止めた時に柔軟さと強さを感じ取れる場所である事。

これは最初にガッツリ押さえ込むとその場所は判らなくなるので、息を取ってから最後に乗せる事を勧めてる。

(例えばスタンプの教本にも最後にマウスピースのプレスをかけると有る)


新しい真ん中が見つけられればそれ以外の全ては意外に簡単に見つかるのでは無いかな。


アンブシュアは身体や呼吸、構え方、喉、舌、全ての最終的な結果が現れていると考えている。だから見た目を変えても上手いかない事が多いのだと思う。アンブシュア単体だけを見ても見えない筋肉の強さ(動きは見える)が大きなポイントでは無いかなと思う。


僕は毎日その日のベスト(ベター?)な感覚を探すようにウォームアップをする。だから毎日少しづつバランスは違うかも知れない。その振れ幅を少し大きく捉える事で今回は楽に対処出来そう。


後は慣れた曲で自分の状態を確認する方が基礎トレーニングに拘るより明確になる事も少なくない。


そして「音楽家のためのインナーゲーム」の考え方とこの音のセンターを明確にしてくれるマウスピースのリングもこういう時に助けてくれる。


こういう機会はあまり無いのでこの観察は色々な場面で役に立つと思う。

(あまり出会いたく無い状況だけど 笑)



  




レッスンで大事なのはどうやったら出来るを教える事よりどうやったらやり方を見つけられるか?を会得してもらう事だと思うこの頃。

しかし、毎日吹けなくて、しかも大変な楽譜を吹かなくてはならず調子がブレやすい社会人の愛好家の方のレッスンなどはそのバランスを戻してあげるようなインストラクター、トレーナーの一面と自分で紐解いてもらう様にさらに先に進めるようにレッスンをする二面が必要だと考えてる。

今日は少し手早く調子の調整と曲のアプローチと思って2時間経ち終わったと思った所で「もう一曲あるのですが…」とピアノとフォルテのソナタのパート譜が登場(笑)

そこから一時間やりましたとも。

その中で「このフレーズの感じ方を会得できる練習方法は有りませんか?」と訊かれたのだけど、「有りません」と正直に答えて、そのフレーズを出来るだけ簡単にした状態を吹いてもらいどうやったらフレーズの一番コア部分が感じ取りやすくなるかを伝えた。幸いそれで感じ取って貰えてその瞬間にタンギングや技術も改善された。

身体がどう動くか?どんな奏法をしてるか?に留まらずにその人が何を聴いて何を見て何を考えているか?に辿り着くことが教える時には外せない。根本が変わらないとまた違う道程を辿って同じ迷路にはまると思う。身体に現れてることは結果だから。僕は身体だけを見るのは浅いと考えてる。

今日の質問からは、やはりその方の何処かにマニュアルを求めているのだなってのが判る。これは悪口で無くて誰でもある事で自分自身にも有る。こうやったら全て上手くいくのでは無いかって… でも、そんな便利な物があったら誰でも直ぐに上手になるし、それを唱えている人が居たらその人は天才級に演奏出来る筈。やっぱり出来るまで、違いを感じ取れるまで練習したり求めるのが第一に有って、教える側はその本人が気がついてない事、表に出てない深い部分を見抜いてヒントを渡す事がとても重要だと思う。

先日は活動の中で無理をした事により、倍音の変わり目でどうしても唇を強く閉じ音を口で掴む感じに陥って唇の振動が止まる様に陥ってしまった方に、口はそのままにしながら(唇に余分な力が働かない様に動きたいように自由にさせる様に)もっと歌う事、喉を使いましょうと日頃の一番かけるアドバイスをして「唇が開きますよね〜?」て声をかけたら「はい、それが怖くて(音が出なくなるのではないかと)閉じるようにしてます」と返事が……

本人が無意識のうちにかなり意識して行動してる事が本人の口から語られた瞬間。気が付いた途端に音はかすれが消えた。僕としては口を閉じるのは何か他の意識が原因?って考えまくってたのだけど、答えは一番単純だった。もちろん、そこに陥る様になった原因が有って本当に意識する部分はそちらなのだけど、先ずは音が消える事への不安を取り除かないと先へ進めない。

