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校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

今回は、香川県の丸亀城西高校です。

https://www.kagawa-edu.jp/mjh01/

 

丸亀市は香川県の中西部の海岸部に位置する町です。

南東に聳える”讃岐富士”こと飯野山は讃岐七富士の代表格で、地質学的には溶岩台地が侵食によって削られた残丘、ビュートとされるようです。その美しい円錐状の山容を私も香川遠征のとき何度か眺めて堪能しました。西行法師が詠んだ和歌に”讃岐には これをば富士といひの山 朝げの煙たたぬ日もなし”があります。

また丸亀城日本百名城現存十二天守のひとつでもあり、御三階櫓と高石垣が見どころとなっています。特に「石垣の名城」と呼ばれるように、扇の勾配を配して積み上げられた高さは亀山の頂上に建つ天守まででも4段合わせて60mと日本一を誇り、単独でも三の丸坤櫓台石垣は31mと大阪城に次ぐ大規模なものです。高松城主・生駒親正により支城として築かれたものの廃城となった後、山崎氏、京極氏が再建したもので別名は亀城、また蓬莱城ともいいます。

 

学校はその名城の南西に位置し、校訓の士魂商才は前身の丸亀商業を受け継いでいます。

大正7年に丸亀商業学校として設立し、学制改革後は丸亀商工高丸亀第二高と変遷したあと昭和28年に丸亀商業高校に復帰しました。その後平成5年に普通科を設置とともに現校名に改称して現在に至る、100年以上の歴史ある伝統校です。

校歌は作詞:堀沢周安 作曲:山田耕筰で昭和3年制定です。
丸亀城西高校(全3番)
 見よ黎明の空晴れて 緑野にそびゆ讃岐富士
 朝な夕なに仰ぎつつ 学ぶもうれし斯の道を

 

ただし、戦前は1番のみ違います。

 明治のみかど畏くも 大御輦を駐めまして
 仮の宮居の跡近く 学ぶもうれし斯の道を

 

大御輦は「おおみくるま」と訓みます。御輦は「ぎょれん」とも言い天子や天皇、親王など高位の人物が地方に行幸あそばされる際の特別な乗り物を指し、途中で御休息や御宿泊、御滞在された場所を御輦趾・御駐輦趾とも言います。御輦趾は全国に点在していますが、丸亀市の場合は明治5年に明治天皇が香川に行幸されたとき丸亀城の行在所(現・丸亀護国神社)を使用されたそうです。丸亀に上陸されたのは白峯御陵を遥拝されるためだったそうで西郷隆盛も従者として同行していました。

制定当時は現在の丸亀市立城乾小学校に隣接し、丸亀護国神社から西200mほどなので「仮の宮居」こと行在所跡に近いところに学ぶと歌います。現在の津森町に移転したのは昭和7年のこと。

 

戦後は当然こうした表現は憚られたので早くに改訂されました。黎明は早朝を意味しますが、新日本と同じように平和日本として再出発したことを”朝”と捉えたものとも解釈できます。飯野山を登場させたのは丸亀の象徴、日頃目に入る山だからと思われますが、堀沢氏が存命だったらどう変えたのか…?興味はありますが詮無きことですね。

ちなみに同時期に制定された旧制丸亀中(丸亀高校)の校歌にも「日嗣の皇子の御車を、迎へ奉りしこの庭に…」と似たような表現がありますが、これは後に昭和天皇となる皇太子殿下のことで無関係です。

 

高校野球では昭和12年春に全国初出場、以来14回出場して7勝を挙げています。昭和55年春にベスト4進出、その後も何度か出場していますが勝ち星は遠いようです。オールドファンにとっては”城西”より”丸商”のほうがまだ馴染みがあるでしょうか?

突出した強豪が無くやや群雄割拠の香川県、また出場したときには今度こそ勝利の校歌を聞きたいものですね。

2025年になりました。今年もできれば更新頻度を減らさずに行けたらいいかなと思っています。

 

このところ、少子化の影響で学校統廃合が急速に進んでいます。2016年に出生数が初めて100万人を下回った後も出生数・合計特殊出生率とも続落傾向で、昨年はついに70万人に届くかどうかの予測さえあります(現在合計数は公表されていません)

それを受けて都市部や地方でも伝統校同士の合併、規模縮小の分校化または廃校、3校4校を一挙に単独校にするなど学校数のスリム化が断行されています。統廃合で”新しくできた学校”では校歌も「新調」するところが大半で、それぞれの学校で歌われてきた校歌も消えゆく流れは寂しいものですね…

私に限らず校歌に”のめり込んでいる”人々によって、消える=過去のものとせずになんらかの形で保存、アーカイブしていく動きが見られます。私もその一端として精進していきたいものです。

 

