あらすじ
「自分の残り時間を考えた。十年、二十年あるだろうか。そう思った時から歴史時代小説を書き始めた。老いを前にした焦りかと思ったが、二度とあきらめたくなかった」「蜩ノ記」で第一四六回直木賞を受賞した著者による初めての随筆集。
ひと言
本の帯に「私は歴史の敗者を描きたい。彼らの存在に意味はなかったのかと。」とありました。葉室 麟さんらしい史観です。私が子どものころ、親父が「桃栗三年 柿八年 ……」とよく口に出して教えてくれていたのを思い出しました。あと少しで亡くなって7年(8回忌)になります。
土佐藩士で坂本竜馬の同志だった土方楠左衛門は、「秘密に薩長連合の端を開いたのは、長府に三条さん(実美)が御出でになっている所へ、筑前の月形洗蔵が来て、言い出したのが初めだ。薩長和解の話は、筑前が元です」と明治になってから史談会で話した。洗蔵が口火を切った薩長和解へ向けての流れは、土佐藩の中岡慎太郎に引き継がれ、さらに坂本竜馬もこれに加わることになる。ところで、薩長連合とは何なのか。盟約は六ヵ条ある。
幕府の長州征討で長州が勝っても負けても、薩摩は朝廷への工作を行うこと、さらに幕府勢力と「決戦におよぶほかこれなく」などと約した。今でこそ倒幕の軍事同盟と言われるが、当時は幕府の長州征討に備える密約だった。
西郷と長州の木戸孝允が京で会談して盟約が結ばれたのは、慶応二(一八六六)年一月のことだ。たまたま京都に来合わせて、両者の話し合いが膠着状態にあると知った竜馬は、薩摩藩の態度を非難して盟約を急がせた。結果、盟約には竜馬が裏書きすることになった。リレーに例えれば、洗蔵が第一走者としてスタートし、中岡慎太郎がバトンを受けて走り、竜馬が最終走者としてゴールのテープを切ったと言える。福岡藩では前年の慶応元年十月、勤皇派に対する弾圧、〈乙丑(いっちゅう)の変〉があり、洗蔵は同志とともにこの時、刑死している。薩長連合成立のわずか三ヵ月前だった。歴史の大きなうねりの中で、洗蔵ら筑前尊攘派が果たした功績には光が当たらないまま、時代は移った。竜馬は新しい時代の幕開けを告げる曙光として、洗蔵は夜陰を照らす月のように時代を駆け抜けたのではないだろうか。
(龍馬伝)
定家には、紅旗征戎吾ガ事二非ズ(こうきせいじゅう)という有名な言葉がある。定家の五十六年間におよぶ漢文体の日記『明月記』にある一文だ。作家堀田善衛が『明月記』を読み解いた『定家明月記私抄』によれば、「紅旗」とは朝廷の勢威を示す鳳凰や竜などの図柄のある赤い旗を指す。「征戎」は中国における西方の蛮族、すなわち西戎にかけてあり、源平争乱の時代に関東で蜂起した源氏の追討を指し示している。
源氏と平家の戦いが激しくなろうとする時、ひたすら和歌の道に研鑽(けんさん)していた青年公家 定家は戦争を、わたしの知ったことではない、吾ガ事二非ズ と昂然と言い切った。この一文を書いた時、定家は十八歳。源平争乱の時代、戦に明け暮れる世上への文学青年の一喝だった。戦時中に青春を過ごした堀田善衛は『明月記』を読んで愕然としたという。「定家のこのひと言は、当時の文学青年たちにとって胸に痛いほどのものであった。(中略)まだ文学の仕事をはじめてもいないのに戦場でとり殺されるかもしれぬ時に、戦争などおれの知ったことか、とはもとより言いたくても言えぬことであり、それは胸の張裂けるような思いを経験させた」
(三島事件)
人生で最も悲痛な思いをするのは〈愛別離苦〉、愛する者との別離だ。だが、蘇軾は詠う。人生に離別無くば 誰か恩愛の重きを知らん 別離によって、愛情の大きさに気づかされもする。哀しい別れを乗り越えてこそ、ひとはまた人生に喜びを見出すことかできる。さらに言えば、 我が生は飛蓬(ひほう)の如し われわれの一生は砂漠を飛ぶ蓬(よもぎ)の玉のように、永遠に流転する。だからこそ、憂い多ければ髪早く白し あんまり心配ばかりしていると、白髪になってしまうぞ、と蘇軾は諭している。
(吾生如寄)
小説のタイトルを探していて、「柚子は九年で花が咲く」という言葉を見つけた。「桃栗三年柿八年」はよく聞くが、それに「柚子の花」を続ける言い方かあるらしいのだ。もっとも地方によって言い方はいろいろで、「ことわざ辞典」によると「柚子は遅くて十三年」「梅は酸いとて十三年」「枇杷は九年でなりかねる」「梨の大馬鹿十八年」などもある。ずれも収穫にいたるまでの時期を言い表した俗言で、転じて物事が成就するまで時間がかかるという諺になった。桃や栗、柿がいずれも〈実〉であるのに、柚子か〈花〉なのが面白い、と思った。
九年と言えば、ちょうど義務教育を受ける期間だ。人生にも「花を咲かせる」、あるいは「実を結ぶ」という時期があるだろう。ただ、それにかかる時間はひとによってさまざまだ。〈柚子の花〉をテーマにした小説では、若者を主人公にした。だが、〈アラカン〉世代になってみると、人生が「実を結ぶ」というのぱ六十歳を過ぎてからではないか、というのか実感だ。しかし、この年代は親の介護や自身の健康など人生の難問が襲いかかる。退職後、ゆとりを持ってライフワークに取り組もうと夢を追うひとは多いが、現実には困難につきまとわれる。ちょうどハードボイルド小説の主人公が傷つき孤独な戦いを強いられながら、衿持を胸に立ち上がるのに似ている。勝てないかもしれないが、逃げるわけにはいかない。できるのは「あきらめない」ということだけだ。人生に花を咲かせ、実を結ぶためのスタートを切るのに遅すぎるということはない。
(柚子の花)
あらすじ
