前回の続き。

 (前回) 【ヨハネ19章】 キリストの死を直視する … 真実を直視した魂は、霊的死人の墓から起きあがる

 

■ 命ある者の墓は空っぽです

 

今回は、ヨハネ福音書20章を書こうと思ってました。

復活したイエスが墓から抜け出し、マグダラのマリアや弟子たちと会う場面です。

 

「空っぽの墓」は、キリスト教の重要なシンボルの一つです。
私が持っているドイツ語聖書の表紙です。
空っぽの明るい墓は、復活や永遠の命の象徴なんですね。
 
 ……後の代に語り伝えよ
 この神は世々限りなくわたしたちの神
 
死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。
 
 ――旧約聖書 『詩編』 48編14-15節
 
過去の偉人の死は、今の私たちに遺訓しか残してくれません。
聖人のミイラや、仏陀の遺骨だという仏舎利は、
宗教的にありがたいアイテムかもしれませんが、
いまを生きている私たちの魂を生かしてくれるものではありません。
 
しかしイエスは死から復活して、命を得たから、お墓には居ません。
聖霊として、今も常に私たち一人ひとりに語りかけ、共にいることができる。
命の息(インスピレーション)を吹きかけ、
「死を越えて、わたしたちを導いて」くれる……
それを信じて受けいれるすべての人を。
 

● 「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる

 

 ――旧約聖書 『列王記上』 17章1節 

 
● 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、

 全能者である神、主、

 かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」  

 

 ――新約聖書 『ヨハネの黙示録』 4章8節 

 
死んだらそれっきりの人間や権力に依存するのではなく、
永遠に生きておられる神を基準として生きることを知る。
どんなお勉強よりも、まず神を知ることが大切だと思います。
 
で、「お墓」という霊的シンボルについていろいろ考えていたら、

今はちょうどお墓参りシーズンだということに気づきました。

春分と秋分の前後7日間が「お彼岸」なのですね。

 
せっかくのタイミングですから、今回は人の死と墓について語られている、
旧約聖書の『詩編』49編を中心に見てみたいと思います。
ヨハネ20章は次回以降にします……インシャーアッラー(神の御旨ならば)。
 
■ 詩編49編 … 霊的教訓の弾き語りライブ? 
 
『詩編』の詩は全部で150編あります。
(旧約聖書外典には151編がありますが、あんま大した内容じゃないから除外でOK。)
 
詩編は全体的に、神殿で奉唱する内容のものが多いです。
神に捧げる詩ですからね。
 
でも、詩編49編は、町の広場で弾き語りをするのに向いていそうな内容です。
冒頭の2-5節が、他の詩編とはちょっと異なる趣きで、カッコイイ☆
旅の吟遊詩人が、町から町へと霊的教訓を歌い歩いているようなイメージです。
スナフキンのイメージでもいいかも(笑)
 
私の印象では、詩編48編末尾の、「後の世に語り伝えよ……」という呼びかけに応答して、
49編の詩人が 「諸国の民よ、これを聞け (2)」 と語り始めている感じがします。
なのでここでは、48編の最後~49編全体を一気に見てみます。
 
【 詩編 第48編 】  ※ 文末の丸括弧は節番号
 
 ……後の代に語り伝えよ (14)
 この神は世々限りなくわたしたちの神
 
死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。 (15)
 
【 詩編 第49編 】   【指揮者によって。コラの子の詩。賛歌。】 (1)
 
 諸国の民よ、これを聞け
 この世に住む者は皆、耳を傾けよ (2)
 人の子らはすべて
 豊かな人も貧しい人も。 (3)

 わたしの口は知恵を語り
 わたしの心は英知を思う。 (4)
 わたしは格言に耳を傾け
 竪琴を奏でて謎を解く。 (5)
 
 災いのふりかかる日
 わたしを追う者の悪意に囲まれるときにも
 どうして恐れることがあろうか (6)
 財宝を頼みとし、富の力を誇る者を。 (7)
 神に対して、人は兄弟をも贖(あがな)いえない。
 神に身代金を払うことはできない。 (8)
 魂を贖う値は高く
 とこしえに、払い終えることはない。 (9)
 人は永遠に生きようか。
 墓穴を見ずにすむであろうか。 (10)

