先日も書いたのだけどラッパ吹きには緊張を強いられる曲の一つ。
3時間ほどの中で最初の30分位に一度出番。その後は2時間弱程タセット(休み)の後に有名なハレルヤコーラスを演奏してその約10分後にシャルサウンドとなる。
待ち時間が長くて、特にステージ上だとコンディションの確認も出来ないし出たとこ勝負になり経験が必要になる。
しかし、譜面はそれほど難しい事が書いてあるのでは無く、美しくて力強いメロディがバスとの掛け合いとなり長く続く。
長く待たさせれた後に長いフレーズを吹く事はラッパ吹きにとってはあまり嬉しくないパターンではある。でも、その楽譜のシンプルさにこの曲の本来の大切さを意識した演奏が少ないように感じる。
実は自分も長い間そうだった。途中からなぜこの曲のトランペットはこんなにしっくりとこない、音を並べただけにして聴こえてしまう演奏が多いのだろうとはずっと感じていて、それを感じ始めた頃から自分の演奏の上では様々な試行錯誤を繰り返して来た。
ミス無く演奏して少し歌えばオーケーなのか?カッコよく吹けばオーケーなのか?そこに疑問を抱きつつ、ずっとはっきりとした答えは出なかったのだけども、ある演奏家に出逢ってそれらが大きく解決に近づいた。
「このアリアはこの曲の中で唯一器楽ソロを伴うアリアで復活の場面で歌われるとても大切な意味を持つアリア。神の審判のラッパ。なぜ皆そんなに楽しそうに吹くのか?あなたはクリスチァン?」
そこに答えは含まれていた。
その時からかならず堂々と立奏をし、ちゃんと曲の持つ重みを感じながら演奏するようになった。
あの場面でラッパは圧倒的な印象を聴衆に与えるべく使われている。フレーズを眺めていくと、歌詞は無いが言葉となるモチーフやバスとの掛け合いの中でお互いが会話をするように、お互いがお互いを模倣するように、時にトランペットが寄り添うように、とても表情豊かに書かれている。前奏から沢山の音の言葉が並ぶ。それをちゃんと理解してその時々に使う楽器やオーケストラとのバランス、ソリストとの会話、全てを眺めて自分がどう音楽を音を通して喋り語るか?
ダ・カーポした時は僕は喜びも含ませる意味で音を飾る。ソリストが飾って進めばお互いがお互いからの誘いを受けて音型やメロディを変化させながら会話をする。
少し若い時にある場所で、そうではなかったのだけど、「音を飾って色気を出そうとするからミスになる」て意味の事を言われた事が有る。それはとんでもない間違いで、音楽の本質や楽譜通りの意味を理解してないからそんな理不尽な言葉になるのだと思う。
無理矢理コネて表情を作るわけではない。でも、音を無機質に並べて間違えなかったらそれが正しい訳では絶対に無い。まして、その時の気分でちょっと歌ってみるのも違う(こういう場合は弱拍で歌ってる事が少なくなくてバロックから離れていってしまってるのを耳にする)
ひたすら台詞を読み込んで自分の言葉として発さられるように楽譜を感覚の中に落とし自然に楽器を通して歌えるようにする。後はその時々の空気に身をまかせる。自分の心の動きも空気の中で自然と変化して音に現れる。頭で考えるので無くて心の内側から溢れ出る音楽にしたい。
次は来年の3月に姫路にて。