「歴史の大きな部分ではなく、小さな部分を見つめることで、日本と日本人を知りたい」そんな思いに突き動かされ、九州から京都を中心にした旅エッセイの単行本化。西郷隆盛、坂本龍馬、木戸孝允をはじめとする幕末の志士から、遠藤周作、島尾敏雄などの文豪まで、幅広い歴史的事実の背景を深く読み解く。同時に、著者が発表してきた作品の裏側も見ることができる珠玉のエッセイ集。葉室史観の集大成となる一冊。
ひと言
昨年末から葉室 麟さんの作品を多く借りて読んでいます。2017年12月23日に亡くなられて、はや3年が過ぎてしまいました。カスタマーレビューで、司馬遼太郎の「街道を行く」を思い出させる と書かれた方が多数みえました。もし葉室さんがまだまだお元気であったなら、「街道を行く」のような、日本国中の歴史の裏通りや脇道を描いてくれただろうに……。66歳の早すぎる死。ほんとうに残念でなりません。改めてご冥福をお祈りいたします。
古川 薫さんは去年(2015)、沖縄での特攻隊を描いた小説『君死に給ふことなかれ 神風特攻龍虎隊』を刊行した。終戦間際、特攻用の飛行機が無くなったため、「赤トンボ」と呼ばれる木枠布張りの複葉練習機までもが特攻作戦に使われた。飛行機会社に勤める主人公の深田隆平は、赤トンボを修理していたが、召集されることになり、最後に修理した機の操縦室計器盤の下へひそかに、栄光ノ赤トンボニ祝福ヲ。武運長久ヲ祈リツツ本機ヲ誠心整備ス。と名前とともに書きこんだ。するとある日、隆平のもとに兵士から手紙が届いた。(略)間もなく九三中練で特攻出撃します。(略)深田さんが誠心整備された栄光の赤トンボを操縦して行きます。 かなわぬまでもやれるだけの事はやってまいります。(中略)貴方の未来に祝福を。その未来のなかに俺の時間も少しばかり入れてください。手紙にはM・Kとイニシャルだけが書かれていた。
昭和20年(1945)7月29日夜、宮古島から「神風特別攻撃隊第三次龍虎隊」が出撃した。赤トンボの特攻隊だ。いずれも18、19歳の隊員たちが乗り込んでいた。粗末な練習機は、250キロ爆弾を搭載しての長距離飛行は難しく、最短距離から出撃しなければならなかった。しかも、作戦は月夜に限られた。この中にM・Kがいた。特攻隊は沖縄沖の夜の海上で目的のアメリカ艦を見つけた。練習機だけに夜の海を海上すれすれにゆっくりと進んだ。1隻の駆逐艦が大破、炎上して沈没、ほかの艦にも大きな被害を与えた。特攻隊は1回の出撃で成功したのではない。逡巡するかのようにエンジン不調で何度も引き返す機がある。そのとき、どのような思いが隊員たちの胸に兆していたのか。敗戦のわずか2週間余り前のことである。すでに沖縄戦も終わっており、赤トンボ特攻隊の戦果は広く知られることはなかった。
(戦の世 見つめる大先輩)
「人生は挫折したところから始まる」が、私の小説のテーマ。小説とは、喜びや悲しみ、憤りといった感情が基軸になる。50歳を過ぎて作家デビューするまでに人生の経験を積み、さまざまな感情を味わってきました。それらを思い起こし、一つひとつを物語にしているという感じがあります。若い作家と比べ、経験の数が私の強みです。過去を思い出して物語にしたい、という衝動は、ある程度の年齢を経れば、誰しもあるのではないでしょうか。それは、かつての自分を正当化するというのではなく、「傷ついた」という悔しさ、あるいは「人を傷つけたかもしれない」という反省を、物語にすることで救おうという衝動です。表現の仕方は文章だけでなく、絵や音楽など、人によってさまざまですが。
(インタビュー 「司馬さんの先」私たちの役目)
葉室さんは、こうも書いた。勝者ではなく敗者、あるいは脇役や端役の視線で歴史を見たい。歴史の主役が闊歩する表通りではなく、裏通りや脇道、路地を歩きたかった。
そのまま葉室さんの小説に通じる言葉だろう。一連の旅で主に訪ねたのは、挫折や敗北を知る人、しかし屈することなく再生をめざした人たちだった。
(時代詠う旅 思い引き継ぐ)
葉室さんは唐の詩人杜甫の詩句「片雲頭上黒 応是雨催詩」(宴の最中、空に黒いちぎれ雲がかかり始めた。もうすぐ雨となり、詩を作るように促されるだろう)を引き、「この詩を時代に暗雲がかかる時は詩人の出番だ、と読み替えてみたら、どうだろう」と書いた後、こう続けた。
近頃の世の中の流れを見ていると頭上に黒雲がかかる思いがするし、今にも降りそうな雨の匂いもかいでいる。時代を詠(うた)う詩人は、今でいうジャーナリストの側面も持っていたのではないか、と思うからだ。我々は、どのような時代に生きているのか、何を喜び、何を悲しんでいるのかを告げたのが、詩人ではないか。詩を読み、人の心が動くとき、世界が変わる。今は、そんな詩人が求められている時代だ。明治維新から150年、そして平成が終わろうとする今は、葉室さんこそが求められていた。今なら、どこに旅をして、誰に会い、何を語ったろうか。惜しまれてならない。だからこそ、曙光を探す旅を引き継いでいかなければ、と思う。新たな旅は、葉室さんの言葉を受け取った読者一人ひとりの旅なのかもしれない。
(時代詠う旅 思い引き継ぐ)
あらすじ
切腹した父の無念を晴らすという悲願を胸に、武家の出を隠し女中となった菜々。意外にも奉公先の風早家は温かい家で、当主の市之進や奥方の佐知から菜々は優しく教えられ導かれていく。だが、風早家に危機が迫る。前藩主に繋がる勘定方の不正を糺そうとする市之進に罠が仕掛けられたのだ。そして、その首謀者は、かつて母の口から聞いた父の仇、轟平九郎であった。亡き父のため、風早家のため、菜々は孤軍奮闘し、ついに一世一代の勝負に挑む。