これまで紹介してきた約300校のうち、その後の調査で判明した事柄がある学校をピックアップ、追記しておきます。

一挙に全部というわけにはいかないので、昔のものからある程度順に「追記:」と茶色文字で更新しています。

 

西京高校 京都市立 西京高等学校 

宇治山田商業高校 三重県立 宇治山田商業高等学校 

米子南高校 鳥取県立 米子南高等学校 

日光明峰高校 栃木県立 日光明峰高等学校 

小諸高校 長野県 小諸高等学校

美方高校 福井県立 美方高等学校 

高知商業高校 高知市立 高知商業高等学校 

米沢東高校 山形県立 米沢東高等学校

神戸高校 兵庫県立 神戸高等学校

京都外大西高校 京都府私立 京都外大西高等学校

京都成章高校 京都府私立 京都明徳高等学校、京都成章高等学校 (元号シリーズ その26)

国士舘高校 東京都私立 国士舘高等学校 (元号シリーズ その29)

阿波高校 徳島県立 阿波高等学校 

熊本工業高校 熊本県立 熊本工業高等学校 

萩高校 山口県立 萩高等学校 (歴史のある高校シリーズ その4)

岡山朝日高校 岡山県立 岡山朝日高等学校 (歴史のある高校シリーズ その7)

世田谷学園高校 東京都私立 世田谷学園高等学校 (歴史のある高校シリーズ その9)

保原高校 福島県立 保原高等学校

柳川高校 福岡県私立 柳川高等学校 (長い校歌シリーズ その4)

 

2024年の暮も押し迫り今年最後となりますが、一応今年は20記事超えたので良し!(笑)

今回は、熊本県の必由館(ひつゆうかん)高校です。

https://sites.google.com/su.kumamoto-kmm.ed.jp/hitsuyukan2021/

 

熊本市の中心街から北東、熊本電鉄藤崎線・黒髪駅の近くに位置する学校で、この付近には済々黌高校も所在しています。

必由館高校は全国でもあまり類例を見ない数々の特色ある環境にあるようです。正門前を線路が横切ったり、校内には必由堂と呼ばれる邸宅跡やその庭園、更に天満宮もあるといいます。

必由館の由来は、学校の敷地内にあった米田家の家塾”必由堂”で、由来は儒教四書『大学』に拠り「学はず是に(よ)って学ばば、即ち其の差(たが)はざるに庶(ちか)からん」だそうです。米田家は熊本藩細川氏の家老で、熊本藩校・時習館創設と同時期に米田是容が子弟教育の場として設立したとされます。細川氏の家老でもあった米田虎雄は明治天皇の家庭教師や侍従長も務めていました。また明治の門下生に井上毅がおり、大日本帝国憲法や教育勅語を起草しています。

そして米田家の庭園として造成されたのが採釣園(さいちょうえん)。「山に採り美茹うべし、水に釣り鮮くらうべし、起居に時なくこれあんずる所に適す」という漢詩にちなんだそうで、泉水や築山を配した回遊式庭園です。水前寺成趣園を小規模にしたようなものでしょうか。観光地のひとつではありますが、高校の敷地内なので許可を取ってから訪問するのが良いでしょう。

 

明治44年に熊本市立実科高等女学校として開校、のちに熊本市立高女となりました。

旧制の校歌は作詞:八波則吉 作曲:片山頴太郎で昭和7年制定です。創立20周年記念行事の一環でしたが、作曲が式典に間に合わず適当な楽譜(詳細不明)で歌ったそうです。正式な曲はその後に届いたのでしょう。

熊本市立高女 (全3番)

 四時の眺めの 美はしき

 採釣園や そのかみの

 必由堂の 跡占めて

 由緒も深き 学舎の

 庭の古井に かご松に

 偉人賢婦を なつかしむ

 

1番は学校の環境として校地の必由堂採釣園を取り入れています。「庭の古井」は園内の井戸のことで、上記の”偉人”井上毅が生まれたときにここの水で産湯を浸かったそうです。「かご松」は賢婦に関するのかもしれません。総じて学校の歴史を端的に表したものと言えます。

2番は学校から仰ぐ熊本城とその宇土櫓と阿蘇山をまとめ、八波氏の言い回しが見て取れます。3番に「…校門を、出で入る毎に門脇の、神を敬いいざ共に…」は、おそらく現在も校門横に残る葦間天満宮のことかと。

 

学制改革を経て昭和24年に共学の熊本市立高校となりました。

昭和32年に男子のみの商業科が発足しましたが後に熊本市立商業高校として分離、女子校に戻ったものの昭和48年に再び共学化しています。

高校の校歌は作詞:山口白陽 作曲:梅沢信一で昭和28年制定です。創立40周年記念式典の折に披露されました。

必由館高校 (全3番)

 白玉の 花と清らに

 紅の 焔と燃ゆる

 青春の生命に われら

 大いなる 夢を抱きて

 弛みなく 真理に挑む

 

