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校歌の広場

高校の校歌についていろいろ書き綴っています。
高校野球でも流れたりする、校歌の世界は奥深いですよ~

今回は、大分県の別府青山高校です。

現在は統廃合で別府翔青高校となりましたが、校地を受け継いでいます。

 

別府市は大分県の中部、別府湾に臨む町です。

すぐ西にある鶴見岳など活火山に近く、数多の温泉があることから温泉都市として知られ源泉数や湧出量ともに日本一を誇ります。別府温泉郷、中でも由緒ある8つの”別府八湯”は古くから湯治場や観光で賑わっていますね。別府といえば”地獄めぐり”という言葉がありますが、なぜ地獄かというと源泉の噴気や温水などで植物や農作物が育ちにくく、あたかも地獄のような殺伐とした景観やイメージで広まったというのが通説のようです。

こうした背景から国際観光文化都市にも指定され、温泉の他にも別府ロープウェイや阿蘇くじゅう国立公園など観光にも力を入れています。

 

別府翔青高校は、別府市内に所在する3つの高校(別府青山高校別府羽室台高校別府商業高校)が平成27年に統合して開校しました。校名は別府商の「しょう」、別府羽室台の「羽」、別府青山の「青」を取り入れて命名されたそうです。

近年の傾向とはいえ3校以上の大規模統合するところに、地方の学校の厳しい有り様がまざまざと見て取れますね…

 

そのひとつ、別府青山高校は昭和39年に女子校として開校しました。当時別府市内の公立普通科高校は別府鶴見丘高校しかなく、団塊世代が年々膨れ上がり学級増では追いつかなくなったため新設されました。その後、昭和51年に男女共学となっています。

ちなみに開校当初は鶴見丘と青山で男女別にする案もあったようですが、別府緑丘高校(現・芸術緑丘高校)との兼ね合いもあり鶴見丘高校は共学が保たれました。

校歌は作詞:津野任、仁木冨美子 作曲:松尾英一で昭和42年制定です。作詞者については実際には校歌作成委員会なのですが、著作権に関わる事柄もあり、まとめ役だった津野、仁木氏を代表としたといいます。また初めは校歌でなく”学園歌”だったようです。

別府青山(全3番)

 青い山に 雲がわく
 自由の尊さを知ろう
 真理の頂き めざして肩くみ
 進む われら
 ああ母校 若き青山高校

 

青い山」とは市の西に聳える鶴見岳や由布岳のことと思われますが、固有名詞が出ないところや全体的に口語文体で歌われるところに女子校らしいやわらかさを感じます。「学校から四方を見ると山も海も空も青く、青の感動が広がり満ちて”青山”のイメージに重なる」ことを特に表した校歌といえます。

別府青山高校はもうひとつ、制服が有名でした。創立当初から統廃合で閉校するまで変わらず別府市民に愛されたベレー帽に紺色のジャケットは甲子園でも注目されました。昭和41年の大分国体を親覧された秩父宮妃(雍仁親王妃勢津子さま?)から褒められたというエピソードもあります。

 

高校野球では春夏1回ずつ甲子園出場していますが、勝利はなりませんでした。

ちなみに別府市の高校は(のち大分市に移転した別府緑丘高校は別として)、4校全て甲子園出場経験ありという珍しい地です。

今回は、広島県の尾道商業高校です。

https://www.onomichi-ch.hiroshima-c.ed.jp/index.html

 

尾道市は広島県の東部、旧備後国域に属しています。尾道市街は瀬戸内海沿岸というより向島とを隔てる尾道水道に面し、尾道港を中心として発展してきました。古くは日明貿易北前船の寄港地、それに伴う物流の中継地として商業・港町の両面で大いに繁栄してきた歴史があります。すぐ近くに迫る山々を背景に寺院や坂の町としても知られ、千光寺をはじめとして数々の歴史的な風情に富み、多くの文人墨客が足跡を刻み、近年では数々の映像作品の舞台となり映画の町としても有名です。