ひと言
本の帯に「日本晴れの読み心地!」と書いてありましたが、まったくその通りの本でした。それもその筈、NHKで菜々役が清原果耶さんでドラマ化されていたとのこと。レンタルDVDはあるのかなぁ。2021年最初の一冊にふさわしい本でした。

和歌がいっぱい書いてあるらしいが、菜々は和歌を学んだことがないので戸惑った顔をしていると、佐知は指差して、 「ここを読んでごらんなさい」 と言った。菜々は、たどたどしく声に出して読んだ。
月草の仮なる命にある人を いかに知りてか後も逢はむと言ふ
という和歌だった。万葉集に作者未詳としてある歌だという。「庭の露草は螢草とも月草とも呼び名があると話しましたが、これは月草を詠っていますから、露草の歌でもあるのです」佐知はそう言って、和歌の意味をよくわかるように説いてくれた。露草の儚さにたとえ、わたしは仮初の命しかないことを知らないのだろうか、後に逢おうとあの方は言っているけれど、という意味だという。菜々がいまひとつ意味をつかみかねて首を傾げると、佐知は微笑んで、「一夜の逢瀬を重ねた後、女人が殿方から又会おうと言われた際に、わたしは露草のようにはかない命なのに、また逢うことなどできるのだろうか、と嘆く心を詠った和歌かもしれませんね」佐知が説いてくれる話を聞いて、菜々はせつない心持ちがした。「菜々にはまだ早いかもしれませんが、ひとは相手への想いが深くなるにつれて、別れる時の辛さが深くなり、悲しみが増すそうです。ひとは、皆、儚い命を限られて生きているのですから、いまこのひとときを大切に思わねばなりません」佐知にそう言われて、なぜか目に涙が滲んできたことが脳裏によみがえった。
(九)
「質屋をやっていると、いろんな商売人が来るんでね。商売がうまくいくやり方はわからないけど、どうやったらしくじるかはわかるようになったよ」お舟は煙草の煙をふうと吐き出して、にやりと笑った。菜々はすがる思いで訊いた。「どうしてしくじるんですか」「続けないからだよ。うまくいかないからって、すぐにあきらめてしまうのさ」「じゃあ、あきらめないで続けたら、うまくいきますか」それなら自分にもできるかもしれないと思って菜々は目を輝かせたが、お舟は頭を振った。「そうとは限らないよ。いくら続けてもうまくいかない商売なんてざらにあるからね。だけど、続けないことには話にならないのさ。物を売るってのはお客との真剣勝負だと思うね。勝負するには、まずお客に信用してもらわなきゃいけない。あいつは、雨の日だろうが、風の日だろうが、いつもそこにいるってね」「いつもいるんですね」「そうでなきゃお客はつかないよ。あいつは変わらないなって思ってもらえた時に、ぼつぼつ買ってくださるお客がつくようになるのさ」
(十七)
「人助けでございます。義を見てせざるは勇なきなり、と先生から教わったと正助坊っちゃまがおっしゃっておられました」「なに、わしの教えをさように覚えておるのか」節斎は満更でもない、という顔になった。機を逃さずに菜々は、「学問をしていると、ひとの姿がよく見えてくるのでございますね」とすかさず言った。「ほう、書物を読まぬそなたにして、さような見識を得たとはな」「はい、生きていると楽しいことばかりではありません。辛いことがいっぱいあるのを知っているひとは、悲しんでいるひとの心がわかり、言葉でなく行いで慰めてくれます。昔の偉い方は、そんなことができるひとの見分け方を学問として教えてくれたような気がするのです」菜々は心の底から思ったことを口にした。「そうだな。ひとの心を癒すのは言葉をかけることも大事だが、要は心持ちだ。何も言わず、ただ行うだけの者の心は尊いものぞ」そう言った後で、やむを得ぬ、頼みは引き受けた、と節斎は少し苦々しげに言った。
(二十)
「兄上、菜々のことは、きょうから違う呼び方をしなければいけません。父上がそうおっしゃったではありませんか」正助は頭に手をやって、「しまった。さっそく間違えてしまった」と照れ笑いした。菜々はふたりが何を言っているのか、さっぱり意味がわからなかった。正助ととよは顔を見合わせてから、声をそろえて口にした。「母上 ――」
(二十七)
あらすじ
どこかの街の美術館で小さな奇跡が今日も、きっと起こっている。人生の脇道に佇む人々が“あの絵”と出会い再び歩き出す姿を描く。アート小説の名手による極上の小説集。
ひと言
いつも今年最後の一冊は、すがすがしく元気をもらえる本にしようといつも思い悩み、今年は重松 清さんの「旧友再会」にするつもりでしたが、今年最後の開館日である12月27日、図書館から「予約していた本の貸出の用意ができました」のメールが…。それがこの本「〈あの絵〉のまえで」です。すぐにでも読みたかったのですが、29日 お伊勢さんへのお礼参りを予定していたので、その電車の中で読むのを楽しみにしていました。周りに人がいる電車の中で、涙をこらえるのに大変でした。美術オンチの私にアートの素晴らしさを教えてくれたのは、間違いなく原田 マハさん。読者にその絵を実際に観に行きたいと思わせるような、素敵なアート小説を書くキュレーター 原田 マハさんに唯々感謝です。今年の最後の一冊にふさわしい素晴らしい作品でした。

(ドービニーの庭 ゴッホ ひろしま美術館)
