前々回からの続き。

 (前々回) 【マタイ27章】 選択には責任が伴う … 裏切り者のユダより悪質な群衆(レギオン)

 (前回) 【ヨハネ19章】 この人を見よ(エッケ・ホモ)… 神の前でも、堂々とそれを選択できますか?

 

■ 自分たちが刺し貫ぬいた者を見よ

 

前回に見た『ヨハネによる福音書』19章前半では、

イエスを十字架刑にしろと騒ぐユダヤ群衆に対して、

総督ピラトは三度、イエスに注目させようと奮闘しました。

 

【 前回のポイント 】

 

・「この人を見よ、エッケ・ホモ」 (5節)

 

・「見よ、おまえたちの王だ」 (14節)

 

・「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」 という罪状書きを十字架に掲げる (19節)

 

ヨハネ19章後半以降も、登場人物は変わりますが、

引き続き「 この人を見よ = イエスを見よ 」というテーマで話が続きます。

 

イエスが十字架に掛けられてから絶命するまでの間にも、

周囲の人といろいろ重要なやり取りがありますが、そこは今回はパスします。

 

今回は、イエスがついに息絶えた直後の場面から見ていきます。

 

 【 ヨハネによる福音書 19章 】  ※丸括弧は節番号

 

 その日は準備の日で、翌日は特別の安息日であったので、

 ユダヤ人たちは、安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために、

 足を折って取り降ろすように、ピラトに願い出た。 (31)
 そこで、兵士たちが来て、

 イエスと一緒に十字架につけられた最初の男と、もう一人の男との足を折った。 (32)

 

 イエスのところに来てみると、既に死んでおられたので、その足は折らなかった。 (33)
 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。

 すると、すぐ血と水とが流れ出た。 (34)

 

 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。

 その者は、あなたがたにも信じさせるために、

 自分が真実を語っていることを知っている。 (35)

 

 これらのことが起こったのは、

 「その骨は一つも砕かれない」という聖書の言葉が実現するためであった。 (36)
 また、聖書の別の所に、

 「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。 (37)

 

 

まず34節、十字架上で息絶えたイエスのわき腹を刺したのが、

冒険ゲーム御用達の聖槍ロンギヌスです。

 

イエスを刺したローマ兵士の名がロンギヌスだと伝えられていますが、

意外なことに、聖書本編にはロンギヌスの名はいっさい出てきません。

この槍を聖槍としてありがたがる記述もありません。

 

だからロンギヌスの槍とか、最後の晩餐で用いられた聖杯とか、

そうした聖遺物の探索はインディー・ジョーンズに任せておきましょう。

 

神を信じる人が注目すべきは、地上の遺跡や遺物ではなく、

いま生きておられる神、今リアルタイムに私たちを生かしてくれている神です。

 (参考) 神は永遠の存在者 … 「アルファでありオメガである」「主は生きておられる」 御霊の火、風、水

 

 しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。

 すると、すぐ血と水とが流れ出た。 (34)

 

この場面で重要なのは、イエスを刺した槍や兵士ではなく、

槍で突き刺されたイエスです。

「この人を見よ (5)」

槍で刺されたイエスにピントを合わせます。

 

 また、聖書の別の所に、

 「彼らは、自分たちの突き刺した者を見る」とも書いてある。 (37)

 

これは旧約聖書の預言書『ゼカリヤ書』12章10節のことです。

エルサレムの救いについて、神がこう預言させています。

 

 わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。

 彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、

 独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。  (ゼカリヤ 12:10)

 

ダビデの家とエルサレムの住民 = ユダヤ人。

彼ら自らが刺し貫いた者であるわたし = 神。

ユダヤ人は、自ら神を刺し貫き、その神を見つめることになるという預言です。

 

『ヨハネ福音書』の著者(イエスの使徒ヨハネ/元漁師)は、

十字架上のイエスが槍で突き刺されたことをもって、

このゼカリヤ預言が成就した = イエスは真の神の子だと伝えたかったのでしょう。

 

また、ヨハネ書では触れられていませんが、

イエス降誕から500年以上前に書かれた『イザヤ書』の53章には、

この場面がさらに具体的に預言されています。

本当は53章全文を載せたいのですが、ここでは一場面だけを。

 

 彼が刺し貫かれたのは

 わたしたちの背きのためであり

 彼が打ち砕かれたのは

 わたしたちの咎のためであった。

 