これと同時に生徒歌が作られていますが、生徒歌のほうはやや応援歌に寄せているように思われます。

 

平成13年に90周年を迎え、学科を普通科のみとし必由館高校に改称しました。改称してからも校歌は変わらず、引き続き歌われています。

近年、学校改革を進めていく中で附属中学校を併設しようとする動きがありましたが学校側の反対によって見送られ、文理総合探究科として文理・芸術・生活デザインの3コース制の”新しい普通科高校”として再出発しました。

 

高校野球では、平成15年夏に初出場を果たしましたが初戦敗退でした。以降は出場していませんが、県内でもたびたび上位進出しており近いうちにまた出てきてほしいものですね。

 

今回は、山口県の下関南高校です。

https://www.minami-h.ysn21.jp/

 

下関市は山口県の西端、関門海峡に臨み九州に隣り合う西日本の要衝です。

九州や大陸への玄関口として古くから栄え、現在も山口県随一人口を擁する商工業都市となっています。古くは赤間関(あかまがせき)とも呼ばれ他名・赤馬関を略した馬関は馬関条約(下関条約)で有名ですね。また日本で最初に市制を布いた31市の中で、赤間関市だけが改称して下関市となっています。

源平最後の合戦として知られる壇ノ浦や、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島、長州藩の攘夷運動が起こした下関事件とそれに続く馬関戦争、日露戦争講和条約(馬関条約)などなど、日本の歴史の節目に立たされてきた地でもあります。関門海峡を渡る関門トンネルや関門橋は土木・架橋技術の集大成ともいえますね。

 

学校はまず明治38年に下関市立の下関高等女学校として創立、昭和3年に山口県に移管されて県立となりました。

最初の校歌は作詞:芳賀矢一 作曲:島崎赤太郎で明治44年制定です。

下関高女・初代 (全6番)

 硯の海を 前にして
 呼べばこたふる 文字が関
 処の名さへ ふさはしき
 学びの庭の 楽しさよ

 

硯の海」とは一般的には書道で使用する硯の墨汁を溜めておく部分ですが、ここでは関門海峡を指します。対岸の北九州市門司区は”文字”にも当てられ、山陽道〜太宰府官道を隔てる海峡の両端部は関所が置かれていたので赤間ヶ関(下関)と文字ヶ関は一対のようなものでしょうか。北九州市の高校にも「硯の海」を取り入れていたところもあります。

ちなみに門司区には筆立山というのもあり、筆・硯・文字と古人の風流な見立ての表れと感じられます。

2番は源平合戦の最後の舞台となった壇ノ浦を偲び、3、4番は吉田松陰などの維新志士を祀る桜山神社(招魂場)を讃え、5番で海外との門戸であり重要港湾たる下関港を国の繁栄の象徴と位置付けています。

 

その後、日中戦争~太平洋戦争へ進んでいく時局の中で新しい校歌が作られました。

作詞:岡村憲三 作曲:信時潔で昭和16年制定です。

下関高女・二代目 (全3番)

 春野に生ふる 花すみれ

 うつぶしてこそ 匂ひけれ

 みがけこころを けだかくも

 人のかがみと ならむまで

 

この校歌は下関高女生の志操本分と理想を歴代三皇后(貞明皇后、香淳皇后?、昭憲皇太后)の御歌に求めたものとされます。

 

昭和23年の学制改革で下関女子高校となりましたが、翌年に統合再編成のもと下関南高校に改称しています。この時に県下の公立高校は高校三原則を推し進め東西、あるいは南北を付した校名になっているのですが、さらに翌年の昭和25年に2回目の再編成が行われ、下関西と下関南を統合して新・下関西高校南校舎となりました。西高校と対となる下関東高校は現在の豊浦、長府高校です。

しかし学区制と共学を目的とした統合後すぐに男女別学が良いとの声が出始め、昭和27年度は北、南校舎別の募集となり翌年は男女を分けるといった移行措置を経て昭和29年に下関西高南校舎を分離、再び下関南高校となりました。このような分離であっても建前上はあくまでも両校とも共学だったそうで、西高は少数ながら女子が残りました。

南高は実質女子校に戻ったためか校歌は旧制の初代のものが受け継がれましたが、旧1,2,6番の3番構成で歌っていました。

 

そのまま長らく女子校時代が続きましたが平成15年に単位制移行とともに男女共学を復活、このときにさらに3番が削除されました。「われら女子も大御世に…」と女子校向けの歌詞だったためでしょうか。

もっとも卒業生の回想によれば、完全に3番が消えたのは共学前に入学した最後の学年が卒業してからだったようです。

下関南高校 (全2番)
 硯の海を 前にして
 呼べばこたふる 文字が関
 処の名さへ ふさはしき
 学びの庭の 楽しさよ

 

 現在も下関市内で高偏差値を維持し、多くの学生が進学する名門校となっています。