閉じた手帳の表紙がぼんやりとにじんで見えた。表紙には有名な画家の絵がカラーで印刷されてあった。―― フィンセント・ファン・ゴッホが描いた夏の庭の絵。手帳は去年の冬休み直前、クリスマス・プレゼントにと亜季が贈ってくれたものだった。見返しの余白にはメッセージが書き込まれている。すんなりときれいな、亜季そのもののような字で。〈メリー・クリスマス この手帳をみつけたとき、なんだか夏花っぽいなと思って買いました。就職活動手帳に使ってね。がんばって就職活動、乗り切ろう〉「乗り切れないよ、もう……」今度は声に出して、そうつぶやいた。ぽつんと涙のしずくが手帳の見返しの上に落ちた。そこに書かれていたのは、表紙の絵のクレジット。〈ドービニーの庭〉フインセント・フアン・ゴッホ 一八九〇年 ひろしま美術館所蔵 私は手の甲で涙をぬぐって、そのクレジットをみつめた。たった一行を、何度もなんども、繰り返し読んだ。―― ひろしま美術館。広島県庁の近く、基町にある私立美術館だ。知ってはいたが、行ったことはなかった。私は手帳を閉じて、表紙の絵をまじまじと見直した。〈ドービニーの庭〉こんもりと生い茂った木々、みずみずしい緑におおわれた庭。真ん中には白ばらの茂みがあり、さわやかな大輪の花が咲き誇っている。遠景にある洋館の屋根も緑色で、草木の色に呼応している。空は少しさびしげな水色をたたえて静まり返っている。誰もいない真昼、けれど庭のそこここに生命の営みがある。力強くまばゆく、光に満ちた夏の庭の風景 ――。
ネオンの合間を縫って広電が近づいてきた。母が先に、私が後に、乗り込んだ。ちんちん、と発車のベルが鳴り響いて、電車はすぐに出発した。私たちは、しばらくのあいだ、無言で電車に揺られていた。半分開いた車窓から気持ちのいい夜風が吹き込んできた。県庁の近くを過ぎたとき、私は、あっと声を上げた。「どうしたん?」母が不思議そうな顔をした。「―― ひろしま美術館!」私は大きな声で言った。うっそうと木が生い茂る公園のそばを、がたん、ごとん、電車が加速して通り過ぎる。その公園の中にひろしま美術館があると、行ったことはなくても知っていた。車窓の外で公園が遠ざかるのを見送るようにして、母がつぶやいた。「ああ、そうじゃったね。あそこの美術館、むかーし、あんたを連れていったなあ」思いがけないひと言に、私は母の横顔を見た。「え……ほんまに? いつ?」「そうじゃなあ。……あんたを抱っこして行ったけえ、二十年くらいまえのことじゃろうか」私が二歳になった頃のこと、ある日、広さんが唐突に美術館の入場券を母に手渡したのだという。
(ハッピー・バースデー)

(鳥籠 ピカソ 大原美術館)
ピカソの〈鳥龍〉の前にたどり着いたとき、私は「あ」と声を漏らした。なっしーが振り向いた。「どうしたん?」すぐに私のとなりへ来てくれた。「この絵、気になっとったんよ 」と私は小声で答えた。「小学校の校外授業のときに見て、不思議な絵じゃな、って」えっ、となっしーは意外そうな顔をした。「おれも、初めて来たとき、この絵がいちばん引っかかった 」「え、ほんま?」「うん。うまく言えんのじゃけど、引っかかるなって感じで、ずーっと見てしもうた」私たちは、ちょっと手を伸ばせば指先が触れ合うくらい近くに佇んで、しばらく見入った。鳥かごの中の鳥が、私には、やっぱり鳥に見えなかった。でも、口には出さなかった。「この鳥なあ。かごの中にいるのと違うような気がする」ふいになっしーがつぶやいた。私は、なっしーを見上げた。「どういうこと?」「うん。かごの向こうに窓があるじゃろ。鳥が飛んできて、たまたま、窓辺にとまった。それが、空っぽの鳥かごの向こうに、鳥かごを通して、見えてるだけ」つまり、鳥は「かごの鳥」として飼われているんじゃなくて、自由に飛び回っているんじゃないか ―― と、なっしーは言った。「すごい」、と私はびっくりした。「すごいよ、なっしー。それ、ピカソも気がつかなかったかも」「そうじゃろか」「うん、そうだよ」私たちはくすくす笑い合った。……。
絵の中でどうしても鳥に見えなかったものが、急に、鳥に見えた。かごにとらわれているんじゃなくて、自由なのだとわかったその瞬間に。
(窓辺の小鳥たち)

(砂糖壺、梨とテーブルクロス セザンヌ ポーラ美術館)
身じろぎもせずに、彼女は一点の絵に向き合っていた。〈砂糖壺、梨とテーブルクロス〉というタイトルが付けられた静物画に。それは、えもいわれぬ不思議な絵だった。横長の構図、左手に藤色がかったテーブルクロスがあり、中央に白い砂糖壺、黄色と赤の洋梨、緑のリンゴ、いちばん右手にレモン。それらのオブジェがテーブルの上に「わっ」といっせいに集合している。まるでおしゃべりをしているかのようににぎやかで、転がり落ちそうな躍動感がある。静物画なのに、ちっとも静かではないし、止まってもいない。個々のオブジェの隅々まで輝く命が宿っている。
セザンヌが写実的な表現ではなく、画家の解釈でオブジェのかたちや構図を変え、画面の上に自ら秩序を作り出し、新しい表現方法を生み出したことは知っていた。けれど、それがいったいどういうことなのか、ほんとうのところはわからなかった。私は、画家が自分だけの表現をみつけるためにどんな努力をしたのか、まったく知らなかったし、努力の末に見出した手法で描かれた絵がどんなふうに見えるのか、知ろうともしなかった。ほんものの絵を見ずに絵を描こうとしたって、できるはずがない。そんなあたりまえのことに、私は気づかずにいたのだ。少女は、ポケットに手を突っ込むと、レモンを取り出した。そしてそれを、あの絵のまえで、かぎした。少女がなぜ、レモンを連れて、ここまでやって来たのか。私には、ぜんぶ、わかる気がした。彼女は私の母校の美術部に所属している。そして、絵を描いている。きっとセザンヌの作例を自分の制作の参考にしているのだろう。推測だけど、そこまでは十六歳の私と同じだ。違うのは、彼女がセザンヌと友だちだということ。彼女は、動画サイトやネット検索しただけでセザンヌをわかったとは決して思わずに、この美術館へ通っているのだ。そして、画家に直接「相談」しているのだ。―― ねえセザンヌ、私の描くレモンは、あなたのレモンと、どう違うのかな? 教えてくれる?少女の心の声が、聞こえてくるようだった。