尾道最大の観光地とも言える大宝山千光寺の開基は平安初期で、市街地からは山頂までロープウェイが開通しており参詣や観光客で賑わっています。ここから見下ろす町や港の風景が尾道きっての眺めとして多くのメディアで紹介されています。本堂は清水寺のような舞台造となっていて”赤堂”とも呼ばれます。傍らに玉の岩という巨岩があり、”玉の岩伝説”にちなんでこの上に設置された球は夜になると三色に光るそうです。

こうした風光美と歴史に彩られた尾道の町、一度訪れてみてはいかがでしょう。

 

学校は明治21年開校の尾道商業学校として始まり、長らく市街地に近い千光寺麓の長江に所在していましたが現在はかなり西に離れた古浜町に移転しています。尾道最初の中等学校が商業学校というのも”らしい”ですね。

校歌は作詞:沼波武夫 作曲:北村季晴で大正6年制定です。

旧制・尾道商 (全3番)

 玉の浦辺に よる船の
 鳴らす笛の音 絶え間なく
 山陽線を 行きかひの
 車の響 賑はしや
 我等の行手は 光り輝く
 御国の行手は 光り輝く

 

尾道西高校でも出てくる「玉の浦」は”玉浦”とも書き、上記の千光寺(玉の岩)から見下ろす尾道港を浦に見立てて言い慣わしていたのが由来のようです。この頃には尾道港を出入りする船の汽笛が響き、山陽本線の汽車や後の国道2号線の道路を走る車で賑わっていたと伺え、大正期の文明を垣間見る詞ですね。

2番「ああ尾道は室町の、代より名に負ふ大港」とあるように尾道の象徴と誇りが歌われています。

 

学制改革でそのまま尾道商業高校となりましたが、翌年高校三原則に則った再整理によって尾道西高校(普通・商業・生活科の総合制)に、昭和28年に商業科を分離して尾道商業高校に復帰しました。

尾道西高校時代の校歌は作詞:葛原しげる 作曲:信時潔で昭和26年制定です。

尾道西高校 (全2番)

 海路に陸路に 玉の浦

 年毎栄ゆく よろこびに

 希望を光を 天地に満たさん

 使命も新たに 磨くは智性

 輝く文化の 花薫らすと

 われら競うか 尾道西高

 

広島県を代表する童謡作家でもある葛原しげる氏によるこの立派な校歌も、作られてからわずか2年で「西高校廃校により自然消滅」し、次の校歌が現在まで歌われるようになりました。

作詞:サトウハチロー 作曲:松田トシで昭和28年制定です。

尾道商業高校 (全3番)

 友あり 道あり 誓いあり

 熱あり つらぬく 若さあり

 まごころありて まことあり

 感激ありて 涙あり

 闘魂ありて 勝利あり

 のぞみぞありて 夢もあり

 おお わが母校 尾道商業

 学び舎ありて ああ われらあり

 

「~あり」をこれでもかと連呼する特徴的な、裏を返せば”従来の校歌”らしくない歌詞は有名な童謡作家でもあるサトウハチロー氏によるもの。氏の代表作といえば『ちいさい秋みつけた』『うれしいひなまつり』、古くは『リンゴの唄』などでしょうか。校歌も多く手掛けており、いずれも戦後の復興に向かっていく明るい詞とどこか素朴な感覚の歌です。

尾道商の場合は「従来の各校歌のもつ重みを排し、明るい我々の琴線に触れるようなもの」との意向を汲む作者が待たれていたところ、ある作家の紹介でサトウハチロー氏に決まり、作曲は氏の推薦で松田トシ氏になりました。サトウ・松田のコンビで幾多の童謡を出していることもあって実現したようです。