 彼の受けた懲らしめによって

 わたしたちに平和が与えられ

 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

 

 わたしたちは羊の群れ

 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。

 そのわたしたちの罪をすべて

 主は彼に負わせられた。

 

 ……捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
 彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
 わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
 命ある者の地から断たれたことを。
 
 ――旧約聖書 『イザヤ書』 53章 5、6、8節

 

イザヤ書 53章は、福音書のダイジェスト版といってもいい内容です。

聖書をお持ちの方は、ぜひイザヤ53章全体を読んでみてください。

 

■ メシア(キリスト)から流れ出た「血」と「水」を見よ


ヨハネ19章では、

槍で突き刺されたイエスのわき腹から血と水とが流れ出た。とあります。

 

血と水は、霊的にたいへん重要なシンボルです。

 

 血 … 命。 罪を洗い清めるもの。

 

 水 … 聖霊(神霊)

 

ユダヤ人が罪を清める儀式を行う際は、

旧約聖書の律法で規定されている水と、特定の動物の血が使われました。

しかしそれらの儀式では人の罪を芯から清めることはできないため、

毎年、あるいは折あるごとに、生贄の動物の血を注ぐ必要がありました。

 

しかし神の子であるイエスが死刑にされ、その身から水と血が流れ出たことで、

イエスが究極の生贄となって、人々の罪が完全に清められたことになります。

イエスの血は、罪を清める血の完全版だということです。

 (参考) 人類の罪を引き受けるカタシロ(形代)としてのイエス … 神の子羊、子羊の血

 

さらに「水」についていえば、

聖霊のシンボルである水がイエスのわき腹から流れ出たことで、

イエス個人の枠内にとどめられていた聖霊が、

神の枠外つまり人間界にも与えられたというサインになります。

 

このサインについて、ヨハネ福音書の著者はちゃんと伏線を張っています。

たとえばヨハネ7章 37-39節

 

 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、

 イエスは立ち上がって大声で言われた。

 

 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、

 その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 

 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“について言われたのである。

 イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、

 “霊”がまだ降っていなかったからである。

 

この時のお祭りは仮庵祭という、これまたユダヤ人には大切なお祭りの日でした。

ただ、この時は「イエスはまだ栄光を受けておられなかった」。

つまり罪を清める生贄としての死を迎えていなかったので、

神の霊(聖霊)は、イエスの内にだけとどまっている状態でした。

それをヨハネ書の著者は「“霊”がまだ降っていなかった」と説明しています。

 

しかし今や、過越祭が盛大に祝われる最中に、

槍で刺し貫かれたイエスのわき腹から血と水が流れ出た。

旧約聖書のメシア預言が成就した。

救い主メシア(キリスト)の血と水が、私たちを罪から解放してくれた。

 

ヨハネ書の著者は、この事実を読者にどうしても伝えたいから、

イエスのわき腹から血と水が流れ出たという記述の直後に、

こんなコメントを挿入しています。

  

 それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。

 その者は、あなたがたにも信じさせるために、

 自分が真実を語っていることを知っている。 (35)

 

それを目撃した者」とは、著者のヨハネ自身のことでしょう。

ヨハネ自身がその目で、イエスの十字架刑の一部始終を目撃し、

十字架上のイエスが槍で貫かれ、血と水が流れ出た瞬間を見た……

 

ヨハネ自身がそれを見たと強調することで、

これが創作や又聞きではない、本当に起こった事実なのだと、

どうにかして読者に伝えたいわけですね。

 

ヨハネ書の目的は、ワイドショー的な現場リポートをすることではないです。

後世の人にも、イエスがメシア(キリスト)であることを信じてもらえるように。

現場にいなかった人も、イエスがメシア(キリスト)だと信じて、

魂に命を得ることができるようにと願ってのことです。

 

ヨハネ福音書20章 31節にも、ヨハネ福音書の目的が語られています。

 

 これらのことが書かれたのは、

 あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、

 また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

 

単にイエスを神の子メシア(キリスト)を信じよというのではなく、

信じて命を受けよと、読者に願っているわけですね。

 

キリスト教はどうかすると、

「イエスを神の子キリストと信ぜよ!」というところで満足して終わりがちですが、

本来の目的は、「キリストを信じて命を得よ! 魂が救われよ!」なのです。

イエスをキリストだと信じることが目的ではなく、信じて命を得ることが目的です。

 