(檸檬)

(オイゲニア・プリマフェージの肖像 グスタフ・クリムト 豊田市美術館)
―― あんたが書いた小説、読める日を楽しみにしてるよ。絶対、あきらめないで。あきらめない限り、いつかきっと実現するよ。がんばれ、亜衣。待ってるからね。ずっと、ずっと。その日がくるまで、いつまでも。そうして、私は、愛知県の豊田市にあるこのコーポでひとり暮らしを始めた。岡崎のわりと近くに引っ越したのは、万一おばあちゃんに何かあったら、すぐに駆けつけることができるようにと考えたからだ。私は、フリーのライターとして雑誌や企業のウェブサイトで記事を書いて生計を立てようなどと考えていたのだが、現実はそんなに甘くはなかった。なんの経験もないライターにお金を払って記事を書いてもらいたい媒体や企業は、世の中にひとつもなかった。毎日、菓子パンとカップ麺の食事が続いた。銀行口座の残高が千円を切ったとき、ついに私は手を出したのだ。「さくらレビュワー」の仕事に。『毎日少しずつ書いてるよ』と、最初のうち、おばあちゃんにはほとんど毎日ショートメッセージを送っていた。『楽しみにしてるよ』『読むの待ってるよ』とすぐに返事がきた。それがいつしか、三日に一回になり、一週間に一回になり、一ヶ月に一回になり、さくらレビュワーの仕事でそこそこ収入を得るようになった頃には、もうまったく連絡をしなくなってしまっていた。
おばあちゃんのほうからは、ずっと短いメッセージが送られてきたが、そのうちにぱったりと途絶えた。私がちっとも返事をしないからに違いなかった。そんなある日、一枚のポストカードが届いた。満開の花畑の中で、花畑をそのままうつしたような華やかなドレスを身にまとった、それはそれはきれいな女の人の絵のカード。グスタフ・クリムト〈オイゲニア・プリマフェージの肖像〉とキャプションがついていた。そして、おばあちゃんのメッセージがたて書きで書かれていた。―― 絶対、あきらめないで。がんばれ、亜衣。待ってるからね。ずっと、ずっと。
前の晩、スガワラさんは、鍋じゃなくて焼肉をふるまってくれた。上カルビと上ロースを惜しげもなくじゅうじゅう焼いて、さあ食べて食べて、とどんどん私のお皿に積み上げた。どういう風の吹き回しかと思っていたら、私の小説を昨夜読了したという。
おばあちゃんと孫の話。おいしいパン屋のある町に住んで、ていねいな暮らしを営むふたり。孫の少女、みゆの目線で物語は進む。片思いの彼にふられたり、おばあちゃんを楽させたくて秘密でアルバイトをしたり。絵を描くのが大好きで、画家になる夢をもっているみゆ。だけど、現実はそんなにうまくいかなくて…… 二十歳になったあるとき、みゆはとうとう独立する。いつかきっと夢をかなえて帰ってくると言って。そしておばあちゃんと約束する。じゃあ、きっかり五年後の今日、ふたりがいつもひまさえあれば出かけていた美術館の、いちばん好きなあの絵のまえで会おう。そのときには、きっと夢がかなっているように ―― と。結局、みゆの夢がかなうまえに、おばあちゃんはひとりぼっちで天国に逝ってしまう。約束を果たせなかったみゆは、それでも、五年後の約束の日、美術館に出かけていく。そして、あの絵のまえで、いつまでもおばあちゃんが現れるのを待っている。その絵は、グスタフ・クリムトが描いたそれはそれは美しい女性の肖像画。いつしか絵の中の女性は、若かりし頃のおばあちゃんに変わっていく。そして、みゆと再会を果たすのだ。「どうでしたか?」おそるおそる、私は訊いてみた。物語は、自分が思った通りに書けたと思った。が、ひとつだけ自信がなかったのは、おばあちゃんから最後に届いたポストカードの絵 ―― 豊田市美術館にあるというクリムトの作品〈オイゲニア・プリマフェージの肖像〉を大事なオチに使ったにもかかわらず、私は実際にそれを見たことがなかったのだ。
(豊饒)
「ねえお母さん、これさ、クリスマスプレゼントじゃなくて、誕生日プレゼントなの?なんで?」「いいから、早く開けてみなって」忠さんと私が見守る中、誠也は白いリボンをほどき、赤い包装紙を開いた。平たい白い箱のふたに両手を添えて、そっと開ける。フレームに入った複製画が現れた。〈白馬の森〉。私が大好きな画家、東山魁夷が描いた絵だ。「……わあ……」ため息のような声をもらすと、吸い込まれるように誠也はその絵に見入った。冬枯れの木立。冷たく青くとぎすまされた空気が木々のあいだを満たしている。そのはざまにすっと佇む一頭の白い馬。まるで森の精霊のようなその馬は、森の中から私たちの前に姿を現して、静かに息づいている。冬の化身のごとく凛として美しいその姿。みつめるうちに心が平らかになっていくようだ。
誠也が生まれた年に、たまたまダイニングの壁に掛けていたのが東山魁夷のカレンダーだった。日付とともに毎月一枚の季節の風景画が合わせてあって、毎日眺めて暮らしたものだ。〈白馬の森〉は、十二月 ―― つまり誠也が生まれた月を飾っていた。予定日は翌年の二月だったが、結局誠也は、カレンダーに白馬が登場した月に生まれたのだった。二十歳の記念になる特別なプレゼントは何かいいだろう。あれこれ考えを巡らせるうちに、ふとあのカレンダーの絵を思い出し、ネットで探して購入したのだった。