ちなみに三重県の宇治山田高校も、作者は違いますが同じような動機(生徒達からの「環境などを入れなくても良く、われわれ若者の気概が校歌の中に盛り上がってくれるものを」という依頼で草野心平氏は「若者の夢を書こうと思ったのである」と述懐)であの「プラチナの陽はふりそそぎ…」の校歌ができたのです。

メロディーありてリズムあり」「エレジーありて情あり」等々サトウハチロー・ワールドらしさが存分に発揮され、校歌というよりふと口ずさむポップミュージックのようなジャンルであっても通じるのではと思いますね。

 

高校野球では、昭和33年夏を始め春夏計7回、甲子園出場しています。回数としては多い方ではありませんが、春は2度の準優勝を含め13勝を挙げており広島県の代表校の中では知名度が高いほうでしょう。

2勝した昭和61年春以降甲子園から遠ざかっていますが、名門復活が待たれる伝統校です。

 

今回は、宮崎県の妻高校です。

https://cms.miyazaki-c.ed.jp/6052/

 

西都市は宮崎県のほぼ中央部に位置する町です。周囲を山に囲まれ、一ッ瀬川が町から流れ去る南東方向が開けている様相です。

西都市で有名なのは西都原(さいとばる)古墳群と呼ばれる日本有数の古墳の集合域でしょう。このあたりには大小30基ほどの前方後円墳、280基ほどの円墳など300基以上の墳墓があり、歴史や伝承に富む日向国の中でも古代史研究の対象文化財の宝庫です。

また市内にある都萬(つま)神社は日向国二之宮でもあり、祭神は木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)で、ニニギノミコトの妻とされます。一説にはコノハナサクヤヒメが三人の皇子を育てるのに母乳の代わりに甘酒を与えたという伝承から日本清酒発祥の地のひとつともいわれています。

 

妻高校。甲子園などに出たら色々話題になりそうな校名…と思いきや茨城県の下妻市から下妻第二高校が数度出場していましたね。

大正12年設立の妻中学校と大正14年開校の妻高等女学校を前身とし、学制改革で両校を統合して妻高校となりました。その後、平成30年に西都商業高校を吸収統合して新・妻高校として新たに出発しました。学校のHPでは平成30年に(新)妻高校となり令和2年に妻高校に改称とあるのですが、正式に(新)を付けていたのでしょうか?よくわかりませんが…

校歌は旧・妻高校を受け継ぎ、作詞:富松良夫 作曲:児玉不二子 編曲:園山民平で制定時期は不明です。

妻高校(全3番)

 光る尾鈴の 高嶺を仰ぎ
 清風かをる 文化の森に
 常にかがやく 我等が母校
 たたへよ たたへよ いにしへの都万
 たたへよ たたへよ あたらしき生命
 いざ求めん 常に常に 高き希望を
 妻高 妻高 我等妻高

 

1番で尾鈴山、2番で西都の高原、3番で一ッ瀬川を歌い、自然環境に恵まれて明るく学ぶ妻高校、ということですね。

いにしへの都万」とあるように、妻は都万(つま)と同じものです。というより”ツマ”に妻や都万の字を当てたものかと思われ、都萬神社は「つまじんじゃ」ですが”妻萬神社”とも表記し「サイマンさま」と呼ばれたりします。

もう少し掘り下げれば、一ッ瀬川の水運に関わる船着き場=津のある場所=間で津間(つま)、また一ッ瀬川を上流に遡っていき野原が山に囲まれて行き詰まった場所、という意味のツマではないかという説もあるようです。この地方のブランド牛に”都萬牛”というのがありこちらは「とまんぎゅう」です。

 

前身校の校歌では妻中は不明、妻高女は1番のみ判明しています。

妻高女(全?番)

 青垣山の たたなづく

 美しき里に 肇めます

 國の訓は かかるかな

 斎殿原の 月の影

 