 人が見ることは
 知恵ある者も死に
 無知な者、愚かな者と共に滅び
 財宝を他人に遺さねばならないということ。 (11)
 
自分の名を付けた地所を持っていても
 その土の底だけが彼らのとこしえの家
 代々に、彼らが住まう所。 (12)
 
 人間は栄華のうちにとどまることはできない。
 屠られる獣に等しい。 (13)

 
これが自分の力に頼る者の道
 自分の口の言葉に満足する者の行く末。 〔セラ (14)   ※セラ = 休符

 陰府(よみ)に置かれた羊の群れ
 死が彼らを飼う。
 朝になれば正しい人がその上を踏んで行き
 誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。 (15)

 しかし、神はわたしの魂を贖い
 陰府の手から取り上げてくださる。 〔セラ (16)

 人に富が増し、その家に名誉が加わるときも
 あなたは恐れることはない。 (17)
 
死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず
 名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。 (18)
 命のある間に、その魂が祝福され
 幸福を人がたたえても (19)
 彼は父祖の列に帰り
 永遠に光を見ることはない。 (20)
 
 人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。
 屠られる獣に等しい。 (21)
 
子どもにも理解できるシンプルな内容ですね。
 
地位、財産、名誉があって、人間界では祝福された者だとみなされていても、
人はいつか必ず死ぬ。
貧しい者も、富んだ者も、最終的な住処は墓である。
生前に貯めこんだ財産は他者の手に渡る。
しかし、神に従う者は陰府から救い出される。
 
この世は虚しいという諦観を語って終わりではなく、
人の魂を陰府から救い出してくれる神、永遠の命を与えてくれる神がテーマの詩です。
 
■ 魂の代価を支払えるのは神自身のみ
 
49編でまず注目したいのがここですね。
 
 神に身代金を払うことはできない。 (8)
 魂を贖う値は高く
 とこしえに、払い終えることはない。 (9) 
 人は永遠に生きようか。
 墓穴を見ずにすむであろうか。 (10)
 
贖う(あがなう) = 代価を払って買い戻す、取り戻すこと。
魂を贖う = 代価を払って、人の魂を死から取り戻すこと。
 
聖書世界の「死」は、神に背いた「罪」の結果です。
神から離れている罪人は、肉体が生きていても、霊的には死んでいる状態ですから、
どこで何をやっていても、陰府の墓場に住んでいるのと同じです。
 
人が死から復活するには、神に背いた魂の罪を清めて、
再び神とつながるしかありません。
魂の罪を清めるための代価を、この詩では「身代金」と表現しているわけですね。
 
しかしこの世の金銀財宝はもちろんのこと、
善意、善行といった霊的に価値ある行為も、魂を清めるための儀式や修行なども、
人の魂を陰府(罪)から救い出す身代金としてはぜんぜん無価値です。
 
人に魂を与えたのは神です。
だから魂の源、所有権は神にあります。
 
 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、
 その鼻に命の息を吹き入れられた。
 人はこうして生きる者となった。
 
 ――旧約聖書 『創世記』 2章7節
 
神は全能ですから、全能の神から出た魂(命の息)の価値は無限大∞です。
魂の価格は、日本円に換算できるとするなら「 無限∞円 」です。
 
しかし人間は有限の存在です。
有限の存在である人間が、宇宙の果てまで行って、
有限世界のすべてのものを積み上げたとしても、
「 無限∞円 」という代価を払うことは不可能ですね。
 
 無限∞ > 越えられない壁  > 有限
 
第一、神は天地万物を創造したわけですから、
この世のすべてのものは神のものです。
 
 たとえ飢えることがあろうとも
 お前に言いはしない。
 世界とそこに満ちているものは
 すべてわたしのものだ。
 わたしが雄牛の肉を食べ
 雄山羊の血を飲むとでも言うのか。
 