(聖夜)
薄暗い前室にたどり着いた。スタッフに声をかけられて、靴を脱ぎ、スリッパに履き替える。これまで何度か美術館に行ったことはあったが、展示室に入るのに靴を脱いだのは初めてのことだった。そんなことのひとつひとつが、私には新鮮だった。そうして、私は、とうとう――〈睡蓮〉の絵のまえに、立った。ぽかんと大きな空間。床は小さな白い石のモザイクが埋め込んであり、壁も天井も白。けれど、まぶしい白ではなく、白鳥の羽のようなやわらかな光に包まれた白だ。展示室は天上の光に満たされ、その中に〈睡蓮〉の絵が浮かび上がっている。私は、言葉をなくして、ゆっくりと、強く、静かに ―― 絵の近くへと引き寄せられた。
正面に横長の睡蓮の池が広がっている。左右両側の壁にも一点ずつ。振り返ると、出入り口を真ん中にして両側の壁にも一点ずつ。全方位、睡蓮の池に囲まれている。睡蓮の池は、たそがれの空を映しているのか、紫がかった薔薇色。そこに群れて浮かぶ睡蓮の花の淡い白と、深緑の葉。茜雲が映る水面の下にはしなやかに藻が揺れている。水の中と、水面と、空。みっつの世界が池をはさんで響き合っている。「―― うわあ……すごい……」思わず声に出してしまって、はっとして右手で口をふさいだ。展示室には、ひとり、先客がいた。私が入っていったとき、正面の絵の真ん前に初老の男性が佇んでいたのだ。が、その人は、私が近づいていくのに気がついて、静かに正面から退き、自分が立っていた位置をごく自然に譲ってくれた。私は絵に強く引き寄せられるあまり、彼の気遣いにすぐには気づかなかった。けれど、無言であとから来た人にベストポジションをバトンタッチする行為に、アートを愛する人の暗黙のマナーを感じて、すてきだな、と思った。
―― もう一度会いに行こう。私は、ホテルのまえで地中美術館行きのバスに乗った。最終入館時間、十六時にぎりぎり間に合った。……。私は、ふたたび絵のまえに吸い寄せられながら、睡蓮の池からこちらに向かって寄せくるさざなみを感じた。やっぱり、この絵は、生きているんだ。この絵の中から風が吹いてくる。だから、こんなふうにさざなみが……私のもとに届くんだ。私は、吹きくる風を心地よく全身に受け、裸足を清らかな水にひたして、たださざなみに洗われていた。仕事、職場の人間関係、予期せぬ病気、苦しみ、思い悩んだあれこれが、遠くへと流されていった。透き通った白い光に包まれて、私は、どこまでも満ち足りた時間の中を浮遊した。
(さざなみ)
あらすじ
あの人にいま会えたら、何を伝えますか?
年を重ねると増えていく「再会」の機会。再会は、一度別れたからこそのもの。どう別れたかで、再会の仕方も変わってくる。会いたい人、会いたくない人、忘れていた人。子育て、離婚、定年、介護、家族、友達。人生には、どしゃぶりもあれば晴れ間もある。「あの年の秋」「旧友再会」「ホームにて」「どしゃぶり」「ある帰郷」 重松清が届ける5つのサプリメント。
ひと言
重松 清さんとは歳も近くて(重松さんは2歳下)、いつも共感しながら読ませてもらっています。例えば「旧友再会」の薄ーいカルピスの話なんて、今の若い人にしてみたら、「もっと原液をたっぷり入れて、せっかくなんだからおいしく飲んだ方がいいじゃん」で済んでしまう話なんだろうけど、今のアラ還の人たちにとっては、そんな簡単な話じゃない懐かしい思い出です。「どしゃぶり」の中にも「理不尽や納得できないものを胸に抱きながら、受け入れていたその当時の自分のことが、いまの私は、決して嫌いではない。」と書かれているように、同じ時代を生きてきた人にしかわからない思いなのかもしれません。今回も素敵な作品をありがとうございました。
死を考えた。いや、「考える」という余裕すらなく、ただぼんやりとホームの下の線路を見つめて、もういいや、もういいや……と心の中でつぶやいていた。駅のアナウンスが、間もなく通過電車が来ることを告げた。つぶやきが変わった。ああ、そうか、そうすればいいのか……。電車が近づいてきた。立ちくらみを起こしたように頭がくらくらして、足元がふらついた。そのときだった。ホームの立ち食いそばのスタンドから漂ってきたツユの香りに、ふと我に返った。と同時に、急におなかが空いてきて、朝からなにも食べていないことも思いだした。引き寄せられるようにスタンドに入り、かけそばを注文したら、卵入りの月見そばが出た。「間違いですよ」と店員に言うと、おじいさんと呼んでもいいような年配の店員は、「サービス」とぶっきらぼうに言った。きょとんとするSさんをよそに、そのおじいさんは洗い物に取りかかりながら、もっとぶっきらぼうにつづけた。「体が温まったら、休む元気も出てくるさ」おじいさんはSさんを見ていたのだ。ホームにたたずむSさんの姿から、自殺のサインをも読み取っていたのかもしれない。
Sさんは、エッセイをこんなふうに締めくくっていた。
〈そばは温かくて美味かった。カツオのだしがきいたツユのしょっぱさが胸に染みた。途中で鼻水が垂れてきて、涙まで勝手に出てきた。ツユの最後の一滴まで飲み干して、どんぶりをカウンターに置くと、「よし休もう、明日からのために今日は休むんだ」ときっぱりと決められた。おじいさんの言っていた「休む元気」とは、こういうことだったのだろう。私は家に帰って、ベッドにもぐりこんで、夕方までぐっすりと眠った。こんなによく眠れたのはひさしぶりのことで、目覚めたときには死の誘惑はすっかり消えていた。
(ホームにて 3)