難しいのは本人が気がつかないうちにただ指摘だけをしても意識の深い所に届かないか、分かって貰えないと誤解を受けるか、やっぱりダメなのか…ってなりやすい事。本人の口から語ってもらうのが一番早い。本人も「え⁈」てなる。本人が大切だとか常識だと思ってる事にその1番の大元が隠されてる事が多い。

そのお二人に音の出だしで効果的に働いた言葉。
「音程を歌う喉、タンギング、唇の3つが同時に動く様に意識して下さい」(最初はタンギングと唇だけでも良い)
本当は呼吸や様々な事全てが同時に動く事が必要だけどその3つだけでも、一つ一つに注目する事によりバラバラになった事が同時に動き始めるだけで全体として動き出す。僕の感覚とは違うのだけど本来あるべきバランスに繋げるにはとても効果的。

この大曲の中に「トランペットシャルサウンド」と言うトランペットのソロを伴ったバスのアリアが有る。

先日も書いたのだけどラッパ吹きには緊張を強いられる曲の一つ。

3時間ほどの中で最初の30分位に一度出番。その後は2時間弱程タセット(休み)の後に有名なハレルヤコーラスを演奏してその約10分後にシャルサウンドとなる。

待ち時間が長くて、特にステージ上だとコンディションの確認も出来ないし出たとこ勝負になり経験が必要になる。

しかし、譜面はそれほど難しい事が書いてあるのでは無く、美しくて力強いメロディがバスとの掛け合いとなり長く続く。
長く待たさせれた後に長いフレーズを吹く事はラッパ吹きにとってはあまり嬉しくないパターンではある。でも、その楽譜のシンプルさにこの曲の本来の大切さを意識した演奏が少ないように感じる。

実は自分も長い間そうだった。途中からなぜこの曲のトランペットはこんなにしっくりとこない、音を並べただけにして聴こえてしまう演奏が多いのだろうとはずっと感じていて、それを感じ始めた頃から自分の演奏の上では様々な試行錯誤を繰り返して来た。

ミス無く演奏して少し歌えばオーケーなのか?カッコよく吹けばオーケーなのか?そこに疑問を抱きつつ、ずっとはっきりとした答えは出なかったのだけども、ある演奏家に出逢ってそれらが大きく解決に近づいた。

「このアリアはこの曲の中で唯一器楽ソロを伴うアリアで復活の場面で歌われるとても大切な意味を持つアリア。神の審判のラッパ。なぜ皆そんなに楽しそうに吹くのか?あなたはクリスチァン?」

そこに答えは含まれていた。
その時からかならず堂々と立奏をし、ちゃんと曲の持つ重みを感じながら演奏するようになった。

あの場面でラッパは圧倒的な印象を聴衆に与えるべく使われている。フレーズを眺めていくと、歌詞は無いが言葉となるモチーフやバスとの掛け合いの中でお互いが会話をするように、お互いがお互いを模倣するように、時にトランペットが寄り添うように、とても表情豊かに書かれている。前奏から沢山の音の言葉が並ぶ。それをちゃんと理解してその時々に使う楽器やオーケストラとのバランス、ソリストとの会話、全てを眺めて自分がどう音楽を音を通して喋り語るか?

ダ・カーポした時は僕は喜びも含ませる意味で音を飾る。ソリストが飾って進めばお互いがお互いからの誘いを受けて音型やメロディを変化させながら会話をする。

少し若い時にある場所で、そうではなかったのだけど、「音を飾って色気を出そうとするからミスになる」て意味の事を言われた事が有る。それはとんでもない間違いで、音楽の本質や楽譜通りの意味を理解してないからそんな理不尽な言葉になるのだと思う。

無理矢理コネて表情を作るわけではない。でも、音を無機質に並べて間違えなかったらそれが正しい訳では絶対に無い。まして、その時の気分でちょっと歌ってみるのも違う(こういう場合は弱拍で歌ってる事が少なくなくてバロックから離れていってしまってるのを耳にする)

ひたすら台詞を読み込んで自分の言葉として発さられるように楽譜を感覚の中に落とし自然に楽器を通して歌えるようにする。後はその時々の空気に身をまかせる。自分の心の動きも空気の中で自然と変化して音に現れる。頭で考えるので無くて心の内側から溢れ出る音楽にしたい。

次は来年の3月に姫路にて。