 ―― 『詩編』 50編 12、13節
 
人間が「これは私が獲得して所有しているものだ」と思っているものも、
その所有権はすべて神にあります。
全財産をすべて神に捧げたとしても、それは神のものを神に返しているだけです。
神に対して代価を払っていることにはなりません。
 
霊的徳積みなども、やはり有限の範囲内の行為です。
善因善果、カルマの法則、原因と結果の法則、等価交換の法則……
そういうものが通用するのは、有限世界の一部の範囲内だけです。
 
しかも、神を相手に等価交換の法則が成立するとしても、
価格が無限∞円である魂を買い戻したければ、
無限∞円の価値があるものを差し出す必要があります。
 
人間どうしの取引なら、限りなく無限∞に近い価値のある物もあるかもしれませんが、
無限∞そのものの神に対してはまったく通用しません。
「これには無限∞の価値があるんだ!」と心底信じているものでも、
それは人間基準での自己評価でしかないので、神の前には通用しません。
 
しかも諸々の自然法則を作ったのも神ですから、
法則の創造者である神自身は、あらゆる法則の枠外にいます。
○○の法則をもとにした取引が成立するのは、
神以外のものを相手にしている時のみです。
 
そういうわけで、人間が何をどうあがこうとも、
 
神に身代金を払うことはできない……とこしえに、払い終えることはない。(8、9)
 
というしかないのです。
総資産が1京円(10,000兆円)を超えると噂のユダヤ人ロスチャイルド家も、
神の前には無力なのです。
 
しかし、一つだけ、魂に命を得る道があります。
 
 しかし、はわたしの魂を贖い
 陰府の手から取り上げてくださる。 〔セラ (16)
 
無限∞の神に対して、無限∞という代価を支払うことができるのは、神自身のみです。
神ならば、人の魂の罪を清めて、陰府から取り戻すことができる。
それを実現するのが、旧約聖書で預言されている救い主メシア(キリスト)です。
 
イエスがキリストと呼ばれるのは、病気治しなどの超常パワーがあるからではなくて、
人々の魂を贖う(買い戻す)ための身代金として、
自身の命を神に捧げた(十字架刑で殺された)からです。
 
イエスを神の子メシア(キリスト)と信じた人は、
イエスの犠牲(犠牲の血)によって、その罪を清められ、
魂を贖われる=救われます。
 
■ IN GOD WE TRUST 神を我らは信ず
 
アメリカの硬貨、紙幣には、このモットーが印字されたものがありますね。
現在のホワイトハウスの主は、神を信じていなさそうですが。
 
誰がどれだけの富と権力をもっていようとも、神の前には無力です。

 

しかし神の子イエスの血は、すべての人の魂を買い戻すことができる。
十字架で流されたイエスの血を「宝血」ということもあるようです。
 
 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
 独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
 
 ――新約聖書 『ヨハネによる福音書』 3章16節
 
人間の財産を信じるのではなく、神を信じる。
神から与えられた救い主メシア(キリスト)としてのイエスを信じる。
IN GOD WE TRUST。
 
人間は、神に対して魂の代価を払うことができませんが、
神は等価交換の法則云々のパラダイムを越えて、
無償で魂を救う=死から復活させることができる。
人間がするのは、ただそれを信じることだけです。
神の救いは、人間の努力や犠牲に応じた救い(等価交換)ではありません。
IN GOD WE TRUST、ただ神の救いを信じて受けとるだけです。
 
だからイエスが十字架につけられたとき、
イエスの横で同じく十字架刑になっていた受刑者と、
こういう約束が成立しています。
 
 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。
 「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
 
 すると、もう一人の方がたしなめた。
 「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。
 しかし、この方は何も悪いことをしていない。
 
 そして、
 「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」
 と言った。
 
 するとイエスは、
 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる
 と言われた。
 
 ――新約聖書 『ルカによる福音書』 23章39-43節
 
この受刑者は、イエスの十字架の場面にしか登場しない人です。
名前すらわからない。
でも、最期の最期にイエスに出会って、イエスを神の子だと信じています。
ただそれだけで、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、
イエスから救いを約束されています。
 