あの頃の自分は、ほんとうに、情けないぐらいにびくびくしていた。校内を歩いているときは、先輩がどこかにいるんじゃないかと、気が気ではなかった。誰それが昨日ケツバットされた、という話が流れてくると、今日は自分なんじゃないか、と怖くてたまらなかった。雨の日のホームランに指名されてヘッドスライディングをしたあとは、泥まみれになったユニフォームよりもさらに重いものが背中にのしかかって、なかなか立ち上がれなかった。
あんな思いは、もう二度と味わいたくないし、自分の息子にはなにがあっても味わわせたくない。それはもう、迷いなく断言する。
けれど、理不尽や納得できないものを胸に抱きながら、野球部はそういうものなんだから、と受け容れていた十三歳の自分のことが、いまの私は、決して嫌いではない。「偉いぞ」と褒めたたえるつもりはないが、「まあ、おまえもいろいろ大変だったな」と肩を軽く叩くぐらいのことはしてやってもいいか、と思っているのだ。
(どしゃぶり 1)
松井はなにか言いかけて、やめて、咳払いをしてから、私の問いにやっと答えてくれた。「いつか後悔するぞ、って言ってやった」円陣を組んだ部員たちに ――「ちゃんと悔しがることができないと、いつかおとなになってから後悔するぞ、だから負けたときぐらい、しっかり悔しがれ、って」それだけだ、……。
(どしゃぶり 4)
「監督をやらせてくれて、ヒメの息子たちに会わせてくれて、ありかとうな、コバ」「いや、でも……」「悔しい思いができて、よかった」「―― え?」「思いどおりに体が動かなかったり、いまどきの中学生にムカついたり、やろうと思ったことが全然できなかったり、勝ちたかったのに負けたり……そういう悔しさ、最後にたくさん味わえて、よかった」そうじゃないと、と続けた。「いろんなことを、あきらめるしかないもんな。悔しがれないのが、俺は悔しいよ、ほんとに」黙り込んでしまった小林と私に、松井は「だから、よかった」と満足そうに言って、あらためて「ありがとう」と頭を下げて続けた。「悔しさ一杯で、惚(ほ)けたおふくろを背負って、孤独で暗い老後を生きてやる」言葉は重く、苦い。なのに、不思議と声は明るい。
(どしゃぶり 5)
あらすじ
天領の豊後日田で、私塾・咸宜園(かんぎえん)を主宰する広瀬淡窓と、家業を継いだ弟・久兵衛。画期的な教育方針を打ち出す淡窓へも、商人としてひたむきに生きる久兵衛へも、お上の執拗な嫌がらせが続く。大塩平八郎の乱が起きるなど、時代の大きなうねりの中で、権力の横暴に耐え、清冽な生き方を貫こうとする広瀬兄弟。理不尽なことが身に降りかかろうとも、諦めず、凛として生きることの大切さを切々と訴えた歴史長編。
ひと言
「咸宜」とは『詩経』から取られた言葉で、「ことごとくよろし」の意味で、塾生の意志や個性を尊重する理念が込められているとのこと。天保の飢饉に苦しむ人々を町奉行所が救わないことを批判し、大坂市内の豪商の屋敷などを襲撃した 大塩平八郎の乱 1837年(人はみな)。大坂町奉行所の元与力であった大塩平八郎。その役人が起こした幕府のやり方を批判した反乱ということで、幕府は百姓一揆とはまた違う衝撃を受けたのであろう。学問についてもいろいろと考えさせられ勉強になった一冊でした。
「兄の学問は、商売では見ることのできない世の中をわたしに見せてくれます。わたしはそのことを楽しんでいるのです」「学問を楽しまれていると言われますか」千世は怪訝(けげん)そうな顔を向けた。「さようです。生きることに値打ちがあるのだ、と教えてくれるのが学問ではありますまいか。おのれが生きることが無駄ではないと知れば、おのずから楽しめるというものです」久兵衛は静かな眼差しで千世を見つめた。
(底霧 四)
「いや、つい塾を始めたころを思い出してな。当時は塾生も少なく、盛大とは言えなかったが、皆で学ぶ喜びがあった」淡窓がしみじみ言うと、真道は頭を振った。「何を仰せになられます。何を仰せになられます。それはいまも変わりませぬ」真道は膝を正して詩を口にした。淡窓の〈桂林荘雑詠諸生に示す〉四首のうちの一首である。
道(い)うことを休(や)めよ 他郷苦辛多しと
同袍(どうほう)友有り 自ら相親しむ
柴扉(さいひ)暁に出づれば 霜雪の如し
君は川流(せんりゅう)を汲め 我は薪を拾わん
他郷での勉学は苦労や辛いことが多いと弱音を吐くのは止めにしよう。一枚の綿入れを共有するほどの友と自然に親しくなるものだ。朝早く柴の戸を開けて外に出てみると、降りた霜がまるで雪のようだ。寒い朝だが炊事のため、君は小川の流れで水を汲んできたまえ。わたしは山の中で薪を拾ってこよう、と詠っている。故郷を遠く離れた地での勉学には苦労も多いが、寮での友達との共同生活も、人生の中で味わい深く楽しいものだ、という詩である。
(雨、蕭々 一)
「ひとは悲しみを抱いてしか生きられないのでしょうか」「いいえ。ひとが一度、抱いた思いは、それがたとえかなえられなかったとしても胸の奥深くで生き続けるのではありますまいか。大切なのはひとを思う気持を失わないことです」久兵衛がかけてくれた言葉は千世の胸に沁みた。「大切なのは、ひとを思う気持を失わないこと……」満天の星が瞬く空を見上げながら千世がつぶやいた時、白い尾を引いて星が流れた。
(天が泣く 二)
