今回は、山形県の米沢東高校です。
明治31年創立の米沢市高等女学校を前身とする学校ですが、高校になった時期に4年間で米沢第四高→米沢高東校舎→米沢東高と変遷しました。
高女からの伝統からか、高校になっても名目上は共学でも長らく女子校の状態でしたが、平成元年から男子の入学が始まったそうです。
校歌は作詞:高野辰之 作曲:信時潔で、昭和6年制定です。
米沢東 (全3番)
流れて清き 松川は
人の穢れを 洗ひ去り
秀でて高き 吾妻山
人に態度の 範を見す
この学校に 光あり
ここに学ぶ身 幸あり
2番「敵に塩を送りたる、伝国の辞にこもりたる、正しき心仰ぎつつ…」は、米沢藩主上杉家の治世を歌ったものです。
"敵に塩を送る"は、上杉謙信の逸話で有名ですね。武田信玄が周囲の敵方に塩を止められたとき、甲斐の人々が困るからというので謙信だけは送り続けたという伝承です。
史実かどうかは意見が分かれていますが、"義の人"たる美談として伝えられたのでしょう。
"伝国の辞"とは、9代目藩主上杉治憲(鷹山)が遺した3ヶ条からなる藩主としての心得です。
曰く「藩は先祖から子孫へ伝えられるものであって藩主の私物ではない」、「領民は藩に属しているものであって藩主の私物ではない」、「藩や領民のために存在・行動するのが藩主であり、藩主のために領民が存在・行動するのではない」です。
ともすれば権力者は私利私欲に走りがちなのを諫める言葉として参考になりますね。
上杉鷹山は窮乏状態にあった米沢藩を再生させた立役者として、その生き様もあって後世にも大きな影響を与えた人物の一人といえます。
ところで私見としては米沢高女時代と現在の歌詞は、多少違うのではないかと思っています。
作詞は高野辰之氏で、この人が女子校の校歌を手掛けるときは、ほとんどに「少女」「乙女」という語が入っているのですが、米沢東高校のものにはありません。
このことから共学となったのを機に手直しが入ったのでは?と思いますが、未調査で確証はありません。
ともすれば権力者は私利私欲に走りがちなのを諫める言葉として参考になりますね。
上杉鷹山は窮乏状態にあった米沢藩を再生させた立役者として、その生き様もあって後世にも大きな影響を与えた人物の一人といえます。
ところで私見としては米沢高女時代と現在の歌詞は、多少違うのではないかと思っています。
作詞は高野辰之氏で、この人が女子校の校歌を手掛けるときは、ほとんどに「少女」「乙女」という語が入っているのですが、米沢東高校のものにはありません。
このことから共学となったのを機に手直しが入ったのでは?と思いますが、未調査で確証はありません。