この目的を見失うと、イエスから流れでた命の血と水が見えなくなり、

イエスを突き刺したロンギヌスの槍の捜索に心血を注ぐような宗教者になってしまいます。

過去には聖遺物の収集(強奪)を目的とした戦争、十字軍もありました……

 

神と共に生きるなら、常に 「この人を見よ エッケ・ホモ」 です。

聖遺物ではなく、神の存在そのものに意識のピントを合わましょう。

 

■ キリストの死を見て、罪を自覚し、命を得る

 

やっとここにたどりついた……

 

当時イエスを死刑にしようとがんばっていたユダヤエリートの中に、

少なくとも二人の隠れキリシタンがいました。

アリマタヤのヨセフと、ヨハネ書3章に登場するニコデモです。

 (参考) 神霊の風は思いのままに吹く … 神風はエゴの平穏を乱す嵐

 

(アリマタヤのヨセフは翁だと思ってましたが、えらい若くてイケメンですね……)

 

彼らは、イエスの逮捕~死刑には賛同してないし、関与もしてませんでした。

しかしイエスを助ける勇気もありませんでした……

 

結果として、アリマタヤのヨセフとニコデモは、イエスを見殺しにしたことになります。

それでも。

イエスが十字架刑になった後、この二人がイエスの遺体をひきとり、墓に葬りました。

 

 その後、イエスの弟子でありながら、
 ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、
 イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。
 ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。 (38)
 
 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、
 没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。 (39)
 
 彼らはイエスの遺体を受け取り、
 ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。 (40)
 
 イエスが十字架につけられた所には園があり、
 そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。 (41)
 その日はユダヤ人の準備の日であり、
 この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。 (42)
 

共観福音書(マタイ、マルコ、ルカの三書)には、アリマタヤのヨセフしか登場しませんが、

ヨハネ書19章には、ニコデモも一緒に登場しています。

 

アリマタヤのヨセフとニコデモは、共にユダヤエリート組の人でした。

ヨセフはユダヤ議会の議員、ニコデモは宗教エリートのパリサイ人です。

 

両者とも、ひきつづき隠れキリシタンとして、

うまく世渡りをしていくこともできたはずです。

 

しかし彼らは、群衆レギオンにまぎれこんで責任逃れをすることはしなかった。

イスカリオテのユダのように悔いて自殺するのでもなかった。

 (参考) 【マタイ27章】 選択には責任が伴う … 裏切り者のユダより悪質な群衆(レギオン) 

 

二人はピラトの前に堂々と出ていって、イエスの遺体をひきとって葬ることを選びました。

 

 あなたの手に善をなす力があるならば、

 これをなすべき人になすことを

 さし控えてはならない。

 

 ――旧約聖書 『箴言』 3章27節

 

積極的な悪事だけが罪ではない。

「何もしなかった」「傍観していた」「知らんぷりをしていた」という罪もある。

 

アリマタヤのヨセフとニコデモは、

「なすべき善をなさなかった罪」を負っている人の代表だと思います。

何もしなかった彼らは、間接的にイエスを十字架につけて殺してしまったことになります。

 

「ユダヤ人を恐れて、神の子を見殺しにしてしまった罪」を自覚したであろう二人は、

隠れキリシタンをやめて、イエスの遺体をひきとるという善を選びました。


常識的に考えるなら、こういう判断もできます。

イエスの処刑後に遺体をひきとったから何なんだ。

 いまさらそんなことをしたって意味がない。手遅れだ。

 それはひとりよがりの罪滅ぼしにすぎない。偽善だ」。

 

しかし、すべてのことは神と自分との問題です。

アリマタヤのヨセフとニコデモは、神との関係において、

その時の自分がなすべき最善のことを選択したのだと思います。

人間ウケする選択ではなく、神の御旨にかなう選択です。

 

人目を気にして己を殺す……ユダヤ人を恐れて霊的死人のフリをし続けていた二人は、

ここでようやく、命ある人間としての一歩を踏みだせたことになります。

 

アリマタヤのヨセフは自発的に、

「この人を見よ」と言い続けたピラトの前に行き、

「この人の遺体をひきとらせてほしい」と願い出た。

ヨセフが神から与えられた「個」としての命を回復できた瞬間です。

 