「久兵衛殿は、千世様が見つかればいかがなされるおつもりでございますか」「無論のこと、いままで通り博多屋で手伝うてもらい、咸宜園に通って学問をするのがよかろうか、と」困惑した面持ちで久兵衛は答えた。「想いをかけた女子をそば近くに置きながら、深い縁(えにし)を結ぼうとはなされないのですね。それは女子の身にとって辛いことだとはお思いになりませんか」「それは ――」答えに詰まった久兵衛が口をつぐむと、ななは話を続けた。「たとえ身を滅ぼすことになりましょうとも、思いがかなうのであれば、生きて参れましょうが、思いを寄せ合っているとわかりながら何事もなく時が過ぎていくのは女子にとって酷(むご)うございます」久兵衛が苦しげにうつむくのを見たななは淡々と言葉を継いだ。「千世様はさような思いを胸に日田を出ようと心を決められたのではないでしょうか。久兵衛殿の危難を救うために身を退くことで、自らの胸の内を伝えたかったのでございましょう」
(天が泣く 三)
12月29日 近鉄蟹江駅 6時18分発の急行に乗って伊勢詣でに行ってきました。
7時51分 伊勢市駅に到着。先ずは外宮前の「伊勢せきや 本店」の2階「あそらの茶屋」で御饌(みけ)の朝かゆ 鮑 をいただきます。みなさんよく知っていて40分ほどの待ちでした。
駅まで戻り JRで二見浦まで行き、歩いて20分ほどの二見興玉神社(夫婦岩)へ。
懐かしいなぁ 小学校の時の修学旅行は二見ヶ浦でした。貸し切りのディーゼル車でこの駅で乗り降りしたのに、全然面影がない……。
こんな感じの宿だったけど、思い出せない。宿では最初 若い女の先生が枕投げを始めたのに、年配の男の先生に怒られて…、後で女の先生がみんなに「ごめんね」ってあやまってたっけ…。もう48年も前の懐かしい思い出です。
何十年ぶりの夫婦岩だろう。すべてが懐かしい。
二見ヶ浦へ行ったら必ず立ち寄ろうと思っていた「五十鈴勢語庵」です。お店が開いていてよかった。
名物の塩ようかんをいただきます。二見興玉神社の縁起物 「無事にかえる」「身代わりかえる」の二見蛙をいただきました。お心遣いほんとうにありがとうございました。
二見浦は切符売り場もない無人駅。車掌さんに切符をきってもらいます。
伊勢市駅に戻り、外宮までの参道のお店で二軒茶屋餅とへんば餅を購入。
正宮をお参りして、別宮の多賀宮、土宮、風宮をお参りします。
コロナで三が日を避けての幸先(さいさき)詣なのか、内宮行のバス停もこの行列です。
瀧祭神に訪(おとな)いを取り次いでいただき、正宮へ。やっぱり混んでいます。
別宮の荒祭宮、風日祈宮 そして四至神(みやのめぐりのかみ) 子安神社もお参りします。
(上の写真は神宮のHPより)
来年は丑年。年男なのでかわいい円干支をいただきました。
おかげ横丁の「若松屋」のひりょうず か「赤福 本店」の赤福盆をいただいて帰ろうと思っていましたが結構な行列ができていたので断念です。
帰りのバスを徴古館前で降りて倭姫宮をお参りします。今まで立ち寄りたい立ち寄りたいと思いながら、内宮の別宮なので先にお参りすることもできず、帰りは疲れてそのまま通り過ぎてしまっていた倭姫宮。やっとお参りができ胸のつかえが降りたような気分です。神宮をこの地に創建していただきほんとうにありがとうございました。
今年はコロナに振り回された1年となりましたが、どうにか無事に1年を終えることができました。お守りいただきほんとうにありがとうございました。
来年はコロナが終息し、みんなが笑顔で過ごすことができるような1年になりますように!
追記 2021.02.07
今日は、少し早いけどバレンタインだからと、娘たちが フィナンシェ、マドレーヌ そしてプティブール・エシレをプレゼントに持ってきてくれました。最近は、行列は以前に比べて減ったものの、まだまだ並ばないと買えないので、まだ食べたことがなかったので、とても嬉しかったです。どれも後味がとてもよくおいしいのですが、個人的にはマドレーヌが特においしかったです。さすが私の娘、一番食べたかったお菓子をありがとう♪。とてもおいしかったです。ごちそうさまでした♪
12月10日の開店当日はなんと最大7時間待ちになった「エシレ・パティスリー オ ブール JR名古屋タカシマヤ店」。ちょうど2週間が経ち、少しは列が短くなったかなと気合を入れて1時間前に到着。以前店員さんに「これでどれぐらいの待ち時間になりますか?」と尋ねたことがありましたが「すみません、2時間ぐらいになると思います」とのこと。そのときよりも長い列ができていたので「エシレ」を諦めて地下1階の「ゲルレ」に並びます。ゲルレの後、「成城石井」 でエシレ バターが買えるとの情報で、名古屋駅広小路口店へ。50g ポーション 有塩(562円?)を購入しました。今度お気に入りのパンにたっぷりバターをつけて食べるのを楽しみにしています♪。サブレサンドやフィナンシェ、マドレーヌは来年のお楽しみにします♪
名古屋市中村区名駅1 JR名古屋タカシマヤ 1F
2020 アムールデュショコラで売り上げNo.1の栄冠に輝いた「オードリー」。今年もクリスマススペシャル缶を携えて、期間限定でJR高島屋に来てくれました。地下1階 御座候横の入り口に開店5分前ぐらいに並びます。売り場と整列場所を前もって確認していなかったので、少し手間取り、約20分待ちになってしまいましたが、スペシャル缶(S 10個入)(1674円)がゲットできました。もちろんおいしいですが、無茶苦茶おいしいという訳ではないのに、イチゴを上手くあしらったお菓子やパッケージのデザインはとても可愛いらしく、お値段も手ごろなので、2021 アムールデュショコラでも大人気になるんだろうなぁ。
名古屋市中村区名駅1丁目 地下1階 ウイークリーグルメ




