キリスト系カルト団体の中には、この受刑者の救いを否定する団体もあるようです。
神に対して何の働きもしていない者が救われるのはおかしいと。
↑それは人間レベルの等価交換パラダイムの発想です。
自分の常識内に神を閉じこめてしまうから、キリストの救いの意味も価値もわからなくなる。
 
神は人間の枠組みの外にいます。
イエスと出会ったばかりの受刑者ですら、イエスを信じたら救われた。
それが神の救いであり、恵みです。
それができるからイエスは救い主メシア(キリスト)と呼ばれます。
 
無償で与えられる救いを、「恵み」といいます。
キリストの看板をかかげて、クリスチャンを自称していても、
神の恵みであるキリストの救いを否定している限り、
それを受けとることができず、死人のままです……
 
神に対して何かの働きをしなければ救われないと考えている人や、カルト団体は、
神の救いを信じているのではなく、「自分の働き」を信じていることになります。
あらゆる自力救済宗教、またスピリチュアリズム、自己啓発の欠陥がそこにあります。
 
 
人間自身での魂の自力救済は不可能です。
自分の無力と神の全能を受けいれられれば、すぐに「恵み」を受け取れます。
自分の無力を否定している間は、神の恵みは受け取れないです……
 
魂の救いとは、この世での悲惨な現状が改善される等のことではなく、
神との関係が回復されることをいいます。
神との関係が回復されたから、再び魂に命を得ることができます。
 
もちろん、物理的に悲惨な状況を改善していくことはぜったいに大切です。
そのためにまずなすべきことが、神との関係を取り戻して、
神を基準とした生き方にシフトすること。
 
神を蚊帳の外に置いた状態でのヒューマニズム、慈善活動は、
独善の押し売りや、エゴの駆け引きゲームに堕して失敗します。
熱心な宗教活動も、当人には申し訳ないけど、神を無視した独善にすぎないです。
 
■ 墓場に住むセレブ……
 
少し前に見た、『マルコによる福音書』の5章では、
悪霊レギオンに憑かれた人が墓場に住んでいましたね。
その人はイエスと出会い、正気に戻りました。
追い出された悪霊は豚に憑依して、豚が集団溺死しました。
 
私は悪霊憑きの人を、「墓場に住む社畜」というイメージで話を進めましたが、
先日のあるニュースをみて、「墓場に住むセレブ」でもありえるなと思いました。
 
 死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず
 名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。 (18)
 命のある間に、その魂が祝福され
 幸福を人がたたえても (19)
 
ピエール瀧さんが、麻薬で捕まってましたよね。
『アナと雪の女王』のオラフの吹替がぴったりで、大好きでしたが……
 
TOKIOの山口メンバーの事件もショックでした。
アルコール依存症で通院していた最中の事件だったそうですね。
 
こういうニュースがあるたびに、
マルチに活躍して、人気も仕事も高止まりで、十二分に豊かであろう人が、
どうしてこんなつまらないものに手を出して、自滅してしまうのかなと、
本当に不思議で残念に思います。
 

 人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。

 誰がそれを知りえようか。
 心を探り、そのはらわたを究めるのは
 主なるわたしである。
 それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる。
 
 ――旧約聖書 『エレミヤ書』 17章10、11節
 
本人の魂が望んでいることと、実際の芸能活動内容がマッチしていないのかな。
私のような第三者が評論するのは野暮なことですが、
こういうことで自滅してしまう著名人の魂は、
詩編49編でいうところの「陰府」にある状態だったのだろうな……と思います。
 
著名人を「セレブ、セレブリティ」ということがありますね。
セレブの動詞 celebrate … 祝う、称賛する。
 
 命のある間に、その魂が祝福され
 幸福を人がたたえても (19)
 
これは、まさにセレブな人のことですね。
「あなたは成功者だ、人気も財産も実力も豊かだ」とセレブレイト(称賛)される。
しかしセレブでも、魂は惨めな陰府の底にあるのかもしれない……
 