斎殿原は「さいとのはる」と読み、これが転じて西都原になりました。斎殿原とは斎祀を行う神殿があった聖地をいうそうです。「美しき里に肇めます、国の訓…」はいわゆる天孫神話に出てくるニニギノミコトの妻の伝説の里に照る月影のように汚れなく尊いものだ、ということでしょうか。

 

西都商業高校は、昭和38年に妻高校商業科を分離独立して開校しましたが生徒数減少により再び妻高校と統合されました。

校歌は作詞:金丸桝一 作曲:海老原直で制定年は不明です。

西都商(全3番)

 尾鈴の峰の 朝まだき

 応えはふかし 蒼穹の

 芝つゆひかる 調殿の

 希望は高く 溢れつつ

 真理の道に わけいりて

 時をわかたず 求めなん

 

調殿は「つきどの」と読むようですが、学校の西近くに調殿神社というのがあります。3番「栄枯の夢のいくたびか、国府の丘に花のあり」は、やはり古代栄えた西都原を表しているのでしょう。

一番古いのは調殿(つきどの)→「いつきどの」→斎殿に転じ、いつしか斎殿原を「さいとのはる」と読み、時につれて西都原となった…という感じなのでしょうか。まあそこまで深く調べたわけではないので、素人の浅い考察と笑い飛ばしてくださいな。

 

この地域では進学校に位置付けられ、九州を中心に大学や専門学校に進学する学生が多いようです。部活動では弓道部やバドミントン部などが全国出場の実績があります。

 

今回は、岡山県の関西高校です。

http://kanzei.ac.jp/

 

関西”という言葉は、京(みやこ・現在の京都)から東方への出入を管理していた三関(鈴鹿関、不破関、愛発関)より東を”関東”と呼び習わしていたものとの対義、といえるでしょうか。最近NHKで放送された番組によれば、中部地方や東北地方も当初は関東に含まれていたものの、やがて現在関東地方と呼ばれる地域に限定していったと解説されていました。

関東の対となれば関西は西日本、広義には現在の中国地方も含まれるというのもあながち拡大解釈とは言えないという感じですね。先の番組によると関東がかなり古くからあったのに対し関西が使われ始めたのは明治頃からとのこと。

そうした意味から岡山県に関西を冠した学校があるというのは不思議でもないわけです。

 

さて、学校は岡山市街の西北、JR吉備線・備前三門駅のすぐ近くに立地しています。ちなみに近年台頭してきた創志学園高校もこの駅の南に所在していますね。関西高校の西は矢坂山山塊があり、万成石という銘石が産出します。万成石は赤みがかった(桜色とも)花崗岩で、墓石として使われるほか国会議事堂や明治神宮などにも採用されているほどのブランド石なのです。

明治20年に岡山薬学校として設立されましたが、7年後に関西尋常中学校と改めています。”関東に対する関西全域の雄として羽ばたくの意をこめて”関西=カンゼイと訓むことになったようです。昭和23年に関西高校となり140年近くの歴史を持ち、昭和57年から姉妹校として岡山中学・高校を設立するなど岡山県内の一大私学でもあります。

校歌は作詞:佐藤富三郎 作曲:林忠保で大正9年の制定とされます。現在のものと制定当初のものを並べてみます。

関西・現校歌(全3番)
 夫れ関西に 育英の

 門を開きて いくそとせ
 雨露風雪と 戦いし

 努力の績 光栄のあと
 並ぶいらかの 幾棟に

 私学の権威 示しつつ
 立つ我校の おもかげを

 仰げもろとも 意気高く

 

関西・旧校歌(全5番)
 夫れ関西に 育英の

 門を開きて 四十年
 雨露風雪と 戦ひし

 努力の績 光栄のあと
 並ぶ甍の 幾棟に

 私学の権威 示しつつ
 立つわが母校 八百の

 健児の意気を 君見ずや

 