■ キリストの死を見て、死人のフリをやめる

 

アリマタヤのヨセフとニコデモが、イエスの遺体をひきとって葬ったのは、

ただの罪滅ぼしや後悔のゆえではないと思います。

そういう後ろ向きな理由ではないです。


罪滅ぼしを目的とした善行は、心理学では「代償行為」とか「補償行為」といわれます。

カルマ解消のための徳積み、修行、宗教戒律遵守なども、代償行為です。

代償行為は結局、「自分は悪くない」という自己弁護が目的のエゴでしかありません。

 

アリマタヤのヨセフとニコデモがイエスを葬ったのは、

自分たちのエゴを守るための代償行為などではない。

イエスの死によって、魂を激しく奮わされたから。

命の衝動に逆らえなかったからだと思います。

 

イエスが生きていた時ですら、ユダヤ人を恐れて隠れキリシタンをやっていた二人ですよ。

イエスが殺されて死体となってしまった後ならなおさら、

いっそうユダヤ人を恐れて、キリシタンだったことをひた隠しにするのが自然です。

下手をすれば、自分もイエスの二の舞になるかもしれないのだから。


十字架刑の騒ぎがまだ収まらない中で、

総督ピラトの前に出て、イエスの遺体ひきとりを申し出るのは、

「わたしはイエスをユダヤ人の王、神の子メシアだと信じていました」と、

おおやけに告白するに等しいことです。

 

イエスをひきとって葬るというのは、

ユダヤ宗教裁判と、ユダヤ群衆の意向に反対するという意思表示になります。

そんなことをしたら、これまでのユダヤエリートとしての地位を失うのは確実です。

二人は自分の地位を失いたくないから、ずっと隠れキリシタンを続けていたのです。

 

イエスを助けられなかった罪滅ぼしをしたいというだけの理由では、

これほどのリスクを冒してまで隠れキリシタンをやめる勇気はわいてこないはずです。

 

でも、彼らは、今さら手遅れなのに、隠れキリシタンをやめたんですね。

ふつうに考えればおかしなことなんですけど。

イエスの死が、彼らの勇気を奮い起こしました。

 

『マルコによる福音書』 15章 43節では、こうあります。

 

 アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、

 勇気を出してピラトのところへ行き、

 イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。

 この人も神の国を待ち望んでいたのである。

 

この勇気は、イエスの死からわいてきたものです。

もともとアリマタヤのヨセフ自身の内には、勇気はありませんでした。

彼の内に勇気があったなら、最初から隠れキリシタンなどやっていないでしょう。

 

彼の自力では奮わなかった勇気が、イエスの死によって奮い起こされた。

イエスの死が、彼に勇気を与えたことになります。

同僚たちと異なる道を選ぶ勇気。

これまでの地位、名誉、財産、すべてを失うリスクをおかす勇気。

死人のフリをやめる勇気。

 

自分の本心を抑えている間は、自分の魂は死んでいます。

死人が住むのは墓場です。

表面的に豊かで安定した生活をしていても、

魂が死んでいる者は、墓場の死体と同じです。

 (参考) 【マルコ5章】 レギオン(みんな)という悪霊からの解放 … 人に飼われる社畜は、神に養われる羊に

 

熊に出会ったから死んだフリをする。

戦場で生きのびるために死体のフリをする。

死んだフリをしている間は、心臓が動いていても、死体と同じですよね。

 

自分の心を殺して、死人のフリをして生きている限り、

どんな豪邸や神殿も、霊的墓場にすぎません。

マイケル・ジャクソンの『スリラー』の映像では、

墓場のゾンビが元気よくダンスを踊りまくってますが、

どれだけ肉体が元気でも、魂に命がないなら、やはり死人なのです。

 

アリマタヤのヨセフとニコデモは、

イエスの死を見つめることで、死んだフリをやめる勇気を得ました。

人が死んだフリをやめて霊的に立ち上がったとき、

神の息が再び吹き込まれ、命が復活し、霊的墓場から抜け出すことができます。

それが彼らの場合、イエスの遺体をひきとって葬るという行動にあらわれたのだと思います。


■ 今からでもけっして手遅れではない

 

アリマタヤのヨセフとニコデモが、イエスの遺体をひきとって葬った。

 

他者の目には、「手遅れ、自己満足の罪滅ぼし、偽善」と見えてしまうこの行為が、

やはり神の目には正しいことであり、神の御旨でもあったことが、

この後に判明します。

 

