あらすじ
あの人にいま会えたら、何を伝えますか?
年を重ねると増えていく「再会」の機会。再会は、一度別れたからこそのもの。どう別れたかで、再会の仕方も変わってくる。会いたい人、会いたくない人、忘れていた人。子育て、離婚、定年、介護、家族、友達。人生には、どしゃぶりもあれば晴れ間もある。「あの年の秋」「旧友再会」「ホームにて」「どしゃぶり」「ある帰郷」 重松清が届ける5つのサプリメント。

ひと言
重松 清さんとは歳も近くて(重松さんは2歳下)、いつも共感しながら読ませてもらっています。例えば「旧友再会」の薄ーいカルピスの話なんて、今の若い人にしてみたら、「もっと原液をたっぷり入れて、せっかくなんだからおいしく飲んだ方がいいじゃん」で済んでしまう話なんだろうけど、今のアラ還の人たちにとっては、そんな簡単な話じゃない懐かしい思い出です。「どしゃぶり」の中にも「理不尽や納得できないものを胸に抱きながら、受け入れていたその当時の自分のことが、いまの私は、決して嫌いではない。」と書かれているように、同じ時代を生きてきた人にしかわからない思いなのかもしれません。今回も素敵な作品をありがとうございました。


死を考えた。いや、「考える」という余裕すらなく、ただぼんやりとホームの下の線路を見つめて、もういいや、もういいや……と心の中でつぶやいていた。駅のアナウンスが、間もなく通過電車が来ることを告げた。つぶやきが変わった。ああ、そうか、そうすればいいのか……。電車が近づいてきた。立ちくらみを起こしたように頭がくらくらして、足元がふらついた。そのときだった。ホームの立ち食いそばのスタンドから漂ってきたツユの香りに、ふと我に返った。と同時に、急におなかが空いてきて、朝からなにも食べていないことも思いだした。引き寄せられるようにスタンドに入り、かけそばを注文したら、卵入りの月見そばが出た。「間違いですよ」と店員に言うと、おじいさんと呼んでもいいような年配の店員は、「サービス」とぶっきらぼうに言った。きょとんとするSさんをよそに、そのおじいさんは洗い物に取りかかりながら、もっとぶっきらぼうにつづけた。「体が温まったら、休む元気も出てくるさ」おじいさんはSさんを見ていたのだ。ホームにたたずむSさんの姿から、自殺のサインをも読み取っていたのかもしれない。
Sさんは、エッセイをこんなふうに締めくくっていた。
〈そばは温かくて美味かった。カツオのだしがきいたツユのしょっぱさが胸に染みた。途中で鼻水が垂れてきて、涙まで勝手に出てきた。ツユの最後の一滴まで飲み干して、どんぶりをカウンターに置くと、「よし休もう、明日からのために今日は休むんだ」ときっぱりと決められた。おじいさんの言っていた「休む元気」とは、こういうことだったのだろう。私は家に帰って、ベッドにもぐりこんで、夕方までぐっすりと眠った。こんなによく眠れたのはひさしぶりのことで、目覚めたときには死の誘惑はすっかり消えていた。
(ホームにて 3)

あの頃の自分は、ほんとうに、情けないぐらいにびくびくしていた。校内を歩いているときは、先輩がどこかにいるんじゃないかと、気が気ではなかった。誰それが昨日ケツバットされた、という話が流れてくると、今日は自分なんじゃないか、と怖くてたまらなかった。雨の日のホームランに指名されてヘッドスライディングをしたあとは、泥まみれになったユニフォームよりもさらに重いものが背中にのしかかって、なかなか立ち上がれなかった。
あんな思いは、もう二度と味わいたくないし、自分の息子にはなにがあっても味わわせたくない。それはもう、迷いなく断言する。
けれど、理不尽や納得できないものを胸に抱きながら、野球部はそういうものなんだから、と受け容れていた十三歳の自分のことが、いまの私は、決して嫌いではない。「偉いぞ」と褒めたたえるつもりはないが、「まあ、おまえもいろいろ大変だったな」と肩を軽く叩くぐらいのことはしてやってもいいか、と思っているのだ。
(どしゃぶり 1)

松井はなにか言いかけて、やめて、咳払いをしてから、私の問いにやっと答えてくれた。「いつか後悔するぞ、って言ってやった」円陣を組んだ部員たちに ――「ちゃんと悔しがることができないと、いつかおとなになってから後悔するぞ、だから負けたときぐらい、しっかり悔しがれ、って」それだけだ、……。
(どしゃぶり 4)

「監督をやらせてくれて、ヒメの息子たちに会わせてくれて、ありかとうな、コバ」「いや、でも……」「悔しい思いができて、よかった」「―― え?」「思いどおりに体が動かなかったり、いまどきの中学生にムカついたり、やろうと思ったことが全然できなかったり、勝ちたかったのに負けたり……そういう悔しさ、最後にたくさん味わえて、よかった」そうじゃないと、と続けた。「いろんなことを、あきらめるしかないもんな。悔しがれないのが、俺は悔しいよ、ほんとに」黙り込んでしまった小林と私に、松井は「だから、よかった」と満足そうに言って、あらためて「ありがとう」と頭を下げて続けた。「悔しさ一杯で、惚(ほ)けたおふくろを背負って、孤独で暗い老後を生きてやる」言葉は重く、苦い。なのに、不思議と声は明るい。
(どしゃぶり 5)