現在のものとは一部が違いますね。特に年月と生徒数は時代によって変えていかなければならないので早々に改訂が入ったようで「創立50周年の昭和12年には既に一章(1番)のみは現在のそれに改められていたはずであるが、当時においては五章(5番)まで全部歌っていた」とあります。少なくとも2回は改訂があったようです。

2番は前半・後半に分けて”掛詞”が入ります。前半「八州の民率います、君がみ恵みしのべとや、わが立つところ三門の地」は我々が立つのは八州=日本国民を統治する君=天皇=帝(みかど)の恩寵をしのべとさとすような地名、三門(みかど)であるという意味。

後半「千古の偉人豊公が、壮大の志気学べとや、彼が旗章の千成を、十たび合せて万成の、ふもとに立つかわが母校」は、かつて大阪=関西から全国統一を果たした豊公=豊臣秀吉が戦場でかかげた馬印は千成瓢箪と呼ばれるものでした。その千成を十たび=10倍すると万成となり、その名も万成山(矢坂山)の麓にわが母校が立つ、というものです。

 

校歌制定の頃には中学校進学志望者が増加し、岡山市内の2校だけでは収容しきれなくなり第二中学校増設の機運が起こっていました。このとき岡山県知事によって関西中を県に移管して県立とする動きがありましたが、歴史と個性ある私学の特長を消しかねないとして反発があり、第二岡山中学校(現・岡山操山高校)を創設することで落着しています。

まさに私学の権威を守り示した一幕ともいえるでしょう。

 

高校野球では春12回、夏9回の計21回、甲子園に出場しベスト4が3回あり、数々の名勝負を演じてきた岡山屈指の強豪です。

平成26年夏を最後に遠ざかっていますが、また復権があることを期待したいですね。

 

今回は西日本から離れてますが、寄り道ということで…

新潟県の三条高校です。

http://www.sanjou-h.nein.ed.jp/

 

 三条市は新潟県の中越地方に位置し、ちょうど新潟市と長岡市の中間に当たります。上野国高崎と越後国長岡を結ぶ三国街道途中の宿場町(街道沿いの宿ではなく脇道の枝宿だったようですが)、また五十嵐川の水運で物資物産の集散地でもありました。日本有数の豪雪地帯とあって昔は雪害も多かったようですが、近年はそれほど積もることはなくなってきているようです。

隣の燕市とともにカトラリーなどの金属加工が盛んで、古くは和釘三条鍛冶と呼ばれる刀剣、包丁や大工道具などが生産され伝統産業都市の一面も持っています。上越新幹線・燕三条駅や北陸自動車道・三条燕ICの命名などでローカルな話題に挙げられることもありますね。

 

三条市街はJR信越本線・三条駅の西側に展開している様相ですが、学校はその反対側の駅南東にあり周辺は田畑が多く残る田園地帯の中に所在していて、少し北にエアコンやストーブなどを生産する(株)コロナの本社があります。

明治35年に新潟中学三條分校として発足し明治37年に三条中学校として独立、そのまま学制改革で三条高校になりました。2年前に創立120年となった県央地域有数の伝統校で、生徒のほぼ100%が進学する進学校でもあります。

校歌は作詞:平野秀吉 作曲:不詳とありますが旧制一高寮歌「春爛漫」の借用、制定は明治38年です。

三条 (全5番)

 風空嚢を翻し 説は愚人を驚かす
 只行ふに敏なれや 守門沈黙五千尺
 内に積れる徳あれば 見よ衆嶽の宗となる

 

空嚢とは何だ?嶷立とは?などなど単語すら難解ですが、それに輪をかけて学校関係者でも解釈の意見がわかれている箇所もあります。

空嚢を翻し、は愚人を驚かす」…風と説に分かれていますがこれは風説(世間に広まっている噂)を意味し”風説の流布”などに使われたりします。空嚢(くうのう)とは空っぽの袋の意味ですが、転じて空っぽな人間とか浅薄な人間、愚人を表現したものでしょう。浅薄な輩や愚人は根拠のない噂や風評に踊らされたり驚いたりするものだ、三条生はそうしたつまらぬ言説に気を取られずに物事を的確に理解・判断し立派な行動をすることが第一ということです。