イエスが葬られて3日後に、厳重に封をしたはずの墓が開き、

イエスの遺体をくるんでいた布だけが残され、イエスは復活します……

 

 彼らはイエスの遺体を受け取り、
 ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。 (40)

 

アリマタヤのヨセフとニコデモが、こうしてイエスを丁寧に埋葬した事実は、

イエスの死と復活が作り話ではないことの証拠となりました。

 

もし彼らがイエスを埋葬せず、イエスの遺体が放置されたままだったら。

それでもイエスは復活できたでしょうけれど、

それだと「死から復活した」という証拠が残りません。

「イエスは死んでいなかった、仮死状態から蘇生しただけだ」と言われても仕方がない。

 

アリマタヤのヨセフとニコデモが、イエスの遺体に宗教的処理をほどこし、

墓に安置して、大きな石で封印した。

こうしてイエスが確実に死亡したという事実を確認した人がいるから、

イエスの仮死説を否定し、「イエスは死から復活した」といえるわけです。

 

キリスト教に伝わる「使徒信条」で、

主は……死にて葬られ、陰府にくだり、3日目に死人の内よりよみがえり……

と信仰告白できるのも、アリマタヤのヨセフとニコデモのおかげです。

 (参考) 命の水源であるキリスト … 正統キリスト教と異端カルトの分水嶺

 

救い主メシア(キリスト)が、救い主としての仕事を完成させるために、

イエスの死亡確認と埋葬は、ぜったいに誰かがしなければならないことでした。

 

その「誰か」は、どんな人が適任でしょうか。

 

ペテロやマグダラのマリアなど、

イエスの弟子として知られていた人たちでは、証人にならないですね。

「でっちあげだ」と批判されてしまうだけです。

実際、『マタイによる福音書』28章では、

「弟子たちが夜中にやって来て、墓からイエスの遺体を盗んだ」

という噂が広まっていたと記されています。

 

身分が低い人、庶民の証言でもダメでしょうね。

そういう人たちの証言は、ユダヤのエリート層につぶされて終わるでしょう。

 

それでは、この人ならどうでしょうか。

アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフ (マルコ 15:43)」

 

今も昔も、身分が高い人の証言ならば、

そうかんたんにはつぶせないですし、受け入れられやすいですね。

 

さらに、ヨセフ一人では心もとないからもう一人。

ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。

 ユダヤ人たちの議員であった。 (ヨハネ 3:1)」

 

ニコデモは宗教エリートの一派ファリサイ人。

しかもヨセフと同じくユダヤ人たちの議員。

これまた、社会的身分が超高い人。

 

 そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、
 没薬と沈香を混ぜた物を百リトラ(約33kg)ばかり持って来た。 (39)

 

イエスと面識のあるニコデモが、

ユダヤ宗教者として、イエスの遺体にしっかり触れたわけです。

 

イエスの遺体をひきとって埋葬したのが、無名の庶民ではなく、

身分の高いアリマタヤのヨセフとニコデモだったことに、大きな意味があります。

彼らが高い地位にある人だったから、

イエスの遺体処理をして葬った事実は信用され、もみ消されずにすんでいます。

 

彼らは、イエスの生前には勇気が無くて、イエスの十字架刑に反論できなかった。

でも、イエスの遺体をひきとって葬ることは、彼らでなければ果たせない役割でした。

すべては神の思いどおりです。

 

アリマタヤのヨセフとニコデモの「手遅れな善行」によって、

キリスト復活の福音は、2000年後の世界にまで伝えられることとなりました。

 


「この人を見よ」

十字架のイエスを見上げて、その死の責任が自分にあることを認めた時に、

魂は奮わされ、神との関係が回復され、

墓場で死体となっていた自分の魂がよみがえるのだと思います。

 

今さら手遅れに思えるようなことでも、そんなことは気にしないでいい。

神との関係において、魂が生きている者としての最善を選択をしたらいいのですね。

 

次回に続く。

→ 【詩編49編】 IN GOD WE TRUST … 金は墓を与え、神は命を与える

 

 

※ 記事中の聖句引用元/日本聖書協会『新共同訳聖書』または『口語訳聖書』
 
■ 「神と聖書と日ユ同祖論」 記事一覧&リンク →こちら
 
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