事務所の意向、スポンサーの意向、ファンの期待、世間の評判といったものが、
「レギオン/大勢、みんな」という悪霊となります。
セレブであるほど、本来の「個」としての魂がレギオンに乗っ取られやすいでしょうね。
そして霊的に命無き「アイドル/偶像」になってしまう。
もはや自力では、命を取り戻すことができない……
 
■ 生きていれば、ご飯がおいしく感じられるはず
 
槇原敬之さんが麻薬で失敗して復帰後の、インタビュー記事がとても印象的でした。
10年ほど前の記事ですが、私の読書ノートにメモってあります。
 
 売上枚数が下がっても、
 音楽の質が下がったわけじゃない。
 
 おいしいものを食べるために稼ぐより、
 ものをおいしく食べるために仕事する方がいい。
 
 言葉遊びみたいな歌詞より、
 何が伝わったかで褒められる方がうれしい。
 
 ―― 槇原敬之 『R25式インタビュー モバイル版』  (年月日不明)
 

槇原敬之さんのようなセレブじゃなくても、誰にでも当てはまることだと思います。

 
とくに「ものをおいしく食べるために仕事する」という表現は、
ずっと私の心の中に残っています。
 
実は私がルーン占いのリーディングをしていたとき、
どんなに誠心誠意リーディングをして、感謝されても、
それで受けとったお金で食べるご飯はおいしく感じられませんでした。
 
 欺(あざむ)き取ったパンはうまいが
 後になって口は砂利で満たされる
 
 ――旧約聖書 『箴言』 20章17節
 
他者を欺いて盗んだパンを食べていたわけではない。
これは神の前で堂々と言えますが、
私のルーンリーディング、ヒーリング、講座などは一つ一つ、
真剣にさせていただきました。

 

でも、自分自身を欺いていたんだなと思います。

 

自分を欺くってことは、神を欺くのと同じです。
聖書でいう「罪人」です。
神の御旨とマッチしていない生き方をしているから、
何を食べても、本当に砂利を食べているような気分になってしまう。
ご飯がおいしく感じられない時は、何かが間違ってるんですよね。
 
何を食べてもおいしくない時って、生きている実感がわかない。
それでは墓場に住んでいるのと変わりない……死んでいるんですね。
 
 人間は栄華のうちにとどまることはできない。
 屠られる獣に等しい。 (13)
 
これが自分の力に頼る者の道
 自分の口の言葉に満足する者の行く末。 〔セラ (14)
 
私は、神の存在はずっと前から当然のこととして信じていました。
でも、頼ってはいなかったと思います。
神は相談相手としてはものすごく頼りになるけれど、
実際の助け手としては信頼しきれないというか、アテにならないというか。
そういう不確実なものに頼るより、私が自分で何とかした方が確実だと考えてしまう。
 
でも、現実世界のことなら、自分で何とかして、
あるいは占いなどに頼って何とか対処できたとしても、
魂に命を得ること=心が平安であることは、人間の自力では不可能です。
 
ポジティブシンキング、座禅、センタリングetc……対症療法にすぎないです。
神を土台としない限り、どんなワークも気休め以上の効果はありません。
それでは死んでいる魂を陰府から取り戻すことはできません。
 
いま、心が満たされていてお腹いっぱい、天国気分の人は、それでいいです。
でも、そうではないと感じている人は、神との関係を本気で見直した方がいいです。
 
IN GOD WE TRUST ……中途半端な信じ方ではダメですね。
信じるなら、信じきることです。
金(この世の物)を信じて墓に下るか、神を信じて命を得るか、二択です。
 
 だれも、二人の主人に仕えることはできない。
 一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。
 あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。
 
 ――新約聖書 『マタイによる福音書』 6章24節
 
 
 
※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』
 
※ イエスキリストの純粋な福音を知りたい人には、
 『キリスト教放送局 FEBC』をお勧めします。
 
■ 「神と聖書と日ユ同祖論」 記事一覧&リンク →こちら
 
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