ちなみに嶷立は「ぎょくりつ」と読み、高く抜きん出るという意味です。ここで弥彦山は孤峰と歌っていますが実は北の多宝山との双耳峰で、周辺の山とセットで佐渡弥彦米山国定公園に指定されています。山麓には越後一宮・彌彦神社が、山頂には天香山命を祀る御神廟が鎮座しています。

4番の「五十嵐河畔、草若き褥に伏して思ふとき、かくて過ぎぬる今日も又、我向上の我なるか」が今日でも決定的な解釈をみていない部分です。五十嵐川のほとりの草に寝転んで世の中や自他のことに思いを巡らせているとき切磋琢磨していた昨日と同じように将来に向かって進む自分の姿だという説と、思いにふけって無為に過ごしていることが向上心を持っている自分であるのか?という説です。

 

これはそもそも作者の意図が解らなければ如何ともしがたいことなのです。

作詞者の平野氏は当時旧制高田師範学校の教師で、1番で身近な守門岳を取り入れていることから詞を作るためにわざわざ三条に来校したのではないかと推測されています。その後昭和22年に死去、それまでに歌詞の意味が伝承されてこなかったため人それぞれの解釈のいずれが真なのかわからない状態でしたが、昭和41年頃にようやく解釈の決定版を作るべく纏められたものが学校史に載っています。それでも次の「来れかし」「積れかし」のように未だ世代間で歌われ方が異なる部分もあるわけです。

こうした全体的な”解釈”は、三条出身で『大漢和辞典』の主要編集者・諸橋轍次氏の協力によるところが大だったそうです。諸橋氏は嘉納治五郎、犬養毅、渋沢栄一などなどとも交流があったとされる偉大な漢学者で、その功績を三条市の諸橋轍次記念館で見ることができます。5万字の漢字全てを一枚に表した大パネルが見どころですね。

 

問題の部分は2番、公式HPでは「来れ憂事逆巻きて、尚身の上に来れかし、いざやためさん我が力」です。

これを「尚身の上に積れかし」と歌っていたというOBが多くいるというのです。学校史では校歌についての座談会があり、最初に大正11年頃は「来れかし」、昭和10年頃には既に「積れかし」に代わり、そのまま昭和30年代くらいまで「積れかし」だったようです。そしてその後はまた「来れかし」となって現在に続いているとのことです。

面白いのは、紙面では最初に現れる創立20周年記念誌から上記の「積れかし」と歌っていた世代の卒業アルバムを経て現在に至るまで一貫して「来れかし」と表記されているとのこと。尤も校歌が作られた当初の原本や記録が見つからず、最初はどちらだったのかから曖昧なので正規の表現は今もって不明のままです。「来れ」のあとにまた「来れかし」と続くのはおかしいのではないか、というのもありますが、この部分には江戸時代の学者熊沢蕃山による有名な元歌といえるものがあります。

 憂きことの 猶この上に積もれかし 限りある身の力ためさん

これを踏まえて良寛も”憂きことの猶この上に積もれかし、世を捨てし身にためしてやまん”という和歌を作ったとする説がありますが、こちらは良寛の作集の中でもそれほど知られていないようです。平野氏は万葉集や良寛研究の第一人者でしたから、この歌を使うことで良寛精神を取り入れようとしたのでしょうか。

こうした”世代間で歌われ方が違う”という校歌は他にも埼玉県立浦和高校の例があり、ここでは「校舎の礎、動きなき」が「うごきなき」か「ゆるぎなき」かで揺れているようです。ただここも同校に残る資料の紙面上は一貫して「動なき」と濁点は入っていないので、「ゆるぎなき」はイレギュラーなものではないかと言及しています。